伊香保の額論
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兎園小説 / 曲亭馬琴ほか 兎園会の会員 / 第一集 第4話 / 松蘿館 西原好和 述
千葉周作の額奉納に、馬庭念流の七百人。
本文 現代語訳
文政六年の事なりき。上毛高崎のほとりを徘徊する一刀流の剣術者に、千葉周作といふものあり。その技、鬼神にひとしといひもてふらして、弟子を集め威を逞しくする程に、同じ州なる引間村に浦八といふものありて、これと交はること浅からず。そが中には念流破門の弟子さへあるを、かたらひつつ、その年の四月八日に、伊香保の湯前の薬師堂に、門人らの姓名をことごとく記したる額を掛け奉らんとて、しめしあはすることありけり。この周作は浪人なれども、実は若州小浜の家臣にて、由緒も正しく、かつ剣術の名人なれば、公儀にもしろしめされ、執政がたの御免を蒙りて諸国修行に出でたれば、このたび額奉納の事なども御内意を受けたりと偽りけるとぞ。
文政六年のことである。上野の高崎あたりを回っていた一刀流の剣術者に、千葉周作という者がいた。その技は鬼神に等しいと言いふらして弟子を集め、勢いを強めるうちに、同じ国の引間村に浦八という者がいて、これと深く付き合った。その中には念流を破門された弟子までいるのを仲間に引き入れ、その年の四月八日に、伊香保の湯前の薬師堂へ、門人たちの名前をすべて記した額を掛けて奉納しようと、申し合わせた。この周作は浪人だが、実は若狭小浜藩の家臣で、由緒も正しく、そのうえ剣術の名人なので、幕府にも知られ、老中方の許しを受けて諸国修行に出ている、だから今回の額奉納なども内々の了解を得ている、と偽ったという。
この事、同州馬庭の念流に志厚かりける若者ども伝へ聞きて、恐るること大かたならず。こはまったく念流を侮りたる心より、かかるわざをばするならん。そもそも馬庭村なる念流は、天正年中より相続して師家に代々達人出でて、その術を学ぶもの今もなほ千人に下らず。他郷より来つるもの、いかばかりの事やある。われわれが手並みの程を見知らせずばあるべからずと、ひそかに示し合はするのみ。師家〔樋口十郎左衛門といふ〕へは絶えてこの事を告げ知らせず。そが中にも赤堀なる本間仙太郎は、その身の取り立てたる弟子およそ六、七十人を率ゐて、伊香保の宿に推し登る。東は平塚、田部井の郷党栄八が子〔名を忘る〕十五歳、なほ少年なりけれども、この者を頭として大竹新兵衛つき従ふ。この一群は四、五十人、同じ所へ馳せ集ふ。このほか吾妻の里人ら、最寄り最寄りに頭を立てて、みな劣らじとぞ集まりける。
このことを、同じ国の馬庭の念流に志の厚い若者たちが伝え聞いて、大いに恐れた。これはまったく念流を侮る心から、こんなことをするのだろう。そもそも馬庭村の念流は天正年間から続き、師の家に代々達人が出て、その術を学ぶ者は今も千人を下らない。よそから来た者に何ほどのことがあるか。我々の手並みを思い知らせなければならない、とひそかに示し合わせるばかりで、師の家〔樋口十郎左衛門という〕には一切知らせなかった。その中でも赤堀の本間仙太郎は、自分が取り立てた弟子およそ六、七十人を率いて伊香保の宿へ押し上った。東では平塚と田部井の郷党である栄八の子〔名は忘れた〕が十五歳でまだ少年だったが、この者を頭にして大竹新兵衛が付き従った。この一群は四、五十人で、同じ所へ駆け集まった。そのほか吾妻の里人たちも、それぞれ近所ごとに頭を立て、皆負けまいと集まった。
