雲亭日本古典図書室収録作品の一覧

ひやうし考 并に図説

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兎園小説 / 曲亭馬琴ほか 兎園会の会員 / 第一集 第6話 / 著作堂 滝沢馬琴

松前の馬は轡を使わない。木の鑣子と綱一組を実物と図で考証する。

本文 現代語訳

ひやうし考 著作堂手稿
ひやうし考 著作堂の手稿
定家卿『鷹三百首』の「武蔵野の駒に付けて引く縄のうち並びたる小鷹犬かな」といふ歌の注に云ふ、「関東は馬上にて使ふに、轡の音高ければ鳥寄せぬゆゑ、ひやうしといふ木を当てて乗る」となり。「引く縄」とは犬のやり縄の事、口の止まりたる犬なれば鷹に並べるといふ歟と見えたり。〔この書は第一春、第二夏、第三秋。右の歌は小鷹の部第二首めにあり。〕このひやうしといふものを心得がたく思ひしに、奥の松前にては馬に轡を用ゐず、ひやうしといふものをかけて乗るとありと伝へ聞きしかば、このごろ興継をもて松前老君に問ひまつりしに、老君すなはち家臣船尾吉蔵といふものにひやうし一具を作らしつ、手簡一通を添へて賜はせし、その書に云ふ、
定家卿の『鷹三百首』にある「武蔵野の駒に付けて引く縄の、うち並びたる小鷹犬かな」という歌の注に、こうある。「関東では馬上で鷹を使うが、轡の音が高いと鳥が寄らないので、ひやうしという木を当てて乗る」。「引く縄」とは犬の遣り縄のことで、口の止まった犬だから鷹と並べる、という意味かと見える。〔この書は第一が春、第二が夏、第三が秋。右の歌は小鷹の部の二首目にある。〕この「ひやうし」というものが理解できずにいたところ、奥州の松前では馬に轡を用いず、ひやうしというものをかけて乗るのだと伝え聞いた。そこで先ごろ興継を通じて松前の老君にお尋ねしたところ、老君はすぐに家臣の船尾吉蔵という者にひやうし一組を作らせ、手紙一通を添えて下さった。その手紙にいう。
このひやうし拵へ候は、旧領松前より西在五里離れ候て、ヱラマチ村の百姓なり。村役にて一と年、中間奉公に出で候。然る処、築川へ引き取り候節より故郷へ帰らず、当年まで江戸屋敷に勤め居り候。下々ながら志これあるもの故、当春取り立て、大小差させ候身分にいたし候。当時は船尾吉蔵と申し候。この者、村方に居り候時は馬十二ばかり持ち、これを渡世にいたし候。当地へ参り候は三十一歳のときなり。当年は四十歳になり候。古風の荒ものとて、馬に乗り候は裸馬、子供の時より得ものなり。山谷を馬場同様に心得候ものなり。この者に拵へさせ候故、正真なり。
このひやうしを拵えた者は、旧領松前から西へ五里離れたヱラマチ村の百姓です。村役として一年、中間奉公に出ました。ところが築川へ引き取った折から故郷へ帰らず、今年まで江戸屋敷に勤めています。身分は低いながら志のある者なので、この春に取り立て、大小の刀を差させる身分にしました。今は船尾吉蔵と申します。この者は村にいたころ馬を十二頭ばかり持ち、それを生業にしていました。江戸へ来たのは三十一歳のときで、今年は四十歳になります。古風の荒者で、馬に乗るのは裸馬、子供のころからの得意です。山や谷を馬場と同じ心得で駆ける者です。この者に拵えさせたので本物です。
ひやうしはイタヤといふ木にて造る。綱はシナをよりて用ふ。イタヤもシナもここ許にこれなき故、麻にてよらせ候。〔以上、手簡。〕
ひやうしはイタヤという木で造ります。綱はシナを縒って用います。イタヤもシナもこちらにはないので、麻で縒らせました。〔以上、手紙。〕
