雲亭日本古典図書室収録作品の一覧

蒲の花かたみの上

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兎園小説 / 曲亭馬琴ほか 兎園会の会員 / 第十二集 第18話 / 著作堂

亡友蒲生君平を悼む序と伝記、藤田一正が撰した漢文の墓表、拓本を採った顛末を記す馬琴の跋、正編十二集を締めくくる竟宴の和歌二首からなる、兎園小説正編の掉尾の一篇。

本文 現代語訳

蒲の花かたみ 上
蒲の花かたみ 上
久かたの日影に、うとき谷を出でゝ、木、伝ひ、あさり、鳴く鳥も、友を求むといふなるに、物の量なす人として、いづれか友を思はざる。
日の光に乏しい谷を出て、木々を渡り歩いて餌をあさり、鳴く鳥でさえ友を求めるというのに、物事の分別をわきまえた人間として、誰が友を思わずにいられようか。
そを懐ふにも、科、あるべし。利慾にかたらひ、婬楽に集ひ、酒食によりて親しかりしは、思ふに似たるも忘るに、はやかり。
その友を懐かしく思うのにも、品等の違いがあるはずだ。利欲で結託し、遊興に集まり、酒食によって親しくなった者は、思っているように見えても忘れるのが早い。
学問の道のひとしくて、志の異ならぬのみ、忘れんとすれど、忘れがたく、懐ふにも、猶ほ、あまりあり。
学問の道が等しく、志を同じくした友だけは、忘れようとしても忘れがたく、懐かしく思う気持ちにも、なお尽きないものがある。
「そを誰ぞ。」と人に問はれんに、修静庵にますもの、なかりき。
「それは誰か」と人に問われたなら、修静庵にまさる者はいなかった。
この人や、学びの道に、吾にひとしく、心ざまさへ、似たりけり。生まれし鄕は異なれども、同じ甲にと聞えしも、大かたならぬ、過世なりけん。世に、ふた鞘の隔てなく、睦みかたらひぬる折に、いはれしことの、耳に止まり、なつかしくも、かなしくも、寝覚ぬ老が暁には、過ぎ越しかたの胸にみちて、俤にたつこともありけり。
この人は、学問の道において私と同じであり、気性までも似ていた。生まれた故郷は異なるが、同じ生まれ年だと聞いたのも、並々ならぬ前世からの宿縁であったのだろう。世にあって少しの隔てもなく親しく語り合った折に彼が語った言葉が耳に残り、懐かしくも悲しくも、ふと目が覚めた老いの夜明け方には、過ぎ去った日々が胸に満ちて、その面影が目に浮かぶこともあった。
大凡、この人の行状は、藤田ぬしの書きつめたる墓表によりてしらるべけれど、猶ほ、漏しつと思ふこと、なきにしもあらざりけり。いとめづらしくも、奇しくも、多に得がたき博士なりし。その事の趣きを、物の端にしるしつけて、君子たちに示さずは、誰か、また、節を撃ちて、こと葉の調をたすくべきと思ふも、「をこ」の業ながら、深谷がくれに、友、呼ぶ鳥の声にしも似て、已みがたさに、水莖の迹、浅きは、さらなり、山の井の影、うつしうつしも、人の笑はんことさへに、厭はぬは、実に、をろかなるべし。
およそこの人の生涯の行いは、藤田殿が書き尽くした墓表によって知ることができるだろうが、なお書き漏らしたと思われることもないわけではない。実に世にも珍しく、非凡で、めったに得がたい学者であった。その事の次第を紙片の端に書き留めて君子たちにお示ししなければ、誰がまた拍子を取って言葉の調べを助けてくれようかと思うのも、愚かしい所業ではあるが、深い谷の奥で友を呼ぶ鳥の声にも似て、やむにやまれぬ思いから、筆跡の拙いのは言うまでもなく、山の井の水に我が影を映して省みながら、人が笑うことさえ気にかけないのは、まことに愚かなことであろう。
文政八年乙酉冬十二月朔、このふみを綴りて、みづから、はしがきするもの。  神田の隠士  瀧沢 解
文政八年乙酉冬十二月朔日、この書を綴って自ら序文を書く者。  神田の隠士  瀧沢解
人の心は、かくれ沼の、さだかには目に見えぬものから、そのよきも、終に顕れ、そのわろきも、終に見る。よきも、わろきも、おしなべて、なき後にこそ、定かなれ。さばれ、そのよき人といふとも、祿もなく、位もあらで、名を後の世に遺せるものは、只、その人の徳にあり。学びの力に、よらぬは、なし。
人の心は、水草に隠れた沼のようにはっきりとは目に見えないものであるが、その善い心もついには現れ、その悪い心もついには露見する。善いことも悪いことも、総じて死んだ後にこそ定まるものだ。しかしながら、その善人といっても、俸禄もなく官位もなくて、名を後世に遺す者は、ただその人の徳による。学問の力によらないものはない。
玆に、亦、その人、あり。吾友脩静庵の主人、即ち、これなり。
ここにもまた、そのような人がいる。我が友である脩静庵の主人、すなわちこの人である。
抑も脩静庵は、もと、福田氏、後に、「その先祖の氏鄕朝臣の族より出でたり。」と聞くに及びて、氏を蒲生に改めけり〔これらのよしは、墓表に具なれば、こゝに贅せず。〕。名は秀実、一名は夷吾、字は君平、脩静は、その号。下野州河内郡宇都宮の人なりけり。明和四年丁亥、某月日に生れぬる故をもて、其父、これに名を命じて、伊三郎といふといふ。「亥」の和訓は、即ち、「為」なり。「為」・「伊」の仮名、たがふといへども、「伊」は、猶ほ、「亥」の「ゐ」のこゝろなるべし。
そもそも脩静庵は、もとは福田氏であったが、後に「その先祖は氏郷朝臣の一族から出た」と聞くにおよんで、姓を蒲生に改めた〔これらの経緯は墓表に詳しいので、ここには重ねて記さない〕。名は秀実、またの名は夷吾、字は君平、脩静はその号である。下野州河内郡宇都宮の人であった。明和四年丁亥の某月日に生まれたという理由から、その父はこれに名をつけて伊三郎と呼んだという。「亥」の和訓はすなわち「為(ゐ)」である。「為」と「伊」の仮名は異なるが、「伊」はやはり「亥」の「ゐ」の意味であろう。
その家、半農半商にて、点灯油を鬻ぎたり。父、没して、兄、家を嗣ぎぬ。只、脩静のみ、をさをさ、読書を嗜みしかば、耕し耘ることを欲せず。又、商人の業を楽はず。同じ鄕に石橋といふ先生ありて、経学を修めて、且つ、施しを好み、其家、豊かなりければ、天明三年、浅間山、焼けて、関東、いたく餓ゑたるとき、倉廩をうちひらき、四百苞の米を散して、鄕党・鄰里を賑しけり。只、この施行のみならず、或は、路を造り、橋をしつらひ、隠徳慈善を宗としたれば、人皆、徳とせぬものなく、名を遠近に知られてけり。
その家は半農半商で、灯油を売っていた。父が亡くなり、兄が家を継いだ。ただ脩静だけは、ひたすら読書を好んだので、耕作することを望まなかった。また、商人の生業を好まなかった。同じ郷に石橋という先生がいて、経学を修め、そのうえ施しを好み、その家が裕福であったため、天明三年、浅間山が噴火して関東がひどい飢饉に見舞われたとき、米蔵を開き、四百俵の米を配って郷里や隣近所の人々を救済した。ただこの施しばかりでなく、あるいは道を造り、橋を架け、人知れぬ善行や慈善を旨としたので、人々は誰もが徳と称えない者はなく、その名は遠近に知れ渡っていた。
脩静は、いとはやくより、石橋翁の門に入りて、勤学研究、玆に年あり。
脩静は、たいそう早くから石橋翁の門下に入り、勉学と研究に励んで、ここに何年も過ごした。
かゝりし程に、大母の物語りによりて、祖先の賎しからぬを知暁し、みづから、氏を改めて、志、いよいよ、堅く、凡、下野人の風俗は、朴訥にして、強く、悍し。脩静は、之れに加ふるに、志気、逞しく、貧しきを、辞はず、「よしや、忠義の狗となるとも、乱離の人と、ならじ。」とて、しきりに奬み、学びけり。
そうしているうちに、祖母の話によって先祖が卑しい家柄ではないことを悟り知り、自ら姓を改めて、志はますます堅くなった。およそ下野の人の気風は素朴で飾り気がなく、強く勇猛である。脩静はこれに加えて気骨が逞しく、貧しいことをいとわず、「たとえ忠義の犬になろうとも、世を乱す不忠の人間にはなるまい」と言って、ひたすら励んで学問に打ち込んだ。
しかれども、章句を修めず、国史旧記を渉猟して、『いかで古学を起さん。』と、ほりする心、いと、せちなり。剛腸かくの如しといへども、母につかへて孝なりければ、母もまた、愛でぬることの、他し子よりも深かるべし。
しかしながら、細かい字句の解釈ばかりを修めることはせず、国史や古い記録を広く読み漁って、「なんとかして古学を興したい」と願う心が極めて切実であった。剛毅な気骨はこのようであったとはいえ、母に仕えて孝行であったため、母もまた彼を愛することが他の子よりも深かった。
脩静が壯りになりし比、その兄は身まかりけり。これにより、母、田園を、なかば、わかちて、脩静にとらせんとしてけるに、脩静、いたく、これを推辞て、且、母を諫めて曰、「わが兄、不幸にして、なかそらに身まかりたまひ、且つ、その子は尚ほ、幼なし。さるを、今、多くもあらぬ田園を、吾儕の為に分かたせたまはゞ、幼なき者は、何によりて、荒年の飢寒を凌がん。およそ、兄弟叔侄の故なく、田園を分かつものは、親族、怨みを結ぶの基本なり。吾儕は、一歩の田を得ずとても、兎も角もして、一期を送らん。侄は、わが母の嫡孫なり。渠が身、優かなるときは、わが母も、また、ゆたかにおはさめ。おほん慈恵を辞ひまつるは、ひとり儕の為のみならず、すなはち、母の為なれば。」と、なくなく、ことわりを尽しゝかば、母はこれを、「賢。」として、遂にその意に任せしとぞ。
脩静が壮年になったころ、その兄が亡くなった。これによって母は田畑を半分に分けて脩静に取らせようとしたが、脩静はひどくこれを辞退し、さらに母を諫めて言った。「私の兄は不幸にして若くして亡くなられ、しかもその子はまだ幼い。それなのに今、多くもない田畑を私などのために分け与えられたならば、幼い者は何によって凶年の飢えや寒さをしのぐのか。およそ兄弟や叔父甥がわけもなく田畑を分割することは、親族が恨みを結ぶもととなる。私などは一歩の田を得られずとも、何とかして一生を送ろう。甥は我が母の嫡孫である。あの子の身にゆとりがあるときは、我が母もまた豊かにお過ごしになれよう。ご慈愛を辞退申し上げるのは、ただ私のためだけではなく、すなわち母のためなのだ」と、泣く泣く道理を尽くして述べたので、母はこれを「賢明である」として、ついにその意向に任せたということだ。
是より後も、とにかくに、家の難みに、かゝつらひて、志は立てながら、身をわがまゝにも、せざりけり。
これより後も、何かにつけて家の苦難にかかずらわり、志は立てながらも、身を我がままにはしなかった。
是よりさき、寬政二年の冬、「琉球の使人、入朝しつ。」と聞えしに、故ありて、彼の輩と、応接をしつるもの、宇都宮に帰り来るありけり。脩静、一日、これを訪ひて、「足下は、こたび、球人と応対したりと伝へ聞きぬ。何等の説話ありし。」と問ふに、その人、答ヘて、「否、させる説話も、なし。只、四表八表の話の次に、球人、われに問ひていはく、『皇国は、誠に、文あり、武あり、大かたならぬ、よき国なれども、窃に意得がたきは、「様」といふ字に三体ありて、尊卑の科をわけらるゝに、或ひは、「永」ざま、或は、「美さま」、「つくばひざま」といふよしは、如何なる義理のあるやらん。』と、いはれしには、困りたり。」と、うちほゝゑみつゝ、告げにけり。
これより先、寛政二年の冬、「琉球の使節が入朝した」と世間に聞こえたが、わけがあって彼らと応接をした者が、宇都宮に帰って来ることがあった。脩静はある日、この者を訪ねて、「あなたは今回、琉球人と応対したと伝え聞いた。どのような話があったのか」と問うと、その人は答えて、「いや、これといった話もない。ただ、世間話のついでに、琉球人が私に問うて言うには、『日本はまことに文武を備えた並々ならぬ良い国であるが、ひそかに納得がいかないのは、「様」という字に三つの書体があって尊卑の位を分けられ、あるいは「永様」、あるいは「美様」、「つくばひ様」と言うそうだが、どのような道理があるのだろうか』と言われたのには困り果てた」と、微笑みながら告げた。
