雲亭日本古典図書室収録作品の一覧

五馬 三馬 二馬

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兎園小説 / 曲亭馬琴ほか 兎園会の会員 / 第三集 第1話 / 著作堂 滝沢馬琴

馬にまつわる奇談を十条に束ねる。墓を守った馬から松前老侯の駿馬二頭まで。

本文 現代語訳

五馬 三馬 二馬 著作堂稿
五馬 三馬 二馬 著作堂の草稿
陸奥の伊達郡箱崎の農民伝兵衛が子に、松五郎と呼ばれしものは、その性、馬を好むにより、栗毛の馬を一疋もてり。さればをりをり乗り走らするに、その秣飼ふことも、また撫で洗ひする事も、よろづ人には任せずして、手づからするを楽しと思へり。その馬すでに五歳になりける文政二年己卯の冬のころ、松五郎は病みわづらひて、その年の十二月十二日に身まかりぬ。享年二十なりけるとぞ。さは独り子の事にしあなれば、親の嘆きはいふべくもあらぬを、貧しくもあらぬ民なれば、松五郎が器用調度のめでたしと思ひしものは、その亡骸ともろともに、みなただ棺に斂めつつ、家を去ること二三町なる田の畔の墓所に送りて、かたのごとくに葬りけり。〔田舎は亡者を寺に送らず、その所持の田の畔を墓塋として葬ること、このわたりには限らず、関東大かたはかくのごとし。〕されば松五郎が遺愛の馬は、ぬしの不幸の事に紛れて、誰とて見かへるものもなく、わづかに秣を与ふるのみ。厩に繋ぎ置きたりしに、その次の夜の子の時ばかりに、馬はにはかに狂ひたけりて、絆をちぎり、戸を蹴はなちて、いづことはなく馳せ出でたり。あるじはさらなり、僕どももこの物音に驚き覚めて、「こはいかに、まさしく馬こそはなれたれ、とく追ひとめよ」と罵り騒ぐに、真夜中の月あざやかなれば、松明を把るまでもなく、索を腰にし、棒を引き提げて、おのもおのも追ふ程に、馬ははやくも松五郎が墓所の辺に馳せゆきて、そこにつどひし癖者らを馳けたふし、踏みにじる勢ひ特に猛くして、当たるべくもあらざりけん、矢庭に四五人蹴仆されて、しばしは起きも得ざりし折、伝兵衛が奴僕らは推しつづきて追ひかけ来つ。このありさまにまた驚きて、あたりを見るに、松五郎が新墓を発かれたり。「さてはしやつらが所為にこそ、みな逃すな」と罵りて、ひとりも漏らさず生け捕りけり。その時、主人伝兵衛もやや走り来て、驚嘆しつつ、まづ癖者らを責め問ふに、包み果つべくもあらざれば、「亡き人の棺の中には物あまた入れられしといふ風聞に悪心おこりて、これかれ示し合はせつつ、ひそかに墓を発く折、この馬たちまち走り来て、それがしらを踏み仆したり。筋骨痛みておめおめと搦め捕られたりければ、後悔その甲斐なけれども、命ばかりは助けたまへ」と、異口同音に詫びにけり。伝兵衛これをうち聞きて、「この馬わが子の恩を感じて、その別れを悲しみけん、かの日よりしてはかばかしく秣だも食はざりき。それだに奇特の事なるに、その身は厩に繋がれながら、今宵この盗人らがわが子の墓を発くをよく知りたるは奇といふべし。もしこの馬のなかりせば、誰かまたわが子のためにこの辱を雪ぐべき。よくこそしたれ」と馬を誉めて、感涙を拭ひつつ、独りつらつら思ふやう、「明日この事の趣を領主に訴へ申さば、怨みを返すに似たれども、今この五人の悪者らは隣村の百姓にて、面を識れるものどもなるに、墓の土こそ掘りおこされたれ、いまだ棺は発くに至らず。よしなき罪を造らんより、わが子の菩提のためにも」とて、その非を譴めて向後をいましめ、そのまま放ち帰せりとぞ。
陸奥の伊達郡箱崎の農民伝兵衛の子で、松五郎と呼ばれた者は、生まれつき馬が好きで、栗毛の馬を一頭持っていた。そこで折々乗り回し、秣を飼うことも、撫でて洗うことも、何もかも人任せにせず、自分の手でするのを楽しみにしていた。その馬がすでに五歳になった文政二年己卯の冬ごろ、松五郎は病にかかり、その年の十二月十二日に亡くなった。享年二十だったという。何しろ一人息子のことなので、親の嘆きは言うまでもなかったが、貧しくもない百姓なので、松五郎が愛用の道具や調度のうち立派だと思う物は、亡骸と一緒に、みな棺に納めて、家から二三町離れた田の畔の墓所に送り、型どおりに葬った。〔田舎では死者を寺に送らず、自分の持つ田の畔を墓地として葬ることは、このあたりに限らず、関東ではおおむねこのとおりである。〕こうして松五郎が遺した馬は、主人の不幸にまぎれて、誰も顧みる者がなく、わずかに秣を与えられるだけだった。厩に繋いだままにしておいたところ、その翌日の夜の子の刻ごろ、馬は急に狂い猛って、綱をちぎり、戸を蹴り放ち、どこへともなく走り出た。主人はもちろん、下男たちもこの物音に驚いて目を覚まし、「これはどうしたことか、まさしく馬が放れたのだ、早く追い止めよ」と怒鳴り騒ぐ。真夜中の月が明るかったので、松明を持つまでもなく、縄を腰にし、棒を引っ提げて、めいめい追いかけると、馬は早くも松五郎の墓所のあたりに走って行き、そこに集まっていた曲者たちを駆け倒し、踏みにじる勢いがとりわけ猛烈で、立ち向かえるはずもなかったのだろう、たちまち四五人が蹴り倒され、しばらくは起きることもできないでいるところへ、伝兵衛の下男たちが続いて追いかけて来た。この有様にまた驚いてあたりを見ると、松五郎の新しい墓が掘り返されている。「さてはこいつらの仕業か、一人も逃がすな」と叫んで、一人残らず生け捕りにした。そのとき主人の伝兵衛もようやく走って来て、驚きながらまず曲者たちを問い詰めると、隠し通せるものではなく、「亡くなった人の棺には品物がたくさん入れられたという噂に悪心を起こし、みなで示し合わせてこっそり墓を掘っているところへ、この馬が突然走って来て、私たちを踏み倒しました。筋骨が痛んでおめおめと捕まってしまったからには、後悔しても甲斐はありませんが、命だけはお助けください」と、口をそろえて詫びた。伝兵衛はこれを聞いて、「この馬はわが子の恩を感じ、その別れを悲しんでいたのだろう、あの日から秣もろくに食わなかった。それだけでも奇特なことなのに、その身は厩に繋がれていながら、今夜この盗人たちがわが子の墓を掘るのをよく知ったのは、不思議というほかない。もしこの馬がいなかったら、誰がわが子のためにこの恥を雪いでくれただろう。よくやった」と馬を誉め、感涙を拭いながら、一人つくづく考えた。「明日この事の次第を領主に訴え出れば、仕返しをするようなものだが、この五人の悪者は隣村の百姓で、顔を知っている者たちであり、墓の土こそ掘り起こされたが、まだ棺を開くには至っていない。無用の罪を作るよりも、わが子の菩提のためにも」と考えて、その非をとがめ、今後を戒めて、そのまま放して帰したという。
さればまた松前の老君はことさら馬を好み給ふに、これらの由を伝へ聞きて、「われその馬を得まくほりす、たとひ他領の百姓なりとも価は論ぜず買ひとれ」とて、梁川にをる家臣らに下知せられたりければ、家臣何某うけ給はりて箱崎に赴きつつ、しかじかと語らふに、伝兵衛つやつや諾はず、「千々の黄金を賜はるとも、この馬のみは参らせがたし」と言葉を放ち、推辞申して、その子の在りし時に変はらず寵愛しつと聞こえたり。そもそもこの一奇譚は、箱崎のほとりなる鍼医正宅といふもの、松前家の太夫の子蠣崎生〔字は三七〕に消息して、しかじかと告げにければ、江戸の邸にもはやく聞こえて、老君にも知ろし召され、次の年の睦月の末に、その臣長尾友蔵〔後に名を改めて所左衛門といふ〕をもて解に告げさせたまひしかば、雑記中に書きつけおきしを、今またここに抄出せり。おもふにこの松五郎が遺愛の馬は、かの宋の周密が『斉東野語』〔巻七〕に載せたりし畢再遇が遺愛の名馬黒大虫にも、一しほ優りて、多く得がたき美譚といはんか。世に人の老僕たる者、忠臣節義の心薄く、かの馬にだも恥ぢざらんや。この一条は勧懲の端なるべければ、はじめに出だしつ。〔右五馬之一〕
さて、松前の老君はとりわけ馬を好まれるので、この話を伝え聞いて、「わしはその馬が欲しい。たとえ他領の百姓であっても、値段は問わず買い取れ」と、梁川にいる家臣たちに命じられた。家臣の某が命を受けて箱崎へ赴き、しかじかと交渉したが、伝兵衛はまったく承知せず、「千の黄金をいただいても、この馬だけは差し上げられません」と言い放ち、辞退して、息子が生きていたときと変わらず可愛がっていると聞いた。そもそもこの奇談は、箱崎の近くの鍼医正宅という者が、松前家の太夫の子である蠣崎生〔字は三七〕に手紙で知らせたことから、江戸の屋敷にも早く伝わり、老君のお耳にも入り、翌年の正月の末に、家臣の長尾友蔵〔後に名を所左衛門と改めた〕を通じて私に告げさせてくださったので、雑記に書きつけておいたものを、今またここに抜き書きした。思うに、この松五郎の遺した馬は、宋の周密が『斉東野語』〔巻七〕に載せた畢再遇の愛馬「黒大虫」よりもいっそう優れた、めったにない美談と言えるのではないか。世間で人の年老いた下僕である者は、忠臣節義の心が薄く、あの馬にも恥じないでいられようか。この一条は勧善懲悪の糸口となるだろうから、最初に出した。〔右は五馬の一〕
○こはまたその次の年、同州おなじ郡梁川の近村なる貧民の、駄馬一疋をもてる有り。〔その人の名を忘れたり〕かくて荒田をかへす日もこの馬をもて資とし、また耕作の暇ある日は薪を負はせ、旅客を乗せて駄賃をとること大かたならぬに、その馬もとより柔順にて、主の心に随ひければ、世にまた二なきものに思ひて、年来を経る程に、その年〔文政三年〕の夏の頃、ある日また物を負はして近郷に赴きつ、足を獲て帰るさに、家路も近くなりし時、その馬たちまち苦しげに一声高く嘶きしを、見かへらんとするほどしもあらず、馬ははやくも走りかかりて、その肩さきに食らひ着きけり。「こはそもいかに」と驚き叫びて、牽き放さんとすまひしかば、ひとへ衣もろともに肉を食ひとられけり。さばれしばしは苦痛を忍びて、とり鎮めんとしつれども、かなふべくもあらざれば、林の中に逃げ走りしを、馬は透かさず追ひかけ来て、仰さまに噛み倒し、また胸さきに食らひ着きて、頻りにその血を吸ふ程に、ぬしはたちまち息絶えけり。折から旅ゆく独りの武夫〔足軽体のものなりしといふ〕そのありさまを見てければ、林の中に分け入りて、絆のはしを取りあげつつ、牽き放さんとしたれども、馬はそがままちつとも動かず、眼中血走り、人を射て鬼灯のごとく赤かりける気色、まことにすさまじきを、捨てて行かんはさすがにて、その刀をもて鞘ながら馬の尻を撃つほどに、つひには鞘をうち摧きて、したたかに斬りてけり。斬られてすこし怯みし馬を、やうやくに牽きのけて、絆を取りつめ、樹の幹に繋ぎ留めんとする程に、あたりを過ぎる里人ら追々に来にければ、くだんの武夫は初めより見しありさまを告げ知らせて、馬を里人にわたしつつ、林を出でて行きにけり。後に聞くに、この武夫は二本松の藩中にて、何がしといふものなりとぞ。さる程に農夫の子は、里人らが知らせによりて、あわてまどひて走り来つ。領主に訴へ、検使を請うて、親の亡骸を葬るものから、なほそのうらみのやるかたなさに、馬はすなはちその処に生きながらにこれを埋めて、竹槍をもて思ひのままに刺し殺したりといふ。こは当時松前家の領分の事なりければ、老君の興継に物語らせ給ひしを、おのれも伝へ聞きしかど、書き記さんともせざりしかば、今はその農夫の名も村の名もみな忘れたり。こは文政二年三年と打ち続きたる事にして、おなじ郡の百姓の貧富おのおの異なれども、等しく愛せし馬なるに、松五郎が遺愛の馬は古主のために賊を禦ぎて、郷に忠義の誉れを得たり。またこの農夫が愛せし馬は、故なく主を食ひ殺して、五逆に漏れぬ罪を醸せり。おもふにこのくだんの馬は、その途中よりゆくりなく疫熱の疾を受けて、狂乱したるものなるべし。人にもまたかかる事あり。牛馬にのみ限るにあらねど、畜生はなほ測りがたかり。されば牛馬猢猻をもて世をわたるもの多かれども、やすきに馴れて用心に憚り、ややもすればその害にあふものもまた少なからず。それ身のためには、この一条を警めとすべきのみ。〔右五馬之二〕
