雲亭日本古典図書室収録作品の一覧

好問質疑

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兎園小説 / 曲亭馬琴ほか 兎園会の会員 / 第二集 第6話 / 好問堂 山崎美成

燕石の故事の出典と正徹の「なかなかに」の歌の出処を、書物を渉猟して問う。

本文 現代語訳

好問質疑
好問質疑
宋の愚人、燕石を得て、これを蔵して以て宝と為す。周の客聞きて往きて観、口を掩ひて笑ひて曰く、「これ燕石なり」と。主人大いに怒り、これを蔵することいよいよ固し。
宋の愚か者が燕石を手に入れ、これをしまい込んで宝とした。周の旅人がこれを聞いて見に行き、口をおおって笑って言った、「これは燕石だ」と。主人は大いに怒って、ますます固くしまい込んだ。
美成、かつてこの故事の来処を捜索するに、『淵鑑類函』に『荀子』を引き、『佩文斎韻府』に『韓非子』を引けり。故に本書につきて検するに、二書ともに載せず。また『瑯琊代酔篇』に『鬫子』といへるものを引きて証とすれども、『鬫子』といふ書名、他書にも引用のものありや知らねど、『四庫全書総目』および古今の叢書に名目だに見えざれば、その書いづれの世、誰の撰といふこと定かならず。またこの故事を載せて『湘中記』『書言故事』を引くといへども、古書にあらざれば証とするに足らず。ここにおいて思ふに、隋珠和璧のごときは古書に多く見えたり。この故事、古書に見えざれば、疑ふらくは後世、類書ひとたび謬りて記ししより、遂にその謬を襲ひ来たりて、世人もまたみだりにその書名によるとのみ思ひたれど、『文心雕龍』を閲するに、「魏氏、夜光を以て怪石と為し、宋客、燕礫を以て宝珠と為す」の二事を引きてもて喩へとす。この書は梁の劉勰が撰する所なれば、その来たれるもまた古しと云ふべし。魏氏が故事は『尹文子』に出でたり。さればこの故事も梁より上がれる世のものに載せたる事は疑ふべからず。いまだいづれの書に出づといふ事を知らず。
美成はかつてこの故事の出典を探したが、『淵鑑類函』は『荀子』を引き、『佩文斎韻府』は『韓非子』を引いている。そこで原書にあたって調べると、二書とも載せていない。また『瑯琊代酔篇』は『鬫子』というものを引いて証拠とするが、『鬫子』という書名は、他の書に引用があるかどうか知らないものの、『四庫全書総目』にも古今の叢書にも名前すら見えないので、その書がいつの時代の誰の撰なのか分からない。またこの故事を載せて『湘中記』や『書言故事』を引くものもあるが、古い書ではないので証拠にならない。ここで思うに、隋侯の珠や和氏の璧のような話は古書に多く見える。この故事が古書に見えないのだから、おそらく後世に類書が一度誤って記してから、その誤りを引き継いできて、世間の人も安易にその書名に従うだけだったのだろうと思っていたが、『文心雕龍』を読んでみると、「魏氏は夜光の珠を怪石とし、宋の旅人は燕の小石を宝珠とした」という二つの事を引いてたとえにしている。この書は梁の劉勰が撰したものだから、この故事の由来もまた古いといえる。魏氏の故事は『尹文子』に出ている。それならばこの故事も、梁よりさかのぼる時代の書物に載っていたことは疑いない。ただ、どの書に出ているのかはまだ分からない。
正月十四日、この兎園会を開きし日、海棠庵にて曲亭子、物語らふ事のついでにこの故事を挙げていへらく、「足下、『燕石雑志』の撰あり。思ふにその来処を詳らかにし給ふべし。願はくは示し給へ」といひしが、後二十一日、書牘の返しに『山海経』を抄出して贈らる〔頭書 解、追つて按ずるに、燕石の故事は『後漢書』応劭伝に出でたり。『正字通』胡字注にも応劭伝を引きたるなり。多貪の学生、あまりに深く求めて『後漢書』を忘れしはいかにぞや〕。実に忠告の志、いとうれしうなん。されど宋人の宝とする故事にあらず。おのれ委しくも物語らず、労し奉るの本意なさに、今思ふよしを右に記し侍る〔頭書 予、当日この事を談合、さらに遺憾とせしよりて、追つて記しおくのみ〕。
