安永以来のはやり風
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兎園小説 / 曲亭馬琴ほか 兎園会の会員 / 第五集 第12話 / 著作堂 曲亭馬琴
文化五年のねんねんころころ節の流行が感冒の前触れになった話から、安永のお駒風以来の流行風邪の名を並べ、両国川の火の玉や大風の奇談を書き継ぐ。
本文 現代語訳
附けて言う、右の前年〔文化四年〕の冬より、五年の春夏の頃まで、里巷の小唄本「ねんねんころころ節」とかいうものの、いたく流行りしことありけり。その歌を聞くに、「わしが若いときや、おかめと言うたが、のんころ、今は庄屋どのの子守する、ねんねんころころねんころり」と歌えり〔この歌、もとは歌舞伎狂言に始まりしを、ついに江戸中に推し移りて、いたく流行したるなり。また「みめより」と名づけたる下品のあん餅を、市中の辻々にて売り始めしも、この時のことなり。こは右の歌の中に「人はみめより、ただ心」ということのあればなるべし〕。識者あるいは言えることあり。「今茲は秋の頃に至りて感冒必ず流行せんか。細人小児おしなべて『寝々転々』と謡うこと、これ病臥の兆ならん」と言えり。
付け加えて言う。その前年、文化四年の冬から五年の春夏の頃まで、巷の小唄本の「ねんねんころころ節」とかいうものが大流行したことがあった。その歌を聞くと「わしが若いときゃ、おかめと言うたが、のんころ、今は庄屋どのの子守する、ねんねんころころねんころり」と歌っていた。この歌はもとは歌舞伎狂言に始まり、ついに江戸中に広まって大流行したのである。また「みめより」と名づけた安物のあん餅を市中の辻々で売り始めたのもこの時のことで、これは歌の中に「人はみめより、ただ心」という文句があるからだろう。識者の中にはこう言う人があった。「今年は秋になって感冒が必ず流行するのではないか。小人も子どももそろって『寝々転々』と歌うのは、病に臥す兆しだろう」と。
果たして八九月の頃に至りて、風邪、感冒流行して、良賤病臥せざるはなく、軽きは両三日にしておこたるもありしかど、重きはその症、疫熱に変じたる、三四十日に至るもあり。あるいは庸医に愆られて、黄泉路に赴くものもありけり。このときのえせ狂歌に、「はやり風無常の風もまじりけりねんねんころり用心をせよ」。かくて病むと病む程に、関の八州言えばさらなり、京摂の間まで脱るるものなかりしとぞ。童謡はいにしえより和漢の歴史に載せられて、応験あらずというもの稀なり。また流行病はなべてみな年の気運の順逆にて、せんかたもなきことながら、それよりもなお疎ましきは、市井の風俗のくだれるなり。この水上を尋ぬれば、劇場より出でぬはなし。風を移し俗を易ゆるも、三絃にこそよるべけれ。その三絃というものも、雑劇を師とするのみ。知らず、ひがごとならんかも。
果たして八九月の頃になると風邪が流行して、貴賤の別なく病に臥さない者はなく、軽い者は二三日で治ったが、重い者は症状が疫熱に変わって三四十日に及ぶ者もあった。あるいは藪医者に誤られて黄泉路へ赴く者もあった。このときのえせ狂歌に「はやり風無常の風もまじりけりねんねんころり用心をせよ」。こうして病むとなると、関八州はもちろん、京大坂のあたりまで逃れる者はなかったという。童謡は昔から和漢の歴史書に載せられて、験がなかったというものは稀である。また流行病はすべて年の気運の順逆によるもので、どうしようもないことだが、それよりなお疎ましいのは市井の風俗が下落したことだ。その源をたどれば芝居から出ないものはない。風を移し俗を変えるのも三味線によるのだろうが、その三味線というものも芝居を師とするだけである。さて、間違っているかもしれないが。
