霊救水厄金像観音 ひやうし考再考附
読書室で開く(原典画像・関連作品・自分の書架)
兎園小説 / 曲亭馬琴ほか 兎園会の会員 / 第七集 第13話 / 著作堂 曲亭馬琴
川に流された松前の武士が握っていた土から金の観音が現れる。馬琴はイタヤとシナと帯かけの追考を添える。
本文 現代語訳
霊、水厄を救ふ金仏観世音の事に付き 文政二年四月七日、松前家臣佐藤隼治より君公へたてまつりし書状の写し イタヤ、シナ、帯かけ追考附
霊が水難を救った金の観世音のことについて 文政二年四月七日に松前の家臣佐藤隼治から藩主へ差し上げた書状の写し イタヤ、シナ、帯かけの追考を添える
寛文二年壬寅九月二十七日、松前東蝦夷地シコツ下武川の内キナオシと申す村にて、松前歴代の内、佐藤木工左衛門と申す者、川流れいたし、柳の根に止まり候ところ、蝦夷ども集まり引き揚げ候節、両手に土を握み上がり、その節手に握り候土の内に観音の金仏これ有り候ところ、同所へ祠を建て、右の金仏松前に持ち帰り、今に所持仕り候。寛文二年より今文政二年までおよそ百五十年余に相成るべきやと存じ奉り候。右木工左衛門、その町御奉行相勤め、御同所出火の砌、立腹仕り候由、松前年々記にこれ有るやう覚え罷り在り候。
寛文二年壬寅九月二十七日、松前東蝦夷地シコツ下武川のうちキナオシという村で、松前藩の歴代のうち佐藤木工左衛門という者が川に流され、柳の根に引っかかって止まったところ、蝦夷たちが集まって引き揚げたとき、両手に土を握って上がってきました。そのとき手に握っていた土の中に観音の金仏があったので、その場所に祠を建て、その金仏は松前に持ち帰って今も所持しております。寛文二年から今の文政二年まで、およそ百五十年あまりになるかと存じます。この木工左衛門はその町の奉行を勤め、同所の火事のときに腹を切ったと、松前年々記にあるように記憶しております。
解いふ、前会に披講せし巣鴨の町医大館微庵が弟松之助が、王子権現の社頭と十条村のあはひにて土中より掘り出だせし黄金仏なる観世音の事のくだりに、これをも併せ記すべきを忘れたれば、別に出だせり。按ずるに、白石先生の琉球事略に載せたりし林太夫が事と、佐藤木工左衛門が事とよく相似たり。林太夫が溺れしとき、取り携へしは梅の枝にて、感得せしは天満宮の木像なり。また木工左衛門が溺れしとき、堰き留めたるは柳にて、感得せしは金の観音なり。木は東方、春の色、梅は菅家の遺愛たり。金は西方、秋の色、また楊は観音に因みいちじるし。これかれともに奇といふべし。
解が言う。前回の会で披講した、巣鴨の町医者大館微庵の弟松之助が王子権現の社頭と十条村の間の土中から掘り出した黄金仏の観世音のくだりに、この話も併せて記すべきだったのを忘れたので、別に出した。考えてみると、白石先生の琉球事略に載っている林太夫の話と佐藤木工左衛門の話はよく似ている。林太夫が溺れたときにつかんだのは梅の枝で、感得したのは天満宮の木像だった。木工左衛門が溺れたときに堰き止めたのは柳で、感得したのは金の観音だった。木は東方で春の色、梅は菅原道真の愛した木である。金は西方で秋の色、また楊柳は観音に縁が深い。どちらも奇というべきである。
