雲亭日本古典図書室収録作品の一覧

根分の後の母子草

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兎園小説 / 曲亭馬琴ほか 兎園会の会員 / 第八集 第16話 / 著作堂 曲亭馬琴

白川の宮大工の後家が出奔した息子を尋ねて九年廻国し、飯田町中坂で行き倒れた夜に、使いで通りかかった当の息子と番屋で再会する。

本文 現代語訳

根わけの後の母子草〔この編、頗る伝奇の筆意に似たり。然りといへども、言は則ち皆実事なり〕
根分けの後の母子草〔この一編はたいそう伝奇小説の筆づかいに似ているが、語られることはすべて事実である〕
文政四年辛巳の春二月晦日の黄昏ころ、元飯田町の中坂に行き倒れたる老女ありとて、これを観るもの堵のごとし。この日自身番屋にあつまりゐたる当番の町役人ら、定番人をつかはしてその体たらくを見せけるに、「旅ゆくものとおぼしくて、無下に老いさらばひたるが、長途につかれ、足痛みて一歩も運びがたし」といふなり。これによりて町かかへのものに背負はして、やがて番屋へ扶け入れつつ事のやうを尋ぬれば、答へていはく、「婆々は奥州白川の城下中町なる宮大工十蔵が後家にして、名をしげとよばるるもの、今茲は七十一歳になりぬ。良人十蔵が世を去りて後、十三か年以前、文化六年の春、わが子源蔵といふもの逐電して行方をも知らせず。人伝てに聞けば江戸にありといひにき。家にはなき人の前妻の子どもはあれど、勇魚取りうみにあらねば孝ならず。日ごとの口舌いぶせければ、世にある甲斐もなき身なり。いかでわが子の在所を尋ねて逢はばやと思ひさだめしは、九か年以前の事なりき。かくて文化十年の春のころ、みちのくよりあくがれ来て、江戸に留まること半年ばかり、四里四方の外、近郷まで月ごと日ごとに尋ねしかども、夢にだも逢ふよしのなければ、さては江戸にはあらざるならんと、やうやうに思ひかへして、いよいよ廻国の志念を堅うし、東山西国いへばさらなり、南海北陸落ちもなく、およそ六十六箇国の霊山霊地を巡礼して、過去にはなき人の菩提のため、現在には命のうちにわが子に遇はしめたまへと念ずる外にわざもなく、乞食して行く旅なれば、人の情にあふ日は稀にて、露に宿り、風に梳り、あるときはあり磯のなみ風に吹きすさまれて、その終夜夢もむすばず。また或るときは深山路の雪に降り閉ぢられて、つく竹杖の節も届かず。百折千磨の艱苦を歴たれど、これまで一たびも病ひ煩ひしことはなく、旅寝すること九年に及べり。今は既にめぐり尽くして廻国すべき方もなければ、再び江戸をこころざして木曾路をくだり、甲斐が峰をうち遶り、両郷の渡りとかいふ川辺のあなたなる里に宿とりつ。さて今日江戸に来つるなり。かかりし程に、あの御坂の辺にて俄かに足の痛み出でて、一歩も運びがたければ、思はず倒れ侍りき」といふ〔按ずるに、ふたごの渡りは江戸を距ること西のかた四里ばかりにあり。この地は甲州街道にあらず、大山みちなり。かかれば甲斐より相模路を遶りて江戸へ来つるなるべし〕。
文政四年辛巳の春、二月末日の夕暮れどき、元飯田町の中坂に行き倒れた老女がいるというので、見物人が垣根のように集まった。この日、自身番屋に詰めていた当番の町役人たちは、定番人を遣わしてその様子を見させたところ、「旅の者らしく、ひどく老いさらばえた者が、長旅に疲れ、足を痛めて一歩も歩けない」と言う。そこで町抱えの者に背負わせて番屋へ助け入れ、事情を尋ねると、こう答えた。「婆は奥州白川の城下中町の宮大工十蔵の後家で、名をしげと申し、今年七十一歳になります。夫の十蔵が亡くなった後、十三年前の文化六年の春、わが子の源蔵という者が出奔して行方も知らせず、人づてに江戸にいると聞きました。家には亡き夫の先妻の子どもはいますが、自分が生んだ子ではないので孝行ではなく、毎日の口論がうっとうしくて、生きている甲斐もない身でした。何とかわが子の居所を尋ねて会いたいと思い定めたのが九年前のことです。そして文化十年の春ごろ、陸奥から江戸へ出て、半年ほど留まり、四里四方の外から近郷まで、毎月毎日尋ねましたが、夢にも会えないので、江戸にはいないのだろうとようやく思い直し、いよいよ廻国の志を固めて、東山道西国はもちろん、南海道北陸道も漏れなく、およそ六十六か国の霊山霊地を巡礼して、過去には亡き人の菩提のため、現在には命のあるうちにわが子に会わせてくださいと念じるほかに何の仕事もなく、物乞いをしながらの旅ですから、人の情けに会う日は稀で、露に宿り風に髪を梳き、ある時は荒磯の波風に吹きさらされて一晩中眠れず、またある時は深山の雪に閉ざされて、突く竹杖の節も届かないほどでした。百折千磨の苦難を経ましたが、これまで一度も病気をしたことはなく、旅寝は九年に及びました。今はもう巡り尽くして廻国すべき所もないので、再び江戸を目指して木曾路を下り、甲斐の山々を回って、二子の渡しとかいう川辺の向こうの里に宿を取り、今日江戸に来たのです。そうしたところ、あの坂のあたりで急に足が痛み出して一歩も歩けず、思わず倒れてしまいました」〔考えるに、二子の渡しは江戸から西へ四里ほどの所にある。この地は甲州街道ではなく大山道である。とすれば、甲斐から相模路を回って江戸へ来たのであろう〕。
町役人らこれを聞きて、「心地はいかに」と尋ぬるに、「足の痛めるのみにして、心地は常に変はらず」と答ふ。「江戸に知る人ありや」と問へば、「いな、知る人とては侍らねど、八町堀なる松平越中守様は国屋敷にておはします也〔さとび言に、故郷の領主を国屋敷と唱ふ〕。かしこへ送らせ給へ」といふ。これより先、その腰につけたりし風呂敷包みを解かして見るに、九か年以前ふる里を立ち出づるとき、十蔵しげ等が菩提所なる何某寺〔寺の名は忘れたり〕より書きて与へし通り手形とかいふ証文一通あり。湿風塵埃に汚れけん、紙中は茶をもて染むるごとく、いと古びたりけれども、その印章は疑ふべくもあらず。この他、銭八百文と布の蔽褸のみありけり。そのいふよしと寺手形と既に吻合するをもて、番屋の奥の間に臥さしめて薬をあたへ、かつ夕餉をたべさせなどする程に、日は暮れて酉の初刻も過ぐる頃、武家の中間とおぼしき男、自身番屋におとなひて、「やつがれは嚮に主用の使ひに立ちて、ここの中坂を過ぎりしとき、行き倒れたる老女を見たり。心にかかるよしもあれば、つばらに問はまほしかりしかど、火急の使ひなるをもて時の後れんことの惜しくて、思ひながらにうち過ぎにき。今そのかへるさなるにより、中坂にて人に問ひしに、番屋へ扶け入れられてここにありとぞいはれたる。その老女を見せ給へ」といふ。
