雲亭日本古典図書室収録作品の一覧

松五郎遺愛馬考異

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兎園小説 / 曲亭馬琴ほか 兎園会の会員 / 第五集 第15話 / 琴嶺舎 滝沢興継

第三集で馬琴が暗記で書いた箱崎村松五郎の愛馬の話を、見つかった松前家の図説と手紙で興継が訂正し、命日や毛色の誤りを正す。

本文 現代語訳

松五郎遺愛馬の考異
松五郎遺愛馬の考異
今茲暮春朔日の兎園会に、家厳の書きつめて披講したりし「五馬の一」、陸奥の伊達郡箱崎村農民伝兵衛が子の松五郎が遺愛の馬の事、当時松前老侯その近習に命じ給いて、図説をつまびらかに録し給わりしもの、さきに家厳ふかく蔵め失いて、たずね求めたるにかいくれ見えざりければ、暗記をもて書かれしなり。
今年三月一日の兎園会で父が書いて披講した「五馬の一」、陸奥の伊達郡箱崎村の農民伝兵衛の子松五郎が可愛がった馬の話は、当時松前の老侯が近習に命じて図説を詳しく記させてくださったものを、以前父が深くしまい込んで失い、探し求めても見つからなかったので、暗記で書かれたものである。
しかるにいぬる日、ゆくりなくその図説をたずね出だしたり。
ところが先日、思いがけずその図説を探し出した。
さて披閲せられしに、さきに誌されしと大かたは違わねど、暗記の失なきにあらず。家厳すなわちその書画を興継にしめして言えらく、「かかる実録にいささかたりとも錯誤あらんは、遺憾の事なり。そのたがえるところどころを、なお書きあらためて後のまといに披露せばやと思えども、おなじすじなることどもをふたたびせんはわずらわしく、かつことふりにて、労にしも得堪えず。汝われに代りて、これかれをよく比較して、足らざるを補い、違えるを正せかし」と言われたり。
さて開いて見られたところ、先に記されたものと大方は違わないが、暗記の誤りがないわけではなかった。父はその書画を私興継に示して言った。「こういう実録に少しでも錯誤があるのは遺憾なことだ。違っているところどころを書き改めて次の集まりで披露したいとも思うが、同じ筋のことを二度するのは煩わしく、しかも古くなった話で、労に堪えない。お前が私に代わって、あれこれをよく比較し、足りないところを補い、違っているところを正しなさい」と。
おのれ不似にして、文辞のうえにはその才露ばかりもあることなし。何と書くべきやと思い煩うものから、もしかかる事なかりせば、いかでか不文の筆ずさみを晴れなる筵に押し出だして、諸先生の玉をつらね錦をひるがえせる文場に加わることを得べけんや。いなむも事によるべきものをと、思うばかりを心あてに、おちおちたがえるところどころを、さらに誌すこと左のごとし。
私は不肖で、文章の才は露ほどもない。どう書くべきかと思い悩んだが、もしこういうことがなかったら、どうして拙い筆すさびを晴れの席に押し出して、諸先生が玉を連ね錦をひるがえす文場に加わることができようか。断るのも事によるだろうと、それだけを心の頼りに、違っているところどころを改めて記すこと、次のとおりである。
奥州伊達郡箱崎村は御領にて、桑折御代官所の支配たり。同村の百姓伝兵衛は高橋氏にして、文政二己卯には年才四十七になりぬ。彼は元禄年間より代々当村に住居して、相応の百姓なりしに、近年いよいよゆたかになりぬ。男女の子ども三四人あり。かの松五郎は家子なり。またこの家に老母あり。伝兵衛素より孝心ふかく、よく老母に仕えしかば、松五郎もその心親に劣らず。これによりその二親の志にたがうことなく、祖母によく仕えたり。かつその性馬を好みしこと、曩編にしるされし如し。かくて松五郎は文化十四年の夏の比より、労瘵の症にて病みわずらうこと二とせに及びつつ、文政元年戊寅冬十月二十七日に、享年二十歳にて身まかりけり。曩編に文政二年十二月十二日に病死せしよしをしるされしは、暗記の失なるべし。
