雲亭日本古典図書室収録作品の一覧

孫七天竺物語抄

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兎園小説 / 曲亭馬琴ほか 兎園会の会員 / 第十一集 第1話 / 好問堂 山崎美成

漂流して天竺の商家に九年仕えた孫七の見聞を、山崎美成が抜き書きして考証を添える。

本文 現代語訳

孫七天竺物語抄
孫七天竺物語抄
夫、今にして古をしらんは、書に、しく、べからず。又、居ながら、夷狄の風俗をしるも亦、書、なり。ふるくは、僧玄奘の「西域記」あり。近くは張鵬翮の「俄羅斯日記」の如き、目、其事を視、足、その地に至れり。此等の書、実に徴とするに足れりといふべし。其他、歴史中、載する所、外国伝、及、諸書に散見するもの、又、むねと、其事のみを記しし「東西洋考」、「西域聞見錄」等の如きも、多くは、みな、想像の言耳。其中、たまたま、吾邦の事に及べるもの、妄誕、少からず。概して、しるべし。
そもそも、今の世にいて昔を知るには、書物に及ぶものはない。また、居ながらにして異国の風俗を知るのも、やはり書物である。古くは僧玄奘の『西域記』があり、近くは張鵬翮の『俄羅斯日記』のように、目で実際に見て、足でその土地に至ったものがある。こうした書物は、まことに証拠とするに足りると言える。そのほか歴史書に載る外国伝や、諸書に散見するもの、またもっぱら異国のことだけを記した『東西洋考』『西域聞見録』などは、多くは想像の言葉にすぎない。その中でたまたまわが国のことに及んだものには、でたらめが少なくない。おおよそ推して知るべきである。
扨、吾邦の舟人、時として颶風に吹きはなたれ、あらぬ国に別れるものの、帰ることを得てものがたるは、みな、目擊のことながら、一丁字をもわきまへぬ舟人なれば、事物はもとより、地名だに、詳には得おぼえぬもののみ。痴人に夢を説くの思ひなきこと、あたはず。
さて、わが国の船乗りが、時として大風に吹き流され、見知らぬ国に流れ着き、帰ることができて語る話は、みな実際に目で見たことではあるが、一文字も読めない船乗りなので、物事はもとより、地名さえ詳しくは覚えていないものばかりである。愚か者に夢を説くようなもどかしさを、感じずにはいられない。
其中に「孫七天竺物語」といふ冊子あり。明和三年〔本書に「壬午年」とあり。宝暦十二年也。〕、筑前国の船頭重右衛門といふもの、「伊勢丸」といふ船に、廿人のりにて、漂流し、数月、海上にありて後、ここかしこの夷人の手にわたり、果は孫七といふ者一人、天竺にいたり、商家に奉公して、九年を経て、安永三年八月十五日〔本書に明和七年とあり廿六日〕、故郷に帰り来て、話せしを記したるにて、地名、人名はいふまでもあらず、方言さへ、詳に記したれば、此冊子こそ、彼地の一斑をも窺ふべきものならんと、一わたりよみかうがへつるに、考拠とすべきこと、なきにあらず、ここをもて、今、其天竺のことに及べるものを、ここに抄し、且、拙考の、一、二をも附記すといふ。
その中に『孫七天竺物語』という冊子がある。明和三年〔その本には壬午の年とある。宝暦十二年である〕、筑前国の船頭重右衛門という者が、伊勢丸という船に二十人乗りで漂流し、数か月海上にあったのち、あちこちの異国人の手に渡り、最後には孫七という者ひとりが天竺に行き着き、商家に奉公して九年を経て、安永三年八月十五日〔その本には明和七年とある。二十六日〕に故郷へ帰って来て語ったことを記したもので、地名人名は言うまでもなく、方言まで詳しく記してあるので、この冊子こそ、かの土地の一端をうかがえるものだろうと、ひととおり読んで考えてみると、考証の拠り所とすべきことがないわけではない。そこで今、その天竺のことに及んだ部分をここに抜き書きし、あわせて私の考えの一つ二つを書き添える、ということである。
六月〔明和六年。〕の初のころ、大船をしつらひて、「ソウロク」〔地名、南天竺の内といふ。〕。の小港にぞ、入りにける。宿の主が案内して、われわれ二人〔孫七、幸五郞。〕を、此舟に、つれ行きけり。「いかなる国に、又もや」と、覚束なくも、乗りにける。のり合には、老若の女、八人、男は、廿二人なり。水主、梶取のもの、廿人、都合、乗組五十人。いづくよりとも、夢心地、残りし友のこと、問へば、さるに、行方も、しらざりける。名残をしくも、見送り、見送り、沖津浪にぞ、走りける。