脩静、これを聞きしより、憤り、胸にみちて、嘆息の外、言葉もなく、そがまゝ、宿所に走りかへりて、独り、つらつら思ふやう、『昔、「南北朝の内乱」より、「応仁の兵火」に至りて、天朝の旧典、皆、悉く亡失し、文華は、ながく、地を払ひて、世は「戦国」となりし事、槪して、二百余年、その悪俗の余毒、流れて、昇平の今の世まで、洗ひ淸むるものゝ足らねばこそ、附庸偏小の球人にすら、侮らるゝことの、安からね。いかで、われ、古学を興して国体を張り、天下の為に、死力を尽して、国恩に報ずべし。』と、愈々、思ひ定めつゝ、指を噬み、血を染めて、「孝子之情有終身喪 忠臣之心無革命時」と大書しつ。志願の臍をぞ、堅めける。
脩静はこれを聞いてから、憤りが胸に満ちて、ため息のほか言葉もなく、そのまま宿所に走り帰り、一人つくづく思うには、「昔、南北朝の内乱から応仁の兵火に至って、朝廷の古い制度や儀礼はみなことごとく失われ、文化は長く地に落ちて世が戦国となったことは、およそ二百余年、その悪習の余毒が流れて、太平の今の世に至るまで洗い清める者が足りないからこそ、従属する小国の琉球人にすら侮られるようなことになり、やすらかではいられないのだ。なんとかして自分が古学を興して国威を高め、天下のために死力を尽くして国恩に報いよう」と、いよいよ固く決意し、指を噛んで血をつけ、「孝子之情有終身喪 忠臣之心無革命時」と大書した。そうして心底から固く志願を決意したのである。
かゝりし程に、歳月を歴て、脩静、江戶に往来しつゝ、林家の門人になりしかば、帯刀して儒学を倡へ、当時、高名の儒者、国学者・文人墨客とまじはりて、遊学すること、亦、年あり。
そうするうちに年月が経ち、脩静は江戸を往来しながら林家の門人となったので、帯刀して儒学を唱え、当時高名な儒学者や国学者、文人墨客と交わって遊学すること、これまた何年にも及んだ。
しかれども、その持論、事情に愜ず、或は、之を迂濶とし、或は之を狂妄として、嘲り噱はぬは稀なりしを、脩静、ものゝ屑ともせで、愈よ、守りて、みづから、貶さず。その友に語りて云く、「昔時は、儒官、あきらかに、天朝の故実に通じて、「六経」を以て、これが資にしたり。こゝをもて、名、正しく、事行はれざること、なし。今の俗儒は、天朝の故実をしらず、夏夷順逆の理に暗くして、名を乱り、言を紊るゝもの、百五、六十年来、比々として、皆、これなり。その位に在るものは、その道を行ひ、その位に在らざるものは、その言を行ふこと、古今一致、難易、迭ひにありといへども、吾、憤りをもて、志を立て、古学を興して逸史を修め、力を経世に尽して、もて、国恩に報じ奉らんと欲すること、他、なし。彼の世に阿りて、利を謀り、皋皮に坐する草鞋大王、自から名教の罪人たるを知らざるものと、隣りをなさじ、と思ふのみ。このこと、同士の為に語るべし。悠々の徒と語るべからず。」とぞ、いきまきける。
しかしながら、その持論は世情に合わず、あるいはこれを世事に疎いとし、あるいはこれを狂気で無謀だとして、あざ笑わない者はまれであったが、脩静はまったく意に介さず、いよいよ持論を守り、自らを卑下しなかった。その友人に語って言うには、「昔は儒官が朝廷の故実に明るく通じており、『六経』をもってその助けとした。このため名分が正しく、物事が行われないことはなかった。今の俗儒は朝廷の故実を知らず、華夷順逆の道理に暗く、名分を乱し言葉を紊乱する者が、百五、六十年来、いたるところにいて、皆このような者ばかりだ。その地位にある者はその道を行い、その地位にない者はその言論を行うということは古今同じであり、難易はそれぞれにあるとはいえ、私が憤りをもって志を立て、古学を興して散逸した歴史を修め、力を経世済民に尽して国恩に報い奉ろうと願う理由は、ほかならぬこのためである。あの世にへつらって利益を図り、虎の皮に座る草鞋大王のように、自らが名教の罪人であることを知らないような者どもと同列にはなりたくないと思うばかりだ。このことは同志のために語るべきであって、俗物どもと語るべきではない」と、息巻いたのであった。
この比よりして、脩静、「九志」を編述の志あり。「いにしへの山陵、多く荒廃して、その迹、定かならざるものありと聞く事、久しきをもて、まづ、「山陵志」より刱めん。」とて、独行して、京に赴き、南海を越え、淡路に渡るに、素より、路費の乏しきを憂ひとせず、嶮を履み、風雪を犯して、六十六国、その半ばを経歴し、あるは里老に問ひ、或は旧図を考へ、諸陵存亡の趣きを目撃したりける。苦辛を、その著述の為に辞せず、月日は、旅寐に移れども、其の志、移らずして、愈よ、精力を尽しけり。
このころから、脩静には「九志」を編述する志があった。「昔の天皇の御陵は多く荒廃し、その跡が定かでないものがあると聞いて久しいので、まず『山陵志』から着手しよう」として、一人で京へ赴き、南海道を越え、淡路に渡るにあたって、もとより旅費の乏しいことを憂いとせず、険しい山道を踏み越え、風雪を冒して、六十六国のその半ばを巡歴し、あるいは村の古老に尋ね、あるいは古い絵図を調べ、諸陵の存亡のありさまをその目で確かめた。その著述のための苦労をいとわず、月日は旅寝のうちに移り変わっていったが、その志は変わることなく、ますます精力を尽くした。
かゝりし程に、丁卯の年、北虜の辺塞を擾るゝの風聞あり。脩静、江戶に在り。かのことを伝へ聞きて、憂ひ、且つ、憤りに堪へず、即ち、「不恤緯」五編を著はし、上書して、之を国老の執事に奉りしに、おほんとりあげは、なかりけり。とかくする程に、「山陵志」一巻、やうやくに稿を脫ぎて、刻本にせまく欲するに、脩静、素より、担石の儲なければ、同志に告げて、未刻已前に入銀を促し、且、その友、鍵屋静斎等が資けを借りて、製本、全く成りしかば、之を京師に献り、及び、関東の搢紳、並びに、有職の人々に、まゐらせけり。しかるに、「其の論、処士・浮浪人の、あげつらふべきことにしも、あらず。贅言、分に過ぎて、忌み憚らざるに似たり。」とて、脩静を、市の尹の庁に召して、その条々を詰られしに、脩静、すなはち、「律令」を引き、古実を證して、答へまうすことの理りに称ひしかば、重ねて咎めは、なかりけり。
そうしているうちに、丁卯の年、ロシアが辺境を脅かすという風聞があった。脩静は江戸にいた。そのことを伝え聞いて、憂え、かつ憤りに堪えず、ただちに『不恤緯』五編を著し、上書してこれを老中の執事に奉呈したが、お取り上げにはならなかった。あれこれするうちに、『山陵志』一巻がようやく脱稿し、出版しようとしたが、脩静にはもとよりわずかな蓄えもなかったので、同志に告げて出版前に予約の出資金を募り、さらにその友人の鍵屋静斎らの援助を借りて製本が完全に出来上がったので、これを京に献上し、また関東の身分の高い人々や有職故実の人々にお贈りした。ところが、「その議論は、在野の者や浪人がとやかく言うべきことではない。無駄な言辞が身分を越えており、恐れ多いことを憚らない態度に見える」として、脩静を町奉行所に呼び出してその箇条を詰問したところ、脩静はただちに「律令」を引き、故事を証拠としてお答え申し上げたことが道理にかなっていたので、重ねてのお咎めはなかった。
これにより脩静、慷慨嗟嘆して、身の禍ひを見かへらず、日比の剛膓十倍して、記文一篇を綴りてけり。そのこと、禁忌に触るゝをもて、市の尹にや聞えにけん、召し問はんとせられしに、「林家の門人たる」よしを聞かれて、まづ、祭酒に告げられしかば、祭酒、即ち、脩静を招きよせて、「件の記文を、まゐらせよ。」と、ありけるに、脩静、答へまうすやう、「件の拙文は、一時漫戯の稿本なりしを、何某に貸したりしが、いく程もなく、失ひて、今は、一ひらも候はず。仰せの趣き、畏り候へども、なきものなれば、せんすべも、なし。この義、ひたすらに賢察を願ひ奉る。」と陳じゝかば、祭酒、すなはち、脩静を退かして、又、家臣をもて、問はしめ給ふに、脩静、陳ずること、初めの如し。家臣はこれをまことゝせず。なほ、さまざまに詰りしかぱ、祭酒、これを推し禁めて、「威をもて、逼るは、要なき業なり。利害を説きて諭さば、足りなん。問ふこと、再三、再四にして、白すことの違はぬは、実に失ひたるならん。おきね、おきね。」と、とゞめさせて、宿所にかへし給ひしとぞ、程経て後に、聞えける。
これによって脩静は世を憤り嘆いて、我が身の災いを顧みず、日ごろの剛気骨を十倍にして一篇の記文を綴った。その内容が禁忌に触れたため町奉行の耳に入ったのであろうか、呼び出して糾問しようとされたが、「林家の門人である」ということを聞かれたため、まず大学頭(祭酒)に連絡されたので、祭酒はただちに脩静を呼び寄せて、「件の記文を差し出せ」と命じられたところ、脩静が答えて申し上げるには、「件の拙文は、一時のたわむれに書いた原稿でありましたが、誰それに貸したところ、まもなく紛失してしまい、今は一枚も手元にございません。仰せの趣はかしこまりましたが、ないものはどうしようもありません。この次第をひたすらご賢察願いたいと存じます」と述べたので、祭酒はただちに脩静を下がらせて、また家臣を使って問い詰めさせられたが、脩静が申し上げることは初めと同じであった。家臣はこれを本当だとは思わず、なお様々に詰問したところ、祭酒がこれを押しとどめて、「権威をもって迫るのは無用なことだ。利害を説いて諭せば十分であろう。問い詰めること再三再四に及んでも申し上げることに相違がないのは、本当に失ったのであろう。もうよい、もうよい」と止めさせて、宿所に帰らせられたということだと、しばらく経った後に聞こえてきた。
此の事、世間に聞えしかば、知るもしらぬも、おしなべて、駭嘆せずといふものなく、踈きは、「愚。」として、これを嘲り、親しきは、憫めども、救ふよしもなきまゝに、「あなや、脩静は、不測の罪に身を喪ふ歟。」と阽みしに、祭酒、愛顧のとりなしにやよりけん、又、その母に孝なるよしさへ、尹にしられたるにやあらん、やうやくに免かれて、させるおほん咎もなかりけり。
この事が世間に伝わると、知る人も知らない人も皆一様に驚き嘆かない者はなく、疎遠な者は「愚かだ」としてこれを嘲笑し、親しい者は不憫に思いながらも救う手立てもないままに、「ああ、脩静は思いもよらぬ重罪で命を落とすのだろうか」と危ぶんだが、祭酒の温かい取りなしによるものだったのか、またその母に孝行であるという評判まで町奉行に知られていたためであろうか、かろうじて免れて、格別のお咎めもなかった。
脩静、江戶に僑居してより、文化の始めまで、駒込吉祥寺門前にをり、七年庚午の春二月、更に卜居して石町なる鐘撞堂新道へ移りにけり。
脩静は、江戸に仮住まいしてから文化の初めまで、駒込吉祥寺門前に住み、文化七年庚午の春二月、改めて住居を定めて石町にある鐘撞堂新道へ移り住んだ。
駒籠にありし日より、教授に口を餬ふものから、「山陵志」に相つゞきて、又、「職官志」を彫らんとすなれば、財用、足らで、窮すれども、志気、卓く傑出して、持論聴くべく、文章、観るべし。
駒込にいたころから、人に教えて口糊をしのいでいたものの、『山陵志』に引き続いてまた『職官志』を刊行しようとしたので、費用が足りずに困窮したが、その志気は群を抜いて高く、持論は聞く価値があり、文章は見事なものであった。
又、ある時は、交遊・宴会の席につらなりて、脩静、特に強飲酩酊、劇談放言して、譲らず。その体たらく、傍若無人に似たりといへども、方正鯁直の性、言外にあらはれて、国を憂ふるの心、一日半時も撓むこと、なし。
またある時は、交友や宴会の席に連なって、脩静はことさら大酒を飲んで泥酔し、激しく議論し放言して人に譲らなかった。その様子は傍若無人のようであったとはいえ、品行方正で剛直な天性が言葉の端々に現れ、国を憂える心が一日や一刻たりとも緩むことはなかった。
