駒込富士来歴 附一銭職分由緒
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兎園小説 / 曲亭馬琴ほか 兎園会の会員 / 第四集 第13話 / 文宝亭 亀屋久右衛門
駒込富士神社の由来と加賀藩邸の氷室の関わり、髪結の一銭職分の由緒書、両国の鰻屋草加屋安兵衛の娘と松平定信の贈答歌を文宝堂が写す。
本文 現代語訳
駒込富士の由来ならびに加州御屋敷氷室の事
駒込富士の由来、あわせて加賀藩邸の氷室の事
江戸本郷加州御屋敷の氷室の場所は、慶長八癸卯年六月朔日、雪の降りたる所なり。その雪、富士の形に積もりたるゆゑに、その所へ浅間の宮を造立し、毎年六月朔日、祭りをなす。そのころ本郷に桔梗屋なにがし、水野兵九郎、源右衛門といふ者三人にて、よろづの事を取り計らひけるとぞ。その後、右浅間の宮の所も加州御屋敷へ囲ひ込みとなりても、以前のごとく参詣ありて、御屋敷の御門を出入りしけるを、「いかがしき」とて、同所御弓町真光寺へ浅間の宮を引き移されしが、「この地、不浄なり」といふ夢の告げありしによりて、程なく駒込の原へ遷座あり。今の駒込の富士これなり。駒込へ移されしは、寛永三戌年なり。享保二年六月朔日より、鉄砲洲船松町より毎年五月晦日の夜、かけ念仏にて駒込富士へ万度を一本持ち来たりて、これを納むる事、今に絶えず。この事はいかなるゆゑにか。なほ尋ぬべし。
江戸本郷の加賀藩邸にある氷室の場所は、慶長八年癸卯六月一日に雪が降った所である。その雪が富士山の形に積もったので、そこへ浅間の宮を建て、毎年六月一日に祭りを行う。そのころ本郷に桔梗屋某、水野兵九郎、源右衛門という者が三人いて、万事を取り計らったという。その後、この浅間の宮の場所も加賀藩邸の中に囲い込まれたが、以前のとおり参詣する人があって藩邸の門を出入りしていたのを、「どうしたものか」ということで、同じ所の御弓町の真光寺へ浅間の宮を移した。ところが「この土地は不浄である」という夢のお告げがあったので、ほどなく駒込の原へ遷座した。今の駒込の富士がこれである。駒込へ移されたのは寛永三年戌の年である。享保二年六月一日から、鉄砲洲船松町から毎年五月晦日の夜に、かけ念仏をしながら駒込富士へ万度を一本持って来て納めることが、今も絶えない。これはどういう理由によるのか。なお調べるべきである。
この一条、本郷六町目駿河屋喜太郎の話なり。
この一条は、本郷六丁目の駿河屋喜太郎の話である。
一 職分の儀は、文永中、
一 職分のことは、文永年間、
人皇八十九代御帝亀山院様御宇、上北面にて、
人皇八十九代の帝、亀山院様の御代に、上北面であった
北小路左兵衛藤原朝臣基晴卿
北小路左兵衛藤原朝臣基晴卿
故これあり、長門国下の関辺に流浪し居住、子息三人これあり。嫡子北小路大蔵亮藤原基詮、右四人流居のうち、吉岡久左衛門、介抱をもって渡世となし、大蔵亮は太物売、兵庫亮は染物師、采女亮儀は父基晴卿養育のため髪結職と相成り、面体顕はれがたく往来住宅、雨落より三尺張り出し御免にて、長暖簾四尺二寸、縫下五寸、鏡障子三尺の寸法と相定め渡世いたすうち、父基晴卿、年月を経て死去ののち、関東鎌倉繁花の時、居住し桐ケ谷にて松岡と号し、采女亮七代の孫北小路藤七郎、美濃国岐阜より、元亀天正のころ、遠江国比久間味方ケ原に流浪す。東照大権現様、甲駿信の押し武田大膳太夫兼信濃守法姓院機山兵徳得栄晴信入道大僧正信玄と御一戦なされあり、ころは元亀三壬申年十月十四日、東海道見附駅の間道一言坂より池田まで、夕陽に及び、総御同勢とも浜松の御館へ御引き揚げなされ遊ばされ候時、その日大風雨にて、東海道天竜川満水にて渡し船相成りがたきにつき、渡守仕り候者ども、我が家々へ引き取り、川端に壱人も居合はせず、御渡し船なされがたく遊ばされ候。