於竹大日如来縁起の弁
読書室で開く(原典画像・関連作品・自分の書架)
兎園小説 / 曲亭馬琴ほか 兎園会の会員 / 第三集 第2話 / 好問堂 山崎美成
お竹大日如来の縁起を、墓碑と古記録で年代と人名から疑う。
本文 現代語訳
於竹大日如来縁起の弁 好問堂稿
於竹大日如来縁起の弁 好問堂の草稿
安永六年丁酉七月、江戸にて於竹大日如来の開帳あり。〔これより先にも開帳ありや、知らず〕その縁起に云ふ。
安永六年丁酉七月、江戸で於竹大日如来の開帳があった。〔これより前にも開帳があったかどうかは知らない〕その縁起にはこうある。
「そもそも当山の霊像お竹大日如来の権輿を尋ぬるに、文禄年中の頃、武江佐久間何某召し仕ふところの婢女に、たけといふあり。深く三宝に帰依し、雑染浮花世間の楽しみをよしと願はず。ただ白浄信心にして、常に慎むところを見るに、日々三時、おのが喫没する分量の飯食をとどめて、困餓窮飢の者に施し、朝暮烹炊につき、自ら流れ棄たる所の粒飯を恐れ敬ひ、厨下流盤の末に茶袋を羅布きて、これに止まる淡薄の粗食を嘗めて、自活の料とし、専ら卑下柔順にして、慈悲かつて怠ることなし。その頃同国比企郡に、湯殿嶺上戒行堅固の聖あり。正身の大日如来を拝せんことを願ひ、この山に歩みを運ぶこと年あり。ある夜の夢に、『汝、生身の如来を拝せんとならば、武江佐久間氏何某の下女を拝せよ』とて、夢覚めぬ。かくのごときの異夢二度に及びければ、疑ふことなく、武城都下に尋ね来たり、夢の告げなるよしを語り、佐久間主人に物して、ひそかに竹女が面容を拝すれば、光明輝然として十方を照らし、尊貌紫磨の全身なりければ、主客ともに驚嘆不思議の感涙に咽び、礼拝恭敬して、大悲難思の応用、末世の奇瑞、心肝に徹して、深く渇仰の思ひをなせり。不思議なるかな。如来は随処応度の悲願に酬いて、難化利益の機関を上人および勘解由に見あらはされてや。咫尺の間、竹女が容消然として、去るところを知らず。人々驚愕し、悲慕捜索すれども、跡を認むべきなし。常に起臥せし小房を開き見れば、ただ霊香馥郁と薫じ、光明まさに眼裏にあるごときのみ。宜なるかな。挙家ただ聚頭傷々とし、如来お竹年ごろ馴れ親しみ、離情の切なるに叫び、仏陀善巧の恩徳に泣くのみなり。ここにおいて勘解由、若干の貲財を抛ち、ありし面貌を尊像に彫刻し、羽州湯、月、羽黒三山霊場の麓に奉納し、永く霊像の檀那となり、黄金堂に安置し奉る所なり。星霜いまだ遠からず。このこと人口に膾炙して、世人おのづからお竹大日如来と称し習はせり」。〔下略〕
「そもそも当山の霊像お竹大日如来の起こりを尋ねると、文禄年間のころ、江戸の佐久間某が召し使う下女に、たけという者がいた。深く三宝に帰依し、汚れた浮華な世間の楽しみを望まず、ただ清らかな信心を持って常に慎んでいたが、その様子を見ると、毎日三度、自分が食べる分の飯を控えて飢えに苦しむ者に施し、朝夕の炊事のたびに、流れ捨てられる飯粒を恐れ敬い、台所の流しの末に茶袋を網のように張って、そこに留まる薄い粗食を舐めて自分の食料とし、ひたすらへりくだって柔順で、慈悲の心を怠ることがなかった。そのころ同じ国の比企郡に、湯殿山の頂で戒行堅固の聖がいた。生身の大日如来を拝みたいと願い、この山に足を運ぶこと何年にもなった。ある夜の夢に、『お前が生身の如来を拝みたいなら、江戸の佐久間某の下女を拝め』と告げがあって、夢が覚めた。