予が東西をおぼえし頃より、大約五十年このかた、時々の感冒に世俗の名を負わせしもの少なからず。まず安永の中葉に流行りし風邪を「お駒風」と名づけたり。こは城木屋お駒とかいう淫婦の事を旨として作り設けたる浄瑠璃のいたく行われたればなり。また安永の末に流行りし風邪を「お世話風」と名づけたり。こは「大きにお世話、お茶でもあがれ」という戯語の流行せしによりてなり。また天明中に流行りし風邪を「谷風」と名づけたり。こは谷風梶之助は当時無双の最手なりければ、これに勝つものあること稀なり。谷風かつて傲言して、「とてもかくても土俵の上にてわれを倒さん事は難かり。わが臥したるを見まくほりせば、風をひきたる時に来て見よかし」と言いしとぞ。この言、世上に伝え聞きて、人々話柄としたる折、件の風邪を「谷風がいちはやくひき初めし」とて、ついにその名を負わせしなり。されば、この時四方山人の風神を送る狂詩あり。録してもてここに証とす。
私が物心ついた頃から、おおよそ五十年このかた、時々の感冒に世間の名をつけたものが少なくない。まず安永の中頃に流行った風邪を「お駒風」と名づけた。これは城木屋お駒とかいう淫婦のことを題材に作った浄瑠璃がたいそう流行ったからである。また安永の末に流行った風邪を「お世話風」と名づけた。これは「大きにお世話、お茶でもあがれ」という戯れ言が流行ったからである。また天明中に流行った風邪を「谷風」と名づけた。谷風梶之助は当時無双の力士で、これに勝つ者は稀だった。谷風がかつて豪語して「どうあっても土俵の上で自分を倒すことは難しい。自分が倒れたのを見たければ、風邪をひいたときに来て見るがよい」と言ったという。この言葉が世間に伝わって人々の話の種になっていた折、例の風邪を「谷風が真っ先にひき始めた」と言って、ついにその名をつけたのである。そこでこのとき四方山人の「風神を送る」狂詩がある。ここに記して証拠とする。
引道此風号谷風。関々啖嗽響西東。悪寒発熱人無色。煎様如常藪有功。一片生姜和酒飲。半丁豆腐入湯空。送君四里四方外。千寿品川問屋中。
引き道はこの風を谷風と号す。関々たる痰嗽は西東に響く。悪寒発熱して人に色なし。煎じようは常のごとく藪に功あり。一片の生姜を酒に和して飲み、半丁の豆腐を湯に入れて空し。君を送る四里四方の外、千住品川の問屋の中。
また文化元年に流行りし風邪を「お七風」と名づけたり。こは「八百屋お七」というえせ小唄の流行せしによりてなり。また文化五年の秋流行りし風邪を「ねんころ風」と名づけたり。そのよしは上に言えるが如し。また文政四年の春二月の比、いたく流行せし風邪を「たんほう風」と名づけたり。こはこのときのはやり小唄に「たんほうさんや、たんほうさんや」と謡いしことのあればなり。かくて去年甲申の春二三月の頃流行りし風邪を「薩摩風」と名づけたり。こは西国より流行り初めて、ここまで移り来つればならん。このうち谷風、お七風、ねんころ風、たんほう風ははげしかりき。家々ごとに五人三人枕を並べて、うち臥さぬはなかりけり。西は京摂に至り、東は安房上総、西南は甲斐伊豆の海辺、北は信濃越後まで、なべて脱るるものなかりしよし、その折々に友人の郵書にも聞こえたり。たんほう風の流行りしとき、何ものか詠みたりけん、「みやこから乗せてくるまのたんほ風ひくものもありおすものもあり」。いとおかしきや。例の人の癖なるべし。かかればこの風は京より流行り来つるにこそ。この他寛政享和中にもありけんを、さる名を負わせざりけるか。言うかいもなく忘れたり。そもそもこの一条は、さきに北峰子のしるしつけたる「風の神の図説」の後につけても言わまほしかるままに、「伊豆の千わき」のわけなし言もて、「科戸の風の神やらい」しつ。「鋭鎌八重鎌刈りはらう」ごと、禿びたる筆を走らせし。禊のややの益体もなき、ただこれ嗚呼のすさみになん。
また文化元年に流行った風邪を「お七風」と名づけた。これは「八百屋お七」というえせ小唄が流行ったからである。また文化五年の秋に流行った風邪を「ねんころ風」と名づけた。そのわけは上に述べたとおり。また文政四年の春二月の頃に大流行した風邪を「たんほう風」と名づけた。これはこのときの流行り小唄に「たんほうさんや、たんほうさんや」と歌ったからである。そして去年甲申の春二三月頃に流行った風邪を「薩摩風」と名づけた。これは西国から流行り始めてここまで移ってきたからだろう。このうち谷風、お七風、ねんころ風、たんほう風は激しかった。家々に五人三人と枕を並べて臥さない家はなかった。西は京大坂、東は安房上総、西南は甲斐伊豆の海辺、北は信濃越後まで、みな逃れる者がなかったと、その折々に友人の手紙でも聞いた。