○これはまたその翌年のこと、同じ陸奥の同じ伊達郡、梁川の近村の貧しい百姓で、荷馬を一頭持つ者がいた。〔その人の名は忘れた〕荒れ田を耕す日もこの馬を助けとし、耕作の暇な日には薪を負わせ、旅人を乗せて駄賃を取ることが並でなかったが、その馬はもともとおとなしくて主人の心に従ったので、世に二つとないものと思い、年月を重ねるうちに、その年〔文政三年〕の夏ごろ、ある日また荷を負わせて近郷へ出かけ、駄賃を得て帰る途中、家路も近くなったとき、その馬が突然苦しげに一声高く嘶いた。振り返ろうとする間もなく、馬は早くも走りかかって、主人の肩先に食らいついた。「これは一体どうしたのだ」と驚き叫んで引き離そうともがくと、単衣もろとも肉を食いちぎられた。それでもしばらくは苦痛をこらえて鎮めようとしたが、どうにもならず、林の中へ逃げ走ったところ、馬はすかさず追いかけて来て、仰向けに噛み倒し、また胸先に食らいついて、しきりにその血を吸ううちに、主人はたちまち息絶えた。折から旅の途中の一人の武士〔足軽らしい者だったという〕がその有様を見て、林の中に分け入り、綱の端を取り上げて引き離そうとしたが、馬はそのまま少しも動かず、目に血が走って人を射るように鬼灯のごとく赤い様子が実に凄まじい。見捨てて行くわけにもいかず、刀を鞘のまま馬の尻に打ちつけるうちに、ついには鞘を打ち砕いて、したたかに斬りつけた。斬られて少しひるんだ馬をようやく引き離し、綱を引き詰めて木の幹に繋ぎ留めようとするところへ、通りかかる里人たちが次々に来たので、その武士は初めから見た有様を告げ、馬を里人に渡して、林を出て行った。後で聞くと、この武士は二本松藩の何某という者だったそうである。そのうちに農夫の子は里人たちの知らせを受け、慌てふためいて走って来た。領主に訴え、検使を請うて、親の亡骸を葬ったものの、なお恨みのやり場がなく、馬はその場に生きたまま埋めて、竹槍で思う存分に刺し殺したという。これは当時松前家の領分のことだったので、老君が興継にお話しになったのを、私も伝え聞いたが、書き記そうともしなかったので、今ではその農夫の名も村の名もみな忘れた。これは文政二年と三年に打ち続いた事件で、同じ郡の百姓の貧富はそれぞれ違うが、同じように愛した馬でありながら、松五郎の遺した馬は旧主のために賊を防いで、郷里に忠義の誉れを得た。一方この農夫の愛した馬は、故もなく主人を食い殺し、五逆から漏れない罪を醸した。思うにこの馬は、途中で思いがけず熱病にかかり、狂乱したものだろう。人にもまたこういうことはある。牛馬に限らないが、畜生はいっそう測りがたい。だから牛や馬や猿で世を渡る者は多いが、慣れて用心を怠り、ともすればその害に遭う者もまた少なくない。わが身のためには、この一条を戒めとするべきである。〔右は五馬の二〕
○また一奇談あり。武蔵国入間郡河越の城下なる石原の里人に、増田半蔵といふものあり。その性、侠気あるものなれば、人のためには骨を折りて、貨財をも惜しとせず。されば親に愛を失ひし不肖の子、良人に飽かれて去られし妻、あるいは若人の物あらがひしたる、あるいは男女の痴情によりて相携へて奔りし類も、「頼む」と云へば身に引き受けて、必ず和睦をとり結ばせて、その本に収むるを、よにおもしろき事に思へり。しかるに文政四年辛巳の春、ある夜あやしき夢を見たり。たとへば一匹の良馬忽然と半蔵が枕に立ちて、さながら人のもの云ふごとく、いと憂はしげに告げていふやう、「それがし初めは何がし侯の乗馬にて候ひしを、後、故ありて馬商人の何某に買ひとられ、つひにまた売りかへられて、果ては農家の駄馬となれり。この故に水田を鋤きては泥にまみれ、糞土を負ひては穢れに犯さる。百折千磨の艱苦によりて、いく程もなく斃れたるわが亡骸は、榎の木野に擡げ出だして棄てられたり。かくて屠児に皮を剥がれ、鳶鴉に肉を食はれて、ただよのつねなる駄馬にひとしき死にざまをしつる事、恥ぢてかつ嘆くにもあまりあり。願ふは和君憐みて、わが亡骸を埋め玉へ。わが身にはよき玉あり。そは亡き骸の背梁のあたり、高き所にあらんずらん。いささかこれを報とす。探りとり玉へかし」と云ふかと思へば、覚めにけり。半蔵驚きあやしみて、半信半疑しながらも、夜明けてその野にゆきて見るに、果たして馬の屍あり。いはれしあたりを掻き撈るに、すでにして玉を獲たり。その大きさ毬のごとし。すなはちこれ鮓答なり。俗にはへいさらばさらといふか。西域の人もつとも至宝とす。密呪して雨を祷るもの是のみ。半蔵すでに玉を獲て、里人に由を告げ、その馬の亡骸を葬らんとて議する程に、近郷の民伝へ聞きて、力を勠せ銭を集め、つひに石原の町観音寺に葬りて、上に建つるに碑をもてし、称へて馬頭観世音といふ。碑銘はすなはち同郷の士小島蕉園の創するところ、今録する事左のごとし。
○また一つ奇談がある。武蔵国入間郡川越の城下、石原の里人に増田半蔵という者がいた。生まれつき侠気があり、人のためには骨を折り、財産も惜しまない。だから親の愛を失った不肖の子、夫に飽きられて去られた妻、あるいは若者の喧嘩、あるいは男女が痴情で手を取り合って駆け落ちした類も、「頼む」と言えば引き受けて、必ず和睦させ、元の鞘に収めることを、世にも面白いことと思っていた。ところが文政四年辛巳の春、ある夜、不思議な夢を見た。一頭の良馬が忽然と半蔵の枕元に立ち、まるで人がものを言うように、いかにも憂わしげに告げて言う。「私は初め某侯の乗馬でしたが、後に故あって馬商人の某に買い取られ、さらに売り替えられて、果ては農家の荷馬になりました。そのため水田を鋤いては泥にまみれ、糞土を運んでは穢れに犯され、百折千磨の苦しみでほどなく斃れた私の亡骸は、榎の木野に担ぎ出して捨てられました。こうして皮剥ぎに皮を剥がれ、鳶や鴉に肉を食われ、ただありふれた荷馬と同じ死にざまをさらしたことは、恥じても嘆いても余りあります。どうかあなた様、憐れんで私の亡骸を埋めてください。私の身にはよい玉があります。それは亡骸の背中のあたり、高くなった所にあるでしょう。ささやかながらこれをお礼とします。探り取ってください」。そう言ったかと思うと目が覚めた。半蔵は驚き怪しみ、半信半疑ながら、夜が明けるとその野に行ってみると、果たして馬の屍があった。言われたあたりを掻き探ると、すぐに玉を得た。大きさは毬ほどである。これがすなわち鮓答である。俗にへいさらばさらというものか。西域の人が最も至宝とし、呪文を唱えて雨を祈るのに用いるのはこれだけである。半蔵は玉を得て里人に事情を告げ、その馬の亡骸を葬ろうと相談すると、近郷の民が伝え聞いて力を合わせ、銭を集め、ついに石原の町の観音寺に葬り、その上に碑を建てて、馬頭観世音と称えた。碑銘は同郷の士、小島蕉園の作るところで、今ここに記すこと左のとおりである。
馬霊誌并びに銘
馬霊誌ならびに銘
天地の大、庶物の夥しき、怪と称するに足る者あり、聖人特に語らざるのみ。無しと謂ふべからざるなり。河肥石原の里に、増田半蔵といふ者あり。夢に一良馬来たりて謂ひて曰く、「我はもと侯家の乗馬、寵を得ること久し。後、故ありて商人の家に獲られ、また農家に転貨せられ、田を耕し糞を駄ひ、体羸れ力竭きて、幾ばくもなくして斃る。これを榎野に棄て、獣工皮を剥ぎ、烏鳶肉を啄む。つひに凡馬の死と異なるなし。願はくは子憐みを垂れてこれを瘞めよ。我に良玉あり。吾が屍中、背の隆然たる処に在り。いささかもつて子に報いん」と。寤めてこれを異しみ、往きて視るに、果たして馬屍あり。玉の大きさ毬のごときを獲たり。いはゆる鮓答なり。すなはちこれを葬る所以を謀るに、近里伝へ聞きて、資を拚ち力を勠せ、これを里中の観音寺に葬り、碑をその上に建て、称するに馬頭観音をもてすと云ふ。聞く、半蔵性任侠、好みて人の急に趨く。おもふに駿馬の霊、これを知りて来たり託せしなり。怪と謂はざるべけんや。余、某の請ひによりて略ぼ来由を記し、係くるに銘をもてす。銘に曰く、
天地は大きく万物は多く、怪と呼ぶに足るものはあるが、聖人はことさら語らなかっただけで、無いと言うことはできない。川越の石原の里に増田半蔵という者がいる。夢に一頭の良馬が来て言った。「私はもと侯家の乗馬で、長く寵愛を得た。後に故あって商人の家に取られ、また農家に転売され、田を耕し糞を運び、体は痩せ力は尽きて、ほどなく斃れた。榎野に捨てられ、皮剥ぎに皮を剥がれ、烏や鳶に肉を啄まれ、結局はありふれた馬の死と変わらない。どうかあなたが憐れんで埋めてほしい。私には良い玉がある。私の屍の中、背の盛り上がった所にある。ささやかながらこれであなたに報いたい」。目覚めて怪しみ、行って見ると、果たして馬の屍があり、毬ほどの大きさの玉を得た。いわゆる鮓答である。そこで葬る手立てを相談すると、近くの里が伝え聞いて、資金を出し合い力を合わせ、里の観音寺に葬って碑をその上に建て、馬頭観音と呼ぶことにしたという。聞けば半蔵は性格が任侠で、好んで人の急場に駆けつける。思うに駿馬の霊がそれを知って、来て託したのだろう。怪と言わずにいられようか。私は某の求めによって来歴をおおよそ記し、銘を添える。銘に言う、
生きて一たび寵を獲たり、伯楽の知に遇へりと謂ふべし
生きては一たび寵を得た、伯楽に見出されたと言ってよい
死して祀るに仏をもてす、塩車の困もかれ一時
死しては仏として祀られる、塩車の苦しみもあれは一時のこと
文政辛巳年春三月 小島蕉園記
文政辛巳年春三月 小島蕉園記す
辛巳の夏六月二十七日、予この写本を獲て、聞くこと上に記すがごとし。伝写の誤り多かりしを、意をもてわづかに是を補ひ、点を加へて語勢を助く。文は雄固に似ざれども、その事はこれ実なるべし。〔右五馬之三〕
辛巳の夏六月二十七日、私はこの写本を得て、聞いたことは上に記したとおりである。伝写の誤りが多かったので、文意によってわずかに補い、句点を加えて語勢を助けた。文は雄渾堅固とは言えないが、その事柄は事実だろう。〔右は五馬の三〕
