雲亭日本古典図書室収録作品の一覧

神童石川為蔵詠歌の事

読書室で開く(原典画像・関連作品・自分の書架)

兎園小説 / 曲亭馬琴ほか 兎園会の会員 / 第五集 第8話 / 文宝堂 西村寿卜

六歳で掛川城の家老衆の前に即詠した神童も、大人になれば並の学者だと馬琴が釘を刺す。

本文 現代語訳

神童石河為蔵詠歌の事
神童石河為蔵の詠歌のこと
遠江国佐野郡山口庄伊達方村郷士、石河惣太夫伜為蔵、寛政三亥年の出生にて、六歳になりける寅の九月比、同所掛川連雀町饂飩屋金八方へ父惣太夫同道して行きける時、あるじ金八、かねて聞き及びたる事ゆゑ、為蔵に歌を望みけるに、折しも庭の菊盛りなりければ、
遠江国佐野郡山口庄伊達方村の郷士、石河惣太夫の倅為蔵は、寛政三年亥の年の生まれで、六歳になった寅の年の九月頃、同じ掛川の連雀町にある饂飩屋金八のところへ父の惣太夫に連れられて行った。主人の金八は前から噂に聞いていたので為蔵に歌を求めたところ、ちょうど庭の菊が盛りだったので、
秋深き庭のまがきに色そへて咲きそむるらん露の白菊
秋も深まった庭の垣根に色を添えて、咲きはじめたのだろうか、露を帯びた白菊が
かく詠じけるを、遠近の人々聞き伝へ、「六才の童子の詠歌なり」とて、扇などに記しもてあそびける。掛川城内に聞こえて、その冬、父惣太夫に「伜為蔵召し連れ罷り出づべし」と仰せ下されければ、即刻両人とも罷り出でける時、御城代太田外記殿、河野十郎左衛門殿、その外家老衆列座にて、子細御聞き糺しの後、題を出だされける。その題、
と詠んだのを、遠近の人々が聞き伝えて、「六歳の子どもの詠んだ歌だ」と扇などに書いて愛玩した。掛川の城中にも聞こえて、その冬、父の惣太夫に「倅の為蔵を連れて出頭せよ」と仰せがあったので、すぐに二人で出頭したところ、御城代の太田外記殿、河野十郎左衛門殿、そのほか家老衆が列座して、事情を聞き糺した後、題を出された。その題は、
霜夜月/山の端の柏あらはに置く霜の影も冴えゆく冬の夜の月
霜夜の月/山の端の柏の葉があらわに見えるほど霜が置き、月の光も冴えていく冬の夜の月よ
浦千鳥/行きかへりしは島つれて友千鳥声も高けれ須磨の浦波
浦の千鳥/行き来しながら島づたいに連れ立って、友千鳥の声も高い、須磨の浦波の上で
野雪/空寒み降りまさるらん白雪の積もりうつれる冬の夕暮れ
野の雪/空が寒いので降りまさるのだろう、白雪が積もっては移り変わっていく冬の夕暮れよ
友千鳥/風さそふ音ぞさみしき夕暮れに友呼びつれて千鳥鳴くなり
友千鳥/風が誘う音も寂しい夕暮れに、友を呼び連れて千鳥が鳴いている
右の四首を即詠しければ、すなはち書写して太田備中守資愛殿へ差し上げたるよし。その比、家老衆より恋の歌を望み申されければ、「恋の歌はよめ申さず」と為蔵申し上げたるよし。その夜、父に負はれて帰るさ、月の出づるを見て、
右の四首をその場で詠んだので、書き写して太田備中守資愛殿へ差し上げたという。その折、家老衆から恋の歌を望まれたが、「恋の歌は詠めません」と為蔵は申し上げたという。その夜、父に背負われて帰る途中、月の出るのを見て、
玉ほこの道の光をさしそへて霜に冴えゆく冬の夜の月
玉鉾の道の光にさらに光を添えて、霜の上に冴えていく冬の夜の月よ
「右、田舎には珍しく存じ候間、写し、御目にかけ申し候」と、遠州掛川宿匂坂屋彦兵衛といふ者よりの文通にいひこしたるを、ここに記す。
「右は田舎では珍しいと思いますので、写してお目にかけます」と、遠州掛川宿の匂坂屋彦兵衛という者からの手紙で知らせてきたのを、ここに記す。
書名を忘れたり。何やらの中に、南殿の庭中に夜の間に「すまひ草」の生ひ出でければ、「公卿達いづれも詠歌あるべし」とありし時、紫式部六歳の時、
書名は忘れた。何かの本の中に、紫宸殿の庭に一夜のうちに「すまい草」が生えたので、「公卿たちはみな歌を詠め」と仰せがあったとき、六歳の紫式部が、
