養和帝遺事 附雨蛤竹筒
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兎園小説 / 曲亭馬琴ほか 兎園会の会員 / 第七集 第8話 / 好問堂 山崎美成
壇ノ浦で沈んだ安徳天皇が肥前の寺の開山として生き延びたという寺伝と、京都から届いた唐辛子入れの竹筒の話。
本文 現代語訳
文治元年、源義経、平家の一族を壇浦に鏖にせし時、安徳天皇は二位殿の懐き奉り、神璽宝剣を身にしたがへ、海底に沈みましましけるよし、史にも記し、人口にも言ひ伝ふれど、あるいは阿波に逃れましましけるとも、または日向にかくれ住み給ふなど、異説まちまちにて、いづれを是とも定めがたし。
文治元年、源義経が平家一門を壇ノ浦で皆殺しにしたとき、安徳天皇は二位殿に抱かれ、神璽と宝剣を身に帯びて海底に沈まれたと、史書にも記され世間にも言い伝えられているが、一方では阿波に逃れられたとも、日向に隠れ住まれたとも、異説がまちまちで、どれが正しいとも決めがたい。
しかるに肥前国に川上といふ所あり。そこに水上山公主万寿寺といふ寺院あり。開山を神子和尚といふ。これすなはち安徳天皇にてわたらせ給ふとなり。寺伝にいふ、「昔、安徳天皇、西海にて戦ひ敗れしとき、事を入水に托し、二位尼および郎等五六輩ともにこの川上に逃れ来たり、かくれ住み給へるか」〔閑田耕筆に、「緒方三郎は無二の平家の方人なりしに、にはかに心がはりせしといふは、実は平家の勢ひとても支ふべきにあらぬを知りて、帝をはじめ奉り、一門のしかるべき人々をこの五か山に隠せるがための謀なり。その後つひに戦負けて入水せるは、みなそのさまを真似たる人なり」といへり。この説によるときは、帝をはじめ奉り、この五か山に来たり、後に寺を川上に建てたるならんと〕。帝、御年二十になり給ふ時〔建久八年〕出家し給ひ、入宋ましまして学問なるの後、帰り給ひ、この所に一寺を建てて万寿寺といふ。寺内に宝剣堂といふもあり。ここに宝剣を安置す。箱の長さ一尺五六寸ばかりもありとぞ。古来より開くことなしといへり〔これは三種の神器の一つにや。さらずば帝の帯び給ふものなるべし〕。寺の辺に二位尼村といふ所もあり。
ところが肥前国に川上という所があり、そこに水上山公主万寿寺という寺がある。開山を神子和尚という。これがつまり安徳天皇でいらっしゃるのだという。寺伝によれば、「昔、安徳天皇が西海で戦いに敗れたとき、入水したことにして、二位尼と家来五、六人とともにこの川上に逃れてきて、隠れ住まれたのであろうか」〔閑田耕筆には「緒方三郎は平家に無二の味方だったのに急に心変わりしたというのは、実は平家の勢いではもう支えきれないと知って、帝をはじめ一門のしかるべき人々をこの五か山に隠すための計略だった。その後ついに戦いに負けて入水したのは、みなその姿を真似た人である」とある。この説によるなら、帝をはじめとしてこの五か山に来て、のちに寺を川上に建てたのだろうと〕。帝は御年二十のとき〔建久八年〕出家され、宋に渡って学問を修めたのち帰国し、この地に一寺を建てて万寿寺と呼んだ。寺内には宝剣堂というものもあり、ここに宝剣を安置している。箱の長さは一尺五、六寸ほどもあるという。古来一度も開いたことがないという〔これは三種の神器の一つだろうか。そうでなければ帝が帯びておられたものだろう〕。寺のそばには二位尼村という所もある。
かくて文政三年〔月日詳らかならず〕、神子和尚の六百年忌の法会を万寿寺にて〔一説に、帝、実は女帝にて、ここに隠れ給ひし時、山伏ありて帝に配して子を生み給ふ。神子和尚これなりといひ、また扶桑僧宝伝に「神子禅師、諱は栄尊、神子と号す。法嗣は聖一国師。鎮西の人、判官康頼平公の子なり」とあれど、いづれもいへる処いたく謬れり。その由、下にいふべし〕執行せしに、肥後国五家の庄より平家の末裔の人々おのおの系図を携へ〔この五家の人々の先祖は、帝につき随ひ奉りし人なり。その先祖の名、かねて聞けるをもて末に記す〕、かつ金子二十五両を奉納し、「主人の年忌なれば備へ奉る」とて、来たりて法会の中も敬ひ慎み、事果てて帰りしとぞ。