たんほう風が流行ったとき、誰が詠んだのか、「みやこから乗せてくるまのたんほ風ひくものもありおすものもあり」。じつにおかしい。例の人の癖だろう。してみるとこの風邪は京から流行ってきたのだ。このほか寛政や享和の中にもあったはずだが、そんな名をつけなかったのか、言うかいもなく忘れてしまった。そもそもこの一条は、先に北峰子が書きつけた「風の神の図説」のあとに言い添えたくなったので、「伊豆の千わき」のわけのわからない言葉で「科戸の風の神やらい」をした。「鋭鎌八重鎌で刈り払う」ように、ちびた筆を走らせた。禊の稚児のような益体もない、ただの戯れ書きである。
両国河の奇異 庚辰の猛風 美日の断木
両国河の奇異 庚辰の猛風 美日の断木
右の風の物語について出せるあるを、さらにまたここに書き継ぐ。文化十三年丙子の秋閏八月四日の大風雨は、予が日記中にしるし置けり。その前日より雨降りつ。夜明けて雨は歇みたりしに、また巳の頃より大風雨にて、樹を抜き屋を破りつつ、申の比に雨霽れて、その夜子の頃おいに、ようやくに凪ぎてけり。この時本所深川は水出でて、床の上一二尺に及びしという。しかるにその風は南よりして、特に潮気を含みたり。さればにや、南を受けたる草木はすべてその葉を吹き凋まされて、枯れ果つるに至るもありけり。
右の風の話のついでに書き出したものがあるので、さらにここに書き継ぐ。文化十三年丙子の秋、閏八月四日の大風雨は、私の日記に記しておいた。その前日から雨が降っていた。夜が明けて雨は止んだが、また巳の刻頃から大風雨になり、木を抜き家を壊しながら、申の頃に雨が晴れて、その夜の子の刻頃にようやく凪いだ。このとき本所深川は水が出て、床の上一二尺に及んだという。ところがその風は南から来て、特に潮気を含んでいた。そのためか、南を受けた草木はすべて葉を吹きしぼまされ、枯れ果てるに至ったものもあった。
この年の冬十月、予は江の島鎌倉に遊びしに、海辺の松ごとに凋落せぬはなかりけり。かかれば南表なる漁村はいや烈しかりけん。風に潮をまぜて吹きしは、こもめずらしき事になん。
この年の冬十月、私は江の島鎌倉に遊んだが、海辺の松はどれも凋落していない木はなかった。してみると南に面した漁村はいっそう激しかっただろう。風に潮を混ぜて吹いたのは、これも珍しいことである。
これよりもなお奇しき事あり。この大風烈前二か月、七月十日の事なりき。侍医山本宗英法眼、その通家官医野間氏の本所なる宿所に赴きての帰るさに、夜ははや亥中とおぼしき頃、両国橋を渡す程に、河上に一団の火焔あり。吾妻橋のかたよりして、大橋の方に邁きけり。おもわずこれを仰ぎ望つるに、その光の青く引きたる、青衣の官人騎馬にして、前うしろに従いつつ、火焔を守護するものに似たり。その容はおぼろげなれども、すべては衣冠束帯の如くにぞ見えてける。橋の上を相距ること凡そ一丈ばかりにして、徐々と練りゆくを、立ちとどまりてなお見る程に、漸々に滅え失せしとぞ。予は次の月の下旬まで、さる事ありとも知らざりしに、風聞他所より聞こえしかば、八月二十四日に興継を遣わして法眼に問わせしに、「聊かもたがいあらず。見し趣は云々なり」とて、詳らかに語せられけり。さても件の法眼は、予と三十余年ばかり交遊の義を辱うせられたる、少年よりの友にして、齢は五つの弟にておわせし。よりてその心ざまも大かたならず知りたるに、絶えて浮きたる性ならねば、実説なりきと思いしのみ。何の故とは暁らざりしに、後の葉月の四日に至りて、法眼の「見き」と言われし両国河の怪物は、かかる烈風洪水のありぬべき前象なりきと、初めて思いあわしけり。かかれば橘南谿が『東遊記』に載せたりし名立崩れの前月に、神仏の空中を飛び去り給いしなどいう事も、一概には誣いがたかり。これより僅か三とせにして、文政元年五月下旬に、かの法眼は身まかり給いぬ。享年四十八歳なりき。いと惜しかりける齢にこそ〔文政癸未八月十七日の夜の大風雨のときは、その大きさ醤油樽ばかりなる陰火の飛行せしを、まさしく見たる人あり。非常の暴風雨のときには、かならずそのしるしあることなるべし〕。
