雲亭日本古典図書室収録作品の一覧

まみ穴并まみといふ獣の和名考 ねこま いたち和名考 附 奇病の評

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兎園小説 / 曲亭馬琴ほか 兎園会の会員 / 第二集 第7話 / 著作堂 滝沢馬琴 稿

麻布まみ穴の「まみ」は貒ではなく鼯鼠の古名。猫と鼬の名の由来を考え、鼬に憑かれた娘の訴状を添える。

本文 現代語訳

まみ穴并まみといふ獣の和名考 ねこま いたち 奇病附録 著作堂主人稿
まみ穴とまみという獣の和名の考証 ねこま いたち 奇病を付録とする 著作堂主人稿
江戸麻布長坂のほとりなる「まみ穴」は、いと名だたる地名なれば、知らざる者なし。沾凉が『江戸砂子』には「雌狸穴」と書きたり。「雌狸」を「マミ」と訓ずるは何に憑れるにや知らず。こは記者のあて字なるべければ、論ずべくもあらねど、貝原が『大和本草』には〔巻の十六獣の部〕「稿」を「マミ」とす。篤信が云ふ、「マミ、タヌキとも云ふ。野猪に似て小なり。形肥えて脂多く、味よくして野猪のごとし。肉やはらかなり。穴居す。その四足の指五つ、あたかも人の手指のごとし。猟師、穴をふすべてこれを捕る。行くこと遅し。獾は貒の類なり。狗に似たり。並びに穴居す」といへり。また『本草綱目』〔巻五十一獣の二〕「獾」の下に、稲若水、和名を剿入して「マミ」とす。李時珍が云ふ、「貒は豬獾なり。獾は狗獾なり。二種相似て略々殊なり。狗獾は小狗に似て肥ゆ。尖喙矮足、短尾深毛、褐色。皮は裘の領と為すべし」といへり。かかれども和名を「マミ」といふ獣はなし。益軒、若水の両老翁、あるいは「貒」を「マミ」と訓じ、あるいは「獾」を「マミ」と読ませしは、訛をもて訛を伝ふ、世俗の称呼に従ふのみ。
江戸麻布長坂のほとりにある「まみ穴」はたいへん名の知られた地名で、知らない者はない。沾凉の『江戸砂子』には「雌狸穴」と書いている。「雌狸」を「マミ」と読むのは何に依ったのか分からない。これは記者の当て字だろうから論じるまでもないが、貝原益軒の『大和本草』は〔巻の十六獣の部〕「稿」を「マミ」としている。篤信が言うには、「マミはタヌキともいう。野猪に似て小さい。体は肥えて脂が多く、味がよくて野猪のようだ。肉は柔らかい。穴に棲む。四足の指は五本で、人の手の指にそっくりである。猟師は穴をいぶして捕らえる。歩くのは遅い。獾は貒の類で、犬に似ている。どちらも穴に棲む」とある。また『本草綱目』〔巻五十一獣の二〕の「獾」の下に、稲若水が和名を書き入れて「マミ」としている。李時珍が言うには、「貒は豬獾である。獾は狗獾である。二種はよく似ていて少し違う。狗獾は小犬に似て肥えている。口先が尖り足が短く、尾が短く毛が深く、褐色で、皮は皮衣の襟にできる」とある。しかし和名を「マミ」という獣はいない。益軒と若水の両老人が、「貒」を「マミ」と読み、あるいは「獾」を「マミ」と読ませたのは、訛りをもって訛りを伝えたもので、世俗の呼び名に従っただけである。
今按ずるに、「獾」は『和名鈔』に見えず。「貒」は和名「ミ」なり。『和名鈔』〔巻十八〕毛群部「貒」の下に、「『唐韻』を引きて云ふ、貒〔音端、また音旦、和名美〕は豕に似て肥ゆる者なり。『本草』に云ふ、一名獾㹠〔歓屯二音〕」といへり。只野必大が『本朝食鑑』にのみ『和名鈔』を引きて、「貒」を「ミ」と読めり。必大が云ふ、「貒は頭狸に類し、状は小㹠に似たり。体肥え行くこと遅く、短足短尾、尖喙褐色。常に穴居し、時に出でて瓜菓を窃みて食ふ。本邦処々の山野にこれあり。人多く食はず。ただ言ふ、よく水病を治すと。予、昔略々状を見る。然れどもいまだこれを試みず。則ち弁じがたきのみ」〔巻の十一獣畜部「狸」の附録に見えたり〕といへり。これらの諸説を合はせ考ふるに、近来世俗の「マミ」といふ獣は「ミ」を訛れるに似たり。すなはち貒なり。また田舎人はこれを「ミタヌキ」といふ。その面の狸に似たればなり。いづれまれ「ミ」とのみは唱へがたきにより、あるいは「マミ」といひ、あるいは「ミタヌキ」といふにやあらむ。かかれば麻布長坂なる「マミ穴」も、むかし貒の棲みたる名残にて、その穴のありしにより「マミ穴」と唱へ来たれるなりといはばいふべし。しかれども貒を「ミタヌキ」といふはよりて来たるあり。いかにとなれば、貒はその頭狸に似たり。「ミ」とのみは唱への不便なるによりて「ミタヌキ」といふか。また貒を「マミ」といへるはよりどころなし。いかにとなれば、貒に真偽のふたつなければなり。
今考えてみると、「獾」は『和名抄』に見えない。「貒」は和名を「ミ」という。『和名抄』〔巻十八〕毛群部の「貒」の下に、「『唐韻』を引いて、貒〔音は端、また音は旦、和名は美〕は豚に似て肥えたものである。『本草』に、一名獾㹠〔歓と屯の二音〕という」とある。只野必大の『本朝食鑑』だけが『和名抄』を引いて「貒」を「ミ」と読んでいる。必大が言うには、「貒は頭が狸に似て、姿は小さな豚に似ている。体は肥え歩みは遅く、足と尾が短く、口先が尖って褐色である。いつも穴に棲み、時々出て瓜や果物を盗んで食う。日本のあちこちの山野にいる。人は多く食べない。ただ水病によく効くというが、私は昔ちらりと姿を見ただけで、まだ試していないので判断しがたい」〔巻の十一獣畜部の「狸」の付録に見える〕とある。これらの諸説を合わせて考えると、近ごろ世間で「マミ」という獣は「ミ」が訛ったものらしい。つまり貒である。また田舎の人はこれを「ミタヌキ」という。顔が狸に似ているからである。いずれにせよ「ミ」だけでは唱えにくいので、「マミ」といったり「ミタヌキ」といったりするのだろう。そうであれば麻布長坂の「マミ穴」も、昔貒が棲んだ名残で、その穴があったから「マミ穴」と呼んできたのだ、と言おうと思えば言える。しかし貒を「ミタヌキ」というのには根拠がある。なぜなら貒は頭が狸に似ているからで、「ミ」だけでは唱えにくいので「ミタヌキ」というのだろう。ところが貒を「マミ」というのには根拠がない。貒に真と偽の二つがあるわけではないからである。
よりて再び按ずるに、かの麻布なる「まみ穴」の「マミ」は、元来貒の事にはあらで鼯鼠をいふなるべし。鼯鼠は和名「モミ」、一名は「むささび」と、『和名鈔』「鼯鼠」の下に、「『本草』を引きて云ふ、鼺鼠〔上の音は刀水の反、また刀追の反〕、一名鼯鼠〔上の音は吾、和名毛美、俗に云ふ無佐々比〕。『兼名苑』の注に云ふ、状は猨のごとくして肉翼は蝙蝠に似たり。よく高きより下り、下より上ること能はず。常に火烟を食ひ、声は小児のごとき者なり」。かかれば鼯鼠の和名は「毛美」なれども、いと古くより「むささび」とのみ唱へたるにや。歌にも「モミ」とは詠まず。『万葉集』第三に、「むささびは木ずゑもとむとあし引の山のさつをにあひにけるかも」といふ歌あるを見ても知るべし。しかれども古言は多く田舎に遺るものなれば、むかし関東にては鼯鼠をおさおさ「モミ」とのみいひしなるべし。その証は、今も日光山のほとりにては鼯鼠の老大なるものを「モモングワア」といへり。「モモン」は「モミ」の訛なり。「グワア」はそが鳴く声なるべし。また「高老」の義にてもあらん。物の老大なるを「高老を経たり」といふ、これなり。さてこの「もみ」を下野にては「モモングワア」と唱へ、また武蔵にては「まみ」といへるなるべし〔「モ」と「マ」と音通へり〕。