雲亭日本古典図書室収録作品の一覧

百姓幸助身代り如来の事

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兎園小説 / 曲亭馬琴ほか 兎園会の会員 / 第一集 第7話 / 著作堂 滝沢馬琴

上野で刀が肩をかすめた同じ夕方、宿の阿弥陀の掛け軸が斬られて血を流した。

本文 現代語訳

百姓幸助身代り如来の事
百姓幸助の身代わり如来のこと
信濃国水内郡久保寺村 百姓 清助事 幸助 申四十二才
信濃国水内郡久保寺村 百姓 清助こと幸助 申年生まれ、四十二歳
この幸助が〔幸助は太田氏なり。その清助といひしは、文化中、江戸の高家に仕へし時の名なり。よりて江戸にては清助と呼べり。〕叔父なりける者の世にありし程、同村正覚院月輪寺〔号は紫慶山。善光寺の行願所なり。〕へ大般若経を寄進せんと思ひ立ちつつ、あちこちと勧縁したれども、田舎の事なれば事ゆかず、わづかに六七巻を寄進せし程に、その身はまかりたり。これにより幸助は叔父の遺志を継ぎて、かの経を勧縁せんとて、今茲文政七年の秋、江戸に出でて、白壁町金八店、紙商人安兵衛といふ者の家を旅宿にしつつ、逗留数日に及びけり。
この幸助の〔幸助は太田氏である。清助という名は、文化年間に江戸の高家に仕えたときの名で、江戸では清助と呼ばれている。〕叔父という者が存命のころ、同村の正覚院月輪寺〔山号は紫慶山。善光寺の行願所である。〕へ大般若経を寄進しようと思い立ち、あちこちと寄進を募ったが、田舎のことなので事が進まず、わずか六、七巻を寄進したところで亡くなった。そこで幸助は叔父の遺志を継ぎ、この経の寄進を募るために今年文政七年の秋に江戸へ出て、白壁町金八店の紙商人安兵衛という者の家を宿にして、数日逗留していた。
その故郷を去るときに、善光寺へ参詣して如来を拝み奉り、「某、云々の宿願あるにより、こたび江戸に赴かんとす。わが母は齢すでに八十にあまれり。願ふは宿願成就して帰り来ん日まで、母のつつがなからん事を守らせ給へ」と念じつつ、すなはち阿弥陀の画像一幅を買ひ取りたり。かくして江戸に至りて、旅宿の棚に件の仏像をかけ奉りて、日ごとに拝み、朝暮に灯明を揚げなどするに、その身、他にゆきて帰りの遅き日は、「必ず御あかしを参らせ給へ」と旅宿のあるじに頼みしかば、その心を得て、しかしてけり。
故郷を出るとき、善光寺に参詣して如来を拝み、「私にはこれこれの宿願があり、このたび江戸へ向かいます。母はもう八十を超えています。どうか宿願を果たして帰る日まで、母が無事でいるようお守りください」と念じ、そのうえで阿弥陀の画像を一幅買い求めた。こうして江戸に着くと、宿の棚にその仏像をかけ、毎日拝み、朝夕に灯明を上げるなどしていた。よそへ出かけて帰りの遅い日は「必ず御灯明を上げてください」と宿の主人に頼んでいたので、主人も心得てそのとおりにしていた。
かかりし程に、九月晦日になりぬ。幸助はこの日、日本橋なる須原屋がり赴きて、買ひ取りたりける大般若経十巻ばかりを背負ひつつ、なほ元三大師の遷座を拝まんとて東叡山に参る程に、はや申の時ばかりなりければ、参詣の群集、道去りあへず、辛うじて拝み果てたる帰さに、雪踏の尻を踏まれてうつぶしに倒るる折、わが後なりける武士の、かれも人に押し倒されて、臥したる上にまろばんとする程に、脇差の刀、鞘走りて抜け出でて、幸助が肩のあたりへひらめき飛びて落ちたりけり。さりけれども幸ひに身を傷つけらるるに至らずして、ただ経巻を包みたる風呂敷の、左の肩に当たりたる所は切れたり。「いと危かりき」と思ふものから、身に恙なかりしかば、深く恐れ慎むまでもなく、またその帰さにあちこちと知る人がり立ち寄りて、日暮れて宿に帰りにけり。