このような不思議な夢が二度に及んだので、疑うことなく江戸の町へ尋ねて来て、夢のお告げのことを語り、主人の佐久間に頼んで、ひそかに竹の顔を拝むと、光明が輝いて十方を照らし、尊いお姿は紫磨黄金の全身だったので、主人も客も驚嘆して不思議の感涙にむせび、礼拝して敬い、大慈悲の測りがたい働きと末世の奇瑞が心肝に徹して、深く渇仰の思いをなした。不思議なことだ。如来は場所に応じて衆生を済度する悲願に応えて、教化しがたい者を利益する仕掛けを、上人と勘解由にお見せになったのだろうか。ほんの目の前で、竹の姿は消えるように失せ、去った先が分からない。人々は驚き、悲しみ慕って捜し回ったが、跡を認めることができない。いつも寝起きしていた小部屋を開けて見ると、ただ霊妙な香りが馥郁と薫り、光明がまさに目の裏にあるかのようだった。もっともなことだ。家中の者はただ頭を寄せ合って傷み悲しみ、如来であるお竹に長年馴れ親しんできた別れの切なさに叫び、仏の巧みな恩徳に泣くばかりだった。そこで勘解由はかなりの財産を投じて、生前の顔立ちを尊像に彫刻し、出羽の湯殿、月山、羽黒の三山霊場の麓に奉納し、永く霊像の檀那となり、黄金堂に安置し申し上げたのである。それから年月はまだ遠くない。このことは人の口に上り、世間の人は自然と『お竹大日如来』と呼び習わすようになった」。〔以下略〕
出羽国羽黒山麓別当 玄良坊
出羽国羽黒山麓別当 玄良坊
世にありとある神社仏刹の縁起といふものに、妄誕ならざるはいと稀なり。ここに載する縁起を、かかるを実にありと思ひて、疑はざるものあらんは、愚に近しとこそいはめ。されどあながちに無しとせんも、また誣ゆるに似たり。ここにおいて今この縁起を左に弁ぜん。
世にあるかぎりの神社仏閣の縁起というものに、でたらめでないものはきわめて稀である。ここに載せた縁起を、書いてあるとおり本当にあったことと思って疑わない者がいるなら、愚かに近いと言うべきだろう。しかし頭から無かったことにするのも、また誣いるようなものである。そこで今、この縁起を左に弁じてみよう。
「文禄年中の比、武江佐久間何某召し仕ふところの婢女に竹といふあり」。
「文禄年間のころ、江戸の佐久間某が召し使う下女に竹という者がいた」。
『玉滴隠見』に云ふ、「江戸大伝馬町の名主の佐久間善八といひける者の召仕なる竹といひける下女、去年三月二十一日に死したり。この竹こと、主の善八は問屋にて有りければ、大勢の者の食餌にかかづらひけれども、いささかも穀三宝を粗末にせずして非人を憐み、その雑火の余りをもて牛馬を飼ひなどして一生を送りしが、死してそのまま羽州湯殿山麓に金色の光り一度の内に顕して、竹は中尊娑婆にて、主なりし佐久間夫婦は両脇立と成りて今に有りと云々。このこと彼の御山の佐藤宮内といふ神人これを語る」。また浅草新寺町獅子吼山善徳寺に、如意輪観音の石塔あり。「性岸妙智信女、延宝八庚申天五月十九日」と彫刻したり。これお竹が墓なりと云ふ。この二条を併せ案ずるに、『玉滴隠見』いづれの年誰の撰と云ふこと詳らかならねど、その書を閲するに、寛文ごろの事いと多く見えたれば、そのころのものと知らる。さて墓碑の延宝とあるに合へり。されどその月日の違へるを思ふに、墓碑の正しきは論ずべくもあらず。書に記したるは、遠く出羽の人の伝聞なれば、もとよりいささかの違ひはあるべきことなり。されば元禄としもいはんはさることなれども、文禄とするはいと謬りなり。再び思ふに、かかることいと近き世のことは、憚りなきにあらず。その比忌むところありて、しか記したるも知るべからざれば、強ひて咎むべきにあらずかし。〔この墓碑の事、『温故名蹟志』『浅草志』などには漏らしたりき〕