奥州伊達郡箱崎村は幕府領で、桑折代官所の支配である。同村の百姓伝兵衛は高橋氏で、文政二年己卯には年四十七になった。彼は元禄年間から代々当村に住んで相応の百姓だったが、近年いよいよ豊かになった。男女の子どもが三四人ある。あの松五郎は跡取りである。またこの家に老母がいる。伝兵衛はもとより孝心が深く、よく老母に仕えたので、松五郎もその心は親に劣らない。そのため両親の志にたがうことなく、祖母によく仕えた。また馬を好む性質だったことは前編に記されたとおりである。こうして松五郎は文化十四年の夏頃から労咳の症状で病み、二年に及んで、文政元年戊寅の冬十月二十七日に享年二十歳で亡くなった。前編で文政二年十二月十二日に病死したと記されたのは暗記の誤りだろう。
かくて次の日、松五郎が亡骸を棺に斂めんとせしとき、祖母ならびに二親哀傷に得堪えず、松五郎が手道具ようのものを落ちもなく取り集めて、棺に納めんとしたりしを、親類たるものひそかに諫めて、「その事はなはだしかるべからず。当今は六道銭すら厳しく停止せられしに、まいてかかるしなじなをむなしく土中に埋めんは、勿体なきことどもなり。ゆめゆめ思いとどまり給え」とまめやかに諫めしかば、祖母、ふた親もその儀に任せて、さる事はせずなりぬ。
さて翌日、松五郎の亡骸を棺に納めようとしたとき、祖母と両親は悲しみに堪えず、松五郎の手回りの道具などを残らず集めて棺に納めようとしたが、親類の者がひそかに諫めた。「それはたいへんよろしくない。当今は六道銭さえ厳しく禁じられているのに、ましてこういう品々をむなしく土中に埋めるのはもったいないことだ。ゆめゆめ思いとどまりなさい」と真心をこめて諫めたので、祖母も両親もその言葉に従い、そうしなかった。
しかるにこの宵、同村の貧民四五人、「手伝いのために」とて来て居りしに、はじめ「松五郎が棺の内へ手道具ようのものを納めてつかわさん」と言いし趣をもれ聞きて、そののち親類なるものの諫めによりてさる事はせずなりしことを知らず、ここをもて件の四五人ひそかに示し合わしつつ、同月二十九日の薄暮より打ちつどいて、酒四五升を求め来つ。これを飲むと飲むほどに、酒気に乗じて松五郎が墓所に赴き、既にその新墓を発きし折、松五郎が遺愛の馬は厩の横木を推し破り、驀地に走り来つ。件の悪者四五人を踶仆せし事の趣は、曩編にしるされしがごとし。これを「隣村の百姓なりし」と言えりしは、伝兵衛が聊か遠慮もて言いし事にて、実は同村の百姓なりけるよしなり。すべてこの箱崎わたりは人気よろしからぬ所にやありけん、かかるまさな事をするもの折々ありとぞ聞こえたる。
ところがこの晩、同村の貧しい者四五人が手伝いのために来ていて、はじめ「松五郎の棺の中に手回りの道具を納めてやろう」と言った話を漏れ聞き、その後親類の諫めでやめたことを知らず、その四五人がひそかに示し合わせて、同月二十九日の夕暮れから集まり、酒を四五升買ってきた。これを飲むうちに酒の勢いで松五郎の墓所に行き、新しい墓を掘り返したところで、松五郎の愛馬が厩の横木を押し破ってまっしぐらに走ってきた。その悪者四五人を蹴り倒したことは前編に記されたとおりである。これを「隣村の百姓だった」と言ったのは、伝兵衛が少し遠慮して言ったことで、実は同村の百姓だったという。だいたいこの箱崎あたりは人気がよくない所なのか、こういう不届きなことをする者が折々あると聞く。
さて件の馬は青毛なり。曩編に「栗毛」としるされしは、これまた暗記の失なり。この馬は鞨鼓野という牧より出でたるを、二歳のとき伝兵衛が従弟亀次郎という者馬市にて買い取り来たり。松五郎は馬を好むに、伝兵衛もまた馬を愛する心ある者なりければ、すなわち「乗馬にせん」とて乗り立てしかど、「地道よろしからず」とて、ついに小荷駄にしたりける。されども松五郎ははじめにかわらず、この馬を鍾愛して、みずから秣を飼い、またある時は餅菓子などをも食わせ、田畑へ牽きもてゆくときも、決して家僕雇人などにあずけずして、みずから牽きてゆきかえりせしとぞ。