町役人たちはこれを聞いて、「気分はどうか」と尋ねると、「足が痛むだけで、気分はいつもと変わりません」と答える。「江戸に知り合いはあるか」と問うと、「いいえ、知り合いはございませんが、八町堀の松平越中守様は国屋敷でいらっしゃいます〔田舎言葉で、故郷の領主を国屋敷と呼ぶ〕。そちらへ送ってくださいませ」と言う。これより前に、腰につけていた風呂敷包みを解かせて見ると、九年前に故郷を出るとき、十蔵としげの菩提寺である何某寺〔寺の名は忘れた〕が書いて与えた通り手形とかいう証文が一通あった。湿気と埃に汚れたのだろう、紙は茶で染めたようにひどく古びていたが、その印章は疑いようもない。このほかには銭八百文と布のぼろだけがあった。本人の言うことと寺手形とがすでに一致しているので、番屋の奥の間に寝かせて薬を与え、夕飯を食べさせなどしているうちに日は暮れ、午後六時も過ぎたころ、武家の中間らしい男が自身番屋を訪ねて来た。「私は先ほど主人の用事で使いに出て、ここの中坂を通ったとき、行き倒れた老女を見ました。気にかかることがあって詳しく尋ねたかったのですが、急ぎの使いでしたので遅れるのが惜しく、気にしながらも通り過ぎました。今その帰り道なので中坂で人に尋ねると、番屋へ助け入れられてここにいると言われました。その老女に会わせてください」と言う。
このときしげはまどろみたるを、町役人ら呼び覚まして、「そなたのゆかりの人にやあらん、見まほしとて只今来にたり。対面せよかし」といふ程に、しげは忽ち起きなほりて、「そはわが子源蔵ならずや。やよ、そなたは源蔵か、源蔵にあらずや」とせはしく問ひつつ跂ひよるを、町役人ら推しとどめて、「さのみせきては事もわからず。心を鎮めて問へ」といふ。そのとき件の中間はともしびをさし向けて、とさまかうさまうち見つつ、「わが母に似たれども、年のあまた経し事なるに、いたく老衰したるをもて、定かにはいひがたし」といふ。町役人らこれを聞きて、「しかりとも、渠みづから『奥州白川中町宮大工十蔵が後家、名はしげ』と告げたり。ことの由の分明なるに、をさなき時に別れても親の名までを忘れはせじ。忘れやしつる」と詰られて、「さん候。その名に違ひなけれども、世にはまた同名異人のなきにしもあらず。またいつはりて利をはかるものしもなしとすべからず。身につけたりしそが中に、証拠となるべき物などの候はずや」と問ひかへされて、町役人ら諾なひつつ、かの寺手形をひらきて見すれば、見つつ小膝をはたと打ちて、「わろくも疑ひつるものかな。我が母に相違候はず」といふを、しげは聞きあへず、「しからばそなたは源蔵か」「源蔵にこそ候なれ」と名のれば、しげは跂ひまつはりて抱きつきつつ涙ぐみ、「やよ源蔵よ、和郎に逢ひたい逢ひたいと思ふばかりに、九か年このかた日本国中うち巡り、いくそばくその艱難苦労も願ひかなふて、うつせみの息のうちなる今宵、いま遭ひ見ることの歓ばしさよ。やよ源蔵よ、顔を見せよ。そなたは幼かりし時、左の目のまぶちに腫れ物出で来し、その折に眼の中へ針二本まで打たせしことあり。その針のあと今もあらん。こちらを向きて見せずや」と口説きたてつつ、また抱きしめて、涙は雨とふりそそぐ。その歓びはなかなかに譬ふるにものなかるべし。天地をおがみ、町役人らを一人一人にふしをがむ。慈母の哀歓、無量の恩愛、今さら膽に銘じけん、源蔵もはふり落つる涙を袖に堰きかぬれば、人みな泣かぬはなかりけり。「このときしげが有りさまは、和漢巨筆の稗官なりとも写しとらん事易かるべからず。また俳優の上手なるも、よくまねん事難かるべし」と、後にぞ人の評しける。
この時しげはまどろんでいたのを、町役人たちが呼び起こして、「そなたのゆかりの人であろうか、会いたいと言って今来ている。対面せよ」と言うと、しげはたちまち起き直り、「それはわが子源蔵ではないか。もし、そなたは源蔵か、源蔵ではないのか」とせわしく問いながら這い寄るのを、町役人たちが押しとどめて、「そんなに急いては事もわからない。心を静めて問え」と言う。その時この中間は灯火を差し向けて、あちこちから眺めながら、「私の母に似ていますが、長い年月がたっているうえに、ひどく老衰しているので、確かなことは言いがたい」と言う。町役人たちはこれを聞いて、「そうだとしても、この人は自分から『奥州白川中町の宮大工十蔵の後家、名はしげ』と告げた。事情がはっきりしているのに、幼いときに別れても親の名まで忘れはすまい。忘れたのか」と詰め寄ると、「さようです。その名に違いはありませんが、世の中には同名異人もいないとは限りません。また偽って利益を図る者もないとは言えません。身につけていた物の中に、証拠になる物などはございませんか」と問い返され、町役人たちはうなずいて、例の寺手形を開いて見せると、見るなり小膝をはたと打って、「悪くも疑ったものだ。私の母に相違ありません」と言うのを、しげは聞き終わらぬうちに、「それならそなたは源蔵か」「源蔵でございます」と名乗ると、しげは這いすがって抱きつき、涙ぐんで、「ああ源蔵よ、おまえに会いたい会いたいと思うばかりに、九年このかた日本国中を巡り歩き、幾多の艱難苦労も願いがかなって、はかない命のあるうちの今宵、いま会えたことのうれしさよ。ああ源蔵よ、顔を見せておくれ。おまえは幼いとき左の目のふちに腫れ物ができて、その折に目の中へ針を二本まで打たせたことがある。その針の跡が今もあるだろう。こちらを向いて見せておくれ」と口説き立てながら、また抱きしめて、涙は雨と降り注ぐ。その喜びはとても譬えようもない。天地を拝み、町役人たちを一人一人伏し拝む。慈母の哀歓、限りない恩愛が今さら肝に銘じたのだろう、源蔵もあふれ落ちる涙を袖で堰き止められず、人はみな泣かぬ者はなかった。「この時のしげの有様は、和漢の大作家の小説家でも写し取ることは容易ではあるまい。また上手な役者でもうまく真似ることは難しいだろう」と、後に人が評した。
かくて源蔵は町役人にうち向ひて、「思ひがけなく母親に名のりあひ候ひしは、御町内の御蔭によれば、よろこび言葉に尽くしがたし。やつがれは十二歳のときより親はらからに引き分かれ、故郷白川に程遠からぬ某村にて人となりしが、十八歳のとき故ありて親にも告げずその地を去りて、江戸に足をとどめしより、今茲は三十歳になりぬ。手書き物読むこともしらねば、中間奉公しつるのみ。この春は下谷なる戸田和泉守殿に居り、けふしも守はいささげながら恙あらせ給ふにより、翌の日の当御番を同僚がたに頼ませ給ふ御状使をうけたまはりて、其処へとていそぐ黄昏とき、ここの中坂をよぎりし折、倒れし母をわが母ぞとは知らずながらもかいま見しは、得がたかるべき幸なりき。その時母の足痛みて彼処に倒れ臥さざりせば、よしや途にて行きあふとも、面忘れせしことなれば、迭に知るよしなからんを、事みな不思議に候」とて、感涙を流しつつよろこびを述べしかば、町役人らうち聞きて、「しからば今宵は此処に老母を留め置きたりとも、けしうはあらぬ事ながら、母御の心を推しはかるに、和殿を放ち遣るべくもあらず。引き取らんといふ宿あらば、町内より駕籠を出だして只今送り遣はすべし」といふに、源蔵歓びて、「下谷久右衛門町なる番組宿屋越後屋何某といふものは、やつがれが親品なり。この処まで送らし給はば、いよいよ幸ならん」といふ。
