平豊小説弁
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兎園小説 / 曲亭馬琴ほか 兎園会の会員 / 第七集 第15話 / 著作堂 曲亭馬琴
平清盛を白河院の落胤、豊臣秀吉を後奈良院の落胤とする俗説を、馬琴が諸書を引いて退け、秀吉の父については『豊鑑』の記述に従うと結ぶ。
本文 現代語訳
解が言う。小説や野乗の信じがたきこと、誰か董狐の言を俟つべき。しかるになお世の読書の人、ただその旧記に因循して暁らざるもの多かるも、むかしは井沢、谷の両先輩、おさおさこれを弁じたり。されども言に当否あり。なおかつ遺漏も少なからず。そもそも中つころよりして、かの平相国入道を「白河帝の御子」といい、また豊臣の太閤を「後奈良院の落胤なり」というものあるはいかにぞや。これらを弁ずるものもあらねば、今その異同を折衷して、世俗の迷いを解かんと欲りす。きわめて烏滸のわざに似たれど、学は異を得て成るにあらずや。かかればひそかにこの編に「平」と「豊」との二姓を挙げて、もて題目とするもの、しかなり。
解が言う。小説や野史の信じがたいことは、董狐のような正直な史官の言葉を待つまでもない。それなのに今なお世の読書人には、古い記録をそのまま踏襲して気づかない者が多い。昔は井沢蟠竜と谷川士清の両先輩が、それぞれこれを論じた。しかしその論にも当たり外れがあり、そのうえ取りこぼしも少なくない。そもそも中世以降、あの平相国入道清盛を「白河帝の御子」といい、また豊臣太閤秀吉を「後奈良院の落胤だ」という者があるのはどうしたことか。これを論じ正す者もいないので、今その異同を突き合わせて、世俗の迷いを解きたいと思う。まことに愚かしいふるまいに似ているが、学問とは異説を集めて成るものではないか。そこでひそかにこの一編に「平」と「豊」の二つの姓を掲げて題目とした次第である。
『平家物語』に云う、「相国入道清盛公はただ人にあらず、まことは白河院の御子なり。その故は永久のころおい、平の忠盛、東山祇園の片ほとりにて、あやしの法師を生けながら捕えたりける勧賞に、白河院御最愛と聞こえし祇園女御を忠盛にこそ下されけれ。この女房はらみ給えり。『生めらん子、女子ならば朕が子にせん。男子ならば忠盛とりて弓とりにしたてよ』とぞ仰せける。すなわち男を生めり。ことにふれては披露せざりけれども、内々はもてなしけり。『この事いかにもして奏せばや』と思われけれども、しかるべき便宜もなかりけるが、ある時白河院熊野へ御幸なる。紀伊国いとり坂という所に御輿をかき据えさせて、しばらく御休息ありけり。その時忠盛、やぶにいくらもありけるぬかごを袖に盛り入れ、御前に参りかしこまって、『いもが子ははう程にこそなりにけれ』と申したりければ、院やがて御心ありて、『ただもりとって養いにせよ』とぞつけさせましましける。さてこそわが子とはもてなされけれ。この若君あまり夜泣きをし給いしかば、院きこしめして一首の御詠をあそばいて下されける。
『平家物語』にこうある。相国入道清盛公はただの人ではなく、実は白河院の御子である。そのわけは、永久のころ、平忠盛が東山祇園のほとりで怪しい法師を生け捕りにした褒美として、白河院がもっとも寵愛していたと聞こえた祇園女御を忠盛に下されたことにある。この女房はすでに身ごもっていた。「生まれる子が女ならば朕の子にしよう。男ならば忠盛が引き取って武士に仕立てよ」との仰せであった。やがて男が生まれた。表立って披露はしなかったが、内々には大切に育てていた。「このことを何とかして奏上したい」と思っていたが、しかるべき機会もなかったところ、ある時白河院が熊野へ御幸された。紀伊国のいとり坂という所で御輿を据えさせ、しばらく休息された。その時忠盛は、藪にいくらでもあったぬかごを袖に盛り入れて御前に参り、かしこまって「いもが子ははう程にこそなりにけれ」と申し上げた。院はすぐにお察しになり、「ただもりとって養いにせよ」と付句をなさった。こうしてわが子として扱われるようになった。この若君があまりに夜泣きをしたので、院がお聞きになって一首の御歌を詠んで下された。
夜泣きすとただもりたてよ末の世に清く盛るることもこそあれ
夜泣きをするというなら、ただ守り育てよ。末の世に清く盛んになることもあるだろうから。
それよりしてこそ清盛とは名のられけれ」〔以上『平語』。○『源平盛衰記』に載する所、右に同じ。ただしその文小異あるのみ〕。
それからこそ清盛と名のられたのである〔以上『平家物語』。『源平盛衰記』の記事も同じで、文章に小さな違いがあるだけである〕。
また『成形図説』〔巻二十二〕山津芋糠子の条下に、右の本文を略抄引用して曰く、「臣国柱按ずるに、世に不出非常の人、必ずその本生の父の詳らかならぬぞ多かる。豊臣秀吉公の平清盛に似たるにや。一書に太閤秀吉の父測らずというは、はじめ馬島明眼院といえる者あり。天子の御眼病を療治しまいらせしかば、叡感の余り宮女を明眼に賜わりける。この宮女天子の幸を受けて懐胎なり。これは後奈良帝の御宇の時の事にて、明眼ちょう名も後に賜わりし名にや。始めより宮女有身の事も知れざりしにぞ。しかるに明眼は浄戒を保ちて一向に妻を納れず。この宮女を尾州愛智郡中村の住人筑阿弥に与えけり。ついに筑阿弥がりにて出生せしはすなわち秀吉なり。一説に筑阿弥はじめ中村弥助昌吉と号す。故に世には王氏のように言いなせるもあり。また俗説に筑阿弥が妻、『日輪懐に入る』と夢みて孕み、誕生ありし故、童名を日吉丸と号すなどあるも、天子の御種を宿せしを言いなせるにや。『太閤記』などいう草子には、その母は持萩中納言保廉卿の女なり。天文丙申正月元日誕生と記せり。一説には信長の足軽木下弥助というものの子なりとあり。しかれども秀吉の信長に仕えし次第を見るに、木下弥助が子ならば、初めより信長に仕うべき事なり。また筑阿弥の秀吉における、わが子のあしらいとも見えず。僧にもなさんとせし程に、秀吉、父の所を逐電せられし事あり。かつまた秀吉、一天下を掌握せられての後、親の廟所とて中村にもなく、また墓所も知れず。秀吉の父たしかならば、きっと位牌なども取り建てらるべきに、その事も聞こえず。いずれにも筑阿弥は本生の父にあらざるを、己も知り給いしなるべし」といえり〔下略〕。
また『成形図説』〔巻二十二〕の山津芋糠子の条には、この本文を抜き書きして引用したうえでこう言う。「臣国柱が考えるに、世に出ることのない非凡な人は、生みの父がはっきりしない者が多い。豊臣秀吉公が平清盛に似ているのもそれだろうか。ある書に太閤秀吉の父は分からないというのは、こういう話である。はじめ馬島明眼院という者がいた。天子の眼病を治療したので、感心のあまり宮女を明眼に賜った。この宮女は天子の寵を受けて身ごもっていた。これは後奈良帝の御代のことで、明眼という名も後に賜った名であろうか。はじめから宮女が身ごもっていることは知られていなかった。ところが明眼は戒律を守って妻を迎えなかった。そこでこの宮女を尾張国愛智郡中村の住人筑阿弥に与えた。ついに筑阿弥のもとで生まれたのが秀吉である。一説に筑阿弥は初め中村弥助昌吉と名のったといい、そのため世間では王氏の血筋のように言いなす者もある。また俗説に、筑阿弥の妻が『日輪が懐に入る』と夢に見て身ごもり、生まれたので童名を日吉丸といったなどというのも、天子の御種を宿したことを言いなしたものだろうか。『太閤記』などという草子には、その母は持萩中納言保廉卿の娘で、天文丙申の正月元日に生まれたと記す。一説には信長の足軽木下弥助という者の子だとある。しかし秀吉が信長に仕えた経緯を見ると、木下弥助の子ならば初めから信長に仕えているはずである。また筑阿弥が秀吉をわが子として扱っていたようにも見えない。僧にしようとしたので、秀吉が父のもとから逃げ出したこともある。さらに秀吉が天下を握った後にも、親の墓所は中村にもなく、墓の場所も知れない。秀吉の父がはっきりしているなら、きっと位牌なども建てられたはずだが、そのことも聞こえない。いずれにしても筑阿弥が生みの父でないことは、秀吉自身も知っていたのだろう」〔下略〕。
