掘地得城塁 附石地蔵図
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兎園小説 / 曲亭馬琴ほか 兎園会の会員 / 第十集 第3話 / 海棠庵 関思亮
加賀藩本郷屋敷の庭造りで石垣に掘り当たり、三万余の丸石が出た。誰の城跡かは分からない。
本文 現代語訳
加州侯本郷の上屋敷、「梅の御殿」といへるがありし跡を、このたび御守殿の御庭となし給ふにより、植木植ゑんとて、今茲文政八年乙酉二月二十八日、手の木方覚太夫、吉太夫といふ者、土中六尺ばかり掘るほどに、石垣に掘り当たりにけり。これにより大工棟梁甚蔵、吉兵衛、吉蔵といふ者、件の石を掘り取る事を請負に、同三月二日より日ごとに六七十人あるいは百人ばかりの人足をもて、七月二十日まで掘りたるに、石はみな丸石にて、面少しづつ付きてあり。その数およそ三万余掘り出しけり。その石一つに銀二匁五分づつの請負賃にて、大小に拘らず同屋敷内へ取り片づけたりとぞ。何人の城郭なりしや尋ぬべし〔解、按ずるに、こはむかし豊島信盛が一族丸塚某などの城郭にはあらぬか〕。よりてその図を下に出だしつ。
加賀侯の本郷上屋敷で、「梅の御殿」と呼ばれた建物のあった跡を、このたび御守殿の庭にすることになり、植木を植えようとして、今年文政八年乙酉二月二十八日、手木方の覚太夫と吉太夫という者が土を六尺ほど掘ったところ、石垣に掘り当たった。そこで大工棟梁の甚蔵、吉兵衛、吉蔵という者が、その石を掘り取る仕事を請け負い、三月二日から毎日六、七十人あるいは百人ほどの人足を使って七月二十日まで掘ったところ、石はみな丸石で、面が少しずつ付いていた。その数はおよそ三万余りを掘り出した。石一つにつき銀二匁五分ずつの請負賃で、大小にかかわらず同じ屋敷内へ片づけたという。誰の城郭だったのかは調べる必要がある〔解が考えるに、これは昔、豊島信盛の一族の丸塚某などの城郭ではないだろうか〕。そこでその図を下に出す。
加州普請奉行 関田十郎左衛門/松原半兵衛/大工頭 中村半次/同頭取 西田清平/手木方〔初めて石に掘り当たり候者この両人〕 服部覚太夫/石出吉太夫/大工頭〔湯島天沢寺前松吉屋の裏〕 甚蔵/本郷金助町 吉兵衛/同所 吉蔵
加賀藩普請奉行 関田十郎左衛門、松原半兵衛。大工頭 中村半次。同頭取 西田清平。手木方〔初めて石に掘り当たった者はこの二人〕 服部覚太夫、石出吉太夫。大工頭〔湯島天沢寺前の松吉屋の裏〕 甚蔵。本郷金助町 吉兵衛。同所 吉蔵。
〔図一 北/馬場二百間余/幅十間/東/この所下水と見え、石垣の外の土は赤土にて石垣の内は黒土なり/奥殿/半町/二町半/石はこの山の下になほあるべけれど、ここにて止みぬ/半町/巾六間/深さ八尺/南/この石丸石にて五十人持なり/半町/四十間/紅葉山/山陰に一里塚あり/栄螺山、頂より沖を見る/一町余/西/泉水/この石垣を掘り出せし場所は梅の御殿といひしものの跡なり。今は〇〇〇地〇〇〇御守殿の御庭〇〇〇〇〇〇いふ〕
〔図一 北。馬場二百間余り。幅十間。東。この所は下水と見え、石垣の外の土は赤土で、石垣の内側は黒土である。奥殿。半町。二町半。石はこの山の下にまだあるはずだが、ここで掘るのをやめた。半町。幅六間。深さ八尺。南。この石は丸石で五十人持ちである。半町。四十間。紅葉山。山陰に一里塚がある。栄螺山、頂上から沖を見る。一町余り。西。泉水。この石垣を掘り出した場所は、梅の御殿と呼ばれたものの跡である。今は(判読できず)御守殿の庭(判読できず)という〕
右一条は、加州邸へ日々入り込みたる傭夫の話なり。
以上の一件は、加賀藩邸へ日々出入りしていた人夫の話である。
同年二月三日、四日のころ、右同藩の家老村井又兵衛小屋にて、玄関前なる柱の下より、大工勘右衛門といふ者石の地蔵を掘り出せり。同月初午の日、稲荷の社地へ堂を建立して納めけるとぞ。その図左のごとし。
