雲亭日本古典図書室収録作品の一覧

耳の垢取

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兎園小説 / 曲亭馬琴ほか 兎園会の会員 / 第四集 第5話 / 輪池堂 屋代弘賢

慶長年中に水戸へ漂着した明人王春庭が耳垢取りの妙手として召し抱えられ、遠藤から太原へ姓を改めた家の由来。

本文 現代語訳

耳の垢取
耳の垢取
慶長年中、唐山の漂流船一艘、水戸の浦に着きたり。「異国の者か」と問ひければ、「大明太原県の者なり」とて七人乗組なり。このよし威公に申し上げ、かくその者どもに尋ねさせ給ふやう、「汝ら、国に帰りたく思はば送り遣るべし。この国に居りたくば置くべし」と仰せ下されければ、「御国に居りたきよし、願ふ所なり」と申すにより、みな江戸に召して芸能を尋ねさせ給ひければ、王春庭三官といふもの、「按摩導引をなす」と申す。「さらば」とて御側勤めのものに試みさせ給ふに、「妙手なり」と申すにより、威公御自ら療をさせ給ふに、比類なき名人なり。殊に「御耳の垢を取り、内を掃除する事、これまでなき術なり」とて、大いに思し召しにかなひ、日ごとに昵近して奉りければ、「永く御館に召し使はるべし。しかるうへはこの国の風俗になれ」とて、月代を剃り、衣服を改め、遠藤氏の女を娶りて「遠藤勘兵衛」と改めたり。
慶長年中に中国の漂流船一艘が水戸の浦に着いた。「異国の者か」と問うと、「大明の太原県の者だ」と言い、七人の乗組みであった。この由を威公に申し上げ、公はその者たちにこう尋ねさせた。「お前たちが国に帰りたいと思うなら送り返してやろう。この国にいたければ置いてやろう」と仰せ下されたので、「御国にいたいというのが願いです」と申し上げたため、みな江戸に呼び寄せて芸能を尋ねさせたところ、王春庭三官という者が「按摩と導引をいたします」と申し上げた。「それなら」とお側仕えの者に試させたところ「妙手です」と申し上げたので、威公が自ら治療をさせてみると、比類のない名人であった。特に「お耳の垢を取って中を掃除するのは、これまでにない術だ」と大いにお気に召し、毎日お側近くに仕えたので、「末永く館で召し使うことにする。そのうえはこの国の風俗に慣れよ」と、月代を剃り、衣服を改め、遠藤氏の娘を娶って「遠藤勘兵衛」と名を改めた。
さて男子出生しければ、名を賜はりて「造酒之助」と称す。これより代々当主は「勘兵衛」、総領は「造酒之助」といふ。この造酒之助成長せしかば、「何役にても望み候へ」と仰せ下されしより、いかが思ひけん、能役者を願ふ。願ひのごとく仰せかうぶり、高安の弟子になりて脇師になりたり。六世孫までは嫡流にてありしが、部屋住みにて歿し、男子なかりしかば、その弟を総領にして家を継がせしに、それも男子なかりしかば、従弟を養ひて継がせたり。英一蝶がかける「耳の垢とり」は、この乗組の内か。もしは王春庭が弟子にてもありしなるべし。
さて男子が生まれたので、名を賜って「造酒之助」と称した。これより代々当主は「勘兵衛」、跡取りは「造酒之助」という。この造酒之助が成長すると、「どんな役でも望むがよい」と仰せ下されたが、どう思ったのか能役者を願い出た。願いどおりに許され、高安の弟子になって脇師になった。六代目の孫までは嫡流であったが、部屋住みのまま亡くなって男子がなかったので、その弟を跡取りにして家を継がせたが、それにも男子がなかったので、従弟を養子にして継がせた。英一蝶が描いた「耳の垢取り」は、この乗組みの一人だろうか。あるいは王春庭の弟子だったのかもしれない。
二代造酒之助、家督を取りて勘兵衛と改めけるは、義公の御代なり。ある時仰せありけるは、「汝が親は太原の王氏なるに、遠藤を名乗りて藤の丸の紋付くるは、和漢の故事にかなはず。今より太原と書きて『おほはら』と名乗るべし。紋も〔図 王の字の古文の紋〕かくのごとく改めよ。これ王の字の古文なり」と仰せられしより、今に至るまでこれを用ふ。
二代目造酒之助が家督を継いで勘兵衛と改めたのは、義公の御代である。ある時こう仰せがあった。「お前の親は太原の王氏なのに、遠藤を名乗って藤の丸の紋を付けるのは、和漢の故事にかなわない。今から太原と書いて『おおはら』と名乗るがよい。紋も〔図 王の字の古文の紋〕このように改めよ。これは王の字の古い字体である」。そう仰せられてから、今に至るまでこれを用いている。
王春庭身まかりしかば、伊東子長応寺の後山に葬る。その時遺言にまかせて、衣服および随身の器物を残らず墓に埋めたりとて、家に伝はるものは琥珀の観音一体あるのみなり。五世の孫も長生にて、予が若かりし時八十有余なりき。すこぶる好事にて、「我ならば親の遺言背きても、遺愛の物を埋めずして家に伝ふべきを」とて、常に嘆息せしなり。予かつてその墓じるしを摺りてたり。「大明国王春庭三官」と題せり。この文字は次の耽亭に出だすべし。
王春庭が亡くなると、伊東子の長応寺の裏山に葬った。その時、遺言にまかせて衣服と身の回りの器物を残らず墓に埋めたといい、家に伝わるものは琥珀の観音一体があるだけである。五代目の孫も長生きで、私が若かった時に八十余歳であった。たいそう物好きな人で、「私なら親の遺言に背いてでも、遺愛の品を埋めずに家に伝えるのに」と、いつも嘆息していた。私はかつてその墓標を拓本に取った。「大明国王春庭三官」と題してある。この文字は次の耽奇会に出すつもりである。
乙酉四月 輪池
乙酉四月 輪池
原文 / 昭和女子大学本の字句を採り、正字体を保持、振り仮名を外す

