七ふしぎ
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兎園小説 / 曲亭馬琴ほか 兎園会の会員 / 第四集 第1話 / 著作堂 滝沢馬琴
寛政三年の甲斐と寛政十一年の馬喰町に七つずつ重なった怪異を、馬琴が兄の遺した手紙と町人の話から書きとめる。
本文 現代語訳
あやしき事の重なれるを、俗に「七ふしぎ」といふなるは、越後より起これるにや。かの地には「くさうづ」「土中の火」「三度栗」など、他郷にはなき奇しき事の七つまであればなり。そはただ越後に限れるのみ。一時、怪異の七つまで重なる事のあるべしやはと、かねては思ひおきてたりしに、寛政のあはひに至りて、予が視聴を経たるもの二たびまでありければ、けふのまとゐの草紙料に書きしるすこと左のごとし。
不思議な事が重なるのを、俗に「七不思議」と言うのは、越後から起こった言い方だろうか。あの土地には「臭水」「土中の火」「三度栗」など、よその土地にはない珍しい事が七つもあるからである。それはただ越後に限られたことにすぎない。ある時、怪異が七つまで重なることなどあるものかと、かねてから思っていたのだが、寛政の間になって、私が見聞きしたものが二度まであったので、今日の会の草紙の題材として書き記すのは次のとおりである。
寛政三年亥年、甲斐国に七奇異あり〔甲斐に六奇異あり。遠江に一奇異あり。合して七奇異とす〕。当時、ある人の消息にいはく、
寛政三年亥年、甲斐国に七つの奇異があった〔甲斐に六つの奇異がある。遠江に一つの奇異がある。合わせて七奇異とする〕。当時、ある人の手紙にこうある。
一 甲州善光寺の如来、当春二、三月、汗かき、寺僧両人づつにて日夜拭ひ候事。
一 甲州善光寺の如来が、今年の春二、三月に汗をかき、寺僧が二人ずつで昼夜拭った事。
一 甲州切石村百姓八右衛門家の鼠、大きさ身一尺余、猫の声をなし候事。
一 甲州切石村の百姓八右衛門の家の鼠が、大きさは体長一尺余りで、猫の声で鳴いた事。
一 右村より一里ばかり山に入り、石畑村にて馬、人の話をなし候事。もつとも一度切りにて、後その事なし。
一 右の村から一里ほど山に入った石畑村で、馬が人の言葉を話した事。ただし一度きりで、その後はなかった。
一 同八日市場村、切石村、荊沢村にて、牝鶏おのおの化して牡鶏となり候事。
一 同じく八日市場村、切石村、荊沢村で、雌鶏がそれぞれ雄鶏に変わった事。
一 同東郡一町田中辺、三里四方ばかりの間、五月、雹降り、深さ三尺余、鳥獣打ち殺され候事。
一 同じく東郡一町田中の辺り、三里四方ほどの範囲に、五月に雹が降り、深さ三尺余りで、鳥や獣が打ち殺された事。
一 同七面山嗚御池の水、濁り渾り候事。
一 同じく七面山の嗚御池の水が濁った事。
一 遠州豊田郡月村百姓作十郎方の鍬に草生じ候事。すなはち先より三寸、一本枝十六本、杉形のごとく、三日にて花を開き、桜花に似たり。枝、木、花ともに皆鍬のかねなり。
一 遠州豊田郡月村の百姓作十郎の家の鍬に草が生えた事。すなわち先端から三寸、一本の枝に十六本、杉の形のようで、三日で花を開き、桜の花に似ていた。枝も木も花もすべて鍬の鉄である。
大人星出づる年は怪しき事ありといへり。当年、星合これにあたるといふ。かつ「五穀無実、兵動」と申す事に御座候。
大人星が出る年は怪しい事があると言われている。今年は星合がこれに当たるという。それに「五穀は実らず、兵が動く」ということでございます。
右のほか、越後高田大風雨、人多く死す。信州松本大地震のよし。
右のほか、越後高田に大風雨があり、人が多く死んだ。信州松本に大地震があったとのこと。
這個の一通は、寛政十年の冬、家兄羅文の遺筐中に得たり。解いはく、唐山の歴史中、必ず五行志あり。そのこと漢魏六朝より京房、管輅、郭璞らにまじはりて、隋唐の時いよいよ盛んに、諸子百家の書に至るまで、禎祥妖孽、書せざることなく、禍福吉凶、推さざることなし。その不幸にして当たれるもの、十に七、八なり。君子はここにおいて慎み怕れ、小人はこれにおいて喋々たり。あに多端ならずとせんや。もし房、璞のともがらを今の世に在らしめて、この寛政の怪異を示さば、かれ、まさにこれを何とかいはん。しかれどもこの時に当たりて、五穀倉庫に充ち、四境、兵疫の愁ひを知らず。