○また一奇事あり。文政五年壬午の春三月二十一日、品川大木戸の西の方、高輪の初めの町の海辺にて、荷を負はせたりける馬を杭に繋ぎ置きたりしに、空車を推すものの走りてそこを過ぎしかば、この馬いたく驚きて、飛びあがり飛びあがり、両三度狂ふ程に、ゆくりなく杭の頭に馬の腹を衝きあてたり。その勢ひやはげしかりけん、たちまち腹を突き破りて、背までぞ抜けたりける。馬は頻りに苦しみて、いよいよ狂ひ騒ぐ程に、つひには杭を推し折りけり。その時馬奴走り来て、杭を抜かんと立ちよりしを、なまじひに馬に蹴られて、「あ」と叫びつつ仆れたり。見る人あわてまどふのみ。おそれて近づくものもなし。とかくする程に、馬はやうやく狂ひつかれて、そがままに死にき。馬奴はなほ半死半生なりけるを、その町より轎に乗せて宿所へ送り遣はしけり。こは目黒のほとりより牽きもて来つる馬なりとぞ。予が相識れる豪家の老僕、「この日高輪なる薩摩侯の屋敷へ参るをり、親しく目撃したり」とて、おなじ月の二十六日に予がためにいへり。これも怪有なる事にあらずや。〔右五馬之四〕
○また一つ奇事がある。文政五年壬午の春三月二十一日、品川大木戸の西、高輪の最初の町の海辺で、荷を負わせた馬を杭に繋いでおいたところ、空車を押す者が走ってそこを通り過ぎたので、この馬はひどく驚き、飛び上がり飛び上がり、二三度暴れるうちに、思いがけず杭の頭に腹を突き当てた。その勢いが激しかったのだろう、たちまち腹を突き破って背中まで抜けてしまった。馬はしきりに苦しみ、ますます狂い騒ぐうちに、ついに杭を押し折った。そのとき馬子が走って来て、杭を抜こうと近寄ったところ、なまじ馬に蹴られて、「あっ」と叫んで倒れた。見る人は慌てふためくばかりで、恐れて近づく者もない。そうこうするうちに、馬はようやく暴れ疲れて、そのまま死んだ。馬子はまだ半死半生だったのを、その町から駕籠に乗せて宿所へ送り帰した。これは目黒のあたりから引いて来た馬だという。私の知り合いの豪家の老僕が、「この日、高輪の薩摩侯の屋敷へ参る折に、じかに目撃した」と言って、同じ月の二十六日に私に話してくれた。これも不思議なことではないか。〔右は五馬の四〕
○また一奇事あり。松前の藩中にて、しかるべき輩は馬一二疋をもたぬはなし。しかるにともすれば夜中に熊の厩に入りて、馬を食らふことあり。ことにすぐれし大熊は、まづその馬を食らひ殺して、おのが背に引きかけつつ、走りて山にもてゆくとぞ。これによりおのもおのも厩の戸鎖を固くして、その害を防ぐこと夜盗を禦ぐに異ならねども、これらは常の事なれば、彼の地の人は何とも思はず。それにもましてめづらかなりしは、文政五年壬午の春のころ、松前の家臣何某が〔その姓名を忘れたり〕厩の馬、ある夜頻りに狂ひ騒ぎて、いと苦しげに嘶きたり。あるじはこれに驚き寤めて、「厩に熊や入りにけん、みなとく起きよ」と呼び覚まして、下部に紙燭をとらせつつ、出でて厩にゆきて見るに、戸ざしは元のままにして、物の入りたるやうにもあらず。戸を推しひらきて内を見るに、目にさへぎるものもなし。されども馬は苦しげに嘶くこと、はじめのごとし。心得がたく思ひしかば、紙燭を高くあげさせて、なほあちこちをつらつら見るに、あやしむべし、ひとつの鼬、馬の項にうちのぼりて、その鬣を食ひ破りつつ、血を吸ふてぞをれりける。「さては彼奴がわざなりけり。要こそあれ」と、持ちたる棒を取りなほさんとする程に、鼬ははやく飛び下り、袂の下を潜ると見えしが、ゆくへも知らずなりにけり。げに繋がれたる馬のうなじを鼬に食はれては、せん方なきもことわりなり。その疵はいと深くて、拳も入るべきばかりなるを、酒にて洗ひ、薬を傅けて、とりどりすれども久しく癒えず。およそ二か月あまりにしてやうやくおこたり果てしかど、その処にのみ鬣なくて、疵物にこそなりにたれ。「鼬の馬を食ひし事は、松前にても珍らし」とて、人みな舌を巻きしとぞ。この一条は蠣崎生〔字は三七〕その年文月の初めつかた、わが庵を訪はれし日、しかじかと話せられたり。おのれ是を打ち聞きて思ふに、「天智の帝の御宇、高倉の御時に、鼠が馬の尾に憑きて巣を食ひけるは、事はふりにたり。新奇に走る今の世には、鼬が鼠に代るべく、またその尾にはつかずして、鬣をこそ食ひつらめ」と、あからさまに答へしかば、蠣崎生は手をうち鳴らして、ほとほと笑壺に入りにけり。〔右五馬之五〕
○また一つ奇事がある。松前の藩中では、それなりの身分の者で馬を一二頭持たない者はない。ところがともすると夜中に熊が厩に入って馬を食うことがある。とくに大きな熊は、まずその馬を食い殺し、自分の背に引っかけて、走って山へ持って行くという。そこで誰もが厩の戸締まりを固くして、その害を防ぐことは夜盗を防ぐのと変わらないが、これらは常のことなので、彼の地の人は何とも思わない。それにもまして珍しかったのは、文政五年壬午の春ごろ、松前の家臣某〔その姓名は忘れた〕の厩の馬が、ある夜しきりに狂い騒いで、いかにも苦しげに嘶いた。主人はこれに驚いて目を覚まし、「厩に熊が入ったのだろう、みな早く起きよ」と呼び起こし、下男に紙燭を持たせて出て厩へ行って見ると、戸締まりは元のままで、何かが入った様子もない。戸を押し開けて中を見ても、目に留まるものはない。それでも馬は苦しげに嘶くこと、初めのとおりである。合点がいかず、紙燭を高く上げさせて、なおあちこちをよく見ると、不思議なことに、一匹の鼬が馬の首に乗って、たてがみを食い破りつつ血を吸っていた。「さてはあいつの仕業だったか。ちょうどよい」と、持っていた棒を持ち直そうとするうちに、鼬は素早く飛び下り、袂の下をくぐったかと見えたが、行方も知れなくなった。なるほど繋がれた馬の首を鼬に食われては、なすすべもないのも道理である。その傷はとても深く、拳も入るほどだったのを、酒で洗い薬を付けて、あれこれ手当てをしたが、長く癒えなかった。およそ二か月あまりでようやく治ったが、その所だけたてがみがなくて、疵物になってしまった。「鼬が馬を食ったことは、松前でも珍しい」と、人はみな舌を巻いたという。この一条は蠣崎生〔字は三七〕が、その年の七月初めごろ私の庵を訪ねた日に話してくれた。私はこれを聞いて、「天智天皇の御代と高倉天皇の御代に、鼠が馬の尾に取り憑いて巣を食ったという話は古い。新奇に走る今の世では、鼬が鼠に代わり、尾ではなくたてがみを食ったのだろう」と、あからさまに答えたところ、蠣崎生は手を打ち鳴らして、すっかり笑い転げた。〔右は五馬の五〕
すべてこの五馬の奇談は、いぬる文政二年より五年までの事にして、予が聞く所かくのごとし。されば宇宙の広大なる、かかる事はいくらもあらん。よりてひそかに評すらく、かの箱崎なる農家の馬は、神にしてかつ義烈なるもの。また梁川の近村なる農夫の飼へるは悪馬なり。これらは上に論じたり。川越なるは霊馬にして、高輪なるは狂馬なり。また松前の家臣の馬は、是を痴馬ともいふべし。しかれども身を絆に繋がれては、虎狼なりともいかがはせん。たとへば人の利禄に繋がれ、あるいは妻子に繋がれつつ、愛惜嗜欲に栄衛を滅却せらるるものに似たり。利禄妻子は縁なり。愛惜嗜欲は鼬のごとし。これを火宅の煩悩といふ。かかれば人の賢不肖禍福得失寵辱栄枯、皆この五馬の中にあり。荘子が一馬、禅家の十牛、および劉安が塞馬の言も、よにこの外はあらずかし。
すべてこの五馬の奇談は、去る文政二年から五年までのことで、私が聞いたところはこのとおりである。宇宙は広大だから、こういうことはいくらでもあるだろう。そこでひそかに評してみると、あの箱崎の農家の馬は、神であり、かつ義烈なものである。また梁川の近村の農夫が飼っていたのは悪馬である。これらは上で論じた。川越のは霊馬で、高輪のは狂馬である。また松前の家臣の馬は、痴馬とも言えよう。しかし身を綱に繋がれていては、虎や狼であってもどうしようもない。たとえば人が利禄に繋がれ、あるいは妻子に繋がれたまま、愛惜や嗜欲に生気を滅ぼされるのに似ている。利禄や妻子は縁であり、愛惜や嗜欲は鼬のようなものである。これを火宅の煩悩という。だから人の賢不肖、禍福、得失、寵辱、栄枯は、みなこの五馬の中にある。荘子の一馬、禅家の十牛、それに劉安の塞翁の馬の言葉も、まったくこの外にはないのだ。
○附けていふ。文政五年壬午の春閏正月十六日、戯作者式亭三馬死す。享年四十七歳なり。〔三馬は江戸の人、名は太助。板木師菊池茂兵衛が子なり〕同年の夏六月二日、鳥亭焉馬死す。享年八十歳。〔焉馬も江戸の人、名は和助。はじめは大工なり。後に商人となりて足袋を鬻げり〕同年月日錦馬死す。享年七十ばかりなるべし。〔錦馬は富本豊前太夫が俳名なり。その実名を午之助といへり。よりてその親しきものは、渠を午とのみ呼びしとぞ〕識者戯れにいへることあり。「今茲は支干壬午に当れり。壬は水なり。逝きて帰らぬ象あり。この春三馬が死せしより、焉馬錦馬もまた死せり。かくて三馬の名の数の空しからぬも奇なり」とぞ。ある人これを予に報げて、「和君も用心し給へかし」といはれしに、予答へて、「いな、その数には入るまじ。錦馬はもとより識る人ならず。焉馬三馬らとは、この年来絶えて親しく交はらず。忌み嫌はるること聞こえしに、いかでかは伴ふべき。かつそのわざは似たれども、行ひざまの異なるを、閻王はよく知ろし食しけん。かかれば気づかひあるべからず」と、うち戯れたりければ、ある人いたく笑ひにけり。これらは要なき事ながら、そぞろに筆の走ればなん。〔右三馬〕
○付け加えて言う。文政五年壬午の春、閏正月十六日に戯作者の式亭三馬が死んだ。享年四十七歳である。〔三馬は江戸の人、名は太助。板木師菊池茂兵衛の子である〕同年夏六月二日、烏亭焉馬が死んだ。享年八十歳。〔焉馬も江戸の人、名は和助。初めは大工で、後に商人となって足袋を売った〕同年同月同日、錦馬が死んだ。享年七十ほどだろう。〔錦馬は富本豊前太夫の俳名である。本名を午之助といい、親しい者は彼を「午」とだけ呼んだという〕識者が戯れに言ったことがある。「今年は干支が壬午に当たる。壬は水である。逝って帰らぬ象がある。この春三馬が死んでから、焉馬も錦馬もまた死んだ。こうして三馬という名の数が空しくないのも不思議だ」と。ある人がこれを私に告げて、「あなたも用心なさい」と言ったので、私は答えて、「いや、その数には入るまい。錦馬はもとより知らない人だ。焉馬や三馬らとは、この数年来まったく親しく交わっていない。忌み嫌われていると聞いていたのに、どうして道連れになれよう。それに仕事は似ていても、行いの違いを閻魔王はよくご存じだろう。だから気遣いはいらない」と、冗談を言ったところ、その人はひどく笑った。これらは不要なことだが、つい筆が走ったのである。〔右は三馬〕
○かさねていふ。松前の老侯はをさをさ馬を好み給へば、乗り鞍の替へなども大かたならずと聞こえたり。さればにや寛政中鍾愛の駿馬あり。老侯みづからこれに名づけて一瞬といふ。けだし一瞬は、瞬目の間に走ること、いくばく里にか及ぶの義なるべし。この馬は前薩摩侯〔中将重豪公〕より贈られし。その封内なる喜入野の牧より出でしものなりとぞ。かくて享和元年の夏、一瞬病みて死せり。実に五月九日なり。老侯すなはちその尾をもて払子とし、またその鬣を駒込なる吉祥禅寺に送りて葬らしめ、その上に碑を建つるに及びて、碑文を山本北山子に徴め玉ひき。かの寺の学寮のうしろなる一瞬冢是のみ。江戸にて駿馬の碑を見ること、いとめづらかに覚ゆれば、録すこと左のごとし。