されば、この伊香保の宿に湯亭十二軒あるを、すべて大屋と唱へたり。そのほか、くさぐさの商人らは、かの十二軒の支配を受けて世渡りをするとなん。その大屋なるものの小槫武太夫と呼ばるるは、こたび千葉周作が額奉納の宿なれば、ただこの所をのみ除きて、その余の湯亭十一軒をみな借り尽くして宿とせり。このよし馬庭に聞こえしかば、樋口はいたく驚きながら、今さらとどめんよしのなければ、内弟子などを引き連れて、事の進退制止のため伊香保をさして行く程に、これを見、これを聞くともがらは、すは馬庭の先生も乗り出し給ふはとて、なほあちこちより馳せ出でて、伊香保の宿に集まるもの、おほよそ七百余人に及べり。かかりし程に七日になりぬ。この日、千葉周作は弟子どもをあまた率ゐて伊香保をさして来る程に、かの人、この体たらくをその途にて聞きしかば、さうなくは進みかねて、その夜は野宿したりとぞ。
さて、この伊香保の宿には湯宿が十二軒あり、すべて「大屋」と呼ばれている。そのほかのさまざまな商人たちは、この十二軒の支配を受けて暮らしを立てているという。その大屋のうち小槫武太夫と呼ばれる家は、今回千葉周作が額奉納のために泊まる宿なので、この一軒だけを除き、残りの湯宿十一軒をすべて借り切って宿とした。このことが馬庭に聞こえると、樋口はひどく驚いたが、今さら止めるすべもないので、内弟子などを引き連れ、事の成り行きを抑えるために伊香保へ向かった。これを見聞きした者たちは「馬庭の先生も乗り出されたぞ」と、さらにあちこちから駆け出し、伊香保の宿に集まる者はおよそ七百人余りに及んだ。そうするうちに七日になった。この日、千葉周作は弟子を大勢率いて伊香保へ向かっていたが、この有様を途中で聞いて、さすがに進みかね、その夜は野宿したという。
五日、六日のころよりも罵り騒ぎし事なれば、岩鼻の御陣屋へも大かたならず聞こえにけん、御代官より差紙もて新町宿なる本陣と宿役人を召し寄せて、その顛末を尋ね給ひ、また伊香保なる周作が宿のあるじ武太夫をも召し寄せて、これかれに問ひ糺し給ひ、額奉納をとどむべき旨を仰せ渡されたりければ、事たちまちに無異に属して鎮まるに似たれども、千葉方にてもまた怒りて、かくはこたびの催しを妨げしたる樋口の奴原、捨ておくべきにあらずとて、引間村なる浦八が宿所にみなみな集まりて、談合評議まちまちなるよし伊香保へ告ぐるものありければ、樋口も、今この時に至りて一足も引くべからず、おのおの覚悟あるべしとて、なほも伊香保の宿にをりて、敵推し寄せて乱妨せば撃ち果たさんこと勿論なり、しかれどもこなたよりはやりて手出しすべからずと、いと厳重に下知しけり。
五日、六日のころから罵り騒いでいたので、岩鼻の御陣屋にもすっかり聞こえたのだろう、御代官は召喚状で新町宿の本陣と宿役人を呼び寄せてその顛末を尋ね、また伊香保の周作の宿の主人武太夫をも呼び寄せてあれこれ問い糺し、額奉納をやめるようにと申し渡した。そこで事はたちまち無事に収まり、鎮まったかに見えた。ところが千葉方もまた怒り、「今回の催しを妨げた樋口の連中を捨ててはおけない」と、引間村の浦八の宿所に皆が集まり、相談があれこれ分かれているという知らせが伊香保へ届いた。樋口も「今この時に至って一歩も引いてはならない。各自覚悟せよ」と言って、なおも伊香保の宿にとどまり、「敵が押し寄せて乱暴すれば討ち果たすのは当然だ。しかしこちらから逸って手出しをしてはならない」と、ごく厳重に命じた。