さて文政三年〔月日は不明〕、神子和尚の六百年忌の法会を万寿寺で〔一説に、帝は実は女帝で、ここに隠れられたとき山伏がいて帝と結ばれ、子をお生みになった。神子和尚がそれだといい、また扶桑僧宝伝には「神子禅師、諱は栄尊、神子と号す。法嗣は聖一国師。鎮西の人で、判官平康頼の子である」とあるが、どちらも言うところが大きく誤っている。その理由は下に述べる〕執り行ったところ、肥後国五家の庄から平家の末裔の人々がそれぞれ系図を携え〔この五家の人々の先祖は帝につき従った人である。先祖の名は前から聞いていたので末尾に記す〕、また金二十五両を奉納し、「主人の年忌だからお供えする」と言って来て、法会の間も敬い慎み、終わると帰っていったという。
この一条は浮きたる事にあらず。今茲三月二十日、一友人森某ぬし〔柳川侯の藩士〕を訪ひたるに、町野氏〔同藩の士〕来たりていへるは、「去年、かの川上あたりの温泉に浴したるころ、一夕、万寿寺に宿りて住僧と話ししに、『をととしの事にて候。かかる事ありし』とて、上件のことども語り出でたり」と、親しく予に語られけるを記したるなり。
この一件は根も葉もない話ではない。今年三月二十日、友人の森某氏〔柳川侯の藩士〕を訪ねたとき、町野氏〔同じ藩の武士〕が来て言うには、「去年、あの川上あたりの温泉に湯治したころ、ある晩万寿寺に泊まって住職と話していると、『おととしのことでございます。こういうことがありました』と、右のことどもを語り出した」と、私にじかに語ってくれたのを記したものである。
文政三年六百年忌なれば、承久二年の崩御なり。文治元年壇浦敗軍の時、帝、宝算八歳なれば、崩じ給ふ御年四十三歳にてましませしなり。かかれば帝の御子といふ事はもとよりひがことなり。〔評にいふ、帝もし御年十五六歳にて御子をまうけ給ひ、その子はやく出家せば、承久二年遷化の時二十七八歳なれば、さのみ年紀のたがひあるにしもあらず。かつ神子といふも巫女の俗称、公主といふも秦漢のとき帝姫の称なれば、一説に女帝なりしといふこと、公主万寿寺神子和尚の名号に拠なきにあらず。また神子和尚を康頼が子なりといふを、寺説によれば謬りに似たれども、畢竟寺説とても証文なき事なれば、いづれを虚、いづれを実と定めがたかるべし。たとへば藤沢寺なる小栗十士の墓、佐野の天明に常世を祭りて大平権現といふがごとき古跡多ければ、万寿寺の事もうけられぬ説なれども、異聞なり。かくめづらしきことを聞くも兎園の一得にて、交遊の忠告とやいはん。歓ぶべしとぞ〕
文政三年が六百年忌なら、承久二年の崩御である。文治元年の壇ノ浦の敗戦のとき帝は御年八歳だから、亡くなられたのは四十三歳のときということになる。だから帝の御子だという話はもとより間違いである。〔評に言う。もし帝が十五、六歳で御子をもうけ、その子が早くに出家したなら、承久二年に亡くなったとき二十七、八歳になるので、それほど年代の食い違いがあるわけでもない。また神子というのは巫女の俗称で、公主というのも秦や漢のころの皇女の称だから、一説に女帝だったというのも、公主万寿寺神子和尚という名に根拠がないわけではない。また神子和尚を康頼の子だというのは寺の説からすれば誤りのようだが、結局寺の説にも証文があるわけではないので、どれが嘘でどれが本当とも決めがたい。たとえば藤沢の寺にある小栗十勇士の墓や、佐野の天明で常世を祭って大平権現というような古跡は多いので、万寿寺のことも受け入れがたい説ではあるが、珍しい話ではある。こういう珍しいことを聞けるのも兎園会の一つの得で、交友の忠告とでも言おうか。喜ぶべきことだ〕