六月〔明和六年〕の初めごろ、大船を仕立てて、ソウロク〔地名。南天竺のうちという〕の小さな港に入った。宿の主人が案内して、われわれ二人〔孫七と幸五郎〕をこの船に連れて行った。どんな国へまた行くのかと、心細く思いながら乗り込んだ。乗り合わせたのは老若の女が八人、男は二十二人。水夫と舵取りが二十人、合わせて乗組五十人である。どこから来たのか夢心地で、残してきた仲間のことを尋ねたが、そのまま行方も分からなかった。名残惜しくも見送り見送り、沖の波の上を走り出した。
女を見れば、枕も上らず、涙かわかぬありさまを、いかなる子細もしらざれども、後に思ひ合すれば、親にはなれ、兄弟に別れし人を盗みて、上荷に積み、遠き国に売りに行く。その人々の心のうちこそ、思ひやられて、悲しけれ。
女たちを見ると、枕も上がらず涙の乾かない様子で、どういう事情かは分からなかったが、後から思い合わせると、親から離され兄弟から引き裂かれた人をさらって、上荷として積み、遠い国へ売りに行くのであった。その人々の心のうちが思いやられて、悲しいことである。
舟には黒砂糖、黒胡麻なり。かくて日数も、廿日あまり、過ぎければ、兄と賴みし幸五郞〔このもの、「伊勢丸」乗組廿人の内、孫七と此もののみなり。〕、何とやら、煩ひ付き、食事も絶え、いろ、青ざめ、たのみすくなく見えにける。「死がいなりとも、納めん」と、舟の者にいひければ、「海へ捨てよ」と、仕かたする。いと悲しくとや角、いへど、幸ひ、泊り港にて、岡近く、「てんま」を寄せ、手を添へてと賴みけれど、つばきはきして、かぶりをする故、是非なく、是非なく、独して、死がいを肩に、岡へ上り、「かい」にて砂をほり、よきほどに納めてこそは、船に乗る。
船の積み荷は黒砂糖と黒胡麻であった。こうして日数も二十日あまり過ぎたころ、兄と頼んでいた幸五郎〔この者は伊勢丸乗組二十人のうち、孫七とこの者だけが残っていた〕が、何やら病みつき、食事も絶え、顔色は青ざめ、頼みにならないように見えた。せめて亡骸だけでも埋めさせてほしいと船の者に言うと、海へ捨てろと身ぶりで示す。とても悲しく、あれこれ言ったが、幸い停泊した港で陸が近かったので、伝馬船を寄せ、手を貸してほしいと頼んだが、唾を吐いて首を横に振るので、やむなく、やむなく、ひとりで亡骸を肩にかつぎ、陸に上がり、櫂で砂を掘り、ほどよく埋めてから船に戻った。
思ひ暮して打ふすに、船のもの、気遺うて、「又も、煩ふか」とて、「薬よ、水よ」と世話すれば、しほれぬ体して、くらしける。行き向ふ船も、たまたまにて、見馴ぬ帆かけ、吹き流し、島も珍しく、日本の道のりにて、海上、凡、弐千里ほど、日数も已に四十二日、しけにも逢はず。船は、ゆくゆく「みなと」とおぼしき川口に、十里ばかりぞ登りける。
思い暮れて伏していると、船の者が気遣って、お前も病んだのかと言い、薬だ水だと世話をしてくれるので、しおれた体を装って過ごした。行き交う船もまれで、見慣れない帆や吹き流し、島も珍しく、日本の道のりで海上おおよそ二千里ほど、日数はすでに四十二日、時化にも遭わなかった。船は進んで、港と思われる川口を十里ほどさかのぼった。
やがて、瓦の軒、見れば、碇を入れて、「てんま」をおろし、三十人の男女を乗せ、岡のかたにぞ、着にける。舟方は十人ばかり、岡に上りて、宿を極め、町々、所々に人を売りつけしとぞ聞えける。
やがて瓦葺きの軒が見えてくると、碇を下ろし、伝馬船を出して、三十人の男女を乗せ、陸のほうに着けた。船の者十人ほどが陸に上がって宿を決め、町々の所々で人を売りつけたと聞こえてきた。
此所は、中天竺、黒房の国にて、「カイタニ」といふ国にして、「バンシヤラマアン」といふ処とかや。いつの頃よりか、始まりけん、中華、南京、福州、山東の商人、出店して借地なり。家作りは、みな、瓦葺。富家も多し。町々、総いたばりにして、往来の人、土をふむこと、なし。諸国の唐船、出入をあらそひ、「おらんだ船」も入津して、繁昌なるみなとなり。後には、山もあり。里々、広く打ち続きて、前には大河あり。渡り二里ありて、甚、深し。大船、岸ちかく、つなぎならべて、水の流れ、なほ静に見え、関戸、小倉の海の如し。川上は南天竺、竜砂の下まで続きて、その流、幾千里といふことをしらずとかや。此処の町、家千四五百軒、みな、商家なり。人の形、きれいにして、衣類にも目をさましける。