同じ年の二月三日、四日のころ、同じ藩の家老村井又兵衛の小屋で、玄関前の柱の下から、大工の勘右衛門という者が石の地蔵を掘り出した。同じ月の初午の日に、稲荷の社地にお堂を建てて納めたという。その図は左のとおり。
〔図二 長さ三尺ばかり/二寸ばかり〕
〔図二 長さ三尺ほど。二寸ほど〕
原文 / 昭和女子大学本の字句を採り、正字体を保持、振り仮名を外す
掘地得城壘
加州侯本鄕の上屋敷、梅の御殿といへるがありし跡を、此度御守殿の御庭となし給ふにより、植木うゑんとて、今茲文政八年乙酉二月廿八日、手の木方覺太夫吉太夫といふもの、土中六尺ばかり掘る程に、石垣に掘當りにけり。これにより大工棟梁甚藏吉兵衞吉藏といふもの、件の石を掘とる事を請負に、同三月二日より日每に六七十人或は百人ばかりの人足をもて、七月廿日まで掘たるに、石は皆丸石にて、面少しづゝつきてあり。その數凡三萬餘掘出しけり。その石一つに銀弐匁五分づゝの請負賃にて、大小に拘らず同屋敷内へとり片づけたりとぞ。何人の城郭なりしや尋ぬべし〔解按ずるに、こはむかし豐嶋信盛が一族丸塚某などの城郭にはあらぬか〕。よりてその圖を下に出しつ。
加州普請奉行 關田十郞左衞門/松原半兵衞/大工頭 中村半次/同頭取 西田淸平/手木方〔初て石にほり當り候もの此兩人〕 服部覺太夫/石出吉太夫/大工頭〔湯嶋天澤寺前松吉屋の裏〕 甚藏/本鄕金助町 吉兵衞/同所 吉藏
〔圖一 北/馬場貳百間餘/幅十間/東/此所下水ト見エ石垣ノ外ノ土ハ赤土ニテ石垣ノ内ハ黑土ナリ/奧殿/半町/貳町半/石ハコノ山ノ下ニ猶有ルベケレドコヽニテ止ヌ/半町/巾六間/深サ八尺/南/此石丸石ニテ五十人持ナリ/半町/四拾間/紅葉山/山蔭ニ一里塚アリ/榮螺山頂ヨリ沖ヲ見ル/壱町餘/西/泉水/この石垣を掘出せし場所は梅の御殿といひしものゝ跡なり。今は〇〇〇地〇〇〇御守殿の御庭〇〇〇〇〇〇云〕
右一條は、加州邸へ日々入込たる傭夫のはなしなり。
同年二月三日四日のころ、右同藩の家老村井又兵衞小屋にて、玄關前なる柱の下より、大工勘右衞門といふもの石の地藏を掘出せり。同月初午の日、稻荷の社地へ堂を建立して納めけるとぞ。其圖左の如し。
〔圖二 長サ三尺許/二寸許〕
乙酉初冬朔 海棠庵記
注
- 写本の位置
- 写本は3171の42カット目右ページの中ほどから46カット目右ページまで。43カット目に折り込みの城跡図があり、44カット目はその図を広げて撮った一枚。45カット目は図を畳んだ状態で、43カット目右ページと同じ人名の一覧が見える。46カット目右ページに石地蔵の略図と署名がある。
- 注記
- 目録の題は「掘地得城壘 附石地藏圖」、披講者は「仝」で海棠庵。本文の題は「掘地得城壘」。
- 校合
- 「ありし跡を、此度」は写本の読み。活字本系テキストは「ありし跡も」とする。原寸で確かめた。
- 校合
- 「覺太夫吉太夫」「甚藏吉兵衞吉藏」は写本の読み。活字本系テキストは「古太夫」「古兵衞」とする。人名一覧の「石出吉太夫」は原寸で確かめ、本文の吉兵衞は本郷金助町の吉兵衞と一致する。
- 校合
- 「日每に六七十人或は百人」は写本の読み。活字本系テキストは「六十人、七十人、或は百人」とする。
- 校合
- 「本鄕金助町」は写本の読み。活字本系テキストは「金介町」とする。
- 判読保留
- 図一は彩色の城跡図で、上が北、右が東。中央に鉤の手に曲がる石垣が二重に描かれ、上部に馬場、右上に奥殿、下部に紅葉山と栄螺山と泉水がある。書き込みは右上から順に「/」で区切った。活字本系テキストは「馬場貳百間餘」を載せない。図の左端に縦書きの添え書きがあるが、文字がかすれて中ほどが読めず、判読保留とし〇で示した。
- 注記
- 図二は石地蔵の略図で、像の高さを「長サ三尺許」、台の径を「二寸許」と記す。
- 注記
- 加賀藩本郷上屋敷は今の東京大学本郷キャンパス。御守殿は将軍家から嫁いだ溶姫のための御殿で、赤門はその門。豊島氏は中世の武蔵の豪族で、「信盛」は写本の表記のまま。
AI試訳 / 専門家未校閲