雲亭日本古典図書室収録作品の一覧

天照皇太神を呉太伯といふ辯

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兎園小説 / 曲亭馬琴ほか 兎園会の会員 / 第八集 第12話 / 乾斎 中井琴民

天照大神は呉の太伯だという俗説を並べたうえで、史書と年代から誤りだと退ける。

本文 現代語訳

天照太神を呉太伯といふの弁
天照大神を呉の太伯だという説についての弁
或るひと云ふ、伊勢国天照太神を呉の泰伯と申す説、宋元の代より申す所にて、儒者よりこれを見れば、もっとも事跡に付きて左あるべし。神道者よりはこの説を甚だ嫌ひ、堂上方、禁中方にても用ゐられず。これもまたあるべし。日本は大唐と各別の式を立つるゆゑなり。
ある人が言うには、伊勢の天照大神を呉の泰伯だと申す説は、宋や元の時代から言われているもので、儒者の側から見れば、なるほど事跡に照らしてそうもあろう。神道家の側はこの説をたいへん嫌い、堂上方や禁中でも用いられない。これもまたもっともなことだ。日本は中国とは別の型を立てているからである。
しかれども仰ぎてこれを考ふるに、呉の泰伯は誰人ぞ。周室の高祖后稷の嫡子にて、二男は王季なり。后と王季と聖人なり。王季の子文王、その子武王、周公、いづれも聖人と称す。世子の説ありて、泰伯は弟の王季に譲りて家を出でて去りぬ。これを三譲といひて、『論語』にも泰伯をば至徳と称せられたり。呉国へ去られしと古書にもあり。呉国より日本へ渡せらる。呉国は南京なり。日本と近し。その頃は日本はわづかの島国にて、鬼畜同前の土民住す。かれは穴に住し、猟漁して食せしなり。泰伯、九州日向国鵜渡の湊へ舟を留めらる。その後、高千穂の嶽に上り住し給ふ。日向に今その事跡残れりと申し伝ふ。かの国にても王代の古質あり。耕作を教へ、人倫の道を教へ給ふ。よりて人道開けて、国人尊敬す。素盞烏尊は皇の御弟なり。しかれども御心に叶はぬ事ありて、御教へを止めて引き籠り給ふ。よりて法令の教へなし。人々難儀に及び、これを天の岩戸に引き籠らせ給ひて、常闇の世といふ。しかれば皆人歎き諫め申して、再び法令あるにつき、日月かがやくといふ。かの渡海の時の御舟、これを伊勢国の船の御蔵と申す神宝これなり。農具を入れ持たせたる、今に御蔵に納めたり。よりて御倉と申す。そのほか司室童子の画あり。髪を乱して童形の、竿をさす処の絵なり。これ渡海の御船を写すと云ふ。また内宮に三譲伏あり。三譲の文字を写す。これ御殿に質朴礼儀をふまへさせ給ふしるしなり。これによりて内宮を泰伯、外宮を后稷と説き申すといふ。外宮は国常立尊と申すも、この説あり。
けれども仰ぎ見て考えてみると、呉の泰伯とは誰か。周室の始祖后稷の嫡子で、次男が王季である。后稷と王季は聖人である。王季の子の文王、その子の武王、周公、いずれも聖人と称される。世子の説があって、泰伯は弟の王季に譲って家を出て去った。これを三譲といって、『論語』でも泰伯を至徳と称えている。呉の国へ去ったと古書にもある。呉の国から日本へ渡られた。呉の国は南京で、日本と近い。その頃の日本はわずかな島国で、鬼畜同然の土民が住んでいた。彼らは穴に住み、狩りや漁で食べていたのである。泰伯は九州日向国の鵜渡の湊に舟を留められた。その後、高千穂の嶽に登って住まわれた。日向には今もその事跡が残っていると言い伝える。かの国にも王朝の古い風があった。耕作を教え、人倫の道を教えられた。そこで人の道が開け、国の人が尊敬した。素戔嗚尊は皇の弟である。けれども御心に叶わないことがあって、教えを止めて引き籠られた。そのため法令の教えがなくなった。