雲亭日本古典図書室収録作品の一覧

松前大福米

読書室で開く(原典画像・関連作品・自分の書架)

兎園小説 / 曲亭馬琴ほか 兎園会の会員 / 第七集 第14話 / 琴嶺舎 瀧澤興継

松前藩に寛永以来伝わる、瓶の中で増える米「大福米」の由来と、旧領復帰の吉事、馬琴の長歌を琴嶺舎が記す。

本文 現代語訳

松前大福米
松前の大福米
いにしえより仁人、義士、貞婦、孝子の天感によりて、あるいは米穀、あるいは銭帛の、不慮にその家に湧き出でし事、和漢のためし少なからねど、正しく国史に載せられしは、『書紀』天智紀に云う、「三年冬十二月、淡海国言さく、坂田郡の人小竹田身の猪槽の水中に、おのずから稲生う。身取りて収め、日々に富に到る。栗太郡の人磐城村主殷の新婦の床席の頭の端に、一宿の間に稲生いて穂となる。新婦庭に出づれば、両箇の鑰匙、天より前に落つ。婦取りて殷に与う。殷、始めて富を得たり」と。
昔から、仁人や義士、貞婦や孝子の行いが天に通じて、米や穀物、あるいは銭や絹が思いがけずその家に湧き出たという話は、日本にも中国にも少なくない。しかし正式に国史に載っているのは、『日本書紀』の天智紀に見える次の記事である。天智三年冬十二月、近江国から報告があった。坂田郡の小竹田身という人の家の猪槽の水の中に、ひとりでに稲が生えた。身がそれを取って収めると、日ごとに富んでいった。栗太郡の磐城村主殷の家では、嫁の寝床の枕元に一晩のうちに稲が生えて穂を出した。嫁が庭に出ると、二つの鍵が天からその前に落ちてきた。嫁がそれを取って殷に渡すと、殷はそれから富み始めた、というものである。
これらは遠く見ぬ世の事にて、いと疑わしく思いしに、近ごろ松前の藩中に、よくこれと似たる事あり。
これらは遠い昔の見たこともない世の出来事で、たいそう疑わしいと思っていたのだが、近ごろ松前藩の中で、これとよく似た事があった。
その由来を伝え聞くに、寛永十七年春二月二十二日、松前の家臣蠣崎主殿友広の家に、米数升湧き出でけり。これよりして、あるいは一升、あるいは二升、日々に湧き出でずということなし。かくてこの年の夏四月下旬に至りて、その事ようやくやみしかば、友広あやしみ、かつ祝して、「大福米」と名づけつつ、主君公広朝臣に進上して、ことのよしを申しかば、人みな驚嘆せざるはなし。主君すなわちその米数斗を受け取らして、一箇の瓶にこれを納め、またその事を略記せしめて倉廩の中に蔵め給い、その余の米は皆ことごとく友広に取らせ給いぬ。
その由来を伝え聞くところによると、寛永十七年春二月二十二日、松前の家臣蠣崎主殿友広の家に、米が数升湧き出た。それからというもの、一升、あるいは二升と、毎日湧き出ない日はなかった。こうしてその年の夏四月下旬になって、ようやくそれが止んだので、友広は不思議に思い、また祝って「大福米」と名づけ、主君の公広朝臣に献上して事の次第を申し上げたところ、驚嘆しない者はいなかった。主君はその米数斗を受け取らせて一つの瓶に納め、また事の経緯を簡単に記録させて倉に蔵い、残りの米はすべて友広に取らせた。
これより後の世に至り、不慮にその瓶を開かせて、その米を見給うに、絶えて虫ばみ朽つることなく、かつ遠からずゆくりなき吉事ある事もありけり。
その後の代になって、思いがけずその瓶を開けさせて米を見ると、まったく虫に食われることも朽ちることもなく、しかも遠からず思いがけない吉事があることもあった。
かかりし程に、当主章広朝臣〔公広朝臣より八世か〕、家督の後、文化四年春三月二十二日、ゆくりなく松前の采地を召し放されて、奥の伊達郡簗川へ移され給いしとき、かの大福米をも簗川へ運送せしめ給いしに、その米は近きころまでもとのままにてありけるに、このとき見れば、虫ばみ朽ちて米粉のごとくなりしもの、すでになかばに及びしかば、その朽ちたるを篩い捨てて、そのまたき米をのみふたたび瓶に納めさせて、簗川に置かせ給いき。
