定吉稲荷
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兎園小説 / 曲亭馬琴ほか 兎園会の会員 / 第五集 第6話 / 輪池堂 屋代弘賢
釘屋の年季奉公人に狐が憑き、神田明神の門外に祠が建つが、寺社奉行の命で一月で取り壊される。
本文 現代語訳
今年〔文政八年〕四月四日、神田明神境内、随身門の外、東の方に小祠を建て、「定吉稲荷大明神」と題せし幟あまた立てたり。
今年〔文政八年〕四月四日、神田明神の境内、随身門の外の東側に小さな祠が建ち、「定吉稲荷大明神」と記した幟がたくさん立った。
その縁起を問へば、「いと不思議なる事どもなり。神主柴崎の家事を講中の者より合ひて経済せんとて、境内の伊勢嘉といふ茶屋に集まる事ありしに、永富町釘屋清左衛門方に会せり。そのつれ来たりし年季もの定吉、年十四才なるに、供待ちの内に居眠りしける間に狐付きて座敷に出で、主人に向ひ『清左衛門』と呼びかく。『こは何ごとぞ』といへば、『われは明神の門を守る野狐なり。その方どもに云ひ聞かすべき事ありて定吉に付きたり。その故は、その方ども神主の家事を親切に世話いたす段、奇特なり。然るにその筋の還合、某には不正なるものなれば事行ふまじ。某は正しきものなれば、向後はその人に応対すべし。この事とくより云ひ聞かさんと思ひしかども、折を得ず今日に至れり。講中にとりても清左衛門はわけて正直なるゆゑ、かく告ぐる所なり』といふ。事果てて家に連れ帰りても狐放れず、さまざまの事をいひける。なかんづく尤も奇たりしは、『野島屋敷の某は十年ばかり先つころ水に溺れし事あり。いと危ふかりしが、明神の仰せにて我行きて助けたり。その者、不動尊をも信ずるにより、不動の加護にて助かりしと覚え居るなり。さ覚え居たりとて御咎めもなし。神さまはおほやうなるものなり』といひしとぞ。この水に溺れしことは当人深く秘して、家族にも語らざりし事なり。この類のことあまたありし故、人信ずることたぐひなし。さて『明神の境内に祠を建てくれよ。さあればわれ位を得るなり』と云ふ。『さらば門内に建つべし』といへば、『いな、我は外を守る故なり。門外に建てくれよ』と云ふによりて、今の地を占めし」といへり。
その由来を尋ねると、「まことに不思議なことである。神主柴崎家の家計を講中の者が寄り合って立て直そうと、境内の伊勢嘉という茶屋に集まることがあり、永富町の釘屋清左衛門方でも会合した。清左衛門が連れてきた年季奉公の定吉は十四歳だが、供待ちの間に居眠りしているうちに狐が憑いて座敷に出て、主人に向かって『清左衛門』と呼びかけた。『これはどうしたことか』と言うと、『わしは明神の門を守る野狐だ。おまえたちに言い聞かせることがあって定吉に憑いた。おまえたちが神主の家計を親身に世話するのは奇特なことだ。しかしその方面の切り回しは、あの者には不正なところがあるからやらせてはならない。この者は正しいから、これからはこの人と相談せよ。このことはずっと前から言い聞かせようと思っていたが、機会がなく今日になった。講中のうちでも清左衛門はとくに正直だから、こうして告げるのだ』と言う。会合が終わって家に連れ帰っても狐は離れず、いろいろなことを言った。中でもいちばん奇妙だったのは、『野島屋敷の某は十年ほど前に水に溺れたことがある。とても危なかったが、明神の仰せでわしが行って助けた。あの者は不動尊も信じているので、不動の加護で助かったと思い込んでいる。そう思っていても咎めはない。神様は大様なものだ』と言ったことである。この溺れた件は当人が深く隠して家族にも話していなかったことだった。この種のことがたくさんあったので、人々の信じることといったら並ぶものがなかった。さて『明神の境内に祠を建ててくれ。そうすればわしは位を得られる』と言う。『では門の内に建てよう』と言うと、『いや、わしは外を守るのだから門の外に建ててくれ』と言うので、今の場所に決まった」ということである。