かくて昔、麻布長坂のほとりには人家もあらで、樹立隙なく、昼もいと暗かりけるころは、鼯鼠などの多く棲むべき所なり。故に「モミ穴」の名は遺れるや。今も小児を嚇すに「モングワア」といふ。鼯鼠の状いと恐るべきものなればなり。「マミ穴」の名の高かりけるも〔今はこの穴なし〕、これらをもて思ふべし。たとひその処に鼯鼠の棲みたる事はあらずとも、いと恐るべき穴なりければ、「モミ穴」といひけんかし〔今も恐るべきものを「モングワア」といふがごとし〕。さるを後の人は「モ」を「マ」に通はして「まみ穴」と唱へしは、これまた「魔魅」にも通ひて「恐るべき」の義なり。かつ「モミ」を「マミ」といふよしは、今俗の「のほきり」を「のこぎり」、「わたたび」を「またたび」といふ類ひなるべし。しかるに本草者流はその物をこそよく弁ずれ、多くは古言に疎く和名に詳しからねば、「貒」また「獾」を「マミ」と訓ぜしのみ。そを当れりとすべからず。俗にいふ「マミ」は鼯鼠の事なるを、遂にいよいよ訛りて貒の事とす。かかれば麻布なる「まみあな」を真名には「鼺鼠穴」と書くべし。江戸の地名を誌せしものに、かばかりの考へだもなきは、もとも遺憾の事にあらずや。
そこで改めて考えると、あの麻布の「まみ穴」の「マミ」は、もともと貒のことではなく、鼯鼠のことをいうのだろう。鼯鼠は和名「モミ」、一名は「むささび」と、『和名抄』の「鼯鼠」の下に、「『本草』を引いて、鼺鼠〔上の字の音は刀水の反、また刀追の反〕、一名鼯鼠〔上の字の音は吾、和名は毛美、俗に無佐々比という〕。『兼名苑』の注に、姿は猿のようで肉の翼が蝙蝠に似ている。高い所から下へは降りられるが、下から上へは上れない。いつも火の煙を食い、声は小児のようである」とある。それなら鼯鼠の和名は「毛美」なのだが、ごく古くから「むささび」とだけ唱えられてきたのだろうか。歌にも「モミ」とは詠まない。『万葉集』巻三に「むささびは木末求むとあしひきの山の猟夫にあひにけるかも」という歌があるのを見ても分かる。しかし古い言葉は多く田舎に残るものだから、昔の関東では鼯鼠をもっぱら「モミ」とだけ呼んでいたのだろう。その証拠に、今も日光山のあたりでは老いて大きくなった鼯鼠を「モモングワア」という。「モモン」は「モミ」の訛りで、「グワア」はその鳴き声だろう。また「高老」の意味でもあろう。物が老いて大きいのを「高老を経た」というのがそれである。さてこの「もみ」を下野では「モモングワア」と唱え、武蔵では「まみ」と言ったのだろう〔「モ」と「マ」は音が通う〕。こうして昔、麻布長坂のほとりに人家もなく、木立が隙間なく茂って昼も暗かったころは、鼯鼠などが多く棲みそうな所であった。だから「モミ穴」の名が残ったのだろうか。今も子どもをおどすのに「モングワア」という。鼯鼠の姿がたいへん恐ろしいものだからである。「マミ穴」の名が高かったのも〔今はこの穴はない〕、これらから考えるとよい。たとえその場所に鼯鼠が棲んだことはなくても、たいへん恐ろしい穴だったので「モミ穴」と言ったのだろう〔今も恐ろしいものを「モングワア」というようなものだ〕。それを後の人が「モ」を「マ」に通わせて「まみ穴」と唱えたのは、これも「魔魅」に通じて「恐ろしい」という意味である。また「モミ」を「マミ」というのは、今の俗に「のほきり」を「のこぎり」、「わたたび」を「またたび」というのと同じ類だろう。ところが本草学者たちはその物についてはよく見分けるが、多くは古い言葉に疎く和名に詳しくないので、「貒」や「獾」を「マミ」と読んだだけである。それを当たっているとしてはいけない。俗にいう「マミ」は鼯鼠のことなのに、とうとうますます訛って貒のこととした。それなら麻布の「まみあな」は、漢字では「鼺鼠穴」と書くべきである。江戸の地名を記した書物に、これほどの考えすらないのは、もっとも残念なことではないか。
付けていふ、安永七年の夏、信濃なる善光寺の阿弥陀如来、回向院にて拝まれ給ひしとき、両国橋の東のつめにて「千年もぐら」といふものを見せたり。「もぐら」は「ウグロモチ」の訛にて鼢鼠の事なり。おのれなほ総角のころなりければ、親しく目撃したりけるに、その形は小狗に類して、毛は短く薄黒に褐色を帯びたり。喙尖りて狸のごとく、四足は鼢鼠に類して人の手の指に似たり。その物、鉄の条もて繋がれたるが、いと疲れたるやうにて、頭だも擡げ得ず、築山のごとくに積みたりける砂の上に臥したり。その折は何とも思ひわかざりしを、後に思へば、そは鼢鼠にはあらず、まことは猪獾にして貒なること疑ひなし。見せ物師などいふものは、ただ怪しう珍らかなるを旨とするなれば、「貒」といふとも「マミ」といふとも、大かたの江戸人は聞き知らぬものなれば、「鼢鼠の千載を経たるなり」とて欺きたるなり。当時の巷談に、「こは本郷なる麹屋の空室より夜な夜な出でて食を窃みしを生け捕りたるなり」といへり。虚実は定かならねども、空室の内なればとて市中に棲むべきものにあらず。思ふに好事の者の飼ひけん貒の、放たれしより麹屋の空室のかたに穴して、久しく棲みたるものにやあらん。遥かに過ぎ来しかたを思へば、こもはや四十八年のむかし語になりけるなり。
付け加えて言う。安永七年の夏、信濃の善光寺の阿弥陀如来が回向院で開帳された時、両国橋の東詰で「千年もぐら」というものを見世物にしていた。「もぐら」は「ウグロモチ」の訛りで、鼢鼠のことである。私はまだ子どもの頃だったので、間近に目撃したのだが、その形は小犬に似て、毛は短く、薄黒に褐色を帯びていた。口先が尖って狸のようで、四足は鼢鼠に似て人の手の指のようだった。それは鉄の鎖でつながれ、ひどく疲れた様子で頭も持ち上げられず、築山のように積んだ砂の上に伏していた。その時は何とも思い分けなかったが、後で思えば、あれは鼢鼠ではなく、実は猪獾で貒であることは疑いない。見世物師などという者はただ怪しく珍しいことを旨とするので、「貒」といっても「マミ」といっても、大かたの江戸の人は聞き知らないから、「鼢鼠が千年を経たものだ」と言って欺いたのである。当時の巷の噂に、「これは本郷の麹屋の空き室から夜な夜な出て食べ物を盗んでいたのを生け捕りにしたのだ」と言った。真偽は定かでないが、空き室の中だからといって、町なかに棲むものではない。思うに、好事家が飼っていた貒が放されてから、麹屋の空き室の方に穴を掘って長く棲んでいたのだろうか。はるかに過ぎ去った昔を思えば、これももう四十八年前の昔語りになったのである。
再びいふ、松蘿館の「つくしだち」も程遠からねば、この小集を名残とす。こはいと飽かぬ心地すなれば、また一、二条を附録とす。そは「ねこま」「いたち」の和名考、奇病の評など、すなはちこれなり。
重ねて言う。松蘿館の九州行きも遠くないので、この小さな集まりを名残とする。これではたいへん物足りない気がするので、もう一、二条を付録とする。それが「ねこま」「いたち」の和名の考証と、奇病の評などである。