今日ばかり負けてもくれよすまひ草取る手も知らぬむつ子なりけり
今日だけは負けてくれよ、すまい草よ、取る手も知らないいたいけな子どもなのだから
かく詠じければ、速やかに消滅したりとなん。これは雲の上に育ちて、後はかの物語をも作れるほどの才女といひ、ことに和歌などは常に耳ばさみがちなれば、かくもあらん。為蔵は鄙に生まれて、誰教ふる者もあるまじく、実に天才奇童といふべし。
と詠んだところ、たちまち消え失せたという。これは宮中で育って後にあの物語まで作ったほどの才女で、とくに和歌などは常に耳にしていたのだろうから、そういうこともあろう。為蔵は田舎に生まれて、誰も教える者はいなかったはずで、まことに天才奇童というべきである。
著作堂云ふ、この為蔵が事は予も早く聞きしなり。この児、人となりては石川方救と名乗りて、和学をせるものながら、その幼かりし時に比ぶれば、才のやうやく劣りやしけん、そのよめる歌はさらなり、その名も都下には聞こえずなりぬ。清水浜臣が『旅の打聞』にいはく、「小時了々、大未必佳」といひおきけんやうに、幼き程のかしこさは大人になりてさばかりならぬものにて、「大方幼き程のかしこさは痾症のわざなり」とある博士のいはれしはさる事なるべし。おのれが知れる人にも、荻野某は八つになりける年、つごもりの夜に月のかたちの空に見えけるを、人々あやしがりしに、「これは水気なり」といひしが、げに雨となりしより、人々奇童と称へて、「生ひ先、世のすぐれ人となりなまし」と語り合ひしも、今なほかいなでの物知りなり。こたび東路を上るとて、遠江国新坂のすぐ続き伊達方村なる石川方救に初めて対面したるに、これは「五つの齢より冷泉中納言為泰卿の御弟子となりて歌よむ」とて、東路の奇童といへりしも、物語りして試むれば、「栗田土満に学び、今は夏目甕満に問ひ聞きて、なべての古書学びする人なり」云々といへり。これらみな経験の言ぞかし。また奇童もあまりにほめ過ぐれば、後にかたはらいたき事多かり。この条に記されし紫式部は、小式部内侍を覚えひがめたるにはあらぬか。小式部のいと早くより奇才ありしよしは、古く物にも見えたり。そはとまれかくまれ、「すまひ草」の歌などは、当吟の歌の口先をよくも知らぬものの作りまうけし小説なるべし。
著作堂が言う。この為蔵のことは私も早くから聞いていた。この子は成人して石川方救と名乗り、和学を修めた者だが、幼い頃に比べると才能はしだいに劣ったのだろうか、詠んだ歌はもちろん、その名も江戸では聞かれなくなった。清水浜臣の『旅の打聞』に「小さいときに賢くても、大きくなって必ずしも立派とは限らない」と言い置いてあるように、幼い頃の賢さは大人になればそれほどでもないもので、「たいてい幼い頃の賢さは病気のせいだ」とある学者が言ったのはもっともなことだろう。私の知っている人でも、荻野某は八歳の年の大晦日の夜、月の形が空に見えたのを人々が怪しんだとき、「これは水気だ」と言い、本当に雨になったので、人々が奇童と褒めそやして「将来は世に優れた人になるだろう」と語り合ったが、今もなお並の物知りである。今度、東海道を上るといって、遠江国日坂のすぐ隣の伊達方村にいる石川方救に初めて会ったところ、この人は「五歳から冷泉中納言為泰卿の弟子になって歌を詠む」といって東路の奇童と呼ばれていたが、話をして試してみると、「栗田土満に学び、今は夏目甕満に教えを受けて、ひととおりの古書を学んでいる人である」云々ということだった。これらはみな実際に経験したうえでの言葉である。また奇童もあまり褒めすぎると、後で気恥ずかしいことが多い。この条に記された紫式部は、小式部内侍と取り違えたのではないか。小式部がごく幼い頃から奇才があったことは古い書物にも見える。それはともかく、「すまい草」の歌などは、当時の歌の作法をよく知らない者がこしらえた作り話だろう。
原文 / 昭和女子大学本の字句を採り、正字体を保持、振り仮名を外す

