老狸書画譚餘
読書室で開く(原典画像・関連作品・自分の書架)
兎園小説 / 曲亭馬琴ほか 兎園会の会員 / 第五集 第2話 / 著作堂 滝沢馬琴
大貫村の狸の書と市の幻術に、狸ばかり好んだ狸庵の奇人ぶりを馬琴が書き添える。
本文 現代語訳
下総香取の大貫村、藤堂家の陣屋隷たる某甲の家に棲めりしといふ古狸の一くだりは、予も早く聞きたることあり。当時、「その狸のありさまを見き」といふ人の語りしは、「件の狸はかの家の天井の上にをり、その書を乞はまくほりするものは、みづからその家に赴きて『しかじか』と乞ひ願へば、あるじその心を得て、紙筆に火を鑽りかけ、墨を筆に含ませて席上に置くときは、しばらくしてその紙筆おのづからに閃き飛びて天井の上に至り、またしばらくして登りて見れば、必ず文字あり。あるいは鶴亀、あるいは松竹、一二字づつを大書して『田ぬき百八才』と記ししが、その翌年に至りては『百九才』と書きてけり。これによりて前年の『百八才』はそらごとならず」と、人みな思ひけるとなん。
下総香取の大貫村で、藤堂家の陣屋に仕える某の家に棲んでいたという古狸の一件は、私も早くから聞いていた。当時「その狸の様子を見た」という人が語ったところでは、こうである。その狸はその家の天井の上におり、狸の書を欲しがる者がみずからその家を訪ねて「かくかくの次第で」と願うと、主人は心得て、紙と筆に切り火をかけ、筆に墨を含ませて座敷に置く。するとしばらくしてその紙と筆はひとりでにひらめき飛んで天井の上へ上がり、またしばらくして上がって見ると必ず文字が書いてある。鶴亀とか松竹とか、一字二字ずつを大書して「田ぬき百八才」と記していたが、翌年には「百九才」と書いた。これによって前年の「百八才」は嘘ではなかったと、人はみな思ったという。
されば狸は天井より折ふしは下り立ちてあるじに近づくこと常なり。また同藩の人はさらなり、近きわたりの里人の日ごろ親しみて来るものどもは、そのかたちを見るもありけり。ある時、あるじ戯れにかの狸にうち向かひて、「なんぢ、既に神通あり。この月の何日にはわが家に客をつどへん。その日に至らば、何事にまれ、おもしろからんわざをして見せよかし」といひにけり。かくてその日になりしかば、あるじ、まらうどらに告げていはく、「某、さきに戯れに狸に云々といひしことあり。されば今日のもてなしぐさにはただこれのみと思へども、かれよくせんや、今さらに心もとなくこそ」といふ。人々これをうち聞きて、「そはめづらしき事になん。とくせよかし」とののしりて、盃をめぐらしながら賓主語らひ暮らすほどに、その日も申の頃になりぬ。かかりしほどに、座敷の庭たちまち広き堤になりて、その院のほとりにはくさぐさの商人あり。あるいは葭簀張りなる店をしつらひ、あるいは筵の上などに物あまた並べたる、そを買はんとてあちこちより来る人あり、帰るもあり。売り物のさはなる中に、ゆでだこをいくらともなく簷にかけ渡ししさへ、いとあざやかに見えてけり。人々驚き怪しみて、なほつらつらと眺むるに、こはこの時の近きわたりにて六才に立つ市にぞありける。珍しげなき事ながら、陣屋の家中の庭もせの、かの市にしも見えたるを、人みな興じてののしるほどに、漸々に消え失せしとぞ。
だから狸は天井から折々に下りてきて主人に近づくのが常だった。同じ藩の人はもちろん、近所の里人で日頃親しんで来る者たちは、その姿を見ることもあった。あるとき主人が戯れにその狸に向かって、「おまえにはもう神通力がある。この月の何日にはわが家に客を集める。その日になったら何でもよいから面白い芸をして見せてくれ」と言った。さてその日になると、主人は客たちに告げて、「私は先日戯れに狸にこれこれと言ったことがある。今日のもてなしはこれだけと思っているが、あいつがうまくやれるかどうか、今さらながら心もとない」と言う。