さて肥後国に当時五軒ありしをもて五家の庄と呼べり。その人々は帝に随ひ奉りて、かくれ住みし処にてしか呼べるなり。その五家の先祖の名代は、従四位下少将平知時〔知盛の男〕、左中将清経〔小松の男〕、上総介忠清〔関八州の侍大将〕、越中次郎盛次〔平家四士の家〕、菊池次郎高直〔外族侍〕、瀬尾十郎兼高〔兼安の男〕。今この庄の頭、知盛の男より二十九代の孫、権少輔平時資といふとぞ。
さて肥後国に当時五軒あったので五家の庄と呼んだ。その人々は帝に従って隠れ住んだ場所なので、そう呼ぶのである。その五家の先祖の名は、従四位下少将平知時〔知盛の子〕、左中将清経〔小松の子〕、上総介忠清〔関八州の侍大将〕、越中次郎盛次〔平家四士の家〕、菊池次郎高直〔外族の侍〕、瀬尾十郎兼高〔兼安の子〕である。今この庄の頭は知盛の子から二十九代の孫、権少輔平時資というそうだ。
右一条はあがれる世の事にして、かつもとかくれましまししことなれば、その実否は今よりいかにとも定め難けれども、万寿寺の僧が口づからの物語とあれば、いささか拙案を参考して異聞に備ふ。
右の一件は遠い昔のことで、しかももともと隠れておられたことだから、その真偽は今からどうとも決めがたいが、万寿寺の僧が自分の口で語った話だというので、少しばかり私の考えを添えて珍しい話の一つに加えておく。
去月二十六日、京師なる戸田君の御もとより、祇園祭礼番付三葉を下し給はり、かつ鈴木氏の書状に、「西原氏、先日当所御通行の節、此方へも御尋ね下され、久々にて旦那も拝顔致され大慶に存じ奉り候。その節、貴君御噂山々御座候。しかし御城中ゆゑ、緩々拝顔も致されず残念に存じ奉り候。当地御出立の砌は雨天にて伏見乗船留まり居り、京地へ両三日御逗留のうち、四条雨蛤でんがく見世へも御立寄り成され候よし、右田楽見世に余程ふるき唐辛子入れ、か様の形に竹にて作り候もの、殊のほか望みの由にて、亭主にいろいろ掛け合ひ候へども、余程むつかしく申し、手に入れかね、残念の趣にて京地出立致され候。
先月二十六日、京都の戸田君のもとから祇園祭の番付三枚をいただき、さらに鈴木氏の書状に次のようにあった。「西原氏が先日こちらをお通りの節、当方にもお立ち寄りくださり、久しぶりに旦那もお目にかかって大変喜んでおります。そのおり、あなたのお噂もいろいろ出ました。しかしお城の中のことなので、ゆっくりお目にかかれず残念です。こちらをご出立のときは雨で伏見の船が出ず、京に二、三日ご滞在のうちに四条の雨蛤という田楽屋にもお立ち寄りになったそうで、その田楽屋にあるかなり古い唐辛子入れ、このような形に竹で作ったものを大変お望みになり、亭主にいろいろ掛け合いましたが、なかなか承知せず手に入らないまま、残念そうに京をお発ちになりました。
このよし美濃守承知致し、その後向々へ相頼み、このほどやうやく手に入れ申し候。西原氏格別望みゆゑ、追日大坂表柳川蔵屋敷まで差し出し置き、幸便の節、柳川表へ相届き候つもりに御座候。この段御慰みに申し上げ候。また云ふ、大坂表蒹葭堂このほど参り候間、耽奇の本見せ候ところ、殊のほか歓び、大坂表へ是非とも持参いたし候趣にて、一本残らず貸し遣はし候。耽奇会は殊のほか浦山敷様子にて御座候。この段申し上げ候」
このことを美濃守が承知し、その後あちこちに頼んで、このほどようやく手に入りました。西原氏が格別お望みだったので、近日中に大坂の柳川蔵屋敷まで送っておき、便のあるときに柳川へ届くようにしております。この件はお慰みまでに申し上げます。また、大坂の蒹葭堂がこのほど来ましたので耽奇会の本を見せたところ大変喜び、ぜひ大坂へ持って帰りたいというので、一冊残らず貸してやりました。耽奇会をたいそう羨ましがっている様子でした。この件も申し上げます」