そして源蔵は町役人に向かって、「思いがけず母親に名乗り合えましたのは御町内のおかげで、喜びは言葉に尽くせません。私は十二歳のときから親兄弟に別れ、故郷の白川に程遠くない某村で育ちましたが、十八歳のとき訳あって親にも告げずその地を去り、江戸に足をとどめてから今年で三十歳になります。読み書きも知らないので、中間奉公をしているだけです。この春は下谷の戸田和泉守殿のところにおり、今日は殿がいささか体調をお崩しになったので、明日の当番を同僚の方に頼まれる御状の使いを命じられて、そこへと急ぐ夕暮れどき、ここの中坂を通りかかった折、倒れている母を自分の母とは知らないまま垣間見たのは、得がたい幸いでした。あの時母の足が痛んであそこに倒れ臥していなかったら、たとえ道で行き会っても顔を忘れているので、互いに知るすべもなかったでしょう。何もかも不思議なことです」と、感涙を流しながら喜びを述べたので、町役人たちはこれを聞いて、「それなら今夜はここに老母を留めておいても悪くはないが、母御の心を推し量ると、そなたを手放すはずもない。引き取るという宿があるなら、町内から駕籠を出して今すぐ送り届けよう」と言うと、源蔵は喜んで、「下谷久右衛門町の番組宿屋、越後屋何某という者は私の身元引受人です。そこまで送ってくだされば、いっそうありがたい」と言う。
そもそもこの源蔵は世にいふ宿屋ものにて、渡り中間なりといへども、物のいひざま怜悧げにて、身の皮もきたなげならず。なほ巳の時ばかりなる松坂縞の布子を着て、胴金したる脇指を帯びたり。さて「しかじか」と志げに告ぐるに、引きちらされし蔽褸裂などをいと惜しくや思ひけん、「やよ源蔵よ、物とり遺すな。包め包め」といひしかど、源蔵は恥ぢらひてや、蔽褸をば包みかねたれば、町役人らは「さこそ」と猜して、定番人に手伝はせ、物遺りもなく包まして、かの寺手形と銭八百を源蔵に渡しけり。その辞し去らんとせしときに、既に齢のかたぶきたる、或るは子どもを旅にあらせて親のあはれを知りたりける町役人ら一両輩、また源蔵を招きよせて、「いふまではあらねども、九か年心力を竭くされし母御の辛苦を思ひくみて、孝養をな怠り給ひそ。渡り中間ならずとも、さまで歴がたき世の中ならんや。大都会の忝さは、小商をしたりとも、ただ一柱の母親を養ふよすがなからずや。勉め給へ」と諭せしかば、源蔵は感謝に堪へず、「しか心得て候なり。故あることとはいひながら、十三か年ふる里へおとづれもせず、我が母を見忘れしまでになりたる、面目もなく候」といらへて、やがて母親を扶けて駕籠に乗し移らせ、その身は間ちかくつきそふて、下谷をさして出で行きけり。かくて亥中の比おひに、その駕籠のもの帰り来て、かの越後屋何某がよろこびの口状を町役人らに伝へしとぞ。
そもそもこの源蔵は世にいう宿屋者で、渡り中間ではあるが、物の言い方は賢そうで、身なりも汚らしくない。まだ真新しい松坂縞の布子を着て、胴金をつけた脇差を帯びていた。さて「これこれ」としげに告げると、引き散らされたぼろ切れなどをたいそう惜しく思ったのだろう、「ああ源蔵よ、物を取り残すな。包め包め」と言ったが、源蔵は恥ずかしかったのか、ぼろを包みかねていたので、町役人たちは「さもあろう」と察して、定番人に手伝わせ、残らず包ませて、例の寺手形と銭八百を源蔵に渡した。二人が辞去しようとするとき、すでに年老いた者や、あるいは子どもを旅に出していて親の悲しみを知っている町役人が一人二人、また源蔵を招き寄せて、「言うまでもないが、九年間心力を尽くした母御の辛苦をくみ取って、孝養を怠りなさるな。渡り中間でなくとも、そんなに渡りにくい世の中でもあるまい。大都会のありがたさは、小商いをしたとしても、ただ一人の母親を養う手立てがないことはあるまい。励みなさい」と諭したので、源蔵は感謝に堪えず、「そのように心得ました。訳があったとはいえ、十三年も故郷へ便りもせず、母を見忘れるまでになったのは面目もありません」と答えて、やがて母親を助けて駕籠に乗せ、自分はすぐそばに付き添って下谷を目指して出て行った。そして午後十時ごろに、その駕籠の者が帰って来て、例の越後屋何某の喜びの口上を町役人たちに伝えたということである。
予は間ちかきわたりにて、これらの事のありとしも絶えて知るよしなかりしに、その明けの朝、河崎屋政八といふもの柴の戸に音づれて、「緊要の一条を告げまゐらせん」とて詣来しなり。「例の虚病をおこさずに、対面をゆるし給へ」といふ。心得がたく思ひながら書斎より出でてよしを問ふに、政八がいはく、「きのふ、いとめづらかにもあはれなる事の候ひき。その故は云々」と前条を挙げて説くこと一遍、「やつがれ今茲は年番にて、しかもきのふは当番なりき。これにより彼の婆々しげに素生を問ひしも、また源蔵に問対せしも、大かたはやつがれのみ。かかれば、このくだりに就きてまたかく詳らかなるよしを、誰かまた翁に告ぐべき。また翁ならずして、誰かよく後に伝へん。願ふは賛してたまひね」といふ。予、感嘆のあまり敢へていなまず、しばしうち案じて、
私はすぐ近くに住みながら、こうした事があったことをまったく知らなかったが、その翌朝、河崎屋政八という者が柴の戸を訪ねて来て、「大事な一件をお告げしたい」と言って来た。「例の仮病を起こさずに、対面をお許しください」と言う。合点がいかぬまま書斎から出て用件を問うと、政八の言うには、「昨日、実に珍しくも哀れなことがありました。その訳は云々」と前述の一件をひととおり語り、「私は今年年番で、しかも昨日は当番でした。それであの婆しげに素性を尋ねたのも、源蔵に問いただしたのも、おおかたは私だけです。だとすれば、この件についてこれほど詳しいことを、ほかの誰が翁に告げられましょう。また翁でなくて、誰が後世に伝えられましょう。願わくは賛をお書きください」と言う。私は感嘆のあまりあえて断らず、しばらく考えて、
面壁にあらで九年の旅ころも子を思ふ外に一物もなし
面壁ならぬ九年の旅衣、子を思うほかには何一つ持たぬ
またおなじ心を、
また同じ心を、
死なであひぬ片山の手の飯田町にふせる旅人あはれ親と子
死なずに会えた。片山の手の飯田町に伏せる旅人、ああ親と子よ
このふた歌を短冊に書きつけてとらせしかば、政八は受けよろこびて、いとまごひしてまかり出でにけり。これより後も、日に月に、なほ年ごとに事のしげくて、いまだ筆には載せざりしを、けふのまとゐの料にとて、聞きつるままに記すのみ。
この二首を短冊に書きつけて与えたところ、政八は受け取って喜び、暇乞いをして退出した。これより後も、日に月に、さらに年ごとに用事が多くて、まだ筆には載せていなかったのを、今日の集まりの題材にと、聞いたままに記すだけである。
文政乙酉秋八月朔、潢南先生の誕辰良節を賀し、兼ねて兎園社友諸君子の席末に披講す。 玄同陳人解撰
文政乙酉の秋八月一日、潢南先生の誕生の佳節を祝い、あわせて兎園社の同人諸君の席末で披講する。 玄同陳人解撰
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根わけの後の母子草〔是編頗似傳奇筆意雖然言則皆實事也〕