はじめはただ穏便に制せられたるのみなりしに、今この指図を受けしより、おのおの得たり、かしこしとて、まづ一番に赤堀の仙太郎が、ぬば玉の夜の目じるしにとて、白布の鉢巻に同じ色なる襷して、樽を床几に尻うち掛けて、わが弟子どもを左右に従へ、敵や寄すると待ちたりける。その時の面、頬髭に一軍の大将めきて、いと物々しく見えたりとて、人々後にいひ出でて互ひに笑ひけるとなん。かくて樋口を本陣として、おのおの隅取り紙をもて合印とし、合図を定め列を正して、用意とりどりなしける程に、その日も既に暮れしかば、あちこちの山林に鉄砲をうち響かせ、ほら貝を鳴らしつつ、推し寄せ来つべき勢ひあり。事、大変になりもやせんと思はざるものなかりける。かかりける程に、岩鼻なる御代官所より人を出だし、制止を加へて双方をおし鎮め、和睦させんとし給ふものから、大勢の事にて思ひ込みたる事なれば、速やかに受け引かず、互ひにちっとも引かずして八日、九日と過ごす程に、御代官より厳密に制し給ふてしばしばなれば、双方やうやく納得して、十日に伊香保を引き退きて、おのおの家路に帰りしとぞ。
はじめはただ穏便に抑えられていただけだったが、今この指図を受けてからは、皆「よし、心得た」と、まず一番に赤堀の仙太郎が「暗い夜の目印に」と白布の鉢巻に同じ色の襷をして、樽を床几代わりに腰を掛け、自分の弟子たちを左右に従えて、敵が寄せて来るのを待ち構えた。そのときの顔つきは頬髭もあって一軍の大将めき、いかにも物々しく見えたと、人々は後になって語り合い、互いに笑ったという。こうして樋口を本陣とし、各自が隅取り紙を合印にして合図を決め、列を整えてめいめい用意をするうちに、その日も暮れた。あちこちの山林に鉄砲を撃ち響かせ、ほら貝を鳴らしながら、今にも押し寄せて来そうな気配がある。「大事になるのではないか」と思わない者はなかった。そうするうちに岩鼻の御代官所から人が出て、制止を加えて双方を押し鎮め、和睦させようとしたが、大勢のことで思い込んでいたので、すぐには受け入れず、互いに少しも引かないまま八日、九日と過ぎた。御代官が厳しく何度も制したので、双方ようやく納得し、十日に伊香保を引き払って、めいめい家路についたという。
ちなみにいふ。伊香保の宿に八左衛門といふものあり。こは武太夫と同家なり。八左衛門は既に没して、この時後家持ちの世帯なりしに、いとかひがひしき婦人なれば、手早く家財を取り片づけて、みづから隙なく立ちめぐり、手代、下女らにいひつけて手ごろの石を多く拾はせ、これを二階に積みのぼせ、また灰を紙に包みて木鉢などにあまた入れおき、かかる折には間者などの忍び寄ることあるものなれば、みな油断すべからずとて、庭の木の蔭、雪隠までもうちめぐりけるとなん。また阿久津村なる左市といふものは、去年十月江戸四谷にて親の仇安兵衛を撃ち取りたる左市が養父なり。この者も樋口の弟子なりければ、かの日伊香保の群れにあり。そのとき先生に向かひていふやう、このたびの先陣はそれがしに仰せ付けられ下さるべし。剣術未熟に候へば、先輩を打ち越えて憚りあるに似たれども、死にくらべをせん時に至らば、それがしに及ぶもの一人も候はじとて、広言を吐きしとぞ。