さてこの馬は青毛である。前編に「栗毛」と記されたのはこれも暗記の誤りである。この馬は鞨鼓野という牧から出たのを、二歳のとき伝兵衛の従弟の亀次郎という者が馬市で買ってきた。松五郎は馬を好み、伝兵衛もまた馬を愛する心のある者だったので、「乗馬にしよう」と乗り立ててみたが、「歩きぶりがよくない」というのでとうとう荷駄馬にした。それでも松五郎は初めと変わらずこの馬を可愛がり、自分で秣をやり、またあるときは餅菓子などを食べさせ、田畑へ牽いていくときも決して下男や雇い人にまかせず、自分で牽いて行き帰りしたという。
また伝兵衛が菩提所は真言宗にて、普賢山福厳寺という。住持は覚応法印とて、文政元年その齢六十七歳なりとぞ聞こえし。またこの寺は伝兵衛が居宅よりは三町ばかり北のかたにあり。またその墓所は寺を距ること東南のかた五町ばかりにあり。伝兵衛が宅より墓所は東南の隅にあたりて、相去ること二町ほどなりという。
また伝兵衛の菩提寺は真言宗で普賢山福厳寺という。住持は覚応法印といい、文政元年に六十七歳だったと聞く。この寺は伝兵衛の家から三町ほど北にある。墓所は寺から東南へ五町ほどのところにある。伝兵衛の家から墓所は東南の隅に当たり、二町ほど離れているという。
松五郎が戒名は寂光院貞心自了信士〔文政元年戊寅十月二十七日、二十歳〕
松五郎の戒名は寂光院貞心自了信士。文政元年戊寅十月二十七日、二十歳。
松前家より件の趣をよく質し問いて、家厳に示し給いしは、文政二年六月十三日のことなり。後の考えのために、その簡牘を写し書する事左のごとし。
松前家からこの件をよく問いただして父に示してくださったのは、文政二年六月十三日のことである。後日の考証のために、その手紙を写し書きすること、次のとおり。
〔図一 愛名山/松五郎墓/〔二字判読保留〕宅/福厳寺/石灯籠/保原路/箱崎村 伝兵衛宅/田〕
〔図一 愛名山、松五郎の墓、(二字判読保留)の家、福厳寺、石灯籠、保原への道、箱崎村の伝兵衛宅、田〕
松前藩長尾氏手簡
松前藩長尾氏の手紙
昨夕は罷り出で御目通り、殊に寛々御物語仕り、大慶至極に存じ奉り候。その節申し上げ置き候箱崎馬の巨細書差し上げ候様申し付けられ、則ち持たせ差し上げ候間、御落手願い上げ候。早々頓首。六月十三日 長尾友蔵/滝沢様尊下
昨夕は参上してお目にかかり、ことにゆっくりお話しでき、たいへん喜ばしく存じます。その節申し上げておいた箱崎の馬の詳細書を差し上げるよう申し付けられましたので、持たせて差し上げます。お受け取りください。早々頓首。六月十三日 長尾友蔵/滝沢様尊下
同藩桜井氏手簡
同藩桜井氏の手紙
一筆啓上仕り候。甚暑の砌に御座候えども、上々様ますます御機嫌よく御座遊ばされ、御同意恐悦奉り候。随って貴公様いよいよ御安泰御勤仕成され、目出度き御義に存じ奉り候。然れば仰せを蒙り候箱崎名馬実説巨細書上げ奉り候。よろしく御披露願い奉り候。かつまた右馬の義も、箱崎伝兵衛従弟亀次郎と申し、当時瀬之上駅に別宅仕り、馬喰商売仕り居り候間、同人へ懇意仕り候出入り園吉と申す者へ申し含め承り合わせ候えば、亀次郎心易く受け合い候て、伯父伝兵衛へ申し込み候ところ〔伯父伝兵衛といえば、亀次郎は則ち伝兵衛がためには甥なるべきを、伝兵衛が従弟としるせしは心得がたし。従弟は甥の誤りか。なお尋ぬべし〕、中々放し候様子これなき旨、わざわざ飛脚をもって申し参り候。右紙面貴公様まで差し上げ候間、然るべく御取り繕い御沙汰願い上げ奉り候。しかしながらこの上是非々々思し召しあらせられ候わば、またまた一手段仕り見申すべく候えども、まずこの段申し上げ奉り候。なおまた箱崎伝兵衛居宅、寺、墓所等疎絵図認め差し上げ奉り候。彼是然るべき様御取り合わせ願い上げ奉り候。殊更この間家内に病人これあり、延引仕り候段恐れ入り奉り候。何分よろしく御執り成し願い奉り候。右の趣貴意を得べく、かくの如くに御座候。恐惶謹言。六月二日 桜井耽斎/土屋翁平様
