雲亭日本古典図書室収録作品の一覧

阿比乃麻村の瘞銭

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兎園小説 / 曲亭馬琴ほか 兎園会の会員 / 第十集 第8話 / 琴嶺舎 滝沢興継

松前の村の嫁が畑で古銭を掘り当てる。欲深い夫が守り蛇を殺すと、翌日は一銭も出なかった。

本文 現代語訳

阿比廼麻村の瘞銭
阿比乃麻村の埋め銭
松前領エサシの近郷アヒノマ村の民立之助が母は、質朴慈善の者なり。人あだ名して「オカツテ婆々」と呼びぬ。はじめオカツテ村より嫁し来たるをもてなり。また立之助が妻の名を「よす」といひけり。こもまた朴素寡欲の者とぞ聞こえし。
松前領江差の近くのアヒノマ村の住人立之助の母は、質朴で慈善の心のある人である。人々はあだ名で「オカッテ婆さん」と呼んでいた。もとオカッテ村から嫁いできたからである。また立之助の妻の名は「よす」といった。この人もまた素朴で欲の少ない人だと聞いている。
かくて文政六年夏六月のころ、件のよすは畑を打たんとて、ひとり田野に出でたるに、この日畑のめぐりなりける土手の下にて、思はず古銭を掘り出しけり。勉めて掘りなばいくばくも出づべかりしを、もとより寡欲の者なれば、さて思ふやう、「われはこの銭のためにとてここへ来つるにあらず。さるをこのために畑の稼ぎをおろかにすべきことかは」とて、鍬にかかれば取り、かからねども求むる心はなかりけり。しかれどもとかくして三貫文あまりの古銭を獲たりしかば、そを簣にうち入れて宿所へ持て帰るほどに、小さなる蛇のわが尻に踉きて来たるあり。はじめのほどは見返りながら追ひやらひたれども、なほあやにくに来たるを心ともせで、わが門に及べるころ蛇は見えずなりぬ。
さて文政六年夏六月のころ、そのよすが畑を耕そうと一人で野良に出たところ、この日、畑の周りの土手の下で、思いがけず古銭を掘り出した。努めて掘ればいくらでも出たはずだが、もともと欲の少ない人なので、「私はこの銭のためにここへ来たのではない。それなのにこのために畑仕事をおろそかにしてよいものか」と考え、鍬にかかれば取り、かからなければ求める気持ちはなかった。それでもなんだかんだで三貫文あまりの古銭を得たので、それを籠に入れて家へ持ち帰る途中、小さな蛇が自分の後をついてくる。初めのうちは振り返って追い払ったが、それでもしつこくついてくるのを気にもとめず、自分の家の門に着くころには蛇は見えなくなった。
かくてその黄昏に立之助もよそより帰り来にければ、よすは「しかじか」と告ぐるに、立之助は喜びて、「その銭をいかにしつる」と問ふ。「かしき桶に入れたるを蓋してかしこにあり」と答ふ。「いでやわれよく見ん」とて、納戸やうの処に至るに、その桶の上に小さき蛇の蟠りてをり。「しやつ憎し。などてここへは入りたるぞ」とて、煙管をもて払ひ落としつつ、終にうち殺して背門へ棄てけり。その夜立之助は件の銭を数へ果てて、よすにいふやう、「求めて掘らばいくらも出づべき銭ならんには、畑は打たでも取るべき者を、等閑にしつるおろかさよ。翌は夙めてしるべをせよ。われ行きてあらん限り取りて見すべきぞ」と罵りたり。
そしてその夕方、立之助もよそから帰ってきたので、よすが「これこれのことがあった」と告げると、立之助は喜んで「その銭はどうした」と問う。「炊事用の桶に入れて蓋をして、あそこにある」と答える。「どれ、よく見てみよう」と納戸のような所へ行くと、その桶の上に小さな蛇がとぐろを巻いている。「こいつめ、憎らしい。どうしてここへ入ったのだ」と、煙管で払い落として、とうとう打ち殺し、裏口へ捨てた。その夜、立之助はその銭を数え終えて、よすに言うには、「求めて掘ればいくらでも出る銭なら、畑など耕さなくても取るべきものを、いいかげんにしておくとは愚かなことだ。明日は早起きして案内しろ。私が行って、あるだけ取って見せるぞ」とののしった。
かかりしほどに、立之助は夜の明くるを待ちわびつつ、未明より妻を先に立てて、きのふの処へ行く行く、掘れども掘れども銭はひとつも出でざりければ、「処まどひやしけん」とて、いらちてよすを罵れども、「正しくここなり」といふに、きのふ掘りたる跡もあれば、「さなるべし」と思ひかへして、日ぐらし掘りに掘りたれば、土手の据のみ掘り崩しつつ、一銭だにも得ることなくて、手を空しくして帰りにけり。さばれきのふよすが獲たるは、めでたき古銭のみなれば、エサシ人の伝へ聞きて価よく買ひぬといふ。
こうして立之助は夜の明けるのを待ちかねて、夜明け前から妻を先に立たせて昨日の場所へ行き、掘りに掘ったが、銭は一つも出ないので、「場所を間違えたのだろう」と、いらだってよすをののしったが、「確かにここだ」と言うし、昨日掘った跡もあるので、「そうだろう」と思い直して、日暮れまで掘りに掘ったところ、土手の裾を掘り崩しただけで一銭も得られず、手ぶらで帰った。ただ、昨日よすが得たのはめでたい古銭ばかりだったので、江差の人が伝え聞いて、高い値で買ったという。