○重ねて言う。松前の老侯はことのほか馬を好まれるので、乗り鞍の替えなども並々でないと聞いている。だからだろうか、寛政年間に鍾愛の駿馬があった。老侯みずからこれに「一瞬」と名づけられた。思うに一瞬とは、瞬きの間に走ることが幾里に及ぶか、という意味だろう。この馬は前の薩摩侯〔中将重豪公〕から贈られたもので、その領内の喜入野の牧から出た馬だという。こうして享和元年の夏、一瞬は病んで死んだ。まさしく五月九日である。老侯はその尾で払子を作り、またそのたてがみを駒込の吉祥寺に送って葬らせ、その上に碑を建てるに当たって、碑文を山本北山に求められた。あの寺の学寮の後ろにある一瞬塚がそれである。江戸で駿馬の碑を見ることはとても珍しく思われるので、左のとおり記録する。
駿馬一瞬碑文
駿馬一瞬碑文
良馬は世に多く有り。然れども伝へて為す者は幾何もなきなり。良主のその能を知るに遇ふにあらざれば、その力を奮ひてその用を尽くすを得ず。主もまたあるいはこれがために威徳を一代に輝揚する有り。関侯の赤兎、翼徳の玉追是なり。もしよく後に伝へて長く存する者は、辞をもてこれを文るに在り。漢武の蒲梢は楽府をもてし、楚項の烏騅は悲歌に依る。享和元年五月初九、松前老侯の愛馬一瞬、廐櫪に病死す。侯は雅より騎を善くし、意に称ふ駿なし。薩摩国に良馬を出だすと聞き、これを薩摩重豪公に求む。辞に云ふ、「吾は敢へて少年輩の愛する所のごとき、鬃毛油のごとく、髀頂腴のごとく、歩驟声律に恊ひ、馳駆曲度に合ふものを欲せず。ただ神速なること掣電流星のごとくなれば則ち足れり。旋毛の吉凶、尾鬣の疎密、毛色の驪黄に至りては、皆拘論する所にあらず」と云ふ。公これを壮とし、封内喜入野に出づる所の駿馬を贈る。一瞬是なり。眼は鈴のごとく、蹄は鉄のごときを論ずるなく、形色大小、更に細説せず。人望みてその神駿たるを知る。薩摩より江戸に至る、路程数千里、嶮岨を跋渉して、力少しも罷れず、蹄少しも損せず。精神自若として、常日に異なるなし。ここにおいて侯の喜び知るべきなり。その能を試みるに、紅練を尾後に繋ぎ、駆りてこれを奔らしむ。一匹の練、長く引きて墜ちず、紅虹の天を経るがごとし。脚下颼颯、ただ風声を聞くのみ。瞬目の間に尽く馬上に調ひ、力なほ余り有るなり。侯これを鍾愛し、朝夕撫養して楽しみと為す。その死に及びて、愛を割くこと能はず。すなはちその鬃を取りて、江戸駒込吉祥寺の後山に瘞め、その尾を取りて払子と為し、朝夕手にこれを執りて、愛惜の意を寓す。また北山信有の辞を求めて、もて後に伝へんと欲す。嗟呼、一瞬良主に遇ふ、幸なるかな。
良馬は世に多いが、後に伝えられるものはいくらもない。良い主人がその能力を知ってくれるのに出会わなければ、力を奮ってその用を尽くすことができない。主人もまた、馬のおかげで威徳を一代に輝かせることがある。関羽の赤兎、張飛の玉追がそれである。もし後に伝えて長く残るものがあるなら、それは言葉で文に飾ることにある。漢の武帝の蒲梢は楽府によって、楚の項羽の烏騅は悲歌によって残った。享和元年五月九日、松前の老侯の愛馬一瞬が厩で病死した。侯はもとより騎馬をよくし、意にかなう駿馬がなかった。薩摩国に良馬が出ると聞いて、薩摩の重豪公に求めた。その言葉に言う、「私は若者たちが愛するような、たてがみが油のよう、尻が肥えて、歩みが音律に合い、走りが曲の拍子に合うといった馬は望まない。ただ稲妻や流星のように神速であればそれで十分である。つむじの吉凶、尾やたてがみの疎密、毛色の黒や黄については、いっさい問わない」と。公はこれを壮としてほめ、領内の喜入野から出た駿馬を贈った。一瞬がこれである。目は鈴のよう、蹄は鉄のようとは言うまでもなく、形や色や大きさについては細かく述べない。人は見ただけで神駿だと分かった。薩摩から江戸まで数千里の道のりを、険しい山道を踏み越えて、力は少しも衰えず、蹄は少しも傷まず、精神は落ち着いて常と変わらない。侯の喜びは察するに余りある。その能力を試すため、赤い練り絹を尾の後ろに繋いで駆けさせると、一反の練り絹が長く引かれて落ちず、赤い虹が空を渡るようだった。脚もとには風の音が鳴るばかり。瞬きの間に馬上ですべてが整い、力はなお余っていた。侯はこれを鍾愛し、朝夕撫で養って楽しみとした。その死に及んで愛を断ち切ることができず、たてがみを取って江戸駒込の吉祥寺の裏山に埋め、尾を取って払子とし、朝夕手に取って愛惜の思いを寄せた。そして北山信有の文を求めて、後世に伝えようとした。ああ、一瞬は良い主人に出会った。幸せなことである。
享和元年辛酉夏五月 北山信有撰
享和元年辛酉夏五月 北山信有撰
文化の末にやありけん。老侯ある日興継に告げてのたまはく、「我さきにはただ馬に乗るゆゑをのみ知りて、馬を養ふみちを知らず。さるによりかの一瞬に乗るごとに、色衣なんどを引かするに、その絹の地に着かで、いと長くひるがへるを、興あることに思ひしは、甚だしき誤りなりき。もしさる事をせざりせば、かの馬をば殺すまじきに。今に至りて三折の効を悟るも甲斐なし」とて、いとをしみ玉ひしとぞ。此ごろ使者をもて予に馬尾の払子を見せさせて、「いまだこの払子の箱書きつけなし。何とか書かすべき」と問はせ給ひしかば、「驥払とやあるべき。孟反払などもしかるべからんか」と答へ申しき。〔右二馬之一〕
文化の末ごろだったろうか。老侯はある日、興継に告げて言われた。「わしは以前、ただ馬に乗ることだけを知って、馬を養う道を知らなかった。そのためあの一瞬に乗るたびに、色染めの絹などを引かせ、絹が地面に着かず長くひるがえるのを面白いことと思っていたが、これは甚だしい誤りだった。もしそんなことをしなければ、あの馬を殺すこともなかったろうに。今になって三たび折れて名医となるという効を悟っても、甲斐がない」と、たいそう惜しまれたという。近ごろ使者を通じて私に馬の尾の払子を見せ、「まだこの払子の箱に書き付けがない。何と書かせたらよいか」とお尋ねになったので、「驥払とでもすべきでしょうか。孟反払などもふさわしいかもしれません」とお答えした。〔右は二馬の一〕
文政元年戊寅の冬のころ、老侯また駿馬を求め得て、錦帆と名づけ給ふ。すなはち撫養の方を替へて、その厩に屋を葺かず、また板をしも敷くこともなく、ただその牧にありけんごとく、馬のまにまにせられたり。かくて二年の春二月、「錦帆馬を試みよ」とて、長臣蠣崎氏〔左兵衛広晃。後にあらためて采女といふ〕を乗せて鎌倉に遣はし給ふに、その月の十四日十五日の両日に、往返すでに両度に及べり。こは未曾有の事なれば、老侯特に歓びのあまり、解にその記を求め給ひき。「おのれはわきて漢文をようせず。能文の儒者おほかるに、この義はゆるし給へかし」と、頻りに推辞申ししかども、「あだし人には望みなし。とにもかくにも綴りてよ」とのたまはするに、免れがたくて、にはかに創して参らせたり。しかるにきのふゆくりなくその草稿を探り出だしつ。いとをこがましきわざながら、録して数に充つるのみ。
文政元年戊寅の冬ごろ、老侯はまた駿馬を手に入れて、錦帆と名づけられた。そして飼い方を変えて、厩に屋根を葺かず、板も敷かず、ただ牧にいたときのように、馬の思うままにさせられた。こうして二年の春二月、「錦帆馬を試してみよ」と、重臣の蠣崎氏〔左兵衛広晃。後に采女と改めた〕を乗せて鎌倉へ遣わされたところ、その月の十四日と十五日の両日で、往復がすでに二度に及んだ。これは前例のないことなので、老侯は特に喜びのあまり、私にその記を求められた。「私はとりわけ漢文が不得手です。文章の上手な儒者は多いのですから、この件はお許しください」としきりに辞退したが、「ほかの人には望まない。とにもかくにも綴ってくれ」と仰せなので、断りきれず、急いで作って差し上げた。ところが昨日、思いがけずその草稿を探し出した。まことに恥ずかしい仕業だが、記して数に充てるだけである。
駿馬錦颿記
駿馬錦颿記
松前老侯の使者、予に謂ひて曰く、「吾が老君、性馬を愛す。頃ろ良馬を購ひ得たり。よりて叟にその記を徴む。是をもて命を伝ふ」と。予謹みて対へて曰く、「昔者、秦少游は八駿に序し、杜甫は韓幹の馬を賛す。八駿、韓幹はすなはち画馬なり。李伯楽の相馬経および劉禹錫の説驥のごときは、生馬と云ふといへども、一馬のためにこれを為す者にあらず。解の寡聞、これに加ふるに馭法に昧し。何をもてこれを能くせん。然れども懇命は得て辞すべからず。敢へて問ふ、老侯の馬を愛するは、武備のためか、畋猟のためか。またただ衣するに文繡をもてし、置くに華蓋をもてし、席するに露牀をもてし、啗はすに棗脯をもてして、もて楚荘の顰みに倣ふためか。天下は千里の駒なきを憂へず。千里の駒は、ひとり伯楽に遇はざるに苦しむ。貴使のいはゆる良馬とは何ぞや。曰く四蹄疾きこと飛禽のごときか。曰く三鬃𩭟として貞松のごときか。逸態稜稜として虎文を為す者か。駿骨超然として神竜に擬する者か。かつて大宛より牽く所か。そもそも月支より出づる所か。願はくはその詳らかなるを聞かん」と。使者莞爾として笑ひて曰く、「僕は叟をもて通達洒落の士と為す。言のここに悖るを憶はず。それ善く騎る者は、驥を知りてこれを取る。なほ明君の賢を知りてこれを用ふるがごとし。いづくんぞ伯楽を俟ちて、然る後に良馬を求むるの為あらんや。斉の景公、馬千駟有りて、孔子これを譏る。楚の荘王、馬を士礼をもてして、優孟これを諫む。吾が老君もまたもて話柄と為す。大約、馬の用は、載せて馳するに在り。奔蹄速きを良と為し、遅きを蹇と為す。蹇驢は服駕に用なし。是をもて人人これを却く。良馬は武事に用あり。是の故に人人これを求む。則ちこれを求むといへども、然れども良馬は致し難し。良馬の致し難きにあらず、これを知るの難きなり。骨法卓然たるも、いまだもて良と為すに足らず。毛色鮮明なるも、いまだもて良と為すに足らず。飾るに錦繡をもてし、置くに銀鞍をもてするは、馬を愛する所以にあらず。これに加ふるに衡扼をもてし、これを斉ふるに月題をもてするは、馬を養ふ所以にあらず。吾が老君は毫も取ることなし。ただその臧否を考へて、馬を択び馬を養ふ。厩櫪の中は牧馬一般のごとし。けだし馬の性に随ふなり。是をもて馬の力壮勇にして、驚馳意のごとし。褊藩かつて駿馬一瞬有り。これを薩摩侯の封内喜入野に得たり。享和元年五月九日に至りて斃る。老君すなはち山本北山に請ひてその顛末を識す。一瞬冢記是のみ。今の獲る所は、一瞬に譲らず。名づけて錦颿と曰ふ。是の馬は下総州葛飾郡小金原中野に出づ。その園人吉野嘉橘、これを養ふこと七八年。奔蹄神速にして、群馬とともにせず。村翁牧童、かつて竜種と称す。吾が老君聞きてこれを徴す。その牽き来たるの日、初めてこれを見るに、全身薄黄、すなはち騧馬なり。その高さ常馬に勝ること四寸。年紀ここに八歳。左右良と称す。老君これを試みんと欲し、すなはち家臣蠣崎広晃に命じて、遠く鎌倉に到らしむ。時に二月十四日、広晃錦颿馬に跨り、暁天〔寅三点〕邸を出で、辰牌〔辰鼓過六分〕鎌倉に到り、鶴岡神廟に謁す。是の日申牌〔申正鼓〕邸に還る。明暁〔十五日寅一点〕広晃錦颿馬に鞭ちて、また鎌倉に赴き、巳牌〔巳鼓過八分〕鶴岡神廟に謁す。進退昨のごとし。社人安田進吾、広晃に謂ひて曰く、『江府騎馬の士、往返一日を約して本宮に詣づる者、尠からずと為す。