高松邸中厩失火の事
読書室で開く(原典画像・関連作品・自分の書架)
兎園小説 / 曲亭馬琴ほか 兎園会の会員 / 第三集 第5話 / 松蘿館 西原好和
高松藩邸の厩の火事で預けた鑣が焼け、馬十頭と人三人が死んだ顛末と馬役への批評。
本文 現代語訳
高松邸中厩失火の事 松蘿館記す
高松藩邸の厩の失火の事 松蘿館が記す
文化八年乙酉二月二十三日の夜、小石川御門内なる高松の邸の厩より失火せしよし聞えしかば、沼田は〔逸平次といふ馬役なり〕いかに燬をのがれしか、書籍巻物などはいかにしけんと思ひつつ、ひと日二日と過ごす程に、あちこちより風説聞えて、「馬あまた焼き殺せし」といふに、うちもおかれず、物なれたる人を遣はして、その安否を問はせしに、「家の内のものどもは恙もあらず候へども、さきの日『見よ』とて寄せられし鑣は皆焼けたり」とて、焼け残りたる巻物の紙に包みて返してけり。
文化八年乙酉二月二十三日の夜、小石川御門内の高松藩邸の厩から火が出たと聞いた。沼田は〔逸平次という馬役である〕どうやって火災を逃れただろうか、書籍や巻物はどうなっただろうかと思いながら一日二日と過ごすうちに、あちこちから噂が聞こえてきて、馬を大勢焼き殺したという。じっとしていられず、慣れた者をやって安否を問わせたところ、家の者たちは無事でしたが、先日「見てほしい」と預けられた鑣は皆焼けてしまいました、と言って、焼け残った巻物の紙に包んで返してよこした。
そもそもわがこの鑣は、「古書に載せたることもありや、よく見て考へ給ひね」とて、沼田に預けおきしなり。知れる人に問はまほしさに、今図する事左の如し。
そもそも私のこの鑣は、古い書物に載っていることがあるかどうか、よく見て考えてほしいと頼んで、沼田に預けておいたものである。知っている人に尋ねたいので、今図にすると次のとおりである。
〔図一 この大輪を上にしたること、月山のハミといふ。下にしたるを、山月のハミといふとぞ/鑣はこの外にふたつあり。今略す/唐山馬櫛 鉄をもつてこれを造る/櫛の裏〕
〔図一 この大きな輪を上にしたものを月山のハミといい、下にしたものを山月のハミというそうだ/鑣はこのほかに二つあるが、今は略す/唐山の馬櫛。鉄で造る/櫛の裏〕
木村黙老いふ。この銜二つは小子も以前蔵し置けり。師伝にては朝鮮国の調馬轡なりといふ。かつて乗馬にかけ試みしに、用ひ様によりて大いに益あり。存するなり。唐山馬櫛といふものも、疑ふらくは唐山の物にあらざるか。蘭人ケイヅルなる者の書ける書冊中にこの物見えたり。全体この沼田逸平次国勝手へ申し付けたる節、小子は在国にて委しき儀は知らねども、この書面とは相違の事ある様に存ずるなり。
木村黙老が言う。この銜二つは私も以前所蔵していた。師の伝えでは朝鮮国の調馬用の轡だという。かつて乗馬に着けて試したところ、使い方によっては大いに役に立つ。今も持っている。唐山馬櫛というものも、おそらく唐山の物ではないだろう。オランダ人ケイズルという者の書いた書物の中にこの物が見える。だいたいこの沼田逸平次に国勝手を申し付けた時、私は国元にいて詳しいことは知らないが、この書面とは食い違う事があるように思う。
この時沼田が口状に、「和君もはやく柳川へ帰り給へ。長居は実におそれあり。われらけふまで江戸にあらずば、この災をのがるべきに」と、かごとがましく言ひおこせけり。
この時沼田は口上で、「あなたも早く柳川へお帰りなさい。長居は本当に危ない。私たちも今日まで江戸にいなければ、この災難を逃れられたのに」と、恨み言めいたことを言ってよこした。