しかる所に北小路藤十郎行き掛かり候につき、厳命を蒙りたてまつり、もっとも水練功者の事ゆゑ、畏れたてまつり川の浅瀬を踏みに御案内申し上げたてまつり候。右につき御難なく、浜松の御城に御引き揚げ相済み、御悦喜これあり。以来諸国関所、川々渡し場などまで、相違なく御通し下し置かれ候なり。もっともその節後殿の義、本多中務大輔忠勝殿相勤められ候事、なほまたその後三河国碧海郡原の郷まで御供たてまつり、その砌厳命を蒙り、東照源大神君様の御髪を揚げたてまつり、当座の御褒美として金一銭一銭、御笄一対、榊原式部大輔康政殿御取次をもってこれを頂戴す。「以来結髪の総名を一銭と唱ふべき者なり」と仰せを蒙り、直に御暇下し置かれ流浪して、一銭職分の渡世いたし来たり候ところ、その後慶長八卯年関東武場へ徳川様御入国なされあり、その砌一銭職分繁七郎、東部繁花の地と相成り候につき、武蔵国芝口海手辺に罷り出で居住し渡世いたし来たり候所、その刻御召に預かり、先年の御褒美として青銅千疋、伊奈熊蔵殿御取次をもってこれを頂戴す。いよいよますます一銭職分いたし来たり候ところ、その後万治年中、厳有院様御代、北小路藤七郎四代の孫北小路総右衛門、神田三河町へ引き移り居住し、御府内一銭職分の株敷御願ひ申し上げ候ところ、御糺の上、由緒これあるにつき御取り立てなされ遊ばされ、御公儀様御朱印下し置かれ、株敷成し下さる。その上なほ御焼印の御下札など頂戴仕り候につき、株敷補ひ一銭職分の渡世相続いたし来たり候ところ、その後享保年中、有徳院様御代、東都御町奉行大岡越前守様御役所へ諸職人召し出だされ、株敷これある者ども、それぞれの御役義仰せ付けられ、その砌一銭職分の者へは、先年神君様天竜川御難儀の刻、浅瀬御案内申し上げたてまつり候よしにて、「御役義御免」と仰せ出だされ候へども、一銭職分の者ども、一同株敷下し置かれ候。冥加のため相応の御役義願ひ上げたてまつり候につき、御聞き済みこれあり、以来出火の砌、両御町奉行所へ駆け付け、御記録御長持入れの御役義相勤め、株敷の渡世相続いたし来たり候事。
に故あって、長門国下関のあたりに流浪して住み、子息が三人あった。嫡子は北小路大蔵亮藤原基詮で、この四人が流浪して住むうち、吉岡久左衛門が世話をして生計を立て、大蔵亮は太物売り、兵庫亮は染物師、采女亮は父基晴卿を養うために髪結職となり、顔を見られないよう、往来に面した住まいは軒先から三尺張り出すことを許され、長暖簾は四尺二寸、縫下は五寸、鏡障子は三尺の寸法と定めて生業を営んでいた。父基晴卿が年月を経て亡くなった後、関東鎌倉が繁栄していたころ、そこへ移り住んで桐ケ谷で松岡と名乗った。采女亮の七代の孫北小路藤七郎は、美濃国岐阜から元亀天正のころに遠江国比久間味方ケ原へ流浪した。東照大権現様が、甲斐駿河信濃を押さえる武田大膳大夫兼信濃守法姓院機山兵徳得栄晴信入道大僧正信玄と一戦なさったのは元亀三年壬申十月十四日で、東海道見附駅の間道の一言坂から池田まで、夕暮れになって総勢が浜松の御館へ引き揚げなさった時、その日は大風雨で東海道の天竜川が満水になり渡し船が出せず、渡守の者たちはめいめいの家へ引き取って川端には一人もおらず、渡し船に乗ることがおできにならなかった。そこへ北小路藤十郎が通りかかったので厳命を受け、もとより水練の達人であったから、畏まって川の浅瀬を踏んで案内を申し上げた。このため御難はなく、浜松の御城への引き揚げが済み、お喜びがあった。以来、諸国の関所や川の渡し場などまで、支障なく通行を許されたのである。