神童石河爲藏詠歌の事

遠江國佐野郡山口庄伊達方村鄕士石河惣太夫伜爲藏、寛政三亥年の出生にて、六歲になりけるとらの九月比、同所掛川連雀町溫飩屋金八方へ父惣太夫同道して行ける時、あるじ金八かねて聞及たる事故、爲藏に歌を望みけるに、折しも庭の菊さかりなりければ、

秋ふかき庭のまがきに色そへて咲そむるらん露の白菊

かく詠じけるを、遠近の人々聞傳へ、六才の童子の詠歌なりとて、扇などに志るしもてあそびける。掛川城内にきこえて、其冬父惣太夫に、伜爲藏召連れ罷出べしと仰下されければ、卽刻兩人共罷出ける時、御城代太田外記殿、河野十郞左衞門殿、その外家老衆列座にて、子細御聞糺しの後、題を出されける。其題

霜夜月/やまのはの柏あらはにおく霜の影もさえゆく冬の夜の月

浦千鳥/ゆきかへりしは島つれて友ちどり聲も高けれすまのうら波

野雪/空さむみふりまさるらん志ら雪のつもりうつれる冬の夕くれ

友千鳥/風さそふ音ぞさみしき夕くれに友よびつれて千鳥なくなり

右の四首を卽詠しければ、則書寫して太田備中守資愛殿へ差上たるよし。其比家老衆より戀の歌を望み申されければ、戀の歌はよめ申さずと爲藏申上たるよし。その夜父に負れて歸るさ、月の出るを見て、

玉ほこの道のひかりをさしそへて霜にさえゆく冬の夜の月

右田舍にはめづらしく存候間、寫御目にかけ申候と、遠州掛川宿匂坂屋彥兵衞といふ者よりの文通にいひこしたるを、こゝにしるす。

書名をわすれたり。何やらの中に、南殿の庭中に夜のまにすまひ草の生ひ出ければ、公卿達いづれも詠歌有べしとありし時、紫式部六歲の時、

けふばかりまけてもくれよすまひ草とる手もしらぬむつ子なりけり

かく詠じければ、速に消滅したりとなん。これは雲の上にそだちて、後はかの物語をもつくれる程の才女といひ、ことに和歌などは常に耳ばさみがちなれば、かくもあらん。爲藏は鄙に生れて、誰敎ふる者もあるまじく、實に天才竒童といふべし。

著作堂云、この爲藏が事は予もはやく聞しなり。この兒人となりては石川方救と名のりて、和學をせるものながら、其幼かりし時に比ぶれば、才のやうやく劣りやしけん、其よめる歌はさらなり、その名も都下には聞えずなりぬ。淸水濱臣が旅の打聞にいはく、小時了々大未必佳といひおきけんやふに、をさなき程のかしこさはおとなになりてさばかりならぬものにて、大かた幼なき程のかしこさは痾症のわざなりと、あるはかせのいはれしはさる事なるべし。おのれがしれる人にも、荻野某は八つになりけるとし、つごもりの夜に月のかたちの空に見えけるを、人々あやしがりしに、是は水氣なりといひしが、げに雨となりしより、人々竒童とたゝへて、おひさき世のすぐれ人となりなましとかたりあひしも、今猶かいなでの物しりなり。こたび東路をのぼるとて、遠江國新坂のすくつゞき伊達方村なる石川方救にはじめてたいめんしたるに、是はいつゝのよはひより冷泉中納言爲泰卿の御弟子となりて歌よむとて、東路の竒童といへりしも、物がたりしてこゝろむれば、栗田土滿にまなび、今は夏目甕滿にとひきゝて、なべての古書まなびする人なり云々といへり。これらみな經驗の言ぞかし。又竒童もあまりにほめ過ぐれば、後にかたはらいたき事多かり。この條に志るされし紫式部は、小式部内侍を覺えひがめたるにはあらぬか。小式部のいとはやくより竒才ありしよしは、ふるくものにも見えたり。そはとまれかくまれ、すまひ草の歌などは、當吟の歌のくちさきをよくも志らぬものゝつくりまうけし小說なるべし。

注

写本の位置
写本は3169の24カット目左ページから26カット目左ページの3行目まで。26カット目左ページの4行目から第9話「葺屋町なる歌舞伎座の梁の折れし事」が始まる。
注記
題は写本の本文と目録で「石河」「石川」の表記が違い、本文は「石河」、目録は「石川」。原文欄は本文の表記に従い、雲亭の題は目録に合わせた。馬琴の識語では「石川方救」と書く。
校合
「六歲になりけるとらの九月比」は写本と活字本系テキストで同じ。寛政三年生まれの六歳は寛政八年辰の年にあたり、寅の年は寛政六年で計算が合わない。原文はそのままにした。
校合
「ゆきかへりしは島つれて」の「島」は写本では「嶋」とも読め、脇に朱の書き入れがある。判読を保留し、活字本系テキストの表記に従った。
注記
「聲も高けれ」の脇に朱で「鳴」の書き入れがあるが、後の読者の校正と見て原文には反映していない。
注記
「月の出るを見て」「速に消滅したり」の脇にも朱の書き入れがある。
注記
和歌は写本では上の句と下の句を改行して書く。原文欄では題と歌を「/」で区切って一段落に収めた。
注記
太田備中守資愛は掛川藩主太田資愛。清水浜臣は江戸の国学者で、旅の打聞はその紀行。冷泉為泰は冷泉家の歌人。栗田土満と夏目甕満はいずれも遠江の国学者で、写本の「甕滿」は夏目甕麿の表記のゆれ。新坂は日坂の誤りと解した。人物と地名の特定は雲亭の推定で未確認。
注記
すまひ草は相撲草で、ここでは宮中に生えた不思議な草の名。小式部内侍は和泉式部の娘で、幼くして歌才で知られた。

AI試訳 / 専門家未校閲