人々は難儀して、これを天の岩戸にお籠りになった常闇の世という。そこで皆が嘆いて諫め申し上げ、再び法令が行われたので、日月が輝いたという。その渡海のときの御舟が、伊勢の国で「船の御蔵」と申す神宝である。農具を入れて持たせたものが今も御蔵に納められている。それで御倉と申す。そのほか司室童子の画がある。髪を乱した童子の姿で竿をさしている絵である。これは渡海の御船を写したものだという。また内宮に三譲伏がある。三譲の文字を写している。これは御殿で質朴と礼儀を踏まえさせられたしるしである。これによって内宮を泰伯、外宮を后稷と説き申すという。外宮は国常立尊と申すのもこの説である。
さて日本を姫氏国と野馬台の詩にも見えたり。周室また姫氏、符合かくのごとし。
さて日本を姫氏国と呼ぶことは野馬台の詩にも見える。周室もまた姫氏で、このように符合する。
弁に云ふ、この説、古来より誤り来ること年久し。釈の円月『日本史』を作り、朝に献ず。その書に泰伯をもって始祖とす。ゆゑに議論ありて行はれずと云ふ事は、蕉了子が記せる『史記抄略』に見ゆるなり。かつ『旧事記』『古事記』『日本紀』にこの説に似たる事実はなし。浜成の『天書記』、広成の『古語拾遺』、『倭姫世説』『鎮座伝記』『御鎮座次第』『宝基本記』『類聚神祇本源』『元々集』等の書にまた見えず。野馬台の詩は世俗に伝はるばかり、書籍の中かつて見えず。梁の宝誌和尚の讖文なりといへども、誌が詩伝中にも見えず。たとひ宝作りぬるも、霊僧の詞、証拠とするに足らず。『神皇正統記』に「異朝の一書中に、日本は呉の泰伯の後なり」といふ。さらに当たらず。思ふに唐土の人、我が邦の書を知らず。ひとへに商舶俗侶の口に任せて、年代をも弁ぜず、実非を正さず、実を失ふこと多し。もと我が邦の人、国史にくらきゆゑ、姫氏国の言に迷ひ、泰伯を誣罔し、仏者は大日孁の名をもって大日を附会し、これ周礼造言の刑を免れざるの人、国神正直の教へに背く。実に聖神の罪人なり。開闢の始め、神霊を称するは古今の常。予、別に説あり。ここに略す。
弁じて言う。この説は昔から誤って伝わること久しい。僧の円月が『日本史』を作って朝廷に献じた。その書は泰伯を始祖としている。そのため議論があって行われなかったということは、蕉了子が記した『史記抄略』に見える。また『旧事記』『古事記』『日本紀』にこの説に似た事実はない。浜成の『天書記』、広成の『古語拾遺』、『倭姫世説』『鎮座伝記』『御鎮座次第』『宝基本記』『類聚神祇本源』『元々集』などの書にも見えない。野馬台の詩は世間に伝わるばかりで、書物の中には見えない。梁の宝誌和尚の予言だというが、宝誌の詩伝にも見えない。たとえ宝誌が作ったとしても、霊僧の言葉は証拠にするに足りない。『神皇正統記』に「異国の一書に、日本は呉の泰伯の後だとある」という。まったく当たらない。思うに中国の人はわが国の書物を知らず、ひたすら商船の乗員や俗僧の口に任せて、年代も弁えず、真偽も正さず、事実を失うことが多い。もともとわが国の人は国史に暗いので、姫氏国という言葉に惑わされ、泰伯をかたって偽り、仏者は大日孁の名によって大日如来をこじつけた。これは『周礼』の造言の刑を免れない者であり、国つ神の正直の教えに背く。まことに聖なる神に対する罪人である。開闢の初めに神霊を称えることは古今の常で、私には別に説があるが、ここでは略す。