と記されたるを見るにも、千里面談の心地ぞする。かかれば、この二条および番付ともに、ひとり見過ごさんも本意なさに、けふのまとゐの諸君と同じくせばやとて、そのよしいささか記し出でたるになん。
と記されているのを見ると、千里を隔てて面談しているような気持ちがする。そこでこの二件と番付とを一人で見過ごすのも本意でないので、今日の会の諸君と分かち合おうと、そのことを少しばかり書き出した次第である。
文政八年乙酉七月朔 北峯美成識
文政八年乙酉七月朔日 北峯美成識す
原文 / 昭和女子大学本の字句を採り、正字体を保持、振り仮名を外す
養和帝遺事
文治元年源義経平家の一族を壇浦に鏖にせし時、安徳天皇ハ二位殿の懐き奉り、神璽宝剣を身にしたがへ、海底に沈みましましけるよし、史にも記し、人口にも云伝ふれど、或ハ阿波に逃れましましけるとも、又ハ日向にかくれ住み給ふなど、異説まちまちにて、いづれを是とも定めがたし。
しかるに肥前国に川上といふ所あり。そこに水上山公主万寿寺といふ寺院あり。開山を神子和尚といふ。これ則安徳天皇にてわたらせ給ふとなり。寺伝に云、昔安徳天皇西海にて戦ひ敗れしとき、事を入水に托し、二位尼及郎等五六輩ともに此川上に逃れ来り、かくれ住み給へるか〔閑田耕筆に、緒方三郎ハ無二の平家の方人なりしに、俄に心がハリせしといふハ、実ハ平家の勢ひとてもさゝふべきにあらぬを知りて、帝をはじめ奉り、一門のしかるべき人々をこの五ヶ山に隠せるが為の謀なり。その後つひに戦まけて入水せるハ、みなそのさまを真似たる人なりといへり。この説によるときハ、帝をはじめ奉り、この五ヶ山に来り、後に寺を川上に建たるならんと〕。帝御年二十になり給ふ時〔建久八年〕出家し給ひ、入宋ましまして学問なるの後、帰り給ひ、此所に一寺を建て万寿寺といふ。寺内に宝剣堂といふもあり。こゝに宝剣を安置す。箱の長サ一尺五六寸計もありとぞ。古来より開くことなしといへり〔これハ三種の神器の一ツにや。さらずバ帝の帯び給ふものなるべし〕。寺の辺に二位尼村といふ所もあり。
かくて文政三年〔月日詳ならず〕神子和尚の六百年忌の法会を万寿寺にて〔一説に帝実ハ女帝にて、此に隠れ給ひし時、山伏ありて帝に配して子をうみ給ふ。神子和尚是なりといひ、又扶桑僧宝伝に、神子禅師諱栄尊号神子、法嗣聖一国師、鎮西人判官康頼平公子也とあれど、いづれもいへる処いたく謬れり。その由下にいふべし〕執行せしに、肥後国五家の庄より平家の末裔の人々おのおの系図を携へ〔この五家の人々の先祖ハ、帝につき随ひ奉りし人なり。その先祖の名かねて聞けるをもて末に記す〕、且金子廿五両を奉納し、主人の年忌なれバ備へ奉るとて、来りて法会の中も敬ひ慎み、事果てかへりしとぞ。
此一条ハ浮きたる事にあらず。今茲三月廿日、一友人森某ぬし〔柳川侯の藩士〕を訪ひたるに、町野氏〔同藩の士〕来りていへるハ、去年かの川上あたりの温泉に浴したるころ、一夕万寿寺に宿りて住僧と話しゝに、をとゝしの事にて候、かゝる事ありしとて、上件のことゞもかたり出たりと、親しく予にかたられけるを記したるなり。
文政三年六百年忌なれバ、承久二年の崩御なり。文治元年壇浦敗軍の時、帝宝算八歳なれバ、崩じ給ふ御年四十三歳にてましませしなり。かゝれバ帝の御子といふ事ハもとよりひがことなり。〔評に云、帝もし御年十五六歳にて御子をまうけ給ひ、その子はやく出家せバ、承久二年遷化の時廿七八歳なれバ、さのみ年紀のたがひあるにしもあらず。且神子といふも巫女の俗称、公主といふも秦漢のとき帝姫の称なれバ、一説に女帝なりしといふこと、公主万寿寺神子和尚の名号に拠なきにあらず。又神子和尚を康頼が子なりといふを、寺説によれバ謬に似たれども、畢竟寺説とても証文なき事なれバ、いづれを虚いづれを実と定めがたかるべし。譬へバ藤沢寺なる小栗十士の墓、佐野の天明に常世を祭りて大平権現といふがごとき古跡多けれバ、万寿寺の事もうけられぬ説なれ共、異聞なり。かくめづらしきことを聞くも兎園の一得にて、交遊の忠告とやいはん。歓ぶべしとぞ〕