そうしているうちに、当主の章広朝臣〔公広朝臣から八代目か〕が家督を継いだ後、文化四年春三月二十二日、突然松前の領地を取り上げられて、奥州の伊達郡簗川へ移された。そのときこの大福米も簗川へ運ばせたのだが、近ごろまで元のままであったこの米が、このとき見ると、虫に食われて朽ち、米の粉のようになったものがすでに半分に及んでいた。そこで朽ちたものを篩って捨て、無事な米だけをもう一度瓶に納めさせて、簗川に置かせた。
かくて文政元年の冬十一月二十一日、松前家の勘定新役の者、倉廩の中なる米穀を展検することあるにより、大福米の瓶を見て、いまだその事を知らず、すなわちこれを主公に訴う。主君、「云々」と説き示させて、封を切らせて見給うに、さきに篩い分けしより十か年にあまれども、一粒も損ずることなく、あまつさえいたく殖えまして、瓶七、八分目になりにたるを、章広朝臣見そなわして、かつ驚きかつ悦び、次の年の春のはじめに、その米を幾合か簗川より齎して、老父君道広朝臣へ「云々」と告げ給えば、老侯怡悦斜めならず。
こうして文政元年の冬十一月二十一日、松前家の新任の勘定役が倉の中の米穀を点検することになり、大福米の瓶を見つけたが、まだそのいわれを知らず、主君に報告した。主君はこれこれと説明させ、封を切らせて見たところ、先に篩い分けてから十年あまりも経つのに一粒も損なわれていないばかりか、大いに増えて瓶の七、八分目になっていた。章広朝臣はこれを見て驚きかつ喜び、翌年の春のはじめにその米を幾合か簗川から持ってこさせ、老父の道広朝臣にこれこれと報告すると、老侯の喜びは一通りでなかった。
「昔よりして、大福米の瓶の封皮をゆくりなく披く事あるときは、吉事ありとか伝え聞きたり。しかるに吾が家旧領に離れしとき、この米過半減少せしに、今また殖えしは故こそあらめ。賀すべし、賀すべし」と宣いし。
「昔から、大福米の瓶の封を思いがけず開くことがあるときは吉事があると伝え聞いている。それなのに我が家が旧領を離れたとき、この米は半分以上減った。今また増えたのは、きっとわけがあるのだろう。めでたい、めでたい」と言われた。
そのよろこびの余りにや、このごろあわただしく使者をもて、己が父にその米一包を贈り給わり、「この米はかようにて」と、その来歴を示させて、くだんの瓶に附け置かれし旧記録、落ちもなく写し取らして給わりければ、家厳しきりに嘆賞して、「かかれば今より遠からず大吉事あらせ給わん。いにしえもさるためしあり。その事どもは云々」と、すなわち上に録したる天智紀をはじめとして、和漢の故事を抄録しつつ、おさおさ寿ぎまいらせし。
その喜びの余りであろうか、このごろ急いで使者を立てて、私の父にその米一包みを贈ってくださり、「この米はこういうものだ」とその来歴を示させ、瓶に添えてあった古い記録を残らず写し取らせて下さった。父はしきりに感嘆して、「それならば、今から遠からず大きな吉事がおありになるでしょう。昔もそういう例があります。その事どもはこれこれ」と、先に記した天智紀をはじめとして、和漢の故事を抜き書きしながら、心をこめてお祝い申し上げた。
これよりの後わずかに三年、文政四年の冬十二月七日に至りて、かのおん家にゆくりなくこよなき大吉事あり。
それからわずか三年、文政四年の冬十二月七日になって、あのお家に思いがけず、このうえない大きな吉事があった。
松前の旧領をもとのごとくに返させ給う台命を蒙り給いて、同じき五年四月十五日に、志州章広朝臣父子〔これより先に嫡男千之助殿任官あり、主計頭になられたり〕、もろともに帰国の御暇を給わりて、同月二十八日に江戸の邸を発駕あり。すでにして五月下旬に松前の城に着き給えば、君臣上下おしなべて、みな年来の愁眉を開きて、笑壺に入らずというものなし。