猫は『和名鈔』〔毛群部〕に和名「禰古萬」なり。しかるに中葉より下略して「禰古」といへり。『枕草紙』〔をきな丸の段〕に、「うへにさぶらふ御猫は」云々といひ、また『源平盛衰記』〔義仲跋扈の段〕に、猫間中納言の「猫」に「間」の字を添へたり。こは「猫」一字にては「ねこ」と読む故に、「猫間」と書きたるなり。これ古くより「ねこま」といはず、「ねこ」とのみ唱へ来たれる証なり。しかれども彼を呼ぶときは上略して「こまこま」といふ事、『枕草紙』〔これもをきな丸の段〕に見えて、今もまたしかなり。いづれまれ略辞なれば、物には「ねこま」と書くこそよけれ。『契沖雑記』に、「猫は『ねこま』、『鼠子待』の略か。鼠の類に『つらねこ』といふあれば、『ねこ』といふは略語の中にことわり背くべし。猫の性は鼠にても鳥にてもよくうかがひて、必ず取り得んと思はねば取らぬものなり。よりて『待』とつけたるか」といへり。その書の頭書に、「真淵云ふ、『ねこ』はただ『睡獣』の略なるべし。『けもの』の『け』の字、反は『こ』なり。ある人、『苗』の字につきて名づけしものかといへるは悪し」といへり。解、按ずるに、両説ともにことわりしかるべくも覚えず。「鼠子待」は求め過ぎたる憶説なれば、今さら論ふべくもあらず。「睡獣」の義といへるもいかにぞや覚ゆ。おほよそ睡きを好む獣は猫にのみ限らず、狸、狢、鼬の類みなよく睡るものなり。わきて空睡りを「たぬきねむり」と唱へて、睡りは猫より狸、狢のかたに名高し。これらの和名に「ね」もじをかけて唱へざりしをもて、「ねこま」の「ね」も「睡獣」の義にあらざるを知るべし。さばれ狸、狢の類は真の睡りにあらず、空睡りなれば、「ね」といはずといはんか。猫とても熟睡は稀にて、多くは空睡りなり。かれが敏きをもて知るべし。かつ「『けもの』の『け』の字の反『こ』なり」とのみいひて、下の「ま」の字を解かざるはいかにぞや。前輩千慮の一失か。いと信じがたき説なり。按ずるに、猫を「ねこま」と名づけしはさるよしにあらずかし。猫は「ねうねう」と鳴く獣なれば、「ねこま」と名づけたり〔猫の「ねうねう」と鳴くよしは、これもをきな丸の段に見えたり〕。「こま」の「こ」は「け」と五音通へり。「ま」と「も」とこれも音通へり。「こま」は「けも」にて、「けもの」の「の」を略したり。これ「ねうねう」と鳴く獣といふ義にて、「ねこま」といへり〔今も小児は猫を「にやあにやあ」といふ。その義自然と適へり〕。かかれば「ねこ」とのみいへば「ねけ」なり。「こま」とのみいへば「けも」なり〔「の」の字を略せり〕。いづれも略語の中にことわり背くといふべからず。然れども「ねこま」といふに増すことなし。また鼠の類なる「つらねこ」の「ねこ」は、「ねこま」の「ねこ」と同じかるべくもあらず。こはよく考へて追つて記すべし。また鄙言に猫の老大なるものを「ねこまた」といへり。この事『つれづれ』に見えたり。またくだりて貞享中の印本『猫又づくし』といふ絵草紙あり。また『今川本領猫股屋敷』といふ古き浄瑠璃本もあり。この「ねこまた」は、「丸太」に「こた」などのごとく、「ねこま」に「た」を添へて唱ふるにはあらで、「猫岐」の義なるべし。猫の老大に至りて変化自在なるときは、尾の先に岐出で来たりてふたつに裂くることありといへば、老大にて岐尾なるものを「ねこまた」といふか。こはまったく俚言なり。また按ずるに、「猫」は「貓」に作るを正とす。『埤雅』に陸佃が云ふ、「鼠はよく苗を害す。貓はよく鼠を捕ふ。故に字は苗に従ふ」といへり。「ねこま」を「苗獣」の義といへるはこれより出でたり。すべて字体によりて和名を解くものは付会なり。信ずるに足らず。
猫は『和名抄』〔毛群部〕に和名「禰古萬」とある。しかし中ごろから下を略して「禰古」というようになった。『枕草子』〔翁丸の段〕に「うへにさぶらふ御猫は」云々といい、また『源平盛衰記』〔義仲跋扈の段〕に、猫間中納言の「猫」に「間」の字を添えている。これは「猫」一字では「ねこ」と読むので「猫間」と書いたのである。これは古くから「ねこま」と言わず「ねこ」とだけ唱えてきた証拠である。しかし猫を呼ぶときは上を略して「こまこま」ということが『枕草子』〔これも翁丸の段〕に見え、今もまたそうである。いずれにせよ略した言葉なので、書物には「ねこま」と書くのがよい。『契沖雑記』に、「猫は『ねこま』で『鼠子待』の略か。鼠の類に『つらねこ』というのがあるから、『ねこ』というのは略語としては筋が通らないはずだ。猫の性質は、鼠でも鳥でもよくうかがって、必ず取れると思わなければ取らないものである。だから『待』と付けたのか」とある。その書の頭書に、「真淵が言うには、『ねこ』はただ『睡獣』の略だろう。『けもの』の『け』の字の反が『こ』である。ある人が『苗』の字にちなんで名づけたものかと言うのはよくない」とある。解が考えるに、両説とも筋が通っているとは思えない。「鼠子待」は求めすぎた憶測なので今さら論じるまでもない。「睡獣」の意味だというのもどうかと思う。およそ眠りを好む獣は猫だけに限らず、狸、狢、鼬の類はみなよく眠るものである。とりわけ空眠りを「たぬき寝入り」と唱えて、眠りは猫より狸や狢の方が名高い。これらの和名に「ね」の字をかぶせて唱えなかったことからも、「ねこま」の「ね」が「睡獣」の意味でないことが分かる。とはいえ狸や狢の類は本当の眠りではなく空眠りなので「ね」とは言わない、というかもしれない。しかし猫も熟睡は稀で、多くは空眠りである。猫が目ざといことから分かる。また「『けもの』の『け』の字の反が『こ』だ」とだけ言って、下の「ま」の字を解かないのはどうしたことか。先輩の千慮の一失か。とても信じがたい説である。考えるに、猫を「ねこま」と名づけたのはそういう理由ではあるまい。猫は「ねうねう」と鳴く獣なので「ねこま」と名づけたのだ〔猫が「ねうねう」と鳴くことは、これも翁丸の段に見える〕。「こま」の「こ」は「け」と五音が通う。「ま」と「も」もまた音が通う。「こま」は「けも」で、「けもの」の「の」を略したのである。これは「ねうねうと鳴くけもの」という意味で「ねこま」と言ったのだ〔今も子どもは猫を「にゃあにゃあ」という。その意味は自然とかなっている〕。それなら「ねこ」とだけ言えば「ねけ」であり、「こま」とだけ言えば「けも」である〔「の」の字を略している〕。どちらも略語として筋が通らないとは言えない。しかし「ねこま」と言うのに勝るものはない。また鼠の類である「つらねこ」の「ねこ」は、「ねこま」の「ねこ」と同じであるはずがない。これはよく考えて後日記すことにする。また俗語で老いて大きくなった猫を「ねこまた」という。このことは『徒然草』に見える。また時代が下って貞享年間の刊本に『猫又づくし』という絵草紙がある。また『今川本領猫股屋敷』という古い浄瑠璃本もある。この「ねこまた」は、「丸太」を「こた」というように「ねこま」に「た」を添えて唱えたのではなく、「猫岐」の意味だろう。猫が老いて変化自在になるときは、尾の先に岐が出てきて二つに裂けることがあるというから、老いて尾が岐になったものを「ねこまた」というのだろうか。これはまったくの俗語である。また考えるに、「猫」は「貓」と書くのが正しい。『埤雅』に陸佃が言うには、「鼠はよく苗を害する。貓はよく鼠を捕る。だから字は苗に従う」とある。「ねこま」を「苗獣」の意味だというのはここから出た。すべて字の形によって和名を解くのはこじつけであり、信じるに足りない。