この地は中天竺、黒坊の国で、カイタニという国のバンシャラマアンという所だという。いつごろから始まったものか、中華の南京や福州や山東の商人が出店して借地としている。家はみな瓦葺きで、富家も多い。町々はすべて板敷きで、往来の人が土を踏むことがない。諸国の唐船が出入りを争い、オランダ船も入港して、繁盛している港である。後ろには山もあり、村々が広く続いて、前には大河がある。川幅は二里あって、とても深い。大船を岸近くにつなぎ並べても、水の流れはなお静かに見え、関門や小倉の海のようである。川上は南天竺の龍砂の下まで続いて、その流れは何千里あるか分からないという。この所の町は、家が千四、五百軒、みな商家である。人の姿は美しく、衣類にも目を見張った。
孫七、三千世界を𢌞り来て、初めて人の風俗に逢ひ、『何れに我も売り付くべし。ここにうれかし、買へかし。』と、心にぞ思ひける。よきにつけても、幸五郞、たまたま道まで伴ひ来て、爰にも届かず打ち捨てしは、残り多きこそ、悲しけれ。大方、人も片付けるにや、「われも、来れ」と、つれて行く。此町にても、大家と見えし万店にぞ入りにける。
孫七は三千世界を回って来て、初めて人らしい風俗に出会い、どこかに自分も売りつけられたい、ここで売ってくれ、買ってくれと、心に思った。それにつけても、幸五郎がたまたま途中まで一緒に来ながら、ここまで届かずに打ち捨ててしまったのは、心残りで悲しい。だいたい人も片付いたのか、お前も来いと連れて行かれた。この町でも大家と見える万店に入った。
我、月代も、なで付くばかり、まだらかみに、色黒く、目の内、丸く、見出しければ、家内の上下、打ちつどひ、日本人のめづらしくや、仕事を止めて、ながめ居る。我も又、口、ゆがめ、眉をしばめて見せければ、常には勝手に出でぬ嫁、娘、笑ひに傾く。髪の飾り、観世音の様に見えける。かくて、主とおぼしき人、船のものと物語し、台所にて食事をさせ、夫より、船子は帰りける。
私は月代も撫でつけるばかりの斑髪で、色は黒く、目玉を丸くして見回したので、家中の上下が集まって、日本人が珍しいのか、仕事をやめて眺めている。私もまた口をゆがめ、眉をしかめて見せたので、ふだんは表に出て来ない嫁や娘が笑いこける。髪飾りは観世音のように見えた。こうして主人と思われる人が船の者と話をし、台所で食事をさせ、それから船の者は帰って行った。
家内の人数、廿四人。主人の名は「タイコンクワン」、妻の名は「キントン」といへり。年十八。この春、此家へ嫁に来りしと、きく。老母あり。主人の弟あり、「カンヘンクワン」といふ。手代頭「ハウテキ」、「ヒヤウコウ」のふたり。家内、よろづの裁判して、呉服を商ふ大店なり。外に下人十五人、その内「アルセン」、「モウセイ」、「カウセン」の三人は黒坊にて、朝夕の食事を、別所にて、つかみ喰ふ。下女「ハヒアララン」、「ウキン」、「コキン」の三人は、是も、遠国、黒坊の娘なり。
家の人数は二十四人。主人の名はタイコンクワン、妻の名はキントンといい、年は十八で、この春この家へ嫁に来たと聞いた。老母がいる。主人の弟がいて、カンヘンクワンという。手代頭はハウテキとヒャウコウの二人で、家のあらゆる差配をして、呉服を商う大店である。ほかに下人が十五人、そのうちアルセン、モウセイ、カウセンの三人は黒坊で、朝夕の食事を別の所でつかみ食いする。下女のハヒアララン、ウキン、コキンの三人も、遠国の黒坊の娘である。
我名を「日本」とよぶ。初のほどは、物毎に仕形計にて致させけるが、盆前なれば、いそがしく、「言葉を、習ヘ」と、手を取らへ、物をとらへて、「『コソサミヤア。』――『されば、なに。』と云ふものぞ」と、なり。「『チナウサミヤア』――『なにを、いたす。』」と、なり。先、二事を教へてより、其後は言葉をおぼえ、天竺口状、おぼえけり。
私の名を「日本」と呼んだ。初めのうちは何事も身ぶりで指図されたが、盆前で忙しいので、言葉を習えと、手を取ったり物を取ったりして、「コソサミヤア」は「それは何」ということ、「チナウサミヤア」は「何をする」ということだと教えた。まずこの二つを教えられてから、その後は言葉を覚え、天竺の口ぶりを覚えた。