解が言う。これらの説は古くより世の人口に膾炙したり。しかれども平相国、豊太閤を「天子の落胤なり」というがごときは、疑うべく信けがたし。よりてひそかにこれらの説の出ずる所をおもいみるに、かの平相国入道は老後にこそわろくはなりたれ、保元、平治の擾乱には功ありて不義あらず。なかんずく平治には信頼、義朝を討ち滅ぼして兵馬の権を執りしより、すでに天子をさしはさみておのがままにせざる事なく、富は三十余国をたもちて、位は人臣の上を極め、ついに天子の外戚とさえなりにたる。源平両家の始まりしより、かかる例のあることなければ、なおその素生を至尊にし、かつその人を神にせんとて、不経の言の出で来るにや。按ずるにかの「いもが子」の歌の出処は、ただこの一本のみならず、おのれ往ぬる歳、考異の編あり。今録すること左のごとし。
解が言う。これらの説は古くから世間に広く知られている。しかし平相国や豊太閤を「天子の落胤だ」というのは疑わしく、信じがたい。そこでひそかにこれらの説の出どころを考えてみると、あの平相国入道は晩年こそ悪くなったが、保元と平治の乱では功績があり、不義はなかった。とりわけ平治の乱では信頼と義朝を討ち滅ぼして兵馬の権を握ってからは、天子を擁して思うままにしないことはなく、富は三十余国を領し、位は臣下の最高位を極め、ついに天子の外戚にまでなった。源平両家が始まって以来こうした例がなかったので、その素姓を至尊に結びつけ、その人を神格化しようとして、根拠のない言葉が生まれたのであろう。考えてみると、あの「いもが子」の歌の出どころはこの一本だけではなく、私は先年その異同を考証した稿を作った。今それを次に記す。
阿弥陀寺本『平家物語』〔この書は長門なる阿弥陀寺の什物なり。防間に写本にて流布する長門本『平家物語』と同じからず。『群書一覧』を著したる尾崎雅嘉もこの書を見ざりけるにや。『平家物語』梶原が箙の梅の歌のくだりに疑いを記したり。学者よろしく弁ずべし〕に云う、「鳥羽院の御内に小大進の局とて候いけるが、いささかなる事によって御内を住み浮かれ、かたへんどなる処にかすかなる住まいしてぞ候いける。ある時小大進の局、太秦に参りて七日こもれり。わが身のありわびたる事をぞ祈り申しける。七日に満じける暁、下向せんとての夜半ばかりに、薬師十二誓願の中に、衆病悉除のたのもしきことを思い出して、
阿弥陀寺本『平家物語』〔この書は長門の阿弥陀寺の什物である。防長地方で写本として流布している長門本『平家物語』とは同じではない。『群書一覧』を著した尾崎雅嘉もこの書を見なかったのだろうか、『平家物語』の梶原の箙の梅の歌のくだりに疑問を記している。学者はよく弁別すべきである〕にこうある。鳥羽院の御所に小大進の局という女房がいたが、ささいなことで御所を離れ、辺鄙な所にひっそりと住んでいた。ある時小大進の局は太秦に参籠して七日間こもり、わが身の暮らしにくさを祈った。七日目の満願の暁、下向しようとしていた夜半に、薬師の十二の誓願の中に、あらゆる病を除くという頼もしい誓いがあるのを思い出して、
南無薬師あわれみ給え世の中に住みわびたるもおなじ病ぞ
南無薬師、あわれんでください。この世に住みわびているのも、同じ病なのですから。
と詠みてまいらせ、下向して十二日〔異本、『二』の字なし〕と申ししに、八幡の検校広清に具足してもうけたる子なり〔『もうけたる子なり』とは、待宵の小侍従が事をいうなり。これまでは『著聞集』その他の書どもに見えたるも相同じ。ただし右の歌の下の句、『ありわずらうも病ならずや』とあり〕。この子二つと申しけるに、父とも南面に出でて遊びける。この子、母がひざによりおり、広縁をはい歩きけり。頃は九月中旬のころ、南面のまがきに薯蕷はいかかり、その蘇なりさがりたりけるを、広清これを見て、
と詠んで奉り、下向して十二日〔別本には「二」の字がない〕と申したときに、八幡の検校広清と連れ添って、もうけた子である〔「もうけた子」というのは待宵の小侍従のことである。ここまでは『古今著聞集』その他の書に見えるものとも同じである。ただしこの歌の下の句は「ありわずらうも病ならずや」とある〕。この子が二歳と申したとき、父も一緒に南面に出て遊んでいた。この子は母の膝によりかかり、広縁をはい回っていた。時は九月中旬のころ、南面の垣根に山芋のつるがはいかかって、そのむかごが実って垂れ下がっていたのを、広清が見て、
いもが子ははやはう程になりにけり
いもが子ははやはう程になりにけり(芋のむかごは、もうはうほどに実った。妹の子は、もうはうほどに育った)
と口ずさみたりければ、この母この子を抱き取るとて、
と口ずさんだところ、この母はこの子を抱き取りながら、
今はもりもや取るべかるらん」〔以上、徳大寺実定卿旧都月見の段に見えたり〕
今はもりもや取るべかるらん(今はもう、もいで取ってよいのだろう。今はもう、守り役が取ってよいのだろう)〔以上、徳大寺実定卿の旧都月見の段に見える〕
また『今物語』にもこの事見えたり。云う、「小大進と聞こえし歌よみ、いと貧しくて太秦へ参りて、御前の柱に書きつけける歌云々。程なく八幡の別当光清に相具して楽しくなりにけり。子など出で来て後、もろともに居たりける処、近きところにいものつるのはいかかりて、ぬか子などのなりたりけるを見て、光清、
また『今物語』にもこの話が見える。小大進と聞こえた歌詠みが、たいそう貧しくて太秦に参り、御前の柱に書きつけた歌がある、云々。程なく八幡の別当光清と連れ添って裕福になった。子などが生まれた後、一緒にいたところ、近くに芋のつるがはいかかってむかごなどが実っているのを見て、光清が、
はう程にいもがぬかごはなりにけり
はう程にいもがぬかごはなりにけり
と言いければ、程なく小大進、
と言うと、程なく小大進が、
今はもりもや取るべかるらむ」
今はもりもや取るべかるらむ
この連歌は『菟玖波問答』にも見えたり。これらは後のものながら、『平家物語』にすら異説ある事、右のごとし。かかれば「ぬか子」の連歌をもて、清盛公を「白河帝の落胤なり」という説は、疑うべく信ずべからず。
この連歌は『菟玖波問答』にも見える。これらは後の資料ではあるが、『平家物語』にさえ異説があることは以上のとおりである。だから「ぬか子」の連歌をもって清盛公を「白河帝の落胤だ」という説は疑わしく、信じてはならない。
たとえば源頼政卿、化鳥を射ける勧賞に、「あやめ」といえる宮嬪を賜わらんとありしとき、〔五月雨に池のまこもの水まさりいずれあやめと引きぞわずらう〕と詠みけるよしは、『平家物語』『源平盛衰記』その他の冊子にも見えたれど、無住法師が『沙石集』〔五巻〕には、故鎌倉の右大将家、「あやめ」というは下者の美人なりけるを、「梶原三郎兵衛尉に給わらん」とありしとき、梶原すなわち云々と詠めりしよし言えり。ただし歌の上の句、『沙石集』には「菰草あさかの沼に茂りあいて」とあり。「無住は俗姓梶原の族なれば、かの集にいう所をもてまさしとすべし」と、先輩の言えるがごとし。ただこれのみならず、「清く盛れる」とある御製によりて、「清盛」と名のりしということも信けがたし。平家は貞盛より以来、「盛」をもて二字名の下に置くこと珍しからず。さるにより清盛の「清盛」と名のれるならん、別に意味あることとしもおもほえず。もしその字義によりて言わば、清白をもて後々まで盛んなりとせらるるものは、無為不争の盛徳のみ。「仁者は富まず、富めば則ち仁ならず」。かの入道の人となり、清白盛徳あることなければ、「末世に清く盛んならん」と詠ませ給いしよしは当たらず。「尽く書を信ずれば書無きに如かず」と聞こえたる孟子の誨えいえばさらなり。