正月十四日、この兎園会を開いた日に、海棠庵で曲亭子と話をしたついでにこの故事を持ち出して、「あなたには『燕石雑志』の著作がある。思うにその出典をよくご存じでしょう。どうか教えてください」と言ったところ、後の二十一日、手紙の返事に『山海経』を書き抜いて送ってくださった〔頭書 解が後で考えるに、燕石の故事は『後漢書』応劭伝に出ている。『正字通』の胡の字の注にも応劭伝を引いている。欲張りな学生があまりに深く求めて『後漢書』を忘れたのはどうしたことか〕。実に忠告のお志はたいへんうれしい。しかしそれは宋人が宝とした故事ではない。私が詳しく話さなかったために、お手数をかけたのが申し訳なく、今思うところを右に記しておく〔頭書 私は当日この事を話し合ったが、なお心残りがあったので、後から記しておくだけである〕。
徹書記のころは殊の外乱世なりしに、戯れ歌を詠み給ひしよりさすらひ給ふとなり。その歌に、
徹書記のころは殊のほか乱世であったが、戯れ歌を詠んだためにさすらいの身になったという。その歌は、
なかなかに見ぬもろこしの鳥はいでじ桐の葉落せ秋の夜の月
なかなかに見ぬもろこしの鳥はいでじ桐の葉落せ秋の夜の月 ── どうせ見たこともない唐土の鳥は来はしまい。桐の葉を落としてしまえ、秋の夜の月よ。
この歌の心は、今の世の政事あしきにより世が乱れし、禁裏に植ゑ置く桐は鳳凰の来儀を待たんためなるに、このやうなる政にては鳳凰の来る念はなし。桐の葉を打ち落として秋の夜の月をさはりなく眺めたるがよし。「見ぬもろこしの鳥」は鳳凰なり。この歌の底意は君を謗れる歌なるにより、さすらひしとなり。さる程に、書記の謫処へ歌友達見舞ひけるに、「七月十四日の歌」とて語り給ひし歌、
この歌の心は、今の世の政治が悪いために世が乱れた、禁裏に植えてある桐は鳳凰が来るのを待つためのものなのに、このような政治では鳳凰が来る見込みはない、桐の葉を打ち落として秋の夜の月をさえぎりなく眺めるのがよい、というもので、「見ぬもろこしの鳥」は鳳凰である。この歌の底意は主君をそしる歌なので、さすらうことになったという。そうするうちに、書記の流された所へ歌の友達が見舞ったところ、「七月十四日の歌」といって語った歌が、
なかなかになきたまならばふる郷にかへらんものをけふの夕くれ
なかなかになきたまならばふる郷にかへらんものをけふの夕くれ ── いっそ亡き魂であったなら、今日の夕暮れには故郷へ帰れるものを。
この歌の心は、命あるがつれなし。死にたらば精霊になりてこの夕には帰るべきものを、と、ふる里を恋しく思ひつる心ざし、いとあはれ深し。さてこの歌、禁裏へ聞こえしかば、あはれに思し召して召し返されけりとなり。
この歌の心は、命があるのがかえってつらい、死んでいたら精霊になってこの夕べには帰れるものを、と故郷を恋しく思う心ざしで、たいへん哀れが深い。さてこの歌が禁裏に聞こえたので、お上が哀れに思って呼び戻したという。
美成按ずるに、この故事、人つねにいひ伝へ、『日本古今人物史』にも徹書記伝に「かつて一首の諷詠を以て洛外山科の地に左遷せらる。また一首の愁吟によりて帰洛の喜びに逢ふ」といへるも、この「なかなか」の歌をさしていへるなり。また『和歌詞徳抄』にも見えたり。『草根集』にはこの歌見えず。出処を考ふるに、『百物語』『月苅藻集』などに載せたれど、この書の時代を思ふに、『百物語』に煙草の禁ぜられしをこのころのやうに書きたれば、元和の撰といふべし。『月苅藻集』のはじめに「時に宝永庚寅春これを書す。佚本、寛永午春」とありと記したれば、寛永の頃の記と思はれたり。再び思ふに、『百物語』はやや古しといへども俗書なり。『月苅藻集』は世人かつて知るべきものにあらず。いづれも来処は定めがたし。また『膽草』にこの事を載せて、「四の海おさまりがたきしるしにや雲のうへまでのぼる白波 招月、内裏へ盗人の入りたる時よめり。この類にて左遷せらるる。なかなかになき身なりせば古郷へかへらんものをけふの夕くれ 流罪の内に盂蘭盆によめり。叡聞ありてあはれに思し召し、召し返さる」とあるは、異なる伝にて、初め罪を得し歌変はり、次の「なかなか」の歌も異同あり。この書をあらはしたる佐野紹益は本阿弥光悦が聟にて、搢紳家へも参りしものなれば、伝へ来たれるものありしや。これにては世にいへる「なかなか」の歌にて罪を得、「なかなか」の歌にて召し返さるといへるに合はず。
