雲亭日本古典図書室収録作品の一覧

賀茂甲斐筆法の辯

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兎園小説 / 曲亭馬琴ほか 兎園会の会員 / 第五集 第13話 / 著作堂客編 京 青李庵 角鹿桃窠

雨森芳洲が賀茂甲斐の筆法を朝鮮人伝来と書いたのに対し、京の角鹿桃窠が書博士家の系図を引いて飯河秋芸からの伝授だと弁じる。

本文 現代語訳

賀茂甲斐筆法の弁
賀茂甲斐筆法の弁
乙酉五月随筆会 平安 角鹿桃窠
乙酉五月随筆会 京 角鹿桃窠
雨森東五郎のかける『戯草』というものに、「この国の筆法といえるは、壬辰の乱後、虜となりてこの国に住める韓人の教えしを、賀茂の甲斐伝えたるなり。されど今、韓人のもの書くを見るに、筆の意はなはだ違えり。韓人の筆の意も、唐土とは同じからず」と〔以上『戯草』〕。按ずるに、賀茂甲斐敦直は、天文年間、飯河治部少輔秋芸、老後一雨斎妙佐と号せし人に、上代の書法を伝え受けたるなり。その事実、書博士家の系図に見えて、いとあきらかなり。かの韓人に筆法を受けしとは、さらに意得がたし。されども芳洲老人は博雅の人なり。その頃かかる伝えもありしにや。
雨森東五郎の書いた『戯草』というものに、「この国の筆法というのは、壬辰の乱のあと捕虜になってこの国に住んだ朝鮮人が教えたのを、賀茂の甲斐が伝えたものである。しかし今、朝鮮人が物を書くのを見ると筆の意がはなはだ違う。朝鮮人の筆の意も中国とは同じでない」とある。以上『戯草』。考えてみるに、賀茂甲斐敦直は天文年間に、飯河治部少輔秋芸が老後に一雨斎妙佐と号した人から、上代の書法を伝え受けたのである。その事実は書博士の家の系図に見えて、たいへん明らかである。あの朝鮮人に筆法を受けたというのは、まったく納得がいかない。けれども芳洲老人は博学の人である。その頃はそういう伝えもあったのだろうか。
原文 / 昭和女子大学本の字句を採り、正字体を保持、振り仮名を外す

賀茂甲斐筆法の辯

乙酉五月隨筆會 平安 角鹿桃窠

雨森東五郞のかける戲草といふものに、この國の筆法といへるは、壬辰の亂後とりことなりて此國にすめるから人の敎へしを、賀茂の甲斐つたへたるなり。されど今から人のものかくを見るに、筆の意はなはだ違へり。から人の筆の意も、もろこしとは同じからずと〔以上戲草〕。按ずるに、賀茂甲斐敦直は、天文年間飯河治部少輔秋藝、老後一雨齋妙佐と號せし人に、上代の書法を傳へうけたるなり。其事實書博士家の系圖に見えて、いとあきらかなり。かのから人に筆法をうけしとは、さらに意得がたし。されども芳洲老人は博雅の人なり。其頃かゝる傳へもありしにや。

注

写本の位置
写本は3169の48カット目左ページから49カット目右ページまで。本文に題はなく、冒頭に「乙酉五月隨筆會 平安 角鹿桃窠」と書く。題は目録の「賀茂甲斐筆法の辯」を採った。活字本系テキストは末尾に「文政八年乙酉隨筆會 平安 角鹿桃窠」を置くが、写本ではその行は49カット目左ページにある次の話「花」の冒頭の肩書きで、この話の末尾にはない。
校合
活字本系テキストの「賀茂甲斐敦敦直」は写本では「賀茂甲斐敦直」。
注記
雨森東五郎は対馬藩の儒者雨森芳洲。壬辰の乱は文禄の役。賀茂甲斐敦直は持明院流の書家、飯河秋芸は室町末の書家と解した。いずれも雲亭の推定で未確認。
注記
目録では披講者を「著作堂客編 京 青李庵」とする。青李庵は桃窠の別号で、第14話の後記に馬琴の説明がある。

AI試訳 / 専門家未校閲