ついでに言う。伊香保の宿に八左衛門という者がいる。武太夫と同じ一族である。八左衛門はすでに亡くなり、このときは後家が持つ所帯だったが、たいへん甲斐甲斐しい婦人で、手早く家財を片づけ、自ら休みなく立ち回り、手代や下女に言いつけて手ごろの石をたくさん拾わせて二階に積み上げ、また灰を紙に包んで木鉢などにたくさん入れておき、「こういう折には間者などが忍び寄ることがあるから、皆油断してはならない」と言って、庭の木の陰から便所まで見回ったという。また阿久津村の左市という者は、去年十月に江戸四谷で親の仇の安兵衛を討ち取った左市の養父である。この者も樋口の弟子だったので、その日伊香保の群れの中にいた。そのとき先生に向かって言うには、「このたびの先陣はそれがしにお命じください。剣術は未熟ですから先輩を差し置くのは憚りがあるようですが、命の比べ合いとなれば、それがしに及ぶ者は一人もいますまい」と大言を吐いたという。
そもそも樋口念流の初祖は、応永のころ相馬四郎義元より伝へ来て、七代永禄のころ友松兵庫助氏宗の門人樋口又四郎定次皆伝して、今の樋口定雄まで九代、上毛馬庭村に在住して、世々剣術をもて家声を落とさず、世に稀なるべき名家なり。定雄は予と同甲子にて、今茲六十五歳、なほ矍鑠たり。予かつてこの門に入りて剣法を学びし故に、件の事の趣は上毛なる同門人より伝へ聞きたるをしるすのみ。今この昇平の世に、軽薄浮靡のともがらの義を捨て利に走れるも多かる中に、かかる愉快の事もありきと、おろおろ思ひ出づるにも老いの寝覚めを慰めたり。さてもこれらの事の趣は、そのはじめ激しかりしに、思ひしよりは後いと安く、万死を出でて一生を得たる果ては、笑ひの種にぞなりける。こは初春の話にはめでたしといふべからん。
そもそも樋口念流の初祖は、応永のころ相馬四郎義元から伝わり、七代目、永禄のころに友松兵庫助氏宗の門人樋口又四郎定次が皆伝して、今の樋口定雄まで九代、上野の馬庭村に住み、代々剣術をもって家名を落とさない、世に稀な名家である。定雄は私と同じ年の生まれで、今年六十五歳、なお元気である。私はかつてこの門に入って剣法を学んだので、この出来事のあらましは上野の同門の人から伝え聞いたものを記すだけである。今この太平の世に、軽薄で浮ついた者たちが義を捨てて利に走ることも多い中で、こんな痛快なこともあったのだと、おぼろに思い出すにつけても、老いの寝覚めの慰めになった。それにしても、この事の成り行きは初めこそ激しかったが、思ったよりも後はごく穏やかで、万死の中から一命を拾った結末は、笑い話の種になった。これは初春の話としては、めでたいと言ってよいだろう。
文政八年の春正月 梭江しるす
文政八年の春正月 梭江しるす
原文 / 昭和女子大学本の字句を採り、正字体を保持、振り仮名を外す
伊香保の額論 松蘿館述
文政六年の事なりき。上毛高崎のほとりを徘徊する一刀流の劒術者に、千葉周作といふものあり。その伎鬼神にひとしといひもてふらして、弟子を集め威を逞くする程に、おなじ州なる引間村に浦八といふものありて、これと交ること淺からず。そが中には念流破門の弟子さへあるを、かたらひつゝ、その年の四月八日に伊香保の湯前の藥師堂に、門人等の姓名を悉く識したる額を掛け奉らんとて、しめしあはすることありけり。この周作は浪人なれども、實は若州小濱の家臣にて、由緖も正しく、且劒術の名人なれば、公儀にもしろしめされ、執政がたの御免を蒙りて諸國修行に出たれば、此度額奉納の事なども御内意を受たりと僞りけるとぞ。