猫よりもなほよく鼠を捕ふるものは鼬なり。この字、鼠に従ひ由に従ふ。按ずるに、鼠に従ふよしは形状をもてす。由に従ふよしは、「由」は読みて「猶予」の「猶」のごとし。鼬もその性疑ふものにて、人を見れば走りつつしばしば見返るものなり。よりて由に従ふなるべし。譬へば「狐」の字の瓜に従ふがごとし。「瓜」は読みて「孤独」の「孤」のごとし。狐は群居せざるものなり。よりてその字瓜に従ふ〔「瓜」はすなはち「孤」なり〕。また按ずるに、「いたち」は『和名鈔』〔毛群部〕に『爾雅集註』を引きて、「鼬鼠〔上の音は由〕、状」云々、「今江東にて呼びて鼪〔音生〕と為す。和名以太知。『楊氏漢語抄』に云ふ、鼠狼なり」といへり。「いたち」の釈名は白石の『東雅』、『契沖雑記』にも見えず。按ずるに、「いたち」の言は「きたち」なり。また「火たち」にも通ふべし。「い」と「き」と連声なればなり。さて鼬を「いたち」と名づくるよしは、この獣、夜は樹にのぼり、あるいは群がりて気を吹くときは、火気天に冲ることあり。俗にこれを「火柱」といふ。この故に「いたち」と名づく。すなはち「気立」なり。また「火起」なり。鼬の火柱の事、『本草綱目』に載せず。李時珍は知らざりしか、漏らせしか。『大和本草』にはこの事あり。鼬の怪はこれらに過ぎず。彼が群居せし事は『平家物語』に見えたり。さばれさせる怪にはあらず。しかるに近頃異聞あり。そは「いたち」にはあらじと思へど、因みに附録すること左のごとし。
猫よりもさらによく鼠を捕るのは鼬である。この字は鼠に従い由に従う。考えるに、鼠に従うのは姿形によるものである。由に従うのは、「由」は「猶予」の「猶」のように読む。鼬もその性質は疑い深いもので、人を見ると走りながらしばしば振り返る。だから由に従うのだろう。たとえば「狐」の字が瓜に従うようなものである。「瓜」は「孤独」の「孤」のように読む。狐は群れをなさないものである。だからその字は瓜に従う〔「瓜」はすなわち「孤」である〕。また考えるに、「いたち」は『和名抄』〔毛群部〕に『爾雅集註』を引いて、「鼬鼠〔上の字の音は由〕、姿は」云々、「今江東では呼んで鼪〔音は生〕とする。和名は以太知。『楊氏漢語抄』に、鼠狼である」とある。「いたち」の語源は白石の『東雅』にも『契沖雑記』にも見えない。考えるに、「いたち」の言葉は「きたち」である。また「火たち」にも通じるだろう。「い」と「き」は連声だからである。さて鼬を「いたち」と名づけた理由は、この獣は夜は木に登り、あるいは群がって気を吹くときに、火の気が天に立ち昇ることがある。俗にこれを「火柱」という。このために「いたち」と名づけた。つまり「気立ち」である。また「火起ち」である。鼬の火柱のことは『本草綱目』に載っていない。李時珍は知らなかったのか、漏らしたのか。『大和本草』にはこのことがある。鼬の怪はこれらに過ぎない。鼬が群れをなしたことは『平家物語』に見える。とはいえ大した怪ではない。ところが近ごろ珍しい話がある。それは鼬ではあるまいと思うが、ついでに付録として以下に記す。
文政四年辛巳の夏、江戸牛込袋町代地なる町人友次郎が妹〔名は梅〕十四歳、奇病あり。この年五月、神田佐久間町の名主源太郎がこの事を官府へ訴へ奉りし訴へ文の写しを見たり。今その実を伝へんために、俗文のまま謄録す。かかる事は風聞聞くとて、その事実なれば、最寄りの肝煎、名主より町奉行所へ訴へ申す事なりとぞ。これもそのひとつなるべし。
文政四年辛巳の夏、江戸牛込袋町代地の町人友次郎の妹〔名は梅〕十四歳に奇病があった。この年の五月、神田佐久間町の名主源太郎がこのことを役所へ訴え出た訴状の写しを見た。今その実態を伝えるために、俗文のまま書き写す。こうしたことは、風聞として聞いたとしてもそれが事実であれば、最寄りの肝煎や名主から町奉行所へ訴え出ることになっているそうだ。これもその一つであろう。
牛込袋町代地金次郎店 友次郎妹 むめ 巳十四歳
牛込袋町代地金次郎店 友次郎の妹 むめ 巳年十四歳
右友次郎儀は、当巳十七歳に罷り成り、時の物商売致し候者にて、店借り名前に御座候えども、内実九歳の節より奉公致し居り、母、祖母、妹むめ三人暮らしにて、平生洗濯物など致し、いささかの賃銭を取り、ようやく取り続き罷り在り候ものに御座候ところ、去る辰八月中、むめ儀、下谷小嶋町薬種店にて松屋次助と申す者、かねて懇意にいたし、無人の由申し候間、右の者方へ預け置き候ところ、次助儀、同十月新右衛門町へ引越し、むめ義も連れ参り候ところ、一体むめ儀、持病に癪これあり候ところ、新右衛門町へ引越し候後も何となく気分悪しく罷り成り、入湯致し候節、手足そのほか処々腫れ色付き候儀なども有り、奇病の様子にて、次助儀、薬種渡世致し候事ゆえ、薬用も致し遣はし候えども、同様に候間、去る辰十二月中宿へ引き取り候ところ、その砌、腕ならびに足膝など痛み候儀も両度これあるのみにて、日を追ひ全快致し候に付き、先月晦日、神田お玉池御用達町人川村久七と申す者方へ奉公に指し出し候ところ、両三日過ぎ候えば、またまた気分悪しく罷り成り、食事も致しかね候様子に付き暇取り、当月九日九つ時過ぎ引き取り介抱致し候ところ、身の内処々頻りに痛み候旨申し、はなはだ苦しみ候間、痛み候ところ捺り遣はし候えども、乳の下、皮肉の間に針これあり、皮を貫き先出で候に付き、爪にて引き抜き遣はし候えば、なほまた同様、襟より〔「襟」はなほ「頂」といふがごとし〕一本、膝より二本、小用の節、陰門より三本、九日十日両日に出で、いづれも錆これなき絹縫針にこれあり、右の趣、外科にも見せ候えども、場所悪しく候ゆえ療治致しかね候段申し候間、致し方なくそのまま差し置き候えば、同十四日十五日頃より段々快方に罷り成り、この節全快致し候えども、水落の辺に〔「水落」はなほ「鳩尾」といふがごとし〕針四、五本残り居り候様子にて、同二十三日朝、同所より長さ二寸余もこれあり候木綿仕付針一本、錆び候ままにて出で候段、むめならびに同人母きん申し候間、右に付き何ぞ存じ当たり候もこれなく候やと承り糺し候えば、むめ義、小嶋町に罷り在り候節、次助宅座敷ならびに二階などへ小便致し候様子にて、畳より床まで通し濡れこれあり候義度々御座候に付き、もしもむめにはこれなきやと疑心を請け候義もこれあり、かつまた新右衛門町へ引越し候後、夜分むめ臥し居り候側を鼬駆けあるき、または同人蒲団の下へ這入り、夥数小便致し候義、毎度の様に相成り、追々気分悪しく罷り成り候段申し候。まったく狐狸の所為にもこれあるべきや、もっぱら奇病の趣、この節近辺取り沙汰仕り候に付き、取り調べこの段申し上げ候。
右の友次郎は当巳年に十七歳になり、季節物の商売をしている者で、店借りの名義になっておりますが、実際は九歳の時から奉公に出ており、母と祖母と妹むめの三人暮らしで、ふだんは洗濯物などをしてわずかな賃銭を取り、ようやく暮らしを続けている者でございますところ、去る辰年八月中、むめは下谷小嶋町の薬種店で松屋次助という者がかねて懇意にしており、人手がないというので、その者の所へ預けておきましたところ、次助は同年十月に新右衛門町へ引っ越し、むめも連れて行きましたが、もともとむめは持病に癪があり、新右衛門町へ引っ越した後も何となく気分が悪くなり、風呂に入る時に手足やその他あちこちが腫れて色づくことなどもあり、奇病の様子でしたので、次助は薬種の商売をしている者ですから薬も用いましたが、同じ様子でしたので、去る辰年十二月中に家へ引き取りましたところ、その時に腕や足膝などが痛むことも二度あっただけで、日ごとに全快しましたので、先月末日に神田お玉ヶ池の御用達町人川村久七という者の所へ奉公に出しましたところ、二、三日過ぎるとまたまた気分が悪くなり、食事もできない様子なので暇を取り、今月九日の九つ時過ぎに引き取って介抱しましたところ、体のあちこちがしきりに痛むと言ってひどく苦しむので、痛む所をさすってやりましたが、乳の下の皮と肉の間に針があり、皮を貫いて先が出てきたので、爪で引き抜いてやると、さらに同様に襟から〔「襟」はなお「うなじ」というようなものである〕一本、膝から二本、小用の時に陰門から三本、九日と十日の両日に出て、いずれも錆のない絹縫い針でした。