七日の夜、「われは今宵帰るべし」と云ふ。その比、稲葉丹後守医者河原林春塘来たりて、「わが思ひ立つ事あり。この事、心の如く成就すべしや、問ひ決せん」といふ。諸人尊敬する事、神仏のごとし。然るに春塘は禽獣のあひしらひゆゑ、それを飽かぬ事に思ひしにや、答へにも及ばず。春塘云ふ、「その方は神通を得たりと聞けば、わが心中のことはいはずとも知るべし。察して成否を断れ」。「いな、いふまじ。その方は我が身のことにもあらぬ人のことに労する馬鹿者なり」といふ。曰く、「人の道に義といふことあり。その人のために身を忘るる事もあり。しかるにその一の否を断ることも得せざるは、さすがは禽獣なり」となじる。狐いふ、「わが知る人にもあらず。いかでか教ふる事のあるべき」。塘云ふ、「いかさま犬や猫には知りたるもあれど、狐には見知りたるもなし。たとひ神通を得たりとも、祠を建つるも人に頼まねばならず。正一位を授かればとても人が願はねば給はらず。されば人ほど尊きものはなきに、いかで人の問ふことを一言だにも答へざるや」など、あらがふほどに、講中気の毒に思ひて、「はや帰り給へ。今宵は稲荷も帰らせ給ふ約あり。夜の更けにふけゆくは」とて、稲荷にもさまざま詫ぶれば、「さらば春塘は木村定次郎が方へ行くべし。跡より告げやるべし」といふにぞ、定次郎が家に至りて待つに、時移れども何の音信もなし。「定次郎に問ひてたべ」といふ。下男を遣はして問ふに、定次郎自身来たりて、「願ひもせよ、下男を遣はすこと無礼なり」とてますます怒る。講中とかくこしらへつつやうやうなだめて、「さらばこの書を春塘につかはせ」とて、判紙を裂きて五言四句を書す。「これを見ば自ら会得すべし」と云ふ。
七日の夜、「わしは今夜帰る」と言う。その頃、稲葉丹後守の医者である河原林春塘が来て、「思い立ったことがある。思いどおりに成就するかどうか、問い決めたい」と言った。世間の人は神仏のように敬っていた。ところが春塘は獣扱いをしたので、それが気に入らなかったのか、狐は答えもしない。春塘が言う。「おまえは神通力を得たと聞くから、私の心中は言わなくてもわかるはずだ。察して成否を判断せよ」。狐は「いや、言うまい。おまえは自分の身のことでもない他人のことに骨を折る馬鹿者だ」と言う。春塘は「人の道には義というものがある。その人のために身を忘れることもある。それなのにその一つの可否を判断することもできないとは、さすがに獣だ」となじる。狐は「わしの知っている人でもない。どうして教えられよう」と言う。春塘は「なるほど犬や猫には知り合いもあるが、狐には見知った者はいない。たとえ神通力があっても、祠を建てるのも人に頼まねばならない。正一位を授かるにしても人が願わなければもらえない。だから人ほど尊いものはないのに、どうして人の問うことを一言も答えないのか」などと言い争ううちに、講中の者が気の毒に思って、「もう帰ってください。今夜は稲荷も帰られる約束です。夜も更けてゆきます」と言い、稲荷にもいろいろ詫びると、「では春塘は木村定次郎のところへ行け。後から告げてやる」と言うので、定次郎の家へ行って待ったが、時が経っても何の音沙汰もない。狐は「定次郎に尋ねてくれ」と言う。下男をやって尋ねさせると、定次郎本人が来て、「願い事をするなら下男を寄こすのは無礼だ」とますます怒る。講中の者があれこれ取りなしてようやくなだめると、「ではこの書を春塘に渡せ」と言って、判紙を裂いて五言四句を書いた。「これを見れば自然にわかるだろう」と言う。
盤中黒白子/一着要先機/天竜降井沢/洗出旧根碁
盤中の黒白の子/一着は先機を要す/天竜、井沢に降り/洗い出す旧根の碁