その名簿歴歴としてここに在り。然れども同人同馬にして連日ここに造る者は、いまだこれ有らざるなり。宜しく竹帛に録してもて神庫に蔵むべし』と。歎賞已まず。〔明日神主大伴氏、広晃に書を与へ、もて慶賀す〕この夕〔戌二点〕広晃邸に還る。邸は江戸下谷三絃塹の上に在り。相摸州鎌倉郡鶴岡八幡宮に至る、坂東道一百里また二町。〔天朝の制、里数を揣るに段町をもてす。六十間を一町と為す。一町はすなはち三十六丈なり。昔者、関東は六町を一里と為す。これを坂東道と謂ふ。今は則ち三十六町を一里と為す。坂東道一百里また二町とは、今の十六里また二十六町なり。下谷三絃塹より日本橋に至る三十町。日本橋より品革駅に至る二里。品革より河崎駅に至る三里四町。この間に余戸二十六町有り。加へてもて云云と為す。河崎より程谷に至る一里九町。程谷より戸塚駅に至る二里。戸塚より鎌倉に至る四里六町。土俗私に五十町をもて一里と為す者往往これ有り。これを田舎道と謂ふ。戸塚より鎌倉に至るもまたかくのごとし。よりてもて三里と為す。その実は則ち四里六町なり。三絃塹より鎌倉鶴岡社頭に至る、十六里また二十六町。すなはち坂東道一百里また二町なり。〕両日の路程、無慮四百里にして余り有るなり。〔今の里数をもてすれば、すなはち六十六里三十二町〕而して錦颿馬、四蹄一蹶なし。広晃もまた敢へて労を曰はず。その詰旦、簑輪郷の某侯に使ひし、亭午に返命す。進退自若たり。僕の聞見する所、類ねかくのごとし。敢へて請ふ、叟これを文れば則ち足るなり」と。それ予これを聞き、瘦膝交ごも進み、灸痂の潰るるを覚えず。喟然として嘆じて曰く、「善いかな老侯の馬を愛するや。よく士を養ひ、然る後に馬を養ふ。是をもてその食足れり。その食足れば、則ちその材美なり。ひとりその馬千里の蹄有るのみにあらず、その家臣もまた千里の能有り。士馬の養ひその方を得たりと謂ふべし」と。よりて使者に語りて曰く、「解の先人もまた馬癖有り。かつて一条の駄法を善くす。解や不幸にして、髫歳に親を喪ふ。犬馬の齢五十有三、鞭鞚の何等の物たるを知らず。狗才驥徳に愧づといへども、まさに隗より始めんとす。こひねがはくは先人の遺志に称はん」と。使者欣然として竟に去る。明日すなはち是の記を綴る。いまだ稿を易ふるに遑あらず。使者再び来たり、誅求甚だ急なり。わづかに誤脱を補ひてもて呈す。
松前の老侯の使者が私に言った。「わが老君は生来馬を愛される。近ごろ良馬を買い求められ、それであなたにその記を求められる。そのためご命令を伝えに来た」。私は謹んで答えた。「昔、秦少游は八駿に序を書き、杜甫は韓幹の馬を賛した。八駿も韓幹の馬も絵の馬である。李伯楽の相馬経や劉禹錫の説驥のようなものは、生きた馬を論じてはいるが、一頭の馬のために書いたものではない。私は見聞が乏しく、そのうえ馬の扱いに暗い。どうしてこれができようか。しかしご懇命は辞退できない。あえて伺うが、老侯が馬を愛されるのは武備のためか、狩猟のためか。それともただ錦の衣を着せ、飾りの傘を立て、寝台に寝かせ、棗や干し肉を食わせて、楚の荘王の真似をするためか。天下は千里の駒がないことを憂えはしない。千里の駒はただ伯楽に出会えないことに苦しむ。あなたの言う良馬とは何か。四つの蹄が飛ぶ鳥のように速いものか。三つのたてがみが真っ直ぐな松のように立つものか。姿が虎の模様のように鋭いものか。骨格が神竜のように抜きん出たものか。大宛から引いて来たものか、月氏から出たものか。詳しく聞かせてほしい」。使者はにっこり笑って言った。「私はあなたを通達洒落の士だと思っていたのに、話がこれほど食い違うとは思わなかった。そもそも騎馬をよくする者は、駿馬を見抜いてこれを取る。名君が賢者を見抜いて用いるのと同じである。伯楽を待ってから良馬を求めることなどあろうか。斉の景公は馬を四千頭持って孔子にそしられ、楚の荘王は馬を士の礼で葬ろうとして優孟に諫められた。わが老君もこれを話の種にしておられる。おおよそ馬の用は、人を乗せて走ることにある。走る蹄が速ければ良馬、遅ければ駄馬である。駄馬は乗用に役立たないので誰もが退け、良馬は武事に役立つので誰もが求める。求めはするが、良馬は手に入れがたい。良馬が手に入れがたいのではなく、見抜くのが難しいのだ。骨格が立派でもそれだけでは良馬とは言えず、毛色が鮮やかでもそれだけでは良馬とは言えない。錦で飾り銀の鞍を置くのは馬を愛する道ではなく、くびきをかけ額飾りを着けるのは馬を養う道ではない。わが老君はそういうものを少しも取らず、ただ良し悪しを見きわめて馬を選び、馬を養う。厩の中は牧の馬と同じで、馬の性に従うのである。だから馬の力は壮んで、駆けさせれば思いのままである。当藩にはかつて駿馬一瞬がいた。薩摩侯の領内喜入野で得たもので、享和元年五月九日に死んだ。老君は山本北山に頼んでその顛末を記された。一瞬塚記がそれである。今度得た馬は一瞬に劣らず、名を錦颿という。この馬は下総国葛飾郡小金原の中野に生まれ、牧の吉野嘉橘が七八年育てた。走る蹄は神速で、群れの馬と一緒にならない。村の老人や牧童は竜種と呼んでいた。わが老君は聞いて取り寄せ、引いて来た日に初めてご覧になると、全身が薄黄色、すなわち騧馬である。背丈は普通の馬より四寸高く、年は八歳。左右の者はみな良馬と称した。老君は試そうとして家臣の蠣崎広晃に命じ、遠く鎌倉まで行かせた。時に二月十四日、広晃は錦颿馬にまたがって明け方〔寅の三点〕に屋敷を出て、辰の刻〔辰の鼓が過ぎて六分〕に鎌倉に着き、鶴岡神廟に参拝した。この日申の刻〔申の正鼓〕に屋敷へ帰った。翌朝〔十五日寅の一点〕広晃は錦颿馬に鞭打ってまた鎌倉へ赴き、巳の刻〔巳の鼓が過ぎて八分〕に鶴岡神廟に参拝した。行き帰りは昨日と同じである。社人の安田進吾が広晃に言った。『江戸の騎馬の武士で、往復一日を約束して本宮に参る者は少なくない。その名簿はここに歴然と残っている。しかし同じ人が同じ馬で連日ここに来た者はまだいない。竹帛に記録して神庫に納めるべきだ』と、感嘆してやまなかった。〔翌日、神主の大伴氏が広晃に手紙を送って祝った〕この夕方〔戌の二点〕広晃は屋敷に帰った。屋敷は江戸下谷の三味線堀の上にある。相模国鎌倉郡の鶴岡八幡宮までは、坂東道で百里と二町。〔朝廷の制度では里数を段と町で測る。六十間を一町とし、一町は三十六丈である。昔、関東では六町を一里とし、これを坂東道といった。今は三十六町を一里とする。坂東道の百里と二町は、今の十六里と二十六町である。下谷三味線堀から日本橋まで三十町。日本橋から品川駅まで二里。品川から川崎駅まで三里四町。この間に余戸二十六町がある。加えてしかじかとする。川崎から程谷まで一里九町。程谷から戸塚駅まで二里。戸塚から鎌倉まで四里六町。土地の人は五十町を一里とすることが往々にしてあり、これを田舎道という。戸塚から鎌倉までもそのとおりで、三里としているが、実際は四里六町である。三味線堀から鎌倉鶴岡の社頭まで十六里と二十六町、すなわち坂東道の百里と二町である。〕二日間の道のりはおよそ四百里余りである。〔今の里数では六十六里三十二町〕それでいて錦颿馬は四つの蹄に一度のつまずきもなく、広晃もあえて疲れたとは言わなかった。その翌朝には箕輪郷の某侯へ使いし、正午に復命した。進退は落ち着いたものだった。私が見聞きしたところはおおむねこのとおりである。あえてお願いする、あなたがこれを文にしてくだされば十分である」。私はこれを聞いて、痩せた膝を交互に進め、灸の痂が潰れるのも気づかず、ため息をついて嘆じて言った。「すばらしい、老侯の馬を愛されることは。よく士を養い、その後に馬を養う。だから馬の食は足りている。食が足りれば、その材は美しい。ただ馬に千里の蹄があるだけでなく、家臣にも千里の能がある。士と馬の養い方がその道を得ていると言うべきだ」。そこで使者に語った。「私の亡父にも馬癖があり、一条流の馬術を得意とした。私は不幸にして幼いころに親を失い、五十三の歳になるまで鞭や手綱がどんなものかも知らない。犬のような才で駿馬の徳に恥じ入るが、まず隗より始めよう。願わくは亡父の遺志にかなうように」。使者は喜んで帰って行った。翌日この記を綴ったが、稿を改める暇もなく、使者がまた来て催促がひどく急なので、わずかに誤りと脱落を補って差し出した。
文政二年己卯春三月 飯台滝沢解撰
文政二年己卯春三月 飯台の滝沢解撰
この記文の事、その年の春三月十六日に、老侯の使者〔長尾友蔵〕来訪して命を伝ふるにより、同月十八日に創しつつ、二十日にこれを参らせにき。駿馬の名、はじめは錦帆と書かれしを、予がこの記を綴るに及びて、帆を颿に作れり。使者この義を詰りしかば、予答へて、「颿は帆と通ふ義あり。かつ字書に、水行を帆と曰ひ、陸行を颿と曰ふとも候。駿馬のためには、舟帆の帆たらんより、その字馬に従はんこそ勝れるやうに覚え候。いかが侍るべからん」といひしを、使者やがて帰り参りて、しかじかと申ししかば、老侯領き給ひしとぞ。かくて次の年にやありけん。いささか所要の事ありて、書肆より『淵鑑類函』両三帙を借りよせつ。これかれと披閲せしそが中に、第四百三十三巻獣の部馬の三に、『古今注』を載せて、「曹真に駛馬〔駛は音史。すなはち駿なり〕有り。驚帆と名づく」といふよし見たり。かかれば唐山にて魏の時、はやく馬の名に帆をもてしつることはありけり。これによらば錦颿も、はじめのごとく舟帆の帆に作るもよしなきにあらず。拙文のうちこの故事を引きもらしたりしのみ、今しも堪へぬ恨みにぞありける。〔右二馬之二〕
この記文の件は、その年の春三月十六日に老侯の使者〔長尾友蔵〕が来訪して命を伝えたので、同月十八日に作り始め、二十日に差し上げた。駿馬の名は初め「錦帆」と書かれていたが、私がこの記を綴るにあたって帆を颿に作った。使者がその理由を問い詰めたので、私は答えた。「颿は帆に通じる意味があります。それに字書には、水を行くを帆といい、陸を行くを颿というともあります。駿馬のためには、舟の帆の帆であるより、馬に従う字のほうが勝るように思います。いかがでしょうか」。使者はやがて帰って、しかじかと申し上げたところ、老侯はうなずかれたという。さてその翌年だったろうか。ちょっとした用事があって、本屋から『淵鑑類函』を二三帙借り寄せた。あれこれ読んでいるうちに、第四百三十三巻獣の部、馬の三に『古今注』を載せて、「曹真に駛馬〔駛は音が史、すなわち駿である〕があり、驚帆と名づけた」とあるのを見た。すると中国では魏の時代に、早くも馬の名に帆を用いたことがあったのだ。これによれば錦颿も、初めのとおり舟の帆の帆と書いても悪くない。拙文の中でこの故事を引き漏らしたことだけが、今もなお堪えがたい心残りである。〔右は二馬の二〕
右五馬三馬二馬の拙編、おもひしよりはことの多くて、紙の数はかさなりぬ。世にいふ下手の長談義なるべし。
右の五馬三馬二馬の拙編は、思ったよりも事柄が多く、紙数がかさんでしまった。世に言う下手の長談義というものだろう。
文政八年乙酉春三月朔 著作堂解識
文政八年乙酉春三月朔 著作堂解記す
原文 / 昭和女子大学本の字句を採り、正字体を保持、振り仮名を外す