松前の旧領を元どおりに返すという幕府の命令を受け、翌五年四月十五日に、志摩守章広朝臣父子〔これより前に嫡男の千之助殿が任官して主計頭になっておられた〕はそろって帰国の許しをいただき、同月二十八日に江戸の屋敷を出発した。やがて五月下旬に松前の城に着くと、君臣上下みな長年の憂いを晴らして、喜ばない者はなかった。
これによりて大福米をもまた松前へ運送せしめて、旧所の倉に蔵めらる。この時にして事ごとに、公私となく、大小となく、慶祥すべてあまりあり。
これにともなって、大福米もまた松前へ運ばせ、元の倉に納められた。この時期、事あるごとに、公私を問わず大小を問わず、めでたい兆しがあり余るほどであった。
かの「大福の米」の名のむなしからぬも、奇というべし。
あの「大福の米」という名が空しくなかったことも、不思議というべきである。
くだんの瓶に附けられたる寛永以来の記録に云う。
瓶に添えられていた寛永以来の記録には次のようにある。
大福米一瓶
大福米一瓶
この米、公広尊公御在世寛永十七庚辰年春二月二十二日、蠣崎主殿友広の家に沸き出づ。しかして後五月朔日に至りて、友広これを献じ奉る。すなわち御穀蔵に納めらるるものなり。
この米は、公広尊公のご在世中の寛永十七年庚辰の春二月二十二日、蠣崎主殿友広の家に湧き出た。その後五月朔日になって、友広がこれを献上した。そこで御穀蔵に納められたものである。
寛永十七年五月吉日これを封じおわんぬ〔興継云う、伝に公広朝臣は松前家第七世という。いまだその詳らかなるを知らず〕。この大福米、寛永十七年二月二十二日、入り来たりて万吉長久。
寛永十七年五月吉日、これを封じた〔興継が言う。伝えでは公広朝臣は松前家第七代という。まだ詳しいことは知らない〕。この大福米は寛永十七年二月二十二日に入ってきて、万事めでたく長久である。
明和四年丁亥十一月、改めてこれを納む。
明和四年丁亥十一月、改めてこれを納めた。
御勘定奉行 青山園右衛門、因藤与惣治、小林兵左衛門。御鍵取 和田甚八、川村品右衛門。
御勘定奉行 青山園右衛門、因藤与惣治、小林兵左衛門。御鍵取 和田甚八、川村品右衛門。
安永元年巳十月五日より大福米御鍵取 川村左七、工藤庄左衛門。
安永元年巳十月五日から大福米の御鍵取 川村左七、工藤庄左衛門。
この大福米、寛永十七年二月二十二日、入り来たりて万吉長久。
この大福米は寛永十七年二月二十二日に入ってきて、万事めでたく長久である。
文化十三丙子年六月四日これを改む。
文化十三年丙子六月四日、これを改めた。
御勘定奉行 近藤兎毛、和田文蔵、蠣崎喜惣治、工藤左太郎、明石寅次郎。下代 鹿能与七。
御勘定奉行 近藤兎毛、和田文蔵、蠣崎喜惣治、工藤左太郎、明石寅次郎。下代 鹿能与七。
右大福米、簗川御役所においてこれを改む。
右の大福米は、簗川の御役所においてこれを改めた。
大福米
大福米
この大福米、寛永十七年二月二十二日、入り来たりて万吉長久。
この大福米は寛永十七年二月二十二日に入ってきて、万事めでたく長久である。
文政元戊寅年十一月二十一日これを改む。
文政元年戊寅十一月二十一日、これを改めた。
御勘定奉行 和田文蔵、蠣崎喜惣治、工藤左太郎、明石寅次郎。下代 鹿能与七、沢田忠五郎、安保佐左衛門、松村銀左衛門。
御勘定奉行 和田文蔵、蠣崎喜惣治、工藤左太郎、明石寅次郎。下代 鹿能与七、沢田忠五郎、安保佐左衛門、松村銀左衛門。
右大福米、簗川御役所においてこれを改む。
右の大福米は、簗川の御役所においてこれを改めた。
ただし御覧に入れ候につきこれを取り出し、その後また納め置き候よう仰せにつき、御蔵にこれを納め置く。
ただし、ご覧に入れるために取り出し、その後また納めておくようにとの仰せがあったので、御蔵に納めておいた。
家厳すでにこの福米の感あり。かつ老侯の愛顧を蒙り奉るも、はや年ごろになるをもて、文政五年の春立つころ、寿ぎの心を詠みてまいらせし長歌あれば、ちなみにここに記す折、「おこなせそ」とて止められしを、なお止みがたくてものすという。
