真葛の老女
読書室で開く(原典画像・関連作品・自分の書架)
兎園小説 / 曲亭馬琴ほか 兎園会の会員 / 第十集 第11話 / 著作堂 曲亭馬琴
仙台の才女只野真葛の生い立ちと、比丘尼が届けた手紙に始まる馬琴との文通、独考論を送って交わりを絶つまでを記す。
本文 現代語訳
真葛は才女なり。江戸の人、工藤氏、名を綾子といふ。性、歌をよみ、和文をよくし、滝本様の手迹さへ拙からず。父は仙台の俗医士工藤〔本姓源氏〕平助、諱は平、母は菅原氏とぞ聞こえし。先祖は別所党にて、播磨の野口の城主長井四郎左衛門より出でたり〔長井の族を加古右京といふ。并に太閤伝天正七、三木合戦の条にみえたり〕。その子孫零落して摂津の大坂にをり、数世の後、長井大庵に至れり。これすなはち真葛の祖、平助の父なり。大庵は医をもて業としたりしかば、江戸に到りて紀州公に仕へまつりぬ。男子三人まで有りけるに、ただ武芸をのみ学ばせて、子ありとだにも聞こえあげざりしかば、ある時、公ちかく侍らして、「汝が齢すでに四十にあまりたらんに、子ども両三人ありと聞きぬ。などて家督を願ひ申さぬぞ」と問はせ給ひしかば、大庵はあとさがり、額つく程にはふり落ちんとせし涙を拭ひて答へ申すやう、「いと有りがたきまで御意を蒙り奉りし事、身にあまりて覚え候へども、かねて申しあげし如く、先祖は一城の主にて候ひしを、たつきの為にかく長袖になりたるだにも口をしく候ものを、子どもをすら親の如くにし候はんは先祖へめいぼくなく思ひ候へば、不肖の某一代のみめし仕はせ給へかし。子どもはよしや浪々の飢に臨み候とも、武士にせまほしくこそ候へ」と申ししかば、公感じ思し召して、「さらば方伎は大庵一代たるべし」と仰せ出だされて、跡をば武士になされたり。
真葛は才女である。江戸の人で、工藤氏、名を綾子という。生まれつき歌を詠み、和文が上手で、滝本流の書まで下手ではなかった。父は仙台の俗体の医師、工藤〔本姓は源氏〕平助、諱は平、母は菅原氏と聞いている。先祖は別所党で、播磨の野口の城主長井四郎左衛門から出た〔長井の一族を加古右京という。ともに太閤伝の天正七年、三木合戦の条に見える〕。その子孫は零落して摂津の大坂におり、数代の後に長井大庵に至った。これが真葛の祖父で、平助の父である。大庵は医を生業とする人で、江戸に出て紀州公に仕えている。男子が三人までいたのに、ただ武芸だけを学ばせて、子がいることさえ届け出ない。あるとき公が近くに召して、「お前の年はもう四十を過ぎているだろうに、子どもが二、三人いると聞く。どうして家督を願い出ないのか」とお尋ねになった。大庵は後ずさりして額を床につけ、こぼれ落ちそうな涙を拭って答えた。「まことにありがたいお言葉をいただき、身にあまることと存じますが、かねて申し上げたとおり、先祖は一城の主でございました。暮らしのためにこのように医者の長袖になったことさえ口惜しいのに、子どもまで親と同じにするのは先祖に面目がないと思いますので、不肖のわたくし一代だけをお召し使いください。子どもは、たとえ浪々の飢えに臨むとも、武士にしたいのでございます」。公は感心され、「それならば医術は大庵一代とせよ」と仰せ出され、跡は武士になさった。
これにより、その長男は長井四郎右衛門と名のりたり。渋川流のやはらとりにて師の允可を得たれども、生涯事にあはざりければ、名を知らるるよしもなかりき。次を長井善助といひけり。こはさし箭の射手にて、いささか世に知られたり。この同胞は紀州に仕へまつりぬ。平助は三男なるをもて、「さのみは」とて、仙台侯の医士工藤某に贅して、そが養嗣にぞしたりける。さればまた平助も実父の志をうけ嗣ぎて、円頂長袖の身たらん事をば羞ぢしかば、侯に願ひ奉りて俗体にて有りけれども、衛生の術にはおろかならず、思ひを蘭学にひそめて発明する所も多かりしにぞ、その名もほぼ聞こえたりける。かくて平助が子ども数人あり。長女は綾子、所謂真葛これなり。次を工藤太郎といひて、才子なりと聞こえしに、父に先だちて身まかりぬ。その次は女子、また其の次も女子なり。これらもよすがもとめて後、いく程もなく世をはやうしたりとぞ。その次を工藤源四郎元輔とぞいひし。和漢の才子にて詩をよくし、歌をさへよみけるに、方伎もまた庸ならず。惜しくは短命にして子のなかりしかば、はつかに名跡のみ遺れりといふ。その次は女子にて、名を拷といひけり。こは越前の姫うへに年来みやづかへまつりしに、姫うへなくなり玉ひしかば、比丘尼になりて瑞祥院と法号せり。今なほ鉄炮洲の邸中にあるべし。またその次も女子なりしを、ある医師に妻せられしが、こもまたはやく身まかりしとぞ。
これによって、その長男は長井四郎右衛門と名のる。渋川流の柔術の取り手で師の免許を得たものの、生涯これという事に出会わず、名を知られることもない。次を長井善助という。これは差し矢の射手で、いささか世に知られている。この兄弟は紀州に仕える身である。平助は三男だったので「そこまでは」ということで、仙台侯の医師工藤某のもとへ入り、その養子となった。それでまた平助も実父の志を受け継ぎ、剃髪して医者の身となることを恥じたので、侯に願い出て俗体のままであったが、養生の術には疎くなく、蘭学に心を沈めて発明する所も多かったから、その名もおおよそ知られた。こうして平助の子どもは数人いる。長女は綾子で、いわゆる真葛がこれである。次を工藤太郎といって、才子だと聞こえたが、父に先立って亡くなった。その次は女子、またその次も女子である。この二人も嫁ぎ先を得たあと、いくらもたたずに早世したという。その次を工藤源四郎元輔といった。和漢の才子で詩をよくし、歌まで詠んだうえ、医術もまた凡庸ではなかった。惜しいことに短命で子がなかったので、わずかに名跡だけが残ったという。その次は女子で、名を拷といった。この人は越前の姫君に長年仕えていたが、姫君が亡くなったので比丘尼になり、瑞祥院と法号した。今もなお鉄砲洲の屋敷内にいるはずである。またその次も女子だったが、ある医師に嫁がされ、この人もまた早く亡くなったという。
この同胞七たり、才も貌もとりどりなりけるそが中に、乙の子のみやけの御まへにみやづかへにとてまゐれるとき、兄の元輔が後のおこたりをいましめて、「よく勤めよかし。ふた親のめぐみをおもふに、雨露のごとくひとしきをうけたる身の、心々にたがへるは、かの七くさてふ花のかはれるに似たり」とて、
この兄弟姉妹は七人で、才も容貌もそれぞれだったが、その中で末の子が御館の御前に奉公に上がったとき、兄の元輔が後の怠りを戒めて、「よく勤めよ。二親の恵みを思えば、雨露のように等しく受けた身でありながら、心がそれぞれ違うのは、あの七草という花が違うのに似ている」と言って、
おのがじしにほふ秋野の七くさもつゆのめぐみはかはらざりけり
めいめいに匂う秋の野の七草も、露の恵みは変わらないのだった
とよみてとらせたりしを、後に綾子の伝へ聞きて、「よくもいさめたるものかな。さらばその七くさの花にたとへんに、藤ばかまはかぐはしといへば太郎よ。その次なる女、かほよければ朝がほ。その次はをみなへし。をばなはそこにこそをはさめ。越の御まへなるは萩。乙子はなでしこなるべし。葛ばなはめづるばかりのものならねども、葉のひろければ、はらからをさしおほふ子の上にしも似つかはしかるべくや」と定めたりしより、物には綾子を真葛と唱へ、拷は萩と唱へ、祝髪の後は萩の尼ともしるしたり。
と詠んで与えた。後に綾子がそれを伝え聞いて、「よく諫めたものだ。それならその七草の花にたとえると、藤袴は香りがよいというから太郎だ。その次の妹は顔が良いから朝顔。その次は女郎花。尾花はそこにおいででしょう。越前の御前にいる人は萩。末の子は撫子だろう。葛の花は愛でるほどのものではないが、葉が広いから、兄弟姉妹を覆いかくす子の身にはふさわしいのではないか」と決めた。それ以来、書くものには綾子を真葛と称し、拷は萩と称し、剃髪の後は萩の尼とも記している。
かかるめでたき同胞なりしに、五人は命長からで、文化の末には真葛と萩の尼〔瑞祥院〕のみぞのこりたりける。そが中に真葛はいとをさなかりしころより異なる志ありけり。明和壬辰の大火の比、物のあたひのにはかにのぼりて、賤しきものはいよよ窮すると伝へ聞きて、ひとりつらくおもふやう、「いかなれば、あき人のこころばかり鬼々しきものにはある。あはれ民の父母たる身にしあらば、かく浅ましきことはあらせじを。悔しくも女に生まれたることよ」とは歎きたり。
こんなにすぐれた兄弟姉妹なのに、五人は命が長くなく、文化の末に残ったのは真葛と萩の尼〔瑞祥院〕だけである。その中で真葛はごく幼いころから人と違った志があった。明和壬辰の大火のころ、物の値段が急に上がって貧しい者はいよいよ困窮すると伝え聞き、ひとりつらく思った。「どうして商人の心ばかりこんなに鬼のようなのか。ああ、民の父母である身であったなら、こんな浅ましいことはさせないのに。悔しくも女に生まれたことだ」と歎いた。
これより後、「われは必ず女の本になるべし」とおもひおこしつつ、とにかくに身をつつしみ、おのれをうやうやしうすることはさらなり、「女子はおもてこそ肝要なれ」とて、愛敬づきたらんやうにもしつ。また、から文を読ままくほりせしに、父いたく禁めて、「女子の博士ぶりたらんはわろし。草紙のみ見よ」といはれしかば、源氏物語、伊勢物語などを常に枕の友としつつ、とし十六の時、はじめて和文といふものを一ひらばかり綴りたりしに、父の平助これを村田春海に見せしかば、いたくめでよろこびて、「その師なくてかくまで綴れるは才女なり」といひしとぞ。みづからはただ伊勢物語を師として綴りてけるに、誉められしことのけやけきに恥ぢて、このちは親にすら見せざりしかど、「なほよくせん」とおもひたり。
これから後、「自分は必ず女の手本になろう」と思い立ち、とにかく身を慎み、自分をつつしみ深くすることはもちろん、「女は顔が肝心だ」と考えて、愛敬のあるようにも振る舞った。また漢文を読みたいと望んだが、父が強く禁じて、「女が博士ぶるのはよくない。草紙だけを見よ」と言われたので、源氏物語や伊勢物語などをいつも枕の友とし、十六歳のとき初めて和文というものを一枚ほど綴った。父の平助がこれを村田春海に見せたところ、春海は大いにほめ喜んで、「師もなくてここまで綴れるのは才女だ」と言ったという。自分ではただ伊勢物語を師として綴ったので、ほめられたことがきまり悪くて、この後は親にさえ見せない。それでも「もっとうまくなろう」という思いは残る。