或るひと云ふ、天地開闢の始めより我が国ありて、大日本豊秋津洲と号し、我が君の子、世々統を続ぎ給ふ。いはゆる天照太神の御子孫なり。呉は泰伯より始まり、世の遅るること数千歳、日本何ぞ泰伯の子孫ならんや。『史記』呉の世家を按ずるに、泰伯卒して子なし。弟仲雍立つ。後十七世夫差、越の勾践のために滅さる。この時我が邦、孝昭天皇三年に当たる。夫差より前、呉の日本へ通ぜし事なし。異域の人、我が邦に来て臣民となるは、すなはちこれあり。その氏族を蕃別といふ。この類甚だ多し。その中に松野氏あり。『新撰姓氏録』に曰く、松野は呉夫差の後なりと。これ呉人我が邦に来るの始めなり。『日本紀』に拠るに、応神天皇三十三年春二月、阿智使主、都賀使主を呉に遣はし、縫女を求めしむ。ふたりの使者、高麗に渡り呉に至らんとするに、道路を知らず。知る者を高麗に乞ふ。高麗の王、すなはち久礼波、久礼志二人をて郷導とす。これによりて呉に通ずることを得たり。呉王、工女兄媛、弟媛、呉織、穴織四人を与ふ。大織冠鎌足執政の時、百済の禅尼法明、対馬に来て呉音に『維摩経』を誦す。よりて呉音を対馬読といふ。呉音の源起なり。しかれども泰伯を天照太神といふ事、いづれの書にも見えず。『日本紀纂疏』に一条兼良公の説に、「韻書を考ふるに、姫は婦人の美称なれば、思ふに天照太神は始祖の陰霊、神功皇后は中興の女主たるゆゑに、国俗、姫氏国と称す」とかや。ただ字義によりて事を論ずるときは、この類常に多し。けだし物極まれば変じ、人窮すれば則ち本に返る。天地の常道にして古今の事宜なり。
ある人が言うには、天地開闢の初めからわが国はあって、大日本豊秋津洲と号し、わが君の御子が代々皇統を継いでこられた。いわゆる天照大神の御子孫である。呉は泰伯から始まり、時代が数千年も遅れているのに、日本がどうして泰伯の子孫であろうか。『史記』の呉世家を調べると、泰伯は死んで子がなく、弟の仲雍が立った。十七代後の夫差が越の勾践に滅ぼされた。このときわが国では孝昭天皇三年に当たる。夫差より前に呉が日本へ通じたことはない。異国の人がわが国に来て臣民になることは、確かにあった。その氏族を蕃別という。この類はたいへん多い。その中に松野氏がある。『新撰姓氏録』に「松野は呉の夫差の後」とある。これが呉人がわが国に来た始めである。『日本紀』によれば、応神天皇三十三年春二月、阿智使主と都賀使主を呉に遣わして縫女を求めさせた。二人の使者は高麗に渡って呉に行こうとしたが道が分からず、知る者を高麗に頼んだ。高麗の王は久礼波と久礼志の二人を道案内にした。これによって呉に通じることができた。呉王は工女の兄媛、弟媛、呉織、穴織の四人を与えた。大織冠鎌足が政治を執った時、百済の禅尼法明が対馬に来て呉音で『維摩経』を誦した。それで呉音を対馬読みという。呉音の起源である。けれども泰伯を天照大神というようなことはどの書にも見えない。『日本紀纂疏』の一条兼良公の説に、「韻書を調べると姫は婦人の美称であるから、思うに天照大神は始祖の女神で、神功皇后は中興の女主であるため、国の習いで姫氏国と称するのだろう」とある。ただ字の意味だけで事を論じると、この類の説はいつも多いものだ。思うに物は極まれば変じ、人は窮すれば本に返る。天地の常道であり古今の道理である。
予、『兎園小説』を作らんとす。嚢底を叩きて考ふるに、奇説新説、諸君の筆に出づ。予が輩、これをいかんぞ筆すべし。ここにおいて本に返り、源を尋ね、天照皇の説を写し、いささかもって例の兎園に備ふと云ふ。
私は『兎園小説』のために書こうと、袋の底を叩いて考えてみたが、奇説も新説も諸君の筆から出てしまっている。私のような者がこの上どうして筆をとれよう。そこで本に返り源を尋ね、天照皇の説を写して、いささか例の兎園会に備えた次第である。
乙酉八朔 中井琴民識
乙酉八朔 中井琴民識
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天照太神を吳太伯といふの辯