ひやうしの事、これによりてはじめてつばらかなる説を得たり。今その物を展覧に備ふるをもて、ここに図せず。諸君、図せんとならば、席上にても写し易かるべし。思ふに、馬にひやうしをかくること、定家卿のころまでは松前のみならで、関東にてはおさおさありけんかし。よりてまた按ずるに、『義経記』土佐坊夜討の段に「草摺のしころなるひやうし、鎧の札よきに」云々といふこと見えたり。『平義器談』〔下巻〕にこれを引きて、「ひやうし鎧、つまびらかならず。これは誉めたる詞にて、威毛などのことにはあらず。これは弁慶が馬に乗りて土佐坊を召しにゆくときの有様をいふなり。草摺のしころなるといふによりて見れば、馬の歩むにつれて、ひやうしよく草摺の鳴る音あるをいへるにや。古の鎧は草摺の裏に革をも布をも当てねば、馬の歩むにつれて草摺踊りて音あるべし」といはれたれども、このひやうしも馬の足掻きの拍子にはあらで、馬にはひやうしをかけ、さてまた鎧は札よきを着たる弁慶がありさまをいへるもの歟。さらずば、当時、鎧の草摺を馬のひやうしに模したる威しざまありて、それをひやうし鎧といひしかも知るべからず。いづれまれ、安斎翁は馬にひやうしかけたることを知らずやありけん。そは千慮の一失なるべし。さて、かの『鷹三百首』にも『義経記』にも「ひやうし」とのみありて、正字詳らかならず。真名には「鑣子」と書くべきにや。よのつねなるを「くつわ」といひ、木鑣を「ひやうし」〔すなはち鑣子なり〕といひけん。関東の方言なるべし。しかれども、軍陣夜討の折、人すら枚を含むといへば、馬には必ずこのひやうしをかけて、よのつねならんと思ひしもあれど、ひやうしは関東のみに限るべきにあらねども、関東は軍陣夜討の時ならでも、鷹狩などの折、多く馬にこれをかけたるなるべし。野作人は今も裸馬に乗る故に、馬にはひやうしをかくるといへり。当初、関東騎馬の形勢、これらによりて知るべし。
ひやうしのことは、これによって初めて詳しい説明が得られた。今、実物を回覧に供するので、ここには図を載せない。諸君が図にしたいなら、この席でも容易に写せるだろう。思うに、馬にひやうしをかけることは、定家卿のころまでは松前だけでなく、関東でもたいていあったのだろう。そこでさらに考えると、『義経記』の土佐坊夜討の段に「草摺のしころなるひやうし、鎧の札よきに」云々とある。『平義器談』〔下巻〕はこれを引いて、「ひやうし鎧は不明である。これは誉め言葉で、威毛などのことではない。弁慶が馬に乗って土佐坊を召しに行くときの姿をいったものだ。草摺がしころのようだというのを見ると、馬の歩みにつれてひやうしよく草摺の鳴る音がするのをいったのか。古い鎧は草摺の裏に革も布も当てていないから、馬が歩くにつれて草摺が踊って音がしたのだろう」と言っている。しかしこのひやうしも馬の足掻きの拍子のことではなく、馬にはひやうしをかけ、そのうえ鎧は札のよいものを着た弁慶の姿をいったものではないか。そうでなければ、当時、鎧の草摺を馬のひやうしに似せた威し方があって、それをひやうし鎧と呼んだのかもしれない。どちらにしても、安斎翁は馬にひやうしをかけたことを知らなかったのだろう。それは千慮の一失というべきである。さて、あの『鷹三百首』にも『義経記』にも「ひやうし」とだけあって、正しい字ははっきりしない。漢字では「鑣子」と書くべきか。ふつうのものを「くつわ」といい、木の鑣を「ひやうし」〔つまり鑣子である〕と呼んだのだろう。関東の方言であろう。ただし、軍陣の夜討ちの折には人でさえ枚を口に含むというから、馬には必ずこのひやうしをかけるのが世の常だったのだろうと思ったこともある。だからひやうしは関東だけに限るものではないが、関東では夜討ちの時でなくても、鷹狩などの折に多く馬にこれをかけたのだろう。蝦夷の人は今も裸馬に乗るので、馬にはひやうしをかけるという。当初の関東の騎馬の様子は、これらによって知ることができる。