人々はこれを聞いて「それは珍しいことだ。早くやらせろ」と騒ぎ、盃を回しながら主客が語らって過ごすうちに、その日も申の刻になった。するとそのとき、座敷の庭がたちまち広い堤になり、その境内のあたりにさまざまな商人がいる。葭簀張りの店をしつらえる者もあれば、筵の上などに品物をたくさん並べる者もあって、それを買おうとあちこちから来る人もあれば帰る人もある。売り物のたくさんある中に、ゆでだこをいくつともなく軒に掛け渡してあるのさえ、じつに鮮やかに見えた。人々は驚き怪しんで、なおもつくづく眺めると、これはこのとき近所で六年目ごとに立つ市であった。珍しくもないことながら、陣屋の家中の庭の裏手がその市に見えたのを、人はみな面白がって騒ぐうちに、しだいに消え失せたという。
これよりして狸の事、をちこちに聞こえしかば、その書を求むるものはさらなり、病難、利欲、何くれとなく祈れば応験ありけるにや、縁を求めて詣づるもののおびただしくなりしかば、遂に江戸にもそのよし聞こえて官府の御沙汰に及びけん、「有司ひそかにかの地に赴き、をさをさあなぐり糺ししかども、もとより世にいふ山師などのたくみ設けし事にはあらぬに、かつ大諸侯の陣屋なる番士の家にての事なれば、さして咎むるよしなかりけん、いたづらに帰り参りき」といふものありしが、虚実は知らず。
これから狸のことがあちこちに聞こえたので、その書を求める者はもちろん、病難や利欲など何くれとなく祈れば効験があったのだろうか、縁を求めて参詣する者がおびただしくなった。ついに江戸にもその噂が聞こえて奉行所の沙汰に及んだのだろう、「役人がひそかにその土地へ赴いて念入りに探り糺したが、もともと世にいう山師などが仕組んだことではなく、しかも大大名の陣屋の番士の家でのことなので、とりたてて咎める理由もなかったのか、むなしく帰った」という者がいたが、本当かどうかは知らない。
これよりしてかの家にては紹介なきものを許さず、まいて狸に会はする事はいよいよせずと聞こえたり。これらのよしを伝聞せしは文化二三年のころなりしに、この後はいかにかしけん、七十五日と世にいふ如く、噂も聞かずなりにけり。〔このころ両国広小路にて狸の見せ物を出せしとありしに、かの大貫村なる狸の風聞高きにより、官より禁ぜられしなり〕
これ以後、その家では紹介のない者を入れず、まして狸に会わせることはいよいよしなくなったと聞いた。これらのことを伝え聞いたのは文化二三年の頃だったが、その後はどうなったのか、「人の噂も七十五日」と世にいうとおり、噂も聞かなくなった。〔この頃、両国広小路で狸の見世物を出したことがあったが、あの大貫村の狸の評判が高かったために、お上から禁じられたのである〕
そもそも北峰子のためにこの一条を追書すること、いささか縁故なきにあらず。本月朔日の小集はわが庵にてあるじせんとてかねてより契りしかば、北峰子、乾斎子いち早く来たりつる折、北峰子、予にいふやう、「さてしも例の事ながら、今日わが書き記して持て来つるはめづらしげなき事なれども、狸の書きたりきといふ文字を影写して来つるのみ。ありし筆でもあるものぞ。披講の折に見給へ」といはれたり。予これをうち聞きて、「さればとよ、文化のはじめ、江戸近郷なる人の家に住めりしといふ狸の、をちこち人の需めに応じて字を書きて与へしことあり。その故は云々なり」とて、上に記せし趣を詞せはしく語り出づるに、北峰しきりに頷きて、「わが今日影写して来つといひしもその狸の筆述なり。さばれ、その事はわが総角の時なりければ、さるつばらかなる事は得聞かず。願ふはわが書篇の末に書き記してたびねかし。わが物せんはかたくもあらねど、伝聞にはあらずもあらん。ようし給へ」とそそのかされて、まづ北峰子の披講を聞きつ、またその狸の書を見るに、さきに予が聞きたるもこれかれ暗合したるにより、「さては予が聞きたりしもまことにてありけり」とまたさらに思ひなりて、これらのよしを記すのみ。世にいふ余計の仕事に似たれど、心ざまの合へるどちを「ひとつ穴なるむじな」といへば、狸の事にもかばかりの事しもあらんと自笑して、諸君の書写の紙数をかさぬるは、をこならんかし。
