雲亭日本古典図書室収録作品の一覧

慶雲 彗星

読書室で開く(原典画像・関連作品・自分の書架)

兎園小説 / 曲亭馬琴ほか 兎園会の会員 / 第九集 第3話 / 好問堂 山崎美成

伝通院の五色の雲と近ごろの彗星は、吉凶のしるしなのか。

本文 現代語訳

慶雲 彗星 好問堂
慶雲 彗星 好問堂
わが友外岡北海、ひと日、予を訪ひ来りていへらく、「おのれ、さきの日ゆくりなく慶雲を見ることを得たり。そのよし、いささかしるしたり」とて、予に示されし筆記に、
わが友の外岡北海がある日私を訪ねて来て言うには、「私は先日、思いがけず慶雲を見ることができた。そのことを少し書き留めておいた」と言って、私に見せてくれた筆記にはこうある。
「去る八月五日、午の一刻ばかりに、小石川伝通院の境内を通りかかりしに、稲荷の祠前、華表の前に、比丘二、三人集まりて大空を打ちながめゐたり。己近寄りて、『何事のありて空をばながめ居るぞ』と問へば、比丘のいふ、『あれ見給へ、五色の雲の棚引きなり。昔もの語りにのみ聞きつるを、今見ることの有りがたさよ。今少し早くおはさば、色濃き所を見給はんものを。さりながら、またも色濃くなり侍らんか』など、とりどりいへば、『おのれ、何をいふ』とあやしみつつ、木の間より伺ひ見れば、げに比丘のいふごとく、世の常ならぬ一村の白雲、日輪の傍らに長さ十丈あまり、広さ四、五丈もあらんずらんとおぼしきが、薄く棚引きたるを、日光に映じて、たちまち紅をときて流すがごとく、その麗しきこと、いはんかたなし。しかるにその紅雲の裏より、紫、黄、青、緑など、えもいはぬ麗しき色ならび起こりて、たとへば鮑貝の彩を麗しくなしたらんごとくにて、見るが内に淡く濃く出没変化なすこと限りもなく、目ざましなどいふも、なかなかおろかなり。『あな麗し、あな美し』と我知らず呼び出でられ、『あはれ、かかる折、相知る人もがな。呼びとどめて、ともに愛づべきものを』と惜しまれけり。『そもそもこの雲、いづち行くらん。いで、その終はる所まで見とどけばや』と打ちまもりをりしに、わづか二刻ばかりに、おのづから薄くなりもて行きて、果てはただ一村の白雲となりて、その所をも去らず消え失せにけり。かの比丘に『この雲、はじめいづ方より来たりしぞ』と問へば、比丘のいふ、『この雲、外より出で来しにはあらざるべし。己が見つけし時も、すなはちここにありたり』といへり。いかにも珍しきことなれば、『必ず外にてもこの雲を見し人あらん』と思ひて、のち人々に問ひものすれど、さることありしといふ人は、ふつになかりし」
「去る八月五日、午の一刻ごろ、小石川の伝通院の境内を通りかかると、稲荷の祠の前、鳥居の前に僧が二、三人集まって大空を眺めていた。私が近寄って『何があって空を眺めているのか』と尋ねると、僧たちは『あれをご覧なさい。五色の雲がたなびいている。昔の物語でしか聞かなかったものを、今見られるとはありがたいことだ。もう少し早くいらっしゃれば、色の濃いところをご覧になれたのに。とはいえ、また色が濃くなるかもしれない』などと口々に言う。『何を言っているのか』と不審に思いながら木の間から覗いてみると、なるほど僧たちの言うとおり、ただならぬ一群の白雲が日輪のそばに、長さ十丈あまり、幅四、五丈もあろうかと思われるほど薄くたなびいているのが、日の光に映えて、たちまち紅を溶いて流したようになり、その麗しさは言いようがない。さらにその紅の雲の裏から紫、黄、青、緑など何とも言えない麗しい色が並んで起こり、たとえて言えば鮑の貝殻の彩りを美しく仕上げたようで、見ているうちに淡くなり濃くなり、現れては消える変化に限りがなく、目覚ましいなどという言葉ではとても足りない。『ああ麗しい、ああ美しい』と思わず声が出て、『こういう時に知り合いがいてくれたら、呼び止めて一緒に愛でられるのに』と惜しまれた。『いったいこの雲はどこへ行くのだろう。終わるところまで見届けよう』と見つめていると、わずか二刻ほどで自然に薄くなっていき、最後はただの一群の白雲となって、その場所を動かないまま消え失せた。あの僧に『この雲は初めどちらから来たのか』と尋ねると、僧は『この雲は外から出て来たのではないだろう。私が見つけた時にも、すでにここにあった』と言った。いかにも珍しいことなので、『きっとほかでもこの雲を見た人があるだろう』と思って、後で人々に尋ねてみたが、そんなことがあったと言う人はまったくいなかった」
とて、『日本後紀』などを引用せり。しかれども予をもてこれを見るときは、わが邦に慶雲あらはるることは、「文武天皇大宝四年五月、西楼の上に慶雲見ゆ云々、改元して慶雲元年とす」と史に見えたるぞ、始めなるべき。これより後もしばしばなり。「北魏成帝興光元年二月、雲の五色なるあり、いはゆる景雲太平の応なり」。またわが邦、「称徳天皇天平神護二年八月、神護景雲と改元す」。詔に「甚奇久異尓麗伎雲、七色交天立登」とも見えたり。北海子もまた五彩の雲をもて慶雲とせり。しかはあれど、『漢書』天文志および『延喜式』治部省祥瑞の条にいへるものを按ずるに、「煙のごとくにして煙にあらず、雲のごとくにして雲にあらず」。これによる時は、五色のいろどりある雲は、けだし慶雲にあらざるに似たり。