はじめ脩静が、山陵訪求の為に京に赴きしとき、彼地に、絶えて、しる人なし。当時、小沢蘆庵は、古学を好みて、万葉風の詠歌に名たかく、「世にすねたる陰逸なり。」と、かねて伝へ聞きしかば、「渠が助けを借らばや。」とて、その京に入りし日に、やがて蘆庵が宿所を尋ねて、「云々。」と、おとなふ程に、小沢が家僕、出で迎へて、「いづこより。」と問ふ。
初め脩静が、御陵を調査するために京へ赴いたとき、かの地にはまったく知人がいなかった。当時、小沢蘆庵は古学を好み、万葉風の和歌で名高く、「世をすねた隠遁者である」とかねて伝え聞いていたので、「あの人の助けを借りたいものだ」として、京に入ったその日に、すぐさま蘆庵の宿所を訪ね、「これこれ」と案内を請うたところ、小沢の召使いが出迎えて、「どちらからおいでですか」と問うた。
いひよるよしもなきまゝに、脩静、まづ、佯りて、「某は、下野なる宇都宮のほとりにて、蒲生伊三郎と呼ばるゝ者なり。琴を好み候へども、田舎には、よき師、なし。主人の翁は、琴の妙手にておはするよし、東野の果まで、かくれなし。是れにより、おほん弟子にならまく欲りして、遥々と来つるにて候。」といふ。
取りつく島もないままに、脩静はまず偽って、「それがしは、下野の宇都宮のあたりで蒲生伊三郎と呼ばれる者だ。琴を好むが、田舎には良い師がいない。主人の翁は琴の名手であられるということは、東国の果てまで知れ渡っている。これによって、お弟子になりたく思い、はるばるとやって参ったのだ」と言った。
その僕、こゝろを得て、奥に赴き、云々と告げにけん、蘆庵は、声を高くして、「あな、無益にも、問はれごとかな。汝、出でて、しか、答へよ。『主人は、久しう、客を辞し、交りを絶ちたれば、都のうちだにも、親しう物せるは、稀なり。琴は、若かりし時、搔き鳴らしたりけるを、あちこちの人に知られて、「彼にきかせよ、此に教へよ。」と、いはるゝが、うるさければ、近ごろ、うち摧きて薪に代へたり。かゝれば、所望にしたがふべくもあらず。他に行きて、求め給へ。』。」といふ声の、蒸襖一重を隔てて、定かにぞ、聞えける。
その召使いは了解して奥へ行き、あれこれと告げたのだろう、蘆庵は声を高くして、「ああ、無益な尋ね事をしてくるものだな。お前が出て行って、このように答えよ。『主人は久しく来客を断り、人付き合いを絶っているので、都の中でさえ親しくしている者はまれだ。琴は若かったころにかき鳴らしていたのをあちこちの人に知られ、「あれに聴かせろ、これに教えろ」と言われるのがうるさいので、このごろ打ち砕いて薪にしてしまった。そういうわけであるから、要望に応じることはできない。よそへ行って求められよ』と」と言う声が、襖一枚を隔てて、はっきりと聞こえた。
脩静は、僕が報ぐるに及びて、そが、「しかじか」といふを、しも、またず、さらに又、推しかへして云ふ、「翁のおほん答へは、こゝにも、つばらに、もれきゝたり。某、猶ほ、一言あり。願ふは、枉げて聞きたまへ。吾は、下野なる儒者なり。しかじかの志願あれば、屡、江戶に遊学し、こたみ、都に上りしかども、相ひ識れるもの、絶えてなし。翁の古学を好み給ふと、その気質の俗ならぬは、かねて伝へ聞くものから、いひよる由のなきまゝに、『琴を学ばん為にとて来りつる』といひしなり。こは長者を欺くに似たれども、その虛言は已むことを得ざりし実情より出でたれば、許され対面せられば、肝膽を吐き、志願を告げて、翁の資けを借らんと欲す。かくても、意に称はずば、退けられんこと、勿論たるべし。今一たび、和殿を労せん。此由、執り次ぎ給へ。」といふ。
脩静は、召使いが報告するにおよんで、その者が「これこれ」と言うのを待つまでもなく、さらに押し返して言った。「翁のお返事は、ここにも詳しく漏れ聞こえた。それがしには、なお一言ある。願わくは曲げてお聞きいただきたい。私は下野の儒者だ。これこれの志願があるので、しばしば江戸に遊学し、このたび都に上ったが、知り合いの者はまったくいない。翁が古学をお好みになることと、その気骨が世俗離れしていることは、かねて伝え聞いていたが、取りつく島がなかったため、『琴を学ぶためにやって来た』と言ったのだ。これは目上の人を欺くようではあるが、その嘘はやむを得ない実情から出たものであるから、お許しいただいて対面していただけるなら、腹を割って志願を打ち明け、翁の助けをお借りしたいと思う。それでもなおお気に召さなければ、追い返されるのは当然のことである。もう一度あなたを煩わせるが、この由をお取り次ぎ願いたい」と言った。
蘆庵も、これを洩れ聞きて、「さりとは思ひかけざりき。奇しき客人なり。対面せずば、悔しきことあらん。」とて、「『こなたへ』と申せ。」とて、やがて、面をあはしけり。
蘆庵もこれを漏れ聞いて、「そうとは思いもよらなかった。非凡な客だ。対面しなければ後悔することになるだろう」と言って、「『こちらへ』と申せ」と命じ、すぐに顔を合わせた。
脩静、ふかく歓びて、夙くより、思ひ起しゝ志願の由を説き示し、「山陵志」著述の為に、古き御陵を尋ねんとて、旅寐をしつることの趣き、「云々。」と、かたりいづるに、蘆庵も、只管、感歎して、「足下は、得がたき学士なり。さる志しあらんには、吾が庵に杖をとゞめて、こゝらわたりの御陵を、しづかに訪求し給へ。」とて、又、他事もなく、もてなしけり。
脩静は深く喜び、早くから思い立った志願のわけを説き明かし、『山陵志』著述のために古い御陵を調査しようと旅寝を重ねてきた次第をあれこれと語り出すと、蘆庵もひたすら感嘆して、「あなたは得がたい学者だ。そのような志があるなら、我が庵に滞在して、このあたりの御陵を心静かに調査なされよ」と言って、格別の心遣いでもてなした。
これにより、脩静は、日每に古陵を尋ね巡るに、ともすれば、日暮れて帰るを、主人は、自から、風呂を焚きて、浴させぬる。老人の心づかひを、「胸苦し。」とて、いなめども、従はず、「これ等の事は、只管に客を愛する故のみならず、吾も亦、かゝる奇人に宿することの歓ばしさに、足下の疲労を慰めて、『恙なかれ』と思ふよしは、『国の為に、力を竭す人の、助けにならん。』とてなり。必ず、辞退みたまふな。」とて、後々までも、然かしてけり。
これにより、脩静は日ごとに古い御陵を訪ね巡ったが、ややもすれば日が暮れて帰って来るのを、主人の蘆庵は自ら風呂を焚いて入浴させた。老人のこの心づかいを「かえって心苦しい」として辞退したものの聞き入れず、「これらの事はただ客を歓待するからというだけではなく、私もまたこのような類まれな人物を泊めることの嬉しさに、あなたの疲労をねぎらい、『無事であってほしい』と思うのは、『国のために力を尽くす人の助けになろう』と思うからだ。決して辞退なさるな」と言って、その後までもずっとそのように遇した。
かゝりし程に、脩静は、ある夜、更闌けて、子ふたつのころ、帰りしかども、蘆庵は、いねず、待ちてをり、例の如く、浴させ、飯をすゝめて、さて、いふやう、「われ、足下に宿せる日より、疏菜の外に、物もなく、させるもてなしを為ざれども、夜は老僕を休らはせんとて、手づからに風炉さへ焚くを、思ひ汲みたまはずや。古陵を尋ね巡ればとて、今までは、要なからんに、道草、くうてか。老人に、物をおもはせ給ふこと、こゝろ得がたし。」と呟きけり。
そうしているうちに、脩静はある夜、夜も更けて午前一時ごろに帰ってきたが、蘆庵は眠らずに待っており、いつものように風呂に入れ、食事を勧めて、そうして言うには、「私はあなたをお泊めした日から、粗末な野菜のほかには何もなく、たいしたもてなしもしていないが、夜は老僕を休ませようとして、自ら風呂まで焚いていることを察してくれないのか。古い御陵を訪ね巡るといっても、今頃までは必要ないだろうに、道草でも食っていたのか。老人に心配をかけるとは、納得がいかない」とつぶやいた。
脩静、聞きて、貌を改め、「翁の恨み、ことわり也。わが非を飾るにあらねども、更闌けたるは、聊、ゆゑあり。懺悔の為に笑ひに備へん。今日は某の天皇の陵をたづねたりしに、日の暮るゝまで、尋ねも、あはで、思はずも、等持院なる尊氏の墓を見たり〔等持院は金閣寺の北郊、石不動の北に在り。尊氏の法号を、「等持院」と云。この寺に足利氏十三世の木像あり。〕。こゝに至りて、年来の恨み、心頭に起こりて堪へられず、墓に向つて罵るやう、『梟臣尊氏、なほ、霊あらば、今、いふことを、慥に聞け。汝は、一旦、治まりたる「建武重祚」の世を乱して、逆に取り、逆に守りし毒を、後世に流せしより、二百十数年、干戈をさまらず、国の旧典も、これが為に焼け亡び、王室も亦、これによりて、卑しく、古帝世々の山陵すら、迹、なくなりて、吾等にさへ、飽くまで物を思はするは、皆、悉く、汝が罪なり。天罰、当に知るべし。』とて、杖をもて、石塔を思ふまゝに打ちたゝき、かくて、寺門を出づる程に、物ほしう、なりしかば、道のほとりの酒屋に立ちより、怒りにまかして飲む程に、六、七合を尽くしたり。さて、酒屋を出でしかど、酔ふてて、足も定まらず、『此まゝにて、かへりゆかば、必ず、翁に叱られん。なかば醒してゆかめ。』と思ふて、株に尻を掛けしより、熟睡やしけん、時も移りて、駭き覚むれば、更闌けたり。」と語るに、蘆庵は噴き出だして、思はず、「呵々。」と、うち笑ひ、
脩静はこれを聞いて表情を改め、「翁のお怒りは道理である。我が過ちを取り繕うわけではないが、夜更けになったのには少しわけがある。ざんげのために笑い話としてお話ししよう。今日は某天皇の御陵を訪ねたのだが、日が暮れるまで探し出せず、思いがけず等持院にある尊氏の墓を見た〔等持院は金閣寺の北郊、石不動の北にある。尊氏の法号を「等持院」という。この寺に足利氏十三代の木像がある〕。ここに及んで、長年の恨みが胸中に湧き起こって堪えられなくなり、墓に向かって罵倒して言うには、『逆臣尊氏よ、なお霊魂があるなら、今から言うことをしかと聞け。お前はいったん治まった建武重祚の世を乱し、反逆によって天下を取り、反逆によって保った悪毒を後世に流して以来、二百十数年もの間戦乱が収まらず、国の古い典章制度もこのために焼け滅び、皇室もまたこのために衰微し、歴代の天皇の御陵さえ跡形もなくなって、我らにまでつくづく嘆息させるのは、すべてことごとくお前の罪である。天罰を受けるべきだと知るがよい』と言って、杖で石塔を思う存分打ち叩き、そうして寺の門を出るころには何か口にしたくなったので、道端の酒屋に立ち寄り、怒りにまかせて飲むうちに六、七合を飲み干してしまった。そうして酒屋を出たものの、酔っ払って足元も定まらず、『このままで帰り着けば、必ず翁に叱られるだろう。半分ほど酔いを覚ましてから行こう』と思って切り株に腰掛けたところ、熟睡してしまったのだろうか、時間も過ぎ去り、驚いて目を覚ますとすっかり夜が更けていたのだ」と語ると、蘆庵は噴き出して思わず「ははは」と高笑いし、
「さても。世の中には、似たる馬鹿ものも、あれば、あるものかな。吾も亦、往ぬる年、ある日、霊山のほとりに逍遥して、長嘯子の墓所を過りし時〔長嘯子は木下。氏名は勝俊。豊太閤の外族たるをもて、若狹の国を領せり。「関ケ原役」の後、所領、失ふて、東山に幽栖し、「天哉翁」と云ふ。〕、さすがに、宿恨なきにあらねば、行きも得やらずにらまへて、『長嘯子、不滅の罪あり。わぬし、みづからこれをしるや。わぬしは豊太閤の外族として、位、高く、且つ、采地も広かるに、心ざま、武士に似ず、「伏見の駕籠城」に敵の旗色を見て、鬼胎を抱き、鳥居元忠等を、棄て殺しにせしは、不義なり。事成ぎて、罪を蒙り、はつかに、命を助けられしを幸ひにして、耻を知らず、心にもあらぬ、世捨人貌して、似非歌、多く詠じたる。「一盲、衆盲を引きし」より、歌の調べのわろくなりて、今に至るまで、なほらぬは、是れ、不滅の罪にあらずや。冥罰、かくの如くならん。』と罵りながら、杖をあげて、墓を毆たる事、ありけり。こは、よく似たるにあらずや。」と、語りもあへず、聞きも、をはらず、斉しく、腹を抱へし、とぞ。