そうするうち九月晦日になった。幸助はこの日、日本橋の須原屋へ行って買った大般若経十巻ほどを背負い、さらに元三大師の遷座を拝もうと上野の東叡山に参ったところ、もう申の刻ごろで、参詣の群衆が道を埋めていた。やっと拝み終えた帰り道、雪駄の尻を踏まれてうつぶせに倒れた拍子に、後ろにいた武士も人に押し倒され、倒れた幸助の上に転がりかかった。そのとき武士の脇差が鞘走って抜け出て、幸助の肩のあたりへひらめき飛んで落ちた。しかし幸い体には傷がつかず、ただ経巻を包んだ風呂敷の、左肩に当たっていた部分だけが切れていた。危なかったとは思ったものの、体は無事だったので深く恐れて慎むこともなく、帰りにあちこち知り合いのところへ立ち寄り、日が暮れてから宿に帰った。
その黄昏に、宿なるあるじはかの幸助が阿弥陀の仏像に御あかしを参らするとて、ふと仰ぎ見つるに、仏像の掛け物おのづからにまろび落ちて横たはりければ、いぶかりながら急ぎ上げ見るに、掛け物は半ば斫られて、仏の肩より血流れたり。「こはいかに」とばかりに、驚き怪しむこと限りなし。さてあるべきにあらざれば、隣れる人々にも告げ知らせて打ち語らふに、「こは幸助が上に凶事ありけんを、御仏の示させ給ふならん。さればとて迎への人を遣はさんにも、さして行方は定かならぬをいかがはせん。なほも利益を願ふこそよかめれ」とて、近きほとりにをる法師を招きて、阿弥陀経を読ませなどする程に、幸助帰り来にければ、人みなその無異を祝して、云々と告げ知らするに、幸助聞きて、かつ驚き、かつ尊みて、感涙を拭ひあへず。「けふ上野にてありつる事、云々なり」と説き示せば、「さてはこの御仏の身代はりに立ち給ひしなり」とて、人々はじめて霊験利益の合期したるを悟りきとぞ。
その夕暮れ、宿の主人は幸助の阿弥陀の仏像に灯明を上げようとしてふと見上げると、仏像の掛け物がひとりでに転げ落ちて横たわっていた。不審に思いながら急いで持ち上げてみると、掛け物は半ばまで斬られ、仏の肩から血が流れていた。「これはどうしたことか」と驚き怪しむことこの上ない。放っておけることではないので、隣近所の人々にも知らせて相談すると、「これは幸助の身に凶事があったのを御仏がお示しになったのだろう。とはいえ迎えを出そうにも行き先がはっきりしない。どうしようもないから、なおも御利益を願うのがよかろう」ということになり、近くに住む法師を招いて阿弥陀経を読ませるなどしていた。そこへ幸助が帰ってきたので、人々はみな無事を祝い、これこれと告げ知らせた。幸助は聞いて驚き、また尊く思って、感涙を拭いきれない。「今日、上野でこういうことがありました」と説き明かすと、「ではこの御仏が身代わりに立ってくださったのだ」と、人々ははじめて霊験と御利益が符合したことを悟ったという。
去ぬる十月十一日、神田平永町なる本屋山崎平八、あわただしくわが隠居に来て、「文化中、やつがれが手代なりける清助といふ者、こたみ信濃より来にたるに、一奇談侍るなり。その故は云々なり」とて、上に記しし趣を物語りして、「けふなん、かの御仏を人々に拝ませんとて、清助を招き寄せたり。いざ、ゆきて見給へ」といふ。しかれども、おのれはまこととも思はざりしかば、まづ試みに老婆と下女とを遣はして見せ、次にせがれを遣はしたるに、「相違あらず」といへり。よりて最後にゆきて見たるに、画像は所々の俗家にある印行の仏像にて、三尊の弥陀なり。