一筆申し上げます。厳しい暑さの折ですが、上々様がますますご機嫌よくお過ごしで、ご同慶の至りです。ついてはあなた様もいよいよご安泰にお勤めで、めでたいことと存じます。さて仰せを受けた箱崎の名馬の実説の詳細書を差し上げます。よろしくご披露ください。またこの馬のことは、箱崎の伝兵衛の従弟の亀次郎という者が当時瀬之上駅に別宅を構えて馬喰商売をしていますので、彼と懇意の出入りの園吉という者に含めて問い合わせたところ、亀次郎は快く引き受けて伯父の伝兵衛に申し込みました〔伯父の伝兵衛といえば、亀次郎は伝兵衛にとって甥のはずなのに、伝兵衛の従弟と記したのは解せない。従弟は甥の誤りか。なお尋ねるべきである〕が、なかなか手放す様子がないと、わざわざ飛脚で知らせてきました。その手紙をあなた様までお届けしますので、しかるべくお取り繕いのうえお伝えください。しかしこの上ぜひともお望みであれば、また別の手段を試みますが、まずこの段を申し上げます。なお箱崎の伝兵衛の家、寺、墓所などの略図をしたためて差し上げます。何かとよろしくお取り計らいください。ことにこの間家内に病人があって遅くなりましたことを恐れ入ります。何分よろしくお取りなしください。以上お伝えしたくこのとおりです。恐惶謹言。六月二日 桜井耽斎/土屋翁平様
別紙申し上げ奉り候。右紙面御覧に入れ候瀬之上後藤亀次郎は、箱崎伝兵衛方より別家仕り候者の子にて、伝兵衛とは従弟に御座候。この段御含み置かれ御披露下さるべく候。以上。翁平様 耽斎
別紙で申し上げます。この手紙でお目にかけた瀬之上の後藤亀次郎は、箱崎の伝兵衛方から分家した者の子で、伝兵衛とは従弟です。この段お含みおきのうえご披露ください。以上。翁平様 耽斎
伝兵衛従弟亀次郎手簡
伝兵衛の従弟亀次郎の手紙
飛脚をもって申し上げ候。暑気甚だしく候えども、いよいよ御勇健に御渡り成さるべしと賀し奉り候。然れば先日は御目にかかり大慶に存じ奉り候。その節御咄し成され候箱崎伝兵衛方へ馬の義申し聞け候ところ、実に忠義に相当り候馬の義に御座候えば、伝兵衛方にて飼い殺しに仕りたきよしに御座候。もっとも前々より忰松五郎気に入り、一人にて飼い立て候馬に御座候えば、なおさら右様の義これあり候義にては、相放し兼ね候趣に御座候。右の段何分御断り申し上げ候。早々かくに御座候。以上。五月二十七日 瀬之上 後藤屋亀次郎/新田屋園吉様 要用
飛脚で申し上げます。暑さが厳しいですが、ますますお元気でお過ごしのことと存じます。さて先日はお目にかかり嬉しく存じます。その節お話しのあった箱崎の伝兵衛方へ馬のことを申し聞かせたところ、まことに忠義にかなった馬のことなので、伝兵衛のところで飼い殺しにしたいとのことです。もともと倅の松五郎が気に入って一人で飼い育てた馬ですから、なおさらそういうことがあっては手放しかねるとのことです。この段は何分お断り申し上げます。早々このとおりです。以上。五月二十七日 瀬之上 後藤屋亀次郎/新田屋園吉様 要用
長尾友蔵は松前家の臣なり〔後、所左衛門と改む〕。また桜井耽斎も同家臣にて、当時在梁川なりし医官なり。また亀次郎という者は高橋伝兵衛が従弟なり。桜井耽斎かねて園吉が亀次郎と識れる人なるをもて、則ち園吉をもてかの馬の事をはからわせしに、伝兵衛かたく辞して售らざりし事、簡牘に見えたるが如し。そもそもこの奇談は浮きたることにあらず、忠孝の端にもかかつらえるよしあれば、「いささかも違うことなく、ありつるままに識しおくべし」と、家厳の言われしによりて、この事に及べるのみ。
長尾友蔵は松前家の家臣である。後に所左衛門と改めた。また桜井耽斎も同じ家臣で、当時梁川にいた医官である。また亀次郎という者は高橋伝兵衛の従弟である。桜井耽斎はかねて園吉が亀次郎と知り合いなのを利用して、園吉を通じてあの馬のことを計らわせたが、伝兵衛が固く辞して売らなかったことは手紙に見えるとおりである。そもそもこの奇談は浮ついたことではなく、忠孝の端にも関わることなので、「少しも違えず、あったとおりに記しておくべきだ」と父が言ったので、この考証に及んだだけである。
文政八年五月朔 琴嶺興継
文政八年五月朔日 琴嶺興継
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松五郞遺愛馬の考異