なおその折の殿は本多中務大輔忠勝殿が務められた。さらにその後、三河国碧海郡原の郷までお供をし、その折に厳命を受けて東照源大神君様の御髪を結い上げ、当座の褒美として金一銭と御笄一対を、榊原式部大輔康政殿の取り次ぎで頂戴した。「以来、髪結いの総称を一銭と唱えよ」との仰せを受け、すぐに暇を賜って流浪し、一銭職分の生業を続けてきたところ、その後慶長八年卯の年に関東の武蔵へ徳川様が入国なさり、その折に一銭職分の繁七郎は、東国が繁栄の地となったので武蔵国芝口の海辺へ出て住み生業を営んでいたところ、そのときお召しにあずかり、先年の褒美として青銅千疋を伊奈熊蔵殿の取り次ぎで頂戴した。ますます一銭職分を続けてきたところ、その後万治年中、厳有院様の御代に、北小路藤七郎の四代の孫北小路総右衛門が神田三河町へ移り住み、江戸府内の一銭職分の株敷を願い出たところ、お調べの上で由緒があるとしてお取り立てになり、御公儀様の御朱印を下され、株敷を認められた。そのうえ焼印の御下札なども頂戴したので、株敷を補い一銭職分の生業を相続してきたところ、その後享保年中、有徳院様の御代に、江戸の町奉行大岡越前守様の御役所へ諸職人が召し出され、株敷を持つ者たちにそれぞれの御役義を仰せ付けられた。その折、一銭職分の者へは、先年神君様が天竜川で御難儀の折に浅瀬の案内を申し上げたということで「御役義御免」と仰せ出されたけれども、一銭職分の者たちには一同に株敷を下された。そのお礼として相応の御役義を願い出たところ、お聞き届けがあり、以来出火の折には両町奉行所へ駆け付け、御記録を御長持に入れる御役義を勤め、株敷の生業を相続してきたのである。
右、嫡男幸次郎幼年により、職分の由緒を弁ぜざるにおいて、書を与ふる者なり。
右、嫡男の幸次郎が幼年のため職分の由緒をわきまえないので、この書を与えるものである。
享保十二丁未年九月十二日 北小路宗四郎藤原基之
享保十二年丁未九月十二日 北小路宗四郎藤原基之
前書の趣につき、諸国諸武家の落人百名以上の面々、虚無僧と一銭職分に相成り、忍び渡世にて先君へ召し通し、相待つべき者なり。以上。
前書の趣旨により、諸国諸武家の落人百名以上の面々が虚無僧と一銭職分になり、身を忍ぶ生業をしながら先君へ召し通されるのを待つべきものである。以上。
大御所様御前において本多上野介正純をもって、東都酒井讃岐守殿へ仰せ渡し置き、この段道中奉行松浦越前守殿へ仰せ達し置かれ候事。よってくだんのごとし。
大御所様が御前で本多上野介正純を通じて江戸の酒井讃岐守殿へ仰せ渡され、この件を道中奉行松浦越前守殿へ仰せ達しになった事。よって右のとおりである。
右、髪結職と相成り、鬢盥持参して渡世の事は、万治元年八月十六日よりはじまりしといふ。
右のように髪結職となって、鬢盥を持参して生業とすることは、万治元年八月十六日から始まったという。
両国薬研堀の鰻屋草加屋安兵衛は、紀名虎が末流のよし。娘は松平越中守殿に仕へけるが、ある年の冬の夜、この娘御側に侍りける時、折ふし霰降り来たりければ、守の殿この音を聞き給ひて、「かかる寒けき夜も、今泰平の御代に生まれあひぬれば、寒き事もおぼえず。かく豊かにあるこそ、実にありがたき事なれ」と仰せられて、
両国薬研堀の鰻屋、草加屋安兵衛は紀名虎の末流だという。娘は松平越中守殿に仕えていたが、ある年の冬の夜、この娘がお側に侍っていた時、おりしも霰が降ってきたので、守の殿はこの音をお聞きになって、「こんな寒い夜も、今の泰平の御代に生まれ合わせたので寒さも感じない。このように豊かでいられるのは実にありがたいことだ」と仰せられて、
こての上にふりし世しらであつぶすまかさねて夜の霰をぞきく