ついでにいふ。『南留別志』五に、「火の用心と呼ぶは、火あやふしといふことなり。『本朝文粋』に見ゆ。拍子木も火危木なり」といへり。夜行翁は〔和名、火アヤフシ〕『和名抄』にも見えたれど、ひやうし木を火危木なりといはれしは信じがたし。『易』の繋辞下伝に「重門に析を撃ち、以て暴客を待つ。蓋しこれを豫に取れり」と見えたる析はひやうし木なり。こは唐山の制度なるものから、天朝にも古よりかかる例あるべし。しかれば、ひやうし木を夜行翁の撃つものとのみせんは非なり。その形、元来、馬のひやうしに似たれば、やがて「鑣子木」といへる俗語ならん。物には「梆子木」とも書けり。これらは後世、文字ひらけしより字を当てたるなり。愚按も必ずとはしがたけれども、こは試みにいふのみ。
ついでにいう。『南留別志』の五に、「火の用心と呼ぶのは、火あやうしということである。『本朝文粋』に見える。拍子木も火危木である」とある。夜行翁は〔和名は火アヤフシ〕『和名抄』にも見えるけれども、ひやうし木を火危木だと言われたのは信じがたい。『易』の繋辞下伝に「幾重もの門に析を打ち鳴らし、それで暴客に備える。これは豫の卦から取ったのであろう」とある析がひやうし木である。これは中国の制度であるが、日本にも古くからこうした例があったはずだ。だから、ひやうし木を夜行翁の打つものとだけ考えるのは誤りである。その形はもともと馬のひやうしに似ているので、そのまま「鑣子木」という俗語になったのだろう。書物には「梆子木」とも書いている。これらは後世に文字が広まってから字を当てたのである。私の考えも確かとは言いがたいが、試みに言ってみるだけである。
右の考は、拙著『玄同放言』禽獣部、名馬の条下に記し付けんと思ふこと久し。しかれども、その書いまだ稿を続がざりければ、ここに略抄す。遺漏なほあるべし。早春、俗事蝟集して筆を取るいとまなきを、けふのまとゐにものせんとて、巳牌より机案に向かひて、亭午にははや稿し果てたり。かの「兵は拙速を貴ぶ。久しくして後に巧みなるを貴ばず」といへることの心にも似たらんかと、そぞろに自笑して毫をとどむ。時に乙酉春正月十四日なり。
右の考えは、拙著『玄同放言』の禽獣部、名馬の条に書き付けようと長く思っていた。しかしその書はまだ続稿を書けていないので、ここに要約した。漏れはまだあるだろう。早春は雑事が押し寄せて筆を取る暇もないのに、今日の集まりに出そうと巳の刻から机に向かい、正午にはもう書き終えた。あの「兵は拙速を貴ぶ。時間をかけて巧みになるのを貴ばない」という言葉の心にも似ているかと、われながら苦笑して筆を置く。時に乙酉春正月十四日である。
滝沢解識
滝沢解 識す
鑣子の事、その図なくば、この書を見ん人の思ひ惑ふこともあるべし。程経て後、興継に描かして、ここに載するもの左の如し。
鑣子のことは、図がなければこの書を見る人が迷うこともあるだろう。しばらくして後、興継に描かせてここに載せるものは左のとおりである。
一 ひやうしの事、松前にてはイタヤをもて造るといふ。〔イタヤは漢名いまだ考へ得ず。木蘭の和名イタ井といへり。木蘭すなはち木蓮なり。これ歟。なほ尋ぬべし。〕長さ曲尺にて八寸六分、横幅上にて一寸三分弱、下にて一寸六分。綱を通すの穴三つ、そのうち上と中央の穴は方なり。〔中央の穴は少し大きし。〕下の穴は円なり。表は中を高くす。裏は平斉なり。裏のかたは馬の頬に当つればなり。但し木の厚さ〔上の方は中にて五分なり、端にては二分五厘。下の方は中にて六分なり、端にては四分。〕
一 ひやうしは、松前ではイタヤで造るという。〔イタヤの漢名はまだ分からない。木蘭の和名をイタ井というそうだ。木蘭は木蓮である。これだろうか。なお調べるべきである。〕長さは曲尺で八寸六分、横幅は上で一寸三分弱、下で一寸六分。綱を通す穴が三つあり、そのうち上と中央の穴は四角である。〔中央の穴は少し大きい。〕下の穴は丸い。表は中央を高くする。裏は平らである。裏側を馬の頬に当てるからである。ただし木の厚さ〔上の方は中央で五分、端で二分五厘。下の方は中央で六分、端で四分。〕
