奇遇
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兎園小説 / 曲亭馬琴ほか 兎園会の会員 / 第八集 第15話 / 琴嶺舎 滝沢興継
鍋掛で病父の娘に薬と銀を恵んだ足軽が、五年後に吉原で遊女となったその娘と再会し、藩主の耳にも達した孝女の話。
本文 現代語訳
予が年来恩顧を蒙る某侯の国足軽に、山本郷右衛門といふもの〔この藩中には内足軽、外足軽とて内外の足軽あり。この山本郷右衛門は外足軽の上席なり〕、寛政四年壬子の夏四月、飛脚をうけたまはりて江戸へ来つ。また陸奥へかへるをり、奥州街道鍋掛の駅はづれなる坂中に、廻国のもの親子ふたり居たり。その父ちかごろこのわたりにていたく病ひ煩ひつつ、命も危かりければ、駅のものどもあはれみて、かれらがために坂中にいとあやしげなる小屋を造りて、しばらくそこに置きたるなり。かくてその病者の小むすめ、往還に立ちて旅人につきて袖乞ひをしたりける。郷右衛門これを見て、特に不便に思ひしかば、懐をかかぐりて一片の南鐐に持ちあはしたる薬を添へ、この二くさを楊枝挿の嚢に入れてぞとらせける。
私が長年ご恩顧を受けている某侯の国元の足軽に、山本郷右衛門という者がいる〔この藩には内足軽と外足軽という内外の足軽がある。この山本郷右衛門は外足軽の上席である〕。寛政四年壬子の夏四月、飛脚の役を命じられて江戸へ来た。また陸奥へ帰る途中、奥州街道鍋掛の宿場はずれの坂の途中に、廻国巡礼の親子二人がいた。その父は近ごろこのあたりでひどく病み患い、命も危うかったので、宿場の者たちが憐れんで、二人のために坂の途中にひどく粗末な小屋を建て、しばらくそこに置いていたのである。そして病人の幼い娘が街道に立ち、旅人にすがって物乞いをしていた。郷右衛門はこれを見て、ことのほか不憫に思ったので、懐を探って一片の南鐐銀に持ち合わせの薬を添え、この二品を楊枝入れの袋に入れて与えた。
その後五か年ばかりを歴て〔寛政八年〕、郷右衛門はまた飛脚をうけたまはりて奥より江戸の邸にまゐりたる。逗留の程、朋輩にいざなはれて、新吉原江戸町なる丸海老屋とか呼ばれたる青楼に登りしに、夜ははや更の闌けしころ、この楼の若者〔むかしはこれを妓有といへり〕、高坏に果子を積みて郷右衛門がほとりにもて来つ。「こは清花さまよりまゐらせたまふなり」といふ。郷右衛門は意を得ず、「われはさる覚えなし。人たがへならん」といふを、わかいもの押しかへして、「いな、人たがへには候はず。口上もこそ候へ。御目にかかりたく願ひ侍り。こなたへこそ」といはれし、といふ。とざまかうざま思へども、いと不審しき事なれば、果子はそがままにして、引かれてその部屋にゆきて見るに、もとより見知れる遊女にあらず。また清花は郷右衛門をうち見つるより、俯し沈みてしのび音に泣くばかりなり。しばらくして頭を擡げ、「絶えて久しくなりにたる。君にはいよいよ恙もあらで御目にかかるうれしさよ」といふ。郷右衛門はなほ心を得ず、「そもそもおん身は何人のむすめにてありけるやらん。見忘れたるか、知らず」と答ふ。その時きよ花は楊枝挿の嚢をとり出でて、「わらはを見忘れ給ふとも、これをばおぼえ給はずや」と問はれても、まだ心もつかず、「これも知らず」と答へけり。そのとき清花、声をひそめて、「いぬる年、鍋掛にて御合力に預りし。そのをりに賜はりし楊枝挿にて侍る」よし、その折からは「かやうかやう、しかじか」と説き示すを、郷右衛門は聞きも訖らず、「さては」とばかり、はじめて暁りてうち驚くこと大かたならず。