と書いて、『日本後紀』などを引用している。しかし私の見るところでは、わが国に慶雲が現れたのは、「文武天皇の大宝四年五月、西楼の上に慶雲が見えた云々、改元して慶雲元年とした」と史書に見えるのが始まりだろう。それから後もしばしばある。「北魏の成帝の興光元年二月、五色の雲があった。いわゆる景雲は太平のしるしである」。またわが国では「称徳天皇の天平神護二年八月、神護景雲と改元した」。その詔に「いとくすしく、いとうるわしき雲が、七色に交わって天に立ち登る」とも見える。北海子もまた五彩の雲をもって慶雲としている。とはいえ、『漢書』天文志や『延喜式』治部省の祥瑞の条に言うところを調べると、「煙のようで煙ではなく、雲のようで雲ではない」とある。これによれば、五色の彩りのある雲は、おそらく慶雲ではないように思われる。
またこのごろ、人、「その夜ごとに彗星のあらはるる」よし言ひもて伝へ、「そは凶年のさがにや」などいへり。按ずるに、彗星の名、始めて『春秋』に見えたり。しかれどもその状をいはず。その状を記したるは、甘氏が『星経』などや始めならん。その後相承けて妖星とし、これが応をいへるもの、漢儒に至りてもっとも甚だしといふべし。いやしくも年をわたりてこれが応をもとめば、必ず応ぜざる者なからんや。牽強といひつべし。今その一、二をいはば、漢土のことは歴史中、数々これあり。今しばらくこれを止む。わが邦の史もまた、まま天変を誌せしといへども、必ずしもその応あることを見ず。上世のことは今人の耳に弁じがたし。近年のことをあぐるに、これをもっていへば、元文丁巳に彗星見しをもて、世人その年に二条殿吉忠公の薨去せられしをもてその応とし、寛保壬戌にもまたあらはれし。世人その年に坂東および信陽の風水の災をもてその兆とし、しかはあれど、二条公は一箇の関白のみ。その薨去あるはあらでも、彗星のあらはれざるもあるを、正徳丙申は有章院殿薨去ありしかど、享保壬子は霊元法皇崩御あり。かつ元文に彗星いでしをみれば、さるは丁巳に上皇崩御〔中御門〕あり。自然、二条殿綱平公、近衛殿家久公の薨去あり。これらの時はあらざりし彗星をつらつらみれば、さらば何をもてやなす。風水は天下のなからんや。わが邦のみに限ることをも、わが六十余国をもてこれをいへば、四、五か国もしくの水災旱損は、毎年いづれの国にもありといひつべし。これによりてその妄弁を結むべし。近年西洋の暦法ひらけしよりこのかた、和漢ともに測量いよいよ委しく、月の奇偶の前後、合をもて至る。されば日月の蝕を見るも、鼓を伐ち幣を用ゐるに及ばず。再び按ずるに、聖代にあらはるるもたまたま五色七色の雲の棚引きあるを、その彩あるは、そは日光の斜めに湿雲に映ずるによりてこれ、けだし虹蜺とその理同じ。また彗星は地中燥熱の気、熱部に升り焼灼く、周天の気に従ひて左旋し、いづれも妖星は地を去ることわづかに四、五十里に過ぎず。実の天とはいひがたし。天と人と、あに混ぜんにや。しかれども『五代史』司天考にいふ、「けだし聖人は天を人に絶たず、また天をもって人に参へず。天を人に絶てば、すなはち天道廃れ、天をもって人に参ふれば、すなはち人事惑ふ。ゆゑに常に存して究めざるなり」といへり。知言といふべし。
またこのごろ人々は「毎夜彗星が現れる」と言い伝え、「凶年のしるしだろうか」などと言う。考えてみると、彗星の名は初めて『春秋』に見える。しかしその形は書いていない。その形を記したのは甘氏の『星経』などが始めであろうか。その後受け継いで妖星とし、その応報を説く者は漢代の儒者に至ってもっとも甚だしくなったと言うべきである。いやしくも何年もの間にわたって応報を求めれば、何かしら当たらないことがあるだろうか。こじつけと言うべきである。今その一つ二つを挙げれば、中国のことは歴史の中に数々ある。今はしばらくこれを措く。わが国の史書もまた時に天変を記しているが、必ずしもその応報があるとは見えない。上代のことは今の人には聞き分けにくい。近年のことを挙げてこれを言えば、元文丁巳の年に彗星が見えたのをもって、世間ではその年に二条吉忠公が薨去されたのをその応報とし、寛保壬戌の年にもまた現れると、世間ではその年の関東と信濃の風水害をその前兆とした。しかし二条公は一人の関白にすぎない。その薨去があっても彗星が現れないこともあるので、正徳丙申の年には有章院殿の薨去があったし、享保壬子の年には霊元法皇の崩御があった。かつ元文に彗星が出たのを見れば、それは丁巳の年に上皇〔中御門〕の崩御があり、続けて二条綱平公と近衛家久公の薨去があった。