附けていふ、さきに予があらはしたるひやうし考および図説にも、「松前にてイタヤといふ樹、未詳。木蓮をイタヰといへば、これにはあらぬか」としるししは、なほひがことなりき。再び按ずるに、北海随筆にいふ、「楓を蝦夷人はタラベニといふ。松前にてはイタヤといふ。本邦の楓より大葉なり」といへり〔下の巻、夷言の条下に見えたり〕。これによりイタヤは楓なるよしを知るものから、なほ心もとなければ、いぬる日、松前家の医師牧村右門訪ひ来たりし折、この一条を挙げて質問せしに、牧村がいふ、「イタヤはすなはち楓の事なり。その葉は世の常なる楓より大きし。その樹、松前に多くあり、蝦夷地にはいよいよ多かり。よりて松前にて薪にするは皆イタヤなり。およそひやうしを造るもの、材、竃木などをもてすれば、ひやうしは必ずイタヤに造ると思ふものもあらん。その木に拘ることにはあらず」と、こともなげに答へらる。よりて思ふに、松前にてイタヤといへるは、大和本草にその葉を図したる大楓のたぐひなるべし。またひやうしの綱によるといふシナの事をたづねしに、牧村がいふ、「シナといへるも木の皮なり。その皮をもて索にすれば、麻よりはなかなかに強し。松前にてシナを文字に极と書くものもあり。当否は知らず侍り」といひにき。この両条はひやうし考の図説の末に付け紙してしるしおかれんことを願ふかし〔今按ずるに、正字通に「极、音は桀。驢の背上の木、以て物を負ふなり。㭕はすなはち极。极は或いは笈に作る」と見えたり。かかればシナに极と書くこと、その義にかなはず。まさに栲に作るべし〕。
付け加えて言う。先に私が著したひやうし考と図説に「松前でイタヤという樹は未詳。木蓮をイタヰというから、それではないか」と書いたのは、やはり間違いだった。あらためて考えると、北海随筆に「楓を蝦夷人はタラベニという。松前ではイタヤという。日本の楓より葉が大きい」とある〔下巻の夷言の条に見える〕。これでイタヤが楓だと分かったものの、まだ心もとないので、先日、松前家の医師牧村右門が訪ねてきたときにこの一条を挙げて質問すると、牧村は「イタヤはつまり楓のことだ。葉は普通の楓より大きい。松前に多く、蝦夷地にはもっと多い。だから松前で薪にするのはみなイタヤだ。ひやうしを作る者は材木や薪などで作るから、ひやうしは必ずイタヤで作ると思う者もいるだろうが、木の種類にこだわるものではない」と、こともなげに答えた。そこで思うに、松前でイタヤと呼ぶのは大和本草に葉の図がある大楓の類だろう。またひやうしの綱に使うというシナのことを尋ねると、牧村は「シナというのも木の皮だ。その皮で縄を作れば麻よりずっと強い。松前ではシナを文字で极と書く者もあるが、当否は知らない」と言った。この二条はひやうし考の図説の末に付箋を付けて記しておいてもらいたい〔今考えると、正字通に「极は音は桀。驢馬の背に載せて物を負わせる木である。㭕は极と同じ。极は笈とも書く」とある。だからシナを极と書くのは意味に合わない。栲と書くべきである〕。
またいふ、今茲五月のはじめにやありけん、倉卒に書きつめたる拙者の帯かけ考にも遺漏ありけり。伊豆国海島風土記〔下の巻〕に八丈島なる男女の風俗をしるしていふ、「女の帯は幅一尺なり。長さ四五尺に紬を織り、蘇枋木をもつて赤く染め、そのまま単にて用ひ、老若ともにこれを前にて結ぶ。男は真を入れくけたる帯を結びたるもあり」といへり。
また言う。今年五月の初めだったか、あわただしく書き上げた私の帯かけ考にも漏れがあった。伊豆国海島風土記〔下巻〕に八丈島の男女の風俗を記して、「女の帯は幅一尺。長さ四、五尺に紬を織り、蘇枋で赤く染め、そのまま単で用い、老若ともにこれを前で結ぶ。男は芯を入れてくけた帯を結ぶ者もある」とある。