すなはち講中取りて伝へたり。「さらば帰るなり」といへば、定吉は臥して得も知らず寝たり。翌日夕七つ時頃出でて例のごとく店に出で、釘を直し居るを見れば、何とやらん疲れたる体なり。「いかがせしか」と問へば、「変はることもなし」と答ふ。「ひもじくはあらずや」といへば、「ひもじく候ふ」といふ。さらばとて食事させければ、「殊の外にねぶたし」といふ。「わが心のままに寝よ」とて寝させしに、夜中起き出でて、「我は一たん帰りたれども、また来たりたり。野島屋敷の某を呼べ」といふ。迎へ来たれば、「さきに言ひ漏らしし事あり」とて、何ごとならんささやきて後、「また帰るなり」といひけるにぞ、定吉は常の様になりぬ。このこと十五日の夜、春塘に親しく聞きて、その書をも換せしなり。さらに浮きたる事にあらず。かの詩は観音籤の第四十四籤なり。
そこで講中が受け取って伝えた。狐は「では帰る」と言い、定吉は横になって前後不覚に眠った。翌日の夕方七つ時頃に起きていつものように店に出て釘を直しているのを見ると、何となく疲れた様子である。「どうしたのか」と聞くと、「別に変わりはない」と答える。「腹が減っていないか」と聞くと、「減っています」と言う。それならと食事をさせると、「とても眠い」と言う。「好きなだけ寝ろ」と寝かせたところ、夜中に起き出して、「わしは一度帰ったが、また来た。野島屋敷の某を呼べ」と言う。迎えに行って来ると、「先に言い落としたことがある」と何事かをささやいた後、「また帰る」と言ったので、定吉はいつもの様子に戻った。このことは十五日の夜に春塘から直接聞き、その書も写し取った。決して浮ついた話ではない。あの詩は観音籤の第四十四籤である。
美成曰く、予が抱屋敷、小船町にあり。その所の家守勘七来たりていひけらく、「町内にて崇奉する天王の宝物に、去年戸帳を納めしに、日あらずして『盗まれたり』とて告げ来たる。『ふたたび調はすべし』などいひ合へるほどに、『失せぬる戸帳出でたり』といふ。『いかがしたるさまにか』と問へば、『紛失せし後、深夜に本社のほとりを見めぐりければ、随身門の内に白き物をまとひて臥し居る人あり。あやしさに立ち寄りたれば、その人驚きて逃げ出でたり。かの白きものは戸帳を裏返してありしなり。そのかたはらにかな網もあり。これもともに盗みしものなり』」と答へき。
美成が言う。私の抱屋敷が小船町にある。そこの家守の勘七が来てこう言った。「町内で崇め奉る天王の宝物として去年戸帳を納めたところ、幾日も経たずに『盗まれた』と知らせが来た。『もう一度あつらえよう』などと相談しているうちに、『失くなった戸帳が出てきた』という。『どんな様子だったのか』と聞くと、『紛失した後、深夜に本社のあたりを見回ったところ、随身門の内側に白いものをまとって寝ている人がいた。怪しんで近寄ると、その人は驚いて逃げ出した。あの白いものは戸帳を裏返したものだった。そのそばに金網もあった。これも一緒に盗んだものだ』ということです」。
さてこの比、定吉に付きし狐の、「われは明神の社地に来たりて七十年を経たり。子八疋あり。もとは末広稲荷の社の下に住みけり。正一位になられしよりそこを出でて、小船町の天王の神輿蔵の下に移りたり。されば、かの戸帳、かな網もわが手立てにて戻せしなり」といふ。また曰く、「天王の神輿に覆ひをして薄暗き内に置く、よからぬことなり。神輿は人の乗物のごとし。常に鎮座あるべきやうなし。それゆゑ常はここにはおはせず。されど町々を渡らせ給ふ時は御出であるなり。よりて常に鎮座ある様に社を建てよかし」。また曰く、「御膳講といひて年中取り集むる物は社家の徳分のみ。さらに本社のためにならねば、今より後止めよ」といふにより、この月より廃せしとぞ。
さてこの頃、定吉に憑いた狐が、「わしは明神の社地に来て七十年になる。子が八匹いる。もとは末広稲荷の社の下に住んでいた。正一位になられてからそこを出て、小船町の天王の神輿蔵の下に移った。だからあの戸帳と金網もわしの手立てで戻したのだ」と言う。また、「天王の神輿に覆いをして薄暗い所に置くのはよくない。神輿は人の乗り物と同じだ。常に鎮座しているべき理由はない。だから常にはここにはおられない。しかし町々を渡られるときにはお出ましになる。だから常に鎮座されるように社を建てるがよい」とも言う。また、「御膳講といって年中集める物は社家の儲けになるだけで、まったく本社のためにならないから、今後はやめよ」と言うので、この月からやめたそうだ。