手迹はをぢなりける人、滝本様の能書なりければ、その手を学びて大かたは極めたれども、五十ちかきころ右のかひなの痛む疾おこりしより、物かくことも若き時には劣り、目もかすむこと常になりたれば、細書の草紙はえよまずといへり。いづれもいづれも「女の本にならん」とほりせしに、日々のわざにして、何事にまれ、人のうへに就きて心のゆく所を考へ果たさばやとおもふ心もつきにけり。かくて弟元輔に四書の講釈といふことをせさせて、ただ一たび聞くことを得たり。これにより、「孔子聖人の教へはすべてかかるすぢにこそ」と、いささかたのもしく思ひたり。仏のをしへもよくは知らねど、「念ずれば必ず利益あり」と思ひとりて、年来観音と不動を信じ奉りけり。
筆跡は、叔父にあたる人が滝本流の能書だったので、その手を学んでおおかたは極めている。ただ五十近くになって右腕の痛む病が起こってからは、字を書くことも若いときには劣り、目もかすむのが常になって、細字の草紙は読めないと言っていた。何につけても「女の手本になろう」と望んだので、日々の仕事として、何事であれ人の身の上について心の行き着く所を考え尽くしたいと思う心も身につく。そこで弟の元輔に四書の講釈をさせて、ただ一度聞くことができた。これによって「孔子や聖人の教えはすべてこういう筋なのだ」と、いささか頼もしく思う。仏の教えもよくは知らないが、「念ずれば必ず利益がある」と思い定めて、長年観音と不動を信じてきた。
これより先に、とし十六七なりし頃、仙台侯の御まへにみやづかへにのぼせられし折、「みやづかへはひとり勤めなりと思ふこそよけれ。いくたりの同役ありとても、勤むるをおのれ一人とおもひはば、うしろやすかりてん」と覚悟せしのぞ、傍輩の憎みも、人のおこたりを咎むるこころもなく、果てて後やすかりしとはいへり。また、をさなかりしころ、奴婢のみそかごとするが、もののいひざまとけしきとにしらるるをうち見て、「あなおろかにも立ちふるまふものかな。人にしらせじとおもふことを、なかなかに人しれかしといはぬばかりなるはいかにぞや。かく浅はかなる心もて、しのびあふものどもの後々までいかでか遂げん。慾にまよふものの心ばかりおろかなるはなかりき」とおもふ程に、果たしてその事あらはれて、追はれしもののありしとぞ。
これより前、十六、七歳のころ、仙台侯の御前に奉公に上げられたとき、「奉公はひとりで勤めるものと思うのがよい。何人の同役がいても、勤めるのは自分ひとりだと思えば、後ろ暗いことはあるまい」と覚悟したので、同僚の憎しみもなく、人の怠りを咎める心もなく、勤め終えたあとも安らかだったと言っていた。また幼いころ、下男下女が密事をしているのが、物の言いぶりと様子とでわかるのを見て、「なんと愚かな振る舞いをするものか。人に知らせまいと思うことを、かえって人に知れてくれと言わんばかりなのはどういうことか。こんな浅はかな心で忍び会う者たちが、後々までどうして遂げられよう。欲に迷う者の心ほど愚かなものはない」と思っていると、果たしてその事が露見して、追い出された者がいたという。
かくてみやづかへの身のいとまを給はりて宿所にまかりし比、母のなくなりしかば、なほをさなかりし妹どものうしろ見をもしつ、内をおさむることをさへうち任するもののなかりしにより、三十をなかば過ぐるまで人妻ともえならでありしに、「同胞のうちいづれまれ、国勝手なる人の妻とせば、元輔が為によろしかるべし」と父の年来いひつれども、仙台へ趣かんといふものはなかりしを、真葛は、「父の仰せにはもれ侍らじ。ともかくもはからせ玉へ」といひしにぞ、父よろこびて、あちこちとよすがもとめつつ、当時勤番にて江戸番頭なりし只野伊賀とて、禄千石を領する人の後妻にえにし定まりしかば、仙台河内元はせくらとて、仙城の二の丸に程ちかき只野氏の屋敷へ遣嫁せられけり。
こうして奉公の暇をもらって宿所に下がったころ、母が亡くなったので、まだ幼い妹たちの世話もし、家の内を治めることまで任せられる者がなかったので、三十を半ば過ぎるまで人妻にもなれずにいた。「兄弟姉妹のうち誰でもよい、国勝手の人の妻にすれば元輔のためによいだろう」と父が長年言っていたが、仙台へ赴こうという者はいなかった。真葛は「父の仰せには背きますまい。ともかくもお取り計らいください」と言ったので、父は喜んで、あちこちと縁を求め、当時勤番で江戸番頭だった只野伊賀という、禄千石を領する人の後妻に縁組が決まったので、仙台の河内元支倉という、仙台城の二の丸に程近い只野氏の屋敷へ嫁がされた。
人あるひはこれを諫めしもののありしに、真葛答へていはく、「遠く仙台へよめらせんとほりするは、これ父のこころなり。また遠くゆくことをうれはしく思ふは子の心なり。なでふ子の心を心として、親の情願に背くべき。われは三十六歳を一期として死したりと思へば、うれひもなく、うらみもあらず。死にてすぐせわろくば、必ず地獄の呵責を受くべく、かつ親同胞にあふによしなかるべし。仙台はもとも厭はしき所なり。かつ声だみて、むくつけきをとこにかしづき、詞がたきなき宿を生涯うちまもりたらんも、地獄の呵責にはますことなからんや」といひしとぞ。
人によってはこれを諫める者もあったが、真葛は答えて言った。「遠く仙台へ嫁がせようとするのは父の心です。また遠くへ行くことをつらく思うのは子の心です。どうして子の心を心として、親の願いに背けましょう。わたしは三十六歳を一生の終わりとして死んだと思えば、憂いもなく恨みもありません。死んで前世の縁が悪ければ、必ず地獄の責め苦を受け、そのうえ親兄弟に会うすべもないでしょう。仙台はもとより厭わしい所です。そのうえ声の濁った無骨な男に仕え、話し相手もいない家を生涯守るのも、地獄の責め苦に勝ることはないでしょう」と。
さて年ありて、父平助も身まかり、真葛の良人伊賀も世を去りて、前妻の嫡子只野図書の世となりにたり。この家いとかたくななる家則多くて、傍らいたき事のみなれども、継母の事なれば何事も得いはず、「いとおろかなるわざかな」と思ひつつ、そがまにまにせずといふことなし。はじめ「女の本にならん」と思ひしを得果たさず、をのこはらからの世をばはやくせしことのかなしくて、「よしやわが身女なりとも、人に異なる書を著はして世にも知られ、乃祖の名をもあらはさばや」と思ふに、今の諸侯の多くは財主の為に苦しめられながら、嬖妾に費を厭ひ玉はず、或は職位を望みて、そがなかだちするものにはかられ、あたら黄金を失ひ玉へることなどをはじめとして、経済の可否を論ずること数篇、全書三巻を独考と名づけたり。時に文化十四年冬十二月朔、真葛五十五歳の著述とぞ聞こえし。此の他、奥州ばなし一巻、磯づたひ一巻あり。予がここにしるしつけたるは、真葛の予が為に書きておこせし昔がたり、とはずがたり、秋七くさ、筆のはこびなどいふ草紙の意をうけて略記しつるものなり。
さて年月がたって、父平助も亡くなり、真葛の夫伊賀も世を去って、前妻の嫡子只野図書の代となる。この家はひどく頑固な家の掟が多く、みっともないことばかりだが、継母の立場なので何事も言えない。「なんとも愚かなことだ」と思いながら、そのとおりにしないということはなかった。はじめ「女の手本になろう」と思ったのを果たせず、男の兄弟が早く世を去ったのが悲しくて、「たとえ女の身でも、人と違う書を著して世に知られ、祖先の名をも表したい」と思うので、今の諸侯の多くが金主のために苦しめられながら、愛妾には出費を惜しまず、あるいは官職を望んでその仲立ちをする者にはかられ、惜しくも黄金を失っていることなどをはじめとして、経済の是非を論じること数篇、全三巻を独考と名づけた。文化十四年冬十二月一日、真葛五十五歳の著述と聞いている。このほかに奥州ばなし一巻、磯づたひ一巻がある。わたしがここに記したのは、真葛がわたしのために書いて寄こした昔がたり、とはずがたり、秋七くさ、筆のはこびなどという草紙の趣旨をもとに略記したものである。
予は近き頃まで真葛を知らず。文政二年己卯の春きさらぎ下旬、家の内のものどもの年の始のことほぎにとて、やからがりゆきたりし日、齢五十ばかりなる比丘尼の、従者ひとりいたるが来ておとなふ有りけり。とりつぐもののなき折なれど、うちもおかれず、みづから出でて、「いづこより来ませしぞ」と問ふに、比丘尼のいはく、「尼は牛込神楽坂なる田中長益といふ医師によしあるものに侍り。主人に見参せまほし」といひつつ、にじり上りたり。予は文化のはじめより客を謝し、帷を垂れて常に人と交はらず、をちこちの騒客のさはに来訪せらるるも、旧識の紹介なければ病ひに托してあはざりしに、「ついでわろし」と思へども、せんかたのなきままに、「いな、主人は出でて今朝よりあらず。家の内の人どもいづちへか行きたりけん。おのれはしばし留守するものなり。何事まれ仰せおかれよ。帰らば伝へまゐらせん」と惟光がほに答へたり。
わたしは近ごろまで真葛を知らなかった。文政二年己卯の春二月下旬、家の者たちが年始の祝いに親類の家へ行った日、年五十ばかりの比丘尼が従者ひとりを連れて訪ねてきた。取り次ぐ者がいない折だが放っておくこともできず、自分で出て「どちらからおいでか」と問うと、比丘尼は「尼は牛込神楽坂の田中長益という医師にゆかりのある者です。ご主人にお目にかかりたい」と言いながら、にじり上がってきた。わたしは文化の初めから客を断り、帷を垂れて常に人と交わらず、あちこちの文人が大勢来訪しても、旧知の紹介がなければ病気と言ってあわなかったので、「まずいことになった」と思ったが、しかたなく、「いや、主人は出かけて今朝からおりません。家の者たちもどこかへ行ったのでしょう。わたしはしばらく留守番をしている者です。何なりと言い置いてください。帰ったら伝えましょう」と、惟光のような顔で答えた。
その時、比丘尼はふところより一通の封状と、「さかな代」としるしたるこがね一封と、ふくさに包みたる草紙三まきをとり出でて、「こはみちのくの親しきものより、『あるじにとどけまゐらせよ』とておこしたるなり。草紙は『をんなの書きたるを、ここの翁の筆削をたのみ侍る』とよ。なほつぶさには此の消息にこそあらめ。あまは今宵田中がり止宿し侍れば、翌のかへさにまたとぶらひ侍りてん。『その折に一筆なりとも此のかへしを賜はれ』と伝へ給へかし」といふ。予答へて、「そはこころ得て侍れども、主人は年来『筆とる業に倦みつかれたれば』とて、いづ方よりよざし玉ふも、かかるものはうけ引き侍らず。殊更留守の宿なるに、あづかりおかば叱られやせん。また折もこそあるべきを、こはもてかへらせ玉へかし」といなむを、比丘尼は聴かずして、「そは宣ふことながら、おん身の心ひとつもておしかへされんことにはあらじ。とまれかくまれあづかりてたべ。翌の朝は巳の比にまたこそ来め」と期をおして、いとまごひしてまかり出でにけり。