一 木環二つ、造る所の木、左の如し。内一つはその形、半ば扁なり。長さ二寸一分、扁の肩あり、下まで一寸五分。綱を通す穴の長さ一寸、横六分なり。また一つはその形、方なり。長さ二寸六分、横幅一寸二分、木の厚さ各五分。綱を通す穴二つ、その穴の径り六分。穴の四方をくりて、なだらかにす。綱の摺れて切れぬためなり。
一 木環二つ。造る木は左のとおり。うち一つは形が半ば平たい。長さ二寸一分、平たい肩があり、下まで一寸五分。綱を通す穴は長さ一寸、横六分。もう一つは形が四角い。長さ二寸六分、横幅一寸二分、木の厚さは各五分。綱を通す穴が二つあり、穴の径は六分。穴の四方をえぐってなだらかにする。綱がこすれて切れないためである。
一 うなじ綱、長さ二尺四寸余。〔これをわがねて二つにす。長さ各一尺二寸余。結び目二つあり。〕
一 うなじ綱、長さ二尺四寸余り。〔これを折り返して二重にする。長さ各一尺二寸余り。結び目が二つある。〕
一 手綱の長さ、木環より別に作るもの、およそ七尺九寸。上のひやうしを貫くもの、長さ一尺九寸ばかり。これらの綱は一筋づつ用ふ。
一 手綱の長さ。木環から別に作るものは、およそ七尺九寸。上のひやうしを貫くものは、長さ一尺九寸ほど。これらの綱は一筋ずつ用いる。
一 上の方、ひやうしを繋ぐ綱は、古き絹の裂をもて綱を分けてこれを巻く。〔馬の鼻づらに当たるところなるによりてなり。〕左右へ開くこと三寸八分。この他はすべて図中に見えたり。
一 上の方でひやうしをつなぐ綱は、古い絹の裂で綱を分けて巻く。〔馬の鼻づらに当たる場所だからである。〕左右へ開くこと三寸八分。そのほかはすべて図に見える。
〔図一 ひやうし全図〕此処、馬の鼻づらに当つるをもて、絹の裂にて巻くなり。巻くさまは別にある図に見ゆ。/この索は細し。下の索の半ばなり。二筋づつ用ふればなり。右に同じ。/馬にかくるに、長ければ引き詰め、短ければ伸ばすべし。盈縮脩短、このところを透きて自由にす。/此処は馬の頂にかくる。次の図に見えたり。/この索は太し。二筋ともに大てい一寸めぐりなり。
〔図一 ひやうし全図〕ここは馬の鼻づらに当てるので、絹の裂で巻く。巻き方は別の図に見える。/この索は細い。下の索の半分の太さである。二筋ずつ用いるからである。右に同じ。/馬にかけるとき、長ければ引き詰め、短ければ伸ばす。伸ばし縮めは、この部分を通して自由にする。/ここは馬の頂にかける。次の図に見える。/この索は太い。二筋ともにおよそ一寸まわりである。
〔図二〕鑣子を馬にかくること、かくの如し。
〔図二〕鑣子を馬にかけるのはこのとおりである。
〔図三 ひやうし寸尺細注〕〔測るに曲尺をもてす。この他もみなこれに倣ふ。〕厚さ中にて五分、端にて二分五厘。/此処、ひやうしの穴へ入る。/この間の空き五分弱。/これすなはち馬の鼻づらに当つるところなり。二筋の綱を分けて裂を当て巻くこと、かくの如し。/長さ八寸六分。/この穴、中央。/この間の空き六分。/横一寸六分。/厚さ中にて六分、端にて四分。/ひやうしの寸尺、右にあらまし記すなり。
〔図三 ひやうし寸尺細注〕〔測るには曲尺を用いる。ほかもみな同じ。〕厚さは中央で五分、端で二分五厘。/ここをひやうしの穴へ入れる。/この間の空きは五分弱。/これが馬の鼻づらに当たるところである。二筋の綱を分けて裂を当てて巻くこと、このとおり。/長さ八寸六分。/この穴が中央。/この間の空きは六分。/横一寸六分。/厚さは中央で六分、端で四分。/ひやうしの寸法は右におおよそ記した。
〔図四 同木環図〕厚さ五分弱、上下相同じ。/二寸一分。/ここより下まで一寸五分。/一寸二分弱。/厚さ五分。/二寸六分。/穴の径り六分、二つともに相同じ。但し四方をくりて、綱の切れぬためなり。/一寸二分。