ある人、十四日にかの稲荷に詣でければ、あまた立て並べし幟、数少なくなりぬ。「こはいかに」とかたへの人に問ひければ、社家のいはく、「昨日ある人来たりて白刃にて切り裂きたり。『富の願をかけしに当たらざりければなり。恨みを晴らすなり』と言ひける。さてその夜、『俄に心地損なひて、苦しむこと譬へん方なし。これ稲荷の罰ならん。詫びして給へ』とて、今日頼み来たりたり」とぞ。
ある人が十四日にその稲荷に参ったところ、たくさん立て並べてあった幟が数少なくなっていた。「これはどうしたのか」とそばの人に聞くと、社家が言うには、「昨日ある人が来て白刃で切り裂いた。『富くじの願をかけたのに当たらなかったからだ。恨みを晴らすのだ』と言った。ところがその夜、『急に気分が悪くなって苦しいこと譬えようがない。これは稲荷の罰だろう。お詫びをしてくれ』と、今日頼みに来た」ということだった。
神田明神の神主柴崎大隅、寺社奉行松平伯耆守へ呼び出だされ〔乙酉五月三日の事とぞ〕、「新規勧請の稲荷祠、すみやかにこぼち候へ」と申し渡されたり。柴崎大隅かしこまり申して、「さてかの稲荷、はじめは町家にて家の内に祭りおきしを、『俗家にては崇敬も届かざれば境内に移したき』志願にまかせ建てし所の祠なれば、新規勧請申さるるにもあらず。されば許容を仰ぐ所なり」と乞ふ。「いな、その陳状受けがたし。すみやかにこぼつべし」となり。大隅また申さく、「私の建立にあらず、願主これあり建てし所なれば、せめて境内に元より崇めつる稲荷に合はせ祭らんことはいかが候はん」と乞ふ。「それも許されがたし。大社の神主に似合はざる申し事」とて、いよいよ叱らせられしうへに、「今日の内に毀つべし。明日の四つ時には検使をつかはす」とありければ、五月四日に俄にこぼちけるとぞ。その日黄昏にその跡を見しに、社の所を土を掘りて、こぼちし材を焼き捨てけるさまなり。
神田明神の神主柴崎大隅は寺社奉行松平伯耆守に呼び出され〔乙酉五月三日のことだという〕、「新規に勧請した稲荷の祠を速やかに取り壊せ」と申し渡された。柴崎大隅はかしこまって、「さてあの稲荷は、はじめは町家で家の内に祭っていたものを、『俗家では崇敬が行き届かないので境内に移したい』という志願のままに建てた祠なので、新規の勧請と申されるものではありません。ですからお許しを仰ぐ次第です」と願った。「いや、その申し開きは受け入れがたい。速やかに壊せ」ということだった。大隅はまた、「私の建立ではなく願主があって建てたものですから、せめて境内に元から崇めている稲荷に合祀することはいかがでしょう」と願った。「それも許しがたい。大社の神主に似合わない申し立てだ」と、いっそう叱られたうえ、「今日中に壊せ。明日の四つ時には検使を遣わす」と言われたので、五月四日に急いで取り壊したそうだ。その日の夕暮れにその跡を見ると、社のあった所の土を掘って、壊した材を焼き捨てた様子だった。
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定吉稻荷
ことし〔文政八〕四月四日、神田明神境内隨身門の外東の方に小祠を建て、定吉稻荷大明神と題せし幟あまたゝてたり。
其緣起をとへば、いと不思議なる事どもなり。神主柴崎の家事を講中の者より合て經濟せんとて、境内の伊勢嘉といふ茶屋に集る事有りしに、永富町釘屋淸左衞門方に會せり。其つれ來りし年季もの定吉、年十四才なるに、供待の内に居眠りしける間に狐付て座敷に出、主人に向ひ淸左衞門とよびかく。こは何ごとぞといへば、われは明神の門を守る野狐なり。其方共に云きかすべき事ありて定吉につきたり。其故は其方共神主の家事を親切に世話いたす段奇特なり。然るにその筋の還合、某には不正なるものなれば事行ふまじ。某は正しきものなれば、向後はその人に應對すべし。