村民時に批評していはく、「よすが三貫の古銭を獲たるは、その寡欲なりけると、オカツテ婆々が年来の慈善の陽報にてもあるべし。もしよすにのみ任せおかば、銭はなほ日々に出づべきを、立之助が貪婪なる、霊蛇さへ撃ち殺せしかば、出づべき銭の出でずなりぬ。いと惜しむべきことなりき」と、いはぬ者なかりける。「かの太山に貨あり、宝に心なき者これを得る」と『老子経』に見えたるすら思ひ出でられて、ことわりにこそ聞こえたれ。あるいはいふ、「むかしアヒノマのほとりに数千貫の銭を埋めたる者ありしよし、故老の口碑に伝へたり。よすが掘り出せしは、むかし人の埋めたる三千貫文のうちなるべし」といひしとぞ。三千貫といふよしは、いかなる故にかあらん。なほ尋ぬべし。
村人はこれを評して、「よすが三貫の古銭を得たのは、その欲のなさと、オカッテ婆さんの長年の善行の報いだろう。もしよすだけに任せておいたら、銭はまだ毎日出たはずなのに、立之助が欲深く、霊蛇まで打ち殺したので、出るはずの銭が出なくなった。まったく惜しいことだった」と言わない者はなかった。「かの太山に宝がある。宝に心のない者がこれを得る」と『老子経』にあるのさえ思い出されて、もっともなことに聞こえる。ある人は「昔アヒノマのあたりに数千貫の銭を埋めた者がいたと、古老の言い伝えにある。よすが掘り出したのは、昔の人が埋めた三千貫文のうちだろう」と言ったそうだ。三千貫というのはどういうわけだろうか。なお調べたい。
かかるものを掘り出せば、私にものすることにはあらぬを、辺鄙村落の事なれば、領主へ訴へ申さざりしかば、今茲やうやくその事聞こえて、老侯もはじめて知ろしめされしとて、太田九吉といふ使ひをもて家厳に告げさせ給ひしとき、家厳のいはく、「むかし前九年、後三年など聞こえたる奥の戦より、近世天正のころまでも、落武者どものエサシへも野作地へも逃れたるが多かるべし。かかればそのともがらの埋め置きたる銭にてもありけんかし。恨むらくは当時領主へ聞こえ上げざりしかば、その銭文をだも見るによしなし。今もなほその銭を持ちたる者あらば、見まく欲しきものにこそ候へ」と申ししかば、老侯やがて「しかじか」と松前へ伝へさせ給ひしとぞ。「異日もしその銭を老侯へ参らする者あらば、家厳にも分かち賜ふべし」と仰せられたりとばかりにて、久しうなれども今に何とも承らぬは、有れども「無し」と申して出ださざるか、実になきにてもあるべし。
このようなものを掘り出せば私物にはできないのだが、辺鄙な村のことなので領主に届け出なかった。今年になってようやくそのことが伝わり、老侯も初めてお知りになったとのことで、太田九吉という使者で父にお知らせになった。そのとき父が申し上げるには、「昔、前九年、後三年などと聞こえた奥州の戦から、近世の天正のころまでも、落武者たちが江差へも野作地へも逃げた者が多かったでしょう。ですからその人たちが埋めておいた銭でもあったのでしょう。残念なのは、当時領主に届け出なかったので、その銭の文字さえ見るすべがないことです。今でもその銭を持っている者がいれば、見たいものです」。老侯はすぐに「これこれ」と松前へ伝えさせなさったという。「いつかその銭を老侯に差し上げる者がいれば、父にも分けてくださる」と仰せられたきりで、長く経つのに今に何の音沙汰もないのは、持っていても「ない」と言って出さないのか、本当にないのかもしれない。
「唐の黄巣が敗れて後、閩越の深山中にあまたの銭を埋め置きしを、宋の時に至りて樵夫ゆくりなくその銭を得たり。ただ多くして一人の力にかなはず、次の日また取らんとてその処に至るに、巨蛇ありて銭を見ず。樵夫おそれて逃げ帰りしといふ事所見あり。『宛委余篇』なりしかと思へど暗記せず。抄録したりと覚ゆれば他日見出だすべし」と家厳いへり。
「唐の黄巣が敗れたのち、閩越の深い山中に多くの銭を埋めておいたのを、宋の時代になって樵が偶然その銭を見つけた。ただ多すぎて一人の力では運べず、翌日また取ろうとその場所へ行くと、大蛇がいて銭は見えなかった。樵は恐れて逃げ帰ったという話をどこかで見た。『宛委余篇』だったかと思うが、はっきり覚えていない。抜き書きしたと思うので、いつか見つけ出そう」と父は言った。
興継按ずるに、蝦夷は何にまれ、その宝とするものを山野に埋め蔵めて、妻子にも知らせず。その者にはかに死する時は、子孫といふともこれを取るによしなし。星霜を経て後にゆくりなく他人のために掘り出さるることありといふ。アヒノマの古銭もそのたぐひなるべし。また蝦夷地なるオコシリにても、今より九年ばかりさきつころ〔文化十四年か〕古銭を掘り出せしといふ奇談あり。このほかオコシリには異聞も多かれど、おのれ連日持病の手腕揺動して、筆を把るに自在ならず。かばかりの短篇だもからくして綴りたり。ここに漏らせることどもは後の兎園に記すべし。
興継が考えるに、蝦夷の人は何であれ、宝とするものを山野に埋め隠して妻子にも知らせない。その人が急に死ぬと、子孫であってもこれを取り出すすべがない。年月を経てから偶然、他人に掘り出されることがあるという。アヒノマの古銭もそのたぐいだろう。また蝦夷地の奥尻でも、今から九年ほど前〔文化十四年か〕に古銭を掘り出したという奇談がある。このほか奥尻には珍しい話も多いが、私は連日持病で手首が震えて筆が自由にならない。これほどの短編でもやっとのことで綴った。ここに書き漏らしたことは、後の兎園会に記すつもりである。
文政八年陽月朔 琴嶺滝沢興継
文政八年十月一日 琴嶺 滝沢興継
原文 / 昭和女子大学本の字句を採り、正字体を保持、振り仮名を外す