そもそも北峰子のためにこの一条を書き添えるのは、いささか縁故がないわけではない。今月一日の小さな集まりはわが庵で主人役を務めようと前から約束していたので、北峰子と乾斎子がいち早く来た折、北峰子が私に言うには、「さて、いつものことながら、今日書き記して持ってきたのは珍しくもないことだが、狸が書いたという文字を影写して来ただけのものだ。こんな筆跡もあるものだ。披講のときに見てくれ」と言われた。私はこれを聞いて、「そういえば文化の初め、江戸近郷のある人の家に住んでいたという狸が、あちこちの人の求めに応じて字を書いて与えたことがある。そのわけはこれこれだ」と、上に記した趣旨をせわしく語ったところ、北峰はしきりにうなずいて、「私が今日影写して来たと言ったのも、その狸の筆跡だ。しかしそれは私が子どもの頃のことだったので、そんな詳しいことは聞けなかった。願わくは私の一篇の末に書き添えてくれ。私の書くものは確かとは言えないが、伝聞でもないだろう。ぜひ書いてくれ」とそそのかされた。まず北峰子の披講を聞き、またその狸の書を見ると、先に私が聞いたことと符合したので、「では私が聞いたことも本当だったのだ」とあらためて思って、これらのことを記すだけである。世にいう余計な仕事に似ているが、気の合う者どうしを「同じ穴の狢」というのだから、狸のことにもこのくらいのことはあってよかろうと自分で笑いながら、諸君が書写する紙の枚数を増やすのは、愚かなことだろうか。
因みにいふ、北峰子の末篇に記されし狸庵には、予も一両度対面せしなり。かれが当時の本宅は中橋なりしか。よくも知らねど、年来芝新橋詰にささやかなる紙店を出して、売卜をもて活業にせしものなり。寛政中、予は伊東蘭洲に誘引せられてそが店に赴きて、飼ひおける狸を見し事ありけり。この時は狸二三頭を、前を竹篇子にせし箱に入れてその座右に置きたり。毛色のいささか異なるを「いかにぞや」と尋ねしに、「一頭は玉面狸なり。その余はよのつねなるものなり」とて、ほこりかに説き示しにき。この後、文化の初めにやありけん、誰やらが書画会の席上にてまたかの狸庵に面を合はせし日、かれが年来秘蔵すと聞こえたる狸石を携へ来て、予にも見せ、人々にも見せけり。その石はまろくして、長さはわづか二寸に足らず。薄青白なる石のうちに黒く三四分ばかりなる狸のかたちあり。これ天然のものにして、さながら画けるに異ならず。見るもの嘆賞せざるはなし。ただこれのみにあらず、そが煙草入れの諸飾り、紙入れの金物なんど、すべて狸にあらぬはなし。また好みて狸の写真をよくせり。予その画きたる狸を見しに、形状、毛色、分釐をたがへず。「画はただ狸をのみよくして、その他のものを画かず」といひにき。「予がためにも一ひら画きて給はれ」といひけれども、「この頃は著述にいとまなき身なれば」とばかりにして、ふたたび求めず。今さら思へば、後このかたりぐさにもなるべきに、画かせざりしを悔ゆるも甲斐なし。その画は今も持てるものあらん。狸石は誰が手に落ちけん、知れるものに尋ぬべし。