美成が考えるに、この故事は人がいつも言い伝えていて、『日本古今人物史』の徹書記伝にも「かつて一首の風刺の歌によって洛外の山科の地に左遷され、また一首の愁いの歌によって帰洛の喜びに逢った」とあるのも、この「なかなか」の歌を指して言っている。また『和歌詞徳抄』にも見える。『草根集』にはこの歌は見えない。出処を考えると『百物語』や『月苅藻集』などに載っているが、これらの書の時代を思うと、『百物語』は煙草が禁じられたことをこのころのことのように書いているので元和の撰というべきである。『月苅藻集』は初めに「時に宝永庚寅の春にこれを書す。もとの本は寛永午の春」と記しているから、寛永のころの記録と思われる。さらに思うに、『百物語』はやや古いとはいえ俗書である。『月苅藻集』は世間の人がまったく知らないものである。どちらも出典は定めがたい。また『膽草』にこのことを載せて、「四の海おさまりがたきしるしにや雲のうへまでのぼる白波 招月が内裏へ盗人が入った時に詠んだ。この類の歌で左遷された。なかなかになき身なりせば古郷へかへらんものをけふの夕くれ 流罪の中で盂蘭盆に詠んだ。天皇の耳に入って哀れに思し召し、呼び戻された」とあるのは異なる伝えで、初めに罪を得た歌が違い、次の「なかなか」の歌にも異同がある。この書を著した佐野紹益は本阿弥光悦の婿で、公家の家にも出入りした者なので、伝わってきたものがあったのだろうか。これでは世に言う、「なかなか」の歌で罪を得て「なかなか」の歌で呼び戻されたという話に合わない。
付けて云ふ、来処誤れるもの世に多かり。烏鵲橋の事『淮南子』に出づとし、池魚の災といふ事『風俗通』にありと記したれど、いづれも本書には見えず。また世にあまねく用ひ来たりて本拠なき文字あり。仏典ごとに「紫雲」の字見ゆれど、大蔵五千巻、如来金口の説、かつていはざる所。大人つねに「紅楓」の字を使ふといへど、本唐三百年、名家詩聖の集、この字あることなし〔頭書 近世の詩に「紅楓」の字を使ふは、近世の歌に「もみぢ」を「紅葉」と書くに倣ひしなり。然れども『万葉集』には「紅葉」と書きたるものなく、古くは「黄葉」と書けり。解、追記〕。思ふに初学、前人の誤りを襲ひ、これらの事ゆるがせにすべからず。古人の文をかける、一字といへども来処なきものあらず。「読書、万巻を看破し、筆を下せば神あるがごとし」。けだし虚語にあらず。予、生来問ふ事を好むによりて、「好問」をもて堂に扁す。しかれどもあへて大舜の徳を慕ふにはあらねど、切に問ひ近く思ふは学者の急にする所ならずや。故に一疑を得るごとにこれを人に質し、その得るにあたりては手の舞ひ足の踏むを知らず。なほその本拠を得ざるもの大約一百条、題して「好問質疑」とす。明の陸儼山が『伝疑録』、我が邦の貝原益軒の『大疑録』に似るべうもあらねど、記して博洽の君子に問はんとす。しかれどもいまだ稿を脱することを得ず。今ここにその一隅を挙ぐるのみ。
付け加えて言う。出典を誤っているものは世に多い。烏鵲橋のことは『淮南子』に出るとし、池魚の災いということは『風俗通』にあると記しているが、どちらも原書には見えない。また世に広く使われてきて根拠のない文字がある。仏典にはどれにも「紫雲」の字が見えるが、大蔵経五千巻、如来の金口の説にはかつて言われたことのないものである。大人はいつも「紅楓」の字を使うが、唐三百年の名家や詩聖の詩集にこの字はない〔頭書 近世の詩に「紅楓」の字を使うのは、近世の歌で「もみぢ」を「紅葉」と書くのにならったものである。しかし『万葉集』には「紅葉」と書いたものはなく、古くは「黄葉」と書いた。解の追記〕。思うに初学の者は先人の誤りを引き継ぐものであり、こうしたことをおろそかにしてはならない。古人が文を書くときは、一字といえども出典のないものはない。「書を読んで万巻を看破すれば、筆を下すに神が宿るようだ」というのは、けっして虚言ではない。私は生まれつき問うことを好むので「好問」を堂の額にした。といって大舜の徳を慕うほどではないが、切に問い身近に考えるのは学者が急ぐべきところではないか。だから一つ疑問を得るごとにこれを人に質し、答えを得たときには手の舞い足の踏むところを知らないほど喜ぶ。それでもなお根拠を得られないものがおよそ百条あり、「好問質疑」と題した。明の陸儼山の『伝疑録』や、わが国の貝原益軒の『大疑録』に似るべくもないが、記して博学の君子に問おうと思う。しかしまだ稿を脱するに至らない。今ここにその一隅を挙げるだけである。
文政八年乙酉春二月八日 山崎美成、好問堂北窓の下に識す
文政八年乙酉春二月八日 山崎美成、好問堂の北窓の下に記す
原文 / 昭和女子大学本の字句を採り、正字体を保持、振り仮名を外す