文政四年辛巳の春二月晦日の黃昏ころ元飯田町の中坂にゆきたふれたる老女ありとてこれを觀るもの堵のごとしこの日自身番屋にあつまりゐたる當番の町役人ら定番人をつかはしてその體たらくを見せけるに旅ゆくものとおぼしくて無下に老髐ひたるが長途につかれ足痛みて一步も運びがたしといふなりこれによりて町かゝへのものに脊負はしてやがて番屋へ扶け入つゝ事のやうをたづぬれバ答へていはく婆々ハ奧州白川の城下中町なる宮大工十藏が後家にして名をしげとよばるゝもの今茲ハ七十一歲になりぬ良人十藏が世を去りて後十三ヶ年以前文化六年の春わが子源藏といふもの逐電して行方をもしらせず人傳に聞けバ江戸にありといひにき家にハなき人の前妻の子どもハあれど勇魚取うみにあらねバ孝ならず日每の口舌いぶせけれバ世にある甲斐もなき身なりいかでわが子の在所をたづねてあハばやと思ひさだめしハ九ヶ年已前の事なりきかくて文化十年の春のころみちのくよりあくがれ來て江戸に留ること半年ばかり四里四方の外近鄕まで月每日每にたづねしかども夢にだも逢ふよしのなけれバさてハ江戸にハあらざるならんとやう〳〵に思ひかへしていよ〳〵廻國の志念を堅うし東山西國いへバさら也南海北陸おちもなく凡六十六箇國の靈山靈地を巡禮して過去にハなき人の菩提の爲現在にハ命のうちにわが子に遇はしめたまへと念ずる外にわざもなく乞食して行旅なれバ人の情にあふ日ハ稀にて露に宿り風に梳りあるときハあり磯のなみ風に吹きすさまれてそのよもすがら夢もむすばず又或ときハ深山路の雪にふりとぢられてつく竹杖の節も屆かず百折千磨の艱苦を歷たれど是まで一たびも病ひわづらひしことハなく旅寐すること九年に及べり今ハ既にめぐり盡して廻國すべき方もなけれバ再び江戸をこゝろざして岐岨路をくだり甲斐が峰をうち遶り兩鄕の渡りとかいふ川邊のあなたなる里に宿とりつさて今日江戸に來つるなりかゝりし程にあの御坂の邊にて俄に足の痛ミ出て一步も運びがたけれバ思ハず倒れ侍りきといふ〔按ずるにふたごの渡りハ江戸を距ること西のかた四里許にありこの地ハ甲州街道にあらず大山みちなりかゝれバ甲斐より相模路を遶りて江戸へ來つるなるべし〕