「それにしても、世の中には似たような馬鹿者もいればいるものだな。私もまた去る年、ある日霊山のあたりを散策して、長嘯子の墓所を通りかかった時〔長嘯子は木下。氏名は勝俊。豊太閤の母方の親族であることから、若狭の国を領有した。「関ケ原役」の後、所領を失って東山に隠棲し、「天哉翁」という〕、さすがに長年のわだかまりがないわけではなかったので、通り過ぎることもできずににらみ据えて、『長嘯子よ、消え去らぬ大罪がある。お前自身これを知っているか。お前は豊太閤の親族として位も高く、そのうえ領地も広かったのに、気性は武士に似ず、「伏見の駕籠城」で敵の旗色を見て恐れを抱き、鳥居元忠らを見殺しにしたのは不義である。事が終わって処罰を受け、わずかに命を助けられたのを幸いとして恥を知らず、本心でもないのに世捨て人気取りをして、紛い物の和歌を多く詠んだ。「一人の盲人が多くの盲人を引き連れる」ようになって以来、和歌の調べが悪くなり、今に至るまで治らないのは、これこそ消え去らぬ罪ではないか。冥罰とはこのようなものであろう』と罵りながら、杖を振り上げて墓を打ち叩いたことがあった。これは実によく似ているではないか」と、語り終えるのも待たず、聞き終えるのも待たず、二人そろって腹を抱えて笑ったということだ。
昔、呉ノ国に、さるものあり。さばれ、楚の平王は讐といふとも、その親の為に君なり。さるを、その墓を発き、その屍を鞭うちしは、過ぎたるに似て、余情なし。もし、伍子胥をして、投化せしめ、この時にしもあらしめば、かならず、階を降るべし。
昔、呉の国にそのような者がいた。しかしながら、楚の平王は仇敵であるといっても、その父親にとっては主君である。それなのに、その墓を暴き、その遺体を鞭打ったのは、度が過ぎているようで情味がない。もし伍子胥が我が国に帰化し、この場に居合わせたとしたら、必ずや一段へりくだって二人に一歩を譲るに違いない。
蒲生君臧墓表   常陸 藤田一正撰  源千之 幷篆額
蒲生君臧墓表   常陸 藤田一正撰  源千之 篆額を並記す
昔者中郎氏、周孔の道を南淵先生に学び、素を丘園に養ひ、其の事を高尚にす。一出して中宗中興の運を翊け、邦家を再造し、鴻業を経綸す。大織冠の勲、天地に塞がる。是を以て藤姓の胤、世々国の鈞を秉り、実に社稷と休戚を同じくす。而して枝葉蔓延し、殆ど海内に遍し。其の薨ずるや、学士紹明、令名を不朽に伝へんと欲し、碑文を製して以て後世に示すと云ふ。今を距ること千有余歳、其の文得て見る可からずと雖も、然れども大人君子の墓碑に文有るは、蓋し此れを始めと為す。淡海文忠公、大宝養老の際に在りて、詔を奉じて律令を刊修す。其の喪葬令に曰く、「凡そ三位以上、及び別祖氏宗は、並びに墓を営むことを得。凡そ墓には皆碑を建て、某官姓名の墓と記せ」と。此の時に当たりて、朝野文を尚び、其の名公巨卿を論ずる亡く、廼ち遐陬僻壤国造郡領の墓に至るまで、亦石を立て文を銘する者有り。
昔、中郎氏(藤原鎌足)は周公・孔子の道を南淵先生に学び、野にあって質朴の志を養い、その志操を高潔に保った。ひとたび世に出ては中宗(天智天皇)の中興の気運を助け、国家を再建して、大事業を治め導いた。大織冠としての勲功は天地に満ちている。これによって藤原氏の子孫は代々国家の大権を握り、まことに国家と安危を共にした。そうしてその一族は広がり、ほとんど国中に満ちた。鎌足が亡くなると、学士紹明は立派な名声を不朽に伝えようと欲し、碑文を作って後世に示したという。今を去ること千有余年、その文を見ることはできないとはいえ、徳の高い君子の墓碑に銘文があるのは、思うにこれが始まりである。淡海文忠公(藤原不比等)は大宝・養老の時代にあって、詔を奉じて律令を編纂・改修した。その喪葬令には「およそ三位以上、および別祖・氏宗は、ともに墓を造営することができる。およそ墓にはすべて碑を建て、『某官姓名の墓』と記せ」とある。この時に当たり、朝廷も民間も学問文芸を尊び、名臣や高官ばかりでなく、はるかな辺境の国造や郡司の墓に至るまで、また石を立てて文章を刻む者があった。
其の後浮屠盛行し、而して葬祭の礼先づ廃す。文章時運と汚隆し、而して徳業を記述するは、或ひは之を聞くこと莫し。慶元已来、武を偃し文を修め、觚を摻るの士稍多く、碑碣の撰尠からず。其の閥閲の家を論ずる亡く、廼ち文人儒士山林隠逸の流に至るまで、苟くも稍称述するに足る者有らば、亦皆石を立て文を銘するを以てする者有り。嗚呼、君臧は関東の布衣、憤を発して書を著し、我が神聖の道を中国に明らかにし、之を西土周孔の教を以て徴せんと欲し、終身轗軻として、志を斎して以て歿す。曾て一資半給の其の身を潤すこと無く、而して尺寸の功、諸を当世に施す克はず。然れども其の浩然の気、諸を文章に託し、卓卓として其の朽ちざる者は、以て古人と徒と為る可し。其の墓の表有るは、豈に已むを得んや。君臧諱は秀実、一名は夷吾、字は君平、下野の人なり。本福田氏の子、自ら氏を蒲生と改む。蒲生は淡海の望族、系は藤原朝臣秀郷に出で、会津参議氏郷に至りて大いに顕る。先世屡野奥の間に遷徙す。其の宗の有土の君と為りし者は、嗣亡く祀絶えて、既に百数十年なり。君臧は廼ち其の庶孽の苗裔なりと云ふ。
その後仏教が盛んになり、儒教の葬祭の礼はまず廃れた。文章は時代の盛衰とともに浮沈し、徳行や業績を記述することは、ほとんど聞くことがなくなった。慶長・元和以来、武力を収めて文道を修め、筆を執る士がやや多くなり、墓碑の撰述も少なくない。その家柄の貴賤を問わず、文人や儒者、山林に隠れ住む者に至るまで、かりそめにも多少なりとも称え述べるに足る者があれば、また皆石を立て文章を刻むことがある。ああ、君臧は関東の一介の庶民でありながら、奮起して書を著し、我が神聖の道を本国に明らかにし、これを西土の周公・孔子の教えに照らして証拠立てようと欲し、生涯不遇のままで、志を抱いたまま没した。かつてわずかな給与でその身を潤すこともなく、わずかの功績も当世に施すことができなかった。しかしながらその浩然の気は文章に託され、卓越して朽ちることのない功績は、古代の賢人と肩を並べるに足るものである。その墓に墓表があるのは、どうしてやめられようか、いや当然のことである。君臧の諱は秀実、またの名は夷吾、字は君平、下野の人である。もとは福田氏の子であったが、自ら姓を蒲生と改めた。蒲生は近江の名族であり、その系統は藤原朝臣秀郷から出て、会津参議氏郷に至って大いに世に現れた。先祖はたびたび下野や奥州の間を移住した。その本家で領主となった者は後継ぎがなく家系が絶えて、すでに百数十年になる。君臧はすなわちその庶流の子孫であるという。
東野の俗素より強悍、君臧少くして気を以て自豪す。書を読みて章句を治めず、慨然として経済の志有り。壮に及んで遊を好み、足跡殆ど天下の半ばに遍し。然れども未だ曾て仕路に登らず。故に身都会に在りと雖も、常に山林朴茂の気有り。其の平生持論する所、未だ嘗て少しも自ら貶めて以て售るを求めず。故に円枘方鑿、俗儒笑ひて以て極めて迂闊なりと為す。而して君臧の自信愈々篤し。恒に其の友に謂ひて曰く、「吾編戸の余夫を以て、生商賈を治むる能はず、又仕官し吏と為りて以て升斗の禄を干むるを肯ぜず。書を読み文章を作為するも、亦曲学阿世の徒と伍を為す能はず。朝韲暮塩、坐らに困窮を取る。子も亦其の然る所以を知るか。吾少き時嘗て家に在りて書を読む。先祖母旁らより我に語りて曰く、『昔蒲生氏の会津より宇都宮に徙封せらるるや、其の庶孽に帯刀某なる者有り。禄三千石を食み、邑豪福田氏の女を納れて妾と為す。身有り。適蒲生氏再び会津に封ぜらるるに会ひ、帯刀も亦随ひて徙る。時に其の妾を父の家に留む。既にして男を生む。妾の父母之を愛し、其の遠別を忍びず、佯りて女子を以て告げ、因りて其の家に鞠ふ。後母姓を冒し、遂に編戸の民氓と為る。是れ汝に於て高祖の父なり。汝書を読む者、善く之を記せ』と。吾是に於いて憤を発し志を立て、古学を講究し、曠世の墜典を修め、以て中国の恩の万一に報ぜんと欲す。庶幾くは其れ先祖を辱しめざらん。吾が生るるや晩く、大化大宝の世に逢はず。大織・淡海二公の相業は、企及する所に非ず。然りと雖も其の位に在る者は其の道を行ひ、其の位に在らざる者は其の言を行ふ。古を稽へ今に徴し、国体に通達す。王政の要は、民を軌物に納るるに在り。上に在る人をして祀典を明らかにし、以て孝敬を教へ、四海の内、各々其の職を以て祭を助けしめば、則ち天祖の六合を照臨する所以の者は、万世墜つること無からん。諸侯を富まし以て武衛を奮ひ、百姓を安んじ以て邦本を固くす。是れ吾が願ひなり。昇平二百年、天慶天正の乱に値はず。秀郷・氏郷両朝臣の将略も、復た施す所無し。然りと雖も安きに危うきを思ふは、古の善き教へなり。天下安しと雖も虞る可き所の者は、夷狄盗賊なり。名分を正して以て民志を定め、左道を禁じて以て乱源を塞ぎ、吾が説をして行はるるを得せしめば、則ち宴安の酖毒を遠ざけ、戎狄の豺狼を駆り、啻に一時の摧陥廓清の功を致すのみならず、将に斯の民をして永く被髪左袵の患ひ無からしめんとす。斯れ吾が志なり。志願是の如し。悠悠の徒、曷ぞ与に談ずるに足らんや」と。
東野(下野)の風俗はもとより勇悍であり、君臧は若いころから気骨をもって自負していた。読書にあたっても細かい字句にこだわらず、慷慨して経世済民の志を抱いていた。壮年になると遊歴を好み、その足跡はほとんど天下の半分に及んだ。しかしながらいまだかつて仕官の道には入らなかった。そのため身は都会にあっても、常に山林の気骨と素朴さを保っていた。その日ごろの持論は、かつて少しも自らを曲げて世に受け入れられようとはしなかった。そのため丸い柄を四角い穴に差し込むように世間と合わず、俗儒たちは笑って極めて迂闊であるとした。しかし君臧の自信はますます厚かった。いつもその友人に語って言うには、「私は一般庶民の身でありながら、生業として商業を営むこともできず、また仕官して役人となりわずかな俸禄を求めることもよしとしない。書を読み文章を著しても、また学問を曲げて世間にへつらう輩と同列になることもできない。朝に韮を食べ夕べに塩をなめるような清貧に甘んじ、いたずらに困窮を招いている。あなたもまた私がそうなった理由をご存じか。私が幼いころ、かつて家で書を読んでいた。亡き祖母が傍らから私に語って言うには、『昔、蒲生氏が会津から宇都宮へ転封された時、その庶流に帯刀某という者がいた。三千石の禄を食み、この地の豪族である福田氏の娘を入れて妾とした。娘は身ごもった。ちょうど蒲生氏が再び会津に封ぜられることになり、帯刀もまた従って移住した。その際、その妾を父親の家に留め置いた。やがて男子が生まれた。妾の父母はその子を可愛がり、遠く離れるに忍びず、偽って女子が生まれたと告げ、そのままその家で養育した。後に母の姓を名乗り、ついに一般の民百姓となった。これがそなたにとって高祖父である。そなたは書を読む身であるから、よくこれを覚えておきなさい』と。私はこれにおいて奮起して志を立て、古学を講究し、長年失われていた典章制度を修めて、我が国の恩の万分の一にも報いようと欲したのである。願わくは先祖を辱めたくない。私が生まれたのは遅く、大化・大宝の時代に出会えなかった。大織冠・淡海公のお二方の宰相としての偉業は、遠く及ぶところではない。そうではあるが、その地位にある者はその道を行い、その地位にない者はその言論を行う。古代を考え今に照らして、国柄に通達する。王政の肝要は、民を規範の中に納めることにある。上に立つ人が祭祀の典礼を明らかにして孝敬の道を教え、天下の人々がそれぞれその職分をもって祭祀を補佐するようにさせれば、天照大神の天下を照らし治められる徳は、永遠に失われることはないだろう。諸侯を富ませて防衛の武威を奮い立たせ、民百姓を安んじて国家の根本を堅固にする。これが私の願いである。天下太平の二百年、天慶や天正の乱のような戦乱に遭わない。秀郷・氏郷の両朝臣のような知略も、再び施す場所がない。そうではあるが、安らかなときに危難を思うのは、古代の優れた教えである。天下は安泰であるといっても恐れるべきものは異民族や盗賊である。名分を正して民の志を定め、邪法を禁じて乱の根源を塞ぎ、私の学説が行われるようにさせることができたならば、安逸という毒酒を遠ざけ、異民族という山犬や狼を追い払い、ただ一時の敵陣撃破や討伐の功績をあげるだけでなく、まさにこの民に永遠に異民族の風習に同化される災いをなくそうとするのだ。これが私の志である。志願はこの通りである。俗物どもと、どうして語り合うに足りようか」と。