〔図四 同じく木環の図〕厚さ五分弱、上下同じ。/二寸一分。/ここから下まで一寸五分。/一寸二分弱。/厚さ五分。/二寸六分。/穴の径六分、二つとも同じ。ただし四方をえぐるのは、綱が切れないためである。/一寸二分。
〔図五 同うなじ綱寸尺〕長さ、ひやうしの穴まで一尺二寸余。但しこの長短は馬の小大肥痩によりて盈縮あるべし。/この結び目の間一寸六分、左右相同じ。/この結び目の間一寸、左右同じ。/ひやうし中央。
〔図五 同じくうなじ綱の寸尺〕長さは、ひやうしの穴まで一尺二寸余り。ただしこの長短は馬の大小や肥え痩せによって伸び縮みがあるはずだ。/この結び目の間は一寸六分、左右同じ。/この結び目の間は一寸、左右同じ。/ひやうしの中央。
右の内、中二つの木環は、さのみ必用のものにはあらず。これただ綱の結ぼれぬため、また縒りの戻らぬためなりといふ。然らばこれも有用のものにて、必ずなくばあるべからず。このひやうしの図説は拙著『玄同放言』第三集に載すべきものなり。これ故にしばらく帳中の秘とすといへども、同好親友のために、ここに重ねて略抄す。諸君、願はくはこの義をもて他見を憚りたまはせといふ。
右のうち、中の二つの木環はそれほど必要なものではない。これはただ綱がもつれないため、また縒りが戻らないためだという。それならこれも有用なもので、必ずなくてはならない。このひやうしの図説は拙著『玄同放言』第三集に載せるべきものである。そのためしばらく手元の秘とするが、同好の親友のためにここに重ねて要約した。諸君、どうかこの事情を汲んで他見をはばかってくださるよう願う。
乙酉夏四月初四 著作堂解再識
乙酉夏四月四日 著作堂解 再び識す
『北海随筆』に云ふ、「楓を蝦夷人はタラベニといふ。松前にてはイタヤといふ。本邦の楓より大葉なり」といへり。〔下巻、夷言の条に見えたり。〕これにてイタヤは楓なるよしを知るものから、なほ心もとなければ、このごろ松前の医官牧村右門、訪ひ来し折、この一条を挙げて質問せしに、牧村が云ふ、「イタヤはすなはち楓の事なり。その葉はよの常の楓より大きく、その樹は松前に多くあり。蝦夷の地にはいよいよ多かり。よりて松前にて薪にすなるは皆イタヤなり」といへり。よりて思ふに、『大和本草』にその葉を図したる大楓のたぐひなるべし。またひやうしの綱によるといふシナの事を尋ねしに、牧村が云ふ、「シナといへるも木の皮なり。その皮をもて索にすれば麻よりも強し。シナは松前にて文字には板に作るものあり。当否は知らず侍り」といふ。〔今按ずるに、『正字通』に「极は音桀、驢の背上の木、物を負ふなり。㭕はすなはち笈に作る」と。かかればシナの木に板と書けど、その義にかなはず。まさに拷に作るべし。〕
『北海随筆』にいう。「楓を蝦夷の人はタラベニという。松前ではイタヤという。日本の楓より葉が大きい」。〔下巻、夷言の条に見える。〕これでイタヤが楓であることは分かるものの、まだ心もとないので、先ごろ松前の医官牧村右門が訪ねて来た折にこの一条を挙げて質問した。牧村が言うには、「イタヤは楓のことです。葉はふつうの楓より大きく、その木は松前に多くあります。蝦夷の地にはいっそう多い。だから松前で薪にするのはみなイタヤです」。そこで思うに、『大和本草』に葉を図示した大楓のたぐいだろう。またひやうしの綱に縒るというシナのことを尋ねると、牧村は「シナというのも木の皮です。その皮で索を作ると麻より強い。シナは松前で文字には板と書くこともあります。正しいかどうかは知りません」と言った。〔今考えるに、『正字通』に「极は音が桀、驢馬の背の上の木で、物を負うもの。㭕は笈と書く」とある。だからシナの木に板と書いても意味が合わない。まさに拷と書くべきである。〕
原文 / 昭和女子大学本の字句を採り、正字体を保持、振り仮名を外す