たとえば源頼政卿が怪鳥を射た褒美に「あやめ」という宮女を賜ろうとしたとき、〔五月雨で池の真菰の水かさが増し、どれがあやめか引き分けかねる〕と詠んだという話は、『平家物語』や『源平盛衰記』その他の冊子に見えるが、無住法師の『沙石集』〔五巻〕では、故鎌倉の右大将頼朝が、「あやめ」という下仕えの美人を「梶原三郎兵衛尉に与えよう」と言ったとき、梶原がそこでこれこれと詠んだと伝えている。ただし歌の上の句は『沙石集』では「菰草あさかの沼に茂りあいて」とある。「無住は俗姓が梶原の一族だから、この集にいうところを正しいとすべきだ」と先輩が言っているとおりである。そればかりではない。「清く盛れる」という御製によって「清盛」と名のったということも信じがたい。平家は貞盛以来、「盛」を二字名の下に置くことが珍しくない。だから清盛が「清盛」と名のったのであり、別に意味があるとは思われない。もし字義によって言うなら、清らかさによって後々まで盛んであるとされるのは、争わず無為の徳を持つ人だけである。「仁者は富まず、富めば仁ではない」という。あの入道の人柄に清らかな盛徳があるわけではないから、「末世に清く盛んであれ」と詠まれたという話は当たらない。「書物をすべて信じるなら、書物がないほうがましだ」という孟子の教えを持ち出すまでもない。
これらのたぐい世に多かり。
こうしたたぐいは世に多い。
また豊太閤の父の事、昔よりして知るよしなければ、さまざまに言うものあれども、いずれも不経をまぬかれず。そが中にも、「後奈良院の孕みたる宮女をもて明眼院に給わりしより、その宮女は尾張なる筑阿弥に遣嫁せられて生めりし、その子は秀吉なり」といえる説こそ受けられね。いかにとならば、明眼院は初めより浄戒を保つによりて妻を娶らざるものにしあらば、たとい至尊の恩賞なりとも、宮女を賜わらんとあるときに辞し奉るべき事なるべし。さるを辞まず受け奉りて、一両月の程なりとも、その身は医師のことなるに、その懐胎を知らざりしは、いといぶかしき事にあらずや。しかのみならず、遥々と遠く貧しき尾張なる筑阿弥に遣嫁せし。こう理に違いし事あるべくもあらずかし。
また豊太閤の父については、昔から知るすべがないので、さまざまに言う者があるが、どれも根拠のなさを免れない。その中でも、「後奈良院の身ごもった宮女を明眼院に与え、その宮女は尾張の筑阿弥に嫁がされて生んだ子が秀吉だ」という説は受け入れられない。なぜなら、明眼院が初めから戒律を守って妻を迎えない者であったなら、たとえ至尊の恩賞であっても、宮女を賜るときに辞退したはずである。それを辞退せずに受けたとして、一、二か月の間であっても、医師でありながらその懐妊に気づかなかったというのは、たいそう不審なことではないか。そればかりでなく、はるか遠い貧しい尾張の筑阿弥に嫁がせたという。これほど理に反することがあるはずがない。
またその母の懐へ「日輪の入る」と夢みて秀吉公を生みしといえるを、俗説とのみすべからず。はじめ朝鮮の役を起こさんとせられし時、異邦へ送り示させし書翰の中に、かの日輪の一条あり。かかれば実にその事ありしか。さらずば「みずから神にせん」とて、このときにわかに云々と書き示させしも知るべからず。寛永の末のころ、羅山林先生、台命によりて書きつめたる『将軍譜』にも、これを載せて云う、
またその母の懐に「日輪が入る」と夢に見て秀吉公を生んだという話は、俗説とばかりも言えない。はじめ朝鮮出兵を起こそうとしたとき、外国に送った書簡の中にこの日輪の一条がある。とすれば本当にそういうことがあったのだろうか。さもなければ「みずからを神にしよう」として、このとき急にこれこれと書き示させたのかもしれない。寛永の末ごろ、林羅山先生が幕命によって編纂した『将軍譜』にもこれを載せてこう言う。
「秀吉はその所生を知らず。あるいは曰く、尾張国愛智郡中村の郷、筑阿弥の子。その母、日輪の懐中に入ると夢みてこれを生む。故に日吉と名づく」。
「秀吉はその出生を知らない。あるいは言う、尾張国愛智郡中村の郷の筑阿弥の子である。その母は日輪が懐に入る夢を見てこれを生んだ。だから日吉と名づけた」。
これも当時の小説を取られたるものながら、これより外の正文なし。しかれども世の人の、秀吉公の実父の名をだに知りたるもののあることなきに、まいて末生に、その母人の夢物語を誰か知るべき。よりて思うに、秀吉公の幼名を「日吉」といいしが実事ならば、『東国太平記』に言えるがごとく、天文丙申の年に生まれ給えば、「猿」に因みし名にはあらぬか。かの記なる略伝には、童名を「猿」というと言えり〔本文は下に抄すべし〕。「猿」といいしは綽号にて、「日吉」といいしは童名か。そを弁ずるよしなけれども、「日吉」はすなわち「比叡」にして、もと山王の山号なれば、またこれ「猿」に因みあり〔いにしえは「吉」を「エ」と読めり。よりて「比叡」を「日吉」、「澄の江」を「住の吉」とも書けり。後世この訓読を失いしより、「日吉」を「ひよし」と読み、「住吉」を「すみよし」と唱うるは、皆あやまりなり〕。
これも当時の小説から取られたものだが、これ以外に正式の記録はない。しかし世の人で秀吉公の実父の名さえ知っている者がないのに、まして後世に、その母の夢物語を誰が知りえようか。そこで思うに、秀吉公の幼名を「日吉」といったのが事実なら、『東国太平記』が言うように天文丙申の年に生まれたのだから、「猿」にちなんだ名ではないか。この記録の略伝には童名を「猿」といったとある〔本文は下に抜き書きする〕。「猿」というのはあだ名で、「日吉」が童名だろうか。それを判別する手がかりはないが、「日吉」はすなわち「比叡」であり、もともと山王の山号だから、これもまた「猿」に縁がある〔昔は「吉」を「エ」と読んだ。だから「比叡」を「日吉」、「澄の江」を「住の吉」とも書いた。後世この読みが失われてから、「日吉」を「ひよし」と読み、「住吉」を「すみよし」と唱えるのは、みな誤りである〕。
また俗説に、「秀吉の面貌の猿に似たり」というものあれども、その肖像を今も見るに、「まさしく猿に似たり」とはおもほえず。稚き比より小ざかしく、かつその本命丙申なれば、里人らの綽号して「猿」といいしという説も、穏やかなりとすべきにや。されば信長公の罵りて「猿冠者」と呼び給いしも、世の言い草によられしならん。かかれば「猿」といいしより、「猿」に因みて「日吉」という名さえ作り設けたる、当時好事の所為にあらぬか。これもまた知るべからず。そはとまれかくもあれ、『成形図説』に一書を引きて、秀吉公の父の名を「木下弥介」と記したる、「弥介」は「弥右衛門」のあやまりなり。その証は、