これらの時には現れなかった彗星をつくづく考えると、では何をもって応報と言うのか。風水害は天下にないことがあろうか。わが国だけに限ってみても、六十余州をもって言えば、四、五か国ほどの水害や干害は毎年どこかの国にあると言ってよい。これによってその妄説の弁を結ぶべきである。近年西洋の暦法が開けてからこのかた、和漢ともに測量はいよいよ精密になり、月の満ち欠けの前後も計算で合うようになった。だから日食月食を見ても鼓を打ち幣を用いるには及ばない。あらためて考えると、聖代に現れたというのもたまたま五色七色の雲がたなびいたもので、その彩りは日光が斜めに湿った雲に映るためであり、これはおそらく虹と同じ理屈である。また彗星は地中の乾いた熱の気が熱い部分に昇って焼け、天を巡る気に従って左へ回るもので、いずれにせよ妖星が地を離れるのはわずか四、五十里に過ぎない。本当の天とは言いがたい。天と人とをどうして混同できようか。それでも『五代史』の司天考には、「聖人は天を人から切り離すこともなく、天を人に関わらせることもない。天を人から切り離せば天の道が廃れ、天を人に関わらせれば人の営みが惑う。だから常にそのままにして究めないのである」と言っている。よく言ったものである。
荷田氏もまたいふ、「けだし古来、天変地妖をもって禍の前兆とするは、人君を恐れしめんためなり。およそ人、恐るる所なければ、その行ふ所、矩を踰ゆるに至る。たとへば臣は君を恐れ、子は父を恐れ、弟は兄を恐れ、婦は夫を恐る。その恐るる所あるゆゑに、行ふ所、矩を踰えず。もし矩を踰ゆることあれば、たとへば御家人以上は国主に至るまでも、上よりこれを刑せられ、祠官、僧尼は寺社奉行これを刑し、農民は勘定奉行これを刑し、商賈は町奉行これを刑し、陪臣および私地の農商も、おのおのその本主、領主よりこれを刑し懲らすがゆゑに、率土の浜、ほしいままに法を犯すものなし。ただ天子に至りては恐るる所なく、矩を踰え法を犯しても、わづかにこれを諫むる者あるに止まる。しからば無道に陥りやすし。ゆゑに妖孽をもってこれを恐れしめ、徳を修めしむ。大戊の桑穀、高宗の雊雉以下、みな然り。その言にいふ、『天子不徳なる時は、天変地妖しきりに臻る』。またいふ、『某星見るるときは兵喪あり、某星見るるときは水旱あり』などいふ類、多端なり。その実を論ぜば、天は自ら天、人は自ら人〔天はおのづから天、人はおのづから人云々。解いはく、これ破道の説、君子の言にあらず。予、弁あり。そは別にしるすべし〕、人の不徳、天に拘ることなく、天の異常、また人に及ぶことなし。古書に天と称する者は、みな物の自然にして、人力の為すこと能はざる所を天に托してこれをいふのみ。『書』の舜典に『惟れ時れ天功を亮けよ』、大禹謨に『天これに咎を降す』、『詩』の大保に『天、爾を保定す』、節南山に『昊天、この鞠訩を降す』などいふ。以下、六経に天と称するもの、みな然り」といへり。見ん人、それこれをおもひねかし。
荷田氏もまた言う。「昔から天変地異を禍の前兆とするのは、君主を恐れさせるためである。人は恐れるものがなければ、行いが法度を越えるに至る。たとえば臣は君を恐れ、子は父を恐れ、弟は兄を恐れ、妻は夫を恐れる。恐れるものがあるから行いが法度を越えない。もし法度を越えることがあれば、たとえば御家人以上は国主に至るまで上から罰せられ、神官や僧尼は寺社奉行が罰し、農民は勘定奉行が罰し、商人は町奉行が罰し、陪臣や私領の農民商人もそれぞれの主人や領主が罰して懲らしめるから、国中で勝手に法を犯す者はいない。ただ天子だけは恐れるものがなく、法度を越え法を犯しても、わずかに諫める者がいるだけである。だから無道に陥りやすい。そこで妖しい災いをもって恐れさせ、徳を修めさせる。殷の大戊のときの桑と穀の木、高宗のときの鳴く雉より後、みなそうである。その言葉には『天子に徳がない時は天変地異がしきりに至る』とあり、また『某の星が見えれば戦乱や喪がある。某の星が見えれば水害や干害がある』などと言う類が多い。その実際を論じれば、天はおのずから天、人はおのずから人であって〔天はおのずから天、人はおのずから人云々。解が言う。これは道を破る説で、君子の言葉ではない。私には反論がある。それは別に記す〕、人の不徳が天に関わることはなく、天の異常がまた人に及ぶこともない。古い書物で天と称するものは、みな物事の自然であって、人の力ではどうにもできないところを天に託して言うだけである。『書経』の舜典に『天の功を助けよ』、大禹謨に『天がこれに咎を降す』、『詩経』の大保に『天がおまえを安んじ定める』、節南山に『大空がこの災いを降す』などと言う。以下、六経で天と称するものはみなそうである」と言っている。読む人はそのことを考えてほしい。
文政八年秋九月朔 山崎美成識
文政八年秋九月朔日 山崎美成識
原文 / 昭和女子大学本の字句を採り、正字体を保持、振り仮名を外す