沼田はおととし家老の処分にて、「国勝手たるべし」と言ひつけられしに、目黒にまします老君の聞こしめして、「今故もなく逸平次を国勝手たらしめて、子どもが馬術の師範には誰をかする」と問はせたまふに、老臣等は閉口して、今に何の沙汰もなく、そがまま江戸におかるるなり。予も去歳の十二月国勝手を言ひつけられしに、いささかの故ありて発足の延引すなれば、さてしかじかと言へるなり。
沼田はおととし家老の処分で「国勝手にせよ」と言い渡されたが、目黒におられる隠居の殿がお聞きになり、「今わけもなく逸平次を国勝手にして、子どもたちの馬術の師範には誰をするのか」とお尋ねになったので、老臣たちは閉口して、今も何の沙汰もなく、そのまま江戸に置かれているのである。私も去年の十二月に国勝手を言い渡されたが、少し事情があって出発が延びているので、そこでこういう事になったのだと言ったのである。
風説とかくに定かならねば、みづから安否を問はんと思ひて、その日の黄昏に沼田がりおとづれしに、宿所はなほも上屋敷にて、仮住居なる玄関には、冑の鉢、鐙、挟箱の鉄物、薬鑵の類の焼けたるを、所せきまで積みかさねたり。かくて沼田が子息源太郎出で迎へて、「かかる仕合、賢察を給へかし。おもてだちたるおん届は、人馬ともにそこなはず候とは申ししかども、人にも馬にも怪我あれば、心ぐるしくこそ」といふ。嘆息の外なかりけり。そのときあるじ逸平次は、麻上下の下のみを着て、いそがはしく立ち出でつつ、「見給ふごとくかかる仕合、今朝しも使を給はりしに、今又みづから訪はせ給ふ、おん心ばへ浅からず、いとよろこばしく候」といふ。物の言ひざま、眼ざしさへ怒りをふくめるやうに見えたり。逸平次又いふやう、「きのふ『見よ』とてつかはされたる鑣も、殿に火中に入りぬ。今さらに面ぶせなり。殊さら遺留物の唐鞍なども灰になりて候はん」といふ。「そはものの屑にもあらじ。かの書籍巻物なんどは焼やしたる」と尋ねしに、「さればとよ、非常の時の為にとて長櫃にいれたりしがまま、焼けて残るものなり。ただこれらのみならず、十二疋ありける馬を、馬は十疋、人三人まで焼き殺して候なり。きのふ高松へ飛脚を立たせて、一くだりは申しつかはし、けふ又つばらに云々と申しつかはすべき為に、飛脚の用意はしたれども、下役のものどもを日に日によびて問ひ質せども、そのたび毎にいふよしたがひて、書きとどむべくもあらず。ほどほど当惑至極せり」と、詞せはしく物がたれり。「そはやすからぬことなりけり。はやその事を果し給へ。又こそ来らめ」と別れを告げて、そがままにまかりぬ。なほ問はまほしき事はあれども、さるいとまある時ならねば、思ひながらに黙止せり。孔子の馬を問ひ給はざりしは、ただ人畜軽重のわいだめにこそあらめ。いまの諸侯の厩には、馬一疋に或は二人或は一人隷かぬはなし。そが為に奉公せんもの、預けられたる馬を殺して、わが身に恙なければとて、人には面をむけがたかるべし。世の風説を伝へ聞くに、「かの死したる三人のうちに、一人は馬の轡づらにすがりつつ死してありし」といへり。これらは特に賞すべし。