そのとき比丘尼は懐から一通の封書と、「さかな代」と記した金一封と、袱紗に包んだ草紙三巻を取り出して、「これは陸奥の親しい者が『ご主人に届けよ』と言って寄こしたものです。草紙は『女の書いたものを、こちらの翁の添削をお願いする』とのこと。なお詳しくはこの手紙にあるでしょう。尼は今夜田中のもとに泊まりますから、明日の帰りにまた伺います。『その折に一筆でもこの返事をいただきたい』とお伝えください」と言う。わたしは答えて、「それは承知しましたが、主人は長年『筆をとる仕事に倦み疲れたので』と言って、どちらから頼まれてもこういうものは引き受けません。まして留守中の家で預かっておけば叱られましょう。また機会もあるでしょうから、これはお持ち帰りください」と断ったが、比丘尼は聞かずに、「それはおっしゃるとおりですが、あなたの一存で押し返されるものではないでしょう。ともかく預かってください。明日の朝は巳の刻にまた参ります」と念を押し、暇を告げて退出した。
予もまた書斎に退きて、まづその状をひらきて見るに、いひおこしし趣は比丘尼のいへるにおなじけれども、ふみの書きざま尊大にて、「馬琴様 みちのくの真葛」とのみありて、宿所などは定かに知らせず。いぶかしきこと限りもなければ、独りつらつら思ふやう、「此の年来、貴人より書を賜はりしことのあれども、かくまでに尊大なるはいかなる人の妻やらん。仙台侯の側室にて御部屋など唱ふるものか。遥々とよざしぬる草紙は何を書きたるやらん」と思へば、やがて繙きて見るに、経済の可否を論じて独考と名づけたるふみまきの稿本なり。「その説どものよきわろきはとまれかくまれ、婦人には多く得がたき見識あり。ただ惜しむべきことは、真の道を知らざりける不学不問の心を師として論じつけたるものなれば、傍らいたきこと多かり。はじめより玉工の手を経て飽くまで磨かれなば、かの連城の価にもおとらぬまでになりぬべき。その玉をしも玉鉾のみちのくに埋みぬることよ」とおもへば、今更に捨てがたきこころあり。さはさりながら、人妻か母かも知らぬ一老婆の、その宿所だに定かならねば、需に応ずべくもあらず。
わたしも書斎に退いて、まずその手紙を開いて見ると、言ってきた趣旨は比丘尼の言うのと同じだが、手紙の書きぶりが尊大で、「馬琴様 みちのくの真葛」とだけあって、住所などははっきり知らせていない。不審なことこのうえないので、ひとりつくづく思った。「この年来、貴人から書を賜ったことはあるが、ここまで尊大なのはどんな人の妻だろう。仙台侯の側室で御部屋などと呼ばれる者か。遥々と寄こした草紙には何が書いてあるのだろう」と思って、やがて繙いて見ると、経済の是非を論じて独考と名づけた書物の稿本である。「その説の良し悪しはともかく、婦人には得がたい見識がある。ただ惜しむべきは、真の道を知らない、学ばず問わない心を師として論じたものだから、見苦しいところが多い。はじめから玉工の手を経て十分に磨かれていれば、あの連城の璧にも劣らないほどになったはずだ。その玉を陸奥に埋めておくことよ」と思うと、今さら捨てがたい心が起こった。そうはいっても、人妻か母かもわからない一老婆で、その住所さえ定かでないので、求めに応じることもできない。
「いでや、わが志を見知らして、その後にともかくもせんすべあれ」とおもふになん、その夜かへしをものするに、「おのれはいとはやくより市にかくれて、婦幼童のもてあそびものとなるよしは、刀自にも知られたるなるべし。さばれこたみよせられしおん作のさうしは、それらのすぢにはあらぬを、世の人のわれを知れるものと異なる見どころあるにあらずば、江戸には名だたる儒者も国学者も多かるに、おのれにはたのみ玉はじ。さるこころもてせられなば、などていと尊大なる。およそ人にもの問ふには礼節あり。古への人は一字の師をだもなほおろかにはせざりき。もしまことに問はんとのみこころあらば、かくはあらじを、馬琴とだにたたへられしはいかにぞや。曲亭も馬琴も予が戯号なれど、戯作狂詩狂歌などのうへにのみ交はる友ならば、しか唱へられんに咎むべきことにはあらず。もし実学正文のうへをもて交はる友に、なほ曲亭とたたへられ、馬琴といはるるは、これわれを知らざるものに似たり。いかでか予がこころに恥づることなからんや。かかれば刀自もよく予を知り玉へるにあらざるなめり。近頃、平賀源内が儒学蘭学のうへには鳩渓と号し、戯作には風来山人と称し、浄瑠璃本の作あるには福内鬼外としるしけり。また大田覃は儒学に南畝と号し、狂詩に寝惚先生と称し、狂文狂歌に四方赤良、四方山人、巴人亭、杏花園などもしるし、晩年には蜀山人と号したれども、戯作浄瑠璃のうへならでは鳩渓を風来とも鬼外とも称するものなく、狂文狂詩狂歌のうへならで南畝を寝惚とも四方とも巴人亭とも称するものはあらざりき。よしやその著きをのみ呼びなれて、虚実の号を混ずるとも、まことによくその人を知れるものは、ここらに心を用ふべき事か。刀自はよく予を知らず、予は素より刀自を知らず。男女みづから授け受けざるは礼なり。刀自は人の妻か母か、その宿所だもつつみ玉ふには、われ答ふる所を知らず。ここをもてただわが志を述べておどろかし奉るのみ」と書きしるしつ。
「さあ、わたしの志を見て知らせて、その後にどうとでもする手立てがあるだろう」と思って、その夜返事を書いた。「わたしがずっと早くから市中に隠れ、婦人や幼い子どものもてあそびものになっていることは、あなたもご存じでしょう。しかしこのたび寄こされたあなたの作の草紙は、そうした筋のものではないのに、世の人がわたしを知っているのとは違う見どころがあるのでなければ、江戸には名だたる儒者も国学者も多いのに、わたしにはお頼みにならないはずです。そういう心でなさるなら、どうしてそんなに尊大なのですか。およそ人に物を問うには礼節があります。古人は一字の師でさえ粗末にしませんでした。もし本当に問おうという心があれば、こうではないはずなのに、馬琴などと呼ばれたのはどういうことでしょう。曲亭も馬琴もわたしの戯号ですが、戯作や狂詩や狂歌の上だけで交わる友がそう呼ぶのは咎めることではありません。もし実学や正しい文章の上で交わる友になお曲亭と呼ばれ、馬琴と言われるのは、わたしを知らない者に似ています。どうしてわたしが心に恥じないことがありましょう。ですからあなたもよくわたしをご存じではないようです。近ごろ平賀源内は儒学や蘭学の上では鳩渓と号し、戯作では風来山人と称し、浄瑠璃本の作には福内鬼外と記しました。また大田覃は儒学では南畝と号し、狂詩では寝惚先生と称し、狂文や狂歌では四方赤良、四方山人、巴人亭、杏花園などとも記し、晩年には蜀山人と号しましたが、戯作や浄瑠璃の上でなければ鳩渓を風来とも鬼外とも称する者はなく、狂文や狂詩や狂歌の上でなければ南畝を寝惚とも四方とも巴人亭とも称する者はありませんでした。たとえその著名なほうだけを呼び慣れて、虚実の号を混同するにしても、本当によくその人を知る者はここに心を用いるべきでしょう。あなたはよくわたしを知らず、わたしはもとよりあなたを知りません。男女が自ら物を授け受けしないのが礼です。あなたは人の妻か母か、その住所さえお隠しになるのでは、わたしは答える所を知りません。それでただわたしの志を述べて、お驚かせするだけです」と書き記した。
かくて妻のをんなを呼びて、「翌の朝、しかじかの比丘尼来つべし。『あるじはけふも未明に出でてあらず。こはきのふのおんかへしなり』と告げてわたせよ」といふに、こころ得てしかはからひつ。
そして妻を呼んで、「明日の朝、これこれの比丘尼が来るはずだ。『主人は今日も未明に出かけていない。これは昨日のお返事だ』と告げて渡せ」と言うと、心得てそのように取り計らった。
この後、廿日ばかりを経て、またかの比丘尼より御宰めきたる使をもて、「みちのくよりの消息を届け侍る」とておこししに、拷の尼としるしたる添へふみもありけり。まづ真葛の状をうちひらきて見るに、こたみはいとおしくだりて、文の書きざまのねもごろなりし。そが中に、「よろづにあはあはしきをんなの、よそをだに得知らねば、今はやもめにていとおよすげたる身にしあれど、をとこに物いはんにねもごろぶりたらんも、なかなかに無礼なるべしと思ひとりしより、礼なしと見られにけん。露ばかりもそなた様をあなどる心あらば、人には見せぬ筆のすさびをたのみ奉ることやはある。この後とても心づきなき事多からんを、教へられんとこそねがひ侍れ。こなたのうへを知らせよとあるに、いかでつつみ侍るべき。真葛はしかじか。またさきにわらはが消息をもてとぶらひ侍りしは妹にてしかじか」と、その身のうへをも、妹拷の尼の名どころをもつぶさに書きしるして、別に昔がたりといふ草紙一巻に、その先祖の事さへしるしつけて見せられたり。
この後二十日ばかりたって、またあの比丘尼から御宰のような使いをもって、「陸奥からの手紙をお届けします」と寄こしてきた。拷の尼と記した添え状もあった。まず真葛の手紙を開いて見ると、今度はたいそうへりくだって、文の書きぶりがねんごろだった。その中に、「万事に軽々しい女の身で、よその作法さえ知りませんので、今は寡婦でたいそう年をとった身ですが、男に物を言うのにねんごろぶるのもかえって無礼だろうと思い決めたので、礼がないと見られたのでしょう。露ほどもあなた様をあなどる心があれば、人には見せない筆のすさびをお頼みすることがありましょうか。この後もお気に召さない事が多いでしょうが、教えていただきたいと願います。こちらの身の上を知らせよとのことですが、どうして隠しましょう。真葛はこれこれの者。また先にわたしの手紙を持って伺ったのは妹でこれこれの者」と、その身の上も、妹の拷の尼の名と所もつぶさに書き記し、別に昔がたりという草紙一巻に、その先祖の事まで記して見せられた。
またその消息に、「ここには詞がたきもなく侍れば、ただあけくれに物を考へ見かへすことの癖となり、病ひともなり侍りたり。さて思ふやう、何の為に生まれ出でつらん。女一人の心として世界の人の苦を助けまほしく思ふは、なしがたきことと知りながら、ただこの事を思ふが故に、日夜やすき心もなくて苦しむぞ無益なる。今はやもめにもなりつるに、なげきをのこさん子とてもなし。息のかよはん限りはこの歎きやむことあたはじ。ながく生きてくるしまんより、息をとどむるぞ苦をやすむるのすみやかなるべし、と思ひて、ひたすら死なんことを願ひ侍りしに、時は秋のことなりき。暁がたの夢に、
またその手紙に、「ここには話し相手もいませんので、ただ明け暮れに物を考え見返すことが癖となり、病ともなりました。さて思うに、何のために生まれ出たのでしょう。女ひとりの心で世界の人の苦しみを助けたいと思うのは、なしがたいことと知りながら、ただこの事を思うがゆえに日夜安らかな心もなく苦しむのは無益です。今は寡婦にもなり、歎きを残す子もいません。息の通う限りこの歎きはやまないでしょう。長く生きて苦しむより息をとどめるほうが苦しみをやすめるのに早いだろうと思って、ひたすら死ぬことを願っておりましたが、時は秋のことでした。明け方の夢に、