左右に観音、勢至、下には月海長者夫婦の侍るもの、こは善光寺にて三四十文に売り与ふといふ田舎表具の掛け物なり。さてよく見るに、向かひて右の方、表具の外れより船護毫をかけて阿弥陀の肩先まで、よく切るる刃物もて切りたるごとく、斜に切れて、仏の肩より血の滴りし事一寸弱、横三四分なるべし。おのれが見つるときは、はや十日ばかり経たれば、その血に黒みあり。いかに見ても血潮に紛れなし。奇なりといふべし。件の掛け物は、幸助が曩に善光寺にて三十六銅にて受けて持て来ぬる物なれば、いと新しく見えたり。幽冥の事は得て論ずべくもあらぬを、かかる奇特あるを思ふに、これ孝感の致すところ歟。
去る十月十一日、神田平永町の本屋山崎平八があわただしく私の隠居所へ来て言った。「文化年間に私の手代だった清助という者が、このたび信濃から出てきまして、ひとつ奇談がございます。それはこういうわけで」と上に記した話を語り、「今日はその御仏を人々に拝ませようと清助を呼び寄せてあります。ぜひ行ってご覧ください」と言う。しかし私は本当とも思えなかったので、まず試しに老妻と下女をやって見せ、次に倅をやったところ、「相違ありません」と言う。そこで最後に自分で行って見ると、画像はそこらの町家にある印刷の仏像で、三尊の弥陀である。左右に観音と勢至、下に月海長者夫婦が控えているもので、善光寺で三、四十文で売っているという田舎表具の掛け物である。よく見ると、向かって右側、表具の端から船護毫にかけて阿弥陀の肩先まで、よく切れる刃物で切ったように斜めに切れており、仏の肩から血が滴った跡が縦一寸弱、横三、四分ほどある。私が見たときはもう十日ほど経っていたので、血は黒ずんでいた。どう見ても血潮に間違いない。奇怪というほかない。この掛け物は幸助が先に善光寺で三十六文で受けて持ってきたものなので、まだ真新しく見えた。幽冥のことは論じられるものではないが、こうした奇特があるのを思うと、これは孝行の心が天に通じた結果だろうか。
この事、彼此に聞こえしかば、日ごとに持て歩きて拝ます程に、一日の賽銭三四貫文づつあり。これによりて大般若経のたやすく成就すべき勢ひなるに、なほ十巻二十巻の施主たらんといふ者あまたあり。十一月に至りては、はや三百巻あまり買ひ得たりといふ。かかれば程なく全部すべし。かの幸助は今なほ江戸にあり。逗留、春を迎ふといふ。疑ふ者あらば、渠が旅宿にゆきて問ふべし。
このことがあちこちに聞こえたので、毎日持ち歩いて拝ませているうちに、一日の賽銭が三、四貫文ずつになった。これで大般若経はたやすく成就しそうな勢いだが、なお十巻、二十巻の施主になろうという者が大勢いる。十一月にはもう三百巻あまり買い得たという。これなら程なく全部そろうだろう。幸助は今も江戸にいて、春まで逗留するという。疑う者があれば、彼の宿へ行って尋ねるがよい。
文政七年甲申十一月十五日、灯下に識す 神田老逸 隠誉簑笠居士
文政七年甲申十一月十五日、灯火の下で記す 神田老逸 隠誉簑笠居士
幸助は甲申の冬より旅宿を転じて、神田鍛冶町、絵の具あき人大坂屋庄八といふ者に寓居す。またはじめに大般若経勧縁の事を発起せし幸助が叔父を浄泉坊といふ。もとこれ久保寺村正覚院の沙弥なりしとぞ。正覚院の現住を広淐といふなり。
幸助は甲申の冬から宿を移し、神田鍛冶町の絵の具商大坂屋庄八という者のところに寄寓している。また、はじめに大般若経の寄進を募ることを発起した幸助の叔父は浄泉坊という。もとは久保寺村正覚院の沙弥だったそうだ。正覚院の現住職は広淐という。
原文 / 昭和女子大学本の字句を採り、正字体を保持、振り仮名を外す