これよりもなお不思議なことがある。この大風の二か月前、七月十日のことだった。侍医の山本宗英法眼が、懇意の官医野間氏の本所の住まいを訪ねた帰り、夜はもう亥の刻の半ばと思われる頃、両国橋を渡っていると、川上に一団の火の玉があった。吾妻橋のほうから大橋のほうへ進んでいく。思わず見上げると、その光が青く尾を引き、青い衣の官人が馬に乗って前後に従い、火の玉を守護しているように見えた。姿はおぼろげだが、全体は衣冠束帯のように見えた。橋の上から一丈ほど離れて、しずしずと練っていくのを、立ち止まってなお見ているうちに、だんだん消え失せたという。私は翌月の下旬までそんなことがあったとも知らなかったが、うわさがよそから聞こえてきたので、八月二十四日に興継をやって法眼に尋ねさせたところ、「少しも違わない。見た様子はこれこれだ」と詳しく語ってくれた。さてこの法眼は、私と三十余年のあいだ交際してくれた少年時代からの友で、年は五つ下だった。だからその人柄もよく知っていて、決して浮ついた性格ではないので、本当の話だと思っただけだった。何のせいとも悟らなかったが、閏八月四日になって、法眼が見たと言った両国川の怪物は、こういう烈風洪水が起こる前兆だったのだと、初めて思い合わせた。してみると橘南谿が『東遊記』に載せた名立崩れの前月に、神仏が空中を飛び去ったなどということも、一概には嘘とは言えない。これからわずか三年、文政元年五月下旬にあの法眼は亡くなった。享年四十八歳。まことに惜しい年齢であった。文政癸未八月十七日の夜の大風雨のときは、醤油樽ほどの大きさの陰火が飛ぶのをはっきり見た人がいる。非常の暴風雨のときには必ずそういう前触れがあるのだろう。
かくてまた文政三年庚辰の秋九月八日の大風烈に、駒込不動坂のほとりなる名主内海権十郎主従二人、巨樹に撲たれて身まかりけり。そを相識れる商人の、次の日に来て告ぐるを聞きしに、権十郎が宿所のほとりは、昔春日局の別荘にて、素より由緒あることなれば、年々の秋ごとに園に生りたる栗を採りて、局の廟に備うるを恒例とするものなり。しかればこの日も採りたる栗を、ひとりの従者に齎しつつ、湯島なる天沢山に赴きて、役僧に渡してけり。さて辞し去らんとする程に、風はいよいよ烈しくなりぬ。「なおしばらく」と留められしを、「公ざまの所務あれば」とて、いそがわしくまかる程に、寺門を出でていく程もなく、門内なる樅の木の十囲にもあまりつべく見えたるが、ただ推し揉じりたるように、樹は真中より吹き折られて、大地を撲ちて落ちしかば、従者は大枝に肚を撲たして、矢庭に即死したりける。年十六になりしものなりとぞ〔その名を知らず〕。権十郎も打ち仆されて半死半生なりけるを、寺より駕籠にたすけ乗せして宿所へ送り遣わせしに、家路に帰り着く程に、忽ちに息絶えにけり。享年四十二歳と言えり。「大風烈の折などには、鬼魅蛇蝎の風に乗じて飛行することあり」としも言えば、已むことを得ぬ急用ならぬに、犯して出づるは愚に似たり。
こうしてまた文政三年庚辰の秋九月八日の大風で、駒込不動坂のほとりの名主内海権十郎が主従二人、大木に打たれて亡くなった。それを知り合いの商人が翌日来て告げるのを聞くと、権十郎の住まいのあたりは昔春日局の別荘で、もとより由緒があるので、毎年秋になると園に生った栗を採って局の廟に供えるのを恒例としていた。そこでこの日も採った栗を一人の従者に持たせ、湯島の天沢山に赴いて役僧に渡した。さて辞去しようとするうちに風はいよいよ激しくなった。「もうしばらく」と引き止められたのを、「公務があるので」と急いで帰ろうとして、寺門を出ていくらもたたないうちに、門内の十抱えもありそうな樅の木が、ただ押しねじったように真ん中から吹き折られ、大地を打って落ちたので、従者は大枝に腹を打たれてその場で即死した。年は十六になる者だったという。名前は知らない。権十郎も打ち倒されて半死半生になったのを、寺から駕籠に助け乗せて住まいへ送ったが、家路に帰り着くとたちまち息が絶えた。享年四十二歳という。「大風のときなどには鬼魅蛇蝎が風に乗じて飛ぶことがある」とも言うから、やむを得ない急用でもないのに冒して出るのは愚かに似ている。