ひやうし考 著作堂手稿

定家卿鷹三百首、武藏野の駒に付て引繩のうちならびたる小鷹犬かなといふ歌の注に云、關東は馬上にてつかふに、くつわの音高ければ鳥よせぬゆゑ、ひやうしといふ木をあてゝ乘るとなり。引繩とは犬のやり繩の事、口のとまりたる犬なれば鷹にならべるといふ歟と見えたり。〔この書第一春第二夏第三秋。右の歌は小鷹の部第二首めにあり。〕此ひやうしといふものをこゝろ得がたく思ひしに、奧の松前にては馬に轡をもちひず、ひやうしといふものをかけて乘るとありと傳へ聞しかば、このごろ興繼をもて松前老君に問まつりしに、老君すなはち家臣船尾吉藏といふものにひやうし一具をつくらしつ、手簡一通をそへて賜はせし、その書に云、

此ひやうし拵候は、舊領松前より西在五里はなれ候て、ヱラマチ村の百姓なり。村役にて一ト年中間奉公に出候。然處築川へ引取候節より故鄕へ不歸、當年まで江戸屋敷に勤居候。下々ながら志有之もの故、當春取立、大小さゝせ候身分にいたし候。當時は船尾吉藏と申候。此もの村方に居候時は馬十二ばかり持、これを渡世にいたし候。當地へ參り候は三十一歲のとき也。當年は四十歲になり候。古風の荒ものとて、馬に乘り候は裸馬、子供の時より得もの也。山谷を馬塲同樣にこゝろ得候もの也。此ものに拵させ候故正眞なり。

ひやうしはイタヤといふ木にて造る。綱はシナをよりて用ふ。イタヤもシナもこゝ許に無之故、麻にてよらせ候。〔以上手簡。〕

ひやうしの事、これによりてはじめてつばらかなる說を得たり。今そのものを展覽に備ふるをもて、こゝに圖せず。諸君圖せんとならば、席上にてもうつし易かるべし。おもふに馬にひやうしをかくること、定家卿のころまでは松前のみならで、關東にてはおさおさありけんかし。よりて又按ずるに、義經記土佐坊夜討の段に、草摺のしころなるひやうし、鎧の札よきに云々といふこと見えたり。平義器談〔下卷〕にこれを引て、ひやうし鎧つまびらかならず、是は譽たる詞にて威毛などのことにはあらず、是は辨慶が馬に乘りて土佐坊を召しにゆくときの有樣をいふなり、草摺のしころなるといふによりて見れば、馬のあゆむにつれてひやうしよく草摺の鳴音あるをいへるにや、古の鎧は草摺の裏に革をも布をもあてねば、馬のあゆむにつれて草摺おどりて音あるべしといはれたれども、此ひやうしも馬の足搔の拍子にはあらで、馬にはひやうしをかけ、さて又鎧は札よきを着たる辨慶がありさまをいへるもの歟。さらずば當時鎧の草摺を馬のひやうしに模したる威しざまありて、それをひやうし鎧といひしかもしるべからず。いづれまれ安齋翁は馬にひやうしかけたることをしらずやありけん。そは千慮の一失なるべし。扨かの鷹三百首にも義經記にもひやうしとのみありて、正字詳ならず。眞名には鑣子と書くべきにや。よのつねなるをくつわといひ、木鑣をひやうし〔卽鑣子也〕といひけん。關東の方言なるべし。しかれども軍陣夜討のをり、人すら枚を含むといへば、馬には必このひやうしをかけて、よのつねならんとおもひしもあれど、ひやうしは關東のみに限るべきにあらねども、關東は軍陣夜討の時ならでも、鷹狩などの折多く馬に是をかけたるなるべし。野作人は今も裸馬に乘る故に、馬にはひやうしをかくるといへり。當初關東騎馬の形勢、これらによりてしるべし。

ついでにいふ、南留別志五に、火の用心とよぶは火あやふしといふことなり、本朝文粹に見ゆ、拍子木も火危木なりといへり。夜行翁は〔和名火アヤフシ〕和名鈔にも見えたれど、ひやうし木を火危木なりといはれしは信じがたし。易ノ繫辭下傳に、重門擊析、以待暴客、蓋取諸豫と見えたる析はひやうし木なり。こは唐山の制度なるものから、天朝にもいにしへよりかゝる例あるべし。しかればひやうし木を夜行翁の擊つものとのみせんは非なり。其形元來馬のひやうしに似たれば、やがて鑣子木といへる俗語ならん。物には梆子木とも書り。これらは後世文字ひらけしより字をあてたるなり。愚按も必とはしがたけれども、こは試にいふのみ。