この事同州馬庭の念流に志厚かりける若ものども傳へ聞て、恐るゝこと大かたならず。こは全く念流を侮りたるこゝろより、かゝるわざをばするならん。抑馬庭村なる念流は、天正年中より相續して師家に代々達人出て、その術を學ぶもの今もなほ千人に下らず。他鄕より來つるもの、いかばかりの事やある。われわれが手なみの程を見しらせずばあるべからずと、竊に示し合するのみ。師家〔樋口十郎左衞門と云〕へは絕てこの事をつげしらせず。そが中にも赤堀なる本間仙太郎は、その身のとり立たる弟子凡六七十人を將て、伊香保の宿に推登る。東は平塚田部井の鄕黨榮八が子〔名を忘る〕十五歲、なほ少年なりけれども、このものを頭として大竹新兵衞つきしたがふ。この一むれは四五十人、おなじ所へ馳つどふ。この餘吾妻の里人等、向寄々々に頭を立てゝ、みな劣らじとぞ集りける。
されば此伊香保の宿に湯亭十二軒あるを、悉て大屋と唱へたり。その他くさぐさの商人等は、彼十二軒の支配を受て世わたりをするとなん。その大屋なるものゝ小槫武太夫と呼ばるゝは、こたび千葉周作が額奉納の宿なれば、只この所をのみ除きて、その餘の湯亭十一軒をみな借り盡して宿とせり。このよし馬庭に聞えしかば、樋口はいたく驚きながら、今さらとゞめんよしのなければ、内弟子なんどを引つれて、事の進退制止の爲伊香保をさして行程に、これを見これを聞くともがらは、すは馬庭の先生も乘出し給ふはとて、なほあちこちよりはせ出てゝ、いかほの宿に集るもの大凡七百餘人に及べり。かゝりし程に七日になりぬ。この日千葉周作は弟子どもをあまた將て伊香保をさして來る程に、かの人この體たらくをその途にて聞きしかば、さうなくはすゝみかねて、その夜は野宿したりとぞ。
五日六日のころよりも罵りさわぎし事なれば、岩鼻の御陣屋へも大かたならず聞えにけん、御代官より差紙もて新町宿なる本陣と宿役人を召しよせて、その顚末をたづね給ひ、又伊香保なる周作が宿のあるじ武太夫をも召よせて、これ彼に問糺し給ひ、額奉納をとゞむべき旨を仰わたされたりければ、事忽に無異に屬して鎭るに似たれども、千葉方にても亦怒りて、かくはこたびの催を妨したる樋口の奴原捨おくべきにあらずとて、引間村なる浦八が宿所にみなみな集りて、談合評議區々なるよし伊香保へ告るものありければ、樋口も今この時に至りて一あしも引べからず、各覺悟あるべしとて、なほも伊香保の宿にをりて、敵推よせて亂妨せば撃果さんこと勿論なり、しかれどもこなたよりはやりて手出すべからずと、いと嚴重に下知しけり。
はじめは只穩便に制せられたるのみなりしに、今この指圖をうけしより、おのおの得たりかしこしとて、先一番に赤堀の仙太郎が、ぬば玉の夜の目じるしにとて、白布の鉢卷におなじ色なる襷して、樽を牀几に尻うちかけて、わが弟子どもを左右に從へ、敵や寄すると待たりける。その時の面ほゝひげに一軍の大將めきて、いと物々しく見えたりとて、人々後にいひ出てゝ互に笑ひけるとなん。かくて樋口を本陣として、各すみとり紙をもてあひじるしとし、合圖を定め列を正して、用意とりどりなしける程に、その日も既にくれしかば、あちこちの山林に鐵砲をうち響かせ、ほら貝を鳴らしつゝ、推よせ來つべき勢ひあり。事大變になりもやせんと思はざるものなかりける。かゝりける程に、岩鼻なる御代官所より人を出し、制止を加へて双方をおし鎭め、和睦させんとし給ふものから、大勢の事にて思ひ込たる事なれば、速にうけ引かず、互に些もひかずして八日九日と過す程に、御代官より嚴密に制し給ふてしばしばなれば、双方やうやく納得して、十日に伊香保を引退きて、おのおの家路にかへりしとぞ。
