山王霊聖
宋の村人が駱駝を山王霊聖と拝み、糞を首にかけて厄除けにした話を能改斎漫録から引く。
本文 現代語訳
山王霊聖 輪池堂
山王霊聖 輪池堂
駱駝の故事、諸家の纂むるところ、各々網羅せりと見ゆるに、「山王霊聖」とあがめて拝せし事と、その糞を線にぬきて頸にかけしことは、いまだ言はざることにや。よりてここに録す。
駱駝についての故事は、諸家が集めたものでそれぞれ網羅されているように見えるが、駱駝を「山王霊聖」とあがめて拝んだことと、その糞を糸に通して首にかけたことは、まだ誰も言っていないのではないか。そこでここに記録する。
能改斎漫録 宋の呉曾いふ、李昉いはく、建隆の初め、王師湖南に下る。澧湖の民、もとより駱駝を識らず。軍に随ひて荷を負ひ、すこぶるこの畜あり。村落の婦女見て驚異し、競ひ来たりてこれを観る。拝して祝ふ者ありていはく、「山王霊聖、願はくは福祐を賜へ」と。見るに及びて膝を屈して促し、また走りてこれを避け、いはく、「卑下の小人、山王の還拝を労せず」と。軍士の見る者、大いに噱はざるはなし。またその遺す所の糞を拾ひ、線をもつて穿ち聯ね、男女の項頸の下に戴き、もつて兵疫の気を禳ふ。南中相伝へてもつて笑ひとなす。
能改斎漫録に、宋の呉曾がこう言う。李昉が言うには、建隆の初め、皇帝の軍が湖南に下った。澧湖の民はもともと駱駝を知らなかった。軍に従って荷を負う駱駝がたくさんいた。村の女たちは見て驚き、競って見に来た。拝んで祈る者がいて、「山王霊聖よ、どうか幸福をお授けください」と言った。駱駝が見て膝を折って近づくと、また走って逃げ、「私は卑しい小人です。山王さまが拝み返してくださるには及びません」と言った。軍の兵士で見た者は大笑いしないものはなかった。またその落とした糞を拾い、糸で通してつなぎ、男女の首の下にかけて、戦乱と疫病の気を払うのに用いた。南方ではこれを伝えて笑い話にしている。
原文 / 昭和女子大学本の字句を採り、正字体を保持、振り仮名を外す
山王靈聖 輪池堂
駱駝の故事、諸家の纂るところ、各網羅せりと見ゆるに、山王靈聖とあがめて拜せし事と、その糞を線にぬきて頸にかけしことは、いまだいはざることにや。よりてこゝに錄す。
能改齋漫錄 宋吳曾云、李昉言、建隆初、王師下湖南、澧湖之民、素不識駱駝。隨軍負荷、頗有此畜。村落婦女見而驚異、競來觀之。有拜而祝者曰、山王靈聖、願賜福祐。及見屈膝而促、又走避之、曰、卑下小人、不勞山王還拜。軍士見者無不大噱。又拾其所遺之糞、以線穿聯、戴于男女項頸之下、用禳兵疫之氣。南中相傳以爲笑。
注
- 写本の位置
- 写本は3168の34カット目右ページから34カット目左ページの1行目まで。楷書に近い字で書かれ、漢文には返り点と送り仮名が付く。原文では訓点を外した。34カット目左ページの2行目から第7話「染木正信」が始まる。
- 校合
- 「諸家の纂るところ」は写本の読み。活字本系は「纂むる」と送る。
- 校合
- 「澧湖之民」は写本の読み。活字本系も「澧・湖」とし、能改斎漫録の原文は「澧朗」とする注がある。写本のまま採り、読みやすい本文でも澧湖とした。
- 校合
- 「不勞山王還拜」は写本の読み。活字本系は「返拜」とする。
- 校合
- 「戴于男女項頸之下」の于は写本の読み。活字本系は「子」と刻んで誤りと注する。
- 校合
- 「南中相傳以爲笑」の笑は写本の読み。活字本系は「突」と刻み、笑かと注する。
- 注記
- 輪池堂は屋代弘賢。能改斎漫録は南宋の呉曾の随筆、李昉は北宋初期の学者、建隆は宋の太祖の年号(960-963)、澧と朗は湖南の州名。文政四年に長崎に来た駱駝が文政七年から江戸で見世物になっていた時期の話題と解した。書名人名の特定は雲亭の推定で未確認。
AI試訳 / 専門家未校閲