慶雲 彗星 好問堂

吾友外岡北海ひと日予を訪ひ來りていへらく、おのれさきの日ゆくりなく慶雲を見ることを得たり。そのよしいさゝかしるしたりとて、予に示されし筆記に、

去る八月五日午の一刻ばかりに、小石川傳通院の境内を通りかゝりしに、稻荷の祠前華表の前に、比丘二三人集りて大空を打ちながめゐたり。己近よりて、何事のありて空をばながめ居るぞと問へば、比丘の云、あれ見給へ、五色の雲の棚引なり。昔もの語にのみ聞きつるを、今見ることの有がたさよ。今少し早くおはさば、色こき所を見給はんものを。さりながら又も色こくなり侍らんかなど、とりどりいへば、おのれ何をいふとあやしみつゝ、木の間より伺ひ見れば、げに比丘のいふ如く、よのつねならぬ一村の白雲、日輪の傍に長さ十丈あまり、廣さ四五丈もあらんずらんとおぼしきが、薄く棚引たるを、日光に映じてたちまち紅をときて流すがごとく、其麗しきこといはんかたなし。然るにその紅雲の裏より、紫黃靑綠などえもいはぬ麗しき色并起りて、譬へば鮑貝の彩を麗しくなしたらん如くにて、見るが内に淡く濃く出沒變化なすことかぎりもなく、目ざましなどいふも中々おろかなり。穴うるはし穴うつくしと我しらずよび出られ、あはれかゝる折相知る人もがな、呼びとゞめて倶にめづべきものをとをしまれけり。抑此雲何地行くらん、いでその終る所まで見とゞけばやと打まもりをりしに、纔二刻計におのづからうすくなりもて行て、はては只一村の白雲となりて、其所をも去らず消失にけり。彼比丘に此雲はじめ何方より來りしぞと問へば、比丘の云、此雲外より出こしにはあらざるべし。己が見つけし時も即こゝにありたりといへり。いかにも珍敷ことなれば、必外にても此雲を見し人あらんと思ひて、後人々に問ひものすれど、さることありしといふ人はふつになかりし。