此事とくより云きかさんとおもひしかども、折を得ず今日に至れり。講中にとりても淸左衞門はわけて正直なるゆゑ、かく告る所なりといふ。事はてゝ家につれ歸りても狐放れず、さまざまの事をいひける。就中尤奇たりしは、野島屋敷の某は十年ばかりさきつころ水に溺れし事あり。いと危かりしが、明神の仰にて我行て助けたり。その者不動尊をも信ずるにより、不動の加護にて助かりしと覺えをるなり。さおぼえ居たりとて御咎もなし。神さまはおほやうなるものなりといひしとぞ。この水に溺れしことは當人深く祕して、家族にも語らざりし事なり。この類のことあまた有りし故、人信ずることたぐひなし。さて明神の境内に祠を建くれよ。さあればわれ位を得るなりと云。さらば門内に建べしといへば、いな我は外を守る故なり。門外に建くれよと云によりて、今の地を占めしといへり。
七日の夜、われはこよひ歸るべしと云。その比稻葉丹後守醫者河原林春塘來りて、わが思ひたつ事有り。此事心の如く成就すべしや、問ひ決せんといふ。諸人尊敬する事神佛のごとし。然るに春塘は禽獸のあひしらひゆゑ、それをあかぬ事に思ひしにや、答にも及ばず。春塘云、其方は神通を得たりときけば、わが心中のことはいはずともしるべし。さつして成否をことわれ。いないふまじ。その方は我身のことにもあらぬ人のことに勞する馬鹿者なりといふ。曰、人の道に義といふこと有り。その人の爲に身をわするゝ事も有り。しかるにその一の否をことわることも得せざるは、さすがは禽獸なりとなじる。狐いふ、わがしる人にもあらず。いかでか敎ふる事の有るべき。塘云、いかさま犬や猫にはしりたるもあれど、狐には見しりたるもなし。たとひ神通を得たりとも、祠をたつるも人にたのまねばならず。正一位をさづかればとても人がねがはねば給はらず。されば人ほど尊きものはなきに、いかで人のとふことをひとことだにもこたへざるやなど、あらがふほどに、講中きのどくに思ひて、はやかへり給へ。こよひは稻荷もかへらせ給ふ約あり。夜の更にふけゆくはとて、稻荷にもさまざまわぶれば、さらば春塘は木村定次郞が方へ行べし。跡より告やるべしといふにぞ、定次郞が家に至りてまつに、時うつれども何の音信もなし。定次郞に問ひてたべといふ。下男を遣して問ふに、定次郞自身來りて、願もせよ、下男を遣すこと無禮なりとてますますいかる。講中とかくこしらへつゝやうやうなだめて、さらば此書を春塘につかはせとて、判紙をさきて五言四句を書す。是を見ば自ら會得すべしと云。
盤中黑白子/一著要先機/天龍降井澤/洗出舊根碁
すなはち講中とりて傳へたり。さらば歸るなりといへば、定吉は臥して得もしらず寢たり。翌日夕七時頃出て例のごとくみせに出、釘を直しをるを見れば、何とやらん疲れたる體なり。いかゞせしかととへば、かはることもなしとこたふ。ひもじくはあらずやといへば、ひもじくさふらふといふ。さらばとて食事させければ、殊の外にねぶたしといふ。わが心のまゝにねよとてねさせしに、夜中おき出て、我は一たん歸りたれども又來りたり。野島屋敷の某をよべといふ。むかへきたれば、さきに言ひもらしゝ事有りとて、何ごとならんさゝやきてのち、又かへるなりといひけるにぞ、定吉は常の樣になりぬ。このこと十五日の夜春塘にしたしく聞て、その書をも換せしなり。さらにうきたる事にあらず。かの詩は觀音籤の第四十四籤なり。
美成曰、予が抱屋敷小船町に在り。その所の家守勘七來りていひけらく、町内にて崇奉する天王の寶物に、去年戶帳を納めしに、日あらずしてぬすまれたりとて告來る。ふたゝび調はすべしなどいひあへるほどに、失せぬる戶帳出たりといふ。いかゞしたるさまにかととへば、紛失せし後深夜に本社のほとりを見めぐりければ、隨身門の内に白き物をまとひて臥し居る人有り。あやしさに立よりたれば、その人おどろきて逃出たり。かのしろきものは戶帳をうらがへして在りしなり。そのかたはらにかな網もあり。是もともにぬすみしものなりとこたへき。