この一通は、寛政十年の冬、兄の羅文の遺した箱の中で見つけた。解が言う。中国の歴史書には必ず五行志がある。それは漢や魏、六朝のころから京房、管輅、郭璞らが加わって、隋や唐の時代にいよいよ盛んになり、諸子百家の書に至るまで、吉兆と凶兆を書かないものはなく、禍福吉凶を占わないものはない。その占いが不幸にして的中したものが十のうち七、八である。君子はこれを見て慎み恐れ、小人はこれについてやかましく言い立てる。なんと煩わしいことではないか。もし京房や郭璞のような人々を今の世に置いて、この寛政の怪異を示したら、彼らはこれを何と言うだろうか。しかしこの時にあたって、五穀は倉庫に満ち、四方の国境は戦や疫病の憂いを知らない。
国家の動きなきこと五嶽を重ねたるごとく、四海安静なること三春の風なきに似たり。国に道あれば鬼また鬼ならず。妖の盛徳に勝たざること、ただ寛政中のみならず、二百年来すべてかくのごとし。仰ぐべし。また歓ぶべし〔翌年壬子の夏、米穀高直につき、江戸中「粥をたべよ」と町ぶれありけり。しかれども粥を食らふものはなくてやみにき〕。
国家の揺るがないことは五つの霊山を重ねたようで、四海の安らかなことは春の風のないのに似ている。国に道があれば鬼もまた鬼ではない。妖しいものが盛んな徳に勝てないのは、寛政の間だけでなく、二百年来すべてこのとおりである。仰ぐべきことである。また喜ぶべきことである〔翌年壬子の夏、米穀の値が高くなったので、江戸中に「粥を食べよ」と町触れがあった。しかし粥を食べる者はいないままに終わった〕。
寛政十一年己未の夏、江戸馬喰町にまた七奇異あり〔馬喰町に六奇異あり。岡附塩町に一奇異あり。合して七奇異とす〕。かの町人らは予が相識のもの多かり。当時その人々に聞ける趣をもてしるすこと左のごとし。
寛政十一年己未の夏、江戸の馬喰町にまた七つの奇異があった〔馬喰町に六つの奇異がある。岡附塩町に一つの奇異がある。合わせて七奇異とする〕。あの町の人々には私の知り合いが多い。当時その人々に聞いた話をもとに記すのは次のとおりである。
一 寛政十一年夏六月、馬喰町なる板木師金八にて、ある夜あやしき獣を捕らへ得たり。そのかたち鼠に似て、常の鼠よりはなはだ大きく、胸より腹に至りて虎斑あり。もとも非常の獣なれば、翌日、将て参りて官府に訴ふ。当時その獣の名を知るものなし。あるいは「まみならん」といひ、あるいは「雷獣にや」といへり。その言みな非なり。思ふに蝦夷鼠の類なるべし。
一 寛政十一年夏六月、馬喰町の板木師金八の家で、ある夜、怪しい獣を捕らえた。その姿は鼠に似て、普通の鼠よりずっと大きく、胸から腹にかけて虎の斑がある。あまりに異常な獣なので、翌日連れて行って役所に届け出た。当時その獣の名を知る者はいなかった。ある者は「まみだろう」と言い、ある者は「雷獣ではないか」と言った。その言葉はみな間違いである。思うに蝦夷鼠の類だろう。
この事、金八が家の向かひ長屋に、おうな隠居住めり。ある宵に行燈の油を舐ぶるものありけり。このおうな「鼠ならん」と思ひつつ、蚊屋の内よりこれを追へども驚き走らず。あやしみてつらつら見るに、いと恐るべき獣なれば、おうなはいたくうち騒ぎて、「妖怪あり」と叫びしかば、板木師金八その隣人ともろともに走り来てうちに入るほどに、くだんの獣は早くも逃げて金八が家に入りぬ。金八らはまた逃ぐるを追うて、蝋燭に火をともしつつ、「まづそのかたちを見ん」とせしに、くだんのけもの飛びかかりて、その蝋燭を啖ふこと両三度に及びけり。既にしてけだものは隠れて竈の下にをり、金八らはからひて、米櫃のからなりしを横さまにしつつ追ひこめて、やうやくに捕らへたり。後に聞くに、かの獣はある人、長崎より求め来て、このごろ家に飼ひおきたるに、箱鉄網を咬ひ破りて急に逃げたるなり。しかれども異国の獣を私に飼ひける故にや、捕らへられしを知りながら、その主は知らず貌して、つひにいふよしなかりけり。官府にてはくだんのけものをしばらく留めおかれしのみにて、そがまま返し給ひにければ、憖に放ちもやられず、その餌飼ひには日ごと日ごとに油揚の豆腐十五、六枚を食らはする事にしあれば、金八は困じ果てて後悔しつと聞こえたり。さてそののちはいかにかしけん。後々までは知らず。