阿比廼麻村の瘞錢

松前領ヱサシの近鄕アヒノマ村の民立之助が母は、質樸慈善のものなり。人綽號してオカツテ婆々と呼びぬ。はじめオカツテ村より嫁し來るをもて也。又立之助が妻の名をよすといひけり。こも又朴素寡欲のものとぞ聞えし。

かくて文政六年夏六月のころ、件のよすは畑をうたんとて、ひとり田野に出たるに、この日畑のめぐりなりける土手の下にて、思はず古錢を掘出しけり。勉めて掘りなばいくばくも出べかりしを、素より寡欲のものなれば、扨おもふやう、われはこの錢の爲にとてこゝへ來つるにあらず。さるをこの爲に畑の稼をおろかにすべきことかはとて、鍬にかゝれば取り、かゝらねども求むるこゝろはなかりけり。しかれどもとかくして三貫文あまりの古錢を獲たりしかば、そを簣にうちいれて宿所へもて歸る程に、ちひさなる蛇のわがしりに踉きて來るあり。はじめの程はみかへりながら追やらひたれども、猶あやにくに來るをこゝろともせで、わが門に及べるころ蛇は見えずなりぬ。

かくてその黃昏に立之助もよそよりかへり來にければ、よすはしかじかと告るに、立之助はよろこびて、その錢をいかにしつると問ふ。かしき桶にいれたるを蓋してかしこにありと答ふ。いでやわれよく見んとて、納戶やうの處に至るに、その桶の上にちひさき蛇の蟠りてをり。しやつ憎し、などてこゝへは入りたるぞとて、きせるをもて拂ひ落しつゝ、終にうち殺して背門へ棄てけり。其夜立之助は件の錢をかぞへ果てゝ、よすにいふやう、求めて掘らばいくらも出べき錢ならんには、畑はうたでも取るべき者を、等閑にしつるおろかさよ。翌は夙めてしるべをせよ。われゆきてあらん限り取りてみすべきぞと罵りたり。

かゝりし程に、立之助は夜の明るを待ちわびつゝ、未明より妻を先に立てゝ、きのふの處へゆくゆく、掘れども掘れども錢はひとつも出ざりければ、處まどひやしけんとて、いらちてよすを罵れども、正しくこゝなりといふに、きのふ掘たる跡もあれば、さなるべしと思ひかへして、日ぐらし掘りに掘りたれば、土手の据のみほり崩しつゝ、一錢だにも得ることなくて、手を空しくしてかへりにけり。さばれきのふよすが獲たるは、めでたき古錢のみなれば、ヱサシ人の傳へ聞きて價よく買ひぬといふ。

