自然斎の歌
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兎園小説 / 曲亭馬琴ほか 兎園会の会員 / 第七集 第9話 / 輪池堂 屋代弘賢
数百日決まらなかった歌の初五文字が、北野参籠の帰り道に社人の言葉で決まる。
本文 現代語訳
伊勢の国、安濃の津に住める川喜田氏、大和歌に心をよせ、家業を舎弟と子と従者とにまかせ、壮年にて薙髪し、自然斎と号し、京に出でて洛外千世の古道にかくれ住みけるが、ある時、
伊勢の国、安濃の津に住む川喜田氏は和歌に心を寄せ、家業を弟と子と使用人に任せて壮年で髪を剃り、自然斎と号して京に出て、洛外の千世の古道に隠れ住んでいた。あるとき、
心の花をしをりにて夢にわけ入るみよしのの山
心の花をしをりにて夢にわけ入るみよしのの山
といふことの、ふと心にうかびつつ、初五文字を数百日按じけれども、つひにうちつかざりければ、武者小路家〔実陰卿〕に参りて、「かかることこそ侍れば、しろおほき事に侍れども、この五文字つけさせ給はんことを乞ひ奉る」と申しければ、受けひかせ給ひぬ。日頃へてうかがひければ、「さまざま置きかへぬれど心にかなはず。よりて法皇に〔霊元院〕うかがひ奉りぬれば、数日考へさせ給ひぬれど、おぼしめしにかなはせられず。『かやうのことは北野が得手なり』と仰せ有りしなり。はやく祈り申すべし」と仰せ含めらるるにより、いとかしこきこととて、その席よりすぐに参籠して、七日こもりて丹誠をこらし、祈るといへども、満ずる朝まで何の託宣もなし。「こはいかにせん」と嘆きながら還向して、七本松の辺まで帰りける折から、七十ばかりの齢と見ゆる社人三人、朝きよめして有りながら、「この頃のことは思ひ寝になりし」と物語りしゆゑ、「思ひ寝の」と初五文字を置きて吟じ見しければ、よく相叶ひたり。よりて「まさしく天満宮の御告げなり」と思ひとりつつ、いそぎ神前に参り、ぬかづいて帰り申し、ただちに武者小路家に参り、事のよし申ししかば、御感有りて、やがて院参せさせ給ひつつ御手奏せさせ給ひければ、叡感のあまり御製を下し給はりぬ。
という句がふと心に浮かんだが、初めの五文字を数百日考えてもどうしても決まらないので、武者小路家〔実陰卿〕に参上して、「こういう次第ですので、身の程を知らぬお願いですが、この五文字をお付けくださいますようお願いします」と申し上げたところ、お引き受けくださった。日を経て伺うと、「いろいろ置き換えてみたが心に叶わない。そこで法皇〔霊元院〕にお伺いしたところ、数日お考えくださったが、お気に召すものがなく、『こういうことは北野の得意とするところだ』と仰せになった。早く祈願しなさい」とお言葉があったので、まことに畏れ多いことと、その席からすぐに北野に参籠し、七日こもって真心をこらして祈ったけれども、満願の朝まで何のお告げもなかった。「これはどうしたものか」と嘆きながら帰り、七本松のあたりまで来たとき、七十歳ほどに見える社人が三人、朝の清めをしながら「このごろのことは思い寝になった」と話しているのを聞き、「思ひ寝の」と初五文字を置いて吟じてみると、ぴたりと合った。そこで「まさしく天満宮のお告げだ」と思い、急いで神前に参ってぬかずいてお礼を申し、すぐに武者小路家に参上してことの次第を申し上げると、感心なさって、やがて院に参上して法皇に奏上されたところ、法皇はいたく感じ入られて御製を下された。
賤のをの心をよするいせの海のもくずの中に玉の有りとは
賤のをの心をよするいせの海のもくずの中に玉の有りとは
この御製、伝聞、写しの誤りも有りや、疑はし。
この御製は、伝聞や書き写しの誤りもあるかもしれず、疑わしい。
自然斎其無法師は、勢州阿濃郡津城下の人。俗姓は菅原。世々豪族。□壮年にして塵紛を厭ひ、家累を脱し、跡を京洛に晦ます。志、和歌を好む。後、地を西山法輪寺の疆内に卜してこれに居る。宝暦五年乙亥初冬、持斎して起たず、つひに十一月二十七日に及びて泰然として逝く。享齢七十一。孝子潭空、存を著して平心を忘れず、碑を旧廬の傍らに建つ。叙銘は霊亀山天龍資聖禅寺賜紫沙門堅翠巌撰。銘に曰く、