好問質疑

宋之愚人得燕石藏之以爲寶。周客聞而往觀、掩口笑曰、此燕石也。主人大怒、藏之愈固。

美成かつて此故事の來處を捜索するに、淵鑑類凾に荀子を引き、佩文齋韻府に韓非子を引けり。故に本書につきて檢するに、二書ともに載せず。また瑯琊代醉篇に鬫子といへるものを引きて證とすれども、鬫子といふ書名、他書にも引用のものありやしらねど、四庫全書總目及古今の叢書に名目だに見えざれば、其書いづれの世誰の撰といふことさだかならず。また此故事をのせて湘中記、書言故事を引くといへども、古書にあらざれば證とするに足らず。こゝに於ておもふに、隋珠和璧の如きは古書に多く見えたり。此故事古書に見えざれば、疑らくは後世類書ひとたび謬りてしるしゝより、遂にその謬を襲ひ來りて、世人も亦みだりにその書名によるとのみおもひたれど、文心雕龍を閲するに、魏氏以夜光爲怪石、宋客以燕礫爲寶珠の二事を引てもて喩とす。此書は梁の劉勰が撰する所なれば、その來れるも亦ふるしと云べし。魏氏が故事は尹文子にいでたり。されば此故事も梁よりあがれる世のものに載せたる事は疑ふべからず。いまだ何れの書に出づといふ事をしらず。