町役人らこれを聞て心地ハいかにとたづぬるに足の痛るのミにして心地ハ常にかハらずと答ふ江戸に知る人ありやと問へバいな知る人とてハ侍らねど八町堀なる松平越中守樣ハ國屋敷にておハします也〔さとび言に故鄕の領主を國屋敷と唱ふ〕かしこへ送らせ給へといふこれより先その腰につけたりし風呂敷包を解して見るに九ヶ年已前ふる里をたち出るとき十藏しげ等が菩提所なる何某寺〔寺の名は忘れたり〕より書て與へし通り手形とかいふ證文一通あり濕風塵埃に汚れけん紙中ハ茶をもて染るごとくいとふるびたりけれどもその印章ハ疑ふべくもあらずこの他錢八百文と布の蔽褸のミありけりそのいふよしと寺手形と既に吻合するをもて番屋の奧の間に臥さしめて藥をあたへ且夕餉をたべさせなどする程に日ハ暮れ酉の初刻も過る頃武家の中間とおぼしき男自身番屋におとなひてやつがれハ嚮に主用の使にたちてこゝの中坂を過りしときゆきたふれたる老女を見たりこゝろにかゝるよしもあれバつばらに問まほしかりしかど火急の使なるをもて時のおくれんことの惜くておもひながらにうち過にき今そのかへるさなるにより中坂にて人に問しに番屋へ扶け入られてこゝにありとぞいはれたるその老女を見せ給へといふ