解いふ、これもまた帯かけの遺風なるべし。今、佐渡にては女の帯の幅広きをもて結ぶゆゑに、帯ひらをば竪にたたみてその帯に挟むなり。また八丈島なる女は、いにしへの帯かけをやりて帯にせしより、丈をば長くせしにやあらん。孤島は他郷の人をまじへず。ここをもて古風の存すること多かり。このほか五島、平戸などの風俗をも訪ね求めば、かかるたぐひなほあるべし。そもそも予が帯かけ考は兎園にのせぬ別録なれども、遺忘に備へんためにして、かつ写しとられたる一両君に告げんとていふのみ。
解が言う。これもまた帯かけの名残だろう。今、佐渡では女の帯は幅の広いものを結ぶので、帯ひらを縦にたたんでその帯に挟む。また八丈島の女は昔の帯かけを転用して帯にしたことから、丈を長くしたのではないか。孤島はよその土地の人が混じらない。それで古い風習が残ることが多い。このほか五島や平戸などの風俗も調べれば、こうした例はまだあるだろう。そもそも私の帯かけ考は兎園に載せない別録だが、忘れたときの備えとして、また写しを取った一、二の方に知らせるために言うだけである。
文政八年秋七月朔 玄同 滝沢解識
文政八年秋七月朔日 玄同 滝沢解識す
原文 / 昭和女子大学本の字句を採り、正字体を保持、振り仮名を外す
靈救水厄の金佛觀世音の事ニ付 文政二年四月七日松前家臣佐藤隼治より君公へたてまつりし書状の写 イタヤ シナ 帯カケ 追考附
寛文二年壬寅九月廿七日、松前東蝦夷地シコツ下武川之内キナオシと申村ニて、松歴代之内佐藤木工左衞門と申者川流いたし、柳の根ニ止り候処、蝦夷共集り引揚候節、両手ニ土を握ミ上り、其節手ニ握り候土の内ニ観音の金仏有之候処、同所へ祠を建、右之金仏松前ニ持帰、于今所持仕候。寛文二年より今文政二年迄凡百五十年餘ニ可相成哉と奉存候。右木工左衞門、其町御奉行相勤、御同所出火之砌立腹仕候由、松前年々記ニ有之様覚罷在候。
卯四月七日 佐藤隼治
解云、前会に披講せし巣鴨の町医大舘微菴が弟松之助が、王子権現の社頭と十條村のあはひにて土中より掘出せし黄金仏なる観世音の事のくだりに、これをも併せ記すべきを忘れたれば、別に出せり。按ずるに、白石先生の琉球事略に載せたりし林太夫が事と、佐藤木工左衞門が事とよく相似たり。林太夫が溺れしとき、とり携へしハ梅の枝にて、感得せしハ天満宮の木像なり。又木工左衞門が溺れしとき、堰留めたるハ柳にて、感得せしハ金の観音なり。木ハ東方春の色、梅ハ菅家の遺愛たり。金ハ西方秋の色、又楊ハ観音に因みいちじるし。これ彼共に奇といふべし。
附ていふ、曩に予があらはしたるひやうし考及図説にも、松前にてイタヤといふ樹未詳、木蓮をイタヰといへば、これにはあらぬかとしるしゝハ、猶ひがことなりき。再按ずるに、北海随筆に云、楓を蝦夷人ハタラベニといふ。松前にてハイタヤといふ。本邦の楓より大葉なりといへり〔下の巻夷言の條下に見えたり〕。これによりイタヤハ楓なるよしをしるものから、猶心もとなければ、いぬる日松前家の医師牧村右門訪ひ来りし折、この一條を挙げて質問せしに、牧村が云、イタヤハ即楓の事なり。その葉ハよのつねなる楓より大きし。その樹松前に多くあり、蝦夷地にハいよいよ多かり。よりて松前にて薪にするハ皆イタヤなり。凡ひやうしを造るもの、材竃木などをもてすれば、ひやうしハ必イタヤに造ると思ふものもあらん。