鍾馗
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兎園小説 / 曲亭馬琴ほか 兎園会の会員 / 第九集 第4話 / 輪池堂 屋代弘賢
鍾馗は唐の明皇の夢に始まるのか、六朝の鍾葵から考える。
本文 現代語訳
鍾馗を弁ぜし書、『升菴文集』『七修類藁』『日知録』『通雅』『正字通』等、みな人の知る所なり。清の趙翼が『陔余叢考』に至りて詳悉せり。その要を取りてここに記す。
鍾馗について論じた書物は、『升菴文集』『七修類藁』『日知録』『通雅』『正字通』など、みな人の知るところである。清の趙翼の『陔余叢考』に至って詳しく尽くされた。その要点を取ってここに記す。
六朝の古碣に「鍾馗」の二字あり。「これ唐人にあらず」といへり。『北史』に「魏の堯喧、本名は鍾葵、字は辟邪」〔『湧幢小品』は「鍾」を「終」に作る〕。おもふに「葵」の字、伝へ訛る。提鬼の説、ここにおこれりといふ。その余、「宗慤の妹、名は鍾葵」〔沈括が『筆談』には「葵」を「馗」に作る〕、「魏の文帝の時、揚鍾葵」、「また張袞の孫、白沢、本名は鍾葵」、「于勁、また字は鍾葵」、「孝文の時、頓邱王李鍾葵」〔『正字通』には「馗」に作れども、喬鍾葵の類、悉皆「馗」に作りたれば信じがたし〕、「北斉の武成の時、官右宮鍾葵」、「後主緯の時、慕容鍾葵」、「隋の煬の時、喬鍾葵」、「隋の宗室処綱の父、名は鍾葵」、また別に殷鍾葵あり。唐の時、「王武後に将あり、張鍾葵」など数へたてたれども、六朝の古碣と沈括の『筆談』の二鍾馗のほかは、みな「葵」の字を書きたれば、おのづから別なるがごとし。
六朝時代の古い碑に「鍾馗」の二字がある。「これは唐の人ではない」という。『北史』には「魏の堯喧、本名は鍾葵、字は辟邪」とある〔『湧幢小品』は「鍾」を「終」に作る〕。思うに「葵」の字が伝わるうちに訛ったのであり、鬼を捕らえるという説はここから起こったのだという。そのほか、「宗慤の妹、名は鍾葵」〔沈括の『筆談』では「葵」を「馗」に作る〕、「魏の文帝の時の揚鍾葵」、「また張袞の孫の白沢、本名は鍾葵」、「于勁もまた字は鍾葵」、「孝文帝の時の頓邱王李鍾葵」〔『正字通』では「馗」に作るが、喬鍾葵の類はすべて「馗」に作っているので信じがたい〕、「北斉の武成帝の時の官右宮鍾葵」、「後主緯の時の慕容鍾葵」、「隋の煬帝の時の喬鍾葵」、「隋の宗室処綱の父、名は鍾葵」、また別に殷鍾葵がいる。唐の時には「王武の後に張鍾葵という将がいた」などと数え立てているが、六朝の古碑と沈括の『筆談』の二人の鍾馗のほかは、みな「葵」の字を書いているので、自然と別のものであるらしい。
さて『天中記』に『唐逸史』を引きたる、明皇の夢に入りし終南山の進士鍾馗のほか、唐に張鍾馗といふあり。『龍舒浄土文』にいふ、「唐の張鍾馗、鶏を殺すを業とす。たちまち一人の緋衣なるが群鶏を駆りて来たり、叫びていふを見る。『啄け、啄け』と。四畔より上りて両目を啄む。血を流し、大いなる痛苦を受く」と見ゆ。これ「王武後の将」とはおのづから別人にて、賤民と見えたり。さらばまさしく「馗」の字を書きたる、六朝以来四人なれども、『浄土文』のごとき、人も知らざる賤民に同名ある時は、なほ幾人もあるべきなり。しかるに多く鍾馗は名か字なるを、進士のみ鍾は姓、馗は名なるべし。ただこれを異なりとす。要するに、六朝に鍾馗ありと聞く。「唐に始まるにあらず」といひ、「張説が『画鍾馗を謝する表』、開元に先立ちてあり」といひて、鍾馗、夢に入る事を疑ふ。また『唐逸史』世に伝はらざれば、諸儒疑ひて妄誕とす。