とて、日本後紀などを引用せり。しかれども予をもてこれを見るときは、我邦に慶雲あらはるゝことは、文武天皇大寶四年五月西樓上慶雲見云々、改元爲慶雲元年と史に見えたるぞ始なるべき。これより後もしばしばなり。北魏成帝興光元年二月有雲五色、所謂景雲太平之應也。また吾邦稱德天皇天平神護二年八月改元神護慶雲、詔に甚奇久異尓麗伎雲、七色交天立登とも見えたり。北海子も又五彩の雲をもて慶雲とせり。しかはあれど、漢書天文志及び延喜式治部省祥瑞の條にいへるものを按ずるに、若煙非煙、若雲非雲。これによる時は、五色のいろどりある雲はけだし慶雲にあらざるに似たり。

又この比人その夜ごとに彗星のあらはるゝよしいひもて傳へ、そは凶年のさがにやなどいへり。按ずるに彗星の名始めて春秋に見えたり。しかれどもその狀をいはず。其狀を記したるは甘氏が星經などや始ならん。其後相承けて妖星とし、これが應をいへるもの漢儒に至りて尤甚しといふべし。苟くも年をわたりてこれが應をもとめば、必應ぜざる者なからんや。牽強といひつべし。今その一二をいはゞ、漢土のことは歷史中數〻これあり。今姑くこれを止。我邦の史も亦まゝ天變を誌せしといへども、必しも其應あることを見ず。上世のことは今人の耳に辨じがたし。近年のことをあぐるに、これを以いへば、元文丁巳に彗星見しをもて、世人その年に二條殿吉忠公の薨去せられしをもてその應とし、寛保壬戌にも又あらはれし。世人その年に坂東及信陽の風水の災をもてその兆とし、しかはあれど二條公は一箇の關白のみ。その薨去あるはあらでも、彗星のあらはれざるもあるを、正德丙申は有章院殿薨去ありしかど、享保壬子は靈元法皇崩御あり。且元文に彗星いでしをみれば、さるは丁巳に上皇崩御〔中御門〕あり。自然二條殿綱平公近衞殿家久公の薨去あり。これらの時はあらざりし彗星をつらつらみれば、さらば何をもてやなす。風水は天下のなからんや。我邦のみに限ることをも、我六十餘國をもてこれをいへば、四五ヶ國もしくの水災旱損は每年何れの國にもありといひつべし。これによりてその妄辨を結むべし。近年西洋の曆法ひらけしよりこのかた、和漢ともに測量いよゝ委しく、月の奇偶の前後合をもて至る。されば日月の蝕をみるも鼓を伐ち幣を用るに及ばず。再按ずるに、聖代にあらはるゝも偶ま五色七色の雲の棚引あるを、その彩あるはそは日光の斜に濕雲に映ずるによりてこれ、蓋虹蜺とその理同じ。又彗星は地中燥熱ノ氣熱部に升り燒灼く周天の氣に從て左旋し、何れも妖星は地を去ること纔に四五十里に過ず。實の天とはいひがたし。天と人と豈混ぜんにや。しかれども五代史司天考に云、蓋聖人不絶天於人、亦不以天參人。絶天於人則天道廢、以天參人則人事惑。故常存而不究也といへり。知言といふべし。