私の父はすでにこの福米に感じるところがあった。そのうえ老侯のご愛顧を受けてもう何年にもなるので、文政五年の春のはじめに、お祝いの心を詠んで差し上げた長歌がある。ついでにここに記そうとしたところ、「ばかなことをするな」と止められたが、それでもやめられずに書きつけるのだという。
こたび旧領に帰らせ給う寿ぎの心を詠みてたてまつる長歌
このたび旧領にお帰りになることを寿ぐ心を詠んで奉る長歌
みちのくの 蝦夷の国は 草の衣 眉つらなりし なめ人の 猛き心に 獣なす おのがまにまに 行いて 親を親とし 慕わねば 君を君とし 敬わず 家しもあらで をちこちに あさり漁り 朝な夕な 伏す矢さつ弓 取り誇り 背きまつるを 帝より 軍の君を またしつつ 討たし給えば 従いつ あとは乱れて 年あまた 貢を絶えて ともすれば 青人草を 屠りたる 嘉吉の年に 若狭なる 武田の殿の 白真弓 はるばる道を 踏み分きて か行きかく行き 打ち治め 教え導き 政ち 退け鎮めて 常磐なす 松前の城に 百年を 四つ重ねつつ いそのかみ 古りにし事の いや高き 御代に聞こえて いやちこに 遠つ御祖の うるわしき 勲もついに なまよみの 甲斐なきまでに 禍つ日の 損ないけらし もののふの 簗川へとて 月も日も 移れば変わる 島つ鳥 憂かりける世に 喜びの 時は来にけり ゆくりなく もとの境に もとのごと 返され給えば 冬ながら 春かとぞ思う 春来れば 東の沙汰を 言さえぐ 蝦夷に伝えて 蝦夷人の うちも仰ぎて 頼もしく 思わんのみか おしなべて 知るも知らぬも 雛鶴の 千歳の後も 亀の子の 万代までも 松竹の 栄ゆるままに 限りなき 北の守りは 君ならで 誰やはあると かくばかり 寿ぎまつる 言の葉に 詠むとも尽きじ 三枝の 幸くありける ことのみにして
みちのくの蝦夷の国は、草の衣を着て眉のつながった荒々しい人々が、猛々しい心で獣のように思うままに振る舞い、親を親とも慕わず、君を君とも敬わず、家もなく、あちこちで漁をして暮らし、朝な夕なに伏せ矢や猟弓を誇って背いていたのを、帝が将軍を遣わして討たせると、いったんは従うものの、跡はまた乱れて、長い年月貢ぎを絶やし、ともすれば人民を殺していた。嘉吉の年に、若狭の武田の殿が白真弓を携えて、はるばる道を踏み分け、あちらへこちらへと行って討ち治め、教え導き、政を行い、退け鎮めて、常磐の松前の城に四百年を重ねてきた。その古い事績はいと高き御代にも聞こえ、遠い祖先のうるわしい功績も、ついに甲斐なきまでに禍の日が損なったのだろうか、武士たちは簗川へと移された。月日が移れば世も変わり、憂いの多かった世に、喜びの時が来た。思いがけず元の領地へ元のとおりに返されたので、冬ながら春かと思う。春が来れば東国の知らせを、言葉の通じない蝦夷にも伝え、蝦夷の人々も心の内で仰いで頼もしく思うだけでなく、誰も彼も、知る人も知らぬ人も、雛鶴の千年の後も、亀の子の万代までも、松と竹が栄えるように、限りない北の守りは君のほかに誰がいようと、こうまでも寿ぎ申し上げる言葉は、詠んでも尽きることがない。ただ、めでたく幸いであることばかりで。
反歌
反歌
みちのくの蝦夷の高浜荒れぬとも立ち返る浪の花ぞめでたき
みちのくの蝦夷の高浜が荒れることがあっても、立ち返る浪の花のように、あなたが立ち返ってこられるのはめでたいことだ。
さきに老侯より家厳に賜わりし大福米は、後の『耽奇』に出すべし。
先ごろ老侯から父が賜った大福米については、後の『耽奇漫録』に出すことにする。
文政八年七月朔 琴嶺 滝沢興継謹んで誌す
文政八年七月朔日 琴嶺 滝沢興継が謹んで記す
原文 / 昭和女子大学本の字句を採り、正字体を保持、振り仮名を外す