正月十四日此兎園會をひらきし日、海棠庵にて曲亭子ものがたらふ事の次に此故事をあげていへらく、足下燕石雜志の撰あり。おもふにその來處を詳にし給ふべし。願くは示し給へといひしが、後廿一日書牘の返しに山海經を鈔出して贈らる〔頭書 解追て按ずるに、燕石の故事は後漢書應劭傳に出たり。正字通胡字注にも應劭傳を引たるなり。多貪の學生あまりに深く求めて後漢書を忘れしはいかにぞや〕。實に忠告の志いとうれしうなん。されど宋人の寶とする故事にあらず。おのれ委しくも物がたらず、勞し奉るの本意なさに、今おもふよしを右にしるし侍る〔頭書 予當日この事を談合さらに遺憾とせしよりて追てしるしおくのみ〕。

徹書記のころはこと外亂世なりしに、たはふれ歌をよみ給ひしよりさすらひ給ふとなり。その歌に、

なかなかに見ぬもろこしの鳥はいでじ桐の葉落せ秋の夜の月

此うたの心は、いまの世の政事あしきにより世がみだれし、禁裏にうゑ置桐は鳳凰の來儀をまたん爲なるに、このやうなるまつりごとにては鳳凰の來るねんはなし。桐の葉を打おとして秋のよの月をさはりなくながめたるがよし。見ぬもろこしの鳥は鳳凰なり。此歌の底意は君をそしれる歌なるによりさそらひしとなり。去る程に書記の謫處へ歌友達見まひけるに、七月十四日の歌とてかたり給ひしうた、

なかなかになきたまならばふる郷にかへらんものをけふの夕くれ

この歌の心は、命あるがつれなし。死にたらばしやうりやうになりて此夕にはかへるべきものをと、ふる里を戀しく思ひつる心ざし、いとあはれふかし。扨この歌禁裏へきこえしかば、あはれに思しめしてめしかへされけりとなり。

美成按ずるに、この故事人常にいひ傳へ、日本古今人物史にも徹書記傳に曾以一首諷詠而左遷洛外山科之地、又因一首之愁吟而逢歸洛之喜といへるも、このなかなかの歌をさしていへるなり。又和歌詞德抄にも見えたり。草根集には此歌見えず。出處を考ふるに、百物語、月苅藻集などに載せたれど、この書の時代をおもふに、百物語に烟草の禁ぜられしをこのころのやうに書きたれば、元和の撰といふべし。月苅藻集のはじめに、于時寶永庚寅春書之、佚本寛永午春とありとしるしたれば、寛永の比の記とおもはれたり。再びおもふに、百物語はやゝふるしといへども俗書なり。月苅藻集は世人曾てしるべきものにあらず。いづれも來處は定めがたし。又膽草にこの事を載せて、四の海おさまりがたきしるしにや雲のうへまでのぼる白波 招月内裏へ盜人の入りたる時よめり。此類にて左遷せらるゝ。なかなかになき身なりせば古郷へかへらんものをけふの夕くれ 流罪の内に盂蘭盆によめり。叡聞ありてあはれに思し召し召しかへさるとあるは、異なる傳にて、初め罪を得し歌かはり、次のなかなかの歌も異同あり。此書をあらはしたる佐野紹益は本阿彌光悦が聟にて、搢紳家へもまゐりしものなれば、傳へ來れるものありしや。これにては世にいへるなかなかの歌にて罪を得、なかなかの歌にて召しかへさるといへるにあはず。