この件を外科医にも見せましたが、場所が悪いので治療しかねると言うので、仕方なくそのままにしておきましたところ、同十四、十五日頃からだんだん快方に向かい、この頃は全快しましたが、みぞおちのあたりに〔「水落」はなお「鳩尾」というようなものである〕針が四、五本残っている様子で、同二十三日の朝、同じ所から長さ二寸あまりもある木綿の仕付け針一本が錆びたまま出てきたと、むめと同人の母きんが申しますので、これについて何か思い当たることはないかと問い糺しましたところ、むめが小嶋町にいた時、次助の家の座敷や二階などに小便をした様子で、畳から床まで通して濡れていることが度々あり、もしやむめではないかと疑いを受けたこともあり、さらに新右衛門町へ引っ越した後、夜分むめが寝ている側を鼬が駆け歩き、または同人の布団の下へ這い込んで大量に小便をすることが毎度のようになり、次第に気分が悪くなったと申しております。まったく狐狸の仕業でもありましょうか、もっぱら奇病の趣がこの頃近辺で取り沙汰されておりますので、取り調べてこの段を申し上げます。
巳五月 右最寄組合肝煎 神田佐久間町名主源太郎
巳の五月 右最寄り組合肝煎 神田佐久間町名主源太郎
かくて同じ年の六月二十七日、小浜の医官杉田玄白、わが庵に来訪して、「鼬の妖怪、狐狸に等しきなる事ありや」と問はれしに、予答へて云ふ、「鼬の怪は『平家物語』に、治承四年五月十二日午の刻ばかりに鳥羽殿に鼬おびただしく走り騒ぎしかば、法皇やがて近江守なかかね〔時の蔵人〕をもて安倍泰親に占はせ給ひしに、泰親すなはち『今三日が中に御喜びならびに御嘆きあらん』と占ひ申しけるに、はたしてその事おはしましし由見えたり。このほか狐狸に等しき怪談は和漢に所見なし」といひしに、玄白すなはち前件を挙げて、「先月既にこれらの事あり。いかが思ひ給ふにや」とまた問はれしに、予答へて、「こはその鼬と思ひしも鼬にはあらずして、尾さき狐の所為か」といひしを、なほ心得ざりけん、「尾さき狐はいかなるものぞ」と請ひ問はれしに、ふたたび答へて、「尾さき狐は上毛、下毛に多かり。戸田川を境として江戸には絶えて入らずとなん。その状、鼬に似て狐より小さし。尾はきはめて太かるに、尾さき裂けて岐あれば、『尾さき』の名さへ負はせしならん。上毛、下毛のみに限らず、武蔵といふとも北のかたにはこの獣稀にあり、ともすれば人の家に憑くことありといふ。そが一たび憑きたる家は、貧しかりしも豊かになりぬ。しかれども多くはその身一期のほど、あるいはその子の時に至りて、衰へ果てずといふことなし。そが既に憑きたる家の年々豊かになるままに、狐の種類も次第に殖えて群れつどふこと限りなし。もしその家の娘なるもの他村へ嫁入りする事あれば、尾さき狐も相分かれて婿の家に憑くといふ。ここをもて人忌み嫌はざるものなく、寇を防ぐがごとしとなん。近頃伊豆の三島のほとりにて尾さき狐を使ふものあり。この事江戸に聞こえしかば、有司うけたまはりて彼の地に赴き、狐使ひを搦め捕りて、やがて将て参る程に、川崎の泊りまでは夜毎に鼬のあまた鳴きしこと夜もすがら絶えざりしに、六郷川を渡りてはさる事もなかりしとぞ。これらを合はせ考ふるに、件の少女梅が奇病も鼬にはあらずして、尾さき狐の所為なるべし。しかれどもかの狐は戸田川を境として江戸へは絶えてより来ずといふ。げにさる事もあるべきにや。彼の三島なる狐使ひも、川崎の宿まではなほその狐の付き添ひ来けんを、六郷川を境として江戸へは終に入らぬなるべし。いとも畏き御膝もとの御威勢にこそあんなれ。かかれば件の怪しき病を『尾さき狐のわざなり』と定かにいふべきよしもなけれど、またかの狐を使へるもの他郷より来ぬる事、またこれなしとすべからず。さてもこの尾さき狐は唐山にもあるものならん、その漢名を知らまく欲しとて、年来書どもあさるものから、いまだ見る所もあらず。和君は二世の蘭学者なり。蛮名などをも考へて知らせ給へ」といひし事あり。例の蛇足の弁ながら、ありつるままに記すのみ。
こうして同じ年の六月二十七日、小浜藩の医官杉田玄白がわが家を訪ねて来て、「鼬の妖怪で狐狸に等しいようなことはあるか」と問われたので、私は答えて言った。「鼬の怪は『平家物語』に、治承四年五月十二日の昼頃、鳥羽殿に鼬がおびただしく走り騒いだので、法皇がすぐに近江守なかかね〔時の蔵人〕を使いに安倍泰親に占わせたところ、泰親はすぐに『三日のうちにお喜びとお嘆きがあるでしょう』と占い申し上げ、はたしてその通りになったと見えます。このほか狐狸に等しい怪談は日本にも中国にも見当たりません」と言うと、玄白はすぐに前の一件を挙げて、「先月すでにこういうことがあった。どうお考えか」とまた問われたので、私は答えて、「これはその鼬と思ったものが鼬ではなく、尾さき狐の仕業ではないか」と言ったが、まだ納得がいかなかったのだろう、「尾さき狐とはどんなものか」と問われたので、再び答えて言った。「尾さき狐は上野と下野に多い。戸田川を境として江戸には決して入らないという。その姿は鼬に似て狐より小さい。尾はきわめて太いのに尾の先が裂けて岐になっているので、『尾さき』の名を負わせたのだろう。上野と下野だけに限らず、武蔵でも北の方にはこの獣が稀にいて、ともすれば人の家に憑くことがあるという。それが一度憑いた家は、貧しかった家も豊かになる。しかし多くはその人の一生のうちに、あるいはその子の代になって、衰え果てないということがない。それが憑いた家が年々豊かになるにつれて、狐の一族も次第に増えて群れ集まること限りない。もしその家の娘が他の村へ嫁入りすることがあれば、尾さき狐も分かれて婿の家に憑くという。このため人は忌み嫌わない者はなく、敵を防ぐようにするという。近ごろ伊豆の三島のあたりで尾さき狐を使う者がいた。このことが江戸に聞こえたので、役人が命を受けてその地へ赴き、狐使いを捕らえて連れて来る途中、川崎の宿に泊まるまでは毎夜おびただしい鼬の鳴き声が夜通し絶えなかったが、六郷川を渡ってからはそういうこともなかったそうだ。これらを合わせて考えると、あの少女梅の奇病も鼬ではなく、尾さき狐の仕業だろう。しかしあの狐は戸田川を境にして江戸へは決して来ないという。本当にそういうこともあるのだろうか。あの三島の狐使いも、川崎の宿まではなお狐が付き添って来たのに、六郷川を境にして江戸へはついに入らなかったのだろう。まことに畏れ多い御膝もとの御威光というものであろう。だからあの怪しい病を『尾さき狐の仕業だ』とはっきり言うこともできないが、またあの狐を使う者が他国からやって来ることも、ないとは言えない。それにしてもこの尾さき狐は中国にもいるものだろう、その漢名を知りたいと思って年来書物をあさっているが、まだ見当たらない。あなたは二代目の蘭学者だ。西洋での名などをも考えて知らせてください」と言ったことがある。例によって蛇足の弁だが、あったままに記すだけである。
乙酉如月初八 解再識
乙酉二月八日 解、再び記す
原文 / 昭和女子大学本の字句を採り、正字体を保持、振り仮名を外す