今茲暮春朔日の兎園會に、家嚴の書きつめて披講したりし五馬之一、陸奧の伊達郡箱崎村農民傳兵衞が子の松五郞が遺愛の馬の事、當時松前老侯その近習に命じ給ひて、圖說をつまびらかに錄し玉はりしもの、嚮に家嚴ふかく藏め失ひて、たづね求めたるにかいくれ見えざりければ、暗記をもて書れしなり。

しかるにいぬる日、ゆくりなくその圖說をたづね出たり。

扨披閱せられしに、曩に誌されしと大かたは違はねど、暗記の失なきにあらず。家嚴則その書畫を興繼にしめしていへらく、かゝる實錄にいさゝかたりとも錯誤あらんは、遺憾の事なり。そのたがへるところどころを、なほ書あらためて後のまとゐに披露せばやと思へども、おなじすぢなることどもをふたゝびせんはわづらはしく、且ことふりにて、勞にしも得湛へず。汝われに代りて、これかれをよく比較して、足らざるを補ひ、違へるを正せかしといはれたり。

おのれ不似にして、文辭のうへにはその才露ばかりもあることなし。何と書べきやと思ひ煩ふものから、もしかゝる事なかりせば、いかでか不文の筆ずさみを晴なるむしろにおし出して、諸先生の玉をつらね錦をひるがへせる文場に加はることを得べけんや。いなむも事によるべきものをと、思ふばかりを心あてに、おちおちたがへるところどころを、さらに誌すこと左のごとし。

奧州伊達郡箱崎村は御領にて、桑折御代官所の支配たり。同村の百姓傳兵衞は高橋氏にして、文政二己卯には年才四十七になりぬ。渠は元祿年間より代々當村に住居して、相應の百姓なりしに、近年いよいよゆたかになりぬ。男女の子ども三四人あり。彼松五郞は家子なり。又この家に老母あり。傳兵衞素より孝心ふかく、よく老母に仕へしかば、松五郞もその心親に劣らず。これによりその二親の志にたがふことなく、祖母によく仕へたり。且その性馬を好みしこと、曩編にしるされし如し。かくて松五郞は文化十四年の夏の比より、勞瘵の症にて病みわづらふこと二とせに及びつゝ、文政元年戊寅冬十月廿七日に、享年二十歲にて身まかりけり。曩編に文政二年十二月十二日に病死せしよしをしるされしは、暗記の失なるべし。

かくて次の日、松五郞が亡骸を棺に斂んとせしとき、祖母幷に二親哀傷に得たへず、松五郞が手道具やうのものをおちもなくとりあつめて、棺に納めんとしたりしを、親類たるものひそかに諫めて、其事甚しかるべからず。當今は六道錢すら嚴しく停止せられしに、まいてかゝるしなじなをむなしく土中に埋めんは、物體なきことどもなり。ゆめゆめ思ひとゞまり給へとまめやかにいさめしかば、祖母ふた親もその儀に任して、さる事はせずなりぬ。

