雲亭日本古典図書室収録作品の一覧

身代り観音補遺

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兎園小説 / 曲亭馬琴ほか 兎園会の会員 / 第六集 第6話 / 好問堂 山崎美成

四月の会で輪池堂が語った身代わり観音の話を、山崎美成が浅草寺志の額の記事で補う。

本文 現代語訳

身代り観音補遺
身代わり観音の補遺
四月の兎園会に、輪池翁の録し給へる「身代観音」の一条あり。その年月および人名など詳らかならざるをもて、「名どころは糺すべし」と注し給へり。しかるに『浅草寺志』の中においてその記事一篇を得たり。年月、旅宿などはしるし給へど、その事少しく異同あり。参考に補ふべしといふ。
四月の兎園会で輪池翁が記録された「身代わり観音」の一条がある。その年月や人名などがはっきりしないので、「名前や場所は調べるべきだ」と注をつけておられた。ところが『浅草寺志』の中にその記事一篇を見つけた。年月や宿などは記してあるが、話には少し違いがある。参考として補っておくべきだと思う。
浅草寺志本文 乙酉六月朔 美成記
浅草寺志の本文 乙酉六月一日 美成記す
明石屋甚蔵刀難図の額 額に「文化四年丁卯四月、大坂新町住人明石屋甚蔵、法橋周南画」。本堂右の方にあり。
明石屋甚蔵の刀難図の額 額には「文化四年丁卯四月、大坂新町住人明石屋甚蔵、法橋周南画」とある。本堂の右側にある。
文化三年、大坂新町の遊女屋明石屋某といふもの、いまだ江戸を一見せざれば、同所のもの二人と打ちつれ関東に下りけるに、いづれも家貧しからねば、旅用の財をもそこばく持ち出でんと欲すれども、長途の事なれば盗難を恐れ、順礼の姿にやつし、わざと物など持たぬ体になしけるに、伊勢の桑名のあたりより、あやしきものども、その貯へあることを知りつらん、跡になり先になり、隙をうかがふ体にて、つひに武州かな川の駅まで来たり。明石がとまりたる宿の向かひに、かのもの共とまる。明石屋は宿のあるじに向かひて、「われら旅中よりあやしきものにつけ回され、千辛万苦せし」とかたる時に、向かふのあるじあわただしく走り来たり、「このうちに順礼のかたちをなしたるもの、とまりつらん。かれらは大坂より子細ありて出奔せしものなり。わが内にやどせる人、これをとらへんがため、はるばるこれまで下りたり。あすは定めて暁に立つべし。その時に待ち伏せしてからめとらんと思ふなり。その用意あれ」と告ぐ。あるじはすでに明石らが物語にて、その盗賊たることを知れるにより、向かひのあるじにも詳しくこれをかたり、「いづれ穏便に計らふこそよけれ」とて、明石屋にもはかり、「幸ひ三人の知音なれば、深川霊巌寺中何某院へ船にて送りつくべし」と相談し、向かひのあるじはかの賊をあざむき、「道にて捕へ給へ」とて、暁に先立ち神奈川を発たせたり。ゆゑにあかし屋はじめ二人のもの、難なく深川に至り着きぬ。
文化三年、大坂新町の遊女屋明石屋某という者が、まだ江戸を見たことがないので、同じ町の者二人と連れ立って関東へ下った。どちらも家が貧しくないので旅の費用をたっぷり持って出ようとしたが、長い道中なので盗難を恐れ、巡礼の姿に身をやつし、わざと何も持っていないふうを装った。ところが伊勢の桑名のあたりから、怪しい者たちが蓄えのあることを知ったのだろう、後になり先になり、隙をうかがう様子で、とうとう武州神奈川の宿までついてきた。明石屋が泊まった宿の向かいに、その者たちも泊まった。明石屋が宿の主人に向かって「私たちは道中ずっと怪しい者につけ回され、さんざん苦労した」と語っているとき、向かいの主人があわてて走ってきて言った。「こちらに巡礼姿の者が泊まっているでしょう。あの者たちは大坂から訳あって逃げ出した者です。うちに泊まっている人が、これを捕らえるためにはるばるここまで下ってきたのです。明日はきっと夜明けに発つでしょう。その時に待ち伏せして縛り上げようというのです。用意をしておいてください」。主人はすでに明石屋たちの話でそちらが盗賊だと知っていたので、向かいの主人にも詳しく事情を語り、「いずれにせよ穏便に取り計らうのがよい」と、明石屋にも相談し、「幸い三人の知り合いがいるから、深川霊巌寺内の某院へ船で送り届けよう」と決め、向かいの主人は例の賊をだまして「道中でお捕らえなさい」と言って、夜明け前に神奈川を発たせた。そのため明石屋はじめ二人の者は、無事に深川へたどり着いた。