君臧又曰く、「仲尼称す、『吾が志は春秋に在り』と。春秋は経世の志、以て名分を道ふ。周公の遺法焉に存す。故に政を為すには名を正す、夫子の先とする所なり。戎狄是れ膺つは、周公の遺訓なり。今世の俗儒、文を以て名を乱し、俗吏権を以て法を乱す。法を乱す者は、罪其の身に止まる。名を乱す者は、其の言筒冊に載りて、毒を後世に流す。夫れ神州は、天地の正気なり。寒温均適し、寔に中国と為す。和平穀に見れて甘美豊饒、文教及ぶ所、其の養以て給す。精英鉄に発して堅剛鋭利、武威加はる所、其の功以て成る。限るに天地を以てし、外異の賊内侵するの患ひ有ること莫し。開闢以来、天祖の胤、世々統を伝へ、君臣上下の分、厳威乎として紊るること無し。宇宙の間、孰か能く我が神州に及ぶ者ならん。故に日出づる処の天子、日没する処の天子、大国と交はると雖も、肯て苟も譲らざるは、夫の名を惜しめばなり。今俗儒名分を知らず、動もすれば国体を虧く。苟くも内外の分を忘れ、其の名を顧みざれば、則ち愛新覚羅氏の正朔も、亦稟けて之を奉ず可し。鄂羅斯国の察罕汗も、亦称して女帝と為す可きなり。可ならんや」と。
君臧はまた言った。「孔子は『私の志は春秋にある』と仰った。『春秋』は経世の志であり、それによって名分を説いている。周公の遺法がそこに存在している。だから政治を行うにはまず名分を正すことが、孔子の最優先とされたところである。異民族を討伐せよというのは、周公の遺訓である。今の世の俗儒は、文章によって名分を乱し、俗悪な役人は権力によって法律を乱す。法を乱す者は、罪はその身一つにとどまる。しかし名分を乱す者は、その言説が書物に記されて、害毒を後世に流す。そもそも我が神国は、天地の正しい気が集まった国である。寒暖は適度に調和し、まことに世界の中心である。穏やかな気候は穀物に現れて甘美で豊かに実り、学問教化の及ぶところ、その生活の資養を十分に供給する。天地の精鋭は鉄に発現して堅固で鋭く、武威の加わるところ、その功業をことごとく成し遂げる。天地によって四方を限られ、外敵が国内を侵略する憂いはない。天地開闢以来、天照大神の御子孫が代々皇統を伝え、君臣上下の身分の別は、厳然として乱れることがない。天下の中で、誰が我が神国に及ぶことができようか。それゆえ『日出ずる処の天子、日没する処の天子』とあって、かの大国と国交を結ぶといっても、承知して軽々しく譲歩しなかったのは、かの名分を重んじたからである。今、俗儒は名分を知らず、ややもすれば国柄を損なう。かりそめにも内外の区別を忘れ、その名分を顧みないならば、愛新覚羅氏の暦法もまた受け入れて奉じるべきことになってしまう。ロシア国の察罕汗も、また称して女帝と呼ぶべきことになってしまう。そんなことが許されてよいだろうか、いや許されない」と。
丁卯の歳、北虜辺を擾す。君臧時に江戸に在り。之を聞きて憂憤し、廼ち『不恤緯』五篇を著し、国老の門下に詣り、書を上りて之を献ず。報ぜられず。是より先、君臧嘗て古先帝王の山陵、或ひは荒廃する者有るを聞き、之を当路に告げ、以て其の修覆を図らんと欲し、躬ら其の地を歴視し、古図旧記を参考し、『山陵志』を作る。平生の精力、半ば此の書に在り。書成りて之を京師及び関東の諸公事を用る者に献ず。有司其の論建の処士の宜しき所に非ざるを嫌ひ、召して之を詰る。君臧乃ち律文を引き、故事を誦して以て対ふ。是に当たり君臧慷慨自奮し、天下の為に世人の言ひ難き所の者を言はんと欲し、是に由りて禍を獲ると雖も、顧みざるなり。故に時人君臧を目するに狂妄を以てし、殆ど将に不測の罪に罹らんとす。蓋し或ひは君臧の人と為りを知る者有りて、憫みて之を救ひ、因りて免るるを得たり。
丁卯の年、ロシアが辺境を脅かした。君臧はその時江戸にいた。これを聞いて憂い憤り、そこで『不恤緯』五篇を著し、老中の門下を訪ねて上書してこれを献上した。しかし返答はなかった。これより先、君臧はかつて古代の歴代天皇の山陵に荒廃しているものがあると聞き、これを執政当局に告げてその修復を図ろうと欲し、自らその地を歴訪して視察し、古い絵図や記録を参考にして『山陵志』を作成した。生涯の精力の半分はこの書に注がれていた。書が完成してこれを京および関東の政務を執る諸官に献上した。役人はその建白が一介の野にいる者の分にふさわしくないことを嫌い、呼び出してこれを詰問した。君臧はそこで律令の条文を引き、故事をそらんじて返答した。この時に当たり君臧は慷慨して自ら奮い立ち、天下のために世間の人々が言いにくいことを言おうと欲し、これによって災いを受けることになろうとも顧みなかったのである。そのため当時の人々は君臧を狂気で無謀な者と見なし、もう少しで思いもよらぬ重罪にかかるところであった。思うに君臧の人柄を知る者がいて、不憫に思って救ってくれたため、かろうじて罪を免れることができたのであった。
君臧素より剛腸、当世に俯仰して以て容を取る能はず。廼ち澆ぐに酒を以てし、時に或ひは劇飲大酔し、頽然として自ら放にす。而して憂国の念、未だ嘗て頃刻も忘れざるなり。間居して学を講じ、忿慾を懲らし、敢へて世と抗せざるを以て務めと為す。廼ち其の居る所の庵に号して、修静と曰ひ、以て自ら警む。身を修むるも此れに在り、名を成すも亦此れに在りと謂ふ。教授の暇、力を著述に専らにす。始め君臧弊を革め賦役等の諸論を著し、号して『今書』と曰ひ、以て当世の得失を規す。是に至りて更に『職官志』を撰し、次を以て神祇姓族等の志を編し、山陵と併せて九志と為さんと欲せしも、未だ悉く成るに及ばず。文化十年癸酉七月五日、疾を以て江戸の僑居に歿す。享年四十有六。
君臧はもとより剛直な気骨を持ち、当世の人々にへつらって気に入られるようなことはできなかった。そこで酒をあおって胸のわだかまりを流し、時には大酒を飲んで泥酔し、倒れ臥して気ままに振る舞った。しかし憂国の思いは、いまだかつて片時も忘れることがなかった。静かに隠れ住んで学問を講じ、怒りや欲望を抑え、あえて世間と争わないことを心がけとした。そこでその住まう庵に号して修静と名付け、それをもって自らを戒めた。身を修めるのもこれにあり、名を成すのもまたこれにあると言った。人に教える合間に、精力を著述に専念させた。初め君臧は弊害を改めることや税・労役などの諸論を著し、名付けて『今書』といい、それをもって当時の政治の良し悪しを批判・是正しようとした。ここに至ってさらに『職官志』を著し、順を追って神祇や姓氏・氏族などの志を編纂し、山陵と合わせて九志にしようと欲したが、まだすべて完成するまでには至らなかった。文化十年癸酉七月五日、病気のため江戸の仮住まいにおいて没した。享年四十六。
君臧壮にして家艱に丁ひ、服除きて四方に遊歴す。故に晩にして娶る。其の配は多氏、紅葉山伶官某の女、子無し。君臧の歿するや、其の交遊の尤も親しく且つ旧き者、相聚りて之を哭して曰く、「斯の人や、『山陵志』を作れる者、其れ葬祭の礼に於て、最も意を致せり。不幸にして嗣無し。襄事の責は朋友に在り。其れ心を尽くさざる可けんや」と。廼ち之を江戸北郊谷中竜興山臨江寺の域内に葬る。余の君臧と相識ること最も久しきを以てするなり。墓を表するの文を以て託す。廼ち書して以て之を遣り、之をして諸を石に鑱ましめて曰く、
君臧は壮年のころに家の不幸に遭い、喪が明けてから諸方を遊歴した。そのため晩年になって妻を娶った。その配偶者は多氏で、紅葉山の楽人某の娘であったが、子はいなかった。君臧が没したとき、その交友の中で最も親しくかつ旧知の者たちが集まって彼のために声を上げて泣き、言った。「この人は『山陵志』を作った人であり、葬祭の礼において最も心を尽くした。不幸にして跡継ぎがいない。葬儀を執り行う責任は友人にこそある。どうして真心を尽くさずにいられようか」と。そこで彼を江戸の北郊である谷中竜興山臨江寺の境内に葬った。私が君臧と知り合って最も久しいということであった。墓碑銘の文章の執筆を私に託された。そこで文章を書いてこれを与え、これを石に刻ませて言うことには、
嗚呼君臧、常に関東の布衣を以て自称す。阨窮を免れずと雖も、猶天下の奇男子と為る。豈に閭里の儒梟、号して先生と称する者と同年にして語る可けんや。吾其の臨終に、尚天地の正気を称し、且つ三宝の説有りしと云ふ。精霊を天地の間に留め、将に其の人を俟ちて之に授けんとす。古の所謂死して亡びざる者は、其れ君臧の謂ひか。噫、斯の人微かりせば吾誰と与にか帰せん。
ああ君臧よ、常に関東の一介の無位無官の庶民と自称していた。困窮を免れなかったとはいえ、それでもなお天下の非凡な傑物であった。どうして村里のつまらぬ儒学者で、号して先生と称しているような者と同列に語ることができようか。聞くところによれば、彼は臨終の際にもなお天地の正しい気を称え、かつ三宝の説を遺したという。その精霊を天地の間に留め、まさにしかるべき人物が現れるのを待ってこれに授けようとしている。古代のいわゆる「死しても滅びない者」とは、まさに君臧のことを言うのであろうか。ああ、この人がいなかったなら、私は誰とともに帰着すべきであろうか。
文政元年歳在戊寅秋八月
文政元年歳在戊寅秋八月
  墓石 縦曲尺三尺四寸余 横曲尺壱尺二寸五分  碑文 一千八百六十一言 篆額題目撰者姓名共十有三字  統計一千八百八十六字
墓石 縦曲尺三尺四寸余 横曲尺一尺二寸五分  碑文 一千八百六十一字 篆額・題目・撰者姓名合わせて十三字  総計一千八百八十六字
解に云く、墓表には則ち其の私諡を称し、予が記文には則ち其の号を称す。此れ忌む所有るを以ての故なり。乙酉の冬十一月廿三日、予興継を携へて臨江寺に到り、亡友蒲生子の墓に謁す。即便ち行潦を薦めて之を祭り、祭り訖りて蝋墨を以て碑文を搨拓す。未だ両三頁ならずして、短景旦暮、倉卒の際、磨減の多きに、家に還りて之を視るに、読み易からざる者過半なり。因りて文を推し意を以て謄写す。誤字有らんことを恐る。異日再び搨するを俟ちて、当に校訂すべき者なり。
解が言うには、墓表においては彼の私諡を称し、私の記文においては彼の号を称した。これは憚るところがあるためである。乙酉の冬十一月二十三日、私は興継を連れて臨江寺へ行き、亡き友である蒲生子の墓に参詣した。すぐにわずかな水を供えて彼を祭り、祭りを終えて蝋墨を使って碑文を拓本にとった。まだ二、三枚にならないうちに、短い冬の日は暮れ、慌ただしい折から石の摩耗も多いうえに、家に帰ってこれを見ると、読みやすくない箇所が過半であった。そこで文脈を推し量り、趣意をくみ取って筆写した。誤字があることを恐れる。後日ふたたび拓本をとるのを待って、当然校訂すべきものである。
乙酉の、しはす、ついたち、「兎園小説集」の満筵にあるじして、竟宴のこゝろをよめる、
乙酉の師走の朔日、「兎園小説集」の完成の宴を主催して、宴の締めくくりの心を詠んだ歌、
書きつめしふみをばなにゝおはすべきゝはあそはぬ菟道の友垣   解
書き尽くしたこの書物を何にたとえるべきであろうか、身分の分け隔てなく交わり楽しむこの兎園の友たちよ。   解
おなじ折、興継に代りて、おなじこゝろを、
同じ折、興継に代わって、同じ心を詠んだ歌、
宇治のきみのすさみに似たることの葉もながめにうとき冬の花園
宇治の君の気晴らしに似たこの言葉の数々も、物思いに耽ることのない冬の花園であることよ。
兎園小説 終
兎園小説 終
原文 / 昭和女子大学本の字句を採り、正字体を保持、振り仮名を外す