秋の夜のながきためしを引く葛の
秋の夜の長い例を引く葛の
といふ歌の上の、おのづからふと聞こえたるは、多年信じ奉る観音ぼさつのしめさせ玉ふと覚えて、夢こころに忝く、此の下のつけやうにておのが一世のうらとならんとまでしめさせ玉ふとおぼえて、いとうれしく、心いとあわただしきものから、世々に栄えんとこそいはめ、と思ふ程さめはて侍りき。四の句いと大事ぞと思ひつつ、やや程ありて、たえぬかつらは、とつけ侍りし。
という歌の上の句が、自然にふと聞こえました。長年信じてきた観音菩薩がお示しになったのだと思われて、夢心地にありがたく、この下の句のつけ方で自分の一生の占いにもなるとまでお示しになったと思われ、たいそううれしく、心がたいそうあわただしいものの、世々に栄えようと言おう、と思ううちにすっかり目が覚めました。四の句がたいそう大事だと思いながら、やや時がたって、絶えぬかつらは、とつけました。
秋の夜のながきためしを引く葛の絶えぬかつらは世々に栄えん
秋の夜の長い例を引く葛の、その絶えない葛は世々に栄えよう
と一首のかたちをなしぬれど、いと心もとなくのみ思ひ侍りき。かくたえず物をのみ思ひつみし故によりて病者となり侍りて、身もよはく、心もきえぎえにのみなりまさりしを、不動尊を信じ奉りて後、やうやく病もうすくなり侍りしかども、今に右の手のいたみて筆とることこころのままならず、眼くらくして細書をみることあたはず。これは老の病ひとぞ覚え侍る。この近きわたりに岩不動と申し奉るがたたせ玉ふ。年毎の五月廿八日には、このわたりなる幼童どもの集ひ合ひて、御輿をかき荷ひ、御旗あまた持ちて、遊ぶがごとくもてわたり侍り。我も赤色なる御旗をたてまつりしを御先に持ちてわたりしかば、御心につかせ玉へるならめと有りがたく思ひ侍りしに、宵過ぎてうすねぶたきに、いざねばやと思ひて端居しながら、籠にこめたる蛍のやすげなくふるまふをまもりつつ、何心もなくてありしほどに、
と一首の形をなしましたが、まことに心もとなくばかり思いました。このように絶えず物ばかり思い積んだせいで病人となり、身も弱く心も消え入るばかりになりまさりましたが、不動尊を信じてから、ようやく病も薄らぎました。それでも今に至るまで右の手が痛んで筆をとることが心のままにならず、目が暗くて細字を見ることができません。これは老いの病だと思います。この近くに岩不動と申す尊像がお立ちになっています。毎年の五月二十八日には、このあたりの幼い子どもたちが集まり、神輿をかつぎ、御旗をたくさん持って、遊ぶように練り渡ります。わたしも赤色の御旗を献じたのを先頭に持って渡ったので、御心にかなったのだろうとありがたく思いました。宵を過ぎてうす眠いので、さあ寝ようと思って端近にいながら、籠に入れた蛍が落ち着かずに動くのを見守りつつ、何心もなくいたところに、
ひかりある身こそくるしき思ひなれ
光ある身こそ苦しい思いである
といふことの耳にきかれて、めさむるここちもしは、此の御仏の御しめしぞと有りがたくて、
ということが耳に聞こえて、目が覚める心地がしたのは、この御仏のお示しだとありがたくて、
とまた下をつけそへ侍りし。此の二歌をちかくに、さらば心にこめしことどもを書きしるさばやと思ひ立ちて、いとおほけなきことどもをいひ出だせるに侍るなる。書き果てて後に、誰にしらげをたのまばやと久しう思ひ煩ひて侍りしに、かかる人に見せよと不動尊の御しめしありし故、そなたにことよせ侍りしにこそ。おろそかならず考を添へ給はらんなんどねんじ奉りぬ。今の此の身は、譬へば小蛇の物に包まれて、死にもやらず生きもせず、むなしき思ひのこれるにひとし。君雨となり風となりてこころざしを引きたすけ玉はらば、もし天に顕はるることのありもやせん」などありて、こたみは「滝沢解大人先生様御もとへ あや子」と書かれたり。
とまた下の句をつけ添えました。この二首を近くに置いて、それなら心に秘めたことを書き記そうと思い立ち、たいそう身の程知らずなことを言い出したのでございます。書き終えた後、誰に磨きを頼もうかと長く思い煩っていましたが、この人に見せよと不動尊のお示しがありましたので、あなたにお頼みしたのです。おろそかならず考えを添えてくださるようにと祈っております。今のこの身は、たとえば小蛇が物に包まれて、死にもせず生きもせず、むなしい思いが残っているのに等しい。あなたが雨となり風となって志を引き助けてくださったら、もしかすると天に現れることもあるかもしれません」などとあって、今度は「滝沢解大人先生様御もとへ あや子」と書かれていた。
この長文を見る程に、おもはず涙ははふり落ちて、あはれむこころになりにたり。名を諱む事はからくにの制度なるを、国学などのうへにてはふかくいむよしもあらず。たとひ今はなべて忌むとても、戯号を唱へらるるにははるかにまして本意に称へり。ただし大人先生などたたへられしのみ当たりがたきことなれば、大人先生のわけをしるしてかたくとどめたりけれども、なほあやにくに用ひざりけり。こは羹に懲りしものの齏を吹くたぐひならまし。そもそもこの真葛の刀自は、をのこだましひあるものから、をさなきよりの癇症の凝り固まりしにもやあらん。さばれ心ざますなほにて、人わろからぬ性ならずば、予がいひつることどもを速やかに諾ひて、とほつおやの事をさへしるして見することやはせん。かかる婦人のたのめる事をなほいなまんはさすがにて、しかじかとことうけしつる。
この長い文を見るうちに、思わず涙がこぼれ落ちて、あわれむ心になった。名を諱む事は唐土の制度であって、国学などの上では深く忌むわけでもない。たとえ今はおしなべて忌むにしても、戯号で呼ばれるよりははるかにましで、本意にかなう。ただし大人先生などと呼ばれたのだけは当たりがたいことなので、大人先生のわけを記して固く止めたのだが、それでもあいにく用いなかった。これは羹に懲りた者が膾を吹くたぐいだろう。そもそもこの真葛の刀自は、男の魂があるものだから、幼いころからの癇症が凝り固まったのでもあろうか。しかし気立てが素直で、人の悪くない性質でなければ、わたしの言ったことをすみやかに承知して、遠い先祖の事まで記して見せたりするだろうか。こういう婦人の頼む事をなお断るのはさすがに気が引けて、これこれと引き受けた。
そのをりの予がかへしに、「海なす御心の広からずば木の枝に鼻をすらるるといひけん如き予が言ぐさを諾ひ容れて、しかじかとは聞こえ玉はじ。およそはこたみの御消息にて、あし曳の山の井のかげさへ見ゆるここちし侍れば、浅くは思ひ侍らねど、不動尊の示現によりてなど聞こえ玉ふばかりうけられね。そはとまれかくもあれ、たのまれ奉りし一条は、よくもわろくもなし果てて、おん笑ひにこそ備ふべけれ。しかれども生業の為にたのまれたる書きものの多かれば、今年の暮まで待たせたまへ」などしるして果てて、
そのときのわたしの返事に、「海のような御心が広くなければ、木の枝に鼻をこすられると言ったような、わたしの言いぐさを承知して受け入れ、これこれとは申されないでしょう。おおよそこのたびのお手紙で、あしびきの山の井の影まで見えるような心地がしますので、浅くは思いませんが、不動尊の示現によってなどとおっしゃるのだけは受け取れません。それはともかく、お頼みの一件は、良くも悪くもやり遂げて、お笑いに供しましょう。しかし生業のために頼まれた書き物が多いので、今年の暮れまでお待ちください」などと記し終えて、
妹の尼の添へふみを見るに、「みちのくよりの消息とどけ奉る。さてもいぬる日ふたたびまでとぶらひまつりしは、『人づてになせそ。みづからゆきてしかじかと伝へよかし』とみちのくよりいひおこせたりしにこそ。さるを次のあしたにもあはせ玉はぬにてしか侍りぬ。かの留守居の翁こそこころにくけれ。かかれば奥のたより毎に、尼がその消息をもてゆきてとどけまゐらするも要なし。此のちはいつも使をもてすべきに、礼なしとてな咎めたまひそ」と、ゑんじたるふみの書きざまなれば、予は何ともそのことのいらへはせで、
妹の尼の添え状を見ると、「陸奥からの手紙をお届けします。さて先日二度までお訪ねしたのは、『人づてにするな。自分で行ってこれこれと伝えよ』と陸奥から言い寄こしたからです。それなのに次の朝にもお会いくださらないので、そうなりました。あの留守居の翁は油断がなりません。ですから奥からの便りのたびに、尼がその手紙を持って行って届けるのも無用です。この後はいつも使いでするつもりですが、礼がないとお咎めにならないでください」と、恨みがましい文の書きぶりなので、わたしは何ともその事の返事はしないで、
ふみわきてとはれし草のいほりにはなほ春ながくかるる君かも
道を踏み分けて訪ねてくださった草の庵には、なお春が長く残って、あなたが枯れるように帰られたのですね
とよみてつかはししかば、後のたよりにかへし 萩の尼
と詠んで送ったところ、後の便りに返歌があった。 萩の尼
やぶしわかぬ君が心し春ならばわりことくさもかれずやあらまし
藪も分けないあなたの心が春であるなら、断りの言葉の草も枯れずにあったでしょうに
とありしに、また予がかへし
とあったので、またわたしの返歌に
ことくさを花とし見ればとどめあへずきのふおしみし春はものかは
断りの言葉を花と見れば、とどめられずに昨日惜しんだ春など何でもない
とよみてつかはしけり。こは卯月朔日のことにぞ有りける。この萩の尼瑞祥院も多く得がたき才女にて、歌をよみ、和文をよくし、走り書きうるはしくて、手すぢはあねの真葛に似て滝本様なるもめでたし。程へて予がことくさの歌をたたへて、
と詠んで送った。これは四月一日のことであった。この萩の尼瑞祥院も、なかなか得がたい才女で、歌を詠み、和文が上手で、走り書きが美しく、筆筋は姉の真葛に似て滝本流であるのもみごとである。しばらくして、わたしの「ことくさ」の歌をたたえて、
ことの葉のしげき廬の下つ枝やふるえの萩を花となすらん
言の葉の茂る庵の下枝が、古い枝の萩を花にするのでしょう
とよみておこしたりき。またこのとしの冬、萩の尼よりものをつつみておこしし服紗を、あやまちて火桶の中へとり落としたりけるを、わびつつかへしつかはすとて 解
と詠んで寄こした。またこの年の冬、萩の尼が物を包んで寄こした袱紗を、あやまって火桶の中へ落としてしまったのを、わびながら返して送るというので 解
こがれつつわたしかねたる川舟の風のふくさにいとどくるしき
焦がれながら渡しかねる川舟のように、風の袱紗がいよいよ苦しい
といひしに、萩の尼のかへし、「やけふくさ」といふことを、とはし書きして、
と言ったところ、萩の尼の返しに、「焼け袱紗」ということを、と端書きして、
よの人のたぐひにあらずまめなりやけふ草の戸にかへすこころは
世の人の類ではない実直さです。焼けた袱紗を、貧しい草の戸へ返す心は