居ること数月にして、江戸をもほぼ一見をはりぬれば、すでに深川をうち立たんとするに、明石屋某、常に観音を信じ、たびたび浅草寺に詣でけるに、御いとま乞ひの心にや、「今一度参らん」と二人の男をもすすむるに、彼らは旅の用意にいとまなく、明石屋のみ詣でけるに、「いまだ吉原を見ざれば一見せん」と立ち寄り、日本堤を東へ帰らんとするに、にはかに大雨降り来て、衣服もしぼるほど濡るるにより、とある人の傘にしばし雨を凌ぎけるに、かのもの云ふやう、「汝も見知りあらん。我こそ桑名より跡先になりて来つるものなり。神奈川にてあざむかれたることの口惜しさ、今こそ思ひ知らせんず」といふに、明石は「めぐりめぐりてまたかの賊にあふことも過去の宿業」と覚悟して、まさに浅草観音を念じゐけるに、かの賊、腰のものを抜きて一打ちに切りつける。切られてどうと倒るるまでは物覚えしが、その後を知らずなりにけり。
数か月滞在して江戸もひととおり見終わったので、いよいよ深川を発とうというとき、明石屋某は日ごろから観音を信じてたびたび浅草寺に参詣していたので、お暇乞いのつもりか、「もう一度参ろう」と二人の男にも勧めたが、二人は旅支度で暇がなく、明石屋だけが参詣した。「まだ吉原を見ていないから見ておこう」と立ち寄り、日本堤を東へ帰ろうとすると、急に大雨が降ってきて、着物も絞るほど濡れたので、通りがかりの人の傘でしばらく雨をしのいでいると、その男が言った。「おまえも見覚えがあるだろう。俺こそ桑名から後になり先になりついてきた者だ。神奈川でだまされた悔しさを、今こそ思い知らせてやる」。明石屋は「めぐりめぐってまたあの賊に出会ったのも前世の因縁だ」と覚悟して、ひたすら浅草観音を念じていると、賊は腰の刀を抜いて一太刀に切りつけた。切られてどうと倒れるまでは覚えていたが、そのあとは分からなくなった。
深川に残れる二人の男は、明石屋が帰るを待てど、夜半を過ぐるまで沙汰なし。二人のもの、「かねて明石屋がやぶさかなるうへに、遊興などには心なき男なれば、吉原へ至るとも今まで帰らぬことやはある。いかさま変事の出で来るならん。いで、尋ねばや」といふ所に、明石屋帰り来たれり。「いかに」と問ふに、物をもいはで倒れ伏したり。人々打ち寄り、「何ゆゑなるか」と立ち騒ぐほどに、夜明けてあかし屋起き上がり、茫然たる体にて、「ここはいづくぞ。我こそ日本堤にて賊に切られつるものを」と、膚を見るに疵だになし。ただ懐にしたる金のみ奪はれたり。「まことに大慈大悲の、わが身に代はりて刃を受け給ひしふしぎさよ」と、信心いやまし、三人ともに事故なく帰国し、かの刀難にあひし時のありさまに覚えたるままを画にしたため、宝前へ供へたりとなん。
深川に残った二人の男は明石屋の帰りを待ったが、夜中を過ぎても音沙汰がない。二人は「もともと明石屋はけちなうえに遊びには興味のない男だから、吉原へ行ったとしても今まで帰らないはずがない。きっと何か変事が起きたのだろう。さあ探しに行こう」と言っているところへ、明石屋が帰ってきた。「どうした」と尋ねても、何も言わずに倒れ伏した。人々が寄ってきて「どうしたのだ」と騒いでいるうちに夜が明け、明石屋は起き上がり、ぼんやりした様子で「ここはどこだ。俺は日本堤で賊に切られたはずなのに」と肌を見ると、傷ひとつない。ただ懐に入れていた金だけが奪われていた。「まことに大慈大悲の観音様が私の身代わりになって刃を受けてくださったとは、なんと不思議なことか」と信心はいよいよ深まり、三人とも無事に帰国して、あの刀難に遭ったときの有様を覚えているままに絵に描き、御宝前に納めたということである。
原文 / 昭和女子大学本の字句を採り、正字体を保持、振り仮名を外す