その後五年ほどたって〔寛政八年〕、郷右衛門はまた飛脚を命じられ、奥州から江戸の藩邸に来た。滞在中、同僚に誘われて新吉原江戸町の丸海老屋とかいう遊女屋に登ったところ、夜もすっかり更けたころ、この店の若い者〔昔はこれを妓夫といった〕が高坏に菓子を積んで郷右衛門のそばに持って来た。「これは清花さまから差し上げるものです」という。郷右衛門は訳がわからず、「私にはそんな覚えはない。人違いだろう」と言うと、若い者は押し返して、「いいえ、人違いではありません。口上もございます。お目にかかりたいと願っております。どうぞこちらへ」と言われた、という。あれこれ考えても実に不審なことなので、菓子はそのままにして、案内されてその部屋に行ってみると、もとより見知った遊女ではない。しかも清花は郷右衛門を一目見るなり、うつむいて忍び泣きするばかりである。しばらくして顔を上げ、「本当に久しぶりでございます。あなたさまがお変わりなくいらして、お目にかかれるうれしさよ」と言う。郷右衛門はやはり訳がわからず、「そもそもあなたはどこの娘だったのか。見忘れたのか、わからない」と答えた。その時きよ花は楊枝入れの袋を取り出して、「私を見忘れなさっても、これはお覚えではありませんか」と尋ねられても、まだ思い当たらず、「これも知らない」と答えた。そこで清花は声をひそめて、「先年、鍋掛で御施しにあずかりました。その折に頂いた楊枝入れでございます」ということ、その折のことを「これこれ、しかじか」と説いて聞かせるのを、郷右衛門は聞き終わらぬうちに「そうだったのか」とだけ言って、はじめて悟り、驚くことひととおりではなかった。
流れの里に沈みたるはじめ終はりを尋ぬるに、清花はまたうち泣きて、「君にはつつむべうもあらず。わが故郷は越後なる高田にて侍るなる。ふるさとにありしとき、母は長き病着にて世になき人となりし頃、旱損水損、何くれとなくわろき祥のみうちつづきたる。世をあぢきなく思ひぬる父は歎きに堪へずやありけん、遂にわらはをたづさへて、なき人の菩提のため廻国にとて出でしより、行方定めぬ草枕、旅寝はかなし鍋掛の、鍋ひとつだになき宿に病み臥したりしわが親を、あはれまれたるおん身のたまもの、『しかじかなり』とて見せしかば、父は驚きかつ感じて、『かくまで慈悲ある人は稀なり。おん顔ばせを見おぼえて、めぐりあふ日のありもせば、このよろこびを申せよ』とかへすがへすもいはれたり。その日よりし賜はりし薬を用ひたりけれども、定業免れがたくやありけん、幾日もあらで親は身まかり、わらはは知らぬあちこちの人の手にわたり渡されて、里の遊女になりにたり。はじめかの鍋掛にておん身にあひしは十四のときにて、本の名を『そよ』といへり。あぢきなき世にながらへて、はや十八になり侍り。こよひは父の命日なれば、身あがりといふことをして客をもむかへず、こもりゐの心ばかりの供物廻向をしゐる折もをり、思ひがけなく恩ある君にめぐりあひしは、なき親のこころざしにて侍るめり」といひつつ、よよと泣きにけり。郷右衛門は聞くごとに感歎せずといふことなく、我が上さへに名のり知らしつ。そがままに立ち別れしとぞ。
遊里に沈んだ経緯を尋ねると、清花はまた泣きながら言った。「あなたさまに隠すことはございません。私の故郷は越後の高田でございます。故郷にいた頃、母が長患いの末に亡くなった頃から、旱害に水害と、何かにつけて悪いことばかりが続きました。世をはかなんだ父は嘆きに堪えなかったのでしょう、ついに私を連れて、亡き母の菩提を弔うため廻国の旅に出て、それからは行き先の定まらぬ旅寝の日々、鍋掛の、鍋ひとつさえない宿に病み臥した私の親を憐れんでくださったあなたさまの贈り物を『これこれです』と父に見せましたところ、父は驚き、また感じ入って、『これほど慈悲深い人は稀だ。お顔を覚えておいて、めぐり会う日があったなら、この喜びを申し上げよ』と繰り返し言いました。その日から頂いた薬を用いましたが、定まった寿命は逃れがたかったのでしょう、幾日もたたずに親は亡くなり、私は見知らぬ人の手から手へと渡されて、この里の遊女になりました。初めてあの鍋掛であなたさまにお会いしたのは十四の時で、本名を『そよ』といいます。味気ない世に生き永らえて、もう十八になりました。今夜は父の命日ですので、『身揚がり』ということをして客も迎えず、部屋にこもって心ばかりの供物を供え回向をしていたその折も折、思いがけず恩あるあなたさまにめぐり会えたのは、亡き親の心づかいでございましょう」と言いつつ、よよと泣いた。郷右衛門は聞くたびに感嘆せずにはいられず、自分の身の上まで名乗って知らせた。そしてそのまま別れたということである。