しかるにこの宵、同村の貧民四五人、手傳ひの爲にとて來てをりしに、はじめ松五郞が棺の内へ手道具やうのものを納めてつかはさんといひし趣をもれ聞きて、そのゝち親類なるものゝ諫めによりてさる事はせずなりしことをしらず、こゝをもて件の四五人竊かに示し合しつゝ、同月廿九日の薄暮より打ちつどひて、酒四五升を求め來つ。これを飮むとのむほどに、酒氣に乘じて松五郞が墓所に赴き、既にその新墓を發きし折、松五郞が遺愛の馬は厩の橫木を推し破り、驀地に走り來つ。件の惡者四五人を踶仆せし事の趣は、曩編にしるされしがごとし。これを隣村の百姓なりしといへりしは、傳兵衞が聊か遠慮もていひし事にて、實は同村の百姓なりけるよし也。すべてこの箱崎わたりは人氣よろしからぬ所にやありけん、かゝるまさな事をするもの折々ありとぞ聞えたる。

さて件の馬は靑毛なり。曩編に栗毛としるされしは、是又暗記の失なり。この馬は鞨鼓野といふ牧より出たるを、二歲のとき傳兵衞が從弟龜次郞といふ者馬市にて買取來たり。松五郞は馬を好むに、傳兵衞も又馬を愛する心ある者なりければ、すなはち乘馬にせんとて乘立てしかど、地道よろしからずとて、遂に小荷駄にしたりける。されども松五郞ははじめにかはらず、この馬を鍾愛して、みづから秣を飼ひ、又ある時は餅菓子などをも食はせ、田畑へ牽きもてゆくときも、決して家僕雇人などにあづけずして、みづから牽きてゆきかへりせしとぞ。

又傳兵衞が菩提所は眞言宗にて、普賢山福嚴寺といふ。住持は覺應法印とて、文政元年その齡六十七歲なりとぞ聞えし。又この寺は傳兵衞が居宅よりは三町許り北のかたにあり。又その墓所は寺を距ること東南のかた五町許りにあり。傳兵衞が宅より墓所は東南の隅にあたりて、相去ること二町程なりといふ。

松五郞が戒名は寂光院貞心自了信士〔文政元年戊寅十月廿七日、二十歲〕

松前家より件の趣をよく質し問ひて、家嚴に示し給ひしは、文政二年六月十三日のことなり。後の考への爲に、その簡牘を寫し書する事左のごとし。

〔圖一 愛名山/松五郞墓/〔二字判讀保留〕宅/福嚴寺/石トウロウ/保原路/ハコサキ村 傳兵衞宅/田〕

松前藩長尾氏手簡

昨夕は罷出御目通、殊に寬々御物語仕、大慶至極奉存候。其節申上置候箱崎馬之巨細書指上候樣被申付、則爲持指上候間、御落手願上候。早々頓首。六月十三日 長尾友藏/瀧澤樣尊下

同藩櫻井氏手簡

一筆啓上仕候。甚暑之砌御座候得共、上々樣益御機嫌能被爲遊御座、御同意奉恐悅候。隨而貴公樣彌御安泰被成御勤仕、目出度御義奉存候。然者蒙仰候箱崎名馬實說巨細書奉上候。宜敷御披露奉願候。且又右馬之義茂、箱崎傳兵衞從弟龜次郞と申、當時瀨之上驛ニ別宅仕、馬喰商賣仕居候間、同人へ懇意仕候出入園吉と申者へ申含承合候得は、龜次郞心易受合候而、伯父傳兵衞へ申込候處〔伯父傳兵衞といへば、龜次郞は則傳兵衞が爲には甥なるべきを、傳兵衞が從弟としるせしはこゝろえがたし。從弟は甥の誤りか。猶たづぬべし〕、中々放候樣子無之旨、態々以飛脚申參り候。右紙面貴公樣迄指上候間、可然御取繕御沙汰奉願上候。乍倂此上是非々々被爲有思召候者、又々一手段仕見可申候得共、先此段奉申上候。猶又箱崎傳兵衞居宅寺墓所等踈繪圖認奉指上候。彼是可然樣御取合奉願上候。殊更此間家内ニ病人有之、延引仕候段奉恐入候。何分宜敷御執成奉願候。右之趣可得貴意、如此御座候。恐惶謹言。六月二日 櫻井耽齋/土屋翁平樣