さて『天中記』が『唐逸史』を引いている、明皇の夢に現れた終南山の進士鍾馗のほかに、唐に張鍾馗という者がいる。『龍舒浄土文』に「唐の張鍾馗は鶏を殺すのを生業としていた。突然、緋色の衣を着た者が鶏の群れを追い立てて来て、叫んで言うのが見えた。『啄め、啄め』と。鶏は四方から上って両目を啄み、血を流して大きな苦痛を受けた」と見える。これは「王武の後の将」とは自然と別人で、賤民と見える。それならば正しく「馗」の字を書いているのは六朝以来四人であるが、『浄土文』の例のように人も知らない賤民に同名の者がいる時は、まだ何人もいるはずである。しかし多くの鍾馗は名か字であるのに、進士だけは鍾が姓、馗が名であるらしい。ただこの点が異なる。要するに、六朝に鍾馗がいたと聞く。「唐に始まるのではない」と言い、「張説の『鍾馗の画を賜って謝する表』は開元より前にある」と言って、鍾馗が夢に現れたことを疑うのである。また『唐逸史』は世に伝わっていないので、儒者たちは疑って作り話とする。
按ずるに、宋の郭若虚が『図画見聞志』〔『佩文画譜』に引く〕に、「呉道子、鍾馗を画く。藍衫を衣、一足に鞹し、一目を眇にし、腰に笏し首に巾して蓬髪、左手をもって鬼を捉へ、右手をもってその鬼の目を抉る。筆跡遒勁、実に絵事の絶格なり」と見え、『正字通』に「宋の禁中に旧、呉道子の画く所の鍾馗あり。巻首に唐人題していはく、明皇開元に驪山に講武し、宮に還りて、上懌ばず、痁作る。大鬼の小鬼を制するを夢む。呉道子に命じてこれを画かしむ」など見えたれば、明皇の呉道子に画かせられし事は実なり。また土上老君、明皇の夢に入りて真容の所在を告げしかば、「夢真容勅」を碑に建てられしも開元中の事なれば、進士の夢に入りし、類推して知るべし。「終葵」「鍾馗」同音通とはいへども、終葵と名付けしは椎の義を用ひ、鍾葵と名付けしは、鍾は祭器の義、葵は百菜の長といふ義を用ひしも知るべからず。大鍾を姓となさば、馗は九逵の義にてもあるべし。しかるを楊顧散人、幽明に通ずる事あたはずして、ただ目前の端直をいふにより、夢の跡を破して鍾馗をも椎の義なりとす。実にしかるべきや。予は荷担しがたしといふ。
考えてみると、宋の郭若虚の『図画見聞志』〔『佩文画譜』に引く〕に、「呉道子が鍾馗を描いた。藍色の衣を着て、片足に革の履をはき、片目をすがめ、腰に笏をさし頭に頭巾をつけて髪は乱れ、左手で鬼を捕らえ、右手でその鬼の目をえぐっている。筆跡は力強く、まことに絵画の最高の格である」と見え、『正字通』に「宋の宮中に古くから呉道子の描いた鍾馗があった。巻首に唐の人が題して、明皇が開元の年に驪山で講武し、宮に帰ってご気分がすぐれず瘧を病み、大鬼が小鬼を制する夢を見て、呉道子に命じてこれを描かせたと記す」などと見えるので、明皇が呉道子に描かせたことは事実である。また土上老君が明皇の夢に現れて真の姿のある場所を告げたので、「夢真容勅」を碑に建てたのも開元年間のことであるから、進士が夢に現れたことも同じ類として推し量れる。「終葵」と「鍾馗」は同音で通じるとはいうが、終葵と名付けたのは椎の意味を用いたもので、鍾葵と名付けたのは、鍾は祭器の意味、葵は野菜の長という意味を用いたのかどうかも分からない。大鍾を姓とするなら、馗は九つの大通りの意味でもあり得る。それなのに楊顧散人は幽明の理に通じることができず、ただ目の前のまっすぐな理屈だけを言うことで、夢の話を否定して鍾馗をも椎の意味だとする。本当にそうだろうか。私は賛同しがたい、と言っておく。
原文 / 昭和女子大学本の字句を採り、正字体を保持、振り仮名を外す
鍾馗 輪池
鍾馗を辨ぜし書、升菴文集、七脩類藁、日知錄、通雅、正字通等、皆人の知る所なり。淸の趙翼が陔餘叢考に至て詳悉せり。その要を取てこゝに記す。
六朝古碣に鍾馗二字あり。是唐人にあらずといへり。北史魏堯喧本名鍾葵、字辟邪〔湧幢小品鍾を終に作る〕。おもふに葵字傳へ訛る。提鬼之說こゝにおこれりといふ。其餘宗慤妹名鍾葵〔沈括が筆談には葵を馗に作る〕、魏文帝時揚鍾葵、又張袞之孫白澤本名鍾葵、于勁亦字鍾葵、孝文時頓邱王李鍾葵〔正字通には馗に作れども、喬鍾葵の類悉皆馗に作りたれば信じがたし〕、北齊武成時官右宮鍾葵、後主緯時慕容鍾葵、隋煬時喬鍾葵、隋宗室處綱之父名鍾葵、又別に殷鍾葵あり。唐の時王武後有將張鍾葵などかぞへたてたれども、六朝古碣と沈括筆談二鍾馗の外はみな葵の字を書たれば、おのづから別なるが如し。