百姓幸助身代り如來の事

信濃國水内郡久保寺村 百姓 淸助事 幸助 申四十二才

この幸助が〔幸助は太田氏なり。その淸助といひしは、文化中江戸の高家につかへし時の名なり。よりて江戸にては淸助とよべり。〕叔父なりけるものゝ世にありし程、同村正覺院月輪寺〔號紫慶山。善光寺の行願所なり。〕へ大般若經を寄進せんと思ひたちつゝ、あちこちと券緣したれども、田舍の事なれば事ゆかず、纔に六七卷を寄進せし程に、その身はまかりたり。これにより幸助は叔父の遺志を繼て、彼經を券緣せんとて、今茲文政七年の秋江戸に出て、白壁町金八店紙商人安兵衞といふものゝ家を旅宿にしつゝ、逗留數日におよびけり。

その故鄕を去るときに、善光寺へ參詣して如來ををがみ奉り、某云々の宿願あるにより、こたび江戸におもむかんとす。わが母は齡既に八十にあまれり。ねがふは宿願成就してかへり來ん日まで、母のつゝがなからん事を守らせ給へと念じつゝ、すなはち阿彌陀の畫像一幅を買ひとりたり。かくして江戸に至りて、旅宿の棚に件の佛像をかけ奉りて、日每にをがみ、朝暮に燈明を揚げなどするに、その身他にゆきてかへりの遲き日は、必御あかしをまゐらせ給へと旅宿のあるじにたのみしかば、そのこゝろを得てしかしてけり。

かゝりし程に、九月晦日になりぬ。幸助はこの日、日本橋なる須原屋がり赴きて、買ひとりたりける大般若經十卷ばかりを脊おひつゝ、なほ元三大師の遷座ををがまんとて東叡山に參る程に、はや申の時ばかりなりければ、參詣の群集みちさりあへず、辛うじてをがみ果てたるかへさに、雪踏の尻をふまれてうつぶしに倒るゝ折、わがあとなりける武士の彼も人におしたふされて、臥したるうへにまろばんとする程に、脇ざしの刀鞘はしりてぬけ出て、幸助が肩のあたりへひらめき飛びて落ちたりけり。さりけれども幸に身を傷けらるゝに至らずして、只經卷をつゝみたる風呂敷の、左の肩にあたりたる所は切れたり。いと危かりきと思ふものから、身に恙なかりしかば、ふかく恐れつゝしむまでもなく、又そのかへさにあちこちとしる人がり立ちよりて、日くれて宿に歸りにけり。

その黃昏に、宿なるあるじは彼幸助が阿彌陀の佛像に御あかしをまゐらするとて、不圖仰ぎ見つるに、佛像のかけものおのづからにまろびおちて橫たはりければ、いぶかりながらいそぎあげ見るに、かけ物はなかば斫られて、佛の肩より血流れたり。こはいかにとばかりに、驚き怪むこと限なし。さてあるべきにあらざれば、隣れる人々にもつげしらせてうちかたらふに、こは幸助がうへに凶事ありけんを、御佛の示させ給ふならん。さればとて迎の人をつかはさんにも、さしてゆくへは定かならぬをいかゞはせん。なほも利益をねがふこそよかめれとて、ちかきほとりにをる法師を招きて、阿彌陀經をよませなどする程に、幸助かへり來にければ、人みなその無異を祝して、云々と告げ知らするに、幸助聞きて且おどろき、且たふとみて、感淚を拭ひあへず。けふ上野にてありつる事云々なりと說き示せば、扨はこの御佛の身がはりに立ち給ひしなりとて、人々はじめて靈驗利益の合期したるをさとりきとぞ。