ついでに言うと、北峰子の末尾の一篇に記された狸庵には、私も一二度会ったことがある。彼の当時の本宅は中橋だったろうか。よくは知らないが、長年芝の新橋のたもとに小さな紙屋を出して、売卜を生業にしていた者である。寛政年間に私は伊東蘭洲に誘われてその店へ行き、飼っている狸を見たことがある。このときは狸を二三頭、前面を竹格子にした箱に入れて座右に置いていた。毛色が少し違うのを「どうしてか」と尋ねると、「一頭は玉面狸で、あとは普通のものだ」と得意げに説明した。その後、文化の初め頃だったか、誰かの書画会の席上でまたその狸庵に顔を合わせた日、彼が長年秘蔵していると聞いていた狸石を持ってきて、私にも人々にも見せた。その石は丸く、長さはわずか二寸に足りない。薄い青白色の石の中に、黒く三四分ほどの狸の形がある。天然のもので、まるで描いたのと変わらない。見る者は感嘆しないことがなかった。それだけではなく、彼の煙草入れの飾りや紙入れの金具など、すべて狸でないものはない。また好んで狸の写生をよくした。私が彼の描いた狸を見ると、形も毛色も寸分違わない。「絵はただ狸だけが得意で、ほかのものは描かない」と言っていた。「私のためにも一枚描いてくれ」と言ったが、「この頃は著述に暇がない身なので」と言うばかりで、二度とは求めなかった。今にして思えば、後にこんな話の種にもなるのだから、描かせなかったのを悔やんでも甲斐がない。その絵は今も持っている人がいるだろう。狸石は誰の手に渡ったのか、知っている人に尋ねるべきである。
人の嗜欲のくさぐさなるそが中にも、王子猷が竹を好みしは秀色清風をめづるなり。陶弘景が松風を好みしは閑雅の余韻をめづるなり。また劉邕が瘡痂を嗜みしは〔劉邕、瘡痂を嗜むは宋書本伝に見ゆ〕多くあるべきことならねども、そも口腹のためならばいかがはせん。ひとり狸庵が一生涯狸をのみ好みたるすぐせ、いかなる因果にかありけん。これも一個の畸人ならずや。
人の嗜好はさまざまだが、その中でも王子猷が竹を好んだのは、その秀でた色と清らかな風を愛でたのである。陶弘景が松風を好んだのは、閑雅な余韻を愛でたのである。また劉邕がかさぶたを好んで食べたのは〔劉邕がかさぶたを嗜んだことは宋書の本伝に見える〕、めったにあることではないが、それも口腹のためならば仕方がない。ただ狸庵が一生涯狸ばかりを好んだ宿世は、どんな因果があったのだろう。これも一人の奇人ではないか。
寛政中、狸の女に化けたるが、夜な夜な山の宿の辻に立ちて人をたぶらかし、その後、堀の船宿西村屋の庭なる青樹のほとりに穴して居りしを、かしこの船宿どもうち集ひて生け捕りたることの趣は、去年の冬、海棠庵にて大方は語りき。さばれ、まさしき事なるに、いまだ聞かざりしとのばらもあなれば、これもまた後々に別に記して披講すべし。ここにはただ北峰子のいはざるを補ふのみ。
寛政年間、狸が女に化けて夜な夜な山の宿の辻に立って人をたぶらかし、その後、堀の船宿西村屋の庭の青木のそばに穴を掘って住んでいたのを、そこの船宿の者たちが集まって生け捕りにしたという話のあらましは、去年の冬、海棠庵で大方は語った。しかし確かな話なのに、まだ聞いていないという方々もいるようなので、これもまた後日別に記して披講しよう。ここではただ北峰子が言わなかったことを補うだけである。
原文 / 昭和女子大学本の字句を採り、正字体を保持、振り仮名を外す
老狸の書畫譚餘
下總香取の大貫村藤堂家の陣屋隷たる某甲の家に棲めりしといふふる狸の一くだりは、予もはやく聞たることあり。當時その狸のありさまを見きといふ人のかたりしは、件の狸は彼家の天井の上にをり、その書を乞はまくほりするものは、みづからその家に赴きてしかじかとこひねがへば、あるじそのこゝろを得て、紙筆に火を鑽かけ、墨を筆にふくませて席上におくときは、しばらくしてその紙筆おのづからに閃き飛て天井の上に至り、又しばらくしてのぼりて見れば必文字あり。或は鶴龜或は松竹一二字づゝを大書して田ぬき百八才としるしゝが、その翌年に至りては百九才とかきてけり。是によりて前年の百八才はそらごとならずと人みな思ひけるとなん。