しかれどもまた風の吹かぬに、物の倒るることもありけり。近くは文政六年癸未の夏六月二十三日の未の時ばかりに、浅草寺の地内なる三社権現の石の鳥居の、忽然と折れたり。人みな驚き怪しみて、さまざまに言いしかど、笠木の三つに折れ砕けしは、その続目の甘び延びて、落つる勢いにて折れたるならん。折れて落ちぬるものならずは、さまで怪しとするに足らず。
しかしまた、風が吹かないのに物が倒れることもある。近くは文政六年癸未の夏六月二十三日の未の刻ほどに、浅草寺の境内の三社権現の石の鳥居が忽然と折れた。人はみな驚き怪しんでさまざまに言ったが、笠木が三つに折れ砕けたのは、その継ぎ目がゆるんで延び、落ちる勢いで折れたのだろう。折れて落ちたのでなければ、それほど怪しむには足りない。
これよりもいと奇なりと思いしは、文化四年丁卯の秋八月二十三日の未の時ばかりに、御城内御焔硝庫のほとりなる古りたる松の二株まで、自然と折れしことありけり。その樹は十囲にもあまりつべし。この日はしかも美日にて、そよ吹く風もなかりしに、ただこれのみにあらず、上野護国寺の巨樹、河越侯邸中の大銀杏など、おなじ時刻に折れたりという。これもまた一奇事なり。しかれどもこの月の十九日に、深川八幡宮の祭見んとて、永代橋を踏み落としつつ、凡そは四百八十余人水に没して死にたりける。このことの噂にのみ、世の人耳を側だつる最中にてありければ、件の巨樹の折れたるを言うものもなく、知るもの稀なり。
これよりももっと不思議だと思ったのは、文化四年丁卯の秋八月二十三日の未の刻ほどに、江戸城内の焔硝蔵のほとりの古い松が二株まで自然に折れたことである。その木は十抱えもあっただろう。この日はしかも上天気で、そよ吹く風もなかったのに、これだけではなく、上野護国寺の巨木や河越侯の屋敷の大銀杏なども同じ時刻に折れたという。これもまた一つの奇事である。しかしこの月の十九日に深川八幡宮の祭を見ようとして永代橋を踏み落とし、およそ四百八十余人が水に没して死んだ。このことのうわさばかりに世の人が耳をそばだてている最中だったので、例の巨木が折れたことを言う者もなく、知る者は稀である。
また去々年癸未の秋八月十七日の夜の大風烈は、近来未曾有の暴れなりければ、奇談怪説多かれども、まことしからぬこともまじれり。これらは童蒙も耳に熟して、今しも折々言うことなるを、またさらにここに識さば、冬の透間の風に似て、さこそは人に厭われもせめ。世の諺に「大風の吹きたる跡」という如く、風の話はこれまでにして、黙して後のまといを待つのみ。
また一昨年癸未の秋八月十七日の夜の大風は近来未曾有の荒れだったので、奇談怪説が多いが、本当らしくないことも混じっている。これらは子どもも聞き慣れて、今も折々口にすることなのに、またさらにここに記せば、冬の隙間風のように人に嫌われもしよう。世の諺に「大風の吹いた跡」というように、風の話はここまでにして、黙って次の集まりを待つだけである。
文政八年皐月朔 著作堂解識
文政八年五月朔日 著作堂解識
前々会拙編中補遺附録
前々回の会での拙編に対する補遺附録
宛委余篇に云う。呂布に赤兎あり。張飛に玉追あり。曹真に驚帆あり。曹洪に白鶴あり。また云う。驚帆は魏の曹洪の名づくる所の駿馬なり。馳馬は呉の孫権の名づくる所の快船なり。二事正に相反してまた相対して一時に出づ、甚だ奇なり〔第三の八丁右を見よ〕。この条の曹洪とあるは、曹真の誤りなるべし。駈馬に帆をつけて名づけしや、また馬をもて名づけしや、共に三国鼎立の時にあれば、実に奇なり。この条、季春の集合に出せし拙編「錦駈」の条に言いこぼしたるを、忘れたりければ追って書きしるすのみ。「宵のあやめ十日の菊」、たとえ暮れても遠くもあらぬものを、遅しと人もあらんとぞ思う。
『宛委余篇』に言う。呂布に赤兎があり、張飛に玉追があり、曹真に驚帆があり、曹洪に白鶴がある。また言う。驚帆は魏の曹洪が名づけた駿馬で、馳馬は呉の孫権が名づけた快速船である。二つの事は正反対でありながら、また対になって同時に出ているのがはなはだ奇である。第三集の八丁の右を見よ。この条の曹洪とあるのは曹真の誤りだろう。馳せる馬に帆をつけて名づけたのか、また馬をもって名づけたのか、ともに三国鼎立の時のことだから実に奇である。この条は季春の集まりに出した拙編「錦駈」の条で言い落としたのを忘れていたので、追って書き記すだけである。「宵のあやめ十日の菊」、たとえ日が暮れても遠くもないものを、遅いと言う人もあるだろうと思う。
