雲亭日本古典図書室収録作品の一覧

佐倉の浮田

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兎園小説 / 曲亭馬琴ほか 兎園会の会員 / 第五集 第11話 / 著作堂 曲亭馬琴

文化五年の佐倉の洪水で切れた田地が水に浮き、並木の松に藁縄で繋がれていたという旅人の話を馬琴が書きとめる。

本文 現代語訳

佐倉の浮田
佐倉の浮田
文化五年戊辰の秋八月、下総佐倉の洪水は、風聞ここにも聞こえしころ、その月十三日の事なりき。予はたまたま著述の労れを保養せんとて、独りそぞろに立ち出でて、あちこちとなく逍遥しつつ、真菰が淵と呼びなせる御塹端の出茶屋なる床几に尻をうちかけて、しばしやすらいたりし折、下総の旅人らに〔その日の同行三人なり。その内に老人あり。その名を問えば与五右衛門といえり〕かりそめにもの言われにけり。よりてかの水の虚実を問いしに、その人答えて、「聞かせたまうが如く、こたみ佐倉の事は近来稀なる大水なり。つやつや空言には候わず。しかるにかの城下なる田地どもの、あるいは十間ばかり、あるいは二十間四方ずつに皆きれて、水の上に浮かみたり。それをまた並木の松の大きなる、伐らば臼にもしつべき幹に、藁の縄もて繋ぎ置きたり。何ものの所為ということを知らず。夜明けて人皆これを見て、驚きあやしまぬものなしとなん聞きて候いし」とかたりき。
文化五年戊辰の秋八月、下総佐倉の洪水のうわさが江戸にも聞こえてきた頃、その月の十三日のことだった。私はたまたま著述の疲れを休めようと、ひとりぶらりと出て、あちこちと散歩しながら、真菰が淵と呼ばれるお堀端の出茶屋の床几に腰をかけてしばらく休んでいたとき、下総の旅人たちにふと話しかけられた。その日の同行は三人で、中に老人がいて、名を問うと与五右衛門といった。そこで例の洪水の真偽を尋ねると、その人が答えて語った。「お聞きのとおり、こんどの佐倉のことは近ごろ稀な大水です。決して嘘ではありません。ところがあの城下の田地が、あるものは十間ばかり、あるものは二十間四方ずつに、みな切れて水の上に浮かんだのです。それをまた、並木の大きな松の、伐れば臼にもなりそうな幹に、藁の縄で繋いであったのです。誰の仕業とも知れません。夜が明けて人がみなこれを見て、驚き怪しまない者はなかったと聞きました」。
その時、同行の老人与五右衛門とかいうものの云う、「田地の水に浮きたるよしを、つらつらと思いみるに、むかし佐倉の城地を築かれしとき、今の城下の辺には沼溝の多かりしを、竹木芥坌の類いをのみ夥しく投げ入れて、ようやくに埋めつつ、さて田地にはなせしよし、故老の言いもて伝えたり。おおよそ洪水は降る雨よりも、土中より涌き出る水の多きものなり。されば下樋より涌き登る水の勢いもて、田地のきれて浮きたるを流さじとおぼしめしし神々の神わざにて、夜の中に並木の松に繋ぎ留めさせたまいしならん。その浮田の体たらく、畔に竹のしばりたる、杉、榛の樹の並び立ちたる、そがままに浮きたるを、尋常なる藁縄もてあちこちに繋がれし。その田地は少しも動かで、水の上に渺々たり。やつがれらは他領の民にて、佐倉より七里ばかり上なる在のものに侍れど、きのう目の前にさる不思議を見て、かくは言うなり。かの地には領主より船四十艘ばかり出させて、人を渡し給うなり〔百姓わたし。但し無銭〕。されば佐倉の人々には、田地を流されざりし事、こはまったく堀田侯の徳の致せるものなりとて、感嘆大かたならざりけり。今日行徳まで来て聞きしに、この地の水はきのうより一尺あまり退きたりといえり。佐倉の水もさぞあらん。和君よ、ゆたかにおわしませ。いざまからん」と言いかけて、皆つと立ち出でてゆきけり。
そのとき同行の老人与五右衛門とかいう者が言った。「田地が水に浮いたわけをつらつら考えてみますと、昔、佐倉の城地を築かれたとき、今の城下のあたりには沼や溝が多かったのを、竹や木や芥の類ばかりを大量に投げ込んでようやく埋め、そうして田地にしたのだと、古老が言い伝えています。おおよそ洪水は、降る雨よりも土中から湧き出る水のほうが多いものです。ですから下からわき上がる水の勢いで田地が切れて浮いたのを、流すまいとお考えになった神々の神業で、夜のうちに並木の松に繋ぎ留めさせなさったのでしょう。その浮田のありさまは、畔に竹を縛ったもの、杉や榛の木が並び立ったもの、そのまま浮いているのを、ふつうの藁縄であちこちに繋いであるのです。その田地は少しも動かず、水の上に広々としています。私どもは他領の者で、佐倉から七里ほど上の在の者ですが、昨日目の前でそんな不思議を見たので、こう申すのです。あの土地には領主から船を四十艘ほど出させて人を渡しておられます。百姓渡しで、ただし無料です。ですから佐倉の人々は、田地を流されなかったのは、まったく堀田侯のご威徳の致すところだと、感嘆はひととおりではありません。今日行徳まで来て聞いたところ、この土地の水は昨日より一尺あまり引いたそうです。佐倉の水もきっとそうでしょう。あなたもお達者で。それでは失礼します」と言いかけて、みなさっと立ち去っていった。
この事いとめずらかに覚えしかば、雑記中にしるしおきしを、今またここに抄し出だしつ。思うに出羽なる大沼の島あそびは、先輩既にものにも誌し、また同国秋田のからす沼、および亀田の山中滝の股なる峰形という沼にも、また島遊びの奇異あるよしは、拙著放言中に収めたれども、佐倉の浮田はこれと異なり。また一奇談というべきのみ〔文化五年春より秋まで、霖雨しばしばせり。この年三月より八月上旬に至りて、雨天一百零七日なり。九日まで快晴はなお稀なりき〕。
このことはたいそう珍しく思われたので、雑記の中に書きとめておいたのを、今またここに抜き書きした。思うに、出羽の大沼の島遊びは先輩がすでに書物にも記し、同じ国の秋田のからす沼や、亀田の山中の滝の股にある峰形という沼にも島遊びの奇異があることは、拙著『玄同放言』に収めたが、佐倉の浮田はこれとは違う。これもまた一つの奇談というべきである。文化五年は春から秋まで長雨がしばしば降った。この年は三月から八月上旬まで雨天が百七日で、九日まで快晴はなお稀だった。
原文 / 昭和女子大学本の字句を採り、正字体を保持、振り仮名を外す

