雲亭日本古典図書室収録作品の一覧

窮鬼

読書室で開く(原典画像・関連作品・自分の書架)

兎園小説 / 曲亭馬琴ほか 兎園会の会員 / 第九集 第9話 / 琴嶺舎 滝沢興継

草加で出会った痩せ法師は、主家に三代住み着いた貧乏神だと名乗った。

本文 現代語訳

窮鬼
窮鬼
文政四年辛巳の夏のころ、番町なる四五百石ばかりの武家の用人、大方ならぬ主用にて、下総のかたほとりなる知行所へ赴くことありけり。江戸を発ちてゆくゆく、草加の宿のこなたより一箇の法師に会へり。見るに年の齢は四十あまりなるべし。面は青く、また黒く、眼深くして、世にいふ鉄壺めきたるが、頤尖りていと痩せたり。身には溷鼠染とかいふ栲の単衣の古りたるを褄挟みして、頭には白菅の笠を戴き、項には頭陀袋を掛けたり。跡につき、先に立ちてゆく程に、煙草の火などを借られしより、物言ふこともしばしばなり。「さて和僧はいづこよりいづちへ赴きたまふにか」と問ふに、法師答へて、「われは番町なる某の屋敷より越谷へゆく」といふ。用人聞きて深く怪しみ、「そは言はるることながら、われはその屋敷の用人なり。わが素より見知らぬ人の、わが屋敷にをることやはある。出家には似げなくも空言を言はるるよ」と、爪弾きをしてあざ笑へば、法師もまたあざ笑ひて、「なでふ和殿をあざむくべき。和殿が吾を見知らぬなり。そもそもわれを何とか見たる。われは世にいふ貧乏神なり。和殿は譜第の者ならねば、昔の事は知らぬなるべし。われは三代已前より和殿の主の屋敷にをれり。さるにより彼の家には病みわづらふ者常に絶えず。先代両主は短命なりき。ただこれのみならず、よろづにつきて幸ひなく、貧窮すでに世を重ねて、禄はあれどもなきがごとし。かくても家の亡びざりしは、先祖の遺徳によれるのみ。昔、和殿の主家にはしかじかの事ありしなり。近頃はまた箇様々々」と、人に知らさぬ秘事を見つるがごとく説き示すに、用人いたく驚き怕れて、嘆息のほか答へもえせず。
文政四年辛巳の夏のころ、番町にある四、五百石ほどの武家の用人が、なみなみでない主君の用事で、下総の片田舎にある知行所へ赴くことがあった。江戸を発って進み、草加の宿の手前で一人の法師に出会った。見たところ年のころは四十あまりだろう。顔は青くまた黒く、眼は落ちくぼんで、世にいう鉄壺のようで、顎が尖ってたいそう痩せていた。身にはどぶ鼠染めとかいう栲の単衣の古びたものを褄挟みにし、頭には白菅の笠をかぶり、首には頭陀袋を掛けていた。後についたり先に立ったりして行くうちに、煙草の火などを借りられたのをきっかけに、言葉を交わすこともたびたびになった。「ところで御坊はどこからどこへ行かれるのか」と問うと、法師は「私は番町の某の屋敷から越谷へ行く」と答えた。用人は聞いて深く怪しみ、「そう言われるが、私はその屋敷の用人だ。私がもともと見知らぬ人が私の屋敷にいるはずがあろうか。出家に似合わず嘘を言われるものだ」と爪弾きをして嘲笑うと、法師もまた嘲笑って、「どうしてあなたをだますものか。あなたが私を知らないのだ。そもそも私を何と見た。私は世にいう貧乏神だ。あなたは譜代の者ではないから、昔のことは知らないのだろう。私は三代前からあなたの主人の屋敷にいる。それで、あの家には病み患う者が絶えない。先代の二人の主人は短命だった。それだけではなく、万事につけて幸いがなく、貧窮はすでに代を重ね、禄はあってもないのと同じだ。それでも家が亡びなかったのは、先祖の遺徳によるだけだ。昔、あなたの主家にはこれこれの事があった。近頃はまたこれこれ」と、人に知らせぬ秘密を見てきたように説き示すので、用人はひどく驚き恐れて、嘆息するほかに返事もできなかった。