荷田氏も又云、蓋古來天變地妖を以禍の前兆とするは、人君を恐れしめん爲なり。凡人恐るゝ所なければ、其行ふ所矩を踰るに至る。縱令ば臣は君を恐れ、子は父を恐れ、弟は兄を恐れ、婦は夫を恐る。その恐るゝ所ある故に、行ふ所矩を踰えず。若矩を踰ることあれば、縱令ば御家人以上は國主に至るまでも、上よりこれを刑せられ、祠官僧尼は寺社奉行これを刑し、農民は勘定奉行これを刑し、商賈は町奉行これを刑し、陪臣及私地の農商も各その本主領主よりこれを刑し懲すが故に、率土の濱恣に法を犯すものなし。唯天子に至りては恐るゝ所なく、矩を踰え法を犯しても、纔にこれを諫る者あるに止る。然れば無道に陷り易し。故に妖孽を以これを恐れしめ、德を修しむ。大戊の桑穀、高宗の雊雉以下皆然り。其言に云、天子不德なる時は、天變地妖頻に臻る。又云、某星見るゝときは兵喪あり、某星見るゝときは水旱ありなどいふ類多端なり。其實を論ぜば、天は自天、人は自人〔天はおのづから天、人はおのづから人云々。解云、是破道の說、君子の言にあらず。予辨あり。そは別にしるすべし〕、人の不德天に拘ることなく、天の異常また人に及ぶことなし。古書に天と稱する者は、皆物の自然にして、人力の爲すこと能はざる所を天に托してこれをいふのみ。書の舜典に惟時亮天功、大禹謨に天降之咎、詩の大保に天保定爾、節南山に昊天降此鞠訩などいふ。以下六經に天と稱するものみな然りといへり。見ん人其これをおもひねかし。

文政八年秋九月朔 山崎美成識

注

写本の位置
写本は3171の7カット目左ページの3行目から11カット目左ページまで。12カット目右ページは白紙で、12カット目左ページから第4話「鍾馗」が始まる。
判読保留
9カット目左ページの1行目から10カット目右ページの末尾までの一段(「これあり。今姑くこれを止」から「天と人と豈混ぜんにや」まで)は、活字本系テキストにない。活字本系は「歷史中「敬々雲」」として省き「しかれども、五代史」へ続く。原文欄はこの一段を写本から起こしたが、校合の相手がなく、くずし字の判読は雲亭の推定にとどまる。判読保留の箇所は次の注に列挙する。
判読保留
判読保留: 「今姑くこれを止」の「止」、「天變を誌せし」の「誌」、「今人の耳に辨じがたし」の「耳」、「彗星見しをもて」の「見」、「その薨去あるはあらでも」、「さるは丁巳に上皇崩御」の「丁巳」、「自然二條殿綱平公」の「自然」、「彗星をつらつらみれば」、「さらば何をもてやなす」、「我邦のみに限ることをも」、「四五ヶ國もしくの」、「その妄辨を結むべし」、「月の奇偶の前後合をもて至る」、「その彩あるはそは」、「從て左旋し」、「地を去ること纔に」、「天と人と豈混ぜんにや」。いずれも字形からの推定で、専門家の校閲を要する。
校合
「此雲外より出こしには」は写本の表記。活字本系テキストは「出でこし」とする。
校合
「商賈は町奉行これを刑し」「私地の農商」は写本の読み。活字本系テキストは「商家」「長商」とする。写本を採った。
校合
「其言に云、天子不德なる時は」は写本の読み。活字本系テキストは「其章云」とする。
注記
「天は自天、人は自人」に付く割注は、写本では11カット目右ページの上欄に小字で書かれた頭注で、本文中の割注ではない。〔 〕に入れて本文の該当箇所に置いた。「解云」は馬琴の注で、荷田氏の説を「破道の説」として別に反論すると言う。
注記
「甚奇久異尓麗伎雲」には「コトニクスシク コトニウルハシキ クモ」の振り仮名があり、「七色交天立登」にも送り仮名がある。振り仮名は外した。「五代史」の引用と経書の引用には返り点がある。
判読保留
「漢土のことは歷史中數〻これあり」の「數〻」は9カット目右ページの末尾と左ページの冒頭にまたがり、活字本系テキストが「敬々雲」とする箇所にあたる。写本の字形から「數〻」と読んだが判読保留。
注記
好問堂は山崎美成の号。末尾に「山崎美成識」とある。外岡北海は美成の友人で、人物の特定は未確認。伝通院は今の文京区小石川にある浄土宗の寺。
注記
二条吉忠は元文二年、二条綱平は享保十七年、近衛家久は元文二年に没した。有章院は七代将軍徳川家継で正徳六年に没した。霊元法皇は享保十七年、中御門上皇は元文二年に崩御した。年次と本文の干支の対応は雲亭の確認で、写本の記述の当否は検討していない。
注記
荷田氏は荷田春満か荷田在満と思われるが、引用の出典は未確認。大戊の桑穀と高宗の雊雉は『史記』殷本紀と『書経』高宗肜日にある殷の怪異の故事。

AI試訳 / 専門家未校閲