原文 / 昭和女子大学本の字句を採り、正字体を保持、振り仮名を外す
安永以來のはやり風
附ていふ、右の前年〔文化四年〕の冬より、五年の春夏の頃まで、里巷の小唄本ねんねんころころ節とかいふものゝ、いたく流行しことありけり。そのうたを聞くに、わしがわかいときや、おかめといふたが、のんころ、今は庄屋どのゝ子守する、ねんねんころころねんころりとうたへり〔此うたもとは歌舞伎狂言に始まりしを、つひに江戸中に推うつりて、いたく流行したるなり。又みめよりと名づけたる下品のあん餅を、市中の辻々にてうりはじめしも、この時のことなり。こは右のうたの中に、人はみめよりたゞこゝろといふことのあればなるべし〕。識者或はいへることあり。今茲は秋のころに至りて感冒必ず流行せん歟。細人小兒おしなべて寢々轉々と謠ふこと、是れ病臥の兆ならんといへり。
果して八九月の頃に至りて、風邪感冒流行して、良賤病臥せざるはなく、輕きは兩三日にしておこたるもありしかど、重きはその症疫熱に變じたる、三四十日に至るもあり。或は庸醫に愆られて、よみぢに赴くものもありけり。このときのゑせ狂歌に、はやり風無常の風もまじりけりねんねんころり用心をせよ。かくて病むとやむ程に、關の八州いへばさらなり、京攝の間まで脫るゝものなかりしとぞ。童謠はいにしへより和漢の歷史に載られて、應驗あらずといふもの稀なり。又流行病はなべてみな年の氣運の順逆にて、せんかたもなきことながら、それよりも猶疎ましきは、市井の風俗のくだれるなり。この水上を尋ぬれば、劇場よりいでぬはなし。風を移し俗を易ゆるも、三絃にこそよるべけれ。その三絃といふものも、雜劇を師とするのみ。知らず、ひがごとならんかも。
予が東西をおぼえしころより、大約五十年このかた、時々の感冒に世俗の名を負せしもの少からず。まづ安永の中葉にはやりし風邪を、お駒風と名づけたり。こは城木屋お駒とかいふ淫婦の事を旨として作り設けたる淨瑠理のいたく行はれたればなり。又安永の末にはやりし風邪を、お世話風と名づけたり。こは大きにお世話、お茶でもあがれといふ戲語の流行せしによりてなり。又天明中にはやりし風邪を、谷風と名づけたり。こは谷風梶之助は當時無雙の最手なりければ、これに勝つものあること稀也。谷風甞て傲言して、とてもかくても土俵の上にてわれを倒さん事は難かり。わが臥したるを見まくほりせば、風をひきたる時に來て見よかしといひしとぞ。この言世上に傳へ聞きて、人々話柄としたる折、件の風邪を谷風がいちはやくひき初めしとて、遂に其名を負せしなり。されば、この時四方山人の送風神狂詩あり。錄してもてこゝに證とす。
引道此風號谷風。關々啖嗽響西東。惡寒發熱人無色。煎樣如常藪有功。一片生姜和酒飮。半丁豆腐入湯空。送君四里四方外。千壽品川問屋中。
又文化元年にはやりし風邪を、お七風と名づけたり。こは八百屋お七といふゑせ小うたの流行せしによりてなり。又文化五年の秋はやりし風邪を、ねんころ風と名づけたり。そのよしは上にいへるが如し。又文政四年の春二月の比、いたく流行せし風邪を、たんほう風と名づけたり。こはこのときのはやり小うたに、たんほうさんや、たんほうさんやと謠ひしことのあればなり。かくて去年甲申の春二三月の頃はやりし風邪を、薩摩風と名づけたり。こは西國よりはやり初めて、こゝまでうつり來つればならん。此うち谷風、お七風、ねんころ風、たんほう風ははげしかりき。家々每に五人三人枕をならべて、うち臥さぬはなかりけり。西は京攝に至り、東は安房上總、西南は甲斐伊豆の海邊、北は信濃越後まで、なべて脫るゝものなかりしよし、その折々に友人の郵書にも聞えたり。たんほう風のはやりしとき、何ものかよみたりけん、みやこから乘せてくるまのたんほ風ひくものもありおすものもあり。いとおかしきや。例の人の癖なるべし。かゝれば此風は京よりはやり來つるにこそ。この他寬政享和中にも有りけんを、さる名を負せざりける歟。いふがひもなく忘れたり。抑この一條は、曩に北峰子のしるしつけたる風の神の圖說の後につけても、いわまほしかるまゝに、伊豆の千わきのわけなし言もて、科戶の風の神やらひしつ。鋭鎌八重鎌刈りはらふごと、禿たる筆を走らせし。みそぎのやゝのやく體もなき、只是れ嗚呼のすさみになん。