身代り觀音補遺

四月の兎園會に、輪池翁の錄し給へる身代觀音の一條あり。その年月及人名等詳ならざるをもて、名どころは糺すべしと注し給へり。然るに淺草寺志の中に於て、その記事一篇を得たり。年月旅宿等はしるし給へど、その事少しく異同あり。參考に補ふべしといふ。

淺草寺志本文 乙酉六月朔 美成記

明石屋甚藏刀難圖之額 額ニ文化四年丁卯四月大坂新町住人明石屋甚藏法橋周南画 本堂右の方にあり

文化三年、大坂新町の遊女屋明石屋某といふもの、いまだ江戸を一見せざれば、同所のもの二人と打つれ關東に下りけるに、いづれも家まづしからねば、旅用の財をもそこばく持出んと欲すれども、長途の事なれば盜難を恐れ、順禮の姿にやつし、わざと物などもたぬ體になしけるに、伊勢の桑名のあたりより、あやしきものども、その貯あることを知りつらん、跡になり先になり、隙をうかゞふ體にて、つひに武州かな川の驛まで來たり。明石がとまりたる宿の向に、彼もの共とまる。明石屋は宿のあるじに向ひて、われら旅中よりあやしきものにつけ𢌞され、千辛萬苦せしとかたる時に、むかふのあるじ周章しく走り來り、此うちに順禮のかたちをなしたるものとまりつらん。かれらは大坂より子細有りて出奔せしものなり。我が内にやどせる人、これをとらへんが爲、はるばるこれまで下りたり。あすは定めて曉に立つべし。其時に待ぶせしてからめとらんと思ふなり。その用意あれと告ぐ。あるじはすでに明石らが物がたりにて、その盜賊たることをしれるにより、向のあるじにも委しく是をかたり、何れ穩便に計ふこそよけれとて、明石屋にもはかり、幸三人の知音なれば、深川靈巖寺中何某院へ船にて送りつくべしと相談し、向のあるじはかの賊をあざむき、道にて捕へ給へとて、曉に先だち神奈川をたゝせたり。故にあかし屋はじめ二人のもの、難なく深川にいたりつきぬ。

居ること數月にして、江戸をも略一見をはりぬれば、すでに深川をうち立んとするに、明石屋某常に觀音を信じ、たびたび淺草寺に詣でけるに、御いとま乞の心にや、今一度參らんと二人の男をもすゝむるに、彼等は旅の用意にいとまなく、明石屋のみ詣でけるに、いまだ吉原を見ざれば一見せんと立より、日本堤を東へかへらんとするに、俄に大雨ふり來て、衣服もしぼる程濡るゝにより、とある人の傘にしばし雨を凌ぎけるに、かのもの云やう、汝も見しりあらん、我こそ桑名より跡先になりて來つるものなり。神奈川にてあざむかれたることの口惜しさ、今こそ思ひ知らせんずといふに、明石はめぐりめぐりて又かの賊にあふことも過去の宿業と覺悟して、正に淺草觀音を念じゐけるに、かの賊腰のものを抜て一打に切つける。きられてどうと倒るゝ迄は物覺えしが、その後を知らずなりにけり。

深川に殘れる二人の男は、明石屋がかへるをまてど、夜半を過るまでさたなし。二人のもの、かねて明石屋がやぶさかなるうへに、遊興などには心なきをとこなれば、吉原へいたるとも今迄かへらぬことやはある、いかさま變事のいで來るならん、いで尋ねばやといふ所に、明石屋かへり來れり。いかにと問ふに、物をもいはで倒れふしたり。人々打より、なにゆゑなるかと立騷ぐ程に、夜明てあかし屋起あがり、茫然たる體にて、こゝはいづくぞ、我こそ日本堤にて賊にきられつるものをと、膚を見るに疵だになし。たゞ懷にしたる金のみうばゝれたり。まことに大慈大悲の我身に代りて刃をうけ給ひしふしぎさよと、信心いやまし、三人ともに事故なく歸國し、彼刀難にあひし時のありさまに覺えたるまゝを画にしたゝめ、寶前へそなへたりとなん。

注

写本の位置
写本は3169の82カット目右ページの後半から85カット目右ページまで。手紙の宛名の後、83カット目右ページに題があり、85カット目右ページで話が終わって次話「狐孫右衞門が事」が左ページから始まる。
注記
この話は第四集の輪池堂の「身代り観音」を補うもの。冒頭の添え書きに「四月の兎園會」とあるのは文政八年四月の会を指す。
校合
「淺草寺志本文」の下に写本は「乙酉六月朔 美成記」と日付を書く。活字本系テキストは「美成 記」だけで日付がない。
校合
「同所のもの二人と打つれ」は写本の読み。活字本系テキストは「二人を打ちつれ」。「明石屋にもはかり」は写本の読みで、活字本系テキストが「にとはかり」として本ノマヽと注する箇所。83カット目の綴じ目に隠れた一行は原寸で切り出して確かめた。
校合
「變事のいで來るならん」は写本の読み。活字本系テキストは「いで來たるならん」。
注記
「周章しく」の振り仮名は写本でアハタヽ。「法橋周南」は大坂の画家。霊巌寺は深川の浄土宗の寺。日本堤は浅草から吉原へ通じる土手。
注記
浅草寺志は江戸後期に浅草寺でまとめられた寺誌で、額の記事はその写しと解した。原寸で確かめたのは綴じ目の一行だけで、他はページ全体の画像での読み。

AI試訳 / 専門家未校閲