また俗説に「秀吉の顔つきは猿に似ていた」というものがあるが、その肖像を今見ても、「まさしく猿に似ている」とは思われない。幼いころから小ざかしく、しかも本命の年が丙申なので、里人たちがあだ名して「猿」と呼んだという説も、穏当とすべきだろうか。だから信長公が罵って「猿冠者」と呼んだのも、世間の言い草によったのだろう。とすれば「猿」と呼ばれたことから、「猿」にちなんで「日吉」という名まで作り出したのは、当時の好事家の仕業ではないか。これもまた分からない。それはともかく、『成形図説』がある書を引いて秀吉公の父の名を「木下弥介」と記しているが、「弥介」は「弥右衛門」の誤りである。その証拠は次のとおりである。
『東国太平記』〔巻一〕に云う、「伝に曰く、秀吉は氏姓詳らかならず。大徳を賞せんがために、種々の奇説を記すといえども、皆信ならず〔中略〕。ある説に曰く、秀吉の父はもと織田信秀の鉄砲の者に、木下弥右衛門という人なるが、奉公を辞し、その在所なる尾州愛智郡中村に帰住す。同母は同郡御器所村の人なり。持萩中納言の息女なりとかや。その故は中納言罪ありて、尾州村雲の里へ配流せられ、息女一人ありて二歳の時、中納言卒去せらる。これにより後室は娘を誘いて京へ上りしが、年経て洛陽兵乱起こり、在京なりがたく、よりて息女十六歳の時、また尾州へ下り居給いしが、十八歳の時、弥右衛門に嫁して、女子一人とその次に天文五丙申春正月元日の朝、男子をもうけ給う。これすなわち秀吉なり。童名を『猿』と言うにつきて、種々の異説あり。皆不実なり。ただ申年に生まれ給うによりてなり。父母何となくその名を『猿』と呼ばれしなり。面貌も自然に猿に似て、また仕業も小ざかしく、猿に似給いけるにや。この説もっとも可なり。秀吉の姉は成人の後、同国乙之村の民弥介に嫁す。弥介後に三好武蔵守三位法印一露と称す。これすなわち関白秀次の実父なり」〔下略〕。
『東国太平記』〔巻一〕にこうある。「伝に言う。秀吉は氏姓が明らかでない。大きな徳を称えるために種々の奇説が記されているが、どれも信じられない〔中略〕。ある説に言う。秀吉の父はもと織田信秀の鉄砲の者で、木下弥右衛門という人だったが、奉公を辞して郷里の尾州愛智郡中村に帰り住んだ。母は同郡御器所村の人で、持萩中納言の息女だという。そのわけは、中納言が罪を得て尾州村雲の里へ流され、息女が一人いて二歳のときに中納言が亡くなった。そこで後室は娘を連れて京へ上ったが、年が経って京で兵乱が起こり、在京しがたくなったので、息女が十六歳のときにまた尾州へ下って住み、十八歳のときに弥右衛門に嫁いで、女子一人と、その次に天文五年丙申の春正月元日の朝に男子をもうけた。これがすなわち秀吉である。童名を『猿』といったことについて種々の異説があるが、みな事実ではない。ただ申年に生まれたので、父母が何となくその名を『猿』と呼んだのである。顔つきも自然に猿に似て、また振る舞いも小ざかしく、猿に似ていたのだろうか。この説がもっとも妥当である。秀吉の姉は成人の後、同国乙之村の民弥介に嫁いだ。弥介は後に三好武蔵守三位法印一露と称した。これがすなわち関白秀次の実父である」〔下略〕。
按ずるに、『豊臣譜』に載せたるもの、秀吉公の兄弟四人、いわゆる第一「秀吉公」、第二「大和大納言秀長」、第三「武蔵守一路が妻」、第四「南明院殿」これなり。かかれば『東国太平記』に言う所も一定しがたし。しかれども一書に云う、「初生の女子と秀吉公は前夫弥右衛門が子なり。また秀長卿と南明院殿は後夫筑阿弥が子なり。いまだいずれか是を知らず」。
考えてみると、『豊臣譜』に載せるところでは、秀吉公の兄弟は四人で、第一が「秀吉公」、第二が「大和大納言秀長」、第三が「武蔵守一路の妻」、第四が「南明院殿」である。とすれば『東国太平記』の言うところも確定しがたい。ただしある書には、「最初に生まれた女子と秀吉公は前夫弥右衛門の子であり、秀長卿と南明院殿は後夫筑阿弥の子である。どちらが正しいかはまだ分からない」とある。
さて「明眼院云々」の一説は、右に抄せし持萩中納言母子の事より出で来たるものにやあらん。実に秀吉公の母、稚くて父を喪い給いし時、母と共に都にのぼりて、二八のころまでありし程、大内に仕えまつりて、ついに天子の御胤を宿せしなど、言わば言うべし。しかれども持萩殿の妻といえるは、本妻ならで配所にて娶りたるかりそめの側室なるべし。昔も今も流罪の人のその妻を携えて配所にゆくことなければなり。まいて勅免あらずして配所にて身まかりし人の息女を、いかにして内裏にて召し使わるべき。たといその身素生をかくして仕えまつりし事ありとても、尾張に帰りて生みたる子の初めなるは女の子にて、次に生まれしが秀吉ならば、またかの「天子の落胤なり」と言いけんことも齟齬すなり。また持萩という人は、当時公卿の名号を書きたるものに所見なし。かかれば「明眼に賜わりし宮女云々」の一説は、菅公を「文徳帝の落胤なり」というものと、平相国入道を「白河院の落胤なり」というものと相似たり。
さて「明眼院云々」の一説は、右に抜き書きした持萩中納言の母子の話から生まれたものではないだろうか。実際に秀吉公の母が幼くして父を亡くしたとき、母とともに都に上って十六歳のころまでいた間に宮中に仕え、ついに天子の御胤を宿したなどと、言おうと思えば言えるだろう。しかし持萩殿の妻というのは本妻ではなく、配所で娶ったかりそめの側室だったはずである。昔も今も、流罪の人が妻を連れて配所に行くことはないからである。まして勅免を受けずに配所で亡くなった人の息女を、どうして内裏で召し使うことがあろうか。たとえその身が素姓を隠して仕えたことがあったとしても、尾張に帰って生んだ子の最初は女の子で、次に生まれたのが秀吉なら、あの「天子の落胤だ」という話とも食い違う。また持萩という人は、当時の公卿の名を記したものに見えない。だから「明眼に賜った宮女云々」の一説は、菅原道真公を「文徳帝の落胤だ」というものや、平相国入道を「白河院の落胤だ」というものと似通っている。
皆これ当時の稗説にて、鑿空無根の言なるべし。人の好事に走ること今も昔も変わらねど、菅丞相は大賢なり。平相国は将種なり。豊太閤は英雄なり。至尊の落胤ならずというとも、誰かこれを賤しむべき。思わざること甚だし。
みなその時代の俗説で、根も葉もない言葉であろう。人が珍しい話に飛びつくのは今も昔も変わらないが、菅丞相は大賢者であり、平相国は武門の出であり、豊太閤は英雄である。至尊の落胤でなくとも、誰がこれを賤しめようか。考えの足りないことはなはだしい。
ただこれのみにあらずして、平大臣宗盛公をば「傘張の子なり」と言えり。その人暗愚なるときは、将相貴介の公子なるも、これを「匹夫の子なり」と言い、その人賢良英雄なれば、儒官、武士、匹夫の子をも、これを「天子の落胤」とす。世の褒貶は私議に起こり、是非は成敗に依ること多かり。陳寿が米を甘なうとも、氏族を飾るは人によるべし。
そればかりではなく、平大臣宗盛公を「傘張りの子だ」という者がある。その人が愚かであれば、将軍や大臣の貴い家の公子であっても「匹夫の子だ」と言い、その人が賢良な英雄であれば、儒官や武士や匹夫の子であっても「天子の落胤」にしてしまう。世の評判は私的な議論から起こり、是非は成功と失敗によって決まることが多い。陳寿のように米をもらって伝記を美化するのでなくとも、氏族を飾るかどうかは人によって決まるものである。
唐山にもさるためしあり。秦の始皇を「呂不韋が子」といい、晋の明帝を「牛金が子なり」という。これはた当時の小説なれども、史官おさおさ取るものあれば、必ずよしあることなるべし。また蜀漢の昭烈のみずから「中山靖王の後なり」と称したる、劉宋の高祖武帝のみずから「漢の楚元王の後なり」というがごとき、世系遥かなるをもて、司馬光はなお疑いぬ。たとえば織田家を「清盛の裔孫なり」というといえども、世系まさしからぬをもて、白石はなお疑いて、ついにその弁あるがごとし。