とありし。こは予がつかはしたるかへの服紗をかへせし折の事になん。これより先に、弥生のころ、真葛のせうそこに、「御生業の為に筆とらせ玉ふにて、いとまなきに、しばしばわづらはし奉るを、こころなしとやおもはれ侍りてん」などありしに、かへしすとてよみてつかはしける
とあった。これはわたしが送った代わりの袱紗を返してきた折のことである。これより前、三月のころ、真葛の手紙に、「生業のために筆をおとりになって暇がないのに、たびたび煩わせるのを、心ない者と思われるでしょう」などとあったので、返事にと詠んで送った歌
わが宿の花さくころもみちのくの風の便りはいとはざりけり
わが宿に花の咲くころも、陸奥の風の便りは厭わないのだった
あやまたず君につげなん帰る雁かすみがくれにことづてしふみ
過たずにあなたへ告げよう。帰る雁が霞に隠れながら言づてした文を
こはその家のおきてあれば、予に消息をおくれることを誰々にも知らせずとか。さきに聞きたることもあれば、歌の心も知られたり。これより後、かねて書きつづりたりし物をば妹の尼に浄書せしめ、また予が為に綴れるものをば真葛のみづから浄書して、くさぐさおくりて見せられたり。この余、その消息のはしにも、真淵、春海、宣長、大平などを論ぜしあり。いとけやけくおぼゆるを、「さのみは」とて、しるしもつくさず。
これはその家の掟があるので、わたしに手紙を送ることを誰にも知らせないという。前に聞いたこともあったので、歌の心もわかった。これから後、かねて書き綴っていた物は妹の尼に清書させ、またわたしのために綴った物は真葛が自分で清書して、いろいろと送って見せてくれた。このほか、その手紙の端にも、真淵、春海、宣長、大平などを論じたものがある。たいそう際立って思われるが、「それほどには」と考えて、記し尽くさない。
かかりし程に、このとしもはや霜月になりしかば、「独考のことは忘れ玉はずや。かねての約束をたがへたまふな」などいひおこせることしばしばなれども、「今更にそのふみを引きなほさん事易からず。もしそのわろきを刈りとらば、残らんことの葉すくなかるべし。こは此のままにうちおきて、別に諭すにますことあらじ」と思ひにければ、原本は仮名づかひのたがへると真名の写しあやまれるにいささか雌黄を施して、別に独考論二巻を綴りたり。その言つゆばかりも謟ひかざれる筆をもてせず、その是非をあげつらふに教訓を旨として、高慢の鼻をひしぎしにぞ。いとおとなげなきに似たれど、「かくいはでかたぼめせば、いよいよさとるよしなくて、にぶしといふとも、予が斧をうけたる甲斐はあらざるべし。人に信をもてするに、いかりを怕れて諫めざらんは交遊の義にあらず」とかねておもふによりてなり。
そうしているうちに、この年ももう十一月になったので、「独考のことはお忘れではありませんか。かねての約束をお違えなさいますな」などと言い寄こすことがたびたびあったが、「今さらその文を引き直すのは容易ではない。もしその悪いところを刈り取れば、残る言葉は少ないだろう。これはこのままにしておいて、別に諭すのに勝ることはあるまい」と思ったので、原本は仮名づかいの違いと漢字の写し誤りにいささか朱を入れるだけにして、別に独考論二巻を綴った。その言葉は露ほども媚びて飾る筆を用いず、その是非を論じるのに教訓を旨として、高慢の鼻をへし折った。たいそう大人げないようだが、「こう言わずに片ほめすれば、いよいよ悟るすべもなく、鈍いと言われても、わたしの斧を受けた甲斐はないだろう。人に信をもって接するのに、怒りを恐れて諫めないのは交遊の義ではない」とかねて思っていたからである。
かくて廿日ばかりにしてその書やうやく成りしかば、みちのくへつかはすとき、「いついつまでもまじらひし事うけ給はりたく思ひ侍れど、をとこをみなの交はりは、かしらの雪を冬の花と見あやまりつつ、人もや咎めん。かつわが生業のいとまなきに、年来思ふよしもあれば、いとふるき友すら疎くなり侍りたり。かかればおん交はりも是を限りとおぼしめされよ」などいひつかはししに、次のとしの春、みちのくよりのかへしとて萩の尼のとどけられたり。くだんの尼は予が論の書きざまを譏れりと見てうらみけん、怒りは筆にあらはれにき。こはあねにおとりて、むねせまき婦女子の気質と知られたり。真葛はさもあらずして、いといたくよろこびうけたる消息のまめやかにて、「おんいとまなき冬の日に、書肆どものせめ奉る春のまうけのわざをすらよそにして、かうながながしきことを綴りて教へ導き玉はせし御こころの程あらはれて、限りもなき幸ひにこそ侍れ。なほ永き世に此のめぐみをかへし奉るべし」と書かれたり。
こうして二十日ばかりでその書がようやく成ったので、陸奥へ送るときに、「いつまでもお交わりしたいと思いますが、男女の交わりは、頭の雪を冬の花と見誤って、人も咎めるかもしれません。そのうえ生業の暇がないのに、長年思うところもあって、ごく古い友さえ疎くなりました。ですからお交わりもこれを限りとお思いください」などと言い送ったところ、次の年の春、陸奥からの返事だと萩の尼が届けてくれた。くだんの尼はわたしの論の書きぶりを謗りと見て恨んだのだろう、怒りが筆に表れていた。これは姉に劣って、胸の狭い婦女子の気質だとわかった。真葛はそうではなく、たいそう喜んで受け取り、手紙が真心のこもったもので、「お暇のない冬の日に、書肆たちが責め立てる春の準備の仕事さえ後回しにして、このように長々しいことを綴って教え導いてくださった御心のほどが表れて、限りもない幸いでございます。なお長い世にこの恵みをお返しします」と書かれていた。
このとき越前の御くにがみとて、売り物には絶えてなき小形の美の紙十五帖と、おなじ国のはさみ、陸奥名とり川なるうもれ木の栞、もとあらの萩の筆などを贈られしにぞ、明けの春きさらぎの比、そのよろこびを一筆書きてつかはせしに、かしこのかへしは来にたれど、久米路の橋のなか絶えて、文見ることはなくなりぬ。
このとき越前の御国紙といって売り物には絶えてない小形の美濃紙十五帖と、同じ国のはさみ、陸奥の名取川の埋もれ木の栞、もとあらの萩の筆などを贈られたので、明けて春二月のころ、その喜びを一筆書いて送ったところ、あちらの返事は来たが、久米路の橋のように中途で絶えて、文を見ることはなくなった。
いとかなしともかなしかりしが、かく遠ざかりぬることを「いかにぞや」と思ふ人の為には、いふもえうなきわざながら、「彼同胞は才女なり。齢はかれも小動のいそぢをこゆる程なりとも、迭におもてを知らずして親しく年をかさねなば、李の下に冠を正し、瓜の園に履をいるる人の疑ひなからずやは。かつ彼家のぬしには知らさでみそかにすといはるるを知りつつ、交はるべくもあらず。いと捨てがたき思ひありて、捨てずしてかなはぬは、すぐせありての事ならん」とかねてよりおもひしなり。
たいそう悲しいとも悲しかったが、こうして遠ざかったことを「どうしたことか」と思う人のためには、言っても仕方のないことながら、「あの姉妹は才女である。年は二人とも五十を越えるほどだとしても、互いに顔を知らないまま親しく年を重ねれば、李の下で冠を正し、瓜の畑で履を入れる人のような疑いがないとはいえまい。そのうえあの家の主人には知らせず、ひそかにしていると言われるのを知りながら、交わるべくもない。たいそう捨てがたい思いがあって、捨てずにはすまないのは、前世の縁があってのことだろう」とかねてから思っていたのである。
これよりの後、まどろまぬ暁毎に思ひ出でて、そのあけの朝、消息さへとり出だしつつ見る毎に、なみだは胸にみちしほの、ふかきなげきとなりにたり。このち三とせばかりの程は、「萩の尼が御宰をもて予が家の奇応丸を求めさせつる事をりをりあり」とむすめどものいひつるにて、「扨は予が安否のほどをみちのくへ告げんとてのわざか」と思ふもいとはかなし。
これから後、まどろめない暁ごとに思い出し、その明けた朝、手紙まで取り出して見るたびに、涙は胸に満ちる潮のように、深い歎きとなった。この後三年ばかりの間は、「萩の尼が御宰を使ってわが家の奇応丸を求めさせることが折々ある」と娘たちが言うので、「さてはわたしの安否を陸奥へ告げようとしてのことか」と思うのもたいそうはかない。
いかでわれ真葛の草子を刻本にして世にあらはさんとは思へども、彼独考は禁忌に触るること多かり。まいて予が独考論などは人に見すべきものにはあらず。されば「此の二書はそぞろに人に貸すな」と興継をすらいましめたり。また奥州ばなしなどいふものも憚るべきことまじりたれば、刻本にはなしがたし。ただ磯づたひの一書はその文の特にすぐれて、かつめづらかなる説もあり、禁忌に触るることのなければ、「是をぞ」とおもへども、いまだ時の至らぬにや、ふみ屋と謀るいとまなかりき。
なんとかして真葛の草子を版本にして世に表したいとは思うが、あの独考は禁忌に触れることが多い。ましてわたしの独考論などは人に見せられるものではない。だから「この二書はみだりに人に貸すな」と興継にさえ戒めた。また奥州ばなしなどというものも憚るべきことが混じっているので、版本にはしにくい。ただ磯づたひの一書は、その文がとくにすぐれて、しかも珍しい説もあり、禁忌に触れることがないので、「これを」と思うが、まだ時が至らないのか、本屋と相談する暇がなかった。
齢を縷ふるに、予に四つばかりのあねなりければ、今もし恙なくば六十あまり三つにやならまし〔真葛は文政七年某の月日に身まかりしとぞ。今玆三月、尾張の友人田鶴丸が松島見にゆきしをり、ことつけしに、真葛とうとからぬ仙台の医師にたづねしよしにて、はつかにその訃聞こえたるなり。丙戌四月追記〕。
年を数えると、わたしより四つばかり上の姉にあたるので、今もし無事なら六十三になるだろうか〔真葛は文政七年某月某日に亡くなったという。今年三月、尾張の友人田鶴丸が松島を見に行ったときに言づてしたところ、真葛と親しい仙台の医師に尋ねたとのことで、わずかにその訃報が聞こえたのである。丙戌四月追記〕。
おもふに、いぬる文化のはじめつかた、尾張の某氏の後室が新潟といふ草紙物語を書きつめて予が筆削を乞ひけるも、かたく辞ひて還したり。また近き頃、本郷なる田中氏の女の予が教へを受けんと願ふこと既に十とせにあまりぬと聞こえしも、いなみて終にうけ引かざりき。まいて男子の予がをしへ子たらんと請ひし人々は、かがなふに遑なき、意見を述べ推し禁めて、いづれも需に応ぜざりけり。予が人の師とならざるは、柳宗元に倣ふにあらねど、素より思ふよしあればなり。さるを、ただこの真葛の刀自のみ、婦女子にはいとにげなき経済のうへを論ぜしは、紫女清氏にも立ちまさりて男だましひあるのみならず、世の人はえぞ知らぬ予をよく知れるもあやしからずや。されば予が陽に袪けて陰に愛づるは、このゆゑのみ。