五馬 三馬 二馬 著作堂稿

陸奧の伊達郡箱崎の農民傳兵衞が子に、松五郞と呼ばれしものは、その性馬を好むにより、栗毛の馬を一疋もてり。さればをりをり乘り走らするに、その秣飼ふことも、又撫で洗ひする事も、よろづ人には任せずして、手づからするをたのしと思へり。その馬既に五歲になりける文政二年己卯の冬のころ、松五郞は病わづらひて、その年の十二月十二日に身まかりぬ。享年二十なりけるとぞ。さは獨子の事にしあなれば、親のなげきはいふべくもあらぬを、貧しくもあらぬ民なれば、松五郞が器用調度のめでたしと思ひしものは、その亡骸ともろ共に、みな只棺に斂めつゝ、家を去ること二三町なる田の畔の墓所に送りて、かたのごとくに葬りけり。〔田舍は亡者を寺に送らず、その所持の田の畔を墓塋として葬ること、此わたりには限らず、關東大かたはかくのごとし。〕されば松五郞が遣愛の馬は、ぬしの不幸の事に紛れて、誰とて見かへるものもなく、纔に秣を與ふるのみ。厩に繫ぎ置たりしに、その次の夜の子の時ばかりに、馬はにはかに狂ひたけりて、絆をちぎり、戶を蹴はなちて、いづことはなく馳出たり。あるじはさらなり、僕共もこの物音に驚き覺て、こはいかに、まさしく馬こそはなれたれ、とく追ひとめよと罵り騷ぐに、眞夜中の月鮮やかなれば、松明を把るまでもなく、索を腰にし、棒を引提て、おのもおのも追ふ程に、馬ははやくも松五郞が墓所の邊に馳せゆきて、其處につどひし癖者等を馳けたふし、踶にじる勢ひ特に猛くして、當るべくもあらざりけん、矢庭に四五人蹴仆されて、しばしは起も得ざりし折、傳兵衞が奴僕等は推つゞきて追ひかけ來つ。此ありさまに又おどろきて、あたりを見るに、松五郞が新墓を發れたり。扨はしやつらが所爲にこそ、みな逃すなと罵りて、ひとりも漏さず生捕りけり。その時主人傳兵衞もやゝ走り來て、驚嘆しつゝ、まづ癖者等を責め問ふに、つゝみ果つべくもあらざれば、なき人の棺の中には物あまた入れられしといふ風聞に惡心おこりて、是彼示し合せつゝ、竊に墓を發く折、この馬忽走り來て、某等を踶仆したり。筋骨痛みて阿容々々と搦捕れたりければ、後悔その甲斐なけれども、命ばかりは助けたまへと、異口同音にわびにけり。傳兵衞これをうち聞て、この馬わが子の恩を感じて、其別を悲しみけん、かの日よりしてはかばかしく秣だも食ざりき。それだに奇特の事なるに、その身は厩に繫れながら、今宵この盜人等がわが子の墓を發るをよく知りたるは奇といふべし。もしこの馬のなかりせば、誰か又我子の爲にこの辱を雪むべき。能くこそしたれと馬を譽て、感淚を拭ひつゝ、獨つらつら思ふやう、翌この事の趣を領主に訴へまうしなば、怨をかへすに似たれども、今この五人の惡者等は鄰村の百姓にて、面を識れるものどもなるに、墓の土こそ掘おこされたれ、いまだ棺は發くに至らず。よしなき罪を造らんより、我子の菩提の爲にもとて、その非を譴めて向後をいましめ、そのまゝ放ちかへせりとぞ。

されば又松前の老君は殊さら馬を好み給ふに、これらの由を傳へ聞きて、われ其馬を得まくほりす、縱令他領の百姓なりとも價は論ぜず買とれとて、梁川にをる家臣等に下知せられたりければ、家臣何某うけ給はりて箱崎に赴きつゝ、云々とかたらふに、傳兵衞つやつや諾なはず、千々のこがねを賜はるとも、この馬のみはまゐらせがたしと言葉をはなち、推辭まうして、その子の在りし時にかはらず寵愛しつと聞えたり。抑この一竒譚は、箱崎のほとりなる鍼醫正宅といふもの、松前家の太夫の子蠣崎生〔字は三七〕に消息して云々と告にければ、江戶の邸にもはやく聞えて、老君にもしろし召され、次の年の睦月の末に、その臣長尾友藏〔後に名を改て所左衞門といふ〕を以て解に告させたまひしかば、雜記中に書きつけおきしを、今又こゝに抄出せり。おもふに此松五郞が遣愛の馬は、かの宋の周密が齊東野語〔卷七〕に載せたりし畢再遇が遺愛の名馬黑大蟲にも一しほ優りて、多く得がたき美譚といはん歟。世に人の老僕たる者、忠臣節義の心薄く、かの馬にだも恥ざらんや。この一條は勸懲の端なるべければ、はじめに出しつ。〔右五馬之一〕

○こは又其次の年、同州おなじ郡梁川の近村なる貧民の、駄馬一疋をもてる有り。〔その人の名をわすれたり〕かくてあら田をかへす日もこの馬をもて資とし、又耕作の暇ある日は薪を負せ、旅客を乘せて駄賃をとること大かたならぬに、その馬素より柔順にて、主のこゝろに隨ひければ、世に亦二なきものに思ひて、年來を歷る程に、その年〔文政三年〕の夏の頃、ある日又物を負はして近鄕に赴きつ、足を獲てかへるさに、家路も近くなりし時、その馬忽ちくるしげに一聲高く嘶きしを、見かへらんとするほどしもあらず、馬ははやくも走りかゝりて、その肩さきにくらひ着きけり。こはそもいかにと驚き叫びて、牽放さんとすまひしかば、ひとへ衣もろともにしゝむらを啖とられけり。さばれしばしは苦痛を忍びて、とり鎭めんとしつれども、かなふべくもあらざれば、林の中に逃げ走りしを、馬は透さず追ひかけ來て、仰さまに噬倒し、又胸さきにくらひ着て、頻りにその血を吸程に、ぬしは忽ち息絕えけり。折から旅ゆく獨の武夫〔足輕體のものなりしといふ〕そのありさまを見てければ、林の中にわけ入りて、絆のはしを取りあげつゝ、牽はなさんとしたれども、馬はそがまゝちつとも動かず、眼中血はしり、人を射て鬼燈の如く赤かりける氣色、寔にすさまじきを、すてゝゆかんはさすがにて、その刀をもて鞘ながら馬の尻を擊ほどに、終には鞘をうち摧きて、したゝかに砍りてけり。きられてすこし怯みし馬を、やうやくに牽のけて、絆を取つめ、樹の幹に繫ぎ留めんとする程に、あたりを過る里人等追々に來にければ、件の武夫は初より見しありさまを告しらせて、馬を里人にわたしつゝ、林を出でゝゆきにけり。後に聞くに、この武夫は二本松の藩中にて、何がしといふものなりとぞ。さる程に農夫の子は、里人等がしらせによりて、あわてまどひて走り來つ。領主に訟へ、撿使を請うて、親の亡骸を葬むるものから、猶そのうらみのやるかたなさに、馬は則その處に生ながらにこれを埋めて、竹槍をもて思ひのまゝに刺殺したりといふ。こは當時松前家の領分の事なりければ、老君の興繼に物がたらせ給ひしを、おのれも傳へ聞きしかど、書きしるさんともせざりしかば、今はその農夫の名も村の名もみな忘れたり。こは文政二年三年と打續きたる事にして、おなじ郡の百姓の貧富おのおの異なれども、等しく愛せし馬なるに、松五郞が遺愛の馬は古主の爲に賊を禦ぎて、鄕に忠義の譽を得たり。又この農夫が愛せし馬は、故なく主を啖殺して、五逆に漏れぬ罪を釀せり。おもふにこの件の馬は、その途中よりゆくりなく疫熱の疾をうけて、狂亂したるものなるべし。人にも亦かゝる事あり。牛馬にのみ限るにあらねど、畜生は猶測りがたかり。されば牛馬猢猻をもて世をわたるもの多かれども、やすきに馴て用心に憚り、動もすればその害にあふものも亦すくなからず。それ身の爲には、この一條を警とすべきのみ。〔右五馬之二〕

○又一竒談あり。武藏國入間郡河越の城下なる石原の里人に、增田半藏と云ふものあり。其性俠氣あるものなれば、人の爲には骨を折て、貨材をも惜しとせず。されば親に愛を失ひし不肖の子、良人に飽れて去られし妻、或は若人の物あらがひしたる、或は男女の癡情によりて相攜て奔りし類も、たのむと云へば身に引うけて、必和睦をとり結ばせて、その本にをさむるを、よにおもしろき事に思へり。しかるに文政四年辛巳の春、ある夜あやしき夢を見たり。譬は一匹の良馬忽然と半藏が枕に立て、さながら人のもの云ふ如く、いとうれはしげに告ていふやう、それがし初は何がし侯の乘馬にて候ひしを、後故ありて馬商人の何某に買とられ、遂に又賣かえられて、果は農家の駄馬となれり。この故に水田を鋤ては泥に塗れ、糞土を負ては穢に犯さる。百折千磨の艱苦によりて、いく程もなく斃れたるわが亡骸は、榎の木野に擡出して棄られたり。かくて屠兒に皮を剝れ、鳶鴉に宍を啖はれて、只よのつねなる駄馬にひとしき死ざまをしつる事、耻て且歎くにもあまりあり。願ふは和君愍みて、我が亡骸を埋め玉へ。我身にはよき玉あり。そはなき骸の背梁のあたり、隆き所にあらんずらん。聊これを報とす。探りとり玉へかしと云ふかと思へば、覺にけり。半藏驚きあやしみて、半信半疑しながらも、天明てその野にゆきて見るに、果して馬の屍あり。いはれしあたりを搔撈るに、既にして玉を獲たり。其大さ毬の如し。則これ鮓答なり。俗にはへいさらばさらといふ歟。西域の人尤至寶とす。密呪して雨を禱るもの是のみ。半藏既に玉を獲て、里人によしを告げ、その馬の亡骸を葬らんとて議する程に、近鄕の民傳へ聞きて、力を勠せ錢を集め、遂に石原の町觀音寺に葬りて、上に建つるに碑をもてし、稱へて馬頭觀世音といふ。碑銘は則同鄕の士小島蕉園の創するところ、今錄する事左の如し。

