雲亭日本古典図書室収録作品の一覧

沼津駅和田氏の女児の消息

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兎園小説 / 曲亭馬琴ほか 兎園会の会員 / 第一集 第1話 / 海棠庵 関思亮 録

三十年便りのなかった弟から、金子二十五両。

本文 現代語訳

文政六年の夏の末、駿州沼津駅和田伝兵衛といふものへ、娘よりおこせしふみの写。海棠庵録。
文政六年の夏の終わり、駿河国沼津宿の和田伝兵衛という者へ、娘から寄こした手紙の写し。海棠庵が記録した。
豆州岩地村と申す所の猟師の子、斎藤重蔵と申す者、十四歳のとき兄と共になりはひのため家出いたし、椎茸を作り、その商売にて処々ありき候ところ、おもひ候やうにもなく、兄は三、四年すぎて弟をすてて国にかへり、ふた親ともに暮しをりしは、三十年ちかき前の年に御座候。去年豊後国岡〔中川侯の城下〕と申す所より、私方名あてにて、金子二十五両岩地へ遣され候やうにと頼みこし候。私方にては一切存ぜぬこと故、はるばると豊後より岩地へ、いかなる縁ある人にやと、早速書状を出し、飛脚をよび相渡し遣し候ところ、その人のはなしにて始めて相わかり、十四歳のとき家出いたしし重蔵のよし。岩地村にては三十年ばかり便なき人より、かく書状ならびに金子まで贈りし事なれば、夢かとばかり悦び披き見るに、豊後国にいたり、椎茸の製作を知らぬ所へつくりかたを教へ、国益なりとて御領主の御抱へになり、年毎に七十両の金を賜り、岡の嶽山といふ所にて大造に家を建て、追々仕合よく、三百余人召使ひの者、日々椎茸をつくり、串にさし焼きて大坂へ出し、春と秋とに二万両余もとりいる身上になりし事、書き載せ御座候よし。当年五月上旬、またまた豊後より当地ゆきの金子百両、私方へ頼みこし候。岩地村は至つて辺土にて、家もやうやく二十軒ばかりゆゑ、村中こぞりて称誉いたし候よし。只今は重蔵の母ばかりに御座候。当六月、右重蔵、妻ともに母に会ひに参り、氏神へ唐木綿の大幟をあげ候よし。誠にめでたく珍しき事ゆゑ、あらあら申し上げ候。
伊豆国岩地村という所の猟師の子で斎藤重蔵という者は、十四歳のとき兄とともに生業のために家を出て、椎茸を作り、その商売であちこちを歩いていましたが、思うようにはいかず、兄は三、四年たつと弟を置いて国に帰り、両親とともに暮らしていました。それは三十年近く前のことでございます。ところが去年、豊後国の岡〔中川侯の城下〕という所から、私方の名あてで、金子二十五両を岩地へ届けてほしいと頼んでまいりました。私方ではいっさい知らないことですので、はるばる豊後から岩地へとは、どういう縁のある人だろうかと、さっそく書状を出し、飛脚を呼んで渡して届けさせたところ、その人の話で初めて分かりました。十四歳のときに家出した重蔵だとのことです。岩地村では、三十年ほど便りのなかった人から、このように書状と金子まで贈られたので、夢かとばかりに喜んで開いて見ると、こう書いてあったそうです。豊後国へ行き、椎茸の作り方を知らない土地へ作り方を教え、国の益になるというので御領主のお抱えとなり、毎年七十両の金を賜り、岡の嶽山という所に大きな家を建て、次第に運が開け、三百人余りの使用人を持ち、毎日椎茸を作っては串に刺して焼き、大坂へ出荷して、春と秋に二万両余りも収入のある身代になった、と。今年の五月上旬にも、また豊後から当地宛ての金子百両を私方へ頼んでまいりました。岩地村はきわめて辺鄙な所で、家もようやく二十軒ほどですので、村中がこぞって褒めたたえているそうです。今は重蔵の母だけがおります。この六月、重蔵は妻とともに母に会いに来て、氏神へ唐木綿の大幟を奉納したそうです。まことにめでたく珍しいことですので、あらましを申し上げます。
かの重蔵と申す人、当年四十三歳になり、只今にては山の中へ家を建て、その家つくりの大そう、三百余の手人をつかひ、自身は日々椎茸を作り候所を見廻り候に、乗掛馬にてあるき候よし。妻は阿州のもののよし。領主より苗字帯刀、上下御免あり。まことに重蔵、もとは猟師の子にて、細きけむりもたてかねし身の、わづかに二、三十年にかくなり出で候事、天運にかなひ候ものに御座候。
その重蔵という人は今年四十三歳になり、今では山の中へ家を建て、その家の造りの大きいこと、三百人余りの働き手を使い、自身は毎日椎茸を作っている所を見回るのに乗掛馬で歩いているそうです。妻は阿波の者だそうで、領主から苗字帯刀と上下の着用を許されています。まことに重蔵は、もとは猟師の子で細い煙も立てかねる身でしたのに、わずか二、三十年でこのように出世したのは、天運にかなった者でございます。
和田 たち
和田 たち
せき御ふたかた様
せき御ふたかた様
右、伝聞、原本のままにしるしつ。乙酉孟春 関思亮
右は伝え聞いたものを、原本のままに記した。乙酉孟春、関思亮。
原文 / 昭和女子大学本の字句を採り、正字体を保持、振り仮名を外す