右の考は拙著玄同放言禽獸部名馬の條下にしるしつけんとおもふこと久し。しかれどもその書いまだ稿を續ざりければ、こゝに略抄す。遺漏なほあるべし。早春俗事蝟集して筆をとるいとまなきを、けふのまとゐにものせんとて、巳牌より机案にむかひて、亭午にははや稿し果たり。かの兵貴拙速、不貴久而後巧といへることのこゝろにも似たらんかと、そゞろに自笑して毫をとゞむ。時に乙酉春正月十四日なり。

瀧澤解識

鑣子の事、その圖なくば、この書を見ん人の思ひまどふこともあるべし。程經て後興繼に畫かして、こゝに載するもの左の如し。

一 ひやうしの事、松前にてはイタヤをもて造るといふ。〔イタヤは漢名いまだ考へ得ず。木蘭の和名イタ井といへり。木蘭卽木蓮なり。これ歟。猶たづぬべし。〕長サ曲尺にて八寸六分、横幅上ミにて一寸三分弱、下モにて一寸六分。綱をとほすの穴三ツ、そのうち上ミと中央の穴は方なり。〔中央の穴は少し大きし。〕下モの穴は圓なり。表は中を高くす。裏は平齊なり。裏のかたは馬の頰にあつればなり。但シ木の厚サ〔上ミの方は中にて五分なり、端にては二分五厘。下モの方は中にて六分なり、端にては四分。〕

一 木環二ツ、造る所の木左の如し。内一ツは其形半扁なり。長サ二寸一分、扁の肩あり、下まで一寸五分。綱をとほす穴の長サ一寸、横六分なり。又一ツは其形方也。長サ二寸六分、横幅一寸二分、木の厚サ各五分。綱をとほす穴二ツ、その穴の徑り六分。穴の四方をクリてなだらかにす。綱の摺れてきれぬ爲なり。

一 うなぢ綱、長サ二尺四寸餘。〔これをわがねてふたつにす。長サ各一尺二寸餘。むすびめ二ツあり。〕

一 手綱の長サ、木環より別につくるもの、およそ七尺九寸。上ミのひやうしを貫くもの、長サ一尺九寸許。これらの綱は一すぢづゝ用ふ。

一 上ミの方ひやうしを繫ぐ綱は、古き絹の裂をもて綱をわけて是をまく。〔馬の鼻つらにあたるところなるによりてなり。〕左右へひらくこと三寸八分。この他はすべて圖中に見えたり。

〔圖一 ひやうし全圖〕此處馬の鼻つらにあつるをもて、きぬの裂にてまくなり。まくさまは別にある圖に見ゆ。/此索は細し。下の索のなかばなり。二すぢづゝ用ふれば也。右におなじ。/馬にかくるに、長ければ引つめ、短ければのばすべし。盈縮脩短このところをすきて自由にす。/此處は馬の頂にかくる。次の圖に見えたり。/此索はふとし。二すぢ共に大てい一寸めぐりなり。

〔圖二〕鑣子を馬にかくることかくの如し。

〔圖三 ひやうし寸尺細注〕〔はかるに曲尺をもてす。この他もみなこれにならふ。〕厚サ中ニテ五分、端ニテ二分五厘。/此處ひやうしのあなへ入る。/此間のあき五分弱。/これ則馬の鼻つらにあつるところなり。二すぢの綱をわけて裂をあてまくこと、かくの如し。/長サ八寸六分。/此穴中央。/此間のあき六分。/横一寸六分。/厚サ中ニテ六分、端ニテ四分。/ひやうしの寸尺、右にあらまし記すなり。

〔圖四 同木環圖〕厚サ五分弱、上下相同シ。/二寸一分。/こゝより下まで一寸五分。/一寸二分弱。/厚サ五分。/二寸六分。/穴ノ徑リ六分、二ツ共ニ相同シ。但シ四方ヲクリテ、綱のきれぬ爲なり。/一寸二分。

〔圖五 同うなぢ綱寸尺〕長サひやうしの穴まで一尺二寸餘。但此長短は馬の小大肥瘦によりて盈縮あるべし。/此結びめの間一寸六分、左右相仝じ。/此結びめの間一寸、左右仝し。/ひやうし中央。

右の内中二ツの木環は、さのみ必用のものにはあらず。是只綱のむすぼれぬ爲、又よりのもどらぬ爲なりといふ。然らば是も有用のものにて、必なくばあるべからず。此ひやうしの圖說は拙著玄同放言第三集に載すべきものなり。是故にしばらく帳中の秘とすといへども、同好親友の爲にこゝにかさねて略抄す。諸君ねがはくはこの義をもて他見をはゞかりたまはせといふ。