かくて件の郷右衛門は文化のはじめより定府になりて江戸の邸中に居り。同じき二年丙寅の大火のころ、清花は年季闋てて、そが親品なる河崎屋平八といふものの宿所にゐたり。かの平八は乳母奉公の口入れとかいふことを世渡りにすなるものにて、郷右衛門が仕へまつる邸中にも以前より出入りをするよしあれば、この手より清花が消息を届け来て、年季の闋てたるよしを告げられ、「流れの里をいでしかど、なほ浮草の根を絶えて、よるべの岸も侍らず」など、いとどあはれに聞こえしかば、うちも措かれず訊ひ慰めしは、ただ一たびのことにて、その後はいかになりけん、よくも知らずと聞こえたり。そがあひかたの遊女ならねば、疑はれじとの用心なるべし。
その後、この郷右衛門は文化の初めから定府となって江戸の藩邸にいた。同じ文化二年丙寅の大火のころ、清花は年季が明けて、身元引受人である河崎屋平八という者の家にいた。この平八は乳母奉公の口入れとかいうことを生業にしている者で、郷右衛門が仕える藩邸にも以前から出入りしていたので、この筋から清花の消息が届き、年季が明けたことを知らされ、「遊里は出たものの、なお浮草のように根が絶えて、寄る辺の岸もございません」などと、ますます哀れに聞こえたので、放ってもおけず訪ねて慰めたのはただ一度だけで、その後はどうなったか、よくは知らないということであった。馴染みの遊女ではないので、疑われまいとの用心だったのだろう。
そもそもこの一条は、文化十三年丙子の秋、閏八月二十五日、かの藩の医師桜井立安といひしもの、老君の夜話に侍りて「しかじか」と申せしに、さる筋をも捨てたまはねば、その孝信を感嘆のあまり、近習の人々に心得させて、次の日山本郷右衛門を遠侍まで召しのぼして、透見をしつつそのよしを問ひ糺させ給ひしかば、郷右衛門はおそるおそる、ありつるままに申しし、とぞ。その時の聞書の、「ことさら奇談なるべし」とて、わが父に見せ給ひしを、おのれ乞ひ受けておさめ置きにき。当時家厳の賛歌あり。冊子のしりに書かれたり。可否をば知らず。賛にいふ、
そもそもこの一件は、文化十三年丙子の秋、閏八月二十五日、その藩の医師桜井立安という者が老君の夜話のお相手をして「しかじか」と申し上げたところ、そうした身分の低い者の筋をもお捨てにならず、その孝信に感嘆のあまり、近習の人々に言い含めて、翌日山本郷右衛門を遠侍まで呼び出し、透き見をしながらその事情を問い糺させなさったので、郷右衛門はおそるおそる、あったとおりに申し上げたということである。その時の聞書を「とりわけ珍しい話であろう」として私の父にお見せになったのを、私が乞い受けて保管しておいた。当時、父の賛歌があり、冊子の末尾に書かれている。出来の良し悪しはわからない。賛にいう、
火宅を離れて火坑に堕つ 鍋掛は猶ほ熱鬧場のごとし 一潮の恩、一汐の信 円鰕はこれ苦海の慈航
火宅を離れて火の穴に堕ちた 鍋掛はさながら焦熱の場のごとし ひとしおの恩、ひとしおの信 丸海老屋こそは苦海を渡す慈悲の船
丸海老屋つるにもにたり鍋掛のふたたびあひぬすくはれし身は
丸海老屋のつるは鍋の弦にも似ている。鍋掛でふたたびめぐり会った、救われたこの身は
本書はただその意をうけて、及ばずながら文を易へたり。賛はちなみに記すのみ。ああ、風流の藪沢にもかかる忠信孝女ありけり。いと憐むべきものになん。