佐倉の浮田

文化五年戊辰の秋八月、下總佐倉の洪水は、風聞こゝにも聞えしころ、その月十三日の事なりき。予はたまたま著述の勞れを保養せんとて、獨そゞろに立出でゝ、あちこちとなく逍遙しつゝ、眞菰が淵と呼びなせるおほん塹端の出茶屋なる牀几に尻をうちかけて、しばしやすらひたりし折、下總の旅人等に〔その日の同行三人なり。その内に老人あり。その名を問へば與五右衞門といへり〕かり初にものいはれにけり。よりてかの水の虛實をとひしに、その人答へて、聞かせたまふが如く、こたみ佐倉の事は近來稀なる大水なり。つやつやそら言には候はず。しかるにかの城下なる田地どもの、或は十間ばかり、或は二十間四方づゝに皆きれて、水の上に浮みたり。それを又並木の松の大きなる、伐らば臼にもしつべき幹に、藁の縄もて繋ぎ置きたり。何ものゝ所爲といふことを知らず。天明けて人皆これを見て、驚きあやしまぬものなしとなん聞て候ひしとかたりき。

その時同行の老人與五右衞門とかいふものゝ云、田地の水に浮きたるよしを、つらつらとおもひみるに、むかし佐倉の城地を築かれしとき、今の城下の邊には沼溝の多かりしを、竹木芥坌の類ひをのみ夥しく投入て、やうやくに埋めつゝ、さて田地にはなせしよし、故老のいひもて傳へたり。大凡洪水は降る雨よりも、土中より涌出る水の多きもの也。されば下樋より涌登る水の勢ひもて、田地のきれて浮きたるを流さじとおぼしめしゝ神々の神わざにて、夜の中に並木の松に繋ぎ留めさせたまひしならん。その浮田の體たらく、畔に竹のしばりたる、杉榛の樹の並び立ちたる、そがまゝに浮きたるを、尋常なる藁索もてあちこちに繋がれし。その田地は少しも動かで、水の上に渺々たり。やつがれ等は他領の民にて、佐倉より七里ばかり上なる在のものに侍れど、きのふ目前にさる不思議を見て、かくはいふ也。かの地には領主より船四十艘ばかり出させて、人を渡し給ふなり〔百姓わたし。但し無錢〕。されば佐倉の人々には、田地を流されざりし事、こはまたく堀田侯の德の致せるものなりとて、感嘆大かたならざりけり。けふ行德まで來て聞きしに、この地の水はきのふより一尺あまり退きたりといへり。佐倉の水もさぞあらん。和君よ、ゆたかにおはしませ。いざまからんといひかけて、皆つと立出でゝゆきけり。

この事いとめづらかに覺えしかば、雜記中にしるしおきしを、今又こゝに抄し出しつ。おもふに出羽なる大沼の嶋あそびは、先輩既にものにも誌し、又同國秋田のからす沼、及龜田の山中瀧の股なる峰形といふ沼にも、亦嶋遊びの奇異あるよしは、拙著放言中に收めたれども、佐倉の浮田はこれと異なり。亦一奇談といふべきのみ〔文化五年春より秋まで、霖雨しばしばせり。この年三月より八月上旬に至て、雨天一百零七日なり。九日まで快晴はなほ稀なりき〕。

注

写本の位置
写本は3169の40カット目左ページから42カット目右ページの割注まで。40カット目左ページの冒頭に「兎園小説第五集」の見出しがあり、その下に「佐倉の浮田」と「安永以來のはやり風」の二題を並べて書く。私家版は二話を一記事にまとめるが、目録どおり二つの passage に分けた。
校合
活字本系テキストの「田地の水に浮きたるとしを」は写本では「浮きたるよしを」。「出羽なる大沼の島あそび」の「島」は写本では「嶋」。
注記
「まこもがふち」は江戸城の堀の一部と解した。堀田侯は佐倉藩主堀田家。「放言」は馬琴の『玄同放言』。いずれも雲亭の推定で未確認。
注記
割注「文化五年春より秋まで」以下は写本でも小字二行の割注。

AI試訳 / 専門家未校閲