さて天中記唐逸史を引たる明皇の夢に入りし終南山の進士鍾馗の外、唐に張鍾馗といふ有。龍舒淨土文云、唐張鍾馗殺雞爲業、忽見一人緋衣驅群雞來叫云、啄々四畔上啄兩目、流血受大痛苦とみゆ。これ王武後が將とはおのづから別人にて、賤民とみえたり。さらばまさしく馗の字を書たる六朝以來四人なれども、淨土文のごとき人もしらざる賤民に同名有時は、猶幾人も有べきなり。然るに多く鍾馗は名か字なるを、進士のみ鍾は姓、馗は名なるべし。たゞこれを異なりとす。要するに六朝に鍾馗あるときく。唐にはじまるにあらずといひ、張說が畫鍾馗を謝する表開元に先立て有といひて、鍾馗夢に入る事を疑ふ。又唐逸史世に傳はらざれば、諸儒疑て妄誕とす。
按ずるに宋の郭若虛が圖畫見聞志〔佩文畫譜に引〕呉道子畫鍾馗、衣藍衫、鞹一足、眇一目、腰笏巾首而蓬髮、以左手捉鬼、以右手抉其鬼目、筆跡遒勁、實繪事之絶格也とみえ、正字通に宋禁中舊有呉道子所畫鍾馗、卷首唐人題云、明皇開元講武驪山還宮、上不懌痁作、夢大鬼制小鬼、命呉道子畫之などみえたれば、明皇呉道子に畫かせられし事は實なり。又土上老君明皇の夢に入りて眞容の所在を告しかば、夢眞容勅を碑に建られしも開元中の事なれば、進士の夢に入りし類推してしるべし。終葵鍾馗同音通とはいへども、終葵と名付しは椎の義を用ひ、鍾葵と名付しは鍾は祭器の義、葵は百菜の長といふ義を用ひしもしるべからず。大鍾を姓となさば、馗は九逵の義にても有べし。然るを楊顧散人幽明に通ずる事あたはずして、たゞ目前の端直をいふにより、夢の跡を破して鍾馗をも椎の義也とす。實に然るべきや。予は荷擔しがたしといふ。
注
- 写本の位置
- 写本は3171の12カット目左ページから15カット目右ページまで。12カット目左ページの冒頭に「戌月兎園」の見出しがあり、その下に「鍾馗」、行末に「輪池」とある。15カット目左ページから第5話「遊女高尾」が始まる。
- 注記
- 披講者は目録で「輪池堂」、本文の見出しで「輪池」。屋代弘賢の号。原文欄は本文の表記に従った。
- 校合
- 書名の列挙は写本で「升菴文集七脩類藁日知錄通雅正字通」と続けて書く。活字本系テキストは「升菴文集七・脩類草木日知錄」とするが、写本の字形から「七脩類藁」と読んだ。
- 校合
- 「淸の趙翼」「隋宗室處綱」「明皇の夢」「龍舒淨土文」「殺雞爲業」「圖畫見聞志」は写本の読み。活字本系テキストはそれぞれ「逍翼」「處絹」「明望」「龍飾」「爲縈」「見問志」とする。いずれも写本の字形が正しいと解して写本を採った。
- 校合
- 「以右手抉其鬼目」は写本の読み。活字本系テキストは「捉其鬼」とする。「痁作」は写本の読みで、活字本系は「痁佐」とする。
- 校合
- 「張說が畫鍾馗を謝する表」の「謝」は写本の読み。活字本系テキストは判読不能の記号を置く。
- 判読保留
- 「終葵と名付しは椎の義」「鍾馗をも椎の義也とす」の「椎」は写本の字形で木偏に読める。活字本系テキストは「搥」「槌」とする。原寸で確かめたが、字形からの推定で判読保留。
- 判読保留
- 「楊顧散人」は写本の読み。活字本系テキストは「拐顧散人」とする。原寸で見て木偏の「楊」と読んだが判読保留。人物は未確認。
- 校合
- 「土上老君」は写本と活字本系がともにこの表記。太上老君のことと思われるが、写本のままとした。
- 注記
- 「湧幢小品」以下の四つの割注は、写本では本文中に小字二行で書かれている。
- 注記
- 『陔余叢考』は清の趙翼の考証随筆。『龍舒浄土文』は宋の王日休の浄土教の書。『図画見聞志』は宋の郭若虚の画史。「殺雞爲業」の一節は雲亭が漢文として読み下したもので、句読は雲亭の推定。
AI試訳 / 専門家未校閲