さて肥後国に當時五軒ありしをもて五家の庄と呼べり。その人々ハ帝に随ひ奉りて、かくれすみし処にてしか呼べるなり。その五家の先祖の名代ハ、従四位下少将平知時〔知盛の男〕、左中将清経〔小松の男〕、上総介忠清〔関八州の侍大将〕、越中次郎盛次〔平家四士之家〕、菊池次郎高直〔外族侍〕、瀬尾十郎兼高〔兼安の男〕。今この庄の頭、知盛の男より廿九代の孫、権少輔平時資といふとぞ。
右一条ハあがれる世の事にして、且もとかくれましましゝことなれバ、その実否ハ今よりいかにとも定め難けれども、万寿寺の僧が口づからの物語とあれバ、聊拙案を参考して異聞に備ふ。
去月廿六日京師なる戸田君の御もとより、祇園祭礼番付三葉を下し給ハり、且鈴木氏の書状に、西原氏先日當所御通行之節、此方へも御尋被下、久々にて旦那も拝顔被致大慶奉存候。其節貴君御噂山々御座候。しかし御城中故、緩々拝顔も不被致残念奉存候。當地御出立の砌ハ雨天にて伏見乗船留り居、京地へ両三日御逗留之内、四条雨蛤てんがく見世へも御立寄被成候よし、右田楽見世に余程ふるきたうがらし入、ケ様の形に竹にて作り候もの、殊の外望の由にて、亭主にいろいろ掛合候へども、余程むつかしく申、手に入兼、残念の趣にて京地出立被致候。
〔図二 雨蛤〕
此よし美濃守致承知、其後向々へ相頼、此程漸手に入申候。西原氏格別望故、追日大坂表柳川蔵屋敷迄差出し置、幸便之節柳川表へ相届候積りに御座候。此段御慰に申上候。又云、大坂表蒹葭堂此程参り候間、耽奇の本為見候処、殊の外歓、大坂表へ是非とも持参いたし候趣にて、壱本不残貸遣し候。耽奇会ハ殊の外浦山敷様子にて御座候。此段申上候。
と記されたるを見るにも、千里面談の心地ぞする。かゝれバこの二条及番付ともに、ひとり見過さんも本意なさに、けふのまとゐの諸君と同じくせバやとて、そのよしいさゝか記し出たるになん。
文政八年乙酉七月朔 北峯美成識
注
- 写本の位置
- 写本は3170の16カット目左ページから19カット目右ページまで。18カット目左ページに雨蛤の竹筒の図があり、19カット目右ページの末尾に「文政八年乙酉七月朔 北峯美成識」とある。19カット目左ページから次の話「自然齋和歌」が始まる。
- 注記
- 写本の本文の題は「養和帝遺事」だけで、「雨蛤竹筒」の見出しは本文にない。目録には「養和帝遺事 附雨蛤竹筒」とあり、題は目録に従った。
- 注記
- 「事を入水に托し」の「事を」は写本では赤字で行間に補われている。本文に取り込んだ。
- 校合
- 閑田耕筆の引用、女帝の一説、末尾の評は写本ではいずれも小字二行の割注として書かれている。原文では〔 〕に入れて写本の位置に置いた。活字本系テキストはこれらを本文として扱う。
- 校合
- 五家の一人は写本で「菊池次郎高直」、活字本系テキストは「菊地次郞高直」とする。
- 注記
- 図は竹筒に紐をつけた唐辛子入れの絵で、筒の上部に「雨蛤」の二字が書かれている。原文の〔図二〕にはその書き込みだけを収めた。
- 注記
- 「養和帝」は安徳天皇の在位中の元号養和による呼び方。万寿寺は今の佐賀市大和町川上にある臨済宗の寺で、開山栄尊は神子禅師と呼ばれる。五家の庄は今の熊本県八代市の五家荘。
- 注記
- 書状の中の「旦那」「美濃守」は戸田氏を指し、鈴木氏は戸田家の家臣と解した。西原氏は兎園会の松蘿館西原好和で、柳川藩士。蒹葭堂は大坂の木村蒹葭堂の後継の家。耽奇会は同じ年に馬琴らが始めた珍物の持ち寄り会で、その記録が耽奇漫録。
- 注記
- 書状の候文のくずしは細かく、原寸で確かめていない字が多い。
AI試訳 / 専門家未校閲