蒲の花かたみ 上

久かたの日影に、うとき谷を出でゝ、木、傳ひ、あさり、鳴く鳥も、友を求むといふなるに、物の量なす人として、いづれか友を思はざる。

そを懷ふにも、科、あるべし。利慾にかたらひ、婬樂に集ひ、酒食によりて親しかりしは、思ふに似たるも忘るに、はやかり。

學問の道のひとしくて、志の異ならぬのみ、忘れんとすれど、忘れがたく、懷ふにも、猶ほ、あまりあり。

「そを誰ぞ。」と人に問はれんに、修静庵にますもの、なかりき。

この人や、學びの道に、吾にひとしく、心ざまさへ、似たりけり。生まれし鄕は異なれども、同じ甲にと聞えしも、大かたならぬ、過世なりけん。世に、ふた鞘の隔てなく、睦みかたらひぬる折に、いはれしことの、耳に止まり、なつかしくも、かなしくも、寢覺ぬ老が曉には、過ぎ越しかたの胸にみちて、俤にたつこともありけり。

大凡、この人の行狀は、藤田ぬしの書きつめたる墓表によりてしらるべけれど、猶ほ、漏しつと思ふこと、なきにしもあらざりけり。いとめづらしくも、竒しくも、多に得がたき博士なりし。その事の趣きを、物の端にしるしつけて、君子たちに示さずは、誰か、また、節を擊ちて、こと葉の調をたすくべきと思ふも、「をこ」の業ながら、深谷がくれに、友、呼ぶ鳥の聲にしも似て、已みがたさに、水莖の迹、淺きは、さらなり、山の井の影、うつしうつしも、人の笑はんことさへに、厭はぬは、實に、をろかなるべし。

文政八年乙酉冬十二月朔、このふみを綴りて、みづから、はしがきするもの。  神田の隱士  瀧澤 解

人の心は、かくれ沼の、さだかには目に見えぬものから、そのよきも、終に顯れ、そのわろきも、終に見る。よきも、わろきも、おしなべて、なき後にこそ、定かなれ。さばれ、そのよき人といふとも、祿もなく、位もあらで、名を後の世に遺せるものは、只、その人の德にあり。學びの力に、よらぬは、なし。

玆に、亦、その人、あり。吾友脩静庵の主人、卽ち、これなり。

抑も脩静庵は、もと、福田氏、後に、「その先祖の氏鄕朝臣の族より出でたり。」と聞くに及びて、氏を蒲生に改めけり〔これらのよしは、墓表に具なれば、こゝに贅せず。〕。名は秀實、一名は夷吾、字は君平、脩静は、その號。下野州河内郡宇都宮の人なりけり。明和四年丁亥、某月日に生れぬる故をもて、其父、これに名を命じて、伊三郞といふといふ。「亥」の和訓は、卽ち、「爲」なり。「爲」・「伊」の假名、たがふといへども、「伊」は、猶ほ、「亥」の「ゐ」のこゝろなるべし。

その家、半農半商にて、㸃燈油を鬻ぎたり。父、沒して、兄、家を嗣ぎぬ。只、脩静のみ、をさをさ、讀書を嗜みしかば、耕し耘ることを欲せず。又、商人の業を樂はず。同じ鄕に石橋といふ先生ありて、經學を修めて、且つ、施しを好み、其家、豊かなりければ、天明三年、淺間山、燒けて、關東、いたく餓ゑたるとき、倉廩をうちひらき、四百苞の米を散して、鄕黨・鄰里を賑しけり。只、この施行のみならず、或は、路を造り、橋をしつらひ、隱德慈善を宗としたれば、人皆、德とせぬものなく、名を遠近に知られてけり。

脩静は、いとはやくより、石橋翁の門に入りて、勤學硏究、玆に年あり。

かゝりし程に、大母の物語りによりて、祖先の賤しからぬを知曉し、みづから、氏を改めて、志、いよいよ、堅く、凡、下野人の風俗は、朴訥にして、强く、悍し。脩静は、之れに加ふるに、志氣、逞しく、貧しきを、辭はず、「よしや、忠義の狗となるとも、亂離の人と、ならじ。」とて、しきりに奬み、學びけり。

しかれども、章句を修めず、國史舊記を涉獵して、『いかで古學を起さん。』と、ほりする心、いと、せちなり。剛腸かくの如しといへども、母につかへて孝なりければ、母もまた、愛でぬることの、他し子よりも深かるべし。

脩静が壯りになりし比、その兄は身まかりけり。これにより、母、田園を、なかば、わかちて、脩静にとらせんとしてけるに、脩静、いたく、これを推辭て、且、母を諫めて曰、「わが兄、不幸にして、なかそらに身まかりたまひ、且つ、その子は尙ほ、幼なし。さるを、今、多くもあらぬ田園を、吾儕の爲に分かたせたまはゞ、幼なき者は、何によりて、荒年の飢寒を凌がん。およそ、兄弟叔侄の故なく、田園を分かつものは、親族、怨みを結ぶの基本なり。吾儕は、一步の田を得ずとても、兎も角もして、一期を送らん。侄は、わが母の嫡孫なり。渠が身、優かなるときは、わが母も、また、ゆたかにおはさめ。おほん慈惠を辭ひまつるは、ひとり儕の爲のみならず、すなはち、母の爲なれば。」と、なくなく、ことわりを盡しゝかば、母はこれを、「賢。」として、遂にその意に任せしとぞ。

是より後も、とにかくに、家の難みに、かゝつらひて、志は立てながら、身をわがまゝにも、せざりけり。

是よりさき、寬政二年の冬、「琉球の使人、入朝しつ。」と聞えしに、故ありて、彼の輩と、應接をしつるもの、宇都宮に歸り來るありけり。脩静、一日、これを訪ひて、「足下は、こたび、球人と應對したりと傳へ聞きぬ。何等の說話ありし。」と問ふに、その人、答ヘて、「否、させる說話も、なし。只、四表八表の話の次に、球人、われに問ひていはく、『皇國は、誠に、文あり、武あり、大かたならぬ、よき國なれども、竊に意得がたきは、「樣」といふ字に三體ありて、尊卑の科をわけらるゝに、或ひは、「永」ざま、或は、「美さま」、「つくばひざま」といふよしは、如何なる義理のあるやらん。』と、いはれしには、困りたり。」と、うちほゝゑみつゝ、告げにけり。

脩静、これを聞きしより、憤り、胸にみちて、嘆息の外、言葉もなく、そがまゝ、宿所に走りかへりて、獨り、つらつら思ふやう、『昔、「南北朝の内亂」より、「應仁の兵火」に至りて、天朝の舊典、皆、悉く亡失し、文華は、ながく、地を拂ひて、世は「戰國」となりし事、槪して、二百餘年、その惡俗の餘毒、流れて、昇平の今の世まで、洗ひ淸むるものゝ足らねばこそ、附庸偏小の球人にすら、侮らるゝことの、安からね。いかで、われ、古學を興して國體を張り、天下の爲に、死力を尽して、國恩に報ずべし。』と、愈々、思ひ定めつゝ、指を噬み、血を染めて、「孝子之情有終身喪 忠臣之心無革命時」と大書しつ。志願の臍をぞ、堅めける。

かゝりし程に、歲月を歷て、脩静、江戶に往來しつゝ、林家の門人になりしかば、帶刀して儒學を倡へ、當時、高名の儒者、國學者・文人墨客とまじはりて、遊學すること、亦、年あり。

しかれども、その持論、事情に愜ず、或は、之を迂濶とし、或は之を狂妄として、嘲り噱はぬは稀なりしを、脩静、ものゝ屑ともせで、愈よ、守りて、みづから、貶さず。その友に語りて云く、「昔時は、儒官、あきらかに、天朝の故實に通じて、「六經」を以て、これが資にしたり。こゝをもて、名、正しく、事行はれざること、なし。今の俗儒は、天朝の故實をしらず、夏夷順逆の理に暗くして、名を亂り、言を紊るゝもの、百五、六十年來、比々として、皆、これなり。その位に在るものは、その道を行ひ、その位に在らざるものは、その言を行ふこと、古今一致、難易、迭ひにありといへども、吾、憤りをもて、志を立て、古學を興して逸史を修め、力を經世に尽して、もて、國恩に報じ奉らんと欲すること、他、なし。彼の世に阿りて、利を謀り、皋皮に坐する草鞋大王、自から名敎の罪人たるを知らざるものと、隣りをなさじ、と思ふのみ。このこと、同士の爲に語るべし。悠々の徒と語るべからず。」とぞ、いきまきける。

この比よりして、脩静、「九志」を編述の志あり。「いにしへの山陵、多く荒廢して、その迹、定かならざるものありと聞く事、久しきをもて、まづ、「山陵志」より刱めん。」とて、獨行して、京に赴き、南海を越え、淡路に渡るに、素より、路費の乏しきを憂ひとせず、嶮を履み、風雪を犯して、六十六國、その半ばを經歷し、あるは里老に問ひ、或は舊圖を考へ、諸陵存亡の趣きを目擊したりける。苦辛を、その著述の爲に辭せず、月日は、旅寐に移れども、其の志、移らずして、愈よ、精力を盡しけり。

かゝりし程に、丁卯の年、北虜の邊塞を擾るゝの風聞あり。脩静、江戶に在り。かのことを傳へ聞きて、憂ひ、且つ、憤りに堪へず、卽ち、「不恤緯」五編を著はし、上書して、之を國老の執事に奉りしに、おほんとりあげは、なかりけり。とかくする程に、「山陵志」一卷、やうやくに稿を脫ぎて、刻本にせまく欲するに、脩静、素より、擔石の儲なければ、同志に告げて、未刻已前に入銀を促し、且、その友、鍵屋静齋等が資けを借りて、製本、全く成りしかば、之を京師に獻り、及び、關東の搢紳、並びに、有職の人々に、まゐらせけり。しかるに、「其の論、處士・浮浪人の、あげつらふべきことにしも、あらず。贅言、分に過ぎて、忌み憚らざるに似たり。」とて、脩静を、市の尹の廳に召して、その條々を詰られしに、脩静、すなはち、「律令」を引き、古實を證して、答へまうすことの理りに稱ひしかば、重ねて咎めは、なかりけり。