或云伊勢國天照太神を吳の泰伯と申說宋元の代より申所にて儒者よりこれを見れば尤事跡に付て左あるべし神道者よりハ此說を甚嫌ひ堂上方禁中方にても不被用これも亦た有べし日本ハ大唐と各別の式を立る故也

然共仰てこれを考ふるに吳の泰伯ハ誰人ぞ周室の高祖后稷の嫡子にて二男ハ王季也后と王季と聖人也王季の子文王その子武王周公何れも聖人と稱す世子の說ありて泰伯ハ弟の王季に讓りて家を出て去ぬ是を三讓といひて論語にも泰伯をば至德と稱せられたり吳國へ去られしと古書にもあり吳國より日本へ渡せらる吳國ハ南京也日本と近し其頃ハ日本ハ纔の島國にて鬼畜同前の土民住す彼ハ穴に住し獵漁して食せし也泰伯九州日向國鵜渡の湊へ舟を留らる其後高千穗の嶽に上り住し給ふ日向に今その事跡殘れりと申傳ふ彼國にても王代の古質あり耕作を敎へ人倫の道を敎へ給ふ仍て人道開けて國人尊敬す素盞烏尊ハ皇の御弟也然共御心に不叶事ありて御敎を止て引籠り給ふ仍て法令の敎なし人々難義に及びこれを天の岩戸に引籠らせ給ひて常闇の世といふ然れば皆人なげき諫め申て再び法令あるにつき日月かゝやくといふ彼渡海の時の御舟是を伊勢國の船の御藏と申神寶是也農具を入持せたる今に御藏に納めたり仍て御倉と申其外司室童子の畫あり髮を亂して童形の竿をさす處の繪也是渡海の御船を寫すと云又内宮に三讓伏あり三讓の文字を寫す是御殿に質朴禮儀をふまへさせ給ふしるし也これによりて内宮を泰伯外宮を后稷と說き申といふ外宮ハ國常立尊と申も此說あり

扨日本を姬氏國と野馬臺の詩にも見えたり周室又姬氏符合如斯

辯に云此說古來より誤り來ること年久し釋の圓月日本史を作り朝に獻ず其書に泰伯を以始祖とす故に議論ありておこなはれずと云事ハ蕉了子が記せる史記抄略に見ゆる也且舊事記古事記日本紀に此說に似たる事實ハなし濱成の天書記廣成の古語拾遺倭姬世說鎭座傳記御鎭座次第寶基本記類聚神祇本源元々集等の書に亦不見野馬臺の詩ハ世俗に傳はる計書籍の中曾て不見梁の寶誌和尙の讖文也といへども誌が詩傳中にも不見假令寶作りぬるも靈僧の詞證據とするに足らず神皇正統記に異朝の一書中に日本ハ吳の泰伯の後也といふ更に不當思ふに唐土の人我邦の書をしらず偏に商舶俗侶の口に任せて年代をも不辯實非を不正實を失ふこと多し固我邦の人國史に瞽き故姬氏國の言に迷ひ泰伯を誣罔し佛者ハ大日孁の名を以て大日を附會し是周禮造言の刑を免れざるの人國神正直の敎に背く實に聖神の罪人也開闢の始神靈を稱するハ古今の常予別に說あり此に略す