窮鬼はこれを見かへりて、「さのみ恐るることにはあらず。和殿の主の世に至りて、いよいよ貧窮至極したれど、その数やうやく尽きたれば、われは他所へ移るなり。今よりして和殿の主人はさきく生ふる家となりて、世を重ねたる借財なども皆返すべきよすがは出で来ん。秘めよ、疑ふべからず」といふに、用人心落ちゐて、「しからば君はいづ方へ遷らせたまふにや」と問ふ。窮鬼答へて、「さればとよ、わが行くところは遠くもあらず。和殿が主の近隣なる何某の屋敷にをらん。その移転の程、一両日いささかの暇あれば、越谷わたりに相知る者を訪はんとて出で来たれど、明日は彼処に移るなり。見よ見よ、今より彼の屋敷はよろづの事に幸なくなりて、遂に貧窮至極せんこと、和殿の主の今茲まで頭を擡げぬごとくになりてん。ゆめな洩らしそ」とささやきつつ、はや越谷まで来る程に、怪しき法師はいづち行きけん、忽ち見えずなりしとぞ。
窮鬼はこれを振り返って、「そんなに恐れることはない。あなたの主人の代になって、いよいよ貧窮は極まったが、その運命の数がようやく尽きたので、私はよそへ移るのだ。これからあなたの主人の家は幸いに栄える家となり、代々重ねた借財なども皆返す手立てが出てくるだろう。秘密にせよ、疑ってはならない」と言うので、用人は安心して、「それならあなたはどちらへ移られるのか」と問うた。窮鬼は答えて、「そうだな、私の行く先は遠くもない。あなたの主人の近所の某の屋敷にいるつもりだ。その引っ越しまで一両日わずかに暇があるので、越谷あたりの知り合いを訪ねようと出てきたが、明日はあちらへ移る。見ていなさい、これからあの屋敷は万事に幸いがなくなり、ついには貧窮を極めること、あなたの主人が今年まで頭を上げられなかったのと同じになるだろう。決して洩らすな」とささやきながら、もう越谷まで来たところで、怪しい法師はどこへ行ったのか、たちまち見えなくなったという。
言はれしことのしるしにや、かくて件の用人は知行所へ赴きて、村役人らと語らふに、たびたびの借財なれば成り易からじと危ぶみたるに、事立ちどころに整ひて、思ひしより物多く借り得て帰りけるとなん。この一条は同じ年六月の下つかた、蠣崎波響の説話なり。彼の用人と親しき者、波響にもまた疎からねば、渠より伝へ聞きしといへり。かの武家ならびに用人の姓名も定かにて、まさしき奇談なるよしなれども、世にはばかりの関に任せて、そこらのくだりは具に記さず。なほ遠からぬ程なれば、知りたる人もあらんかし。
言われたことのしるしだろうか、こうして例の用人は知行所へ赴いて村役人たちと相談したところ、たびたびの借財なので容易にまとまるまいと危ぶんでいたのに、事はたちどころに整い、思ったより多くの金を借りて帰ったということである。この一条は同じ年の六月下旬、蠣崎波響の話である。あの用人と親しい者が波響とも親しく、その人から伝え聞いたという。その武家と用人の姓名もはっきりしていて、まぎれもない奇談だというが、世間をはばかる関門に任せて、そのあたりの詳細は書かない。まだ遠くない昔のことだから、知っている人もあるだろう。
ちなみにいふ、世に福の神とて祭れるは富貴を祷る為なれば、貧乏神といふもあるべし。かつ福は禍の対、貧は富の偶なるをもて、神史に幸の神あればまた枉津日の神もあり。仏書にも吉祥天あればまた黒暗天もあり。唐山にはこれを窮鬼といふ。東坡に送窮の詩あり。歳の十二月下旬、かしこにて家の内を掃除して新年を迎ふるを送窮といふ。この方の煤払と相同じ。送窮の事は『荆楚歳時記』『五雑組』等に見えたり。また耗といひ眚といへるも、ここにいふ貧乏神と相同じ。耗は類書に載せたる『唐逸史』〔この書伝はらず〕に、玄宗の夢に見えし終南山の鍾馗の霊が劈き啖ひしといふ鬼の名なり。耗は即ち虚耗の義なり。よりて皇国にて熏香の匂ひの失するに耗の字を当てたるなり。耗は破財の鬼なるべし。また眚は牛に似たる獣にてよく禍をなすといふ。黒眚の祟りありしは『宋元通鑑』徽宗紀に見えたり。これ宋の衰ふる兆しなりければ、耗も眚も貧乏神と読みて、その義に称ふべしと、さきに家厳の言はれし事あり。