『玉滴隠見』にこうある。「江戸大伝馬町の名主、佐久間善八という者の召使いだった竹という下女が、去年三月二十一日に死んだ。この竹は、主人の善八が問屋だったので、大勢の者の食事に関わったが、少しも穀物の三宝を粗末にせず、非人を憐れみ、余った飯で牛馬を飼うなどして一生を送ったところ、死ぬとそのまま出羽の湯殿山の麓に金色の光を一度に現し、竹は中尊の姿で、主人だった佐久間夫婦は両脇の脇士となって今もあるという。このことはあの御山の佐藤宮内という神人が語った」。また浅草新寺町の獅子吼山善徳寺に如意輪観音の石塔がある。「性岸妙智信女、延宝八庚申年五月十九日」と刻んである。これがお竹の墓だという。この二条を合わせて考えると、『玉滴隠見』は何年に誰が書いたか分からないが、その書を読むと寛文ごろのことが非常に多く見えるので、そのころのものと知られる。すると墓碑に延宝とあるのと合う。ただ月日が違うことを思うと、墓碑の正しさは論じるまでもない。書物に記したのは遠い出羽の人の伝聞なので、もともと多少の違いはあって当然である。だから元禄と言うならまだしも、文禄とするのはひどい誤りである。あらためて思うに、こういうごく近い世のことは憚りがないわけではない。当時憚るところがあってそう記したのかも知れないので、無理に咎めるべきではなかろう。〔この墓碑のことは『温故名蹟志』や『浅草志』などには漏れている〕
「湯殿嶺上戒行堅固の聖あり。正身の大日如来を拝せんことを願ひ云々」。
「湯殿山の頂に戒行堅固の聖がいた。生身の大日如来を拝みたいと願い云々」。
この一条は書写上人の、生身の普賢を見奉るべきよしを祈請し給ひ、夢の告げありて神崎の遊女を尋ね給ひし事〔詳しくは『古事談』僧行篇に見ゆ〕を付会したるものと思はる。〔「書写上人」とのみにては詳らかならず。「書写山の性空」とあるべし。こは童蒙にいふのみ〕
この一条は、書写上人が生身の普賢菩薩を拝みたいと祈願し、夢のお告げがあって神崎の遊女を訪ねた話〔詳しくは『古事談』僧行篇に見える〕を付会したものと思われる。〔「書写上人」とだけでは分かりにくい。「書写山の性空」とあるべきだ。これは初学者のために言うだけである〕
○「勘解由に見あらはされ」
○「勘解由に見あらわされ」
佐久間氏は勘解由にあらず。『玉滴隠見』に善八と見えたり。『事跡合考』を案ずるに、佐久間平八といふものは元禄後断絶とぞ。「菩提所増上寺中心光院に佐久間下女の流し板あり」と見ゆ。佐久間氏の名いづれか是なるを知らず。けだし『合考』の方実に近からん。しかはあれど、勘解由と記したるは、『新著聞集』に「佐久間勘解由」と誤りしによりしものなるべし。
佐久間氏は勘解由ではない。『玉滴隠見』には善八と見える。『事跡合考』を調べると、佐久間平八という者は元禄以後に断絶したという。「菩提寺の増上寺中の心光院に佐久間の下女の流し板がある」と見える。佐久間氏の名はどちらが正しいか分からない。おそらく『合考』のほうが事実に近いだろう。それにしても勘解由と記したのは、『新著聞集』に「佐久間勘解由」と誤ったことによるものだろう。
「竹女が容消然として去るところを知らず」。
「竹の姿は消えるように失せ、去った先が分からない」。