この事の次第はこうである。金八の家の向かいの長屋に老女の隠居が住んでいた。ある宵に行燈の油を舐めるものがいた。この老女は「鼠だろう」と思って蚊帳の中から追ったが、驚いて逃げない。不審に思ってよく見ると、たいそう恐ろしい獣だったので、老女はひどく騒いで「妖怪だ」と叫んだ。板木師の金八が隣人と一緒に走って来て家の中に入るうちに、例の獣は早くも逃げて金八の家に入った。金八たちはまた逃げるのを追い、蝋燭に火をともしながら「まずその姿を見よう」としたところ、例の獣は飛びかかってその蝋燭を食うこと二、三度に及んだ。やがて獣は隠れて竈の下にいたので、金八たちは相談して、空だった米櫃を横倒しにして追い込み、ようやく捕らえた。後で聞くと、あの獣はある人が長崎から買って来て、このごろ家で飼っていたのだが、箱の金網を咬み破って急に逃げたのだった。しかし異国の獣をひそかに飼っていたせいか、捕らえられたのを知りながら、その持ち主は知らぬ顔をして、とうとう名乗り出ることはなかった。役所では例の獣をしばらく留め置いただけで、そのまま返してしまったので、なまじ放すこともできず、その餌代には毎日毎日油揚げの豆腐を十五、六枚も食わせることになり、金八は困り果てて後悔したと聞いた。さてその後はどうなったのか。後々までは知らない。
一 同年同月、同じ町なる布袋屋といふ商人の裏借屋に住める人の女房〔その良人の名を忘れたり〕卵を産みけり。これも「まさしき事なり」と、その隣なる人の話なり。しかれども卵にはあるべからず。そは「ふくろ子」のたぐひなるべし〔布袋屋のうちにて袋子を産みたるも、名詮自性か〕。
一 同年同月、同じ町の布袋屋という商人の裏借家に住む人の女房〔その夫の名は忘れた〕が卵を産んだ。これも「確かな事だ」と、その隣の人の話である。しかし卵であるはずはない。それは「袋子」の類だろう〔布袋屋の家で袋子を産んだというのも、名は体を表すということか〕。
一 また同月、同町一丁目なる木戸際にて、一疋の牝犬に二疋の牡犬同時につるみたり。これを観るもの堵のごとし。
一 また同月、同町一丁目の木戸のそばで、一匹の雌犬に二匹の雄犬が同時に交尾した。これを見る者が垣根のように集まった。
一 また同月、同町にて四つになりける小児、水溜桶に落ち入りて死にき。
一 また同月、同町で四つになる子どもが水溜め桶に落ちて死んだ。
こは商人の店の前に置くなる「天水桶」といふものなり。夏の日の事なれば、その桶の水涸れて、なかばばかりにたたへたり。しかるにその小児、手に持てる人形をくだんの桶に落としを、取らんとしつつあやまちて逆さまに落ち入りしを、あたりに人の見るものなくて、助け出さんともせざりしかば、そがままに死したるなり。「天水桶に入水してはかなく命を落としは一奇事なり」といふもの多かり。
これは商人の店の前に置く「天水桶」というものである。夏の日のことだったので、その桶の水は減って半分ほどたまっていた。ところがその子どもが手に持っていた人形を例の桶に落としたのを、取ろうとして誤って逆さまに落ち込んだのを、辺りに見る人がなくて助け出そうともしなかったので、そのまま死んでしまった。「天水桶で溺れてはかなく命を落としたのは珍しい事だ」と言う者が多かった。
一 また同月、同町に若き者どもの争論あり。仲人、和睦を取り結ばせて、酒くみかはしなどせし後に、そが相手のもの、湯帰りを下待ちして、したたかに斫りてけり。手疵二十五か所なり。このほか手負ひなほあり。「和睦して後に斫りしはこれもめづらしき事なり」といへり〔これらの人の名みな忘れたり〕。