まみ穴幷まみといふけものゝ和名考 ねこま いたち 奇病附錄 著作堂主人稿

江戸麻布長坂のほとりなるまみ穴は、いと名だゝる地名なれば、しらざるものなし。沾凉が江戸砂子には雌狸穴と書きたり。雌狸をマミと訓ずるは何に憑れるにやしらず。こは記者のあて字なるべければ、論ずべくもあらねど、貝原が大和本草には〔卷ノ十六獸ノ部〕稿をマミとす。篤信が云、マミ、タヌキトモ云。野猪ニ似テ小ナリ。形肥テ脂多ク、味ヨクシテ野猪ノ如シ。肉ヤハラカ也。穴居ス。其四足ノ指五ツ、恰如人手指。獵師穴ヲフスベテ捕之。行クコトオソシ。獾ハ貒ノ類ナリ。狗ニ似タリ。並ニ穴居スといへり。又本草綱目〔巻五十一獸之二〕獾の下に、稻若水和名を剿入してマミとす。李時珍が云、貒豬獾也。獾狗獾也。二種相似而略殊。狗獾似小狗而肥。尖喙矮足、短尾深毛、褐色。皮可爲裘領といへり。かゝれども和名をマミといふけものはなし。益軒若水の兩老翁、或は貒をマミと訓じ、或は獾をマミと讀せしは、訛をもて訛を傳ふ、世俗の稱呼に從ふのみ。

今按ずるに、獾は和名鈔に見えず。貒は和名ミなり。和名鈔〔巻十八〕毛群部貒の下に、引唐韻云、貒〔音端又音旦和名美〕似豕而肥者也。本草云、一名獾㹠〔歡屯二音〕といへり。只野必大が本朝食鑑にのみ和名鈔を引て、貒をミと讀り。必大が云、貒頭類狸、狀似小㹠。體肥行遲、短足短尾、尖喙褐色。常穴居、時出竊瓜菓而食。本邦處々山野有之。人多不食。惟言能治水病。予昔略見狀、然未試之、則難辨爾〔巻之十一獸畜部狸の附錄に見えたり〕といへり。これらの諸說を合せ考ふるに、近來世俗のマミといふけものはミを訛れるに似たり。則貒なり。又田舍兒は是をミタヌキといふ。その面の狸に似たればなり。いづれまれミとのみは唱へがたきにより、或はマミといひ、或はミタヌキといふにやあらむ。かゝれば麻布長坂なるマミ穴も、むかし貒の棲みたる餘波にて、その穴のありしによりマミ穴と唱へ來れるなりといはゞいふべし。しかれども貒をミタヌキといふはよりて來るあり。いかにとなれば、貒はその頭狸に似たり。ミとのみは唱の不便なるによりてミタヌキといふ歟。又貒をマミといへるはよりどころなし。いかにとなれば、貒に眞僞のふたつなければなり。

よりて再按ずるに、かの麻布なるまみ穴のマミは、元來貒の事にはあらで鼯鼠をいふなるべし。鼯鼠は和名モミ、一名はむさゝびと和名鈔鼯鼠の下に、引本草云、鼺鼠〔上音刀水反又刀追反〕一名鼯鼠〔上音吾和名毛美俗云無佐々比〕。兼名苑注云、狀如猨而肉翼似蝙蝠、能從高而下、不能從下而上。常食火烟、聲如小兒者也。かゝれば鼯鼠の和名は毛美なれども、いとふるくよりむさゝびとのみ唱へたるにや。歌にもモミとはよまず。萬葉集第三に、むさゝびは木ずゑもとむとあし引の山のさつをにあひにけるかもといふ歌あるを見ても知るべし。しかれども古言は多く田舍に遺るものなれば、むかし關東にては鼯鼠をさをさモミとのみいひしなるべし。その證は、今も日光山のほとりにては鼯鼠の老大なるものをモモングワアといへり。モモンはモミの訛なり。グワアはそが鳴く聲なるべし。又高老の義にてもあらん。物の老大なるを高老を歷たりといふ是なり。さてこのもみを下野にてはモモングワアと唱へ、又武藏にてはまみといへるなるべし〔モとマと音通へり〕。かくて昔麻布長坂のほとりには人家もあらで、樹立隙なく、晝もいと闇かりけるころは、鼯鼠などの多く栖むべき所なり。故にモミ穴の名は遺れるや。今も小兒を㩲すにモングワアといふ。鼯鼠の狀いとおそるべきものなればなり。マミ穴の名の高かりけるも〔今はこの穴なし〕、これらをもておもふべし。縱その處に鼯鼠の棲みたる事はあらずとも、いとおそるべき穴なりければ、モミ穴といひけんかし〔今もおそるべきものをモングワアといふが如し〕。さるを後の人はモをマにかよはしてまみ穴と唱へしは、是亦魔魅にもかよひておそるべきの義なり。且モミをマミといふよしは、今俗ののほきりをのこぎり、わたゝびをまたゝびといふたぐひなるべし。しかるに本草者流はその物をこそよく辨ずれ、多くは古言に疎く和名にくはしからねば、貒又獾をマミと訓ぜしのみ。そを當れりとすべからず。俗にいふマミは鼯鼠の事なるを、遂にいよいよ訛りて貒の事とす。かゝれば麻布なるまみあなを眞名には鼺鼠穴と書くべし。江戸の地名を誌せしものに、かばかりの考だもなきは、もとも遺憾の事にあらずや。

附ていふ、安永七年の夏、信濃なる善光寺の阿彌陀如來廻向院にてをがまれ給ひしとき、兩國橋の東のつめにて千年もぐらといふものを見せたり。もぐらはウグロモチの訛にて鼢鼠の事なり。おのれ尚總角のころなりければ、親しく目撃したりけるに、その形は小狗に類して、毛は短く薄黒に褐色を帶たり。喙尖りて狸の如く、四足は鼢鼠に類して人の手の指に似たり。その物鐵の條もて繫がれたるが、いと疲勞たるやうにて、頭だも得擡げず、築山の如くに積みたりける砂の上に臥したり。その折は何とも思ひわかざりしを、後に思へば、そは鼢鼠にはあらず、まことは猪獾にして貒なること疑ひなし。見せ物師などいふものは、只あやしう珍らかなるを旨とするなれば、貒といふともマミといふとも、大かたの江戸人は聞しらぬものなれば、鼢鼠の千載を歷たるなりとて欺きたるなり。當時の巷談に、こは本郷なる麹屋の空室より夜な夜な出て食を竊みしを生捕りたるなりといへり。虛實はさだかならねども、空室の内なればとて市中に栖むべきものにあらず。おもふに好事のものゝ畜ひけん貒の、放たれしより麹屋の空室のかたに穴して、久しく捿みたるものにやあらん。遙かに過ぎ來しかたをおもへば、こもはや四十八年のむかし語になりけるなり。