村民時に批評していはく、よすが三貫の古錢を獲たるは、その寡欲なりけると、オカツテ婆々が年來の慈善の陽報にてもあるべし。もしよすにのみ任しおかば、錢は猶日々に出べきを、立之助が貪婪なる、靈蛇さへ擊殺せしかば、出べき錢の出ずなりぬ。いと惜むべきことなりきと、いはぬものなかりける。彼太山に貨あり、たからにこゝろなきものこれを得ると、老子經に見えたるすら思ひ出られて、ことわりにこそ聞えたれ。或はいふ、むかしアヒノマのほとりに數千貫の錢を埋めたるものありしよし、故老の口碑に傳へたり。よすが掘出せしは、むかし人の埋めたる三千貫文のうちなるべしといひしとぞ。三千貫といふよしは、いかなる故にかあらん。猶たづぬべし。

かゝるものを掘出せば、私にものすることにはあらぬを、邊鄙村落の事なれば、領主へ訴へまうさゞりしかば、今茲やうやく其事聞えて、老侯もはじめて知しめされしとて、太田九吉といふ使をもて家嚴に告させ給ひしとき、家嚴のいはく、むかし前九年後三年など聞えたる奧の戰より、近世天正のころまでも、落武者どものヱサシへも野作地へも逃れたるが多かるべし。かゝればそのともがらの埋め置たる錢にてもありけんかし。恨むらくは當時領主へ聞えあげざりしかば、その錢文をだも見るによしなし。今も猶その錢をもちたるものあらば、見まくほしきものにこそ候へとまうしゝかば、老侯やがてしかじかと松前へ傳へさせ給ひしとぞ。異日もし其錢を老侯へまゐらするものあらば、家嚴にも分ち賜ふべしと仰られたりとばかりにて、久しうなれども今に何ともうけ給はらぬは、有れども無しと申して出さゞる歟、實になきにてもあるべし。

唐の黃巢が敗れて後、閩越の深山中にあまたの錢を埋め置しを、宋の時に至りて樵夫ゆくりなくその錢を得たり。只多くして一人の力にかなはず、次の日又取らんとてその處に至るに、巨蛇ありて錢を見ず。樵夫おそれて逃げかへりしといふ事所見あり。宛委餘篇なりしかと思へど暗記せず。抄錄したりと覺ゆれば他日見出すべしと家嚴いへり。

興繼按ずるに、蝦夷は何にまれ、その寶とするものを山野に埋め藏めて、妻子にもしらせず。そのものにはかに死する時は、子孫といふともこれを取るによしなし。星霜を經て後にゆくりなく他人の爲に掘出さるゝことありといふ。アヒノマの古錢もそのたぐひなるべし。又蝦夷地なるオコシリにても、今より九年ばかりさきつころ〔文化十四年歟〕古錢を掘出せしといふ奇談あり。この他オコシリには異聞も多かれど、おのれ連日持病の手腕搖動して、筆を把るに自在ならず。かばかりの短篇だもからくして綴りたり。こゝに漏せることどもは後の兎園にしるすべし。

文政八年陽月朔 琴嶺瀧澤興繼

注

写本の位置
写本は3171の53カット目左ページから56カット目左ページまで。56カット目左ページの末尾に「文政八年陽月朔 琴嶺瀧澤興繼」の署名があり、57カット目右ページから次の話が始まる。
校合
目録の題は「阿比乃麻村の瘞銭」、本文の題は「阿比廼麻村の瘞錢」。披講者は琴嶺舎で、馬琴の子の滝沢興継。活字本系テキストの題「阿比酒麻村の療錢」は誤植と見て、原文欄は写本の字を採った。
校合
「嫁し來るをもて也」は写本の読み。活字本系テキストは「嫁し來れるをもつて也」とする。
校合
「未明より妻を先に立てゝ」は写本の読み。活字本系テキストは「立たして」とする。
校合
「さなるべしと思ひかへして」は写本の読み。活字本系テキストは「さなるべく」とする。
校合
「仰られたりとばかりにて」は写本の読み。活字本系テキストは「とばかりにして」とする。
校合
「よすが三貫の古錢を獲たるは」は写本の読み。活字本系テキストは「獲たるば」とする。「むかし人の埋めたる三千貫文」の「たる」は写本に朱で書き入れてある。
注記
「家嚴」は父の馬琴を指す。「老侯」は松前の隠居松前道広で、興継は松前家に仕えた。「太田九吉」は松前家の使者。ヱサシは江差、オコシリは奥尻島、野作地は蝦夷地の東部を指す語と解した。
注記
「彼太山に貨あり」の老子経の句は出典未確認。「宛委餘篇」は明の王世貞の書。「黄巣」は唐末の反乱の指導者。

AI試訳 / 専門家未校閲