ついでに言えば、世に福の神として祭るのは富貴を祈るためだから、貧乏神というのもあるはずだ。しかも福は禍の対、貧は富の対であるので、神代の史に幸の神があればまた枉津日の神もあり、仏典にも吉祥天があればまた黒暗天もある。中国ではこれを窮鬼という。蘇東坡に送窮の詩がある。年の十二月下旬、あちらでは家の内を掃除して新年を迎えるのを送窮という。日本の煤払いと同じである。送窮のことは『荆楚歳時記』『五雑組』などに見える。また耗といい眚というのも、ここでいう貧乏神と同じである。耗は類書に載せた『唐逸史』〔この書は伝わらない〕に、玄宗の夢に現れた終南山の鍾馗の霊が引き裂いて食ったという鬼の名である。耗はつまり虚耗の意味である。それで日本では薫き物の匂いが消えることに耗の字を当てたのである。耗は財を破る鬼であろう。また眚は牛に似た獣でよく禍をなすという。黒眚の祟りがあったことは『宋元通鑑』の徽宗紀に見える。これは宋の衰える兆しであったから、耗も眚も貧乏神と読んでその意味にかなうだろうと、以前に父が言われたことがある。
近世、江戸牛天神の社のほとりに貧乏神の祠ありけり。こは何がしとか言ひし御家人の、窮してせん方なきままに祭れるなりと言ひ伝ふ。さるを何者の所為にやありけん、その神体を盗み取りて祠のみ残れりと、『四方の赤』に見えたり。はじめこれを祭りし者、敬して遠ざくる意ならんには、咎むべきことにもあらねど、貧乏神を盗みしはいかなる心にかありけん。こは「借金を質に置く」といふ諺と佳対と笑ふべし。
近ごろ江戸の牛天神の社のそばに貧乏神の祠があった。これは何某とかいう御家人が困窮して仕方なく祭ったものだと言い伝える。ところが誰の仕業か、その神体を盗み取って祠だけが残ったと『四方の赤』に見える。初めにこれを祭った者が、敬して遠ざける心づもりだったなら咎めることでもないが、貧乏神を盗んだのはどういう心だったのか。これは「借金を質に置く」という諺とよい対になる、笑うべきことだ。
『四方の赤』にて思ひ出でたり。天明のころ四方山人が窮鬼の像賛に、「おのれやれ富貴になさでおくべきが貧乏神の勅をそむかば」と詠まれしを、ある人難じて、「この歌一首、自他なれば語をなしがたし。『おのれやれ云々』といへる上の句は自なり。『貧乏神の云々』といへる下の句は他にあらずや」と言はれしには、山人も言ひ解きがたくて怠状を出されたり。さればとて難ぜし人の賢にして、詠み人の拙きにもあらず。古人もかかる謬りあり。譬へば芭蕉が発句に「梅さくらさぞわが衆かな女かな」といへるも、てにをは合はず。「にてわが衆かな女かな」といへば難なし。また其角が発句に「この人数舟なればこそ涼みかな」といへるも、てにをは合はず。「舟なればこそ涼みなれ」といふべしと家厳言へり。皆これ千慮の一失にて、英雄人を欺くに近し。これらは過庭の余聞なるを、筆のついでに記すのみ。
『四方の赤』で思い出した。天明のころ四方山人が窮鬼の像賛に「おのれやれ富貴になさでおくべきが貧乏神の勅をそむかば」と詠んだのを、ある人が非難して、「この歌一首は自と他が混じっていて言葉をなさない。『おのれやれ云々』という上の句は自分の言葉で、『貧乏神の云々』という下の句は他人の言葉ではないか」と言われたので、山人も言い解けず、詫び状を出された。だからといって非難した人が賢く、詠んだ人が拙いわけでもない。古人にもこういう誤りがある。たとえば芭蕉の発句に「梅さくらさぞわが衆かな女かな」というのも、てにをはが合わない。「にてわが衆かな女かな」と言えば難がない。また其角の発句に「この人数舟なればこそ涼みかな」というのも、てにをはが合わない。「舟なればこそ涼みなれ」と言うべきだと父が言った。皆これは千慮の一失で、英雄が人を欺くというのに近い。これらは父から聞いた余談だが、筆のついでに記すだけである。