乙酉夏肆月初四 著作堂解再識

北海隨筆に云、楓を蝦夷人はタラベニといふ。松前にてはイタヤといふ。本邦の楓より大葉なりといへり。〔下卷夷言の條に見えたり。〕これにてイタヤは楓なるよしをしるものから、猶心もとなければ、此頃松前の醫官牧村右門訪來し折、此一條を擧て質問せしに、牧村が云、イタヤは卽楓の事也。その葉はよの常の楓より大きく、その樹は松前に多くあり。蝦夷の地にはいよいよ多かり。依て松前にて薪にすなるは皆イタヤなりといへり。よりておもふに、大和本草にその葉を圖したる大楓のたぐひなるべし。又ひやうしの綱によるといふシナの事をたづねしに、牧村が云、シナといへるも木の皮なり。その皮をもて索にすれば麻よりもつよし。シナは松前にて文字には板に作るものあり。當否はしらず侍りといふ。〔今按ずるに、正字通、极音桀、驢背上木負物也。㭕卽作笈と。かゝればシナの木に板とかけど、その義にかなはず。當に拷に作るべし。〕

注

写本の位置
写本は3167の24カット目左ページから32カット目右ページまで。29カット目から31カット目右ページまでが図で、31カット目左ページに末尾の署名、32カット目右ページに北海随筆の追考がある。32カット目左ページから第7話「百姓幸助身代り如来の記」が始まる。
校合
校合に使った私家版テキストの底本は明治二十三年刊の曲亭雑記で、写本や日本随筆大成とは図と説明の順序が違う。曲亭雑記では北海随筆の追考が寸法の前に入るが、写本では末尾にある。原文は写本の順序に従った。
注記
「馬には必このひやうしをかけて、よのつねならんとおもひしもあれど、ひやうしは關東のみに限るべきにあらねども」は写本の読み。曲亭雑記系のテキストは「馬には、必、この「ひやうし」は、關東にのみ限るべきにあらねど」とする。「よのつねならんと」はくずし字からの推定で、判読を保留する。
注記
「手簡一通をそへて賜はせし」は写本の読み。曲亭雑記系は「取そへて」とする。原寸で確かめたが、字の一部が薄い。
注記
「物には梆子木とも書り」の「梆」は写本の字形からの読み。曲亭雑記系は「鑣子木」と同じ字を繰り返す。梆子は中国の拍子木の名で、文脈に合う。
注記
「イタヤをもて造るといふ」は写本の読み。曲亭雑記系は「をして」とする。
注記
「醫官牧村右門」は写本の読み。曲亭雑記系は「醫師」とする。
注記
木環の横幅「一寸二分」は写本と随筆大成の読み。曲亭雑記系は「一寸六分」とする。図四の「二寸六分」も写本の読みで、曲亭雑記の図は「二寸五分」とする。
注記
「中央の穴は少し大きし」の割注は随筆大成にあり、写本でも同じ位置に小字の注があるが、原寸では確かめていない。
注記
「諸君ねがはくはこの義をもて他見をはゞかりたまはせといふ」は随筆大成の本文に従った。写本にも同じ位置に一文があるが、「はゞかり」の部分は判読を保留する。曲亭雑記にはこの一文がない。
注記
「瀧澤解識」の署名は写本と随筆大成にあり、曲亭雑記にはない。末尾の「著作堂解再識」は写本のとおり。
注記
図の説明文は、図中の書き込みを右上から順に「/」で区切って並べた。図一は馬具一式、図二は馬の後ろ姿にひやうしをかけた図、図三はひやうし本体の寸法、図四は木環二つ、図五はうなじ綱の寸法。
注記
定家卿鷹三百首は藤原定家に仮託された鷹の歌集。平義器談は伊勢貞丈の武具の考証書で、安斎翁は貞丈の号。南留別志は荻生徂徠の考証随筆。北海随筆は坂倉源次郎の蝦夷地見聞録。玄同放言は馬琴自身の考証随筆で、第三集は未刊に終わった。
注記
興継は馬琴の子の滝沢宗伯興継。松前老君は前松前藩主の松前道広と解した。人物の特定は雲亭の推定で未確認。
注記
乙酉は文政八年。本文は正月十四日の兎園会当日の午前中に書き上げ、図説は同年四月四日に追加した。

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