思えば、去る文化の初めごろ、尾張の某氏の後室が新潟という草紙物語を書きためてわたしの添削を求めたが、固く辞して返した。また近ごろ、本郷の田中氏の娘がわたしの教えを受けたいと願うことがすでに十年を越えると聞いたが、断ってついに引き受けなかった。まして男子でわたしの弟子になりたいと請うた人々は数えきれないが、意見を述べて押しとどめ、いずれも求めに応じなかった。わたしが人の師にならないのは柳宗元にならうわけではなく、もとより思うところがあるからである。それなのに、ただこの真葛の刀自だけが、婦女子にはまったく似つかわしくない経済のことを論じたのは、紫式部や清少納言にも立ちまさって男の魂があるだけでなく、世の人が知りようもないわたしをよく知っているのも不思議ではないか。だからわたしが表向きは遠ざけて陰では愛でるのは、この理由だけである。
かかる世に稀なる刀自なるを、兎園社友に知らせんとて、いといひがたきことをすらおしもつつまでしるすになん、秋もはやけふのみと、くれゆく窓の片あかり、風さへいとど身にしみて、火ともす程をまつままに、かくなん思ひつづけける。
こうした世に稀な刀自であることを兎園社の友に知らせようと、たいそう言いにくいことまで押し隠さずに記すのである。秋ももう今日限りと暮れてゆく窓の片明かり、風までいよいよ身にしみて、火をともす時を待つままに、このように思い続けた。
うらみきと思ふもわびし真葛葉に今もなごりの秋の夕風
恨んだと思うのもわびしい。真葛の葉に今も名残の秋の夕風が吹く
予は例のふみ屋らにせめられて、かかるものかくいとまなきを、そのいとまなき折に、いと長々しう書かんこそ、まことに書くにはあるべけれど、思ふも老のしみたるなり。瘤を見するに似て、われながらいといとをかし。さればきのふ巳のころにはじめて筆を把りしより、さて書くとかく程に、夜もはや二更の鐘を聞きつつ、このはたひらを綴り果てにき。もちろん初稿のままにしあれば、さすがに心もとなさに、今朝はじめよりよみかへして、わづかに誤脱を補ふものから、拙きうへになほ拙きが巧みにして、けふのまとゐの間にあはぬにはますらめと、みづからゆるすも嗚呼なるべし。
わたしはいつもの本屋たちに責め立てられて、こういうものを書く暇もないのに、その暇のない折にたいそう長々しく書くのは、本当に書くべきことではあるが、思えば老いの染みついたものである。瘤を見せるのに似て、われながらたいそうおかしい。それで昨日の巳の刻に初めて筆をとってから、書いているうちに夜ももう二更の鐘を聞きつつ、この二十枚を綴り終えた。もちろん初稿のままなので、さすがに心もとなく、今朝はじめから読み返してわずかに誤脱を補ったものの、拙いうえになお拙いのが巧みになって、今日の集まりに間に合わないよりはましだろうと、自分で許すのもおかしなことである。
原文 / 昭和女子大学本の字句を採り、正字体を保持、振り仮名を外す
眞葛のおうな
眞葛ハ才女なり江戸の人工藤氏名を綾子といふ性歌をよみ和文をよくし瀧本樣の手迹さへ拙からず父ハ仙臺の俗醫士工藤〔本姓源氏〕平助諱ハ平母ハ菅原氏とぞ聞えし先祖ハ別所黨にて播磨の野口の城主長井四郎左衛門より出たり〔長井の族を加古右京といふ并に太閤傳天正七三木合戰の條にみえたり〕その子孫零落して攝津の大坂にをり數世の後長井大庵に至れり是則眞葛の祖平助の父也大庵ハ醫をもて業としたりしかバ江戸に到りて紀州公に仕へまつりぬ男子三人まで有けるに只武藝をのミ學バせて子ありとだにも聞えあげざりしかバある時公ちかく侍らして汝が齡既に四十にあまりたらんに子ども兩三人ありと聞ぬなどて家督を願ひ申さぬぞと問せ給ひしかバ大庵ハ阿とさがり額つく程にはふり落んとせし涙を拭ひて答へ申すやういと有がたきまで御意を蒙り奉りし事身にあまりて覺え候へどもかねて申あげし如く先祖ハ一城の主にて候ひしをたつきの爲にかく長袖になりたるだにも口をしく候ものを子どもをすら親の如くにし候はんハ先祖へめいぼくなく思ひ候へバ不肖の某一代のミめし仕はせ給へかし子どもハよしや浪々の飢に臨候とも武士にせまほしくこそ候へと申しゝかバ公感じ思召てさらバ方伎ハ大庵一代たるべしと仰出されて跡をバ武士になされたり
これによりその長男ハ長井四郎右衛門と名のりたり澁川流のやはらとりにて師の允可を得たれども生涯事にあはざりけれバ名を志らるゝよしもなかりき次を長井善助といひけりこハさし箭の射手にていさゝか世に知られたりこの同胞ハ紀州に仕へまつりぬ平助ハ三男なるをもてさのミハとて仙臺侯の醫士工藤某に贅してそが養嗣にぞしたりけるされバ亦平助も實父の志をうけ嗣て圓頂長袖の身たらん事をば羞じしかバ侯に願ひ奉りて俗體にて有けれども衛生の術にハおろかならず思ひを蘭學にひそめて發明する所も多かりしにぞその名も粗聞えたりけるかくて平助が子ども數人あり長女ハ綾子所謂眞葛是也次を工藤太郎といひて才子なりと聞えしに父に先だちて身まかりぬその次ハ女子又其次も女子也これらもよすがもとめて後いく程もなく世をはやうしたりとぞその次を工藤源四郎元輔とぞいひし和漢の才子にて詩をよくし歌をさへよみけるに方伎も亦庸ならず惜くハ短命にして子のなかりしかバはつかに名跡のミ遺れりといふその次ハ女子にて名を拷といひけりこハ越前の姫うへに年來みやづかへまつりしに姫うへなくなり玉ひしかバ比丘尼になりて瑞祥院と法號せり今なほ鐵炮洲の邸中にあるべし又その次も女子なりしをある醫師に妻せられしがこも亦はやく身まかりしとぞ
この同胞七たり才も貌もとりゞゝなりけるそが中に乙の子のみやけの御まへにみやづかへにとてまゐれるとき兄の元輔が後のおこたりをいましめてよく勤めよかしふた親のめぐみをおもふに雨露のごとくひとしきをうけたる身の心ゝにたがへるハかの七くさてふ花のかはれるに似たりとて
おのがじゝにほふ秋野の七くさもつゆのめぐみハかはらざりけり
とよみてとらせたりしを後に綾子の傳へ聞てよくもいさめたるものかなさらバその七くさの花にたとへんに藤バかまハかぐハしといへバ太郎よその次なる女かほよけれバ朝がほその次ハをみなへしをばなハそこにこそをはさめ越の御まへなるハ萩乙子ハなでしこなるべし葛バなハめづるバかりのものならねども葉のひろけれバはらからをさしおほふ子の上にしも似つかハしかるべくやと定めたりしより物にハ綾子を眞葛と唱へ拷ハ萩と唱へ祝髪の後ハ萩の尼ともしるしたり
かゝるめでたき同胞なりしに五人ハ命長からで文化の末にハ眞葛と萩の尼〔瑞祥院〕のミぞのこりたりけるそが中に眞葛ハいとをさなかりしころより異なる志ありけり明和壬辰の大火の比物のあたひのにハかにのぼりて賤きものハいよゝ窮すると傳へ聞てひとりつらくおもふやういかなれバあき人のこゝろバかり鬼ゝしきものにハあるあはれ民の父母たる身にしあらバかく淺ましきことハあらせじを悔しくも女に生れたることよとハ歎きたり
これより後われハ必女の本になるべしとおもひおこしつゝとにかくに身をつゝしみおのれをうやゝしうすることハさらなり女子ハおもてこそ肝要なれとて愛敬づきたらんやうにもしつ又から文を讀ままくほりせしに父いたく禁めて女子の博士ぶりたらんハわろし草紙のミ見よといはれしかバ源氏物語伊勢物語などを常に枕の友としつゝとし十六の時はじめて和文といふものを一ひらバかり綴りたりしに父の平助これを村田春海に見せしかバいたくめでよろこびてその師なくてかくまで綴れるハ才女なりといひしとぞみづからハ只伊勢物語を師として綴りてけるに譽られしことのけやけきに恥てこのゝちハ親にすら見せざりしかど猶よくせんとおもひたり
手迹ハをぢなりける人瀧本樣の能書なりけれバその手を學びて大かたハ極めたれども五十ちかきころ右のかひなの痛む疾おこりしより物かくことも若き時にハ劣り目もかすむこと常になりたれバ細書の草紙ハえよまずといへりいづれもいづれも女の本にならんとほりせしに日々のわざにして何事にまれ人のうへに就て心のゆく所を考へ果さばやとおもふ心もつきにけりかくて弟元輔に四書の講釋といふことをせさせて只一たび問くことを得たりこれにより孔子聖人の教へハすべてかゝるすぢにこそと聊たのもしく思ひたり佛のをしへもよくハしらねど念ずれバ必利益ありと思ひとりて年來觀音と不動を信じ奉りけり
これより先にとし十六七なりし頃仙臺侯の御まへにみやづかへにのぼせられし折みやづかへハひとり勤なりと思ふこそよけれいくたりの同役ありとても勤るをおのれ一人とおもひはゞうしろやすかりてんと覺悟せしのぞ傍輩の憎ミも人のおこたりを咎るこゝろもなく果て後やすかりしとハいへり又をさなかりしころ奴婢のみそかごとするがものゝいひざまとけしきとにしらるゝをうち見てあなおろかにも立ふるまふものかな人にしらせじとおもふことをなかゝゝに人しれかしといはぬバかりなるハいかにぞやかく淺はかなる心もてしのびあふものどもの後々までいかでか遂ん慾にまよふものゝ心バかりおろかなるハなかりきとおもふ程に果してその事あらはれて追れしものゝありしとぞ
かくてみやづかへの身のいとまを給はりて宿所にまかりし比母のなくなりしかバ猶をさなかりし妹どものうしろ見をもしつ内をおさむることをさへうち任するものゝなかりしにより三十をなかば過るまで人妻ともえならでありしに同胞のうちいづれまれ國勝手なる人の妻とせバ元輔が爲によろしかるべしと父の年來いひつれども仙臺へ趣んといふものハなかりしを眞葛ハ父の仰にハもれ侍らじともかくもはからせ玉へといひしにぞ父よろこびてあちこちとよすがもとめつゝ當時勤番にて江戸番頭なりし只野伊賀とて祿千石を領する人の後妻にえにし定まりしかバ仙臺河内元はせくらとて仙城の二の丸に程ちかき只野氏の屋敷へ遣嫁せられけり
人あるひハこれを諫めしものゝありしに眞葛答ていハく遠く仙臺へよめらせんとほりするハこれ父のこゝろなり又遠くゆくことをうれハしく思ふハ子の心なりなでふ子の心を心として親の情願に背くべきわれハ三十六歳を一期として死したりと思へバうれひもなくうらみもあらず死てすぐせわろくバ必地獄の呵責を受べく且親同胞にあふによしなかるべし仙臺ハもとも厭ハしき所なり且聲だみてむくつけきをとこにかしづき詞がたきなき宿を生涯うちまもりたらんも地獄の呵責にハますことなからんやといひしとぞ
さて年ありて父平助も身まかり眞葛の良人伊賀も世を去りて前妻の嫡子只野圖書の世となりにたりこの家いとかたくなゝる家則多くて傍らいたき事のミなれども繼母の事なれバ何事も得いハずいとおろかなるわざかなと思ひつゝそがまにゝゝせずといふことなしはじめ女の本にならんと思ひしを得果さずをのこはらからの世をバはやくせしことのかなしくてよしやわが身女なりとも人に異なる書を著はして世にも志られ乃祖の名をもあらハさバやと思ふに今の諸侯の多くハ財主の爲に苦しめられながら嬖妾に費を厭ひ玉ハず或ハ職位を望みてそがなかだちするものにはかられあたら黄金を失ひ玉へることなどをはじめとして經濟の可否を論ずること數篇全書三巻を獨考と名つけたり時に文化十四年冬十二月朔眞葛五十五歳の著述とぞ聞えし此他奧州ばなし一巻磯づたひ一巻あり予がこゝに志るしつけたるハ眞葛の予が爲に書ておこせし昔がたりとハずがたり秋七くさ筆のはこびなどいふ草紙の意をうけて畧記しつるもの也