再びいふ、鼠をも耗といへり。鼠は何にまれ噬み損ふ物なれば、破財の義を取りてしか異名せしなるべし。沈存中が『筆談』に、「慶暦中〔宋仁宗の年号〕、一術士あり、姓は李、巧思多し。嘗て木をもて一舞鍾馗を刻めり。高さ二三尺、右手に鉄簡を持たせ、香餌をもて鍾馗の左手の中に置くに、鼠、手に縁りて食を取れば、則ち左手に鼠を扼り、右手に簡を運びてこれを斃す。もて荆王に献ぜり」云々〔第七巻に見ゆ〕。この鍾馗のからくりに鼠を敺ち斃させしも、鼠のことを耗といへば、彼の『唐逸史』中なる虚耗の鬼に拠りどころあり。
もう一度言うと、鼠をも耗という。鼠は何であれ噛んで損なうものだから、財を破る意味を取ってそのように異名をつけたのだろう。沈存中の『夢渓筆談』に、「慶暦年間〔宋の仁宗の年号〕、李という術士がいて、たいそう巧みだった。かつて木で舞う鍾馗の像を刻んだ。高さ二、三尺、右手に鉄の簡を持たせ、香りのよい餌を鍾馗の左手の中に置くと、鼠が手を伝って餌を取り、すると左手が鼠を握り、右手が簡を振り下ろしてこれを打ち殺した。これを荆王に献上した」云々〔第七巻に見える〕。この鍾馗のからくりに鼠を打ち殺させたのも、鼠のことを耗というので、あの『唐逸史』の中の虚耗の鬼に拠り所がある。
予つねに人の家に至るごとに心をつけてこれを見るに、その家の盛んなるは陽気必ず室に充ち、また衰へたる家は陰気必ず室に充てり。夜分は灯火の明暗にてもその盛衰は知らるるものなり。およそ人の盛衰は時運に係るものながら、主人の心術行状によらずといふこともなければ、業を勤めて奢ることなく、朝とく起きて陽気を迎へ、埃を払ふて陰気を送らば、窮鬼も憑ることなかるべし。しかれども真の貧富を推すときは、あながち貴賤によるにしもあらず。「道を知る者おのづから貴く、足ることを知れば富めるがごとし。かの愚福にして蠢寿なるも、貨を積みて散ずることを知らず、老いて譲れる子のなき者は、臨終正念こころもとなし。もし顔淵、原憲が志ありて、かつ貧しき家には、入らんとしつる貧乏神も鼻をつまみて必ず逃げん」と、家厳は折々言へるなり。さりけれども巌居水飲、浮世に疎く、富貴を見ること糞土のごときは、これ人情にあらずかし。窮達貧富を時に任して、生涯毀誉なく命長きは、これ天命を保んずる大福長者といふべきのみ。
私は常々、人の家に行くたびに心をつけてこれを見るが、盛んな家は陽気が必ず部屋に満ち、衰えた家は陰気が必ず部屋に満ちている。夜は灯火の明暗でもその盛衰が分かるものである。およそ人の盛衰は時運によるものだが、主人の心の持ち方と行いによらないということもないので、家業に励んで奢らず、朝早く起きて陽気を迎え、埃を払って陰気を送れば、窮鬼も取り憑くことはないだろう。とはいえ真の貧富を推し量るときは、必ずしも貴賤によるのではない。「道を知る者はおのずから貴く、足るを知れば富んでいるのと同じだ。愚かなまま福を得て虫のように長生きしても、財を積んで散ずることを知らず、老いて譲る子のない者は、臨終の正念が心もとない。もし顔淵や原憲のような志があって、しかも貧しい家であれば、入ろうとした貧乏神も鼻をつまんで必ず逃げるだろう」と、父は折々言っている。しかしながら、岩屋に住んで水を飲み、浮世に疎く、富貴を見ることが糞土のようだというのは、人情ではあるまい。窮達貧富を時に任せ、生涯そしりも誉れもなく長生きするのが、天命を安んじる大福長者と言うべきである。
文政八年長月朔 琴嶺興継識
文政八年九月一日 琴嶺興継しるす
原文 / 昭和女子大学本の字句を採り、正字体を保持、振り仮名を外す