一 また同月、同町で若者どもの争いがあった。仲裁人が和解をとりまとめて、酒を酌み交わしなどした後で、その相手の男が湯屋帰りを待ち伏せして、したたかに斬りつけた。傷は二十五か所である。このほかにも怪我人がいた。「和解した後に斬ったのも珍しい事だ」と言われた〔これらの人の名はみな忘れた〕。
一 また同月三日、馬喰町と塩町のあはひなる「三日月井戸」を晒しける日、綱曳のものども闘諍して、つひに出訴に及びしに、次の月の三日に至りて、やうやくに和睦しつ。申し下ろして事をさまりぬ。
一 また同月三日、馬喰町と塩町の間にある「三日月井戸」を井戸浚えした日、綱を引く者たちが喧嘩をして、とうとう訴え出るに至ったが、次の月の三日になって、ようやく和解した。訴えを取り下げて事は収まった。
三日月井戸は井の水中に板を建てて、左右の仕切りにせしものなれば、そのかたち半輪のごとし。よりて「三日月井戸」と呼びなしたり。初めこの井を掘りしとき、双方の地主こころを合はせて共に雑費を出だししに、後にたがひに不足起こりて、つひに鉾盾に及びしかば、所詮井を仕切らんとて、井の中に界を立て、南なる店子どもは南のかたなる仕切りの内の水を汲むのみにして、界の外へ吊桶を卸すことを免されず。北なる店子もまたかくのごとし。今はさまでにあらねども、三日月の名の高かるに、「百日咳を愁ふるもの、この井にしばしば祈るときは応験あり」といひもて伝へて、朝とく参るもののあれば、井に立てたりし境木は今もなほ取り除かで、もとのままにてありといへり。しかるにその月三日の争ひ、三日月井戸より事起こり、また月の三日に至りて和睦しけるも奇なりといへり。
三日月井戸は井戸の水の中に板を立てて左右の仕切りにしたものなので、その形は半月のようである。それで「三日月井戸」と呼ぶようになった。初めこの井戸を掘ったとき、双方の地主が心を合わせて共に費用を出したが、後に互いに不満が起こって、とうとう争いになったので、結局井戸を仕切ろうということになり、井戸の中に境を立てて、南の店子たちは南側の仕切りの内の水を汲むだけで、境の外へ釣瓶を下ろすことは許されない。北の店子もまた同じである。今はそれほどではないが、三日月の名が高いので、「百日咳を患う者がこの井戸にたびたび祈ると効き目がある」と言い伝えて、朝早くお参りする者がいるため、井戸に立てた境木は今もなお取り除かず、元のままにしてあるという。ところでその月三日の争いは、三日月井戸から事が起こり、また月の三日になって和解したのも不思議だと言われた。
一 これもまた同じ年の夏のころ、馬喰町に相隣る岡附塩町なる旅人宿庄兵衛が客なりける奥州の旅人鳥海何がし、しばらく江戸に遊歴して、さらにまた鎌倉に赴きつつ、御霊の社に参りし折、左の眼にはかに失せけり。その人、江戸に帰りて来て、庄兵衛らに告げていふやう、「某、さきに鎌倉にて御霊の神を拝みし折、たとへば豆を弾くがごとく、左の眼中ハッシと音して痛むこと甚し。『こはいかに』と驚きあわてて、神前をまかり出でつつ、かくして雪の下なる旅宿に帰りて人に見せしに、目の玉すでに砕けたり。初めかの御社は何らの神を祭れりとも知らずして拝みしに、かくなりて後に聞けば、『鎌倉権五郎景政を祭る』といへり。故こそあらめ、某はかの景政が眼を射て、答の箭に命を落とし鳥海の弥三郎が後裔なり。数百年の後にして某が身に及ぶまで、今なほ神怒のさがなる、いと恐るべき事なり」とて、頻りに嘆息したりとぞ。この一条は文化のころ、くだんの庄兵衛、予がためにいへり。こは『池北偶談』に載せたりける、宋の秦檜が後裔秦某、明朝に仕へしとき、みづから岳飛を廟に祭りて血を吐きて死せし事と、日を同じくして語るべし。