いぬる十月十一日、神田平永町なる本屋山崎平八、あはたゞしくわが隱居に來て、文化中やつがれが手代なりける淸助といふもの、こたみ信濃より來にたるに、一奇談侍るなり。その故は云々なりとて、上にしるしゝ趣を物がたりして、けふなん彼御佛を人々にをがませんとて、淸助を招きよせたり。いざゆきて見給へといふ。しかれども、おのれはまことゝも思はざりしかば、まづこゝろみに老婆と下女とを遣して見せ、次にせがれをつかはしたるに、相違あらずといへり。よりて最後にゆきて見たるに、畫像は處々の俗家にある印行の佛像にて、三尊の彌陀なり。左右に觀音勢至、下には月海長者夫婦の侍るもの、こは善光寺にて三四十文に賣り與ふといふ田舍表具のかけ物なり。さてよく見るに、むかひて右のかた、表具のはづれより船護毫をかけて阿彌陀の肩さきまで、よく切るゝ刃ものもて切りたるごとく、はすに切れて、佛の肩より血のしたゝりし事一寸弱、橫三四分なるべし。おのれが見つるときは、はや十日ばかり經たれば、その血にくろみあり。いかに見ても血しほに紛れなし。奇なりといふべし。件のかけ物は、幸助が曩に善光寺にて三十六銅にて受けてもて來ぬるものなれば、いと新らしく見えたり。幽冥の事は得て論ずべくもあらぬを、かゝる奇特あるをおもふに、これ孝感のいたすところ歟。

この事彼此に聞えしかば、日每にもてあるきてをがます程に、一日の賽錢三四貫文づゝあり。これによりて大般若經のたやすく成就すべきいきほひなるに、なほ十卷二十卷の施主たらんといふものあまたあり。十一月に至りては、はや三百卷あまり買ひ得たりといふ。かゝれば程なく全部すべし。彼幸助は今なほ江戸にあり。逗留春をむかふといふ。うたがふものあらば、渠が旅宿にゆきて問ふべし。

文政七年甲申十一月十五日燈下識 神田老逸 隱譽簑笠居士

幸助は甲申の冬より旅宿を轉じて、神田鍛冶町繪の具あき人大坂屋庄八といふものに寓居す。又はじめに大般若經券緣の事を發起せし幸助が叔父を淨泉坊といふ。原是久保寺村正覺院の沙彌なりしとぞ。正覺院の現住を廣淐といふなり。

注

写本の位置
写本は3167の32カット目左ページから36カット目右ページまで。36カット目右ページは署名と追記だけで、第一集はここで終わる。
注記
題は写本の本文で「如來の事」、写本の目録では「如來の記」。原文は本文の表記に従った。
校合
「思ひたちつゝ」は写本の読み。活字本系テキストは「思ひおこしつゝ」とする。原寸で確かめた。
校合
「券緣」は写本の字形のまま。勧進して寄進を募る意の「勸緣」の略字か誤字と解し、読みやすい本文では「勧縁」とした。活字本系テキストも「券緣」で、注に「募緣」の誤判読かとする。写本を見るかぎり字形は「券」で、翻刻の誤りではない。
校合
「券緣せんとて」「江戸に出て」は写本の読み。活字本系は「券緣せん爲に」「江戶に出でゝ」とする。
校合
「如來ををがみ奉り」は写本の読み。活字本系は「をがみけり」とする。「奉り」の字は原寸未確認。
校合
「佛像をかけ奉りて」は写本の読み。活字本系は「かけ奉りつゝ」とする。
判読保留
「鞘はしりてぬけ出て」は写本の読み。活字本系は「鞘はしりぬけ出でゝ」とする。「て」の有無は原寸で見たが字が小さく、判読保留。
校合
「船護毫」は表具の部位らしいが未詳。活字本系も同じ字で不詳とする。
注記
「神田老逸 隱譽簑笠居士」は馬琴の号。文政七年十一月に馬琴が書き、翌年正月十四日の兎園会に持ち寄ったものと解した。「わが隱居」は神田明神下の馬琴の隠居所。
注記
元三大師の遷座は、上野東叡山での慈恵大師良源像の遷座供養と解した。月海長者夫婦は善光寺の本尊を守った本田善光夫婦の別名か。人物の特定は雲亭の推定で未確認。
注記
久保寺村は今の長野市安茂里の久保寺。白壁町は今の千代田区鍛冶町のあたり。

AI試訳 / 専門家未校閲