これまた妄誕なること、弁を待たずして知るものから、仏家にはかかる奇瑞をいふこと常なり。愚俗は欺くべし。あへて識者を誣ゆべけんや。すでに記したるがごとく、今墓碑現に存せり。かつ『玉滴隠見』に死を記し、『新著聞集』に「精進にして大往生を遂げし」と見えたるを、併せ思ふべし。
これもまたでたらめであることは、弁じるまでもなく分かるが、仏家ではこのような奇瑞を言うのが常である。愚かな俗人は欺けるだろう。しかし識者を欺くことはできまい。すでに記したとおり、今も墓碑が現に存在する。そのうえ『玉滴隠見』は死を記し、『新著聞集』には「精進して大往生を遂げた」と見えることを、合わせて考えるべきである。
「勘解由若干の貲財を抛ち、ありし面貌を尊像に彫刻し、羽州湯、月、羽黒三山霊場の麓に奉納し」。
「勘解由はかなりの財産を投じて、生前の顔立ちを尊像に彫刻し、出羽の湯殿、月山、羽黒の三山霊場の麓に奉納し」。
『玉滴隠見』に湯殿山麓に金色の光を顕したるよし見え、『新著聞集』に「近所のもの湯殿山に詣でて竹に会ひたり」といへるを、謬り伝へしものならんか。お竹がこと、右二書より外に、詳らかにかつ誕ずべきものなし。されば、これをおきて基づくべきなく、その他はみな妄誕なること論を待たず。
『玉滴隠見』には湯殿山の麓に金色の光を現したとあり、『新著聞集』に「近所の者が湯殿山に参詣して竹に会った」と言うのを、誤って伝えたものではないか。お竹のことは、この二書のほかに詳しくて、しかも根拠になるものがない。だからこれをおいて基づくべきものはなく、その他はみなでたらめであることは論を待たない。
この会、かねて今日をしも、「おのれが宅に」と約したるに、「上巳の前は事繁ければ」とて、「節過ぎて後こそよからめ」と語り合ひしに、思はずも曲亭子に促され、著作堂に集ふことになりければ、「何をか記さん」と枕を割るの思ひなりしが、過ぎし比、小梅村の南無仏庵を訪らひける道のほどにて、このお竹がことを語り出でたるに、「来たれる月の兎園会にものせよ」とありけるを、思ひ出でてそのよしを記して、小説の料に充つと云ふ。
この会は、かねて今日を「私の宅で」と約束していたのに、「上巳の前は忙しいから」と言って、「節句が過ぎてからのほうがよかろう」と語り合っていたところ、思いがけず曲亭子に促されて著作堂に集まることになったので、「何を記そうか」と頭を抱える思いだったが、先ごろ小梅村の南無仏庵を訪ねる道すがら、このお竹のことを話に出したところ、「来月の兎園会に出しなさい」と言われたのを思い出し、そのことを記して小説の材料に充てるという次第である。
原文 / 昭和女子大学本の字句を採り、正字体を保持、振り仮名を外す
於竹大日如來緣起の辨 好問堂稿
安永六年丁酉七月、江戶にて於竹大日如來の開帳あり。〔此より先にも開帳ありや、しらず〕その緣起に云。
抑當山の靈像お竹大日如來の權輿を尋るに、文祿年中の頃、武江佐久間何某召仕ふところの婢女にたけといふあり。深く三寶に皈依し、雜染浮花世間のたのしみをよしと願はず。たゞ白淨信心にして、常に愼むところを見るに、日々三時、おのが喫歿する分量の飯食をとゞめて、困餓窮飢の者に施し、朝暮烹炊につき、自ら流れすたる所の粒飯をおそれうやまひ、厨下流盤のすゑに茶袋を羅布て、是に止まる淡薄の麁食を嘗めて、自活の料とし、專ら卑下柔順にして、慈悲曾て怠ることなし。その頃同國比企郡に、湯殿嶺上戒行堅固の聖あり。