或云天地開闢の始より我國有りて大日本豐秋津洲と號し我君の子世々統を續ぎ給ふ所謂天照太神の御子孫也吳ハ泰伯より始り世のおくるゝこと數千歲日本何ぞ泰伯の子孫ならんや史記吳の世家を按ずるに泰伯卒して子なし弟仲雍立ツ後十七世夫差越の勾踐の爲に滅さる此時我邦孝昭天皇三年に當る夫差より前吳の日本へ通ぜし事なし異域の人我邦に來て臣民となるハ則是あり其氏族を蕃別といふこの類甚多しその中に松野氏あり新撰姓氏錄に曰松野ハ吳夫差の後也と是吳人我邦に來るの始也日本紀に據るに應神天皇三十三年春二月阿智使主都賀使主を吳に遣し縫女を求めしむふたりの使者高麗に渡り吳に至らんとするに道路をしらず知る者を高麗に乞ふ高麗の王則久禮波久禮志二人をて鄕導とす是によりて吳に通ずることを得たり吳王工女兄媛弟媛吳織穴織四人を与ふ大織冠鎌足執政の時百濟の禪尼法明對馬に來て吳音に維摩經を誦すよりて吳音を對馬讀といふ吳音の源起也然れども泰伯を天照太神といふ事何れの書にも不見日本紀纂疏に一條兼良公の說に韻書を考ふるに姬ハ婦人の美稱なれば思ふに天照太神ハ始祖の陰靈神功皇后ハ中興の女主たる故に國俗姬氏國と稱すとかや只字義によりて事を論ずるときハ此類常に多し蓋物極れば變じ人窮すれば則本に返る天地の常道にして古今の事宜也

予兎園小說を作らんとす囊底を叩きて考ふるに奇說新說諸君の筆に出づ予が輩如之何ぞ筆すべし於是本に返り源を尋天照皇の說を寫し聊以例の兎園に備ふと云

乙酉八朔 中井琴民識

注

写本の位置
写本は3170の72カット目左ページから76カット目右ページまで。76カット目右ページの後半は白紙で、76カット目左ページから第13話「獼猴與蛇鬪」が始まる。
注記
目録の題は「天照皇太神を吳太伯といふ辯」、本文の題は「天照太神を吳太伯といふの辯」。原文欄は本文の表記に従い、passage の題は目録による。目録の披講者は「乾齋」、写本の署名は「中井琴民」で、乾斎は中井琴民の号と解した。
判読保留
「后と王季と聖人也」は写本の読み。活字本系テキストも「后を王李と聖人なり」として本ノマヽと注する。文意は「后稷と王季とは聖人なり」と解した。判読保留。
校合
「此說に似たる事實ハなし」は写本の読み。活字本系は「事實になし」とする。写本を採った。
校合
「周室又姬氏符合如斯」は写本の読み。活字本系は「周堂」とする。写本を採った。
校合
「四人を与ふ」「百濟の禪尼法明」「例の兎園に備ふ」は写本の読み。活字本系は「四人を與添へふ」「百濟の祥禪尼法明」「例の兎圖に備ふ」とする。写本を採った。
写本の位置
写本は「不叶事」「亦不見」「曾て不見」「更に不當」「年代をも不辯實非を不正」と漢文の語順で書く。活字本系は「叶はぬ」「見えず」「當らず」「不ㇾ辯」「不ㇾ正」と読み下すか返り点を付ける。原文欄は写本の表記のまま残し、読みやすい本文で読み下した。
校合
「二人をて鄕導とす」は写本の読みで、「をして」の脱字と解した。活字本系も同じ読み。
校合
「彼ハ穴に住し」は写本の読み。活字本系は「彼等、穴に住し」とする。写本を採った。
注記
72カット目左ページの「三讓」の脇に朱で「三」、73カット目左ページの「司室童子」の脇に朱で「室」、「御殿」の脇に朱で「殿」、75カット目右ページの「臣民となるハ」の脇に朱で「る」の書き込みがある。写本の校正の跡と解した。
注記
太伯は周の古公亶父の長子で、弟の季歴に位を譲って呉に去ったとされる。日本の皇室を太伯の子孫とする説は中国の史書に由来し、中世から論じられた。円月は室町時代の僧中巌円月で、その『日本書』が朝廷に退けられた話を指すと解した。書名と人名の多くは雲亭の推定で、詳細は未確認。
注記
野馬台の詩は宝誌和尚の作と伝える予言詩で、日本を姫氏国と呼ぶ。大日孁は天照大神の別名で、仏者がこれを大日如来にこじつけたと批判している。

AI試訳 / 専門家未校閲