これにより脩静、慷慨嗟嘆して、身の禍ひを見かへらず、日比の剛膓十倍して、記文一篇を綴りてけり。そのこと、禁忌に觸るゝをもて、市の尹にや聞えにけん、召し問はんとせられしに、「林家の門人たる」よしを聞かれて、まづ、祭酒に告げられしかば、祭酒、卽ち、脩静を招きよせて、「件の記文を、まゐらせよ。」と、ありけるに、脩静、答へまうすやう、「件の拙文は、一時漫戯の稿本なりしを、何某に貸したりしが、いく程もなく、失ひて、今は、一ひらも候はず。仰せの趣き、畏り候へども、なきものなれば、せんすべも、なし。この義、ひたすらに賢察を願ひ奉る。」と陳じゝかば、祭酒、すなはち、脩静を退かして、又、家臣をもて、問はしめ給ふに、脩静、陳ずること、初めの如し。家臣はこれをまことゝせず。なほ、さまざまに詰りしかぱ、祭酒、これを推し禁めて、「威をもて、逼るは、要なき業なり。利害を說きて諭さば、足りなん。問ふこと、再三、再四にして、白すことの違はぬは、實に失ひたるならん。おきね、おきね。」と、とゞめさせて、宿所にかへし給ひしとぞ、程經て後に、聞えける。

此の事、世間に聞えしかば、知るもしらぬも、おしなべて、駭嘆せずといふものなく、踈きは、「愚。」として、これを嘲り、親しきは、憫めども、救ふよしもなきまゝに、「あなや、脩静は、不測の罪に身を喪ふ歟。」と阽みしに、祭酒、愛顧のとりなしにやよりけん、又、その母に孝なるよしさへ、尹にしられたるにやあらん、やうやくに免かれて、させるおほん咎もなかりけり。

脩静、江戶に僑居してより、文化の始めまで、駒込吉祥寺門前にをり、七年庚午の春二月、更に卜居して石町なる鐘撞堂新道へ移りにけり。

駒籠にありし日より、敎授に口を餬ふものから、「山陵志」に相つゞきて、又、「職官志」を彫らんとすなれば、財用、足らで、窮すれども、志氣、卓く傑出して、持論聽くべく、文章、觀るべし。

又、ある時は、交遊・宴會の席につらなりて、脩静、特に强飮酩酊、劇談放言して、讓らず。その體たらく、傍若無人に似たりといへども、方正鯁直の性、言外にあらはれて、國を憂ふるの心、一日半時も撓むこと、なし。

はじめ脩静が、山陵訪求の爲に京に赴きしとき、彼地に、絕えて、しる人なし。當時、小澤蘆庵は、古學を好みて、萬葉風の詠歌に名たかく、「世にすねたる陰逸なり。」と、かねて傳へ聞きしかば、「渠が助けを借らばや。」とて、その京に入りし日に、やがて蘆庵が宿所を尋ねて、「云々。」と、おとなふ程に、小澤が家僕、出で迦へて、「いづこより。」と問ふ。

いひよるよしもなきまゝに、脩静、まづ、佯りて、「某は、下野なる宇都宮のほとりにて、蒲生伊三郞と呼ばるゝ者なり。琴を好み候へども、田舍には、よき師、なし。主人の翁は、琴の妙手にておはするよし、東野の果まで、かくれなし。是れにより、おほん弟子にならまく欲りして、遙々と來つるにて候。」といふ。

その僕、こゝろを得て、奧に赴き、云々と告げにけん、蘆庵は、聲を高くして、「あな、無益にも、問はれごとかな。汝、出でて、しか、答へよ。『主人は、久しう、客を辭し、交りを絕ちたれば、都のうちだにも、親しう物せるは、稀なり。琴は、若かりし時、搔き鳴らしたりけるを、あちこちの人に知られて、「彼にきかせよ、此に敎へよ。」と、いはるゝが、うるさければ、近ごろ、うち摧きて薪に代へたり。かゝれば、所望にしたがふべくもあらず。他に行きて、求め給へ。』。」といふ聲の、蒸襖一重を隔てて、定かにぞ、聞えける。

脩静は、僕が報ぐるに及びて、そが、「しかじか」といふを、しも、またず、さらに又、推しかへして云ふ、「翁のおほん答へは、こゝにも、つばらに、もれきゝたり。某、猶ほ、一言あり。願ふは、枉げて聞きたまへ。吾は、下野なる儒者なり。しかじかの志願あれば、屢、江戶に遊學し、こたみ、都に上りしかども、相ひ識れるもの、絕えてなし。翁の古學を好み給ふと、その氣質の俗ならぬは、かねて傳へ聞くものから、いひよる由のなきまゝに、『琴を學ばん爲にとて來りつる』といひしなり。こは長者を欺くに似たれども、その虛言は已むことを得ざりし實情より出でたれば、許され對面せられば、肝膽を吐き、志願を告げて、翁の資けを借らんと欲す。かくても、意に稱はずば、退けられんこと、勿論たるべし。今一たび、和殿を勞せん。此由、執り次ぎ給へ。」といふ。

蘆庵も、これを洩れ聞きて、「さりとは思ひかけざりき。竒しき客人なり。對面せずば、悔しきことあらん。」とて、「『こなたへ』と申せ。」とて、やがて、面をあはしけり。

脩静、ふかく歡びて、夙くより、思ひ起しゝ志願の由を說き示し、「山陵志」著述の爲に、古き御陵を尋ねんとて、旅寐をしつることの趣き、「云々。」と、かたりいづるに、蘆庵も、只管、感歎して、「足下は、得がたき學士なり。さる志しあらんには、吾が庵に杖をとゞめて、こゝらわたりの御陵を、しづかに訪求し給へ。」とて、又、他事もなく、もてなしけり。

これにより、脩静は、日每に古陵を尋ね巡るに、ともすれば、日暮れて歸るを、主人は、自から、風呂を焚きて、浴させぬる。老人の心づかひを、「胸苦し。」とて、いなめども、從はず、「これ等の事は、只管に客を愛する故のみならず、吾も亦、かゝる竒人に宿することの歡ばしさに、足下の疲勞を慰めて、『恙なかれ』と思ふよしは、『國の爲に、力を竭す人の、助けにならん。』とてなり。必ず、辭退みたまふな。」とて、後々までも、然かしてけり。

かゝりし程に、脩静は、ある夜、更闌けて、子ふたつのころ、歸りしかども、蘆庵は、いねず、待ちてをり、例の如く、浴させ、飯をすゝめて、さて、いふやう、「われ、足下に宿せる日より、疏菜の外に、物もなく、させるもてなしを爲ざれども、夜は老僕を休らはせんとて、手づからに風爐さへ焚くを、思ひ汲みたまはずや。古陵を尋ね巡ればとて、今までは、要なからんに、道草、くうてか。老人に、物をおもはせ給ふこと、こゝろ得がたし。」と呟きけり。

脩静、聞きて、貌を改め、「翁の恨み、ことわり也。わが非を飾るにあらねども、更闌けたるは、聊、ゆゑあり。懺悔の爲に笑ひに備へん。今日は某の天皇の陵をたづねたりしに、日の暮るゝまで、尋ねも、あはで、思はずも、等持院なる尊氏の墓を見たり〔等持院は金閣寺の北郊、石不動の北に在り。尊氏の法號を、「等持院」と云。この寺に足利氏十三世の木像あり。〕。こゝに至りて、年來の恨み、心頭に起こりて堪へられず、墓に向つて罵るやう、『梟臣尊氏、なほ、靈あらば、今、いふことを、慥に聞け。汝は、一旦、治まりたる「建武重祚」の世を亂して、逆に取り、逆に守りし毒を、後世に流せしより、二百十數年、干戈をさまらず、國の舊典も、これが爲に燒け亡び、王室も亦、これによりて、卑しく、古帝世々の山陵すら、迹、なくなりて、吾等にさへ、飽くまで物を思はするは、皆、悉く、汝が罪なり。天罸、當に知るべし。』とて、杖をもて、石塔を思ふまゝに打ちたゝき、かくて、寺門を出づる程に、物ほしう、なりしかば、道のほとりの酒屋に立ちより、怒りにまかして飮む程に、六、七合を盡くしたり。さて、酒屋を出でしかど、醉ふてて、足も定まらず、『此まゝにて、かへりゆかば、必ず、翁に叱られん。なかば醒してゆかめ。』と思ふて、株に尻を掛けしより、熟睡やしけん、時も移りて、駭き覺むれば、更闌けたり。」と語るに、蘆庵は噴き出だして、思はず、「呵々。」と、うち笑ひ、

「さても。世の中には、似たる馬鹿ものも、あれば、あるものかな。吾も亦、往ぬる年、ある日、靈山のほとりに逍遙して、長嘯子の墓所を過りし時〔長嘯子は木下。氏名は勝俊。豊太閤の外族たるをもて、若狹の國を領せり。「關ケ原役」の後、所領、失ふて、東山に幽栖し、「天哉翁」と云ふ。〕、さすがに、宿恨なきにあらねば、行きも得やらずにらまへて、『長嘯子、不滅の罪あり。わぬし、みづからこれをしるや。わぬしは豊太閤の外族として、位、高く、且つ、采地も廣かるに、心ざま、武士に似ず、「伏見の駕籠城」に敵の旗色を見て、鬼胎を抱き、鳥居元忠等を、棄て殺しにせしは、不義なり。事成ぎて、罪を蒙り、はつかに、命を助けられしを幸ひにして、耻を知らず、心にもあらぬ、世捨人貌して、似非歌、多く詠じたる。「一盲、衆盲を引きし」より、歌の調べのわろくなりて、今に至るまで、なほらぬは、是れ、不滅の罪にあらずや。冥罸、かくの如くならん。』と罵りながら、杖をあげて、墓を毆たる事、ありけり。こは、よく似たるにあらずや。」と、語りもあへず、聞きも、をはらず、齊しく、腹を抱へし、とぞ。

昔、吳ノ國に、さるものあり。さばれ、楚の平王は讐といふとも、その親の爲に君なり。さるを、その墓を發き、その屍を鞭うちしは、過ぎたるに似て、餘情なし。もし、伍子胥をして、投化せしめ、この時にしもあらしめば、かならず、階を降るべし。

蒲生君臧墓表   常陸 藤田一正撰  源千之 幷篆額

昔者中郞氏。學三周孔之道於二南淵先生一。養二素丘園一。高二尙其事一。一出而翊二中宗中興之運一。再造二邦家一。經二綸鴻業一。大織冠之勳。塞二天地一。是以藤姓之胤。世秉二國鈞一。實與二社稷一同二休戚一。而枝葉蔓延。殆徧ㇾ于二海内一。其薨也。學士紹明。欲ㇾ傳三令名於二不朽一。製二碑文一以示二後世一云。距ㇾ今千有餘歲。其文雖ㇾ不ㇾ可二得而見一。然大人君子墓碑有ㇾ文。葢此爲ㇾ始。淡海文忠公。在二大寶養老之際一。奉ㇾ詔刊二修律令一。其喪葬令曰。凡三位以上。及別祖氏宗。竝得ㇾ營ㇾ墓。凡墓皆建ㇾ碑。記二某官姓名之墓一。當二此之時一。朝野尙ㇾ文。兦ㇾ論二其名公鉅卿一。廼至二遐陬僻壤國造郡領之墓一。亦有二立ㇾ石銘ㇾ文者一矣。

其後浮屠盛行。而葬祭之禮先廢。文章與二時運一汚隆。而紀二述德業一。莫ㇾ或二之聞一。慶元已來。偃ㇾ武修ㇾ文。摻觚之士稍衆。碑碣之撰不ㇾ尠。兦ㇾ論二其閥閱之家一。廼至二文人儒士山林隱逸之流一。苟有下稍足二稱述一者上。亦皆有二以立ㇾ石銘ㇾ文者一矣。嗚呼。君臧。關東布衣。發ㇾ憤著ㇾ書。欲下明二我神聖之道於中國一。徵ㇾ之以中西土周孔之敎上。終身轗軻。齋ㇾ志以歿。曾無三一資半給之潤二其身一。而尺寸之功。不ㇾ克ㇾ施二諸當世一。然其浩然之氣。託二諸文章一。卓卓其不ㇾ朽者。可下以與二古人一爲上レ徒矣。其墓之有ㇾ表。豈得ㇾ已哉。君臧諱秀實。一名夷吾。字君平。下野人也。本福田氏之子。自改二氏蒲生一。蒲生。淡海望族。系出二藤原朝臣秀鄕一。至二會津參議氏鄕一。而大顯。先世屢遷二徙野奧之間一。其宗爲二有土之君一者。兦ㇾ嗣絕ㇾ祀。既百數十年矣。君臧廼其庶孽苗裔云。