本書はただその趣意を受けて、及ばずながら文章を書き改めた。賛はついでに記すだけである。ああ、遊里の中にもこのような忠信の孝女がいたのだ。まことに憐れむべきことである。
文政八年乙酉八朔 琴嶺識
文政八年乙酉の八月一日 琴嶺記す
原文 / 昭和女子大学本の字句を採り、正字体を保持、振り仮名を外す
奇遇
予が年來恩顧を蒙る某侯の國足輕に山本鄕右衞門といふもの〔この藩中にハ内足輕外足輕とて内外の足輕あり此山本鄕右衞門ハ外足輕の上席なり〕寬政四年壬子の夏四月飛脚をうけたまはりて江戸へ來つ又陸奧へかへるをり奧州街道鍋掛の驛はづれなる坂中に廻國のもの親子ふたり居たりその父ちかごろ此わたりにていたく病ひ煩ひつゝ命も危かりければ驛のものどもあはれみて渠等が爲に坂中にいとあやしげなる小屋を造りてしばらくそこに置たるなりかくてその病者の小むすめ往還に立て旅人につきて袖乞をしたりける鄕右衞門これを見て特に不便に思ひしかば懷をかゝぐりて一片の南鐐に持あはしたる藥を添此二くさを楊枝挿の囊に入てぞとらせける
その後五ヶ年ばかりを歷て〔寬政八年〕鄕右衞門ハ又飛脚をうけたまはりて奧より江戸の邸にまゐりたる逗留の程朋輩にいざなはれて新吉原江戸町なる丸海老屋とか呼れたる青樓に登りしに夜ハはや更の闌しころこの樓の若者〔むかしハこれを妓有といへり〕高坏に果子を積みて鄕右衞門がほとりにもて來つこハ清花さまよりまゐらせたまふなりといふ鄕右衞門ハ意を得ずわれハさる覺なし人たがへならんといふをわかいものおしかへしていな人たがへにハ候はず口上もこそ候へ御目にかゝりたく願ひ侍りこなたへこそといはれしといふとざまかうざまおもへどもいと不審しき事なれバ果子ハそがまゝにして引れてその部屋にゆきて見るに素より見しれる遊女にあらず又清花ハ鄕右衞門をうち見つるより俯し沈みてしのび音に泣くばかりなり暫くして頭を擡げ絕て久しくなりにたる君にハいよ〳〵恙もあらでおん目にかゝるうれしさよといふ鄕右衞門ハなほ心を得ず抑おん身ハ何人のむすめにてありけるやらん見わすれたるか知らずと答ふその時きよ花ハ楊枝挿の囊をとり出てわらハを見わすれ給ふとも是をバおぼえ給はずやと問れてもまだこゝろもつかずこれも知らずと答へけりそのとき清花聲をひそめていぬるとし鍋掛にて御合力に預りしそのをりに賜りし楊枝挿にて侍るよしその折からハ箇樣〳〵如此〳〵と說示すを鄕右衞門ハ聞も訖らずさてハとばかりはじめて曉りてうち驚くこと大かたならず
流れの里に沈みたるはじめをはりをたづぬるに清花ハ又うち泣て君にハつゝむべうもあらずわが故鄕ハ越後なる高田にて侍るなるふるさとにありしとき母ハ長き病着にて世になき人となりし頃旱損水損何くれとなくわろき祥のミうちつゞきたる世をあぢきなく思ひぬる父ハ歎きに堪ずやありけん遂にわらハをたづさへてなき人の菩提の爲廻國にとて出しより行方定めぬ草枕旅寐ハかなし鍋掛の鍋ひとつだになき宿に病ミ臥したりしわが親をあはれまれたるおん身のたまものしか〴〵なりとて見せしかバ父ハ驚き且感じてかくまで慈悲ある人ハ稀なりおん顏ばせを見おぼえてめぐりあふ日のありもせバ此よろこびを申せよとかへす〴〵もいはれたりその日よりし賜はりし藥を用ひたりけれ共定業免れがたくやありけん幾日もあらで親ハ身まかりわらハハしらぬあちこちの人の手にわたり渡されて里の遊女になりにたりはじめかの鍋かけにておん身にあひしハ十四のときにて本の名をそよといへりあぢきなき世にながらへてはや十八になり侍りこよひハ父の命日なれバ身あがりといふことをして客をもむかへずこもりゐの心ばかりの供物廻向をしゐる折もをり思ひがけなく恩ある君にめぐりあひしハなき親のこゝろざしにて侍るめりといひつゝよゝと泣にけり鄕右衞門ハ聞く每に感歎せずといふことなく我うへさへに名のりしらしつそがまゝに立わかれしとぞ