さてこの比定吉につきし狐の、われは明神の社地に來りて七十年をへたり。子八疋有り。もとは末廣稻荷の社の下に住みけり。正一位になられしよりそこを出て、小船町の天王のみこし藏の下にうつりたり。されば、かの戶帳かなあみもわがてだてにてもどせしなりといふ。又曰、天王のみこしにおほひをしてうすくらき内に置く、よからぬことなり。みこしは人の乘物のごとし。常に鎭座有るべきやうなし。それゆゑ常はこゝにはおはせず。されど町々をわたらせ給ふ時は御出あるなり。よりて常に鎭座ある樣に社を建よかし。又曰、御膳講といひて年中とり集むる物は社家の德分のみ。さらに本社のためにならねば、今より後止めよといふにより、この月より廢せしとぞ。
或人十四日にかの稻荷に詣でければ、あまたたてならべしのぼり、數すくなくなりぬ。こはいかにとかたへの人にとひければ、社家のいはく、きのふ或人來りて白刄にてきりさきたり。富の願をかけしにあたらざりければなり。恨をはらすなりと言ひける。さての夜俄に心ちそこなひて、くるしむことたとへんかたなし。これいなりの罰ならん。わびして給へとて、今日たのみ來りたりとぞ。
乙酉五朔 輪池
定吉稻荷尾
神田明神の神主柴崎大隅、寺社奉行松平伯耆守へ呼出され〔乙酉五月三日の事とぞ〕、新規勸請の稻荷祠すみやかにこぼち候へと申渡されたり。柴崎大隅かしこまり申して、さてかのいなり、はじめは町家にて家の内に祭りおきしを、俗家にては崇敬もとゞかざれば境内に移したき志願にまかせ建し所の祠なれば、新規勸請被申にもあらず。されば許容を仰ぐ所なりとこふ。いな、その陳狀うけがたし。すみやかにこぼつべしとなり。大隅又申さく、私の建立にあらず、願主有之建し所なれば、せめて境内に元よりあがめつるいなりにあはせまつらんことはいかゞ候はんとこふ。それも許されがたし。大社の神主に似合はざる申事とて、いよいよしからせられしうへに、今日の内に毀つべし。あすの四時には檢使をつかはすと有りければ、五月四日に俄にこぼちけるとぞ。その日黃昏にその跡を見しに、社の所を土をほりて、こぼちし材を燒すてけるさまなり。
注
- 写本の位置
- 写本は3169の14カット目左ページから21カット目左ページまで。17カット目左ページの末尾と18カット目右ページに観音籤の五言四句が大字で書かれ、21カット目右ページに「乙酉五朔 輪池」の署名と「定吉稻荷尾」の見出しがある。22カット目右ページは白紙で、22カット目左ページから第7話「稲荷正一位」が始まる。
- 校合
- 活字本系テキストは「定吉稻荷」と「定吉稻荷 尾」と「稻荷正一位」を一記事にまとめる。写本の目録は「定吉稲荷」と「稲荷の正一位」の二話に分けるので、「定吉稻荷尾」までを第6話とし、「稻荷正一位」以下を第7話とした。
- 校合
- 「神田明神の神主柴崎大隅」は写本の読み。活字本系テキストは「神田明神の神は」とする。
- 注記
- 「ことし〔文政八〕」の割注は写本では小字で行中に書かれている。
- 校合
- 「その筋の還合」は活字本系テキストの読みに従った。写本の字は詰まっていて判読を保留する。回し合い、すなわち金の融通の意と解した。
- 校合
- 「野島屋敷」は活字本系テキストの表記に従った。写本の字は「嶋」とも見えるが、原寸で確かめきれず、判読を保留する。
- 注記
- 観音籤の詩は写本では「盤中黑白子」が17カット目左ページに、残りの三句が18カット目右ページに大字で書かれている。原文欄では一段落に収め、句を「/」で区切った。
- 注記
- 「かな網」は金網。戸帳は神仏の厨子に垂らす帳。御膳講は神饌の費用を集める講と解したが未確認。
- 注記
- 柴崎大隅は神田明神の神主柴崎家の当主。松平伯耆守は文政八年当時の寺社奉行松平宗発。河原林春塘は神田蝋燭町の医師。定吉稲荷の祠は文政八年五月四日に取り壊され、現存しない。人物の特定は雲亭の推定で未確認。
- 注記
- 末尾の「定吉稻荷尾」は弘賢の追記で、五月一日の披講の後に五月三日と四日の出来事を書き添えたもの。
AI試訳 / 専門家未校閲