正身の大日如來を拜せんことを願ひ、此山にあゆみをはこぶこと年あり。ある夜の夢に、汝生身の如來を拜せんとならば、武江佐久間氏何某の下女を拜せよとて、夢覺めぬ。斯の如きの異夢二度に及びければ、疑ふことなく、武城都下に尋ね來り、夢の告なるよしを語り、佐久間主人に物して、ひそかに竹女が面容を拜すれば、光明輝然として十方をてらし、尊貌紫磨の全身なりければ、主客ともに驚嘆不思議の感淚に咽び、禮拜恭敬して、大悲難思の應用、末世の奇瑞、心肝に徹して、ふかく渴仰の思をなせり。不思議なるかな。如來は隨處應度の悲願に酬いて、難化利益の機關を上人及び勘解由に見あらはされてや。咫尺の間、竹女が容消然として、去るところをしらず。人々驚愕し、悲慕搜索すれども、跡を認むべきなし。常に起臥せし小房をひらき見れば、只靈香馥郁と薰じ、光明まさに眼裏にあるごときのみ。宜哉。擧家只聚頭傷々とし、如來お竹年ごろ馴親し、離情の切なるに叫び、佛陀善巧の恩德になくのみなり。此に於て勘解由、若干の貲財を抛ち、ありし面貌を尊像に彫刻し、羽州湯月羽黑三山靈場の麓に奉納し、永く靈像の檀那となり、黃金堂に安置し奉る所なり。星霜いまだ遠からず。此こと人口に膾炙して、世人おのづからお竹大日如來と稱しならはせり。〔下略〕
出羽國羽黑山麓別當 玄良坊
世にありとある神社佛刹の緣起といふものに、妄誕ならざるはいと稀なり。此に載する緣起を、かゝるを實にありと思ひて、疑はざるものあらんは、愚に近しとこそいはめ。されどあながちに無しとせんも、又誣ゆるに似たり。こゝに於て今この緣起を左に辯ぜん。
文祿年中の比、武江佐久間何某召仕ふところの婢女に竹といふあり。
玉滴隱見ニ云、江戶大傳馬町ノ名主ノ佐久間善八ト云ケル者ノ召仕ナル竹ト云ケル下女、去年三月廿一日ニ死シタリ。此竹コト、主ノ善八ハ問屋ニテ有ケレバ、大勢ノ者ノ食餌ニカヽヅラヒケレドモ、聊モ穀三寶ヲ麁抹ニセズシテ非人ヲ憐ミ、其雜火ノ餘リヲ以テ牛馬ヲ飼抔〆一生ヲ送リシガ、死シテ其儘羽州湯殿山麓ニ金色ノ光リ一度ノ内ニ顯シテ、竹ハ中尊娑婆ニテ、主ナリシ佐久間婦夫ハ兩脇立ト成テ今ニ有ト云々。此コト彼御山ノ佐藤宮内ト云神人語之。また淺草新寺町獅子吼山善德寺に、如意輪觀音の石塔あり。性岸妙智信女、延寶八庚申天五月十九日と彫刻したり。是お竹が墓なりと云ふ。此二條を倂せ案ずるに、玉滴隱見何れの年誰の撰と云ふこと詳ならねど、その書を閱するに、寬文ごろの事いと多く見えたれば、そのころのものとしらる。扨墓碑の延寶とあるに合へり。されどその月日の違へるを思ふに、墓碑の正しきは論ずべくもあらず。書に記したるは、遠く出羽の人の傳聞なれば、もとより聊の違ひはあるべきことなり。されば元祿としもいはんはさることなれども、文祿とするはいと謬なり。再びおもふに、かゝることいと近き世のことは、憚りなきにあらず。その比忌むところありて、しか記したるもしるべからざれば、强ひて咎むべきにあらずかし。〔此墓碑の事、溫故名蹟志淺草志等には漏らしたりき〕
湯殿嶺上戒行堅固の聖あり。正身の大日如來を拜せんことを願ひ云々。
此一條は書寫上人の生身の普賢を見奉るべきよしを祈請し給ひ、夢の告ありて神崎の遊女を尋ね給ひし事〔詳見古事談僧行篇〕を附會したるものと思はる。〔書寫上人とのみにては詳ならず。書寫山の性空とあるべし。こは童蒙にいふのみ〕
○勘解由に見あらはされ