兩國河の奇異 庚辰の猛風 美日の斷木
右の風の物語につひ出せるあるを、更に又こゝに書つく。文化十三年丙子の秋閏八月四日の大風雨は、予が日記中にしるし置けり。その前日より雨ふりつ。天明けて雨は歇たりしに、又巳のころより大風雨にて、樹を拔き屋を破りつゝ、申の比に雨霽れて、その夜子の比及に、やうやくに凪てけり。この時本所深川は水出でゝ、床の上一二尺に及びしといふ。しかるにその風は南よりして、特に潮氣を含みたり。さればにや、南を受けたる草木はすべてその葉を吹凋まされて、枯果るに至るもありけり。
この年の冬十月、予は榎の嶋鎌倉に遊びしに、海邊の松每に凋落せぬはなかりけり。かゝれば南表なる漁村は彌烈しかりけん。風に潮をまぜて吹しは、こもめづらしき事になん。
是よりも猶奇しき事あり。この大風烈前二ケ月、七月十日の事なりき。侍醫山本宗英法眼、その通家官醫野間氏の本所なる宿所に赴きてのかへるさに、夜ははや亥中とおぼしき比、兩國橋を渡す程に、河上に一團の火焰あり。吾妻橋のかたよりして、大橋の方に邁けり。おもはずこれを仰ぎ望つるに、その光の靑く引たる、靑衣の官人騎馬にして、前うしろに從ひつゝ、火焰を守護するものに似たり。その容はおぼろげなれども、すべては衣冠束帶の如くにぞ見えてける。橋の上を相距ること凡一丈ばかりにして、徐々とねりゆくを、立とゞまりて猶見る程に、漸々に滅うせしとぞ。予は次の月の下旬まで、さる事ありともしらざりしに、風聞他所より聞えしかば、八月廿四日に興繼を遣して法眼に問せしに、聊もたがひあらず。見し趣は云々なりとて、詳に語せられけり。扨も件の法眼は、予と三十餘年ばかり交遊の義を辱うせられたる、少年よりの友にして、齡は五つの弟にておはせし。よりてそのこゝろざまも大かたならずしりたるに、絶て浮きたる性ならねば、實說なりきと思ひしのみ。何の故とは曉らざりしに、後の葉月の四日に至りて、法眼の見きといはれし兩國河の怪物は、かゝる烈風洪水のありぬべき前象なりきと、初めて思ひあはしけり。かゝれば橘南谿が東遊記に載たりし名立崩の前月に、神佛の空中を飛去給ひしなどいふ事も、一槪には誣がたかり。これより僅か三とせにして、文政元年五月下旬に、彼法眼は身まかり給ひぬ。享年四十八歲なりき。いとをしかりける齡にこそ〔文政癸未八月十七日の夜の大風雨のときは、その大きさ醬油樽ばかりなる陰火の飛行せしを、まさしく見たる人あり。非常の暴風雨のときには、かならずそのしるしあることなるべし〕。
かくて又文政三年庚辰の秋九月八日の大風烈に、駒込不動坂のほとりなる名主内海權十郞主從二人、巨樹に撲れて身まかりけり。そを相識る商人の、次の日に來て告るを聞しに、權十郞が宿所のほとりは、昔春日局の別莊にて、素より由緒あることなれば、年々の秋每に園に生りたる栗を採りて、局の廟に備るを恒例とするもの也。しかればこの日も採りたる栗を、ひとりの從者に齎しつゝ、湯嶋なる天澤山に赴きて、役僧にわたしてけり。さて辭し去んとする程に、風はいよいよ烈しくなりぬ。猶しばらくと留められしを、おほやけざまの所務あればとて、いそがはしくまかる程に、寺門を出でゝいく程もなく、門内なる樅の木の十圍にもあまりつべく見えたるが、只推揉りたるやふに、樹は眞中より吹折られて、大地を撲て落しかば、從者は大枝に肚を撲して、矢庭に卽死したりける。年十六になりしもの也とぞ〔その名をしらず〕。權十郞も打仆されて半死半生なりけるを、寺より駕籠にたすけ乘して宿所へ送り遣せしに、家路にかへり着く程に、忽に息絶にけり。享年四十二歲といへり。大風烈の折などには、鬼魅蛇蝎の風に乘じて飛行することありとしもいへば、已むことを得ぬ急用ならぬに、犯して出るは愚に似たり。
しかれども又風の吹ぬに、物の倒るゝことも有けり。近くは文政六年癸未の夏六月廿三日の未の時ばかりに、淺草寺の地内なる三社權現の石の鳥居の、忽然と折たり。人みな驚き怪みて、さまざまにいひしかど、笠木の三つに折碎けしは、その續目の甘び延て、落る勢ひにて折たるならん。折て落ぬるものならずは、さまで怪しとするに足らず。