その木に拘ることにハあらずと、こともなげに答へらる。よりて思ふに、松前にてイタヤといへるハ、大和本草にその葉を図したる大楓のたぐひなるべし。又ひやうしの綱によるといふシナの事をたづねしに、牧村が云、シナといへるも木の皮なり。その皮をもて索にすれば、麻よりハなかなかにつよし。松前にてシナを文字に极と書ものもあり。當否ハしらず侍りといひにき。この両條ハひやうし考の図説の末につけ紙してしるしおかれんことをねがふかし〔今按ずるに、正字通、极、音桀、驢背上木以負物也。㭕即极。极或作笈と見えたり。かゝれバシナに极と書くこと、その義にかなはず。當に栲に作るべし〕。
又いふ、今茲五月のはじめにやありけん、倉卒に書つめたる拙者の帯かけ考にも遺漏ありけり。伊豆国海嶋風土記〔下の巻〕に八丈嶋なる男女の風俗をしるして云、女の帯ハ幅壱尺なり。長サ四五尺に紬を織り、蘇枋木を以赤く染め、その儘単にて用ひ、老若ともに是を前にて結ぶ。男ハ真を入れくけたる帯を結びたるもありといへり。
解云、これも亦帯かけの遺風なるべし。今佐渡にてハ女の帯の幅広きをもて結ぶ故に、帯ひらをば竪にたゝみてその帯にはさむなり。又八丈嶋なる女ハ、いにしへの帯かけをやりて帯にせしより、たけをば長くせしにやあらん。孤島ハ他郷の人をまじへず。こゝをもて古風の存すること多かり。此他五嶋平戸などの風俗をも訪求せば、かゝるたぐひ猶あるべし。抑予が帯かけ考ハ兎園にのせぬ別録なれども、遺忘に備へん為にして、且写しとられたる一両君に告げんとていふのみ。
文政八年秋七月朔 玄同 瀧澤解識
注
- 写本の位置
- 写本は3170の28カット目左ページから31カット目右ページまで。31カット目右ページの末尾に「文政八年秋七月朔 玄同 瀧澤解識」とあり、31カット目左ページから次の話「松前大福米」が始まる。
- 注記
- 題は写本の本文では長い見出しで、「イタヤ シナ 帯カケ 追考附」は小字で添えられている。目録では「靈救水厄金像觀音 ひやうし考再考附」とあり、passage の題は目録に従い、原文の冒頭に本文の見出しを置いた。
- 校合
- 「松歴代之内」は写本の読みで、活字本系テキストは「和歷代の内」とする。松前藩の歴代の意で写本を採った。「持帰」も写本の読みで、活字本系テキストの「持郡」は帰の字形の誤読と見た。
- 注記
- 「堰留めたる」の堰は写本の本文の脇に赤字で堰と書き入れがある。「帯ひらをば」の「ひら」は写本では赤字で行間に補われている。いずれも本文に取り込んだ。
- 注記
- 割注は写本では小字二行で本文中に置かれている。原文では〔 〕に入れて同じ位置に置いた。写本では材竃木にマキ、大楓にオホカヘデ、索にナハの振り仮名があり、原文では外した。
- 注記
- ひやうし考は第一集第6話。前会に披講した王子の黄金仏の話は第六集にあるはずで、未確認。帯かけ考は兎園小説に収めない別録で、内容は未確認。
- 注記
- 琉球事略は新井白石の著で、林太夫の話はその中の記事。北海随筆は坂倉源次郎の蝦夷地見聞記。伊豆国海島風土記は佐藤行信の八丈島の記録。牧村右門は第一集のひやうし考でも馬琴に答えた松前家の医官。玄同は馬琴の別号。
- 注記
- シコツは今の千歳、下武川は鵡川、キナオシは知内かを含めて地名の比定は未確認。
AI試訳 / 専門家未校閲