予ハ近き頃まで眞葛を志らず文政二年己卯の春きさらぎ下旬家の内のものどもの年の始のことほぎにとてやから許ゆきたりし日齡五十バかりなる比丘尼の從者ひとりいたるが來ておとなふ有けりとりつぐものゝなき折なれどうちもおかれずみづから出ていづこより來ませしぞと問ふに比丘尼のいハく尼ハ牛込神樂坂なる田中長益といふ醫師によしあるものに侍り主人に見參せまほしといひつゝにじり上りたり予ハ文化のはじめより客を謝し帷を垂れて常に人と交ハらずをちこちの騷客のさハに來訪せらるゝも舊識の紹介なけれバ病ひに托してあハざりしについでわろしと思へどもせんかたのなきまゝにいな主人ハ出て今朝よりあらず家の内の人どもいづちへか行たりけんおのれハ志バし留守するもの也何事まれ仰おかれよ歸らバ傳へまゐらせんと惟光がほに答へたり
その時比丘尼ハふところより一通の封狀とさかな代と志るしたるこがね一封とふくさに包たる草紙三まきをとり出てこハみちのくの親しきものよりあるじにとゞけまゐらせよとておこしたるなり草紙ハをんなの書たるをこゝの翁の筆削をたのミ侍るとよ猶つぶさにハ此消息にこそあらめあまハ今宵田中がり止宿し侍れバ翌のかへさに又とぶらひ侍りてんその折に一筆なりとも此かへしを賜ハれと傳へ給へかしといふ予答てそハこゝろ得て侍れども主人ハ年來筆とる業に倦つかれたれバとてとていづ方よりよざし玉ふもかゝるものハうけ引侍らず殊更留守の宿なるにあづかりおかバ叱られやせん又折もこそあるべきをこハもてかへらせ玉へかしといなむを比丘尼ハ聽ずしてそハ宣ふことながらおん身の心ひとつもておしかへされんことにハあらじとまれかくまれあづかりてたべ翌の朝ハ巳の比にまたこそ來めと期をおしていとまごひしてまかり出でにけり
予も亦書齋に退きてまづその狀をひらきて見るにいひおこしゝ趣ハ比丘尼のいへるにおなじけれどもふみの書ざま尊大にて馬琴樣みちのくの眞葛とのミありて宿所などハ定かに志らせずいぶかしきこと限りもなけれバ獨りつらゝゝ思ふやう此年來貴人より書を賜ハりしことのあれどもかくまでに尊大なるハいかなる人の妻やらん仙臺侯の側室にて御部屋など唱ふるもの歟遙ゝゝとよざしぬる草紙ハ何を書たるやらんと思へバやがて繙きて見るに經濟の可否を論じて獨考と名つけたるふみまきの稿本也その說どものよきわろきハとまれかくまれ婦人にハ多く得がたき見識あり只惜むべきことハ眞の道を志らざりける不學不問の心を師としてろんじつけたるものなれバ傍らいたきこと多かりはじめより玉工の手を經て飽まで磨れなバかの連城の價にもおとらぬまでになりぬべきその玉をしも玉鉾のみちのくに埋ミぬることよとおもへバ今更に捨がたきこゝろありさハさりながら人妻か母かも志らぬ一老婆のその宿所だに定かならねバ需に應ずべくもあらず
いでやわが志を見志らしてその後にともかくもせんすべあれとおもふになんその夜かへしをものするにおのれハいとはやくより市にかくれて婦幼童のもてあそびものとなるよしハ刀自にも志られたるなるべしさバれこたみよせられしおん作のさうしハそれらのすぢにハあらぬを世の人のわれを志れるものと異なる見どころあるにあらずバ江戸にハ名だゝる儒者も國學者も多かるにおのれにハたのミ玉ハじさるこゝろもてせられなバなどていと尊大なるおよそ人にもの問ふにハ禮節あり古への人ハ一字の師をだも猶おろかにハせざりきもしまことに問ハんとのミこゝろあらバかくハあらじを馬琴とだにたゝへられしハいかにぞや曲亭も馬琴も予が戲號なれど戲作狂詩狂歌などのうへにのミ交る友ならバ志か唱られんに咎むべきことにハあらずもし實學正文のうへをもて交る友になほ曲亭とたゝへられ馬琴といはるゝハ是われを志らざるものに似たりいかでか予がこゝろに恥ることなからんやかゝれバ刀自もよく予を志り玉へるにあらざるなめり近頃平賀源内が儒學蘭學のうへにハ鳩溪と號し戲作にハ風來山人と稱し淨瑠理本の作あるにハ福内鬼外と志るしけり又大田覃ハ儒學に南畝と號し狂詩に寢惚先生と稱し狂文狂歌に四方赤良四方山人巴人亭杏花園なども志るし晩年にハ蜀山人と號したれども戲作淨瑠理のうへならでハ鳩溪を風來とも鬼外とも稱するものなく狂文狂詩狂歌のうへならで南畝を寢惚とも四方とも巴人亭とも稱するものハあらざりきよしやその著きをのミ呼なれて虚實の號を混ずるともまことによくその人を志れるものハこゝらに心を用ふべき事歟刀自ハよく予を志らず予ハ素より刀自を知らず男女みづから授受ざるハ礼也刀自ハ人の妻歟母歟その宿所だもつゝみ玉ふにハわれ答ふる所を志らずこゝをもて只わが志を述ておどろかし奉るのミと書志るしつ
かくて妻のをんなを呼て翌の朝志かゝゝの比丘尼來つべしあるじハけふも未明に出てあらずこハきのふのおんかへしなりと告てわたせよといふにこゝろ得て志かはからひつ
この後廿日バかりを經て又かの比丘尼より御宰めきたる使をもてみちのくよりの消息を屆け侍るとておこしゝに拷の尼と志るしたる添ふみもありけりまづ眞葛の狀をうちひらきて見るにこたみハいとおしくだりて文の書ざまのねもごろなりしそが中によろづにあはゝゝしきをんなのよそをだに得志らねバ今ハやもめにていとおよすげたる身にしあれどをとこに物いはんにねもごろぶりたらんもなかゝゝに無礼なるべしと思ひとりしより礼なしと見られにけん露ばかりもそなた樣をあなどる心あらバ人にハ見せぬ筆のすさびをたのミ奉ることやハあるこの後とても心づきなき事多からんを教へられんとこそねがひ侍れこなたのうへを志らせよとあるにいかでつゝみ侍るべき眞葛ハ志かゝゝ又さきにわらハが消息をもてとぶらひ侍りしハ妹にて志かゝゝとその身のうへをも妹拷の尼の名どころをもつぶさに書志るして別に昔がたりといふ草紙一巻にその先祖の事さへ志るしつけて見せられたり
又その消息にこゝにハ詞がたきもなく侍れバ只あけくれに物を考へ見かへすことの癖となり病ひともなり侍りたりさて思ふやう何の爲に生出つらん女一人の心として世界の人の苦を助まほしく思ふハなしがたきことゝ志りながら只この事を思ふが故に日夜やすき心もなくて苦しむぞ無益なる今ハやもめにもなりつるになげきをのこさん子とてもなし息のかよハん限りハこの歎きやむことあたハじながく生てくるしまんより息をとゞむるぞ苦をやすむるのすみやかなるべしと思ひてひたすら死んことを願ひ侍りしに時ハ秋のことなりき曉がたの夢に
秋の夜のながきためしを引く葛の
といふ歌の上のおのづからふと聞えたるハ多年信じ奉る觀音ぼさつの志めさせ玉ふと覺えて夢こゝろに忝く此下のつけやうにておのが一世のうらとならんとまで志めさせ玉ふとおぼえていとうれしく心いとあハたゞしきものから世々に榮んとこそいハめと思ふ程さめはて侍りき四の句いと大事ぞと思ひつゝやゝ程ありてたえぬかつらハとつけ侍りし
秋の夜のながきためしを引く葛の絶ぬかつらハ世々に榮ん
と一首のかたちをなしぬれどいと心もとなくのミ思ひ侍りきかくたえず物をのミ思ひつミし故によりて病者となり侍りて身もよハく心もきえゝゝにのミなり増りしを不動尊を信じ奉りて後漸病もうすくなり侍りしかども今に右の手のいたみて筆とることこゝろのまゝならず眼くらくして細書をみることあたハず是ハ老の病ひとぞ覺え侍るこの近きわたりに岩不動と申奉るがたゝせ玉ふ年毎の五月廿八日にハこのわたりなる幼童どもの集合ひて御輿をかき荷ひ御旗あまた持て遊ぶがごとくもてわたり侍り我も赤色なる御旗をたてまつりしを御先に持てわたりしかバ御心につかせ玉へるならめと有がたく思ひ侍りしに宵過てうすねぶたきにいざねばやと思ひて端居しながら籠にこめたる螢のやすげなくふるまふをまもりつゝ何心もなくてありしほどに
ひかりある身こそくるしき思ひなれ
といふことの耳にきかれてめさむるこゝちもしハ此御佛の御志めしぞと有がたくて
世にあらハれん時をまつ間ハ
と又下をつけそへ侍りし此二哥をちかくにさらバ心にこめしことどもを書志るさバやと思ひ立ていとおほけなきことどもをいひ出せるに侍るなる書果て後に誰に志らげをたのまバやと久しう思ひ煩ひて侍りしにかゝる人に見せよと不動尊の御志めしありし故そなたにことよせ侍りしにこそおろそかならず考を添へ給ハらんなんどねんじ奉りぬ今の此身ハ譬へバ小蛇の物に包まれて死にもやらず生もせずむなしき思ひのこれるにひとし君雨となり風となりてこゝろざしを引たすけ玉ハらバもし天に顯るゝことのありもやせんなどありてこたみハ瀧澤解大人先生樣御もとへあや子と書れたり
この長文を見る程におもはず涙ハはふり落てあはれむこゝろになりにたり名を諱む事ハからくにの制度なるを國學などのうへにてハふかくいむよしもあらずたとひ今ハなべて忌とても戲號を唱らるゝにハはるかにましてほいに稱へり但大人先生などたゝえられしのミ當りがたきことなれバ大人先生のわけを志るしてかたくとゞめたりけれども猶あやにくに用ひざりけりこハ羹に懲りしものゝ齏を吹くたぐひならましそもゝゝこの眞葛の刀自ハをのこだましひあるものからをさなきよりの癇症の凝り固りしにもやあらんさバれ心ざますなほにて人わろからぬ性ならずバ予がいひつることゞもを速に諾ひてとほつおやの事をさへ志るして見することやハせんかゝる婦人のたのめる事を猶いなまんハさすがにて志かゝゝとことうけ志つる
そのをりの予がかへしに海なす御心の廣からずバ木の枝に鼻をすらるゝといひけん如き予が言ぐさを諾ひ容れて志かゝゝとハ聞え玉ハじおよそハこたみの御消息にてあし曳の山の井のかげさへ見ゆるこゝちし侍れバ淺くハ思ひ侍らねど不動尊の示現によりてなど聞え玉ふバかりうけられねそハとまれかくもあれたのまれ奉りし一條ハよくもわろくもなし果ておん笑ひにこそ備ふべけれ志かれども生業の爲にたのまれたる書ものゝ多かれバ今年の暮まで待せたまへなど志るして果て
妹の尼の添ふみを見るにみちのくよりの消息とゞけ奉るさてもいぬる日ふたゝびまでとぶらひまつりしハ人づてになせそみづからゆきて志かゝゝと傳へよかしとみちのくよりいひおこせたりしにこそさるを次のあしたにもあはせ玉ハぬにて志か侍りぬかの留守居の翁こそこゝろにくけれかゝれバ奧のたより毎に尼がその消息をもてゆきてとゞけまゐらするも要なし此のちハいつも使をもてすべきに礼なしとてな咎めたまひそとゑんじたるふみの書ざまなれバ予ハ何ともそのことのいらへハせで
ふみわきてとハれし草のいほりにハなほ春ながくかるゝ君かも
とよみてつかハしゝかバ後のたよりにかへし 萩の尼
やぶしわかぬ君が心し春ならバわりことくさもかれずやあらまし
とありしに又予がかへし
ことくさを花とし見れバとゞめあへずきのふおしみし春ハものかは