されば狸は天井より折ふしはおりたちてあるじにちかづくこと常なり。又同藩の人はさらなり、近きわたりの里人の日ごろ親みて來るものどもはそのかたちを見るもありけり。ある時あるじ戲れにかの狸にうちむかひて、なんぢ既に神通あり。この月の何日にはわが家に客をつどへん。その日に至らば何事にまれおもしろからんわざをして見せよかしといひにけり。かくて其日になりしかば、あるじまらうどらに告ていはく、某嚮に戲れに狸に云々といひしことあり。さればけふのもてなしぐさには只これのみと思へども、渠よくせんや、今さらに心もとなくこそといふ。人々これをうち聞て、そはめづらしき事になん。とくせよかしとのゝしりて、盃をめぐらしながら賓主かたらひくらす程に、その日も申の頃になりぬ。かゝりし程に座敷の庭忽廣き堤になりて、その院のほとりにはくさぐさの商人あり。或は葭簀張なる店をしつらひ、或はむしろのうへなどに物あまたならべたる、そを買はんとてあちこちより來る人ありかへるもあり。賣物のさはなる中に、ゆでだこをいくらともなく簷にかけわたしゝさへ、いとあざやかに見えてけり。人々おどろき怪みて猶つらつらとながむるに、こはこの時の近きわたりにて六才にたつ市にぞありける。珍らしげなき事ながら、陣屋の家中の庭もせの、かの市にしも見えたるを、人みな興じてのゝしる程に、漸々にきえうせしとぞ。
是よりして狸の事をちこちに聞えしかば、その書を求むるものはさらなり、病難利慾何くれとなく祈れば應驗ありけるにや、緣を求めて詣づるものゝおびたゞ敷なりしかば、遂に江戸にもそのよし聞えて官府の御沙汰に及びけん、有司みそかに彼地に赴き、をさをさあなぐり糺しゝかども、素より世にいふ山師などのたくみ設けし事にはあらぬに、且大諸候の陣屋なる番士の家にての事なれば、さして咎むるよしなかりけん、いたづらにかへりまゐりきといふものありしが、虛實はしらず。
是よりして彼家にては紹介なきものを許さず、まいて狸にあはする事はいよいよせずと聞えたり。これらのよしを傳聞せしは文化二三年のころなりしに、このゝちはいかにかしけん、七十五日と世にいふ如く噂もきかずなりにけり。〔此ころ兩國廣巷路にて狸の見せ物を出せしとありしに、彼大貫村なる狸の風聞高きにより、官より禁ぜられしなり〕
抑北峯子の爲にこの一條を追書すること、聊緣故なきにあらず。本月朔日の小集はわが庵にてあるじせんとてかねてより契りしかば、北峯子乾齋子いちはやく來りつる折、北峯子予にいふやう、さてしも例の事ながら、けふわがかきしるしてもて來つるはめづらしげなき事なれども、狸の書きたりきといふ文字を影寫して來つるのみ。ありしふでもあるものぞ。披講の折に見給へといはれたり。予これをうち聞て、さればとよ、文化のはじめ江戸近鄕なる人の家にすめりしといふ狸の、をちこち人の需に應じて字を書て與へしことあり。その故は云々なりとて、上にしるせし趣を詞せはしくかたりいづるに、北峯頻に頷きて、わがけふ影寫して來つといひしもその狸の筆述なり。さばれその事はわが總角の時なりければ、さるつばらかなる事は得聞かず。ねがふはわが書篇の末に書きしるしてたびねかし。わが物せんはかたくもあらねど、傳聞にはあらずもあらん。よう志給へとそゝのかされて、まづ北峯子の披講を聞つ、又その狸の書を見るに、曩に予が聞たるもこれ彼暗合したるにより、さては予が聞たりしもまことにてありけりと又さらにおもひなりて、これらのよしをしるすのみ。世にいふ餘計の仕事に似たれど、心ざまのあへるどちをひとつ穴なるむじなといへば、狸の事にもかばかりの事しもあらんと自笑して、諸君の書寫の紙かずをかさぬるはをこならんかし。