噂はどうにもはっきりしないので、自分で安否を尋ねようと思い、その日の夕暮れに沼田のもとを訪れた。住まいはやはり上屋敷で、仮住まいの玄関には、兜の鉢、鐙、挟箱の金具、薬缶の類の焼けたものが、所狭しと積み重ねてあった。そこへ沼田の息子の源太郎が出迎えて、「このような事態、お察しください。表向きの届けでは人も馬も無事と申しましたが、人にも馬にも怪我があって、心苦しいことです」と言う。ため息のほかなかった。そのとき主人の逸平次は、麻裃の袴だけを着けて、あわただしく出てきて、「ご覧のとおりの事態です。今朝も使いをくださったのに、今またご自身でお訪ねくださる。お心づかいは浅くなく、たいへんうれしく思います」と言う。物の言い方も目つきも怒りを含んでいるように見えた。逸平次はまた言う。「昨日、見るようにとお預けくださった鑣も、最後には火の中に入ってしまいました。今さら面目ありません。ことに遺品の唐鞍なども灰になったでしょう」。「それは物の数でもない。あの書籍や巻物などは焼いたのか」と尋ねると、「そのことです。非常時のためにと長櫃に入れておいたまま、焼けて残ったのです。ただそれだけではなく、十二頭いた馬のうち馬は十頭、人は三人まで焼き殺してしまいました。昨日高松へ飛脚を立てて一通りは申し送り、今日また詳しく申し送るために飛脚の用意はしましたが、下役の者たちを日ごとに呼んで問い質しても、そのたびに言うことが食い違い、書き留めることもできません。ほとほと困り果てています」と、せわしなく語った。「それは気の毒なことだ。早くその用を済ませなさい。また来よう」と別れを告げて、そのまま帰った。なお尋ねたいことはあったが、そんな暇のある時ではないので、思いながらも黙っていた。孔子が馬のことをお尋ねにならなかったのは、ただ人と家畜の軽重の区別のためであろう。今の大名の厩には、馬一頭に二人または一人の世話役が付かないことはない。それを務めとして奉公する者が、預けられた馬を殺して自分の身が無事だからといって、人に顔向けはできないだろう。世の噂に聞くと、死んだ三人のうち一人は馬の轡にすがりついたまま死んでいたという。こういう者は特に褒めるべきである。
予かつて馬を好む癖あり。その馬を預けおくものを馬持といふ。俗には別当とよびなせり。さればこの別当には、あだし中間小ものより一しほに心をつけて、折々よびて酒などのませ、馬の事を問ひなどして、「手入れを等閑になせそ」といふ。すなはちこれ子につけたる乳母にひとしく、子を愛する情に近し。そを十疋まで焼き殺したる沼田が意中いかにぞや。いとも怪有なる事になん。
私はかねて馬を好む癖がある。その馬を預けておく者を馬持といい、俗には別当と呼んでいる。だからこの別当には、ほかの中間や小者よりいっそう気を配り、折々呼んで酒などを飲ませ、馬のことを尋ねたりして、手入れをおろそかにするなと言う。これは子につけた乳母と同じで、子を愛する情に近い。それを十頭まで焼き殺した沼田の心中はどんなものだろうか。まことに不可解な事である。
この頃黒沢竹所よりよせられし簡牘のはし書に、「この比高松藩失火の節、厩より出で候事故、沼田逸平次誠に丸焼け、一向諸道具等持ち出し候隙これ無く候由。私も一両度相尋ね申し候。気の毒成る事仕り候。殊に私は貸し置き候書籍焼失、是非なき事なり。あなたよりも貴蔵の書参り居り候よし、如何候や。多分むづかしく候半んと存じ奉り候」下略
このごろ黒沢竹所から寄せられた手紙の端書きに、「このたび高松藩の失火の節、厩から出火した事故で、沼田逸平次はまったくの丸焼けで、まるで道具などを持ち出す暇もなかったとのこと。私も一、二度見舞いに行きました。気の毒なことです。ことに私は貸しておいた書籍が焼けてしまい、しかたのないことです。あなたからも所蔵の書が行っていたそうですが、どうでしょうか。おそらく難しいことと存じます」とあった。以下略。
文政乙酉春三月朔 松蘿山人
文政乙酉春三月朔 松蘿山人
原文 / 昭和女子大学本の字句を採り、正字体を保持、振り仮名を外す