中国にもそういう例がある。秦の始皇帝を「呂不韋の子」といい、晋の明帝を「牛金の子だ」という。これもまた当時の小説だが、史官があえて採用しているのだから、必ずわけがあるのだろう。また蜀漢の昭烈帝がみずから「中山靖王の子孫だ」と称し、劉宋の高祖武帝がみずから「漢の楚元王の子孫だ」と言ったことは、世系が遠すぎるので司馬光はなお疑った。たとえば織田家を「清盛の子孫だ」というけれども、世系が確かでないので新井白石はなお疑い、ついにその弁を著したようなものである。
またこの事と似たるものあり。足利の義包を「為朝の子なり」といい、岩松入道天用を「新田少将義宗の子なり」といえる、すなわちこれなり。しかれども義包の一条は、足利の族なりける今川了俊の説にして、『難太平記』に出でたれば、信ずべく疑うべからず。ただこれのみならずして、『梅松論』にもほぼそのよし見えたり。同書下の巻、足利尊氏卿西国より攻め上るおり、筥崎なる八幡宮へ参詣の段に、「すなわち寄附地あるべし」とて、御文章のために社家の古文を召し出されし中に、昔鎮西八郎為朝の寄附の状ありしを御覧ぜられて、「当家の祖神、実にありがたく」おぼしめして、御敬信浅からず云々と言えり。このとき尊氏の「当家の祖神」と言われしは、八幡宮に為朝朝臣をかけたることと聞こゆなり。かかれば今川氏のみならで、尊氏卿ももとよりまたその身の為朝の裔孫なるを知りておわせしなり。また天用の義宗のおん子なるよしは、『岩松系譜』に見えたれば、これらは平相国、豊太閤の素生を言うものと同じからず。事迹に信と不信とあり。論者よろしく択むべし。また、
またこのことと似たものがある。足利の義兼を「為朝の子だ」といい、岩松入道天用を「新田少将義宗の子だ」というのがそれである。しかし義兼の一条は、足利の一族であった今川了俊の説で『難太平記』に出ているのだから、信ずべきで疑ってはならない。そればかりでなく、『梅松論』にもほぼそのことが見える。同書下巻、足利尊氏卿が西国から攻め上るおりに筥崎の八幡宮に参詣した段に、「寄進地を出そう」と言って、文書を作るために社家の古文書を取り寄せさせた中に、昔の鎮西八郎為朝の寄進状があるのをご覧になり、「当家の祖神は実にありがたい」と思われて敬信浅からず云々とある。このとき尊氏が「当家の祖神」と言ったのは、八幡宮に為朝朝臣を重ねてのことと聞こえる。とすれば今川氏だけでなく、尊氏卿ももともと自分が為朝の子孫であることを知っておられたのである。また天用が義宗の子であることは『岩松系譜』に見えるから、これらは平相国や豊太閤の素姓を言うものとは違う。事跡には信じるべきものと信じるべきでないものとがある。論者はよく選ぶべきである。また、
ある記に云う、「太閤秀吉公の父知れざるをもって、牽強付会の説多し。それらは今さら論ずるに足らず。伝に云う、秀吉はその母野合の子なり。そのいわけなかりし時、連れ子にして木下弥右衛門に嫁したるに、弥右衛門早く世を去りければ、その頃織田家の茶坊主にて筑阿弥といいしもの、浪人して近村にあるをもて、すなわちこれを入夫にしたり。この故に弥右衛門は秀吉の継父にして、筑阿弥は仮父なり。母が野合の子なるをもて、実の父の事においてはその名をだにも言い知らせず。秀吉もまたこれを悟りて、『われに父なし』と言われしなり。もし弥右衛門にもせよ、筑阿弥にもあれ、生みの父ならんには、早く世を去りて年を経るとも、秀吉武運比類なく、富四海を保つに至りて、父の廟所を建立し、贈位贈官の追福あるべし。しかるにその事なかりしは、野合の子なればなり」と言えり。
ある記録にこうある。「太閤秀吉公の父が知れないので、こじつけの説が多い。それらは今さら論ずるに足りない。伝に言う。秀吉はその母が野合して生んだ子である。幼いときに連れ子として木下弥右衛門に嫁いだが、弥右衛門が早く世を去ったので、そのころ織田家の茶坊主で筑阿弥という者が浪人して近村にいたのを、入り婿にした。だから弥右衛門は秀吉の継父であり、筑阿弥は仮の父である。母が野合して生んだ子なので、実の父についてはその名さえ知らせなかった。秀吉もまたこれを悟って、『私には父がいない』と言ったのである。もし弥右衛門にせよ筑阿弥にせよ生みの父であったなら、早く世を去って年月が経っていても、秀吉が比類ない武運によって天下の富を握るに至ったとき、父の廟所を建立し、位や官を贈って追善したはずである。ところがそれがなかったのは、野合の子だからである」と。
こは理あるに似たれども、また不経をまぬかれず。そもそも当時の小説者流、豊太閤のその亡父のために廟所を建立し給わざりしと、贈官爵の事なきとを深く疑う心を師として、臆説をなすものなり。今予が思うよしはしからず。
これは理があるように見えるが、やはり根拠のなさを免れない。そもそも当時の小説者流は、豊太閤が亡父のために廟所を建てなかったことと、官爵を贈らなかったこととを深く疑う心を頼りにして、臆説をなしているのである。今私の考えはそうではない。
つらつら豊公の情状を亮察して、よくその意中を推しはかるに、その恩すべて現世に過ぎて、過去の事には絶えてなし。ただ信長のおんためにのみ大法事を興行して、廟所を荘厳し給いしは、諸将の心を釣らんがためなり。その他丹羽、蒲生、堀のともがら、百万石を食せしも、すでに没後に至りては、その国郡の三つが一つも、その子どもには受けしめ給わず。これらは骨肉なるものならねば、恩に増減ありとも言うべし。秀長卿は弟なり。その世にいまそかりし日は、数十万石の主として官職亜相にのぼせしも、その没後にいたりては、早くも忘れたるがごとし。こは異父兄弟なるものなれば、かくてもあらんと言わば言うべし。かの棄君は豊公の老後に生ませし愛子なり。その誕生の初めより、天下の富も足らざるごとくめでいつくしみ給いしに、たちまち早逝し給いしかば、哀慕の涙は胸にこそ盈つらめ、その後々まで菩提のために大かたならぬ法会などを執り行われし事は聞こえず。この情状を推すときは、幼弱微賤の時に別れて、その面影だも見知らざる亡父の事には懸念せず、ただ現在なる母御前をのみ「大政所」と尊称して、孝養を尽くし給いしなり。その母御前も父のごとく早く世を去り給いなば、追慕の孝養なきにより、世の人ついに豊公の母をすら知らずして、あるいは「天より降り給いぬ」「地より湧きにき」というものあらん。かかれば豊公の事実を取りて筆に載せんと欲するもの、いまだ織田家に仕えざりし以前の事は、闕如して可なり。ひとり竹中丹後守重門の書きつめたる『豊鑑』巻の一「長浜の真砂」に云う、
つらつら豊公の心情を察して、その意中をよく推しはかると、その恩はすべて現世に向けられていて、過去のことには全く及んでいない。ただ信長のためにだけ大法要を営んで廟所を荘厳したのは、諸将の心を釣るためであった。そのほか丹羽、蒲生、堀の者たちが百万石を領していたのに、没後にはその国郡の三分の一もその子どもに継がせなかった。これらは骨肉ではないから恩に増減があるとも言えよう。秀長卿は弟である。存命の日には数十万石の主として官職も大納言に上ったのに、没後には早くも忘れられたようである。これは異父兄弟だからそうもあろうと言えば言えよう。あの棄君は豊公が老後にもうけた愛児である。誕生の初めから、天下の富も足りないほどに愛しんでいたのに、たちまち早世したので、悲しみの涙は胸に満ちていたであろうが、その後々まで菩提のために並々ならぬ法会などを執り行ったとは聞かない。この心情から推せば、幼くて身分の低かったころに別れ、面影さえ知らない亡父のことは気にかけず、ただ現に存命の母だけを「大政所」と尊称して孝養を尽くしたのである。その母も父のように早く世を去っていたなら、追慕の孝養がないため、世の人はついに豊公の母さえ知らず、あるいは「天から降った」「地から湧いた」と言う者が出たであろう。だから豊公の事実を取って筆に載せようとする者は、まだ織田家に仕える以前のことは欠いたままでよい。ただ竹中丹後守重門が書きまとめた『豊鑑』巻一の「長浜の真砂」にはこうある。