因にいふ、北峯子の末篇に志るされし狸庵には予も一兩度たいめんせしなり。渠が當時の本宅は中橋なりしか。よくも志らねど、年來芝新橋つめにさゝやかなる紙店を出して賣卜をもて活業にせしものなり。寛政中予は伊東蘭洲に誘引せられてそが店に赴きて、畜ひおける狸を見し事ありけり。この時は狸二三頭を、前を竹篇子にせし箱に入れてその座右に置たり。毛いろのいさゝか異なるをいかにぞやとたづねしに、一頭は玉面狸なり、その餘はよのつねなるものなりとて、ほこりかにとき示しにき。このゝち文化の初にや有りけん、誰やらが書畫會の席上にて又彼狸庵に面をあはせし日、渠が年來祕藏すと聞えたる狸石を携へ來て、予にも見せ人々にも見せけり。その石はまろくして長さは纔二寸に足らず。薄靑白なる石のうちに黑く三四分ばかりなる狸のかたちあり。是天然のものにしてさながら畫けるに異ならず。見るもの嘆賞せざるはなし。只是のみにあらず、そが煙包の諸飾、紙嚢のかな物なんど、すべて狸にあらぬはなし。又好みて狸の寫眞をよくせり。予その畫きたる狸を見しに、形狀毛色分釐をたがへず。畫は唯狸をのみよくして、その他のものを畫かずといひにき。予が爲にも一ひら畫きて給はれといひけれども、この頃は著述にいとまなき身なればとばかりにして、ふたゝびもとめず。今さら思へば、後このかたりぐさにもなるべきに、畫かせざりしを悔ゆるも甲斐なし。その畫は今ももてるものあらん。狸石は誰が手に落けん、しれるものにたづぬべし。
人の嗜慾のくさぐさなるそが中にも、王子猷が竹をこのみしは秀色淸風をめづるなり。陶弘景が松風を好みしは閑雅の餘韻をめづるなり。又劉邕が瘡痂を嗜みしは〔劉邕嗜瘡痂見宋書本傳〕多くあるべきことならねども、そも口腹の爲ならばいかゞはせん。ひとり狸庵が一生涯狸をのみ好みたるすぐせ、いかなる因果にか有りけん。是も一個の畸人ならずや。
寛政中狸のをんなにばけたるが、夜な夜な山の宿の辻に立て人をたぶらかし、そのゝち堀の船宿西村屋の庭なる靑樹のほとりに穴してをりしを、彼處の船宿どもうちつどひて生捕たることの趣は、去歲の冬海棠庵にて大かたはかたりき。さばれまさしき事なるに、いまだ聞かざりしとのばらもあなれば、これも亦のちのちに別にしるして披講すべし。こゝには只北峯子のいはざるを補ふのみ。
乙酉仲夏初三 著作堂
注
- 写本の位置
- 写本は3169の7カット目左ページから11カット目左ページの1行目まで。11カット目左ページの1行目に「披講すべし。こゝには只北峯子のいはざるを補ふのみ。乙酉仲夏初三 著作堂」とあり、同じページの2行目から第3話「家相の談」が始まる。
- 注記
- 題は写本の本文で「老狸の書畫譚餘」、目録では「老狸書画譚餘」。原文欄は本文の表記に従った。
- 校合
- 「田ぬき百八才」「百九才」は写本の表記。活字本系テキストは「歲」とする。
- 校合
- 「その日も申の頃になりぬ」は写本の読み。活字本系テキストは「中の頃」とする。申の刻は午後四時ごろで、宴が長引いた文脈に合う。
- 校合
- 「伊東蘭洲に誘引せられて」は写本の読み。活字本系テキストは「誓引」とする。
- 校合
- 「狸の見せ物を出せし」は写本の読みで、活字本系テキストは「出だしゝ」とする。細かな仮名の違いなので判読は保留する。
- 注記
- 「劉邕嗜瘡痂見宋書本傳」は写本では11カット目右ページの欄外上部に頭書として書かれている。原文欄では該当する語の直後に割注として置いた。
- 注記
- 「紙筆に火を鑽かけ」の「鑽」には写本に「キリ」の振り仮名がある。切り火のこと。「ゆでだこ」には朱で「湯蛸」、「傴疾」には「セムシ」の振り仮名がある。原文欄では振り仮名を外した。
- 注記
- 北峯子は山崎美成の号の一つ。乾斎子は兎園会の会員中井乾斎。伊東蘭洲は馬琴と交遊のあった漢学者。王子猷は王徽之、陶弘景は南朝の道士で医薬の学者、劉邕は南朝宋の人物。人物の説明は雲亭の推定で未確認。
- 注記
- 六才にたつ市は六年に一度立つ市と解した。庭もせは庭の裏手の意と解した。両国広巷路は両国広小路。
- 注記
- 末尾の「乙酉仲夏初三」は文政八年五月三日で、五月一日の兎園会の二日後に書いたことになる。
AI試訳 / 専門家未校閲