窮鬼

文政四年辛巳の夏のころ、番町なる四五百石ばかりの武家の用人、大かたならぬ主用にて、下總のかたほとりなる知行所へ赴くことありけり。江戸をたちてゆくゆく、草加の宿のこなたより一箇の法師にあへり。見るに年の齡は四十あまりなるべし。面は靑く又黑く、眼深くして世にいふ鐵壺めきたるが、頤尖りていと瘦せたり。身には溷鼠染とかいふ栲の單衣のふりたるを褄はさみして、頭には白菅の笠を戴き、項には頭陀袋を掛たり。跡につき先にたちてゆく程に、烟草の火などを借られしより、ものいふこともしばしばなり。さて和僧は何處より何地へ赴きたまふにかと問ふに、法師答へて、われは番町なる某の屋敷より越谷へゆくといふ。用人聞てふかくあやしみ、そはいはるゝことながら、われはその屋敷の用人なり。わが素より見しらぬ人の、わが屋敷にをることやはある。出家には似げなくもそら言をいはるゝよと、爪彈をしてあざ笑へば、法師も亦あざ笑ひて、なでふ和殿をあざむくべき。和殿が吾を見しらぬなり。そもそもわれを何とか見たる。われは世にいふ貧乏神なり。和殿は譜第のものならねば、むかしの事はしらぬなるべし。われは三代已前より和殿の主の屋敷にをれり。さるにより彼家には病わづらふもの常にたえず。先代兩主は短命なりき。只是のみならず、よろづにつきて幸ひなく、貧窮既に世をかさねて、祿はあれどもなきが如し。かくても家の亡びざりしは、先祖の遺徳によれるのみ。昔和殿の主家にはしかじかの事有しなり。近頃は又箇樣々々と、人にしらさぬ秘事を見つるが如く說示すに、用人いたく駭き怕れて、嘆息の外いらへも得せず。

窮鬼はこれを見かへりて、さのみおそるゝことにはあらず。和殿の主の世に至りて、いよいよ貧窮至極したれど、その數やうやく竭きたれば、われは他所へ移るなり。今よりして和殿の主人はさきくおふる家となりて、世をかさねたる借財なども皆返すべきよすがはいで來ん。秘めよ、疑ふべからずといふに、用人心おちゐて、しからば君はいづ方へ遷らせたまふにやと問ふ。窮鬼答へて、さればとよ、わが行くところは遠くもあらず。和殿が主の近隣なる何某の屋敷にをらん。その移轉の程一兩日いさゝかの暇あれば、越谷わたりに相識るものを詢はんとて出て來たれど、翌は彼處に移るなり。見よ見よ、今より彼屋敷はよろづの事にさちなくなりて、遂に貧窮至極せんこと、和殿の主の今玆までかうべを擡ぬ如くになりてん。ゆめな洩しそとさゝやきつゝ、はや越谷まで來る程に、あやしき法師はいづちゆきけん、忽見えずなりしとぞ。