「羽柴筑前守豊臣秀吉、天文六年丁酉に生まれ〔解が言う。天文五年丙申とするものは非か〕、後に関白になり昇り給う。尾張国愛智郡中村とかや、熱田の宮よりは五十町ばかり乾にて、萱ぶきの民の屋わずか五、六十ばかりやあらん郷の、あやしの民の子なれば、父母の名も誰か知らん。一族などもしかなり」〔下略〕。
「羽柴筑前守豊臣秀吉は天文六年丁酉に生まれ〔解が言う。天文五年丙申とするものは誤りか〕、後に関白に昇った。尾張国愛智郡中村とかいう、熱田の宮から五十町ばかり北西にあり、萱ぶきの民家がわずか五、六十ほどしかない村の、卑しい民の子であるから、父母の名も誰が知ろうか。一族などについても同様である」〔下略〕。
予はこの説に従うべくおもほゆ。その事すべて実にして、その文青史に恥じずと言うべし。
私はこの説に従うべきだと思う。その事はすべて事実であり、その文は正史に対して恥じないと言うべきである。
文政八年乙酉秋七月朔 神田山脚の老逸稿
文政八年乙酉秋七月朔日 神田山脚の老逸の稿
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平豊小説辨
解云、小説野乗の信じがたき、誰か董狐の言を俟つべき。しかるに猶世の讀書の人、唯その舊記に因循して曉らざるもの多かるも、むかしハ井澤谷の両先輩、をさをさこれを辨じたり。されども言に當否あり。猶且遣漏も少からず。抑中つころよりして、かの平相國入道を白河帝の御子といひ、又豊臣ノ太閤を後奈良院の落胤なりといふものあるハいかにぞや。是等を辨ずるものもあらねば、今その異同を折衷して、世俗の迷を解かんとほりす。極めて烏滸のわざに似たれど、學ハ異を得て成るにあらずや。かゝれば竊にこの編に平と豊との二姓を擧げて、もて題目とするものしかなり。
平家物語に云、相國入道清盛公ハ只人にあらず、まことハ白河院の御子なり。その故ハ永久のころほひ、平ノ忠盛東山祗園の片ほとりにて、あやしの法師を生けながら捕へたりけるけんしやうに、白河院御最愛と聞えし祗園女御を忠盛にこそ下されけれ。此女房はらみ給へり。うめらん子、女子ならバ朕が子にせん。男子ならバ忠盛とりて弓とりにしたてよとぞ仰せける。乃男をうめり。ことにふれてハ披露せざりけれども、内々ハもてなしけり。この事いかにもして奏せばやと思はれけれども、しかるべき便宜もなかりけるが、或時白河院熊野へ御幸なる。紀伊國いとり坂といふ所に御輿をかきすゑさせて、しばらく御休息有りけり。其時忠盛やぶにいくらも有りけるぬかごを袖にもり入れ、御前に參りかしこまつて、いもが子ハはふ程にこそなりにけれと申したりければ、院やがて御心有りて、たゞもりとつてやしなひにせよとぞつけさせましましける。さてこそわが子とハもてなされけれ。此若君あまりよなきをし給ひしかば、院きこしめして一首の御詠をあそばいて下されける。
夜なきすとたゞもりたてよ末の世に清く盛るることもこそあれ
それよりしてこそ清盛とハなのられけれ〔已上平語。○源平盛衰記に載する所右に同じ。但その文小異あるのみ〕。
又成形圖説〔巻二十二〕山津芋糠子の條下に、右の本文を略抄引用して曰、臣國柱按ずるに、世に不出非常の人、必その本生父の詳ならぬぞ多かる。豊臣秀吉公の平清盛に似たるにや。一書に太閤秀吉の父測ずといふハ、はじめ馬嶋明眼院といへる者あり。天子の御眼病を療治しまゐらせしかば、叡感の餘り宮女を明眼に賜ハりける。此宮女天子の幸を受て懐胎なり。是ハ後奈良帝の御宇の時の事にて、明眼てふ名も後に賜ハりし名にや。始より宮女有身の事もしれざりしにぞ。しかるに明眼ハ淨戒を保ちて一向に妻を納れず。この宮女を尾州愛智郡中村の住人筑阿弥に與へけり。遂に筑阿弥許にて出生せしハ即秀吉也。一説に筑阿弥はじめ中村弥助昌吉と號す。故に世にハ王氏の樣にいひなせるもあり。又俗説に筑阿弥が妻、日輪懐に入ると夢みて孕み、誕生ありし故、童名を日吉丸と號すなどあるも、天子の御種を宿せしをいひなせるにや。太閤記などいふ草子にハ、其母ハ持萩中納言保廉卿の女也。天文丙申正月元日誕生と記せり。一説にハ信長の足軽木下弥助といふものゝ子也とあり。然れども秀吉の信長に仕へし次第を見るに、木下弥助が子ならバ、初より信長に仕ふべき事なり。又筑阿弥の秀吉におけるわが子のあしらひとも見えず。僧にもなさんとせし程に、秀吉父の所を逐電せられし事あり。且又秀吉一天下を掌握せられての後、親の廟所とて中村にもなく、又墓所もしれず。秀吉の父慥ならバ、きと位牌なども取建らるべきに、其事も聞えず。何れにも筑阿弥ハ本生の父にあらざるを、己もしり給ひしなるべしといへり〔下略〕。
解云、これらの説ハふるくより世の人口に膾炙したり。しかれども平相國豊太閤を天子の落胤なりといふが如きハ、疑ふべく信けがたし。よりて竊にこれらの説の出る所をおもひみるに、かの平相國入道ハ老後にこそわろくハなりたれ、保元平治の擾亂にハ功ありて不義あらず。就中平治にハ信頼義朝を討滅して兵馬の權を執りしより、既に天子をさしはさみておのがまゝにせざる事なく、富ハ三十餘國をたもちて、位ハ人臣の上を極め、遂に天子の外戚とさへなりにたる。源平両家の始りしより、かゝる例のあることなければ、猶その素生を至尊にし、且その人を神にせんとて、不經の言のいで來るにや。按ずるにかのいもが子の歌の出處ハ、只この一本のみならず、おのれ往ぬる歳考異の編あり。今録すること左の如し。
阿弥陀寺本平家物語〔この書ハ長門なる阿弥陀寺の什物なり。防間に写本にて流布する長門本平家物語と同じからず。群書一覧を著したる尾崎雅嘉もこの書を見ざりけるにや。平家物語梶原が箙の梅の歌のくだりに疑をしるしたり。學者よろしく辨ずべし〕に云、鳥羽院の御内に小大進の局とて候ひけるが、いさゝかなる事によて御内をすみうかれ、かたへんどなる處にかすかなるすまゐしてぞ候ひける。或時小大進の局太秦にまゐりて七日こもれり。我身のありわびたる事をぞいのり申しける。七日にまんじける曉、下向せんとての夜半ばかりに、やくし十二せいぐわんの中に、衆病悉除のたのもしきことをおもひ出して、
南無やくしあはれみ給へ世の中に住みわびたるもおなじやまひぞ
とよみてまゐらせ、下向して十二日〔イ、二日 字ナシ〕とまうしゝに、八幡の撿校廣清にぐそくしてまうけたる子也〔まうけたる子なりとハ、待宵の小侍従が事をいふなり。これまでハ著聞集その他の書どもに見えたるも相同じ。但右の歌の下の句、ありわづらふも病ならずやとあり〕。此子二ツと申しけるに、父とも南おもてに出てあそびける。此子はゝがひざによりをり、ひろえんをはひありきけり。頃ハ九月中旬のころ、南面のまがきに薯蕷はひかゝり、その蘇なりさがりたりけるを、廣清これを見て、
いもが子ハはやはふ程になりにけり
とくちすさみたりければ、此母この子をいだきとるとて、
いまはもりもやとるべかるらん〔已上徳大寺実定卿舊都月見の段に見えたり〕
又今物語にもこの事見えたり。云、小大進と聞えし歌よみ、いとまづしくて太秦へ參りて、御前の柱に書つけゝる歌云云。程なく八幡の別當光清に相具してたのしくなりにけり。子などいできて後、もろともに居たりける處、近きところにいものつるのはひかゝりて、ぬか子などのなりたりけるを見て、光清、