自然斎其無法師は伊勢国安濃郡の津の城下の人。俗姓は菅原で、代々の豪族である。□壮年で俗世の煩わしさを厭い、家の束縛を脱して京に隠れ住んだ。志は和歌を好んだ。のちに西山の法輪寺の境内に地を選んで住んだ。宝暦五年乙亥の初冬、斎戒して床を離れず、ついに十一月二十七日に安らかに逝去した。享年七十一。孝行な子の潭空は生前の姿を書き記して平生の心を忘れず、旧居のそばに碑を建てた。序と銘は霊亀山天龍資聖禅寺の賜紫沙門堅翠巌が撰した。銘に言う。
勢に生まれ京に長ず 性を賦すること温柔 菅原の裔 箕裘を似続す 厥の行ひ玷あらず 厥の言ひ尤寡し 塵界の艱を厭ひ 跡を緇流に遁る 情を和歌に寓せ 読書優游す 水や滔々 雲や悠々
伊勢に生まれ京に育ち 性質は温和で柔らか 菅原の子孫として 家業を継ぎ 行いに欠けるところなく 言葉に過ちは少なかった 俗世の苦しみを厭い 僧の列に身を隠し 心を和歌に寄せ 読書して悠々と遊んだ 水はとうとうと流れ 雲は悠々と浮かぶ
権中納言兼左衛門督藤原隆前書
権中納言兼左衛門督藤原隆前が書す
原文 / 昭和女子大学本の字句を採り、正字体を保持、振り仮名を外す
相月兎園
自然齋和歌 輪池
いせのくにあのゝ津にすめる川喜田氏、やまと歌に心をよせ、家業を舎弟と子と従者とにまかせ、壮年にて薙髪し、自然齋と号し、京に出て洛外千世の古道にかくれ住みけるが、ある時
心の花をしをりにて夢にわけ入るみよしのゝ山
といふことの、ふと心にうかびつゝ、初五文字を数百日按じけれども、終にうちつかざりければ、武者小路家〔実陰卿〕に参りて、かゝることこそ侍れば、しろおほき事に侍れども、この五文字つけさせ給はんことをこひ奉ると申しければ、受けひかせ給ひぬ。日頃へてうかゞひければ、さまざまおきかへぬれど心にかなはず。よりて法皇に〔霊元院〕うかゞひ奉りぬれば、数日考へさせ給ひぬれど、おぼしめしにかなはせられず。かやうのことハ北野が得手なりと仰せ有しなり。はやく祈り申べしと仰せ含めらるゝにより、いとかしこきことゝて、その席よりすぐに参籠して、七日こもりて丹誠をこらし、いのるといへども、満ずる朝まで何の託宣もなし。こはいかにせんとなげきながら還向して、七本松の辺まで帰りける折から、七十ばかりの齢とみゆる社人三人、朝きよめして有ながら、この頃のことハおもひねになりしと物がたりし故、思ひ寝のと初五文字をおきて吟じ見しければ、よく相叶ひたり。よりてまさしく天満宮の御告なりと思ひとりつゝ、いそぎ神前に参り、ぬかづきてかへり申し、たゞちに武者小路家に参り、事のよし申しゝかば、御感有りて、やがて院参せさせ給ひつゝ御手奏せさせ給ひければ、叡感のあまり御製を下し給ハりぬ。
賤のをの心をよするいせの海のもくずの中に玉の有りとは
この御製伝聞写の誤も有りや、うたがはし。
自然齋其無法師者、勢州阿濃郡津城下。俗姓菅原。世々豪族。□壮年厭塵紛、脱家累、晦跡京洛。志好和歌。後卜地西山法輪寺疆内居之。宝暦五年乙亥初冬、持齋不起、終及十一月廿七日泰然而逝。享齢七十一。孝子潭空著存不忘平心、建碑舊廬之傍。叙銘霊亀山天龍資聖禅寺賜紫沙門堅翠巌撰。銘曰、
生勢長京 賦性温柔 菅原之裔 似続箕裘 厥行不玷 厥言寡尤 厭塵界艱 遁跡緇流 寓情和歌 読書優游 水兮滔々 雲兮悠々
銘 権中納言菅為成卿
篆 従三位清原宣條卿
権中納言兼左衛門督藤原隆前書
注
- 写本の位置
- 写本は3170の19カット目左ページから22カット目右ページまで。19カット目左ページの冒頭に「相月兎園」とあり、七月の兎園会の意で、活字本系テキストにはない。22カット目右ページの碑銘で終わり、22カット目左ページから次の話「野狐魅人」が始まる。
- 注記
- 写本の本文の題は「自然齋和歌」で、脇に「輪池」とある。目録では「自然齋の歌」で、題は目録に従った。
- 注記
- 碑文の「□壮年」の四角は写本にもあり、一字分の空白を示す。写本のとおりに残した。
- 校合
- 篆額の筆者は写本で「清原宣條卿」、活字本系テキストは「淸原宜條卿」とする。写本を採った。
- 注記
- poem は歌「心の花をしをりにて」の段落を指す。法皇の御製「賤のをの」は別の段落にある。
- 注記
- 武者小路実陰は江戸中期の歌人で霊元院の歌道の側近。北野は北野天満宮、七本松は北野の南にある地名。川喜田氏は伊勢津の豪商の家。宝暦五年は一七五五年。
- 注記
- 碑銘の漢文の訓読と現代語訳は雲亭の試みで、専門家の校閲は受けていない。
AI試訳 / 専門家未校閲