いはれしことのしるしにや、かくて件の用人は知行所へ赴きて、村役人等とかたらふに、たびたびの借財なれば成易からじとあやぶみたるに、事立どころにとゝのひて、思ひしより物多く借得てかへりけるとなん。この一條は同じ年六月の下つかた、蠣崎波響の說話なり。彼用人と親しきもの、波響にも亦踈からねば、渠より傳へ聞きしといへり。かの武家幷に用人の姓名も定かにて、まさしき奇談なるよしなれども、世にはばかりの關に任せて、そこらのくだりは具に記さず。猶遠からぬ程なれば、知りたる人もあらんかし。

ちなみにいふ、世に福の神とて祭れるは富貴を禱る爲なれば、貧乏神といふもあるべし。且福は禍の對、貧は富の偶なるをもて、神史に幸の神あれば又枉津日の神もあり。佛書にも吉祥天あれば又黑暗天もあり。唐山にはこれを窮鬼といふ。東坡に送窮の詩あり。歲の十二月下旬、彼にて家の内を掃除して新年を迎るを送窮といふ。この方の煤拂と相同じ。送窮の事は荆楚歲時記、五雜組等に見えたり。又耗といひ眚といへるも、こゝにいふびんぼうがみと相同じ。耗は類書に載せたる唐逸史〔この書傳らず〕に、玄宗の夢に見えし終南山の鍾馗の靈が劈啖ひしといふ鬼の名也。耗は卽虛耗の義なり。よりて皇國にて熏香のにほひのうするに耗の字を當てたる也。耗は破財の鬼なるべし。又眚は牛に似たる獸にてよく禍をなすといふ。黑眚の祟ありしは宋元通鑑徽宗紀に見えたり。これ宋の衰る兆なりければ、耗も眚もびんぼうかみとよみて、その義に稱ふべしと、曩に家嚴のいはれし事あり。

近世江戸牛天神の社のほとりに貧乏神の禿倉有けり。こは何がしとかいひし御家人の、窮してせんかたなきまゝに祭れるなりといひ傳ふ。さるを何ものゝ所爲にやありけん、その神體を盗みとりて禿倉のみ殘れりと、四方の赤に見えたり。はじめこれを祭りしもの、敬して遠ざくる意ならんには、咎むべきことにもあらねど、貧乏神を盗みしはいかなる心にかありけん。こは借金を質におくといふ諺と佳對と笑ふべし。

四方の赤にておもひ出たり。天明のころ四方山人が窮鬼の像贊に、おのれやれ富貴になさでおくべきが貧乏神の勅をそむかばとよまれしを、ある人難じて、この歌一首自他なれば語をなしがたし。おのれやれ云云といへる上の句は自なり。貧乏神の云云といへる下の句は他にあらずやといはれしには、山人もいひときがたくて怠状を出されたり。さればとて難ぜし人の賢にして、よみ人の拙きにも非ず。古人もかゝる謬あり。譬へば芭蕉が發句に、梅さくらさぞわが衆かな女かなといへるも、てにをはあはず。にてわが衆かな女かなといへば難なし。又其角が發句に、この人數舟なればこそ凉みかなといへるも、てにをはあはず。舟なればこそ凉みなれといふべしと家嚴いへり。皆是千慮の一失にて、英雄人を欺くにちかし。これらは過庭の餘聞なるを、筆のついでにしるすのみ。

再いふ、鼠をも耗といへり。鼠は何にまれ噬損ふものなれば、破財の義を取りてしか異名せしなるべし。沈存中が筆談に、慶暦中〔宋仁宗年號〕有一術士姓李多巧思嘗木刻一舞鍾馗高二三尺右手持鐵簡以香餌置鍾馗左手中鼠緣手取食則左手扼鼠右手運簡斃之以獻荆王云云〔見第七巻〕。この鍾馗のからくりに鼠を敺斃させしも、鼠のことを耗といへば、彼唐逸史中なる虛耗の鬼によりところあり。