再いふ、松蘿館のつくしだちも程遠からねば、この小集をなごりとす。こはいとあかぬこゝちすなれば、又一二條を附錄とす。そはねこま、いたちの和名考、奇病の評等、即是なり。

猫は和名鈔〔毛群部〕に和名禰古萬なり。しかるに中葉より下略して禰古といへり。枕草紙〔をきな丸の段〕に、うへにさふらふおんねこは云々といひ、又源平盛衰記〔義仲跋扈の段〕に、猫間中納言の猫に間の字を添へたり。こは猫一字にてはねこと讀む故に、猫間と書きたる也。これふるくよりねこまといはず、ねことのみ唱へ來れる證なり。しかれども彼を呼ぶときは上略してこまこまといふ事、枕草紙〔これもをきな丸の段〕に見えて、今も亦しかなり。いづれまれ略辭なれば、物にはねこまと書くこそよけれ。契冲雜記に、猫はねこま、鼠子待の略歟。鼠の類につらねこといふあれば、ねこといふは略語の中にことわり背くべし。猫の性は鼠にても鳥にてもよくうかゞひて、必とり得んと思はねばとらぬものなり。よりて待とつけたる歟といへり。その書の頭書に、眞淵云、ねこはたゞ睡獸の略なるべし。けものゝけの字反こなり。或人苗の字につきてなづけしもの歟といへるはわろしといへり。解按ずるに、兩說共にことわりしかるべくもおぼえず。鼠子待は求め過たる憶說なれば、今更論ふべくもあらず。ねむりけものゝ義といへるもいかにぞやおぼゆ。大凡睡きを好むけものは猫にのみ限らず、狸狢鼬の類みなよく睡るものなり。わきて陽睡をたぬきねむりと唱へて、ねむりはねこよりたぬきむじなのかたに名高し。是等の和名にねもじをかけて唱へざりしをもて、ねこまのねもねむりけものゝ義にあらざるを知るべし。さばれ狸狢の類は眞の睡にあらず、そらねむりなれば、ねといはずといはん歟。猫とても熟睡は稀にて、多くはそらねむりなり。かれがいざときをもて知るべし。且けものゝけの字ノ反こなりとのみいひて、下のまの字を解ざるはいかにぞや。前輩千慮の一失歟。いと信じがたき說なり。按ずるに、猫をねこまと名づけしはさるよしにあらずかし。猫はねうねうと鳴くけものなれば、ねこまと名づけたり〔猫のねうねうとなくよしは是もをきな丸の段に見えたり〕。こまのこはけと五音通へり。まともと是れも音かよへり。こまはけもにて、けものゝのを略したり。是れねうねうと鳴くけものといふ義にて、ねこまといへり〔今も小兒は猫をにやあにやあといふ。その義自然とかなへり〕。かゝればねことのみいへばねけ也。こまとのみいへばけもなり〔のゝ字を略せり〕。いづれも略語の中にことわり背くといふべからず。然れどもねこまといふにますことなし。又鼠の類なるつらねこのねこは、ねこまのねことおなじかるべくもあらず。こはよく考へて追て志るすべし。又鄙言に猫の老大なるものをねこまたといへり。此事つれづれに見えたり。又くだりて貞享中の印本猫又づくしといふ繪草紙あり。又今川本領猫股屋敷といふふるき淨瑠理本もあり。此ねこまたは、丸太にこたなどの如く、ねこまにたを添て唱ふるにはあらで、猫岐の義なるべし。猫の老大に至て變化自在なるときは、尾のさきに岐いで來てふたつに裂ることありといへば、老大にて岐尾なるものをねこまたといふ歟。こはまたく俚言なり。又按ずるに、猫は貓に作るを正とす。埤雅に陸佃が云、鼠善害苗、貓能捕鼠、故字從苗といへり。ねこまをなへけものゝ義といへるはこれより出でたり。すべて字體によりて和名をとくものは附會なり。信ずるに足らず。

猫よりも猶よく鼠を捕ふるものは鼬なり。この字鼠に從ひ由に從ふ。按ずるに、鼠に從ふよしは形狀をもてす。由に從ふよしは、由は讀て猶豫の猶の如し。鼬もその性疑ふものにて、人を見れば走りつゝしばしば見かへるものなり。よりて由に從ふなるべし。譬へば狐の字の瓜に從ふが如し。瓜は讀て孤獨の孤の如し。狐は群居せざるものなり。よりてその字瓜に從ふ〔瓜は即孤なり〕。又按ずるに、いたちは和名鈔〔毛群部〕に爾雅集註を引て、鼬鼠〔上音由〕狀云々、今江東呼爲鼪〔音生〕、和名以太知。楊氏漢語抄云、鼠狼也といへり。いたちの釋名は白石の東雅、契冲雜記にも見えず。按ずるに、いたちの言はきたちなり。又火たちにもかよふべし。いときと連聲なればなり。さて鼬をいたちと名づくるよしは、此けもの夜は樹にのぼり、或はむらがりて氣を吹くときは、火氣天に冲ることあり。俗にこれを火柱といふ。この故にいたちと名づく。即氣立也。又火起也。鼬の火ばしらの事、本草綱目に載せず。李時珍は知らざりしか、漏らせし歟。大和本草にはこの事あり。鼬の怪はこれらにすぎず。彼が群居せし事は平家物語に見えたり。さばれさせる怪にはあらず。しかるに近頃異聞あり。そはいたちにはあらじとおもへど、因みに附錄すること左の如し。

文政四年辛巳の夏、江戸牛込袋町代地なる町人友次郎が妹〔名は梅〕十四歳奇病あり。このとし五月、神田佐久間町の名主源太郎がこの事を官府へ訴へ奉りしうたへぶみの寫しを見たり。今その實を傳へん爲に、俗文のまゝ謄錄す。かゝる事は風聞聽くとて、その事實なれば、向寄の肝煎名主より町奉行所へうたへまうす事なりとぞ。是もそのひとつなるべし。

牛込袋町代地金次郎店 友次郎妹 むめ 巳十四歳

右友次郎儀者、當巳拾七歳罷成り、時之物商賣致候者ニ而、店借り名前ニ御座候得共、内實九歳之節より奉公致し居、母祖母妹むめ三人暮しにて、平生洗濯物等致し、聊之賃錢を取、漸取續罷在候ものに御座候處、去辰八月中、むめ儀下谷小嶋町薬種店ニ而松屋次助と申者、兼而懇意ニいたし、無人之由申候間、右之者方へ預ケ置候處、次助儀同十月新右衛門町へ引越し、むめ義も連參候處、一體むめ儀持病ニ癪有之候處、新右衛門町へ引越候後も何となく氣分惡敷罷成り、入湯致し候節手足其外處々腫色付候儀なども有之、奇病之樣子ニ而、次助儀薬種渡世致候事故、薬用も致し遣し候得共、同樣ニ候間、去辰十二月中宿へ引取候處、其砌腕並ニ足膝等痛候儀も兩度有之而已ニテ、追日全快致候に付、先月晦日神田お玉池御用達町人川村久七ト申者方へ奉公に指出し候處、両三日過候得ば亦又氣分惡敷罷成り、食事も致兼候樣子に付暇取、當月九日九時過引取介抱致候處、身ノ内處々頻ニ痛候旨申し、甚苦ミ候間、痛ミ候處捺リ遣し候得共、乳之下皮肉之間に針有之、皮を貫き先出候に付、爪ニテ引拔遣し候得者、猶又同樣襟ヨリ〔襟は猶頂をいふが如し〕一本、膝ヨリ二本、小用之節隂門ヨリ三本、九日十日兩日ニ出、何レも錆無之絹縫針に有之、右之趣外科にも爲見候得共、塲處惡敷候故療治致し兼候段申之候間、致方なく其儘差置候得者、同十四日十五日頃より段々快方ニ罷成り、此節全快致候へ共、水落之邊ニ〔水落は猶鳩尾といふが如し〕針四五本殘り居候樣子に而、同廿三日朝同所より長さ二寸餘も有之候木綿仕付針壹本、錆候儘に而出候段、むめ並に同人母きん申し候間、右ニ付何ぞ存當り候も無之候哉ト承糺候得者、むめ義小嶋町に罷在候節、次助宅座敷並に二階等へ小便致し候樣子に而、疊ヨリ床迄通し濡有之候義度々御座候に付、若もむめニハ無之哉と疑心を請候義も有之、且又新右衛門町へ引越候後、夜分むめ臥居候側を鼬驅あるき、又ハ同人蒲團之下へ這入、夥數小便致候義每度之樣ニ相成、追々氣分惡敷罷成候段申之候。全く狐狸の所爲にも可有之哉、專奇病之趣、此節近邊取沙汰仕候ニ付、取調此段申上候。

