安宅丸御船修造の時の漆の事
先祖が安宅丸を塗った百姓が奉行所に呼ばれ、漆の法書と余り漆で塗った盆を差し出す。
本文 現代語訳
安宅丸御船修造の節の漆の事
安宅丸の御船を修理したときの漆の事
武州草加宿の百姓大園八郎右衛門といふ者、町奉行所より御差紙にて御呼び出しこれ有り候。その趣、
武州草加宿の百姓大園八郎右衛門という者が、町奉行所から呼び出し状で呼び出された。その趣旨はこうである。
「むかし安宅丸御船出来の節、右大園先祖この御船を塗りたるよし。その節の漆調合の法、今もつて書き留めこれ有りや」との御尋ねなり。しかるに今八郎右衛門事、「今は百姓なれば、一向右様の書物など有無とも弁へず。いづれ相尋ね候上にて御請け申し上ぐべし」とて、それより家内に昔より持ち伝へたる箪笥等吟味したるに、その中より右「安宅丸漆塗の法書」等、その外右に付きたる書物ども出でたれば、大によろこび、早速上へ差し出したり。右書物にて考ふれば、平日家内にて遣ふ給仕盆三枚、硯箱一つ、硯ふた一面とも、昔の漆のあまりにて塗りたるもののよし。すなはちこの三品をも差し出したれば、給仕盆一枚とめおかれ、「残りの品は随分大切に所持いたし候様に」と仰せ渡されて、下しおかれしとなり。
「むかし安宅丸の御船ができたとき、大園の先祖がこの船を塗ったという。そのときの漆の調合法を、今も書き留めて持っているか」というお尋ねであった。そこで八郎右衛門は、「今は百姓ですので、そのような書物があるかどうかもわかりません。ともかく調べたうえでお答えします」と申し、家に昔から伝わる箪笥などを調べたところ、その中から「安宅丸漆塗の法書」のほか、それに関係する書物が出てきたので、大いに喜んで早速お上に差し出した。その書物から考えると、ふだん家で使っている給仕盆三枚、硯箱一つ、硯のふた一面も、昔の漆の余りで塗ったものだという。そこでこの三品も差し出したところ、給仕盆一枚は留め置かれ、残りの品は大切に持っているようにと言い渡されて、返し下された。
この大園氏は本町薬店小西九郎兵衛の内縁あるもののよし。
この大園氏は、本町の薬店小西九郎兵衛と縁続きの者だという。
右、小西かたにつとめたるものの話にて、これも文化子年の事なり。〔文化は元年と十三年と子年ふたつあり。いづれの子年にか、たづぬべし〕
以上は小西方に奉公していた者の話で、これも文化の子の年の事である。〔文化には元年と十三年の二度子の年がある。どちらの子の年か、調べるべきである〕
文政八年三月朔 文宝亭誌す
文政八年三月一日 文宝亭が記す
原文 / 昭和女子大学本の字句を採り、正字体を保持、振り仮名を外す
安宅丸御船修造之節の漆の事
武州草加宿百姓大園八郞右衞門といふ者、町奉行所より御差紙にて御呼出し有之候。其趣、
むかし安宅丸御船出來之節、右大園先祖此御船を塗りたるよし。其節の漆調合之法、今以書留有之哉と御尋なり。然るに今八郞右衞門事、今は百姓なれば、一向右樣之書物など有無とも辨へず。いづれ相尋候上にて御請可申上とて、夫より家内に昔より持傳へたる簞笥等吟味したるに、其中より右安宅丸漆塗之法書等、其外右に付たる書物共出たれば、大によろこび、早速上へ差出したり。右書物にて考ふれば、平日家内にて遣ふ給仕盆三枚、硯箱壱つ、硯ふた一面とも、昔の漆のあまりにてぬりたるものゝよし。則此三品をも差出したれば、給仕盆一枚とめおかれ、殘の品は隨分大切に所持いたし候樣にと被仰渡て、下しおかれしとなり。
此大園氏は本町藥店小西九郞兵衞の内緣あるものゝよし。
右小西かたにつとめたるものゝ話にて、これも文化子年の事なり。〔文化は元年と十三年と子年ふたつあり。いづれの子年にか、たづぬべし〕
文政八三月朔 文寶亭誌
注
- 写本の位置
- 写本は3168の26カット目左ページの5行目から27カット目左ページの3行目まで。27カット目左ページの4行目から第5話「高松邸中厩失火の事」が始まる。
- 判読保留
- 「大園八郞右衞門」「大園氏」は写本の読み。活字本系は「大岡」とする。原寸で見ると囗で囲んだ字形で、園と読んだ。判読保留。
- 注記
- 「八郞右衞門」の「郞」は27カット目右ページ冒頭を原寸で見て読んだ。26カット目左ページの初出は字が詰まっており、原寸でも読み切れない。
- 校合
- 「町奉行所より御差紙にて」「今以書留有之哉」「其外右に付たる書物共」は写本の読み。活字本系の「書留有之哉」「右に付きたる」と大きな異同はない。
- 注記
- 頭注「文化は元年と十三年と子年ふたつあり。いづれの子年にか、たづぬべし」は27カット目左ページの上欄に小字四行で書かれている。原文では本文の末尾に〔 〕で置いた。
- 注記
- 安宅丸は寛永年間に幕府が造った巨船で、天和二年に解体された。ここで奉行所が漆の調合法を尋ねたのは、将軍の御座船天地丸などの修理のためと解されるが未確認。
- 注記
- 文宝亭は亀屋久右衛門。草加宿は日光街道の宿場、本町は日本橋本町と解した。文化の子年は文化元年(1804)と文化十三年(1816)。人名地名の特定は雲亭の推定で未確認。
AI試訳 / 専門家未校閲