このときしげハまどろミたるを町役人ら呼覺してそなたのゆかりの人にやあらん見まほしとて只今來にたり對面せよかしといふ程にしげハ忽起なほりてそハわが子源藏ならずややよそなたハ源藏か源藏にあらずやとせハしく問つゝ跂ひよるを町役人ら推しとゞめてさのミせきてハ事もわからず心を鎭めて問へといふそのとき件の中間ハともしびをさし向けてとさまかうさまうち見つゝわが母に似たれども年のあまた經し事なるにいたく老衰したるをもて定かにハいひがたしといふ町役人らこれを聞てしかりとも渠みづから奧州白川中町宮大工十藏が後家名ハしげと告たりことの由の分明なるにをさなき時に別れても親の名までを忘れハせじ忘れやしつると詰られてさん候その名に違ひなけれども世にハ又同名異人のなきにしもあらず又いつハりて利をはかるものしもなしとすべからず身につけたりしそが中に證據となるべき物などの候ハずやと問かへされて町役人ら諾なひつゝかの寺手形をひらきて見すれバ見つゝ小膝をはたと打てわろくも疑ひつるものかな我母に相違候ハずといふをしげハ聞あへずしからバそなたハ源藏か源藏にこそ候なれと名のれバしげハ跂ひまつはりて抱きつきつゝ淚ぐミやよ源藏よ和郞に逢ひたい〳〵と思ふばかりに九ヶ年このかた日本國中うち巡りいくそばくその艱難苦勞も願ひかなふてうつせミの息のうちなる今宵いま遭ひ見ることの歡ばしさよやよ源藏よ顏を見せよそなたハをさなかりし時左りの目のまぶちに腫物いで來しその折に眼の中へ針二本まで打たせしことありその針のあと今もあらんこちらをむきて見せずやと口說たてつゝ又抱きしめて淚ハ雨とふりそゝぐその歡びハなか〳〵に譬ふるにものなかるべし天地をおがミ町役人らを一人一人にふしをがむ慈母の哀歡無量の恩愛今さら膽に銘じけん源藏もはふり落る淚を袖に堰きかぬれバ人ミな泣かぬハなかりけり此ときしげが有さまハ和漢巨筆の稗官なりとも寫しとらん事易かるべからず又俳優の上手なるもよくまねん事難かるべしと後にぞ人の評しける