高松邸中廐失火の事 松蘿館記
文化八年乙酉二月廿三日の夜、小石川御門内なる高松の邸の廐より失火せしよし聞えしかば、沼田は〔逸平次といふ馬役なり〕いかに燬をのがれし歟、書籍卷物などはいかにしけんと思ひつゝ、ひと日二日と過す程に、あちこちより風說聞えて、馬あまた燒殺せしといふに、うちもおかれず、物なれたる人を遣して、その安否を問はせしに、家の内のものどもは恙もあらず候へども、さきの日見よとて寄せられし鑣は皆燒たりとて、燒殘りたる卷物の紙に包みて返してけり。
抑わが此鑣は、古書に載たることもありや、よく見て考へ給ひねとて、沼田に預けおきしなり。しれる人に問はまほしさに、今圖する事左の如し。
〔圖一 此大輪を上にしたること、月山のハミと云。下にしたるを、山月のハミと云とぞ/鑣は此外にふたつあり。今畧す/唐山馬櫛 以鐵造之/櫛ノウラ〕
木村默老云。此銜二ツハ小子モ以前藏弃セリ。師傳ニテハ朝鮮國ノ調馬轡ナリト云。嘗テ乘馬ニカケ試ミシニ、用ヒ樣ニヨリテ大ニ益アリ。存スルナリ。唐山馬櫛ト云モノモ、疑ラクハ非唐山之物歟。蘭人ケイヅルナル者ノ書ケル書册中ニ此物見エタリ。全躰此沼田逸平次國勝手ヘ申付タル節、小子ハ在國ニテ委敷儀ハ不知ドモ、此書面トハ相違ノ事アル樣ニ存ズルナリ。
この時沼田が口狀に、和君もはやく柳川へかへり給へ。長居は實におそれあり。われらけふまで江戶にあらずば、この災をのがるべきにと、かごとがましくいひおこせけり。
沼田はおとゝし家老の處分にて、國勝手たるべしといひつけられしに、目黑にまします老君の聞しめして、今故もなく逸平次を國勝手たらしめて、子どもが馬術の師範には誰をかすると問はせたまふに、老臣等は閉口して、今に何の沙汰もなく、そがまゝ江戶におかるゝなり。予も去歲の十二月國勝手をいひつけられしに、いさゝかの故ありて發足の延引すなれば、扨しかじかといへるなり。
風說とかくに定かならねば、みづから安否を問はんと思ひて、其日の黃昏に沼田がりおとづれしに、宿所はなほも上屋敷にて、假住居なる玄關には、冑の鉢鐙挾箱の鐵物藥鑵の類の燒たるを、處せきまで積かさねたり。かくて沼田が子息源太郞出迎へて、かゝる仕合、賢察を給へかし。おもてだちたるおん屆は、人馬ともにそこなはず候とは申しゝかども、人にも馬にも怪我あれば、心ぐるしくこそといふ。嘆息の外なかりけり。そのときあるじ逸平次は、麻上下の下のみを着て、いそがはしく立いでつゝ、見給ふごとくかゝる仕合、今朝しも使を給はりしに、今又みづから訪はせ給ふ、おんこゝろばへ淺からず、いとよろこばしく候といふ。物のいひざま、眼ざしさへ怒をふくめるやうに見えたり。逸平次又いふやう、きのふ見よとてつかはされたる鑣も、殿に火中に入ぬ。今さらに面ぶせなり。殊さら遺留物の唐鞍なども灰になりて候はんといふ。そはものゝ屑にもあらじ。彼書籍卷物なんどは燒やしたると尋ねしに、さればとよ、非常の時の爲にとて長櫃にいれたりしがまゝ、燒て殘るものなり。只これらのみならず、十二疋ありける馬を、馬は十疋、人三人まで燒殺して候なり。きのふ高松へ飛脚を立たせて、一くだりは申つかはし、けふ又つばらに云々と申つかはすべき爲に、飛脚の用意はしたれども、下役のものどもを日に日によびて問質せども、そのたび每にいふよしたがひて、書とゞむべくもあらず。ほどほど當惑至極せりと、詞せはしく物がたれり。そはやすからぬことなりけり。はやその事を果し給へ。又こそ來らめと別れを告て、そがまゝにまかりぬ。猶問はまほしき事はあれども、さるいとまある時ならねば、思ひながらに默止せり。孔子の馬を問ひ給はざりしは、只人畜輕重のわいだめにこそあらめ。いまの諸侯の廐には、馬一疋に或は二人或は一人隷かぬはなし。そが爲に奉公せんもの、預られたる馬を殺して、わが身に恙なければとて、人には面をむけがたかるべし。世の風說を傳へ聞くに、彼死したる三人のうちに、一人は馬の轡づらにすがりつゝ死してありしといへり。これらは特に賞すべし。