東野之俗素强悍。君臧少以ㇾ氣自豪。讀ㇾ書不ㇾ治二章句一。慨然有二經濟之志一。及ㇾ壯好ㇾ遊。足跡殆徧二天下之半一。然未三曾登二仕路一。故雖三身在二都會一乎。常有二山林樸茂之氣一。其平生所二持論一。未二甞少自貶以求一ㇾ售。故圓枘方鑿。俗儒笑以爲二極迂濶一。而君臧自信愈篤。恒謂二其友一曰。吾以二編戶餘夫一。不ㇾ能ㇾ治二生商賈一。又不三肯仕官爲ㇾ吏以干二升斗之祿一。讀ㇾ書作二爲文章一。亦不ㇾ能下與二曲學阿世之徒一爲上ㇾ伍。朝韲暮鹽。坐取二困窮一。子亦知三其所二以然一乎。吾少時甞在ㇾ家讀ㇾ書。先祖母自ㇾ旁語ㇾ我曰。昔蒲生氏之自二會津一。徙二封宇都宮一也。其庶孽有二帶刀某者一。食祿三千石。納二邑豪福田氏女一爲ㇾ妾。有ㇾ身。適會三蒲生氏再封二會津一。帶刀亦隨而徙焉。時留二其妾父家一。既而生ㇾ男。妾父母愛ㇾ之。不ㇾ忍二其遠別一。佯告以二女子一。因鞠二于其家一。後冐二母姓一。遂爲二編戶之民氓一。是於ㇾ汝高祖之父也。汝讀ㇾ書者。善記ㇾ之。吾於ㇾ是發ㇾ憤立ㇾ志。講二究古學一。欲下脩二曠世之墜典一。以報中國恩之萬一上。庶幾乎其不ㇾ辱二先祖一矣。吾生也晚。不ㇾ逢二大化大寶之世一。大織淡海二公之相業。非ㇾ所二企及一。雖ㇾ然在二其位一者行二其道一。不ㇾ在二其位一者行二其言一。稽ㇾ古徵ㇾ今。通二達國體一。王政之要。在ㇾ納三民於二軌物一。俾下在ㇾ上之人明二祀典一。以敎二孝敬一。四海之内。各以二其職一助上ㇾ祭。則天祖之所三以照二臨六合一者。萬世無ㇾ墜矣。冨二諸矦一以奮二武衞一。安二百姓一以固二邦本一。是吾願也。昇平二百年。不ㇾ値二天慶天正之亂一。秀鄕氏鄕兩朝臣之將略。無二復所一ㇾ施。雖ㇾ然安思ㇾ危。古之善敎。天下雖ㇾ安所ㇾ可ㇾ虞者。夷狄盜賊。正二名分一以定二民志一。禁二左道一以塞二亂源一。使二吾說獲一ㇾ行。則遠二宴安之酖毒一。驅二戎狄之豺狼一。不三啻致二一時摧陷廓淸之功一。將ㇾ俾三斯民永無二被髮左袵之患一矣。斯吾志也、志願如ㇾ是。悠悠之徒。曷足二與談一哉。

君臧又曰。仲尼稱。吾志在二春秋一。春秋經世之志。以道二名分一。周公遺法存焉。故爲ㇾ政正ㇾ名。夫子所ㇾ先。戎狄是膺。周公之遺訓、今世俗儒。以ㇾ文亂ㇾ名。俗吏以ㇾ權亂ㇾ法。亂ㇾ法者。罪止二其身一。亂ㇾ名者。其言載二筒册一。而流三毒於二後世一。夫神州。天地之正氣也。寒溫均適。寔爲二中國一。和平見ㇾ乎ㇾ穀。而甘美豐饒。文敎所ㇾ及。其養以給。精英發ㇾ乎ㇾ鐵。而堅剛鋭利。武威所ㇾ加。其功以成。限以二天地一。莫ㇾ有二外異賊内侵之患一。開闢以來。天祖之胤。世世傳ㇾ統。君臣上下之分。嚴威乎無ㇾ紊。宇宙之間。孰能及二我神州一者。故日出處天子。日沒處天子。雖ㇾ交二大國一。不二肯苟讓一。惜二夫名一也。今俗儒不ㇾ知二名分一。動虧二國體一。苟忘二内外之分一。而不ㇾ顧二其名一。則愛新覺羅氏之正朔。亦可二禀而奉一ㇾ之。鄂羅斯國之察罕汗。亦可三稱爲二女帝一也。可乎哉。

丁卯歲。北虜擾ㇾ邊。君臧時在二江戶一。聞ㇾ之憂憤。廼著二不恤緯五篇一。詣二國老門下一。上書獻ㇾ之。不ㇾ報。先ㇾ是。君臧嘗聞三古先帝王之山陵。或有二荒廢者一。欲下告二之當路一。以圖中其修覆上。躬自歷二視其地一。參二考古圖舊記一。作二山陵志一。平生精力。半在二此書一。書成獻二之京師及關東諸公用ㇾ事者一。有司嫌三其論建非二處士所一ㇾ宜。召詰ㇾ之。君臧乃引二律文一。誦二故事一以對。當ㇾ是君臧慷慨自奮。欲下爲二天下一言中世人之所ㇾ難ㇾ言者上。雖二由ㇾ是獲一ㇾ禍。而不ㇾ顧也。故時人目二君臧一以二狂妄一。殆將ㇾ罹二不測之罪一。盖或有下知二君臧之爲一ㇾ人者上。憫而救ㇾ之。因獲ㇾ免。

君臧素剛膓。不ㇾ能下俯二仰當世一。以取上ㇾ容。廼澆以ㇾ酒。時或劇飮大醉。頽然自放。而憂國之念。未二甞頃刻忘一也。間居講ㇾ學。以三懲ㇾ忿ㇾ慾。不二敢與ㇾ世抗一爲ㇾ務。廼號二其所ㇾ居之菴一。曰二修靜一。以自警。謂修ㇾ身在ㇾ此。而成ㇾ名亦在ㇾ此。敎授之暇。專二力著述一。始君臧著二革弊賦役等諸論一。號曰二今書一。以規二當世得失一。至ㇾ是更撰二職官志一。欲下以ㇾ次編二神祇姓族等志一。與二山陵一併爲中九志上。未ㇾ及二悉成一。文化十年癸酉七月五日。以ㇾ疾歿ㇾ于二江戶僑居一。享年四十有六。

君臧壯而丁二家艱一。服除遊二歷四方一。故晚而娶。其配多氏。紅葉山伶官某之女。無ㇾ子。君臧之歿也。其交遊尤親且舊者。相聚而哭ㇾ之曰。斯人也。作二山陵志一者。其於二葬祭之禮一。最致ㇾ意焉。不幸無ㇾ嗣。襄事之責在二朋友一。其可ㇾ不ㇾ盡ㇾ心乎。廼葬二之江戸北郊谷中龍興山臨江寺域内一。以下余與二君臧一相識最久上也。託以二表墓之文一。廼書以遣ㇾ之。使三之鑱二諸石一曰。

嗚呼君臧。常以二關東布衣一自稱。雖ㇾ不ㇾ免二阨窮一。猶爲二天下奇男子一。豈可乙與下閭里儒梟。號稱二先生一者上同ㇾ年而語甲哉。吾聞其臨ㇾ終。尙稱二天地之正氣一。且有二三寶之說一云。留三精靈於二天地之間一。將下俟二其人一而授上ㇾ之。古之所ㇾ謂死而不ㇾ兦者。其君臧之謂邪。噫。微二斯人一吾誰與歸。

文政元年歲在戊寅秋八月

  墓石 縱曲尺三尺四寸餘 橫曲尺壱尺二寸五分  碑文 一千八百六十一言 篆額題目撰者姓名共十有三字  統計一千八百八十六字

解云。墓表則稱二其私諡一。予記文則稱二其號一。此以ㇾ有ㇾ所ㇾ忌故也。乙酉冬十一月廿三日。予攜二興繼一到二臨江寺一。謁二亡友蒲生子之墓一。卽便薦二行潦一祭ㇾ之。祭訖以二蠟墨一搨二拓碑文一。未二兩三頁一。短景旦暮。倉卒之際。磨減之多。還ㇾ家視ㇾ之。不ㇾ易ㇾ讀者過半矣。因推ㇾ文以ㇾ意謄寫焉。恐有二誤字一。俟二異日再搨一當二校訂一者也。

乙酉の、しはす、ついたち、「兎園小說集」の滿筵にあるじして、竟宴のこゝろをよめる、

書きつめしふみをばなにゝおはすべきゝはあそはぬ菟道の友垣   解

おなじ折、興繼に代りて、おなじこゝろを、

宇治のきみのすさみに似たることの葉もながめにうとき冬の花園

兎園小說 終

注

写本の位置
写本は3172の50カット目左ページから65カット目右ページまで。50カット目左ページの冒頭に「蒲の花かたみ 上」の題があり、65カット目右ページの末尾は結びの和歌二首と「兎園小說 終」で終わる。65カット目左ページ以降は白紙、66カット目左ページは図書館の貸出票が貼られた遊紙、67カット目と裏表紙が続き、本文はない。
注記
60カット目左ページの冒頭から漢文の「蒲生君臧墓表」が始まる。それまでは仮名交じりの和文の伝記で、53話59カット目右ページあたりに脩静庵(蒲生君平)と小澤蘆庵の問答の場面がある。全体を通して段落は内容の切れ目ごとに分けたもので、写本の行替えを一行ごとに数えたものではない。
校合
本文は私家版(Blog鬼火)の底本と大きくは違わないが、二点だけ写本に合わせて改めた。ひとつは漢文の「而不ㇾ顧也」の後で、私家版の底本(吉川弘文館随筆大成版)は「有下一學士、操二文柄一爲三世所二貴重一者上、憫二君臧一而救ㇾ之曰、儒生喜論ㇾ事、固不ㇾ足ㇾ怪、草野之人不ㇾ知二忌諱一、亦何足二深罪一、置而不ㇾ問、可也」と続くが、私家版の注が示すとおり兎園小説本文はここが「故時人目二君臧一以二狂妄一、殆將ㇾ罹二不測之罪一、盖或有下知二君臧之爲一ㇾ人者上、憫而救ㇾ之」と異なるので、後者を採った。もうひとつは末尾の拓本の記で、私家版の本文冒頭の引用は「薦二行澄一祭ㇾ之」とし、末尾の書き下し文は「薦二行潦一」とするが、読みが「にはたづみ」であることから「行潦」で統一した。いずれも半ページの画像で漢字の並びを確かめたのみで、原寸切り出しでの確認はしていない。
校合
冒頭の和文部分「久かたの日影に」から「實に、をろかなるべし」までと、それに続く「文政八年乙酉冬十二月朔」の書きおろしの日付は、私家版が「曲亭雜記」を底本とすると注記する箇所だが、兎園小説の写本そのものにも同じ文面があるので、写本の文字面をそのまま採った。
校合
「かの御社」以下、脩静庵の伝記の本文中、句上げの引用や独白はもとの私家版の鉤括弧をおおむね踏襲した。割注(〔 〕で示した二箇所)は「氏を蒲生に改めけり」の後の一条と、蘆庵の話中の「等持院」「長嘯子」の二条で、写本では小字二行で入る。
校合
漢文の墓表と跋の本文は訓点を写本のまま保った。読みやすい本文の書き下しは、写本の返り点に従って雲亭で起こし、私家版の書き下しは照合にだけ使った。
注記
「蒲の花かたみ」の題は目録では「蒲の花かたみの上」とあるが、本文の見出しは「蒲の花かたみ 上」で、「上」は下巻を予告する体裁だが、兎園小説はここで正編全十二集が終わるため下巻は存在しない。
注記
「久かたの日影に」で始まる序と、脩静庵(蒲生君平)の伝記、漢文の「蒲生君臧墓表」、馬琴の跋文にあたる拓本の記、結びの和歌二首は、いずれも著作堂(曲亭馬琴)の自筆で、話者名の記載はない。目録には「著作堂」とある。
校合
人名地名の同定はおおむね私家版の考証に拠った。「小澤蘆庵」「等持院」「長嘯子」「藤田一正」「淡海文忠公」などの実在の確認は雲亭では行っておらず、未確認として扱う。

AI試訳 / 専門家未校閲