松前大福米

いにしへより仁人義士貞婦孝子の天感によりて、或ハ米穀、或ハ錢帛の、不慮にその家に涌出せし事、和漢のためし少からねど、正しく國史に載られしハ、書紀天智紀云、三年冬十二月、淡海國言、坂田郡人小竹田身之猪槽水中、自然稻生。身取而收、日日到冨。栗太郡人磐城村主殷之新婦床席頭端、一宿之間、稻生而穗。新婦出庭、兩箇鑰匙自天落前。婦取而與殷。殷得始富。

これらハ遠く見ぬ世の事にて、いと疑ハしく思ひしに、近ころ松前の藩中によくこれと似たる事あり。

その由來を傳へ聞くに、寛永十七年春二月廿二日、松前の家臣蠣崎主殿友廣の家に、米數升涌出けり。是よりして、或ハ一升、或ハ二升、日々に涌出せずといふことなし。かくてこの年の夏四月下旬に至りて、その事やうやくやみしかば、友廣あやしみ且祝して、大福米と名づけつゝ、主君公廣朝臣に進上して、ことのよしをまうしゝかば、人みな驚嘆せざるハなし。主君すなはちその米數斗を受けとらして、一箇の瓶にこれを納め、又その事を略記せしめて倉廩中に藏め給ひ、その餘の米ハ皆ことごとく友廣に取らせ給ひぬ。

これより後の世に至り、不慮にその瓶をひらかせて、その米を見給ふに、絶えて蟲ばみ朽つることなく、且遠からずゆくりなき吉事ある事もありけり。

かゝりし程に、當主章廣朝臣〔公廣朝臣より八世歟〕、家督の後、文化四年春三月廿二日、ゆくりなく松前の采地を召しはなされて、奧の伊達郡簗川へ移され給ひしとき、彼大福米をも簗川へ運送せしめ給ひしに、その米ハ近きころ迄もとのまゝにてありけるに、このとき見れば、蟲ばみ朽ちて米粉の如くなりしもの、既になかばに及びしかば、その朽ちたるを篩ひ袪て、そのまたき米をのみふたゝび瓶に納めさせて、簗川におかせ給ひき。

かくて文政元年の冬十一月廿一日、松前家の勘定新役の者、倉廩中なる米穀を展檢することあるにより、大福米の瓶を見て、未だその事をしらず、則これを主公に訴ふ。主君云云と説き示させて、封をきらせて見給ふに、曩に篩ひわけしより十ケ年にあまれども、一粒も損ずることなく、あまつさへいたく殖えまして、瓶七八分目になりにたるを、章廣朝臣見そなはして、且驚き且悦び、次の年の春のはじめに、その米を幾合か簗川より齎して、老父君道廣朝臣へ云云と告げ給へば、老侯怡悦斜ならず。

昔よりして大福米の瓶の封皮をゆくりなく披く事あるときハ、吉事ありとか傳へ聞きたり。しかるに吾家舊領にはなれしとき、この米過半減少せしに、今又殖えしハ故こそあらめ。賀すべし賀すべしと宣ひし。