かくて源藏ハ町役人にうち向ひておもひがけなく母親に名のりあひ候ひしハ御町内のみかげによれバよろこび言葉につくしがたしやつがれハ十二歲のときより親はらからに引わかれ故鄕白川に程遠からぬ某村にて人となりしが十八歲のとき故ありて親にも告ずその地を去て江戸に足をとゞめしより今茲ハ三十歲になりぬ手かき物讀むこともしらねバ中間奉公しつるのミこの春ハ下谷なる戸田和泉守殿に居りけふしも守ハいさゝげながら恙あらせ給ふにより翌の日の當御番を同僚がたにたのませ給ふ御狀使をうけたまはりて其處へとていそぐ黃昏ときこゝの中坂をよぎりし折倒れし母をわが母ぞとハしらずながらもかいま見しハ得がたかるべき幸なりきその時母の足いたミて彼處に倒れ臥さゞりせバよしや途にてゆきあふとも面わすれせしことなれバ迭に知るよしなからんを事みな不思議に候とて感淚を流しつゝよろこびを述しかバ町役人らうち聞てしからバ今宵ハ此處に老母を留め置たりともけしうハあらぬ事ながら母御のこゝろを推はかるに和殿を放ち遣るべくもあらず引とらんといふ宿あらバ町内より駕籠を出して只今送り遣ハすべしといふに源藏歡びて下谷久右衞門町なる番組宿屋越後屋何某といふものハやつがれが親品なりこの處まで送らし給ハゞいよ〳〵幸ならんといふ

抑この源藏ハ世にいふ宿屋ものにて渡り中間なりといへども物のいひざま怜悧げにて身の皮もきたなげならず尙巳の時ばかりなる松坂縞の布子をきて胴金したる脇指を帶たり扨しか〴〵と志げに告るに引ちらされし蔽褸裂などをいと惜しくや思ひけんやよ源藏よ物とり遺すな包め〳〵といひしかど源藏ハ恥ぢらひてや蔽褸をバ包ミかねたれバ町役人らハさこそと猜して定番人に手傳ハせ物遺りもなく包ましてかの寺手形と錢八百を源藏に渡しけりその辭し去らんとせしときに既に齡のかたぶきたる或ハ子どもを旅にあらせて親のあハれを知りたりける町役人ら一兩輩又源藏を招きよせていふまでハあらねども九ヶ年心力を竭されし母御の辛苦を思ひくミて孝養をな怠り給ひそ渡り中間ならずともさまで歷がたき世の中ならんや大都會の忝さハ小商をしたりとも只一はしらの母親を養ふよすがなからずや勉め給へと諭せしかバ源藏ハ感謝に堪ず志か心得て候なり故あることゝハいひながら十三ヶ年ふる里へおとづれもせず我母を見忘れしまでになりたる面目もなく候といらへてやがて母親を扶けて駕籠に乘し移らせその身ハ間ちかくつきそふて下谷をさして出行けりかくて亥中の比おひにその駕籠のものかへり來てかの越後屋何某がよろこびの口狀を町役人らに傳へしとぞ