附て云、來處誤れるもの世に多かり。烏鵲橋の事淮南子に出づとし、池魚の災といふ事風俗通にありと記したれど、いづれも本書には見えず。又世にあまねく用ひ來りて本據なき文字あり。佛典毎に紫雲の字見ゆれど、大藏五千卷如來金口の說甞いはざる所。大人常に紅楓の字をつかふといへど、本唐三百年名家詩聖の集此字あることなし〔頭書 近世の詩に紅楓の字をつかふは、近世の歌にもみぢを紅葉と書くに倣ひしなり。然れども萬葉集には紅葉と書きたるものなく、ふるくは黄葉と書けり。解追記〕。おもふに初學前人の誤を襲ひ、是等の事ゆるかせにすべからず。古人の文をかける、一字といへども來處なきものあらず。讀書看破萬卷、下筆如有神。けだし虛語にあらず。予生來問ふ事を好むによりて、好問をもて堂に扁す。しかれどもあへて大舜の德を慕ふにはあらねど、切に問ひ近く思ふは學者の急にする所ならずや。故に一疑を得るごとにこれを人に質し、其得るにあたりては手の舞あしの踏をしらず。猶その本據を得ざるもの大約一百條、題して好問質疑とす。明の陸儼山が傳疑錄、吾邦の貝原益軒の大疑錄に似るべうもあらねど、しるして博洽の君子に問んとす。しかれどもいまだ稿を脫することを得ず。今こゝにその一隅をあぐるのみ。

文政八年乙酉春二月八日 山崎美成識于好問堂北窓之下

注

写本の位置
写本は3167の45カット目左ページの後半から49カット目右ページまで。49カット目右ページの末尾に「文政八年乙酉春二月八日 山崎美成識于好問堂北窓之下」の署名があり、49カット目左ページから第7話「まみ穴幷まみといふけものゝ和名考」が始まる。
校合
頭書は三つあり、原文では該当箇所に〔頭書 …〕として置いた。46カット目左ページの「解追て按ずるに」は馬琴の追記で、活字本系テキストは本文中に割注の形で載せる。47カット目右ページの「予當日この事を談合さらに遺憾とせしよりて追てしるしおくのみ」は美成の頭書で、活字本系にはない。字が小さく崩れ、「談合」と「遺憾」の読みは判読を保留する。48カット目左ページの「近世の詩に紅楓の字をつかふは」以下は「解追記」とあり馬琴の追記。
校合
「願くは示し給へ」「搢紳家へもまゐりし」「問んとす」「讀書看破萬卷」「雲のうへまで」は写本の読み。活字本系テキストは「願くば」「縉紳家へまゐりし」「問はんとす」「讀書看確萬卷」「雲の上まで」とする。
注記
漢文の引用は写本の訓点を外して原文に置き、読みやすい本文では書き下した。「讀書看破萬卷、下筆如有神」は杜甫の詩句「讀書破萬卷、下筆如有神」を引いたもので、写本も「看破」とする。
注記
燕石は燕山に産する玉に似た石で、宋人が宝と信じた故事。馬琴の『燕石雑志』はこの故事から名を取った考証随筆。『文心雕龍』は梁の劉勰の文学論。『尹文子』は戦国の思想書。『後漢書』応劭伝に「宋愚夫亦寶燕石」の句がある。書物の同定は雲亭の推定で未確認。
注記
徹書記は室町時代の歌僧正徹で、招月庵と号した。『草根集』はその家集。佐野紹益は灰屋紹益で、本阿弥光悦の孫娘の婿。『膽草』は紹益の随筆『にぎはひ草』。『日本古今人物史』は黒川道祐の伝記集。人物と書物の同定は雲亭の推定で未確認。
注記
徹書記が歌によって流された伝説の真偽は本文のとおり美成も疑っており、雲亭も判断しない。
注記
二首の歌は現代語訳の段落にだけ試訳を添えた。「ねん」は念で見込みの意と解した。「しやうりやう」は精霊で、盂蘭盆に帰る死者の魂と解した。

AI試訳 / 専門家未校閲