文政六年の夏の末、駿州沼津驛和田傳兵衞といふものへ、娘よりおこせしふみの寫 海棠菴錄

豆州岩地村と申所の獵師の子齋藤重藏と申もの、十四歲のとき兄と共になりはひのため家出いたし、志ひたけを作り、其商賣にて處々ありき候處、おもひ候やうにもなく、兄は三四年すぎて弟をすてゝ國にかへり、ふた親ともに暮しをりしは三十年ちかき前の年に御座候。去年豐後國岡〔中川侯の城下〕と申所より私方名あてにて、金子廿五兩岩地へ遣され候樣にとたのみこし候。私方にては一切存せぬこと故、はるばると豐後より岩地へいかなる緣ある人にやと、早速書狀を出し飛脚をよび相渡し遣し候處、その人のはなしにて始めて相わかり、十四歲のとき家出いたしゝ重藏のよし。岩地村にては三十年ばかり便なき人より、かく書狀幷に金子まで贈りし事なれば、夢かとばかり悦び披き見るに、豐後國にいたり、椎茸の製作をしらぬ所へつくりかたを教へ、國益なりとて御領主の御かゝえになり、年毎に七拾兩の金を賜り、岡乃嶽山と云所にて大造に家を建て、追々仕合よく、三百餘人召つかひの者、日々志ひたけをつくり串にさしやきて大坂へ出し、春と秋とに貳萬兩餘もとりいる身上になりし事、書載御座候よし。當年五月上旬亦復豐後より當地ゆきの金子百兩私方へたのみこし候。いはち村は至て邊土にて、家もやうやく廿軒ばかりゆへ、村中こぞりて稱譽いたし候よし。只今は重藏母ばかりに御座候。當六月右重藏妻ともに母にあひに參り、氏神へ唐木綿の大幟をあげ候よし。誠にめで度珍らしき事ゆへ、あらあら申上候。

かの重藏と申人、當年四十三歲になり、只今にては山の中へ家を建て、その家つくりの大そう、三百餘の手人をつかひ、自身は日々椎茸を作り候所を見廻り候に、のりかけ馬にてあるき候よし。妻は阿州のものゝよし。領主より苗字帶刀上下御免あり。まことに重藏、もとは獵師の子にて、細きけむりもたてかねし身の、わづかに二三十年にかくなり出候事、天運にかなひ候ものに御座候。

和田 たち

せき御ふたかた樣

右傳聞原本のまゝにしるしつ。乙酉孟春 關思亮

注

写本の位置
写本は3167の14カット目左ページから16カット目右ページ。16カット目右ページの「右傳聞原本のまゝにしるしつ」で終わり、同じページから第2話「禁裏萬歲之御式」が始まる。
写本の位置
写本は「娘よりおこせしふみの寫」と読める。活字本系テキストの「遣しゝふみの寫」は写本と合わないので、写本を採った。
写本の位置
写本は「串にさしやきて大坂へ出し」と読める。活字本系テキストの「大城に出だし」は写本と合わないので、写本を採った。椎茸を大坂へ出荷したと読む。
注記
「岡〔中川侯の城下〕」の割注は写本でも本文中に小字で入る。
校合
「岡乃嶽山」「貳萬兩餘」「妻ともに」「ゆへ」は写本の表記。活字本系は「岡の嶽山」「二萬兩餘」「妻と共に」「ゆゑ」とする。
校合
「二三十年にかくなり出候事」は写本の表記。活字本系は「なり出で候事」とする。
注記
手紙の書き手「和田たち」は伝兵衛の娘、宛先「せき御ふたかた様」は関家の二人と読める。関思亮は海棠庵の本名。
注記
岩地村は今の静岡県賀茂郡松崎町岩地。岡は豊後国岡藩、中川家七万石の城下で今の大分県竹田市。

AI試訳 / 専門家未校閲