そのよろこびの餘りにや、このごろあわたゞしく使者をもて、己が父にその米一包を贈り給はり、この米ハ箇樣にと、その來歴を示させて、件の瓶に附けおかれし舊記録、おちもなく寫しとらして給はりければ、家嚴しきりに嘆賞して、かゝれば今より遠からず大吉事あらせ給はん。いにしへもさるためしあり。その事どもハ云云と、則上に録したる天智紀をはじめとして、和漢の故事を抄録しつゝ、をさをさことほぎまゐらせし。

これよりの後わづかに三稔、文政四年の冬十二月七日に至りて、かのおん家にゆくりなくこよなき大吉事あり。

松前の舊領を元のごとくに返させ給ふ台命を蒙り給ひて、おなじき五年四月十五日に、志州章廣朝臣父子〔是より先に嫡男千之助殿任官あり、主計頭になられたり〕、もろともに歸國の御暇を給はりて、同月廿八日に江戸の邸を發駕あり。既にして五月下旬に松前の城に着き給へば、君臣上下おしなべて、みなとし來の愁眉を開きて、笑坪に入らずといふものなし。

これに依りて大福米をも又松前へ運送せしめて、舊所の倉に藏めらる。この時にして事每に、公私となく、大小となく、慶祥すべてあまりあり。

かの大福の米の名のむなしからぬも、奇といふべし。

件の瓶に附けられたる寛永以來の記録に云。

大福米一瓶

此米、公廣尊公御在世寛永十七庚辰年春二月廿二日、沸出蠣崎主殿友廣之家。而後至五月朔日、友廣奉獻之。則被納御穀藏者也。

寛永十七年五月吉日封之畢〔興繼云、傳に公廣朝臣ハ松前家第七世といふ。いまだその詳なるをしらず〕。此大福米、寛永十七年二月廿二日、入來萬吉長久。

明和四年丁亥十一月改而納之

御勘定奉行 青山園右衞門、因藤與惣治、小林兵左衞門。御鍵取 和田甚八、川村品右衞門。

安永元年巳十月五日より大福米御鍵取 川村左七、工藤庄左衞門。

此大福米、寛永十七年二月廿二日、入來萬吉長久。

文化十三丙子年六月四日改之

御勘定奉行 近藤兎毛、和田文藏、蠣崎喜惣治、工藤左太郎、明石寅次郎。下代 鹿能與七。

右大福米、於簗川御役所改之。

大福米

此大福米、寛永十七年二月廿二日、入來萬吉長久。

文政元戊寅年十一月二十一日改之

御勘定奉行 和田文藏、蠣崎喜惣治、工藤左太郎、明石寅次郎。下代 鹿能與七、澤田忠五郎、安保佐左衞門、松村銀左衞門。

右大福米、於簗川御役所改之。

但入御覽ニ付取出之、其後又納置候樣仰ニ付、御藏ニ納置之。

家嚴既にこの福米の感あり。且老侯の愛顧を蒙り奉るも、はや年ごろになるをもて、文政五年の春たつころ、ことほぎのこゝろをよみてまゐらせし長歌あれば、ちなみにこゝにしるす折、おこなせそとてとめられしを、猶やみがたくてものすといふ。