耳の垢取

慶長年中唐山の漂流船一艘、水戶の浦に着きたり。異國の者かと問ひければ、大明太原縣の者なりとて七人乘組なり。このよし威公に申上げ、かくそのものどもに尋ねさせ給ふやう、汝等國に歸りたくおもはゞ送り遣るべし。此國に居りたくば置くべしと仰下されければ、御國に居りたきよし願ふ所なりと申すにより、みな江戶に召して藝能をたづねさせ給ひければ、王春庭三官といふもの、按摩導引をなすと申す。さらばとて御側勤のものに試みさせ給ふに、妙手なりと申すにより、威公御自ら療をさせ給ふに、無比類名人なり。殊に御耳の垢をとり内を掃除する事、これまでなき術なりとて、大におぼしめしにかなひ、日每に昵近して奉りければ、永く御舘にめしつかはるべし。然るうへは此國の風俗になれとて、月代をそり衣服を改め、遠藤氏の女をめとりて遠藤勘兵衞と改めたり。

さて男子出生しければ、名を賜はりて造酒之助と稱す。是より代々當主は勘兵衞、總領は造酒之助といふ。この造酒之助成長せしかば、何役にても望み候へと仰下されしより、いかゞおもひけん、能役者を願ふ。ねがひのごとく仰かうぶり、高安の弟子になりて脇師になりたり。六世孫迄は嫡流にて有しが、部屋住にて歿し、男子なかりしかば、其弟を總領にして家をつがせしに、それも男子なかりしかば、從弟を養ひてつがせたり。英一蝶がかける耳の垢とりは、此乘組の内歟。もしは王春庭が弟子にても有しなるべし。

二代造酒之助家督をとりて勘兵衞と改めけるは、義公の御代なり。或時仰有けるは、汝が親は太原の王氏なるに、遠藤をなのりて藤の丸の紋付るは、和漢の故事にかなはず。今より太原とかきておほはらとなのるべし。紋も〔圖 王の字の古文の紋〕如此あらためよ。これ王の字の古文なりと仰られしより、今に至るまでこれを用ふ。

王春庭身まかりしかば、伊東子長應寺の後山に葬る。その時遺言にまかせて、衣服および隨身の器物をのこらず墓にうづめたりとて、家につたはるものは琥珀の觀音一體有るのみなり。五世の孫も長生にて、予がわかゝりし時八十有餘なりき。すこぶる好事にて、我ならばおやの遺言そむきても、遺愛の物をうづめずして家に傳ふべきをとて、常に歎息せしなり。予かつてそのはかじるしを摺てたり。大明國王春庭三官と題せり。この文字は次の耽亭に出すべし。

乙酉四月 輪池

注

写本の位置
写本は3168の55カット目左ページから57カット目左ページまで。58カット目右ページは白紙で、58カット目左ページから第6話「風神圖説」の図が始まる。
校合
「王春庭三官」は写本の読みで、二か所とも「三官」。活字本系テキストは初出を「三宮」とし、後出を「三官」とする。
校合
「或時仰有けるは」は写本の読み。活字本系テキストは「或時仰せ有りける家は」として編者が「にカ」と注する。写本に「家」はない。
校合
「紋も如此あらためよ」の「も」と「如此」の間に、写本は王の字の古文の紋を図として描く。図の位置を〔圖〕で示した。図は上下に横画を重ねた形で、活字本系テキストの図と同じ。
判読保留
「伊東子長應寺」は写本と活字本系テキストの表記に従った。長応寺は芝伊皿子にあった寺で、「伊皿子」の誤写と考えられるが、写本の字形は原寸で確かめていない。判読保留。
判読保留
「次の耽亭に出すべし」の「耽亭」は活字本系テキストに従った。写本の字は「耽奇會」とも読めるが確かめられず、判読保留。耽奇会は同年に開かれていた古器物の鑑賞会。
校合
「六世孫迄は嫡流にて有しが」「もしは王春庭が弟子にても有しなるべし」の「有し」は写本の表記。活字本系テキストは「有りし」とする。
注記
威公は水戸藩初代藩主徳川頼房、義公は二代藩主徳川光圀の諡。高安は能のワキ方の流儀。英一蝶は元禄期の画家。人物の同定は雲亭の推定で未確認。

AI試訳 / 専門家未校閲