籠手の上に霰の降った戦乱の世を知らずに、厚い衾を重ねて夜の霰の音を聞くことだ。
と詠み給ひて、「その方も紀氏の末流なれば、即詠せよ」と仰せありける時、この娘、
とお詠みになり、「そなたも紀氏の末流なのだから、すぐに詠め」と仰せになった時、この娘は、
あつぶすまかさねても猶さむき夜に道ゆく人の声ぞきこゆる
厚い衾を重ねてもなお寒い夜に、道を行く人の声が聞こえてくる。
後にこの娘御暇給はりて、牛込御納戸町近江屋半三郎といふ者のかたへ嫁すべき時に、殿の御歌、
後にこの娘は暇を賜って、牛込御納戸町の近江屋半三郎という者のもとへ嫁ぐことになった時、殿の御歌として、
一かたに心さだめよ小夜ちどりいづくの浦に浪風はなき
一方に心を定めよ、小夜千鳥よ。どこの浦にも波風のないところはないのだから。
といへる御歌を給はりきとなん。この安兵衛の遠祖は、駿河大納言に仕へたてまつりて、そのころ堀田三郎兵衛といひしよし。君御生害の後、武州草加にゆかり求めて百姓となり居たりしかば、今の安兵衛より三代前の事なりといへり。
という御歌を賜ったということだ。この安兵衛の遠祖は駿河大納言にお仕えして、そのころは堀田三郎兵衛といったという。主君が自害された後、武蔵の草加に縁を求めて百姓になっていたので、今の安兵衛より三代前のことだという。
右、白川侯の御歌は、鎌倉の右府実朝公の御歌に、
右の白川侯の御歌は、鎌倉の右大臣実朝公の御歌、
武士の矢並つくろふこての上に霰たばしる那須のしの原
武士が矢並みを整える籠手の上に、霰が飛び散る那須の篠原よ。
『続後拾遺集』に見えたり。この歌を思し召し合はせ給ひて、詠み給ひしなるべし。
が『続後拾遺集』に見える。この歌を思い合わせてお詠みになったのだろう。
先祖堀田三郎兵衛、大納言の君御生害の後、追腹も切らず、のらりくらりと百姓になり、今の安兵衛に至りて鰻屋となりしは、先祖が腹を切らぬ代はりに、今鰻の背を裂くもをかし。
先祖の堀田三郎兵衛は、大納言の君が自害された後も追い腹を切らず、のらりくらりと百姓になり、今の安兵衛に至って鰻屋になったというのは、先祖が腹を切らなかった代わりに今は鰻の背を裂いているのも、おかしなことだ。
原文 / 昭和女子大学本の字句を採り、正字体を保持、振り仮名を外す
駒込富士之由來幷加州御屋敷氷室之事
江戶本鄕加州御屋敷氷室の場所は、慶長八癸卯年六月朔日雪ふりたる所也。其雪富士の形につもりたるゆゑに、其所へ淺間の宮を造立し、每年六月朔日まつりをなす。其比本鄕に桔梗屋何がし、水野兵九郞、源右衞門といふもの三人にて、萬の事を取りはからひけるとぞ。其後右淺間の宮の所も、加州御やしきへ圍ひこみとなりても、以前のごとく參詣ありて、御屋敷の御門を出入しけるを、いかゞしきとて、同所御弓町眞光寺へ淺間の宮を引移されしが、此地不淨なりといふ夢の告ありしによりて、程なく駒込の原へ遷座あり。今の駒込の富士これなり。駒込へうつされしは、寬永三戌年なり。享保二年六月朔日より、鐵砲洲船松町より每年五月晦日の夜、かけ念佛にて駒込富士へ萬度を一本持來りて、これを納むる事今にたえず。此事はいかなるゆゑにか。猶たづぬべし。
此一條、本鄕六町目駿河屋喜太郞話なり。
壹錢職分由緖之事
一職分之儀者、文永中
人皇八十九代御帝龜山院樣御宇、上北面にて
北小路左兵衞藤原朝臣基晴卿