一 これもまた同じ年の夏のころ、馬喰町に隣り合う岡附塩町の旅人宿庄兵衛の客だった奥州の旅人鳥海某が、しばらく江戸に遊歴して、さらにまた鎌倉に赴き、御霊の社に参った折、左の眼がにわかに見えなくなった。その人が江戸に帰って来て、庄兵衛たちに告げて言うには、「私は先に鎌倉で御霊の神を拝んだ折、たとえば豆をはじくように、左の眼の中でハッシと音がして痛むことが甚だしかった。『これはどうしたことか』と驚きあわてて、神前を退出し、そのまま雪の下の旅宿に帰って人に見せたところ、目の玉はすでに砕けていた。初めあの社が何の神を祭るのかも知らずに拝んだのだが、こうなった後に聞けば『鎌倉権五郎景政を祭る』という。わけがあるのだ。私はあの景政の眼を射て、その返し矢に命を落とした鳥海の弥三郎の子孫である。数百年の後に私の身に及ぶまで、今なお神の怒りが激しいとは、まことに恐ろしい事だ」と言って、しきりに嘆息したそうである。この一件は文化のころ、例の庄兵衛が私のために語ってくれた。これは『池北偶談』に載っている、宋の秦檜の子孫の秦某が明朝に仕えたとき、自ら岳飛を廟に祭って血を吐いて死んだという事と、並べて語るべきものである。
愚息琴嶺興継、この稿本を閲していはく、「景政の神霊、誣ふべからずといへども、かの鳥海生が一眼の瞽せし事、その風眼のわざなるべし。おほよそ風眼の病たる、にはかに瞳子の破るる事あり。その破るるとき必ず音あり。たとへば豆を弾くがごとし。かれも病症といふときは神霊を誣ふるに似たり。また神罰といふときは病症に疑ひあり。この書、本日披講の後に、諸君の批評を聞かまほし」といへり。
愚息の琴嶺興継がこの原稿を読んで言うには、「景政の神霊をないがしろにはできませんが、あの鳥海という人が片目を失明したのは、風眼という病のせいでしょう。おおよそ風眼の病というのは、急に瞳が破れる事があります。その破れるときには必ず音がします。たとえば豆をはじくようです。彼のことも病症だと言えば神霊をないがしろにするようですし、また神罰だと言えば病症としての疑いが残ります。この書は今日の披講の後で、皆さんの批評を聞きたいものです」ということだった。
解いはく、予、寛政中には上にしるしし馬喰町なる六奇異を聞きしのみにて、いまだ鳥海が事を知らず。後にかの庄兵衛にその事を聞くに及びて、歳月時日を敲きしに、「これも寛政十一年夏四、五月の事なりき」といへり。しからば上の六奇異と同年同時の事にして、前件は馬喰町第一、第二の町に在り。後の一条は相模なる鎌倉にての事なれども、そが旅宿はこれもまた馬喰町の隣町なり。ここに至りて同年同所にまた七ふしぎありしを知れり。そもそも寛政両度の七奇異、なかんづく鍬の鉄より花卉を生じ、二牡犬同時に一牝犬に合したることなどは、もとも奇中の奇といふべし。前記を蔵めし家兄はさらなり、後の七奇異を告げたる人も多く鬼籍に登るものから、今もかの町々にて四十歳以上の人は記憶したるもなほあるべし。筆録の際、懐旧に得たへず、ここに過ぎ来しかたを思へば、ほとほと三十ばかり年なり。
解が言う。私は寛政の間には上に記した馬喰町の六つの奇異を聞いただけで、まだ鳥海の事を知らなかった。後にあの庄兵衛にその事を聞くようになって、年月と日時を問いただしたところ、「これも寛政十一年の夏、四、五月の事だった」と言う。それなら上の六つの奇異と同じ年、同じ時の事であって、前の件は馬喰町の一丁目と二丁目にあり、後の一件は相模の鎌倉での事だが、その旅宿はこれもまた馬喰町の隣町である。ここに至って、同じ年、同じ場所にまた七不思議があったことを知った。そもそも寛政の二度の七奇異のうち、とりわけ鍬の鉄から花が生じたことと、二匹の雄犬が同時に一匹の雌犬と交わったことなどは、最も奇中の奇と言うべきである。前の記録を残した兄は言うまでもなく、後の七奇異を告げてくれた人も多くは鬼籍に入ったが、今もあの町々で四十歳以上の人なら、記憶している者がまだいるだろう。書き記すにあたって懐旧の念に堪えず、ここに過ぎ去った日々を思えば、ほとんど三十年ほどになる。
乙酉夏孟朔、𪈐斎老人、著作堂南窓緑樹深き処に書す