別紙奉申上候。右紙面入御覽候瀨之上後藤龜次郞者、箱崎傳兵衞方ヨリ別家仕者之子ニ而、傳兵衞ト者從弟ニ御座候。此段御含ミ被置御披露可被下候。以上。翁平樣 耽齋

傳兵衞從弟龜次郞手簡

飛脚ヲ以テ申上候。暑氣甚敷候得共、彌御勇健ニ可被成御渡ト奉賀候。然者先日者御目懸大慶奉存候。其節御咄被成候箱崎傳兵衞方へ馬之義申聞候處、實忠義ニ相當リ候馬之義ニ御座候得者、傳兵衞方ニテ飼ころしに仕度よしに御座候。尤前々ヨリ忰松五郞氣ニ入、一人ニ而飼立候馬ニ御座候ば、猶更右樣之義有之候義而ハ、相はなし兼候趣ニ御座候。右之段何分御斷り申上候。早々此御座候。以上。五月廿七日 瀨之上 後藤屋龜次郞/新田屋園吉樣 要用

長尾友藏は松前家の臣なり〔後改所左衞門〕。又櫻井耽齋も同家臣にて、當時在梁川なりし醫官なり。又龜次郞といふ者は高橋傳兵衞が從弟なり。櫻井耽齋かねて園吉が龜次郞と識れる人なるをもて、則園吉をもて彼の馬の事をはからはせしに、傳兵衞かたく辭して售らざりし事、簡牘に見えたるが如し。抑この奇談は浮きたることにあらず、忠孝の端にもかゝつらへるよしあれば、いさゝかも違ふことなく、ありつるまゝに識しおくべしと、家嚴のいはれしによりて、この事に及べるのみ。

文政八年五月朔 琴嶺興繼

注

写本の位置
写本は3169の52カット目左ページから59カット目右ページの6行目まで。52カット目右ページは白紙で、左ページの冒頭に「兎園小説第五」の見出しがある。56カット目は見開き一杯の絵図で、右ページに愛名山と松五郎の墓、左ページに福厳寺と保原への道と箱崎村の伝兵衛宅を描く。手紙は57カット目右ページから58カット目左ページまで。
注記
題は写本の本文で「松五郞遺愛馬の考異」、目録では「松五郞遺愛馬考異」。原文欄は本文の表記に従った。
校合
活字本系テキストの「代々當地に住居して」は写本では「當村」。「年四十七」は写本では「年才四十七」。「墓所に赳き」は写本では「赴き」。
校合
桜井耽斎の手紙で活字本系テキストは「承合候得は、龜次郞心易受合候間、伯父傳兵衞へ申含承合候得者、龜次郞心易受合候而伯父傳兵衞へ申込候處」と一句を重ねるが、写本は一度だけ書く。末尾の長尾友蔵と桜井耽斎の説明も活字本系テキストは二度繰り返すが、写本は一度だけ。
注記
「伯父傳兵衞といへば」以下の興継の注は、写本では57カット目左ページの上欄に朱で書いた頭注で、本文に「興繼云」の語はない。原文欄では該当箇所に〔 〕で置いた。同じページと58カット目左ページの「從弟」の脇にも朱で「甥カ」と書き入れがある。
判読保留
図中の文字は右上から順に写した。右ページの家の脇の二字は原寸で切り出したが判読できず、判読保留。左ページの「傳兵衞宅」は白で修正した上に書かれている。
注記
「五馬之一」は第三集の「五馬三馬二馬の奇談」の第一話を指す。松前老侯は松前道広、瀬之上は伊達郡の宿駅、桑折は代官所の所在地と解した。いずれも雲亭の推定で未確認。
校合
私家版はこの話の後に百川の評を載せるが、写本にはない。

AI試訳 / 専門家未校閲