因にいふ。伊香保の宿に八左衞門といふものあり。こは武太夫と同家なり。八左衞門は既に沒して、この時後家もちの世帶なりしに、いとかひがひしき婦人なれば、手ばやく家財を取りかたづけて、みづから隙なく立めぐり、手代下女等にいひつけて手ごろの石を多く拾はせ、是を二階につみのぼせ、又灰を紙に包みて木鉢などにあまた入れおき、かゝる折には間者などのしのびよることあるものなれば、みな油斷すべからずとて、庭の木の蔭雪隱までもうちめぐりけるとなん。又阿久津村なる左市といふものは、去年十月江戸四谷にて親の仇安兵衞を撃とりたる左市が養父なり。此ものも樋口の弟子なりければ、かの日伊香保のむれにあり。そのとき先生にむかひていふやう、此たびの先陣は某に仰付られ下さるべし。劒術未熟に候へば、先輩をうち越て憚あるに似たれども、死にくらべをせん時に至らば、某に及ぶもの一人も候はじとて、廣言を吐しとぞ。
抑樋口念流の初祖は、應永のころ相馬四郎義元より傳へ來て、七代永祿のころ友松兵庫助氏宗の門人樋口又四郎定次皆傳して、今の樋口定雄まで九代、上毛馬庭村に在住して、世々劒術をもて家聲を落さず、世に稀なるべき名家なり。定雄は予と同甲子にて、今茲六十五歲なほ矍鑠たり。予甞てこの門に入て劒法を學びし故に、件の事の趣は上毛なる同門人より傳へ聞たるをしるすのみ。今この昇平の世に、輕薄浮靡のともがらの義を捨て利に走れるも多かる中に、かゝる愉快の事もありきと、おろおろ思ひ出るにも老のねざめを慰めたり。さてもこれらの事の趣は、そのはじめはげしかりしに、おもひしよりは後いと安く、萬死を出て一生を得たる果は、笑ひの種にぞなりける。こは初春のはなしにはめでたしといふべからん。
文政八年の春正月 梭江しるす
注
- 写本の位置
- 写本は3167の19カット目右ページ2行目から23カット目右ページまで。23カット目右ページの後半から第5話「神主長屋惣八が事」が始まる。段落の区切りは雲亭による。
- 校合
- 「事の進退制止の爲」は写本の読み。活字本系テキストは「車の進退制止」とする。写本を採った。
- 校合
- 「ぬば玉の夜の目じるしに」は写本の読み。活字本系テキストは「夜の月しるしに」とする。白い鉢巻と襷を夜の目印にしたと解し、写本を採った。
- 校合
- 「相馬四郎義元」「友松兵庫助氏宗」「皆傳して」「予と同甲子」「一生を得たる」「めでたしといふべからん」は写本の読み。活字本系テキストはそれぞれ「義定」「兵庫頭」「皆、傳へて」「子と同甲子」「一生得たる」「めでたしくといふべからん」とする。写本を採った。「兵庫助」は原寸で確かめたが、「義元」はページ全体の画像での読みで、原寸の確認は未了。
- 校合
- 「小槫」の振り仮名は写本では「コクレ」と読める。活字本系テキストは「ヲダレ」とする。振り仮名は原文欄から外したので、ここに記す。
- 注記
- 松蘿館は西原好和の号。末尾の署名「梭江」も同人の号。念流の門人でもあった。
- 注記
- 千葉周作は北辰一刀流を開いた剣術家で、文政五年に江戸で道場を開いた。馬庭念流は上野国馬庭村の樋口家が伝える流派で、この額の一件は流派の名を世に知らせた出来事として知られる。
- 注記
- 岩鼻の御陣屋は上野国岩鼻の幕府代官所。新町宿は中山道の宿場。伊香保の湯前の薬師堂は伊香保温泉の鎮守にあたる。
AI試訳 / 専門家未校閲