かくて件の鄕右衞門ハ文化のはじめより定府になりて江戸の邸中に居り同じき二年丙寅の大火のころ清花ハ年季闋てゝそが親品なる河崎屋平八といふものゝ宿所にゐたりかの平八ハ乳母奉公の口入とかいふことを世わたりにすなるものにて鄕右衞門が仕へまつる邸中にも已前より出入をするよしあれバこの手より清花が消息を屆來て年季の闋たるよしを告られ流の里をいでしかど猶浮草の根を絕てよるべの岸も侍らずなどいとゞあはれに聞えしかバうちも措れず訊慰めしハ只一たびのことにてその後ハいかになりけんよくもしらずと聞えたりそがあひかたの遊女ならねバ疑はれじとの用心なるべし
そも〳〵この一條ハ文化十三年丙子の秋閏八月廿五日かの藩の醫師櫻井立安といひしもの老君の夜話に侍りてしか〴〵と申せしにさるすぢをも捨たまはねばその孝信を感嘆のあまり近習の人々にこゝろ得させて次の日山本鄕右衞門を遠侍まで召のぼして透見をしつゝそのよしを問たゞさせ給ひしかバ鄕右衞門ハおそる〳〵ありつるまゝにまうしゝとぞその時の聞書のことさら奇談なるべしとてわが父に見せ給ひしをおのれ乞うけておさめおきにき當時家嚴の賛歌あり册子のしりに書れたり可否をバしらず賛に云
離火宅墮火坑 鍋掛猶如熱鬧場 一潮恩一汐信 圓鰕此苦海慈航
丸海老屋つるにもにたり鍋掛のふたゝびあひぬすくハれし身は
本書ハ只その意をうけて及ばずながら文を易たり賛ハ因にしるすのミ嗚呼風流の藪澤にもかゝる忠信孝女ありけりいと憐むべきものになん
文政八年乙酉八朔 琴嶺識
注
- 写本の位置
- 写本は3170の78カット目左ページから82カット目右ページまで。78カット目左ページの冒頭に「奇遇」の題があり、82カット目右ページの署名「琴嶺識」で終わる。目録の題は「奇偶」、本文の題は「奇遇」で、title は本文に従った。
- 校合
- 私家版は兎園小説ではなく「馬琴雑記」巻第一下の本文を底本とし、松前侯を実名で記すなど字句の異同が多い。写本は「某侯」と伏せる。校合表には写本と意味が変わる箇所だけを載せた。
- 注記
- 「この藩中にハ内足輕外足輕とて……上席なり」「寬政八年」「むかしハこれを妓有といへり」の三つは写本で小字二行の割注。
- 写本の位置
- 写本は「同じき二年丙寅の大火」と書き、「二」の脇に朱で「三」と訂正がある。文化の大火は三年丙寅なので朱筆が正しいが、原文欄は墨の本文どおり「二年」にし、活字本系テキストも「三年」であることをここに記す。
- 校合
- 活字本系テキストの「老侯」は写本では「老君」。「丸海老屋」は写本のとおりで、賛の「圓鰕」も写本の字体。「火㘫」は写本では「火坑」。
- 判読保留
- 判読保留。冒頭の「予が年來」は写本では「予がとし來」とも読め、活字本系テキストの「年來」に従った。
- 判読保留
- 判読保留。「已前より出入をする」は写本では「已前より」の次の行が「入をする」から始まり「出」が見えない。活字本系テキストの「出入り」に従った。
- 判読保留
- 判読保留。「そのよしを問たゞさせ」は写本の墨書が「そのを問」と読め、「その」の脇に朱の書き入れがある。活字本系テキストの「そのよしを」に従った。
- 判読保留
- 判読保留。「病ミ臥したりしわが親を」の「わが」は写本の墨書にはなく、行間に朱の書き入れがある。活字本系テキストの「わが親」に従った。
- 注記
- 写本では「朋輩」の脇に朱で「明」、「和郞」に朱の振り仮名、「病着」にイタツキ、「祥」にサガ、「闋てゝ」にヲハリの振り仮名があり、いずれも外した。
- 注記
- 琴嶺舎は滝沢興継、馬琴の長男で松前藩の医員。山本郷右衛門、清花、桜井立安、河崎屋平八は写本の表記のままで、いずれも未確認。鍋掛は下野の奥州街道鍋掛宿。南鐐は南鐐二朱銀。身あがりは遊女が自分で揚げ代を払って客を取らない日のこと。
AI試訳 / 専門家未校閲