はふほどにいもがぬかごはなりにけり
といひければ、ほどなく小大進、
今はもりもやとるべかるらむ
この連歌ハ菟玖波問答にも見えたり。これらハ後のものながら、平家物語にすら異説ある事右の如し。かゝればぬか子の連歌をもて、清盛公を白河帝の落胤なりといふ説ハ、疑ふべく信ずべからず。
譬へバ源頼政卿化鳥を射ける勧賞に、あやめといへる宮嬪を賜はらんとありしとき、〔さみだれに池のまこもの水ましていづれあやめとひきぞわづらふ〕とよみけるよしハ、平家物語源平盛衰記その他の冊子にも見えたれど、無住法師が沙石集〔五巻〕にハ、故鎌倉の右大將家、あやめといふハしたものゝ美人なりけるを、梶原三郎兵衛尉に給はらんとありしとき、梶原すなはち云云とよめりしよしいへり。但し歌の上の句、沙石集にハ菰草あさかの沼に茂りあひてとあり。無住ハ俗姓梶原の族なれば、彼集にいふ所をもてまさしとすべしと、先輩のいへるが如し。只是のみならず、清く盛れるとある御製によりて、清盛と名のりしといふことも信けがたし。平家ハ貞盛より以來、盛をもて二字名の下に置くこと珍しからず。さるにより清盛の清盛と名のれるならん、別に意味あることゝしもおもほへず。もしその字義によりていはゞ、清白をもて後々まで盛なりとせらるゝものハ、無為不争の盛徳のみ。仁者不富、富則不仁。かの入道の人となり、清白盛徳あることなければ、末世に清く盛んならんとよませ給ひしよしハ當らず。盡信書不如無書と聞えたる孟子の誨いへばさらなり。
是等のたぐひ世に多かり。
又豊太閤の父の事、昔よりして知るよしなければ、さまざまにいふものあれども、何れも不經をまぬかれず。そが中にも、後奈良院の孕みたる宮女をもて明眼院に給はりしより、その宮女ハ尾張なる筑阿弥に遣嫁せられてうめりし、その子ハ秀吉なりといへる説こそうけられね。いかにとならば、明眼院ハはじめより淨戒を保つによりて妻を娶らざるものにしあらば、假令至尊の恩賞なりとも、宮女を賜はらんとあるときに辭し奉るべき事なるべし。さるを辭まずうけ奉りて、一両月の程なりとも、その身ハ醫師のことなるに、その懐胎をしらざりしハ、いと不審しき事にあらずや。しかのみならず、遙々と遠く貧しき尾張なる筑阿弥に遣嫁せし。かう理に違ひし事あるべくもあらずかし。
又その母の懐へ日輪の入ると夢みて秀吉公を生みしといへるを、俗説とのみすべからず。はじめ朝鮮の役を起さんとせられし時、異邦へおくり示させし書翰の中に、彼日輪の一條あり。かゝれば實にその事ありし歟。さらずばみづから神にせんとて、このとき猛に云云と書き示させしも知るべからず。寛永の末のころ、羅山林先生台命によりて書きつめたる將軍譜にも、これを載せて云、
秀吉不知其所生。或曰、尾張國愛智郡中村ノ郷筑阿弥子。其母夢日輪入懐中而生之。故名日吉。
これも當時の小説を取られたるものながら、これより外の正文なし。然れども世の人の秀吉公の實父の名をだに知りたるものゝあることなきに、まいて末生に、その母人の夢ものがたりを誰か知るべき。よりて思ふに、秀吉公の幼名を日吉といひしが實事ならば、東國太平記にいへるが如く、天文丙申の年に生れ給へば、猿に因みし名にはあらぬ歟。かの記なる略傳にハ、童名を猿といふといへり〔本文ハ下に抄すべし〕。猿といひしハ綽號にて、日吉といひしハ童名歟。そを辨ずるよしなけれども、日吉ハ即比叡にして、原山王の山號なれば、亦是猿に因みあり〔いにしへハ吉をエとよめり。よりて比叡を日吉、澄ノ江を住ノ吉ともかけり。後世この訓讀を失ひしより、日吉をひよしとよみ、住吉をすみよしと唱るハ、皆あやまりなり〕。
又俗説に、秀吉の面貌の猿に似たりといふものあれども、其肖像を今も見るに、まさしく猿に似たりとハおもほへず。稚き比より小さかしく、且その本命丙申なれば、里人等の綽號して猿といひしといふ説も、穩なりとすべきにや。されば信長公の罵りて猿冠者と呼び給ひしも、世の言ぐさによられしならん。かゝれば猿といひしより、猿に因みて日吉といふ名さへ作り設けたる、當時好事の所為にあらぬ歟。是も亦知るべからず。そはとまれかくもあれ、成形圖説に一書を引きて、秀吉公の父の名を木下弥介としるしたる、弥介ハ弥右衛門のあやまりなり。その證ハ、
東國太平記〔巻一〕に云、傳ニ曰、秀吉ハ氏姓不詳。大徳ヲ賞センガ為ニ、種々ノ奇説ヲ記ストイヘドモ、皆不信〔中略〕。或説ニ曰、秀吉ノ父ハ本織田信秀之鐵炮之者ニ、木下弥右衛門ト云フ人ナルガ、奉公ヲ辞シ、其在所ナル尾州愛智郡中村ニ帰住ス。同母ハ同郡御器所村ノ人ナリ。持萩中納言ノ息女ナリトカヤ。其故ハ中納言罪有テ、尾州村雲之里ヘ配流セラレ、息女一人有テ二歳ノ時、中納言卒去セラル。依之後室ハ娘ヲ誘ヒテ京ヘ上リシガ、年経テ洛陽兵乱起リ、在京成カタク、ヨリテ息女十六歳ノ時、又尾州ヘ下リ居玉ヒシガ、十八歳ノ時、弥右衛門ニ嫁シテ、女子一人ト其次ニ天文五丙申春正月元日ノ朝、男子ヲマウケ給フ。是則秀吉也。童名ヲ猿ト云ニ付テ、種々ノ異説アリ。皆不実ナリ。唯申年ニ生レ玉フニヨリテ也。父母何トナク其名ヲ猿トヨバレシナリ。面貌モ自然ニ猿ニ似テ、又仕業モコサカシク、猿ニ似玉ヒケルニヤ。此説尤可ナリ。秀吉ノ姉ハ成人ノ後、同國乙之村ノ民弥介ニ嫁ス。弥介後ニ三好武藏守三位法印一露ト稱ス。是則関白秀次ノ実父也〔下略〕。
按ずるに、豊臣譜に載せたるもの、秀吉公の兄弟四人、所謂第一秀吉公、第二大和大納言秀長、第三武藏守一路ガ妻、第四南明院殿是也。かゝれば東國太平記にいふ所も一定しがたし。然れども一書に云、初生の女子と秀吉公ハ前夫弥右衛門が子也。又秀長卿と南明院殿ハ後夫筑阿弥が子也。いまだ孰れか是をしらず。
さて明眼院云云の一説ハ、右に抄せし持萩中納言母子の事よりいできたるものにやあらん。實に秀吉公の母、稚くて父を喪ひ給ひし時、母と共に都にのぼりて、二八のころまでありし程、大内に仕へまつりて、遂に天子の御胤を宿せしなど、いはゞいふべし。然れども持萩殿の妻といへるハ、本妻ならで配所にて娶りたるかりそめの側室なるべし。昔も今も流罪の人のその妻を携へて配所にゆくことなければ也。まいて敕免あらずして配所にて身まかりし人の息女を、いかにして内裡にて召し仕はるべき。縱令その身素生をかくして仕へまつりし事ありとても、尾張にかへりて生みたる子の初なるハ女の子にて、次に生れしが秀吉ならば、亦かの天子の落胤也といひけんことも齟齬すなり。又持萩といふ人ハ、當時公卿の名號を書きたるものに所見なし。かゝれば明眼に賜はりし宮女云云の一説ハ、菅公を文徳帝の落胤也といふものと、平相國入道を白河院の落胤也といふものと相似たり。
皆是れ當時の稗説にて、鑿空無根の言なるべし。人の好事に走ること今も昔もかはらねど、菅丞相ハ大賢也。平相國ハ將種也。豊太閤ハ英雄也。至尊の落胤ならずといふとも、誰かこれを賤むべき。思はざること甚し。
只是れのみにあらずして、平大臣宗盛公をば傘張の子なりといへり。その人暗愚なるときハ、將相貴介の公子なるも、これを匹夫の子なりといひ、その人賢良英雄なれば、儒官武士匹夫の子をも、これを天子の落胤とす。世の褒貶ハ私議に起り、是非ハ成敗に依ること多かり。陳壽が米を甘なふとも、氏族を飾るハ人によるべし。
唐山にもさるためしあり。秦の始皇を呂不韋が子といひ、晋の明帝を牛金が子也といふ。これ將當時の小説なれども、史官をさをさ取るものあれば、必よしあることなるべし。又蜀漢の昭烈のみづから中山靖王の後なりと稱したる、劉宋の高祖武帝のみづから漢の楚元王の後也といふが如き、世系遥かなるをもて、司馬光ハ猶疑ひぬ。譬へバ織田家を清盛の裔孫也といふといへども、世系まさしからぬをもて、白石ハ猶疑ひて、遂にその辨あるが如し。