故有之、流浪長門國下之關邊居住、子息三人有之。嫡子北小路大藏亮藤原基詮、右四人流居之内、吉岡久左衞門以介抱爲渡世、大藏亮太物賣、兵庫亮染物師、采女亮儀は父基晴卿爲養育髮結職と相成、難顯面體往來住宅、雨落より三尺張出し御免にて、長暖簾四尺二寸、縫下五寸、鏡障子三尺寸法と相定致渡世の内、父基晴卿經年月死去之後、關東鎌倉繁花の時、居住桐ケ谷にて松岡と號し、采女亮七代之孫北小路藤七郞、從美濃國岐阜、元龜天正之比、流浪於遠江國比久間味方ケ原、東照大權現樣、甲駿信之押武田大膳太夫兼信濃守法姓院機山兵德得榮晴信入道大僧正信玄と御一戰被爲有、比者元龜三壬申年十月十四日、東海道見附驛之間道一言坂より池田迄、及夕陽總御同勢共、濱松之御館へ御引揚被爲遊候時、其日大風雨にて、東海道天龍川滿水にて渡船難相成に付、渡守仕候者共、我家々へ引取り川端に壱人も不居合、御渡船難被爲游候。然る所に北小路藤十郞行掛候に付、奉蒙嚴命、尤水練功者之事故、奉畏川淺瀨踏に御案内奉申上候。右に付無御難、濱松之御城に御引揚相濟、御悅喜有之。以來諸國關所川々渡場等迄、無相違御通し下置候なり。尤其節後殿之義、本多中務大輔忠勝殿被相勤候事、猶又其後三河國碧海郡原之鄕迄奉御供、其砌蒙嚴命、東照源大神君樣奉揚御髮、當座之爲御褒美金一錢一錢、御笄一對、榊原式部大輔康政殿御取次を以頂戴之。以來結髮之總名を一錢と可唱者也と蒙仰、直に御暇被下置流浪して、一錢職分渡世致來候處、其後慶長八卯年關東武場へ德川樣御入國被爲有、其砌一錢職分繁七郞、東部繁花之地と相成候に付、武藏國芝口海手邊に罷出居住渡世致來候所、其刻預御召、先年之爲御褒美靑銅千疋、伊奈熊藏殿御取次を以頂戴之。愈益一錢職分致來候處、其後萬治年中、嚴有院樣御代、北小路藤七郞四代之孫北小路總右衞門、神田三河町へ引移居住、御府内一錢職分株敷御願申上候處、御糺の上由緖有之に付御取立被爲遊、御公儀樣御朱印被下置、株敷被成下。其上尙御燒印之御下札等頂戴之仕候に付、株敷補ひ一錢職分渡世相續致來候處、其後享保年中、有德院樣御代、東都御町奉行大岡越前守樣御役所へ諸職人被召出、株敷有之者共、夫々之御役義被仰付、其砌一錢職分之者へは、先年神君樣天龍川御難儀之刻、淺瀨御案内奉申上候由にて、御役義御免と被仰出候得共、一錢職分之者共、一同株敷被下置候。爲冥加相應之御役義奉願上候に付、御聞濟有之、以來出火之砌、兩御町奉行所へ缺付、御記錄入御長持御役義相勤株敷渡世相續致來候事。
右嫡男幸次郞依幼年、不辨於職分由緖與書者也。
享保十二丁未年九月十二日 北小路宗四郞藤原基之
前書之趣に付、諸國諸武家落人百名以上之面々、虛無僧と一錢職分に相成、忍渡世にて先君へ召通し可相待者也。以上。
慶長八卯年
大御所樣於御前本多上野介正純を以、東都酒井讃岐守殿へ仰渡置、此段道中奉行松浦越前守殿へ被仰達置候事。仍而如件。
右髮結職と相成、鬢盥持參して渡世之事は、萬治元年八月十六日よりはじまりしといふ。
兩國藥硏堀うなぎや草加屋安兵衞は、紀名虎が末流のよし。娘は松平越中守殿につかへけるが、あるとしの冬の夜、此娘御側に侍りける時、折ふしあられ降來りければ、守の殿此音を聞給ひて、かゝるさむけき夜も、今泰平の御代に生れあひぬれば、寒き事もおぼえず、かくゆたかにあるこそ、實に有がたき事なれと仰られて、
こての上にふりし世しらであつぶすまかさねて夜の霰をぞきく
と詠給ひて、其方も紀氏の末流なれば卽詠せよと仰ありける時、此むすめ、
あつぶすまかさねても猶さむき夜に道ゆく人の聲ぞきこゆる
後に此娘御いとま給はりて、牛込御納戶町近江屋半三郞といふ者のかたへ嫁すべき時に、殿の御歌、
一かたに心さだめよ小夜ちどりいづくの浦に浪風はなき
といへる御歌を給はりきとなん。此安兵衞の遠祖は、駿河大納言につかへ奉りて、其比堀田三郞兵衞といひしよし。君御生害の後、武州草加にゆかりもとめて百姓となり居たりしかば、今の安兵衞より三代まへの事なりといへり。
右白川侯の御歌は、鎌倉の右府實朝公の御歌に、
