雲亭日本古典図書室収録作品の一覧

松前の貞女

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兎園小説 / 曲亭馬琴ほか 兎園会の会員 / 第六集 第12話 / 輪池堂 屋代弘賢

夫と別れて再婚を拒み、京で三年奉公して箱館へ帰る女が船中で語り、漢詩と蝦夷ことばの歌を残した。

本文 現代語訳

伏朝兎園 輪池
伏月の兎園会 輪池
松前貞女
松前の貞女
寛政の末のころ、若狭国の人、「松前にゆかん」とて、敦賀より船に乗りたり。その船の内にさだ過ぎたる女一人あり。「いづくよりいづくへゆくにか」と問ひたれば、「京より箱館のしらとりに帰るなり」と答ふ。「いかなるゆかりにて京にありしか」と問へば、「ことなるゆかりもあらず。みづからはふるさとにありし時、人につれそひしかど、ゆゑありて別れ、やもめとなりぬ。親は『ふたたび人にみえよ』といはれしかど、かたく否みてのがれたり。都の見まくほりせしかば、人の『まうのぼる』とて船にて能登国に着きぬ。さて京に入りて、商人の家よりつぶねとなりて一年侍りしかど、思ふほどは都の手ぶりも知られざりしかば、高倉さまに参りて二年つとめ、さて故郷に帰り侍るなり」といふ。「それがつくりし唐歌」とて、その人写し伝へたり。
寛政の末ごろ、若狭国の人が松前へ行こうとして、敦賀から船に乗った。その船の中に、盛りを過ぎた女がひとりいた。「どこからどこへ行くのか」と尋ねると、「京から箱館のしらとりへ帰るのです」と答える。「どういう縁で京にいたのか」と問うと、「特別な縁はありません。私は故郷にいたとき夫を持ちましたが、訳あって別れ、独り身になりました。親は『もう一度嫁に行け』と言いましたが、かたく断って逃れました。都を見たいと思っていたので、人が『上京する』というのに乗って、船で能登国に着きました。それから京に入り、商人の家で召使いとして一年勤めましたが、思ったほど都の風習も分からなかったので、高倉様のお屋敷に上がって二年勤め、こうして故郷へ帰るところです」と言う。「その女が作った漢詩だ」と、その人が写して伝えた。
春尽早回一葉船 薫風払浪向胡天 誰憐去程三千里 旅恨悠々碧海煙
春が尽きて早くも小舟は帰路につく。薫風が波を払い、北の空へ向かう。誰が憐れんでくれよう、三千里の旅路を。旅の恨みは果てしなく、青い海に煙る。
またその国のことばにてよめる歌
またその国のことばで詠んだ歌
春くればちようかい心ひるかして霞のうちにちつふみえけり
春が来れば、わたしの心は嬉しくて、霞の中に小舟が見える。
「ちようかい」は己、「ひるかして」は悦の意、「ちつふ」は小舟をいふ。
「ちようかい」は自分、「ひるかして」は喜ぶ意、「ちつふ」は小舟のこと。
あぶらさけやくさけまでもいしやませはひるかてつひもなににかはせん
うまい酒も濁り酒もなければ、嬉しくても肴を何にしよう。
「あぶらさけ」は美酒、「やくさけ」は蝦夷の濁り酒、「いしやませ」は無といふこと、「ひるか」は嬉しきといふこと、「てつひ」は肴といふこと、といふ。
「あぶらさけ」はうまい酒、「やくさけ」は蝦夷の濁り酒、「いしやませ」は無いということ、「ひるか」は嬉しいということ、「てつひ」は肴ということ、だという。
原文 / 昭和女子大学本の字句を採り、正字体を保持、振り仮名を外す

伏朝兎園 輪池

松前貞女

寛政の末の比、若狹國の人松前にゆかんとて、敦賀より船に乘りたり。そのふねの内にさた過たる女一人あり。いづくよりいづくへゆくにかと問たれば、京より箱舘のしらとりに歸るなりとこたふ。いかなるゆかりにて京に在しかとゝへば、ことなるゆかりもあらず。みづからはふるさとに在し時、人につれそひしかど、ゆゑありてわかれ、やもめとなりぬ。おやはふたゝび人にみえよといはれしかど、かたくいなみてのがれたり。みやこの見まくほりせしかば、ひとのまうのぼるとて船にて能登國につきぬ。さて京にいりて、あき人の家よりつふねとなりて一とせ侍りしかど、おもふほどは都の手ぶりもしられざりしかば、高倉さまに參りて二とせつとめ、さて故鄕にかへり侍るなりといふ。それがつくりしからうたとて、その人うつし傳へたり。

春盡早囘一葉船 薰風拂浪向胡天 誰憐去程三千里 旅恨悠々碧海煙

又その國のことばにてよめるうた

春くればちようかい心ひるかして霞のうちにちつふみえけり

ちようかいは己 ひるかしては悅意 ちつふは小舟をいふ

あぶらさけやくさけまでもいしやませはひるかてつひもなにゝかはせん

あぶらさけは美酒 やくさけはえぞのにごりさけ いしやませは無といふこと ひるかは嬉しきといふこと てつひは肴といふことゝいふ

注

写本の位置
写本は3169の95カット目左ページから97カット目右ページの前半まで。95カット目左ページの一行目は「□朝兎園」と書き、同じ行の下に「輪池」と署名する。二行目に題「松前貞女」。
判読保留
一行目の一字目は判読保留。人偏に犬のような字形で伏と読み、六月の異名の伏月にちなむ見出しと解したが確定できない。活字本系テキストはこの見出しを載せない。原寸で切り出したが決めがたい。
判読保留
「霞のうちに」の霞は原寸で確かめておらず、写本が仮名書きの可能性がある。活字本系テキストに従い判読保留とする。
校合
「問たれば」「在しか」「在し時」は写本の送り仮名のとおりで、活字本系テキストは「問ひたれば」「在りしか」「在りし時」と補う。
注記
漢詩は写本で二行に分けて書く。「胡天」は北方の空。「つふね」は召使い。「高倉さま」は有職故実の家の高倉家と解した。「箱舘のしらとり」は今の函館市白鳥町のあたりと推定されるが未確認。
注記
蝦夷ことばの二首とその語釈は写本のまま。歌の現代語訳は語釈にもとづく雲亭の試訳。
注記
一行目を除き、ページ全体の画像での読み。

AI試訳 / 専門家未校閲