乙酉の夏、四月一日、𪈐斎老人が著作堂の南の窓、緑の木々の深いところで書く
原文 / 昭和女子大学本の字句を採り、正字体を保持、振り仮名を外す
七ふしぎ
あやしき事のかさなれるを、俗に七ふしぎといふなるは、越後よりおこれるにや。彼地にはくさうづ、土中の火、三度栗など、他鄕にはなき奇しき事の七つまであればなり。そは只越後に限れるのみ。一時怪異のなゝつまでかさなる事のあるべしやはと、かねては思ひおきてたりしに、寬政のあはひに至りて、予が視聽を經たるものふたゝびまでありければ、けふのまとゐの草紙料にかきしるすこと左の如し。
寬政三年亥年、甲斐國に七奇異あり〔甲斐に六奇異あり。遠江に一奇異あり。合して七奇異とす〕。當時ある人の消息に云、
一 甲州善光寺の如來、當春二三月汗かき、寺僧兩人づゝにて日夜拭ひ候事。
一 甲州切石村百姓八右衞門家の鼠、大さ身一尺餘、爲猫之聲候事。
一 右村より一里許山に入、石畑村に而馬爲人話候事。尤一度切にて後無其事。
一 同八日市場村、切石村、荊澤村にて、牝鷄各化爲牡鷄候事。
一 同東郡一町田中邊、三里四方許之間、五月雹降り、深さ三尺餘、鳥獸被打殺候事。
一 同七面山嗚御池の水濁渾候事。
一 遠州豐田郡月村百姓作十郞方の鍬に草生候事。乃先より三寸、一本枝十六本、如杉形、三日にて花を開、似櫻花。枝木花共に皆鍬のかねなり。
大人星出る年は怪しき事有といへり。當年星合これにあたるといふ。且五穀無實、兵動と申事に御座候。
右之外、越後高田大風雨、人多死す。信州松本大地震之由。
寬政三年七月
這個の一通は、寬政十年の冬、家兄羅文の遺筐中に得たり。解云、唐山の歷史中必五行志あり。そのこと漢魏六朝より京房管輅郭璞等にまじはりて、隋唐の時いよいよ盛に、諸子百家の書に至るまで、禎祥妖孽書せざることなく、禍福吉凶推ざることなし。その不幸にして當れるもの十に七八なり。君子はこゝに於て愼み怕れ、小人は是において喋々たり。豈多端ならずとせんや。もし房璞のともがらを今の世に在らしめて、この寬政の怪異を示さば、渠將これを何とかいはん。しかれどもこの時に當りて、五穀倉庫に充ち、四境兵疫の愁をしらず。
國家の動きなきこと五嶽をかさねたる如く、四海安靜なること三春の風なきに似たり。國道あれば鬼亦鬼ならず。妖の盛德に勝たざること、只寬政中のみならず、二百年來すべてかくの如し。仰ぐべし。亦歡ぶべし〔翌年壬子の夏、米穀高直につき、江戶中粥をたべよと町ぶれ有けり。しかれども粥をくらふものはなくてやみにき〕。
寬政十一年己未の夏、江戶馬喰町に亦七奇異あり〔馬喰町に六奇異あり。岡附鹽町に一奇異あり。合して七奇異とす〕。彼町人等は予が相識のもの多かり。當時その人々に聞ける趣をもてしるすこと左の如し。
一 寬政十一年夏六月、馬喰町なる板木師金八にて、ある夜あやしき獸をとらへ得たり。そのかたち鼠に似て、常の鼠より甚大きく、胸より腹に至りて虎斑あり。もとも非常の獸なれば、翌日將てまゐりて官府に訴ふ。當時その獸の名をしるものなし。或はまみならんといひ、或は雷獸にやといへり。その言みな非なり。おもふに蝦夷鼠の類なるべし。
この事、金八が家の向ひ長屋におうな隱居住めり。ある宵に行燈の油を舐ぶるもの有けり。此おうな鼠ならんとおもひつゝ、蚊屋の内よりこれを追へども驚き走らず。あやしみてつらつら見るに、いとおそるべき獸なれば、おうなはいたくうち騷ぎて、妖怪ありと叫びしかば、板木師金八その隣人ともろともに走り來てうちに入る程に、件の獸ははやくも逃げて金八が家に入りぬ。金八等は又にぐるを追うて、蠟燭に火をともしつゝ、先そのかたちを見んとせしに、件のけもの飛びかゝりて、その蠟燭を啖ふこと兩三度に及びけり。既にしてけだものは隱れて竃の下にをり、金八等はからひて、米櫃のからなりしを橫さまにしつゝ追ひこめて、やうやくにとらへたり。後に聞くに、かの獸はある人長崎より求め來て、このごろ家にかひおきたるに、箱鐵網を咬ひ破りて急に逃げたるなり。しかれども異國の獸を私にかひける故にや、とらへられしを知りながら、そのぬしはしらず貌して、終にいふよしなかりけり。官府にては件のけものをしばらく留めおかれしのみにて、そがまゝ返し給ひにければ、憖にはなちもやられず、その餌かひには日每々々に油揚の豆腐十五六枚をくらはする事にしあれば、金八は困じ果て後悔しつと聞えたり。扠そのゝちはいかにかしけん。後々までは知らず。