武士の矢並つくろふこての上に霰たばしる那須のしの原
續後拾遺集に見えたり。此歌を思し召し合せ給ひて、よみたまひしなるべし。
先祖堀田三郞兵衞、大納言の君御生害の後、追腹もきらず、のらりくらりと百姓になり、今の安兵衞に至りてうなぎやとなりしは、先祖が腹をきらぬかはりに、今うなぎの脊をさくもをかし。
注
- 写本の位置
- 写本は3168の72カット目左ページから78カット目左ページまで。72カット目左ページの見出し「駒込富士之由來幷加州御屋敷氷室之事」から73カット目右ページまでが駒込富士、73カット目左ページの見出し「壹錢職分由緖之事」から77カット目右ページまでが由緒書、77カット目左ページの「○」から78カット目左ページまでが草加屋安兵衛の話。79カット目右ページは白紙で、79カット目左ページは裏表紙。
- 校合
- 写本の目録は「駒込富士來歷 附一錢職分由緖」で、草加屋安兵衛の話は目録にないが本文には「○」で続くので、目録の一項に従って一つの passage にした。活字本系テキストの目録は「駒込富士來歷【一錢職分由緖附草加屋安兵衞娘之事】」とし、私家版は三つの記事に分ける。壹錢職分由緖之事は https://onibi.cocolog-nifty.com/alain_leroy_/2021/08/post-a39ed0.html 、草加屋安兵衞娘之事は https://onibi.cocolog-nifty.com/alain_leroy_/2021/08/post-3d1fdf.html にある。
- 注記
- 披講者は目録では文寶亭。文宝亭と文宝堂は同じ人物で、雲亭では亀屋久右衛門と推定するが未確認。
- 校合
- 見出しの「駒込富士之由來」は写本の読みで、原寸で確かめた。活字本系テキストは「駒込富士之山來」とする。
- 校合
- 「右嫡男幸次郞」の「右」は写本の読みで、原寸で確かめた。活字本系テキストは「相(マヽ)嫡男」とする。
- 判読保留
- 「御褒美金一錢一錢」は活字本系テキストのままとし、写本では「一錢」の重複を原寸で確かめられなかったので判読保留。
- 判読保留
- 「法姓院」「關東武場」「本多中務大輔」は活字本系テキストに従い、写本の字形を原寸で確かめていないので判読保留。「法姓院」は通行の「法性院」、「武場」は「武陽」の誤写と思われる。
- 校合
- 「寬永三戌年」は写本も活字本系テキストも同じ。寛永三年の干支は丙寅で戌ではなく、写本の誤りをそのまま残した。
- 注記
- 由緒書の候文は写本では返り点を付けて漢文風に書く箇所があり、原文では返り点を外して字だけを写した。文中の改行と一字下げは段落に反映していない。
- 校合
- 「壹錢職分」の「壹」は写本の見出しの字形で、本文中は「一錢」と書く。活字本系テキストは見出しを「壱錢職分」とする。
- 注記
- 「續後拾遺集」の書名は写本の読み。実朝の歌は金槐和歌集の冬の部にも見える。
- 注記
- 駒込富士は現在の文京区本駒込の駒込富士神社、加州御屋敷は加賀藩上屋敷で現在の東京大学本郷キャンパス、御弓町真光寺は本郷の天台宗寺院、薬研堀は中央区東日本橋の旧地名。いずれも雲亭の推定で未確認。
- 注記
- 松平越中守は松平定信、白川侯も同じ。駿河大納言は徳川忠長。紀名虎は平安前期の官人。松平定信の歌は実朝の「もののふの矢並つくろふ籠手の上に霰たばしる那須の篠原」を踏まえる。歌の現代語訳は雲亭の試訳。
- 注記
- 一銭職分由緒書は髪結の起源を語る文書として各地に伝わり、采女亮政之を理美容業の祖とする伝承の根拠になっている。雲亭の推定で未確認。
AI試訳 / 専門家未校閲