こたび舊領にかへらせ給ふことほぎのこゝろをよみてたてまつる長歌

みちのくの えみしの國ハ くさのきぬ まゆつらなりし なめ人の たけきこゝろに けものなす おのがまにまに おこなひて 親をおやとし したはねば 君をきみとし いやまはず 家しもあらで をちこちに あさりすなどり 朝なゆふな ふす矢さつ弓 とりほこり そむきまつるを みかどより いくさのきみを またしつゝ うたしたまへば したがひつ あとハみだれて としあまた みつぎをたえて ともすれば 青人ぐさを ほふりたる 嘉吉のとしに わかさなる たけ田のとのゝ しらま弓 はるばるみちを ふみわきて かゆきかくゆき うちをさめ をしへみちびき まつりごち しりぞしづめて 常磐なす 松まへの城に 百とせを よつかさねつゝ いそのかみ ふりにし事の いやたかき 御代にきこえて いやちこに 遠つみおやの うるはしき いさをもつひに なまよみの かひなきまでに まがつひの そこなひけらし もゝのふの やな川へとて 月も日も うつればかはる しまつ鳥 うかりける世に よろこびの 時ハ來にけり ゆくりなく もとのさかひに もとのごと かへされ給へば 冬ながら 春かとぞ思ふ 春來れば あづまのさたを ことさへぐ えぞに傳へて えぞ人の うちもあほぎて たのもしく おもはんのみか おしなべて しるもしらぬも ひな鶴の 千とせの後も 龜の子の よろづよまでも 松竹の さかゆるまゝに かぎりなき 北のまもりハ 君ならで 誰やはあると かくばかり ことほぎまつる ことの葉に よむともつきじ さきくさの さきくありける ことのみにして

反歌

みちのくのえぞの高濱あれぬとも立かへる浪の花ぞ目出度

曩に老侯より家嚴に賜はりし大福米ハ、後の耽奇に出すべし。

文政八年七月朔 琴嶺 瀧澤興繼謹誌

注

写本の位置
写本は3170の31カット目左ページから37カット目左ページまで。31カット目右ページの末尾で前話「霊救水厄金像観音」が終わり、31カット目左ページの冒頭に「松前大福米」の題がある。37カット目左ページの末尾に「文政八年七月朔 琴嶺 瀧澤興繼謹誌」とあり、38カット目右ページは白紙で、38カット目左ページから次の話「平豊小説辨」が始まる。
注記
目録では披講者を琴嶺舎とする。琴嶺舎は馬琴の長男瀧澤興継の号で、本文の署名も琴嶺である。本文中の「家嚴」「己が父」は馬琴を指す。
校合
「載られしハ」は写本の読みで、活字本系テキストは「載せられしは」とする。「婦取而與殷」も写本の読みで、活字本系テキストの「婦取百與殷」は而の字形の誤りと見た。「怡悦斜ならず」は写本の読みで、活字本系テキストは「怡々斜ならず」とする。「愛顧」は写本の読みで、活字本系テキストは「愛願」とする。いずれも写本を採った。
校合
文化十三年の記録の末尾「右大福米於簗川御役所改之」と文政元年の記録の末尾「右大福米於簗川御役所改之」は、写本ではどちらも「改之」と読める。活字本系テキストは後者を「收之」とする。写本を採った。
校合
末尾の「文政八年七月朔」は写本の読みで、活字本系テキストの「七月期」は朔の誤りと見た。長歌の題の後に活字本系テキストは「瀧澤馬琴」の署名を置くが、写本には見えない。写本に従って省いた。
校合
「章廣朝臣」の「臣」は写本では「巨」に近い字形で書かれているが、朝臣の意で臣を採った。活字本系テキストも同じ箇所を「朝巨」とする。
注記
写本の長歌は一行に四句を上下二段に書き分けている。原文では句を全角空白で区切って一段落にした。反歌の末尾「花ぞ目出度」の脇に朱で「そ」の書き入れがある。
注記
割注は写本では小字二行で本文中に置かれ、原文では〔 〕に入れて同じ位置に置いた。写本では天智紀の漢文に返り点と送り仮名、鑰匙にカギ、猪槽にヰカヒフネなどの振り仮名があり、原文では外した。
注記
役人の名は写本では一名ずつ改行して並ぶ。原文では役名ごとに一段落にまとめ、名を読点で区切った。
注記
公廣は松前公広、章廣は松前章広、道廣は松前道広で、松前家が文化四年に陸奥伊達郡梁川へ転封され、文政四年に旧領へ復帰した経緯は史実に沿う。蠣崎主殿友廣、青山園右衞門以下の役人名は未確認。嘉吉の年の若狭の武田の殿は、松前家の祖とされる武田信広を指すと解した。
注記
「耽奇」は馬琴らの耽奇会の記録『耽奇漫録』を指すと解した。

AI試訳 / 専門家未校閲