予ハ間ちかきわたりにてこれらの事のありとしも絕て知るよしなかりしにその明の朝河崎屋政八といふもの柴の戸に音づれて緊要の一條を告まゐらせんとて詣來しなり例の虛病をおこさずに對面をゆるし給へといふ心得がたく思ひながら書齋より出てよしを問に政八がいはくきのふいとめづらかにもあはれなる事の候ひきその故ハ云々と前條を擧て說くこと一遍やつがれ今茲ハ年番にてしかもきのふハ當番なりきこれにより彼婆々しげに素生を問しも又源藏に問對せしも大かたハやつがれのミかゝれバこのくだりに就て又かく詳なるよしを誰かまた翁に告ぐべき又翁ならずして誰かよく後に傳へん願ふハ賛してたまひねといふ予感嘆のあまり敢ていなまずしばしうち案じて

面壁にあらで九年の旅ころも子を思ふ外に一物もなし

又おなじこゝろを

死なであひぬ片山の手の飯田町にふせる旅人あハれ親と子

このふた歌をたんざくに書つけてとらせしかバ政八ハ受よろこびていとまごひしてまかり出にけり是より後も日に月になほ年每に事のしげくていまだ筆にハ載せざりしをけふのまとゐの料にとて聞つるまゝにしるすのミ

文政乙酉秋八月朔賀潢南先生誕辰良節兼披講於兎園社友諸君子席末 玄同陳人解撰

注

写本の位置
写本は3170の82カット目左ページから88カット目左ページまで。82カット目左ページの冒頭に題があり、88カット目左ページの「玄同陳人解撰」で終わる。89カット目は白紙の見返しで、この冊はここで終わる。目録の題は「根分の後の母子草」、本文の題は「根わけの後の母子草」で、title は目録に、原文欄は本文に従った。
注記
題の下の「是編頗似傳奇筆意雖然言則皆實事也」は写本で小字二行の割注。「按ずるにふたごの渡りハ……」「さとび言に……」「寺の名は忘れたり」も割注。
校合
私家版は兎園小説ではなく「馬琴雑記」巻第一下を底本とし、段落や句読点を整えている。末尾の依田百川の評は馬琴雑記にだけあり、写本にはないので載せていない。
校合
活字本系テキストの「河越屋政八」は写本では「河崎屋政八」。前話「奇遇」の「河崎屋平八」と同じ屋号で、原文欄は写本に従った。
校合
活字本系テキストの末尾「兎圖社諸君子席末」は写本では「兎園社友諸君子席末」。「短册」は写本では「たんざく」。
判読保留
判読保留。「吹きすさまれて」は写本では「吹きさゝまれて」とも読め、活字本系テキストに従った。
判読保留
判読保留。「ともしびをさし向けて」は写本では「とうしび」とも読め、活字本系テキストに従った。
判読保留
判読保留。「ことの由の分明なるにをさなき時に」の「に」は写本の字が詰まっていて確かめられず、活字本系テキストに従った。
判読保留
判読保留。「いと惜しくや思ひけん」は写本では「いとをしや思ひけん」とも読め、活字本系テキストに従った。
判読保留
判読保留。「後にぞ人の評しける」の「し」は写本で確かめられず、活字本系テキストに従った。
注記
写本では「老髐ひたる」にオイサラハ、「兩鄕」にフタゴ、「御坂」にミサカ、「猜して」にスイ、「蔽褸」にボロ、「風塵埃」にワキホコリの振り仮名があり、いずれも外した。「人の情にあふ」の脇に朱で「遇」、「おとなひて」の「と」と「いさゝげ」の「さ」は朱の書き入れで、原文欄は朱を含めた形にした。
注記
玄同陳人は曲亭馬琴、名は解。潢南先生は関克明で、海棠庵関思亮の父。元飯田町中坂は馬琴の住居のあった神田の坂。松平越中守は白河藩主松平定永と解したが未確認。戸田和泉守は下谷に屋敷のあった大名と解したが未確認。

AI試訳 / 専門家未校閲