これよりもいと奇なりと思ひしは、文化四年丁卯の秋八月廿三日の未の時ばかりに、御城内御焰硝庫のほとりなるふりたる松の二株まで、自然と折れしことありけり。その樹は十圍にもあまりつべし。この日はしかも美日にて、そよふく風もなかりしに、只是のみにあらず、上野護國寺の巨樹、河越侯邸中の大銀杏など、おなじ時刻に折れたりといふ。これも亦一奇事なり。しかれどもこの月の十九日に、深川八幡宮の祭見んとて、永代橋を踏落しつゝ、凡は四百八拾餘人水に沒して死たりける。このことの噂にのみ、世の人耳を側だつる最中にてありければ、件の巨樹の折たるをいふものもなく、知るもの稀なり。
又去々年癸未の秋八月十七日の夜の大風烈は、近來未曾有の暴なりければ、奇談怪說多かれども、まことしからぬこともまじれり。これらは童蒙も耳に熟して、今しも折々いふことなるを、又さらにこゝに識さば、冬の透間の風に似て、さこそは人に厭れもせめ。世の諺に大風の吹たる跡といふ如く、風のはなしは是までにして、默して後のまとゐを待のみ。
文政八年皐月朔 著作堂解識
前々會拙編中補遺附錄
宛委餘篇云。呂布有赤兎。張飛有玉追。曹眞有驚帆。曹洪有白鶴。又云。驚帆、魏曹洪所名駿馬也。馳馬、呉孫權所名快船也。二事正相反而又相對出一時甚奇〔見第三 八丁右〕。この條の曹洪とあるは、曹眞の誤なるべし。駈馬に帆をつけて名つけしや、また馬をもて名つけしや、共に三國鼎立の時にあれば、實に奇なり。この條季春の集合に出せし拙編錦駈の條にいひこぼしたるを、忘れたりければ追て書きしるすのみ。宵のあやめ十日の菊、たとへくれても遠くもあらぬものを、をそしと人もあらんとぞ思ふ。
解再識
注
- 写本の位置
- 写本は3169の42カット目右ページの中ほど「附ていふ」から48カット目右ページまで。目録の題「安永以來のはやり風」に当たる本文は44カット目左ページの「嗚呼のすさみになん」で終わる。その直後に写本は「兩國河の奇異 庚辰の猛風 美日の斷木」の題を掲げて別の文章を続け、47カット目左ページに「文政八年皐月朔 著作堂解識」の署名がある。さらに「前々會拙編中補遺附錄」として第三集の錦駈の条への補いが48カット目右ページまで続き、「解再識」で終わる。これらは目録に立項がないので、目録どおり十六話に分ける方針に従い、同じ著作堂の一続きの稿としてこの passage の後半に収めた。別の passage に分けるかどうかは判断を仰ぎたい。
- 判読保留
- 活字本系テキストの「わが附したるを見まくほりせば」は写本では「臥したる」。狂詩の「千住品川」は写本では「千壽品川」。「關々啖咳」の第四字は写本では「嗽」に見えるが、字形からの推定で判読保留。
- 判読保留
- 「兩國河の奇異」の冒頭「右の風の物語につひ出せるあるを、更に又こゝに書つく」は写本の読みで、私家版はこの一文を欠いて「の大風雨は」から始める。仮名の細部は判読保留。
- 校合
- 活字本系テキストの「文政庚未八月十七日」は写本では「文政癸未」。「春目局」は「春日局」。永代橋の死者は活字本系テキストで「二、三千人」、写本では「四百八拾餘人」。「そよふく凪もなかりしに」は写本では「そよふく風もなかりしに」。
- 判読保留
- 補遺附録の末尾「宵のあやめ十日の菊」以下は仮名の続け字が読みにくく、判読保留。「見第三 八丁右」は写本では小字の割注。
- 注記
- 「北峰子」は山崎美成の号で、「風の神の圖說」は第四集で美成が出した稿を指すと解した。山本宗英は幕府の侍医、名立崩れは寛延四年の越後名立の山崩れで『東遊記』に見える。天沢山は湯島の麟祥院で春日局の墓所。いずれも雲亭の推定で未確認。
- 校合
- 私家版はこの話の後に百川の評を載せるが、写本にはない。
- 校合
- 後半の「兩國河の奇異 庚辰の猛風 美日の斷木」の校合には私家版の別記事 https://onibi.cocolog-nifty.com/alain_leroy_/2021/09/post-b719e5.html(sources.json の toen-onibi-2021-09-09)を使った。
AI試訳 / 専門家未校閲