一 同年同月、おなじ町なる布袋屋といふ商人の裏借屋に住める人の女房〔その良人の名を忘れたり〕卵を產みけり。これもまさしき事なりと、その隣なる人の話なり。しかれども卵にはあるべからず。そはふくろ子のたぐひなるべし〔布袋屋のうちにて袋子をうみたるも、名詮自性歟〕。
一 又同月、同町壱丁目なる木戶際にて、一疋の牝犬に二疋の牡犬同時につるみたり。これを觀るもの堵の如し。
一 又同月、同町にて四つになりける小兒、水溜桶におちいりて死にき。
こは商人の店の前におくなる天水桶といふものなり。夏の日の事なれば、その桶の水涸れて、なかばゝかりにたゝへたり。しかるにその小兒手にもてる人形を件の桶におとしゝを、取らんとしつゝあやまちてさかさまにおちいりしを、あたりに人の見るものなくて、たすけ出さんともせざりしかば、そがまゝに死したるなり。天水桶に入水してはかなく命をおとしゝは一奇事なりといふもの多かり。
一 又同月、同町に若き者共の爭論あり。仲人和睦をとり結ばせて、酒くみかはしなどせし後に、そが相手のもの湯がへりをしたまちして、したゝかに斫りてけり。手疵廿五ケ所なり。この他手負猶あり。和睦して後に斫りしは是もめづらしき事なりといへり〔これらの人の名みな忘れたり〕。
一 又同月三日、馬喰町と鹽町のあはひなる三日月井戶を晒しける日、綱曳のものども鬪諍して、遂に出訴に及びしに、次の月の三日に至りて、やうやくに和睦しつ。まうしおろして事をさまりぬ。
三日月井戶は井の水中に板を建てゝ、左右のしきりにせしものなれば、そのかたち半輪のごとし。よりて三日月井戶と呼びなしたり。初この井を掘りしとき、雙方の地主こゝろを合せて共に雜費を出しゝに、後に迭に不足起りて、遂に鉾盾に及びしかば、所詮井をしきらんとて、井の中に界を立て、南なる店子どもは南のかたなるしきりの内の水を汲むのみにして、界の外へ吊桶を卸すことを免されず。北なる店子も亦かくの如し。今はさまでにあらねども、三日月の名の高かるに、百日咳を愁ふるもの、この井にしばしば祈るときは應驗ありといひもて傳へて、朝とくまゐるものゝあれば、井に立てたりしさかひ木は今もなほとり除かで、もとのまゝにて有といへり。しかるにその月三日のあらそひ、三日月井戶より事起り、又月の三日に至りて和睦しけるも奇なりといへり。
一 これも又おなじ年の夏の比、馬喰町に相隣る岡附鹽町なる旅人宿庄兵衞が客なりける奧州のたび人鳥海何がし、しばらく江戶に遊歷して、更に又鎌倉に赴きつゝ、御靈の社にまゐりし折、左の眼にはかに失けり。その人江戶にかへりて來て、庄兵衞等に告げていふやう、某嚮に鎌倉にて御靈の神ををがみし折、譬へば豆を彈くが如く、左の眼中ハツシと音して痛むこと甚し。こはいかにと驚きあわてゝ、神前をまか出つゝ、かくして雪の下なる旅宿にかへりて人に見せしに、めのたま既に碎けたり。初かのみやしろは何等の神を祭れりともしらずしてをがみしに、かくなりて後に聞けば、鎌倉權五郞景政を祭るといへり。故こそあらめ、某は彼景政が眼を射て、答の箭に命をおとしゝ鳥海の彌三郞が後裔なり。數百年の後にして某が身に及ぶまで、今なほ神怒のさがなる、いとおそるべき事なりとて、頻に嘆息したりとぞ。この一條は文化のころ、件の庄兵衞予が爲にいへり。こは池北偶談に載せたりける、宋の秦檜が後裔秦某、明朝に仕へしとき、みづから嶽飛を廟に祭りて血を吐きて死せし事と、日をおなじくしてかたるべし。
愚息琴嶺興繼この稿本を閱して云、景政の神靈誣ふべからずといへども、彼鳥海生が一眼の瞽せし事、その風眼のわざなるべし。大約風眼の病たる、にはかに瞳子の破るゝ事あり。その破るゝとき必音あり。譬へば豆を彈くが如し。渠も病症といふときは神靈を誣ふるに似たり。又神罰といふときは病症に疑ひあり。この書本日披講の後に、諸君の批評を聞かまほしといへり。