巳五月 右最寄組合肝煎 神田佐久間町名主源太郎

かくておなじ年の六月廿七日、小濱の醫官杉田玄白わが庵に來訪して、鼬の妖怪狐狸にひとしきなる事ありやと問れしに、予答て云、鼬の怪は平家物語に、治承四年五月十二日午の刻ばかりに鳥羽殿にいたちおびたゞしく走りさわぎしかば、法皇やがて近江守なかかね〔時の藏人〕をもて安倍泰親にうらなはせ給ひしに、泰親すなはち今三日が中に御よろこび幷に御なげきあらんとうらなひ申けるに、はたしてその事おはしましゝよし見えたり。この他狐狸にひとしき怪談は和漢に所見なしといひしに、玄白すなはち前件を擧て、先月既にこれらの事あり、いかゞ思ひ給ふにやと又問れしに、予答て、こはその鼬と思ひしも鼬にはあらずして、尾さき狐の所爲歟といひしを、なほこゝろ得ざりけん、尾さき狐はいかなるものぞと請問れしに、ふたゝび答て、尾さき狐は上毛下毛に多かり。戸田川をさかひとして江戸には絶て入らずとなん。その狀鼬に似て狐よりちひさし。尾はきはめてふとかるに、尾さき裂けて岐あれば、尾さきの名さへ負せしならん。上毛下毛のみに限らず、武藏といふとも北のかたには此けもの稀にあり、ともすれば人の家につくことありといふ。そが一たびつきたる家は、貧しかりしもゆたかになりぬ。しかれども多くはその身一期のほど、或はその子の時に至りて、衰へ果てずといふことなし。そが既に憑きたる家の年々ゆたかになるまゝに、狐の種類も次第に殖えてむれつどふこと限りなし。もしその家のむすめなるもの他村へよめりする事あれば、尾さき狐も相わかれて聟の家につくといふ。こゝをもて人忌み嫌はざるものなく、寇を防ぐが如しとなん。近頃伊豆の三嶋のほとりにて尾さききつねをつかふものあり。この事江戸に聞えしかば、有司うけ給はりて彼の地に赴き、狐つかひを搦捕て、やがて將て參る程に、川崎の泊りまでは夜每に鼬のあまた鳴きしこと夜もすがら絶ざりしに、六郷川を渡りてはさる事もなかりしとぞ。これらを合し考ふるに、件の少女梅が奇病も鼬にはあらずして、尾さき狐の所爲なるべし。しかれどもかの狐は戸田川をさかひとして江戸へは絶てより來ずといふ。げにさる事もあるべきにや。彼三嶋なる狐つかひも、川崎の宿までは猶その狐のつきそひ來けんを、六郷川をさかひとして江戸へは終に入らぬなるべし。いともかしこき御膝もとのおほんいきほひにこそあんなれ。かゝれば件のあやしき病を尾さき狐のわざなりとさだかにいふべきよしもなけれど、又かの狐をつかへるもの他郷より來ぬる事、亦これなしとすべからず。さても此尾さき狐は唐山にもあるものならん、その漢名をしらまくほしとて、年來ふみどもあさるものから、未だ見る所もあらず。和君は二世の蘭學者なり。蠻名などをも考へてしらせ給へといひし事あり。例の蛇足の辯ながら、ありつるまゝにしるすのみ。

乙酉如月初八 解再識

注

写本の位置
写本は3167の49カット目左ページから59カット目左ページまで。49カット目左ページに題と「著作堂主人稿」の署名があり、53カット目右ページの中ほどから猫の考証、55カット目右ページの後半から鼬の考証、56カット目右ページから奇病の訴状、58カット目右ページの後半から杉田玄白との問答が続く。59カット目左ページの末尾に「乙酉如月初八 解再識」とあり、60カット目右ページから第8話「駿河町越後屋替紋合印の事」が始まる。
校合
写本の目録は「まみ穴幷まみといふ獸の和名考」と「ねこまいたち和名考 附 奇病の評」を別の二項に分けるが、本文では一つの題の下に副題として並び、猫の考証に入る所にも見出しはない。活字本系テキストも一編を二回に分けて載せるだけなので、一つの passage にした。
校合
活字本系テキストは末尾に「百川云」で始まる批評を載せるが、写本にはない。写本は「解再識」で終わり、続けて次の話に入る。
校合
「稿をマミとす」の「稿」は写本の字形で、活字本系も同じ。『大和本草』の項目名としては「猯」の誤写と思われるが、写本のまま残した。
校合
「瓜菓」「惟言」「火烟」「小嶋町」「聞しらぬ」「旨とするなれば」「搢紳」は写本の読み。活字本系テキストは「爪菓」「憔言」「火姻」「小島町」「聞きしらぬ」「旨とするなるに」とする。「則貒なり」の「貒」は写本の字形で、活字本系は「瑞」とする。
校合
「モモンはモミの訛なり」は活字本系に従った。写本は「訛りし」とも読め、判読を保留する。「小兒を㩲す」の字は写本の字形が崩れており、活字本系の字を採った。
校合
「四足は鼢鼠に類して人の手の指に似たり」は活字本系に従った。写本は「人」の前に「老」に似た一字があり、判読を保留する。
校合
「漸取續罷在候」は活字本系に従った。写本は「漸續」とも読め、「取」の有無は判読を保留する。「左右に在し處」など候文の細部は写本に従った。
注記
「いともかしこき御膝もと」は写本で「御膝もと」の前を改行して敬意を示す平出の形にする。原文では改行を再現せず続けた。
注記
漢文の引用は写本の訓点を外して原文に置き、読みやすい本文と現代語訳では書き下しと訳を示した。
校合
沾凉は『江戸砂子』の著者菊岡沾凉。篤信は貝原益軒の名。稲若水は本草学者稲生若水。只野必大は『本朝食鑑』の著者人見必大のことで、写本と活字本系がともに只野とする。松蘿館は西原好和で、「つくしだち」は九州への旅立ちと解した。杉田玄白は小浜藩医で、文政四年当時八十九歳。人物の同定は雲亭の推定で未確認。
注記
「まみ穴」は今の港区麻布狸穴町。「尾さき狐」は上州に伝わるオサキ狐。戸田川は荒川の戸田の渡し、六郷川は多摩川の下流で、いずれも江戸の境と解した。
注記
「モモングワア」「モングワア」はむささびを指す関東の俗称で、後の「もんもんぐわあ」につながる。「千年もぐら」の見世物は安永七年の善光寺出開帳の時の話で、馬琴は当時十二歳。「四十八年のむかし」は文政八年から数えた。
注記
訴状は写本の候文をそのまま原文に置き、読みやすい本文では仮名を補って読み下し、現代語訳は敬体にした。

AI試訳 / 専門家未校閲