馬靈誌幷銘

天地之大。庶物之夥。有足稱怪者。聖人特不語耳。不可謂無也。河肥石原里。有增田半藏者。夢一良馬來謂曰。我本侯家乘馬。得寵久矣。後有故獲於商人家。又轉貨農家。耕田駄糞。體羸力竭。無幾而斃。棄之榎野。獸工剝皮。烏鳶啄肉。竟莫異於凡馬之死也。願子垂憐瘞之。我有良玉。在吾屍中背隆然處。聊以報子。寤而異焉。往視果有馬屍。獲玉大如毬。所謂鮓答也。乃謀所以葬之。近里傳聞。拚資勠力。葬諸里中觀音寺。建碑其上。稱以馬頭觀音云。聞半藏性任俠。好趨人急。意駿馬之靈。知之來託也。可不謂怪乎。余因某請略記來由。係以銘。銘曰。

生一獲寵 可謂遇伯樂之知

死祀以佛 鹽車之困彼一時

文政辛巳年春三月 小島蕉園記

辛巳の夏六月二十七日、予この寫本を獲て、聞くこと上にしるすがごとし。傳寫の誤多かりしを、意をもて僅に是を補ひ、點を加へて語勢をたすく。文は雄固に似ざれども、その事はこれ實なるべし。〔右五馬之三〕

○又一竒事あり。文政五年壬午の春三月廿一日、品川大木戶の西の方、高輪の初の町の海邊にて、荷を負せたりける馬を杭に繫ぎ置たりしに、空車を推すものゝ走りて其處を過しかば、この馬いたく驚きて、飛あがり飛あがり、兩三度狂ふ程に、ゆくりなく杭の頭に馬の腹を衝あてたり。其勢やはげしかりけん、忽ち腹を突破りて、背までぞ拔けたりける。馬は頻に苦しみて、いよいよ狂ひ騷ぐ程に、終には杭を推し折りけり。その時馬奴走り來て、杭を拔かんと立ちよりしを、なまじひに馬に踶られて、阿と叫びつゝ仆れたり。見る人あわてまどふのみ。おそれて近づくものもなし。とかくする程に、馬はやうやく狂ひつかれて、そが儘に死にき。馬奴はなほ半死半生なりけるを、その町より轎に乘せて宿所へ送り遣しけり。こは目黑のほとりより牽もて來つる馬なりとぞ。予が相識れる豪家の老僕、この日高輪なる薩摩侯の屋鋪へまゐるをり、親しく目擊したりとて、おなじ月の廿六日に予が爲にいへり。これも怪有なる事にあらずや。〔右五馬之四〕

○又一竒事あり。松前の藩中にて、しかるべき輩は馬一二疋をもたぬはなし。しかるにともすれば夜中に熊の厩に入りて、馬を啖ふことあり。殊にすぐれし大熊は、まづその馬をくらひ殺して、おのが背に引かけつゝ、走りて山にもてゆくとぞ。これによりおのもおのも厩の戶鎖を固くして、その害を防ぐこと夜盜を禦ぐに異ならねども、これらは常の事なれば、彼の地の人は何ともおもはず。それにもましてめづらかなりしは、文政五年壬午の春のころ、松前の家臣何某が〔その姓名をわすれたり〕厩の馬、ある夜頻りに狂ひ騷ぎて、いと苦しげに嘶きたり。あるじはこれに驚き寤て、厩に熊や入りにけん、みなとく起きよと呼び覺して、下部に紙燭をとらせつゝ、出て厩にゆきて見るに、戶ざしは元のまゝにして、物の入りたるやうにもあらず。戶を推ひらきて内を見るに、目にさへぎるものもなし。されども馬は苦しげに嘶くこと、はじめの如し。こゝろ得がたく思ひしかば、紙燭を高くあげさせて、猶あちこちをつらつら見るに、あやしむべし、ひとつの鼬馬の項にうちのぼりて、その鬣を啖破りつゝ、血を吸ふてぞをれりける。さては彼奴がわざなりけり。要こそあれと、持ちたる棒を取りなほさんとする程に、鼬ははやく飛下り、袂の下を潛ると見えしが、ゆくへもしらずなりにけり。げに繫れたる馬のうなぢを鼬に啖れては、せん方なきもことわりなり。そのきずはいと深くて、拳も入るべきばかりなるを、酒にて洗ひ、藥を傅て、とりどりすれども久しく癒ず。凡二ヶ月あまりにして漸くおこたり果てしかど、その處にのみ鬣なくて、疵物にこそなりにたれ。鼬の馬を啖ひし事は、松前にても珍らしとて、人みな舌を卷しとぞ。この一條は蠣崎生〔字は三七〕その年文月の初めつかた、我庵を訪はれし日、云々と話せられたり。おのれ是を打聞ておもふに、天智の帝の御宇、高倉の御時に、鼠が馬の尾に憑て巢をくひけるは、事はふりにたり。新奇に走る今の世には、鼬が鼠に代るべく、亦その尾にはつかずして、鬣をこそくひつらめと、あからさまに答へしかば、蠣崎生は手をうちならして、ほとほと笑評に入りにけり。〔右五馬之五〕

すべてこの五馬の竒談は、いぬる文政二年より五年までの事にして、予が聞く所かくの如し。されば宇宙の廣大なる、かゝる事はいくらもあらん。よりて竊に評すらく、かの箱崎なる農家の馬は、神にして且義烈なるもの。又簗川の近村なる農夫の飼るは惡馬なり。これらは上に論じたり。川越なるは靈馬にして、高輪なるは狂馬なり。又松前の家臣の馬は、是を痴馬ともいふべし。しかれども身を絆に繫れては、虎狼なりともいかゞはせん。譬ば人の利祿に繫れ、或は妻子に繫がれつゝ、愛惜嗜慾に榮衛を滅却せらるゝものに似たり。利祿妻子は緣なり。愛惜嗜慾は鼬の如し。これを火宅の煩惱といふ。かゝれば人の賢不肖禍福得失寵辱榮枯、皆この五馬の中にあり。莊子が一馬、禪家の十牛、及劉安が塞馬の言も、よにこの外はあらずかし。

○附ていふ。文政五年壬午の春閏正月十六日、戲作者式亭三馬死す。享年四十七歲なり。〔三馬は江戶の人、名は太助。板木師菊池茂兵衞が子なり〕同年の夏六月二日、鳥亭焉馬死す。享年八十歲。〔焉馬も江戶の人、名は和助。はじめは大工なり。後に商人となりて足袋を鬻げり〕同年月日錦馬死す。享年七十許歲なるべし。〔錦馬は富本豐前太夫が俳名なり。その實名を午之助といへり。よりてその親しきものは、渠を午とのみ呼びしとぞ〕識者戲れにいへることあり。今茲は支干壬午に當れり。壬は水なり。逝てかへらぬ象あり。この春三馬が死せしより、焉馬錦馬も亦死せり。かくて三馬の名の數の空しからぬも竒なりとぞ。ある人これを予に報て、和君も用心し給へかしといはれしに、予答へて、いな、その數には入るまじ。錦馬は素より識る人ならず。焉馬三馬等とは、この年來絕えて親しく交らず。忌嫌るゝこと聞えしに、いかでかは伴ふべき。且そのわざは似たれ共、行ひさまの異なるを、閻王はよくしろし食けん。かゝれば氣づかひあるべからずと、うち戲れたりければ、ある人いたく笑ひにけり。これらは要なき事ながら、そゞろに筆の走ればなん。〔右三馬〕

○かさねていふ。松前の老侯はをさをさ馬を好み給へば、乘くらのかへなども大かたならずと聞えたり。さればにや寬政中鍾愛の駿馬あり。老侯みづからこれに名づけて一瞬といふ。蓋一瞬は瞬目の間に走ること、いくばく里にか及ぶの義なるべし。この馬は前薩摩侯〔中將重豪公〕より贈られし。その封内なる喜入野の牧より出でしものなりとぞ。かくて享和元年の夏、一瞬病て死せり。實に五月九日也。老侯則その尾をもて拂子とし、又その鬣を駒籠なる吉祥禪寺に送りて葬らしめ、その上に碑を建つるに及びて、碑文を山本北山子に徵め玉ひき。かの寺の學寮のうしろなる一瞬冢是のみ。江戶にて駿馬の碑を見ること、いとめづらかに覺ゆれば、錄すこと左の如し。

駿馬一瞬碑文

良馬世多有。然傳爲者無幾何也。非遇良主知其能。不得奮其力而盡其用。主亦或有爲之輝揚威悳於一代。關侯赤兎。翼悳玉追是也。若能傳後長存者。在辭以文之。漢武蒲梢以樂府。楚項烏騅依悲歌。享和元年五月初九。松前老侯愛馬一瞬。病死于廐櫪。侯雅善騎。無駿稱意。聞薩摩國出良馬。求之薩摩重豪公。辭云。吾不敢欲若少年輩所愛。鬃毛如油。髀頂如腴。步驟恊聲律。馳驅合曲度。唯神速若掣電流星則足矣。至旋毛吉凶。尾鬣疎密。毛色驪黃。皆非所拘論云。公壯之。贈封内喜入野所出駿馬。一瞬是也。亡論眼如鈴。蹄如鐵。形色大小。不更細說。人望知其爲神駿。自薩摩至江戶。路程數千里。跋涉嶮岨。力不少罷。蹄不少損。精神自若。無異常日。於是乎侯喜可知也。試其能。繫紅練於尾後。驅而奔之。一匹練長引不墜。如紅虹經天。脚下颼颯。只聞風聲。瞬目間盡調馬上。力猶有餘也。侯鍾愛之。朝夕撫養以爲樂。及其死。不能割愛。乃取其鬃。瘞于江戶駒込吉祥寺後山。取其尾爲拂子。朝夕手執之。寓愛惜之意。又欲求北山信有辭。以傳于後。嗟呼。一瞬遇良主。幸也夫。

享和元年辛酉夏五月 北山信有撰

文化の末にやありけん。老侯ある日興繼に告げてのたまはく、我曩には只馬に乘るゆゑをのみ知りて、馬を養ふみちを知らず。さるにより彼一瞬に乘る每に、色衣なんどを引かするに、その絹の地に着かで、いと長くひるがへるを、興あることに思ひしは、甚しき誤なりき。若さる事をせざりせば、彼の馬をば殺すまじきに。今に至りて三折の效を悟るも甲斐なしとて、いとをしみ玉ひしとぞ。此ごろ使者をもて予に馬尾の拂子を見せさせて、いまだこの拂子の箱書つけなし。何とかかゝすべきと問はせ給ひしかば、驥拂とやあるべき。孟反拂などもしかるべからん歟と答へまうしき。〔右二馬之一〕