佐久間氏は勘解由にあらず。玉滴隱見に善八と見えたり。事跡合考を案ずるに、佐久間平八といふものは元祿後斷絕とぞ。菩提所增上寺中心光院佐久間下女のながし板ありと見ゆ。佐久間氏の名孰れか是なるをしらず。けだし合考の方實に近からん。しかはあれど、勘解由と記したるは、新著聞集に佐久間勘解由と誤りしによりしものなるべし。
竹女が容消然として去るところをしらず。
是また妄誕なること、辯をまたずしてしるものから、佛家にはかゝる奇瑞をいふこと常なり。愚俗はあざむくべし。敢て識者を誣ゆべけんや。已にしるしたるがごとく、今墓碑現に存せり。且玉滴隱見に死をしるし、新著聞集に精進にして大往生をとげしと見えたるを、倂せおもふべし。
勘解由若干の貲財を抛ち、ありし面貌を尊像に彫刻し、羽州湯月羽黑三山靈場の麓に奉納し、
玉滴隱見に湯殿山麓に金色の光を顯したるよし見え、新著聞集に近所のもの湯殿山に詣でて竹にあひたりといへるを、謬り傳へしものならんか。お竹がこと右二書より外に、詳に且誕ずべきものなし。されば、これをおきてもとづくべきなく、その他はみな妄誕なること論をまたず。
此會かねてけふをしも、おのれが宅にと約したるに、上巳のまへはことしげゝればとて、節過ぎて後こそよからめとかたりあひしに、思はずも曲亭子に促され、著作堂に集ふことになりければ、何をかしるさんと枕をわるの思ひなりしが、過し比小梅村の南無佛庵をとぶらひける道のほどにて、このお竹がことをかたり出でたるに、來れる月の兎園會にものせよとありけるを、思ひ出でゝそのよしを記して、小說の料に充つと云ふ。
文政八年乙酉春三月朔
注
- 写本の位置
- 写本は3168の20カット目左ページから24カット目左ページまで。20カット目左ページの冒頭に「兎園小説第三集」の柱と題がある。25カット目右ページから第3話「あやしき少女の事」が始まる。
- 校合
- 「おのが喫歿する分量の飯食をとゞめて」は写本の読み。活字本系は「喫食」とする。
- 校合
- 「神社佛刹の緣起」は写本の読み。活字本系の「佛利」は誤植と見た。
- 校合
- 標目の「召仕ふところの婢女」は写本の読み。活字本系は「召ふ」とする。
- 校合
- 縁起本文の「貲財を抛ち」は写本の読み。活字本系は縁起本文で「擲ち」、標目で「抛ち」とする。
- 注記
- 玉滴隠見の引用は写本では片仮名交じりで書かれ、「飼抔〆」の〆は「して」の合字。原文は写本の表記を保ち、読みやすい本文で平仮名に開いた。
- 注記
- 「〔此墓碑の事、溫故名蹟志淺草志等には漏らしたりき〕」の割注は23カット目右ページの末尾から左ページの冒頭にかけて小字で書かれている。
- 注記
- 「書寫上人とのみにては詳ならず」の割注は23カット目左ページの上部に小字二行で書かれている。
- 校合
- 「枕をわるの思ひ」は写本の読みで、活字本系も同じ。頭を悩ませる意と解した。
- 注記
- 好問堂は山崎美成の号。玉滴隠見は江戸前期の雑記、新著聞集は椋梨一雪の説話集、事跡合考は江戸の考証随筆、温故名蹟志と浅草志は江戸の地誌。書写上人は書写山円教寺の性空で、神崎の遊女が普賢菩薩の化身だったという説話は古事談にある。南無仏庵は小梅村に住んだ佛庵老人の庵と解した。人名の特定は雲亭の推定で未確認。
- 注記
- 文政八年三月朔の兎園会は当初は好問堂の宅で開く約束だったが、上巳の前で忙しいとして著作堂に変わった経緯を末尾に記す。
AI試訳 / 専門家未校閲