予甞て馬を好む癖あり。その馬を預けおくものを馬持といふ。俗には別當とよびなせり。されば此別當には、あだし中間小ものより一しほに心をつけて、折々よびて酒などのませ、馬の事を問ひなどして、手いれを等閑になせそといふ。則これ子につけたる乳母にひとしく、子を愛する情に近し。そを十疋まで燒殺したる沼田が意中いかにぞや。いとも怪有なる事になん。
此頃黑澤竹所よりよせられし簡牘のはし書に、此比高松藩失火之節、廐より出候事故、沼田逸平次誠に丸燒、一向諸道具等持出し候隙無之候由。私も一兩度相尋申候。氣之毒成事仕候。殊に私は貸置候書籍燒失、是非なき事なり。あなたよりも貴藏の書參り居候よし、如何候哉。多分むづかしく候半と奉存候。下略
文政乙酉春三月朔 松蘿山人
注
- 写本の位置
- 写本は3168の27カット目左ページの4行目から33カット目左ページまで。28カット目右ページの下半から29カット目右ページまでが図で、29カット目左ページには木村黙老の評を書いた貼紙が折り畳んで貼られている。30カットは貼紙を開いた状態、31カットは貼紙をよけた見開きを写しており、本文の続きは31カット目左ページで読んだ。34カット目右ページから第6話「山王霊聖」が始まる。
- 注記
- 図は三面ある。28カット目右ページに大輪の鑣の図と「此大輪を上にしたること…」の書き込み、28カット目左ページに二つ目の鑣の図と「鑣は此外にふたつあり今畧す」の書き込み、その下に唐山馬櫛の表の図と「唐山馬櫛 以鐵造之」の書き込み、29カット目右ページに櫛の裏の図と「櫛ノウラ」の書き込みがある。原文では図の書き込みを右上から順に/で区切って一段落にした。
- 校合
- 木村黙老の評は貼紙に片仮名交じりで書かれ、「木村默老云」の五字は朱書。原文は写本の表記を保ち、活字本系と同じ位置、すなわち図の後に置いた。貼紙は物理的には「この時沼田が口状に」で始まるページの上に貼られている。
- 注記
- 「藏弃セリ」の弃は貼紙の字形を読んだもの。「存スルナリ」「存ズルナリ」の末尾は写本では繰り返し記号で書かれている。
- 校合
- 「文化八年乙酉」は写本のまま。文化八年は辛未で、末尾の「文政乙酉」から文政八年乙酉(1825)の誤りと見られる。活字本系も同じ。
- 注記
- 割注〔逸平次といふ馬役なり〕は27カット目左ページの6行目に小字二行で書かれている。
- 校合
- 「鑣は皆燒たり」「燒殘りたる」「預られたる馬」「申つかはし」「別れを告て」は写本の送り仮名。活字本系は「燒けたり」「預かられたる」「申しつかはし」「告げて」とする。
- 注記
- 松蘿館は筑後柳河藩士西原好和。沼田逸平次は高松藩の馬術師沼田美備、木村黙老は高松藩家老木村亘、目黒の老君は高松藩の隠居松平頼儀と解した。ケイヅルは享保年間に来日したオランダ人馬術家ケイズル。孔子の馬の話は論語郷党篇の「廐焚。子退朝曰、傷人乎。不問馬」による。黒沢竹所は未詳。人名の特定は雲亭の推定で未確認。
- 注記
- 「国勝手」は江戸詰めの藩士に国元へ帰ることを命じる処分。「面ぶせ」は面目を失うこと。「わいだめ」は区別の意。
AI試訳 / 専門家未校閲