予つねに人の家に至る每に心をつけてこれを見るに、その家の盛なるは陽氣必室に充ち、又衰へたる家は陰氣必室に充てり。夜分は燈火の明暗にてもその盛衰はしらるゝものなり。およそ人の盛衰は時運に係るものながら、主人の心術行状によらずといふこともなければ、業を勤めて奢ることなく、朝とく起きて陽氣を迎へ、埃を掃ふて陰氣を送らば、窮鬼も憑ることなかるべし。しかれども眞の貧富を推すときは、あながち貴賤によるにしもあらず。道を知るものおのづから貴く、足ることを知れば富めるが如し。かの愚福にして蠢壽なるも、貨を積みて散ずることを知らず、老て讓れる子のなきものは、臨終正念こゝろもとなし。もし顏淵原憲が志ありて且貧しき家には、入らんとしつる貧乏神も鼻をつまみて必迯んと、家嚴はをりをりいへるなり。さりけれども巖居水飮、浮世に疎く、富貴を見ること糞土の如きは、是人情にあらずかし。窮達貧富を時に任して、生涯毀譽なく命長きは、是天命を保んずる大福長者といふべきのみ。

文政八年長月朔 琴嶺興繼識

注

写本の位置
写本は3171の23カット目左ページから28カット目右ページまで。23カット目右ページは白紙。28カット目左ページから第10話「雙生合體」が始まる。
注記
披講者は末尾の「琴嶺興繼識」による。琴嶺舎は馬琴の長男滝沢興継。本文中の「家嚴」は父馬琴のこと。
校合
活字本系テキストは末尾に「百川云」で始まる百川の評を付けるが、写本にはない。百川は兎園会同人の一人と思われるが、人物は未確認。
校合
署名の「文政八年長月朔」は写本の読み。活字本系テキストは「文政八年乙酉九月朔」とする。写本を採った。
判読保留
「熏香のにほひのうするに」は写本の読みで、「熏香」に「タキモノ」の振り仮名がある。活字本系テキストは「彩布の「にほひ」」とする。写本を採った。「にほひ」の「に」は小字のように見え、判読保留。
判読保留
「褄はさみ」は写本の字形から読んだ。活字本系テキストは「褸」とする。判読保留。
判読保留
「何處より何地へ」の「何地」は写本の字形から読んだ。活字本系テキストは「何所」とする。判読保留。
判読保留
「佳對と笑ふべし」は写本の読み。活字本系テキストは「佳對なり。笑ふべし」とする。「と」の字形は原寸で確かめたが、「なり」の可能性を残す。判読保留。
校合
「よみ人の拙きにも非ず」は写本の読み。活字本系テキストは「よみ人の拙きにも、あらず」とする。「貨を積みて散ずることを」は写本の読みで、活字本系テキストは「散らすことを」とする。「陽氣を迎へ」は写本の読みで、活字本系テキストは「陽氣な迎へ」とする。
注記
「知行所へ赴くこと」の「こと」は写本では朱で書き入れてある。
校合
「聞て」「掛たり」「借得て」「有けり」「出て來たれど」「老て」は写本の送り仮名。活字本系テキストは「聞きて」「掛けたり」「借り得て」「有りけり」「出て來たれど」「老ひて」と補う。
注記
写本には「一箇」に「ヒトリ」、「栲」に「タヘ」、「溷鼠染」に「ドブ」、「頭」に「カウベ」、「擡」に「モタゲ」、「幸」に「サチ」、「彼」に「カシコ」、「熏香」に「タキモノ」、「鬼」に「カミ」、「禿倉」に「ホコラ」の振り仮名があり、筆談の引用には返り点と送り仮名がある。原文欄では外した。
注記
沈存中は北宋の沈括で、『筆談』は『夢渓筆談』。引用の白文は読みやすい本文で書き下した。四方山人は大田南畝で、『四方の赤』は南畝の狂文集『四方のあか』。蠣崎波響は松前藩家老で画家の蠣崎広年。牛天神は今の文京区春日の北野神社。顔淵と原憲は孔子の弟子で清貧の人。巌居水飲は岩屋に住み水を飲む隠者の生活。

AI試訳 / 専門家未校閲