解云、予寬政中には上にしるしゝ馬喰町なる六奇異を聞きしのみにて、いまだ鳥海が事をしらず。後に彼庄兵衞にその事を聞くに及びて、歲月時日を敲きしに、これも寬政十一年夏四五月の事なりきといへり。しからば上の六奇異と同年同時の事にして、前件は馬喰町第一第二の町に在り。後の一條は相摸なる鎌倉にての事なれども、そが旅宿はこれも亦馬喰町の隣町なり。こゝに至りて同年同所に又七ふしぎありしを知れり。抑寬政兩度の七奇異、就中鍬の鐵より花卉を生じ、二牡犬同時に一牝犬に合したることなどは、もとも奇中の奇といふべし。前記を藏めし家兄はさらなり、後の七奇異をつげたる人も多く鬼籍に登るものから、今も彼町々にて四十歲已上の人は記憶したるもなほあるべし。筆錄の際懷舊に得たへず、こゝにすぎ來しかたを思へば、ほとほと三十許年なり。
乙酉夏孟朔𪈐齋老人書于著作堂南窓綠樹深處
注
- 写本の位置
- 写本は3168の41カット目左ページから48カット目右ページまで。40カット目左ページと41カット目右ページが第四集の目録で、41カット目左ページの冒頭に「兎園小説第四」の見出しがある。48カット目左ページから第2話「建治の古碑」が始まる。
- 注記
- 第四集の目録には13項目があり、末尾に「右乙酉夏四月朔於海棠庵集會席上披講如例」とある。この話は目録の第一項で披講者は著作堂。
- 校合
- 「俗に七ふしぎといふなるは」と末尾の「又七ふしぎありしを知れり」は写本の読みで仮名書き。活字本系テキストは「七不思議」とする。ページ全体の画像での読みで、原寸では確かめていない。
- 校合
- 「京房管輅郭璞」の「管輅」は写本の字形を原寸で確かめた。活字本系テキストは「管給」とする。管輅は三国時代の卜者で文脈に合う。
- 校合
- 「馬喰町に六奇異あり」の割注は写本の読みで、原寸で確かめた。活字本系テキストは「七奇異」とするが、岡附塩町の一奇異と合わせて七とする文脈に六が合う。
- 校合
- 「名詮自性歟」は写本の読みで、原寸で確かめた。活字本系テキストは「名詮自稱歟」とする。名詮自性は名がそのものの性質を表すという仏教語。
- 校合
- 「綱曳のものども鬪諍して」は写本の読みで、原寸で確かめた。活字本系テキストは「鬪爭」とする。
- 判読保留
- 「數百年の後にして」は写本の読み。活字本系テキストは「數ふる年の後にして」とする。ページ全体の画像での読みで、原寸の切り出しがずれて確かめていない。判読保留。
- 校合
- 「宋の秦檜が後裔」は写本の読み。活字本系テキストは「秦會」とする。原寸で木偏を確かめた。
- 校合
- 「病症に疑ひあり」は写本の読み。活字本系テキストは「欵ひ」とする。
- 校合
- 「四十歲已上の人は記憶したるも」は写本の読みで、原寸で確かめた。活字本系テキストは「記隱」とする。
- 校合
- 「大人星出る年」は写本の表記。活字本系テキストは「出づる年」とする。
- 注記
- 写本の振り仮名は外した。「くさうづ」に「臭水」、「おうな」に「老女」、「はからひて」に「相計」、「めのたま」に「目子」、「つげたる」に「報」、「濁渾」に「にごり」の振り仮名がある。
- 判読保留
- 「馬爲人話候事」の「話」は写本では「語」とも見え、判読保留。活字本系テキストに従った。
- 注記
- 羅文は馬琴の長兄興旨の俳号。琴嶺興継は馬琴の子の滝沢宗伯興継。𪈐斎は馬琴の号の一つ。
- 注記
- 池北偶談は清の王士禎の随筆。京房は前漢の易学者、郭璞は西晋から東晋の学者。管輅は三国魏の占者。秦檜と岳飛は南宋の宰相と武将。人物の同定は雲亭の推定で未確認。
- 注記
- 鎌倉の御霊の社は今の鎌倉市坂ノ下の御霊神社。鳥海弥三郎は後三年の役で鎌倉権五郎景政の眼を射たと伝える人物。
AI試訳 / 専門家未校閲