とよみてつかハしけりこハ卯月朔日のことにぞ有けるこの萩の尼瑞祥院も多く得がたき才女にて歌をよみ和文をよくし走り書うるハしくて手すぢハあねの眞葛に似て瀧本樣なるもめでたし程へて予がことくさの歌をたゝえて
ことの葉の志げき廬の下つ枝やふるえの萩を花となすらん
とよみておこしたりき又このとしの冬萩の尼よりものをつゝみておこしゝ服紗をあやまちて火桶の中へとり落したりけるをわびつゝかへしつかハすとて 解
こがれつゝわたしかねたる川舟の風のふくさにいとゞくるしき
といひしに萩の尼のかへしやけふくさといふことをとはし書して
よの人のたぐひにあらずまめなりやけふ草の戸にかへすこゝろハ
とありしこハ予がつかハしたるかへの服紗をかへせし折の事になん是より先に彌生のころ眞葛のせうそこに御生業の爲に筆とらせ玉ふにていとまなきに志バゝゝわづらハし奉るをこゝろなしとやおもハれ侍りてんなどありしにかへしすとてよみてつかハしける
わが宿の花さくころもみちのくの風の便りハいとハざりけり
ほど經て眞葛のかへし
あやまたず君につげなん歸る雁かすみがくれにことづてしふみ
こハその家のおきてあれバ予に消息をおくれることを誰々にも志らせずとか嚮に聞たることもあれバ歌の心も志られたり是より後かねて書つゞりたりし物をバ妹の尼に淨書せしめ又予が爲に綴れるものをバ眞葛のみづから淨書してくさゝゝおくりて見せられたりこの餘その消息のはしにも眞淵春海宣長大平などを論ぜしありいとけやけくおぼゆるをさのみハとて志るしもつくさず
かゝりし程にこのとしもはや霜月になりしかバ獨考のことハ忘れ玉ハずやかねての約束をたがへたまふななどいひおこせることしバゝゝなれども今更にそのふみを引なほさん事易からずもしそのわろきを刈とらバ殘らんことの葉すくなかるべしこハ此まゝにうちおきて別に諭すにますことあらじと思ひにけれバ原本ハ假名づかひのたがへると眞名の寫しあやまれるにいさゝか雌黄を施して別に獨考論二巻を綴りたりその言つゆバかりも謟ひかざれる筆をもてせずその是非をあげつらふに教訓を旨として高慢の鼻をひしぎしにぞいとおとなげなきに似たれどかくいはでかたぼめせバいよゝゝさとるよしなくてにぶしといふとも予が斧をうけたる甲斐ハあらざるべし人に信をもてするにいかりを怕れて諫めざらんハ交遊の義にあらずとかねておもふによりて也
かくて廿日バかりにしてその書やうやく成りしかバみちのくへつかハすときいつゝゝまでもまじらひし事うけ給ハりたく思ひ侍れどをとこをみなの交りハかしらの雪を冬の花と見あやまりつゝ人もや咎めん且わが生業のいとまなきに年來思ふよしもあれバいとふるき友すら疎くなり侍りたりかゝれバおん交りも是を限りとおぼしめされよなどいひつかハしゝに次のとしの春みちのくよりのかへしとて萩の尼のとゞけられたりくだんの尼ハ予が論の書ざまを譏れりと見てうらみけん怒りハ筆にあらハれにきこハあねにおとりてむねせまき婦女子の氣質と志られたり眞葛ハさもあらずしていといたくよろこびうけたる消息のまめやかにておんいとまなき冬の日に書肆どものせめ奉る春のまうけのわざをすらよそにしてかうながゝゝしきことを綴りて教へ導き玉ハせし御こゝろの程あらハれて限りもなき幸ひにこそ侍れなほ永き世に此めぐみをかへし奉るべしと書れたり
このとき越前の御くにがみとて賣物にハ絶てなき小形の美の紙十五帖とおなじ國のはさみ陸奥名とり川なるうもれ木の栞もとあらの萩の筆などを贈られしにぞ明の春きさらぎの比そのよろこびを一筆書てつかハせしにかしこのかへしハ來にたれど久米路の橋のなか絶て文見ることハなくなりぬ
いとかなしともかなしかりしがかく遠ざかりぬることをいかにぞやと思ふ人の爲にハいふもえうなきわざながら彼同胞ハ才女也齡ハかれも小動のいそぢをこゆる程なりとも迭におもてを志らずして親しく年をかさねなバ李の下に冠を正し瓜の園に履をいるゝ人の疑ひなからずやハ且彼家のぬしにハ志らさでみそかにすといはるゝを志りつゝ交るべくもあらずいと捨がたき思ひありて捨ずしてかなハぬハすぐせありての事ならんとかねてよりおもひし也
これよりの後まどろまぬ曉毎に思ひ出でそのあけの朝消息さへとり出しつゝ見る毎になみだハ胸にみちしほのふかきなげきとなりにたりこのゝち三とせバかりの程ハ萩の尼が御宰をもて予が家の奇應丸を求めさせつる事をりゝゝありとむすめどものいひつるにて扨ハ予が安否のほどをみちのくへ告んとてのわざかと思ふもいとはかなし
いかでわれ眞葛の草子を刻本にして世にあらハさんとハ思へども彼獨考ハ禁忌に觸るゝこと多かりまいて予が獨考論などハ人に見すべきものにハあらずされバ此二書ハそゞろに人に貸すなと興継をすらいましめたり又奧州ばなしなどいふものも憚るべきことまじりたれバ刻本にハなしがたし只磯づたひの一書ハその文の特にすぐれて且めづらかなる説もあり禁忌に觸るゝことのなけれバ是をそとおもへどもいまだ時の至らぬにやふみ屋と謀るいとまなかりき
齡を縷ふるに予に四ツバかりのあねなりけれバ今もし恙なくバ六十あまり三ツにやならまし〔眞葛ハ文政七年某の月日に身まかりしとぞ今玆三月尾張の友人田鶴丸が松島見にゆきしをりことつけしに眞葛とうとからぬ仙臺の醫師にたづねしよしにてはつかにその訃聞えたる也丙戌四月追記〕
おもふにいぬる文化のはじめつかた尾張の某氏の後室が新潟といふ草紙物語を書つめて予が筆削を乞ひけるもかたく辭ひて還したり又近き頃本郷なる田中氏の女の予が教を受んと願ふこと既に十とせにあまりぬと聞えしもいなみて終にうけ引ざりきまいて男子の予がをしへ子たらんと請ひし人々ハかゞなふに遑なき意見を述推禁めていづれも需に應ぜざりけり予が人の師とならざるハ柳宗元に倣ふにあらねど素より思ふよしあれバ也さるを只この眞葛の刀自のミ婦女子にハいとにげなき經濟のうへを論ぜしハ紫女清氏にも立まさりて男だましひあるのミならず世の人ハえぞ志らぬ予をよく志れるもあやしからずやされバ予が陽に袪けて陰に愛るハこのゆゑのミ
かゝる世に稀なる刀自なるを兎園社友に志らせんとていといひがたきことをすらおしもつゝまで志るすになん秋もはやけふのミとくれゆく窓の片あかり風さへいとゞ身に志みて火ともす程をまつまゝにかくなん思ひつゞけける
うらみきと思ふもわびし眞葛葉に今もなごりの秋の夕風
予ハ例のふみ屋らにせめられてかゝるものかくいとまなきをそのいとまなき折にいと長々しう書んこそまことに書くにハあるべけれど思ふも老の志ミたるなり瘤を見するに似てわれながらいとゝゝをかしされバきのふ巳のころにはじめて筆を把りしよりさて書とかく程に夜もはや二更の鐘を聞つゝこのはたひらを綴り果にきもちろん初稿のまゝにしあれバさすがに心もとなさに今朝はじめよりよみかへしてわづかに誤脱を補ふものから拙きうへになほ拙きが巧にしてけふのまとゐの間にあはぬにハますらめとみづからゆるすも嗚呼なるべし
文政八年乙酉冬十月朔
愚山人解稿
注
- 写本の位置
- 写本は3171の59カット目左ページから80カット目右ページまで。59カット目右ページは白紙。78カット目と79カット目は同じ見開きを二度撮影したもので、79カット目は78カット目右ページ上部の貼紙をめくって頭注を写す。80カット目左ページから後ろは見返しと表紙。
- 判読保留
- 目録の題は「眞葛の老女」、本文の題は「眞葛のおうな」。目録の披講者は著作堂で曲亭馬琴。末尾の署名は「愚山人解稿」と読んだが、一字目は判読保留。日付の「文政八年乙酉冬十月朔」は目録末尾の集会日と同じ。
- 校合
- 活字本系テキスト(私家版)の底本は『馬琴雑記』巻二上編で、写本とは字句の異同が多い。校合は参考にとどめ、本文は写本から起こした。私家版末尾の「百川云」で始まる評語は写本にない。
- 校合
- 「秋の夜のながきためしを引く葛の」は写本の字句。活字本系テキストは「引く蔦の」とする。真葛の号に掛けた歌なので写本を採った。
- 判読保留
- 「乙の子のみやけの御まへにみやづかへにとてまゐれるとき」は写本の読み。活字本系テキストは「給事にとて」とする。判読保留。
- 判読保留
- 「勤るをおのれ一人とおもひはゞうしろやすかりてんと覺悟せしのぞ傍輩の憎ミも人のおこたりを咎るこゝろもなく果て後やすかりし」は写本の読み。活字本系テキストは「傍輩にも憎まれず、人のおこたりを咎むる心もなくして、果して、後やすかりし」とする。「もなく」の付近に朱の書き入れがあり、判読保留。
- 判読保留
- 「念ずれバ必利益あり」の「あり」は写本の字形が崩れ、「あらん」とも読める。判読保留。
- 判読保留
- 「仙臺河内元はせくら」は写本の読み。活字本系テキストは「河内支倉」とする。仙台城下の元支倉と解したが、判読保留。
- 判読保留
- 「四の句いと大事ぞ」「筆とることこゝろのまゝならず」「礼なしとてな咎めたまひそ」は写本の字形が崩れており、活字本系テキストに従った。判読保留。
- 校合
- 「こたみハ瀧澤解大人先生樣御もとへあや子と書れたり」の「子」は写本に朱で書き入れてある。活字本系テキストは「綾子」とする。
- 校合
- 「ふみ屋と謀るいとまなかりき」は写本の読み。活字本系テキストは「書肆と謀る」とする。原寸で確かめた。
- 判読保留
- 「齡ハかれも小動のいそぢをこゆる程なりとも」の「ハかれも」と「小動」、「今もし恙なくバ六十あまり三ツ」の「今もし」は写本の字形が崩れる。活字本系テキストは「かれも」「今もなほ」とする。判読保留。
- 判読保留
- 「小形の美の紙十五帖」は活字本系テキストと同じ読みだが、写本の字形は「美濃紙」とも見える。判読保留。
- 注記
- 「眞葛ハ文政七年某の月日に…丙戌四月追記」は78カット目右ページ上部の頭注で、貼紙の下に書かれている。文中の該当箇所に割注として入れた。真葛の没年は文政八年六月が通説で、馬琴の記す文政七年は誤りとされる。
- 判読保留
- 72カット目左ページの末尾に小さく「自畢」と見える書き込みがあるが、意味は判読保留。
- 注記
- 「みやけの御まへ」は仙台藩主の御前、「うはなり」は後妻、「ことくさ」は断りの言葉、「ぬかづく」は額づく、「奇應丸」は馬琴の家で売った薬。「惟光」は源氏物語の光源氏の従者で、取り次ぎに立った自分をなぞらえた。
- 注記
- 「新潟」は文化年間に尾張の某氏後室が書いた草紙物語とあるが未確認。「本郷なる田中氏の女」も未確認。「田鶴丸」は尾張の友人で、田鶴丸は水谷田鶴丸か、未確認。
- 注記
- 「李の下に冠を正し瓜の園に履をいるゝ」は瓜田李下の故事。「久米路の橋」は信濃の伝説の橋で、途中で絶えたことを掛ける。「連城の價」は和氏の璧の故事。
- 校合
- 私家版はこの話を1記事にまとめる。記事の注釈と現代語訳は転載していない。
AI試訳 / 専門家未校閲