文政元年戊寅の冬のころ、老侯又駿馬を求得て、錦帆と名づけ給ふ。則撫養の方を替へて、其厩に屋を葺かず、又板をしも敷こともなく、只その牧にありけん如く、馬のまにまにせられたり。かくて二年の春二月、錦帆馬を試みよとて、長臣蠣崎氏〔左兵衞廣晃。後にあらためて采女といふ〕を乘せて鎌倉に遣し給ふに、其月の十四日十五日の兩日に、往返既に兩度に及べり。こは未曾有の事なれば、老侯特に歡びのあまり、解に其記を求め給ひき。おのれはわきて漢文をようせず。能文の儒者おほかるに、この義はゆるし給へかしと、頻に推辭まうしゝかども、あだし人には望みなし。とにもかくにも綴りてよとのたまはするに、免れがたくて、俄に創してまゐらせたり。然るにきのふゆくりなくその草稿を探り出しつ。いとをこがましきわざながら、錄して數に充るのみ。

駿馬錦颿記

松前老侯使者謂予曰。吾老君性愛馬。頃購得良馬。因徵叟其記。是以傳命。予謹對曰。昔者秦少游序八駿。杜甫賛韓幹馬。八駿韓幹卽畫馬也。若李伯樂相馬經及劉禹錫說驥。雖云生馬。而非爲一馬爲之者。解之寡聞。加之昧于馭法。何以能之。然懇命不可得而辭。敢問老侯之愛馬。爲武備乎。爲畋獵乎。又唯爲衣以文繡。置以華蓋。席以露牀。啗以棗脯。以倣楚莊之顰乎。天下不憂無千里之駒。千里之駒。獨苦於不遇伯樂。貴使所謂良馬者何也。曰四蹄疾如飛禽乎。曰三鬃𩭟如貞松乎。逸態稜稜爲虎文者乎。駿骨超然擬神龍者乎。甞所牽於大宛乎。抑所出自月支乎。願聞其詳矣。使者莞爾笑曰。僕也以叟爲通達洒落之士。不憶言之悖于此。夫善騎者。知驥而取之。猶明君知賢而用之。安俟伯樂。然後求良馬之爲哉。齊景公馬有千駟。而孔子譏之。楚莊王馬以士禮。而優孟諫之。吾老君亦以爲話柄。大約馬之用。在載而馳。奔蹄速爲良。遲爲蹇。蹇驢服駕無用。是以人人却之。良馬武事有用。是故人人求之。雖則求之。然良馬難致。非良馬之難致。知之之難也。骨法卓然。未足以爲良。毛色鮮明。未足以爲良。飾以錦繡。置以銀鞍。非所以愛馬。加之以衡扼。齊之以月題。非所以養馬。吾老君毫無取焉。唯考其臧否。而擇馬養馬。厩櫪中如牧馬一般。蓋隨馬性也。是以馬力壯勇。驚馳如意。褊藩甞有駿馬一瞬。得之薩摩侯封内喜入野。至享和元年五月九日斃。老君乃請山本北山識其顚末。一瞬冢記是已。今之所獲。不讓於一瞬。名曰錦颿。是馬出於下總州葛飾郡小金原中野。其園人吉野嘉橘。養之七八年矣。奔蹄神速。不與群馬俱。村翁牧童。曾稱龍種。吾老君聞而徵之。其牽來之日。初見之。全身薄黃。卽騧馬也。其高勝常馬四寸。年紀八歲于此。左右稱良。老君欲試之。卽命家臣蠣崎廣晃。遠到于鎌倉。時二月十四日。廣晃跨錦颿馬。曉天〔寅三點〕出邸。辰牌〔辰鼓過六分〕到鎌倉。謁鶴岡神廟。是日申牌〔申正鼓〕還邸。明曉〔十五日寅一點〕廣晃鞭錦颿馬。復赴鎌倉。巳牌〔巳鼓過八分〕謁鶴岡神廟。進退如昨。社人安田進吾。謂廣晃曰。江府騎馬之士。約往返一日而詣本宮者。爲不尠矣。其名簿歷歷在於此。然同人同馬而連日造於此者。未之有也。宜錄竹帛以藏神庫。歎賞不已。〔明日神主大伴氏與廣晃書。以慶賀焉〕此夕〔戌二點〕廣晃還邸。邸在江戶下谷三絃塹上。至相摸州鎌倉郡鶴岡八幡宮。坂東道一百里又二町。〔天朝之制。揣里數以段町。六十間爲一町。一町卽三十六丈也。昔者關東。六町爲一里。謂之坂東道。今則三十六町爲一里。坂東道一百里又二町者。今之十六里又二十六町也。下谷三絃塹至日本橋三十町。日本橋至品革驛二里。品革至河崎驛三里四町。此間有餘戶二十六町。加以爲云云。河崎至程谷一里九町。程谷至戶塚驛二里。戶塚至鎌倉四里六町。土俗私以五十町爲一里者往往有之。謂之田舍道。戶塚至鎌倉亦復如此。因以爲三里。其實則四里六町也。三絃塹至鎌倉鶴岡社頭。十六里又二十六町。卽坂東道一百里又二町也。〕兩日路程。無慮四百里而有餘也。〔以今之里數。卽六十六里三十二町。〕而錦颿馬。四蹄無一蹶。廣晃亦不敢曰勞。其詰旦使於簑輪鄕某侯。亭午返命。進退自若。僕所聞見類如此。敢請叟文之則足也。夫予聞之。瘦膝交進。不覺灸痂之潰。喟然嘆曰。善哉老侯之愛馬也。能養士。然後養馬。是以其食足矣。其食足。則其材美矣。非獨其馬有千里之蹄而已。其家臣亦有千里之能。可謂士馬之養得其方矣。因語使者曰。解先人亦有馬癖。甞善一條駄法。解也不幸。髫歲喪親。犬馬之齡。五十有三。不知鞭鞚爲何等之物。雖狗才愧驥德。將始自隗。冀稱先人之遺志。使者欣然竟去矣。明日乃綴是記。未遑易稿。使者再來。誅求甚急。纔補誤脫以呈焉。

文政二年己卯春三月 飯台瀧澤解撰

この記文の事、その年の春三月十六日に、老侯の使者〔長尾友藏〕來訪して命を傳るにより、同月十八日に創しつゝ、廿日にこれをまゐらせにき。駿馬の名、はじめは錦帆と書かれしを、予がこの記を綴るに及て、帆を颿に作れり。使者この義を詰りしかば、予答へて、颿は帆と通ふ義あり。且字書に、水行曰帆、陸行曰颿とも候。駿馬の爲には、舟帆の帆たらんより、その字馬に從はんこそ勝れるやうに覺え候。いかゞ侍るべからんといひしを、使者やがて歸りまゐりて、云々と申しゝかば、老侯領き給ひしとぞ。かくて次の年にやありけん。聊所要の事有て、書肆より淵鑑類函兩三帙を借りよせつ。是彼と披閱せしそが中に、第四百三十三卷獸の部馬の三に、古今注を載せて、曹眞有駛馬〔駛音史。卽駿也〕名驚帆といふよし見たり。かゝれば唐山にて魏の時、はやく馬の名に帆をもてしつることはありけり。これによらば錦颿も、はじめのごとく舟帆の帆に作るもよしなきにあらず。拙文のうちこの故事を引きもらしたりしのみ、今しも堪ぬ恨にぞありける。〔右二馬之二〕

右五馬三馬二馬の拙編、おもひしよりはことの多くて、紙の數はかさなりぬ。世にいふ下手の長談義なるべし。

文政八年乙酉春三月朔 著作堂解識

注

写本の位置
写本は3168の3カット目左ページから20カット目右ページまで。2カット目左ページと3カット目右ページが第三集の目録で、3カット目左ページに「兎園小説第三集 五馬 三馬 二馬 著作堂稿」と題がある。20カット目右ページは日付と署名のみで、20カット目左ページから第2話「於竹大日如來緣起の辨」が始まる。
注記
写本の目録は「五馬」「三馬」「二馬」を三つの丸印で分け、披講者を著作堂、仝、仝とするが、本文は一続きの題「五馬 三馬 二馬」で、末尾に「右五馬三馬二馬の拙編」とまとめている。ブリーフの指示に従い1 passage にした。
校合
私家版テキストは8回に分けて公開している。sourceRef は第1回の記事で、第2回以降は https://onibi.cocolog-nifty.com/alain_leroy_/2021/08/post-1d4a23.html 、post-98095c.html、post-8fa7e0.html、post-43eea4.html、post-6adf8d.html、post-cc3751.html、post-aad2b3.html。底本は明治刊の曲亭雑記で、随筆大成との異同を注記している。
校合
「遺愛の馬」は写本の字形で、活字本系テキストは「遣愛」とする。4カット目右ページ、5カット目左ページ、6カット目右ページ、7カット目左ページの四か所とも写本は遺愛と読んだ。
校合
「その刀をもて鞘ながら馬の尻を擊ほどに」は写本の読みで、原寸で革偏に肖の字形を確かめた。活字本系は「鞍ながら」とする。刀を鞘に納めたまま打つ文脈に合う。
校合
「かの馬にだも恥ざらんや」は写本の読み。活字本系は「「ばか」の馬にだも」とする。原寸で「かの馬」を確かめた。
校合
「きられてすこし怯みし馬を」は写本の読み。活字本系は「肘怯みし」とする。
校合
「五逆に漏れぬ罪」は写本の読み。活字本系は「漏れれぬ」とする。
校合
松前家臣の姓は写本では「蠣崎」で、活字本系の「礪﨑」は誤植と見た。蠣崎は松前家の家老家の姓。5カット目左ページ、11カット目左ページ、12カット目右ページ、15カット目左ページ、17カット目左ページに見える。
校合
「鮓答」は写本の字形で、活字本系は「鮨答」とする。鮓答は馬や牛の体内にできる結石で、雨乞いに使うとされた。俗名「へいさらばさら」はポルトガル語由来の語。
校合
「背梁のあたり」は写本の読み。活字本系は「背簗」とする。
校合
馬靈誌の「在吾屍中背隆然處」は写本の読みで、活字本系は「在吾屍背」とする。銘の末尾は写本「小島蕉園記」で、活字本系は「誌」とする。
校合
「名は和助」は写本の読み。活字本系の「和肋」は誤植と見た。烏亭焉馬の本名は中村和助。
校合
一瞬碑文の「髀頂如腴」「旋毛吉凶」「毛色驪黃」「如紅虹經天」は写本の読み。活字本系はそれぞれ「髀項」「古凶」「驥黃」「絰天」とする。
校合
錦颿記の「秦少游」「啗以棗脯」「鞭鞚」は写本の読み。活字本系は「秦少浮」「棗哺」「鞭駒」とする。
校合
駿馬の名「錦颿」の颿は風偏に馬の字で、写本は一貫してこの字を書く。活字本系は※で代替している。本文に帆を颿に改めた経緯があるので、原文と読みやすい本文と現代語訳のいずれも颿を用いた。
判読保留
「曰三鬃𩭟如貞松乎」の𩭟は写本の字形をくずし字から読み切れず、活字本系に従った。判読保留。
判読保留
「身を絆に繫れては」の絆に活字本系は割注「音牟」を付けるが、写本の該当箇所には振り仮名らしい小字があるだけで、割注の有無を確かめていない。判読保留。
校合
活字本系が二馬之二の末尾に置く「追錄」(宛委餘篇の引用)は写本にない。曲亭雑記による増補と見て、原文に入れなかった。第六集の補遺は第六集で扱う。
注記
馬靈誌、一瞬碑文、錦颿記の漢文には写本に返り点と送り仮名が付くが、原文欄は白文とし、読みやすい本文に雲亭の書き下しを置いた。
注記
「錦馬」は富本豊前太夫の俳名、「三馬」は式亭三馬、「焉馬」は烏亭焉馬。写本は焉馬に鳥の字を書くが、通行の表記は烏亭焉馬。三人とも文政五年に没した。
注記
松前の老君と老侯は前松前藩主の松前道広と解した。興継は馬琴の子の滝沢宗伯興継で、文政三年から松前家に仕えた。山本北山は江戸の儒者山本信有。人物の特定は雲亭の推定で未確認。
注記
「三折の效」は三たび肱を折って良医となるという左伝の故事。「驥拂」「孟反拂」は馬琴の造語で、孟反は退却の殿を務めたのに馬を鞭打って功を誇らなかった論語の人物。
注記
本文は文政八年三月朔の兎園会で披講され、最後の識語に同日の日付がある。

AI試訳 / 専門家未校閲