小野小町の辯
小野小町は一人ではなく四人いたという説を『牛馬問』から引く。
本文 現代語訳
小野小町の弁
小野小町についての弁
ある人云ふ、「小野小町の事、『牛馬問』に委しく弁じ置けり。却つて小町を一人と思ふより紛れたる説多し。実方朝臣、陸奥へ下向の時、髑髏の眼穴より薄の生ひ出でて、『秋風の吹くにつきてもあなめあなめ小野とはいはじ薄生ひけり』とありし歌の小町は、小野の正澄の娘の小野の小町なり。康秀の三河掾と成りて下向の時、『侘びぬれば身を浮草の根を絶えて誘ふ水あらばいなんとぞ思ふ』と詠みしは、高雄国分の娘の小町なり。『思ひつつ寝ればや人の見えつらん夢と知りせば覚めざらましを』の歌、また出羽郡司小野良実が娘の小野の小町なり。高野大師の逢ひ給ふ小町は、常陸国玉造義景が娘の小町なり。かく一人ならざる異説あるのみ。中にも良実が娘の小町は美人にて和歌も勝れたれば、ひとり名高く、すべて一人の様に伝へ来るのみ。かかる類、万事に多し」。しばらく記して疑ひを存し、また以て博雅の君子に問ふ。
ある人が言う。「小野小町のことは『牛馬問』に詳しく論じてある。かえって小町を一人だと思うために、紛れた説が多い。実方朝臣が陸奥へ下ったとき、髑髏の目の穴から薄が生え出て、『秋風が吹くにつけても、ああ目が痛い、小野とは言うまい、薄が生えていた』と詠んだという歌の小町は、小野正澄の娘の小野小町である。文屋康秀が三河掾になって下るとき、『わびしい身の上なので、浮草が根を絶やすように、誘う水があれば行こうと思う』と詠んだのは、高雄国分の娘の小町である。『思いながら寝たからあの人が見えたのだろうか、夢と知っていたら目覚めなかったものを』の歌は、また出羽郡司小野良実の娘の小野小町である。高野大師が会われた小町は、常陸国の玉造義景の娘の小町である。このように一人ではないという異説があるだけだ。中でも良実の娘の小町は美人で和歌も優れていたので、ひとり名高く、すべて一人のことのように伝わってきただけである。こういう例は万事に多い」。しばらく書き留めて疑問を残し、また博識の君子にお尋ねする。
原文 / 昭和女子大学本の字句を採り、正字体を保持、振り仮名を外す
小野小町の辯
或云、小野小町の事牛馬問に委しく辯じ置けり。却て小町を一人と思ふより紛れたる說多し。實方朝臣陸奧へ下向之時、髑髏の眼穴より薄の生ひ出て、秋風の吹くにつきてもあなめあなめ小野とはいはじすゝき生ひけりと有し歌の小町は、小野の正澄の娘の小野の小町なり。康秀の三河掾と成りて下向の時、佗ぬれば身を浮草の根をたえて誘ふ水あらばいなんとぞ思ふと詠しは、高雄國分の娘の小町なり。思ひつゝぬればや人の見えつらん夢としりせばさめざらましをの歌、又出羽郡司小野良實が娘の小野の小町なり。高野大師の逢ひ給ふ小町は、常陸國玉造義景が娘の小町なり。かく一人ならざる異說ある而已。中にも良實が娘の小町は美人にて和歌も勝れたれば、ひとり名高く、凡て一人の樣傳へ來るのみ。かゝる類萬事に多し。暫く記して疑を存し、亦以て博雅君子に問ふ。
注
- 写本の位置
- 写本は3169の12カット目左ページの後半から13カット目左ページの前半まで。写本の本文には題がなく、家相の話に続けて「或云、小野小町の事」と書き始める。原文欄の題は目録の「小野小町の辯」を採った。
- 校合
- 「秋風の吹くにつきても」は写本の黒字の読み。写本には「き」の脇に朱で「け」と書き入れがあるが、原文欄は黒字に従った。活字本系テキストも「つきても」。
- 校合
- 「正澄」「三河掾」「常陸」の脇に朱の書き入れがあり、後の読者の校正と見て原文には反映していない。活字本系テキストは「三河椽」とするが、写本の字は「掾」と読める。
- 注記
- 牛馬問は新井白蛾の考証随筆。実方朝臣は藤原実方、康秀は文屋康秀、高野大師は弘法大師空海。小町が複数いたとする説は牛馬問の受け売りで、乾斎自身も末尾で博雅の君子に問うと断っている。
AI試訳 / 専門家未校閲