又この事と似たるものあり。足利の義包を為朝の子なりといひ、岩松入道天用を新田少將義宗の子也といへる、即これなり。然れども義包の一條ハ、足利の族なりける今川了俊の説にして、難太平記に出たれば、信ずべく疑ふべからず。只是のみならずして、梅松論にも粗そのよし見えたり。同書下の巻、足利尊氏卿西國より攻上るをり、筥崎なる八幡宮へ參詣の段に、すなはち寄附地あるべしとて、御文章の為に社家の古文を召出されし中に、昔鎮西八郎為朝の寄附の状有しを御覽ぜられて、當家の祖神實に難有おぼしめして、御敬信淺からず云云といへり。このとき尊氏の當家の祖神といはれしハ、八幡宮に為朝朝臣をかけたることゝ聞ゆなり。かゝれば今川氏のみならで、尊氏卿も素より又その身の為朝の裔孫なるを知りておはせし也。又天用の義宗のおん子なるよしハ、岩松系譜に見えたれば、是等ハ平相國豊太閤の素生をいふものとおなじからず。事迹に信と不信とあり。論者よろしく擇むべし。又、
或記に云、太閤秀吉公の父しれざるを以て、牽強附會の説多し。それらハ今さら論ずるに足らず。傳に云、秀吉ハその母野合の子也。そのいはけなかりし時、つれ子にして木下弥右衛門に嫁したるに、弥右衛門はやく世を去りければ、その頃織田家の茶坊主にて筑阿弥といひしもの、浪人して近村にあるをもて、即これを入夫にしたり。この故に弥右衛門ハ秀吉の繼父にして、筑阿弥ハ假父也。母が野合の子なるをもて、實の父の事においてハその名をだにもいひしらせず。秀吉も亦これを悟りて、われに父なしといはれしなり。もし弥右衛門にもせよ、筑阿弥にもあれ、生みの父ならんにハ、はや世を去りて年を経るとも、秀吉武運比類なく、富四海を保つに至りて、父の廟所を建立し、贈位贈官の追福あるべし。然るにその事なかりしハ、野合の子なればなりといへり。
こハ理あるに似たれども、又不經をまぬかれず。抑當時の小説者流、豊太閤のその亡父の為に廟所を建立し給はざりしと、贈官爵の事なきとを深く疑ふ心を師として、臆説をなすもの也。今予が思ふよしハしからず。
倩豊公の情状を亮察して、よくその意中を推しはかるに、その恩すべて現世に過て、過去の事にハ絶えてなし。只信長のおん為にのみ大法事を興行して、廟所を荘嚴し給ひしハ、諸將の心を釣らんが為なり。その他丹羽蒲生堀のともがら、百万石を食せしも、既に没後に至りてハ、その國郡の三ツがひとつも、其子どもにハ受けしめ給はず。是等ハ骨肉なるものならねば、恩に増減ありともいふべし。秀長卿ハ弟也。その世にゐまそかりし日ハ、数十万石の主として官職亞相にのぼせしも、その没後にいたりてハ、はやくも忘れたるが如し。こハ異父兄弟なるものなれば、かくてもあらんといはゞいふべし。彼棄君ハ豊公の老後にうませし愛子也。その誕生の初より、天下の富も足らざる如くめでいつくしみ給ひしに、忽早逝し給ひしかば、哀慕の涙ハ胸にこそ盈つらめ、その後々まで菩提の為に大かたならぬ法會などを執行はれし事ハ聞えず。この情状を推すときハ、幼弱微賤の時にわかれて、その面影だも見しらざる亡父の事にハ懸念せず、只現在なる母御前をのみ大政所と尊稱して、孝養を盡し給ひし也。その母御前も父の如く早く世を去り給ひなば、追慕の孝養なきにより、世の人遂に豊公の母をすら知らずして、或ハ天より降り給ひぬ、地より涌きにきといふものあらん。かゝれば豊公の事實を取りて筆に載せんと欲するもの、いまだ織田家に仕へざりし已前の事ハ、闕如して可なり。獨竹中丹後守重門の書きつめたる豊鑑巻の一長濱の眞砂に云、
羽柴筑前守豊臣秀吉、天文六年丁酉に生れ〔解云、天文五年丙申とするものハ非歟〕、後に関白になり昇り給ふ。尾張國愛智郡中村とかや、熱田の宮よりハ五十町許乾にて、萱ふきの民の屋わづか五六十ばかりやあらん郷の、あやしの民の子なれば、父母の名も誰か知らん。一族などもしかなり〔下略〕。
予ハこの説に從ふべくおもほゆ。その事すべて實にして、その文青史に耻ぢずといふべし。
文政八年乙酉秋七月朔 神田山脚の老逸稿
注
- 写本の位置
- 写本は3170の38カット目左ページから50カット目左ページまで。38カット目右ページは白紙で、38カット目左ページの冒頭に「平豊小説辨」の題がある。50カット目左ページに「文政八年乙酉秋七月朔 神田山脚の老逸稿」とあって第七集が終わり、51カット目右ページは白紙、51カット目左ページから「兎園小説第八集目録」が始まる。
- 校合
- 目録では披講者を著作堂とする。本文冒頭の「解云」は馬琴の名乗り解による。末尾の署名「神田山脚の老逸稿」は写本の読みで、活字本系テキストは末尾を「文政八年乙酉秋七月朔草」とし、署名を欠く。写本を採った。
- 校合
- 「明眼ハ淨戒を保ちて」は写本の読みで、活字本系テキストは「倫戒を保ちて」とする。後段の「淨戒を保つによりて」と一致するので写本を採った。「豊臣譜に載せたるもの」は写本の読みで、活字本系テキストは「載するもの」とする。「尾州村雲之里」は写本の読みで、活字本系テキストは「持雲之里」とする。「面貌」は写本の読みで、活字本系テキストは「面𧳖」とする。いずれも写本を採った。
- 判読保留
- 「孟子の誨」は写本では誨と読めるが、活字本系テキストは「敎」とする。字形が近く判読保留。「御敬信淺からず」の「信」は写本の読みで、活字本系テキストは「敬心」とする。写本を採ったが判読保留。「御文章の為に」の「章」は写本では朱の書き入れで、本文は別の字を書いた上に朱で章と補っている。活字本系テキストと一致するので章を採った。
- 注記
- 「猶且遣漏も少からず」の「少」は写本では本文の脇に朱で書き入れられている。「不義あらず」の「あら」、「劉宋」の「宋」、「今川氏」の「川」も朱の書き入れで、いずれも本文に取り込んだ。「譬へバ織田家を清盛の裔孫也といふといへども世系まさしからぬをもて白石ハ猶疑ひて遂にその辨あるが如し」の一文は写本では本文にはなく、47カット目左ページの上欄に△印つきで補われている。補入の位置に従って本文に入れた。
- 注記
- 「十二日〔イ、二日 字ナシ〕」の割注は写本では本文の脇に小字で「イ二日 字ナシ」と書かれている。異本注記と解して〔 〕に入れた。頼政の歌「さみだれに池のまこもの水ましていづれあやめとひきぞわづらふ」は写本では小字二行の割注の形で本文中に置かれているので、〔 〕に入れた。
- 注記
- 割注は写本では小字二行で本文中に置かれ、原文では〔 〕に入れて同じ位置に置いた。写本では成形圖説の書名に「セイギヤウヅセツ」、綽號に「アダナ」、東國太平記の引用に返り点と送り仮名などがあり、原文では外した。『東国太平記』『将軍譜』の漢文体の引用は写本のカタカナ送りをそのまま残した。
- 注記
- 井澤は井沢蟠竜、谷は谷川士清と解した。國柱は『成形図説』の編者曽槃の名で、成形図説は薩摩藩の本草書。尾崎雅嘉は『群書一覧』の著者。羅山林先生は林羅山、『将軍譜』は『豊臣秀吉譜』を含む将軍家譜と解した。竹中丹後守重門は竹中半兵衛の子で『豊鑑』の著者。いずれも人名と書名の比定は未確認。
- 注記
- 足利の義包は足利義兼の誤写と見て現代語訳では義兼とした。原文と読み下しは写本の義包を残した。棄君は秀吉の子鶴松、南明院殿は秀吉の妹朝日姫を指すと解した。
- 注記
- 「陳壽が米を甘なふとも」は、陳寿が米を受け取って伝記を書いたという『晋書』の故事を踏まえると解し、現代語訳では意を補って訳した。
AI試訳 / 専門家未校閲