主人も、家内も、慈悲ふかくして、常に勘弁を加へて、召仕はるる。『我が命あらん限りは。』心もとけて、仕へける。
主人も家の者も慈悲深く、いつも大目に見て使ってくれる。わが命のある限りはと、心もうちとけて仕えた。
光陰、夢と移り行き、七月も朔日になり、此所は、今夕より、門口に灯籠を灯し、霊具を備へ、猪、羊、鶏の肉を備へ、聖霊を祭ると見えにける。
光陰は夢のように移り、七月一日になった。この地では今夕から門口に灯籠をともし、供え物を備え、猪や羊や鶏の肉を供えて、亡き霊を祭ると見えた。
十五日の夕は、又々、寺々の御堂の庭に、大なるせがき棚を拵置き、町々、われわれより、五升、思ひ思ひ、分限相応に、飯を炊き、大鉢に高く盛り、五色の紙に、その家の仏の名を書き付け、竹の串に挟み、飯の上に是をさし、くわし(果子)、色々の肉を備へ、焼酒を器に入れ、施我鬼棚に備へける。寺より、大ぜい、僧、出て、読経あり。経、終りて後、若者、子供等、大ぜい集りて、備へし霊具を取り争ふ。持ちかへりて、家々の羊や犬に喰はせける。
十五日の夕方には、また寺々の御堂の庭に大きな施餓鬼棚をこしらえておき、町々ではわれわれの家からも五升、思い思いに分限相応に飯を炊いて大鉢に高く盛り、五色の紙にその家の仏の名を書きつけ、竹串に挟んで飯の上に挿し、菓子や色々の肉を供え、焼酎を器に入れて施餓鬼棚に供えた。寺から大勢の僧が出て読経がある。経が終わると、若者や子どもたちが大勢集まって、供えた品を奪い合う。持ち帰って家々の羊や犬に食わせた。
扨、十五日の夕ぐれより、一町々々、借合にして大筏を拵へて、前なる大河に浮べて、われわれより、大蝋そく、いくらともなく、火をともし、霊具共に持ち出だし、件の筏にならべける。火揃ふと、つなぎし筏を切り放せば、水に随ひ、ながれ行く。家々よりは仏の数、蜜蝋にて、一斤がけ、二斤がけも有りければ、風にも、雨にも、消えやらで、水上よりも、流れ来る。その火の光り、幾千万はるかの下まで見え渡るありさま、目をおどろかすばかりなり。扨、さまざまの踊あり、引物あり、賑やかなりし盆会なり。
さて十五日の夕暮れから、一町ごとに費用を出し合って大筏をこしらえ、前の大河に浮かべて、われわれの家からも大蝋燭を数え切れないほど火をともし、供え物とともに持ち出して、その筏に並べた。火がそろうと、つないだ筏を切り放すと、水に従って流れて行く。家々から出す仏の数だけ、蜜蝋で一斤がけ二斤がけのものもあるので、風にも雨にも消えず、川上からも流れて来る。その火の光が幾千万、はるか下流まで見渡せるさまは、目を驚かすばかりである。さて、さまざまな踊りがあり、引き物があり、にぎやかな盆会であった。
勿論、廟所は十三日の夕より、廿日の夕まで、灯籠をかけ、花を生うゑ、香をつぎ、毎夜の参詣、主人にも、父(テテ)親、なく、余人も、親の墓あれば、みな、如此すとぞ。
もちろん墓所では十三日の夕方から二十日の夕方まで灯籠をかけ、花を生け、香をたいて、毎夜参詣する。主人には父親がなく、ほかの人も親の墓があれば、みなこのようにするという。
同年の八月末に、近き町に、主人の一族あり。男、死し、我も、「家内の働に」とて、遣しける。その葬礼を見るに、棺は長さ一間、厚さ二寸の板を以て拵へ、径り二尺五寸の箱なり。内には金箔を敷き、ふとんを敷き、枕を置きて、死人には四重の衣装をかさねてきせ、あをのけに○せ、巾着、煙草の道具等を入れ、又、そのうへに、金箔を余分に置きて、蓋を釘にて打ち付け、染絹にて上をおほひ、墓所に、かき送るなり。
同じ年の八月末に、近くの町に主人の一族があって、男が死に、私も家の手伝いにと遣わされた。その葬礼を見ると、棺は長さ一間、厚さ二寸の板でこしらえ、差し渡し二尺五寸の箱である。中には金箔を敷き、布団を敷き、枕を置いて、死人には四重の衣装を重ねて着せ、あお向けに○せ、巾着や煙草道具などを入れ、またその上に金箔をたっぷり置いて、蓋を釘で打ちつけ、染め絹で上を覆い、墓所へかついで送るのである。
扨、地を少しほりて、棺を納め、𢌞り、白土にて「しつくい」し、上の石を板瓦にて葺き、頭を酉に埋みおき、石塔を立て、銘をほり、香花を備へて、是を、まつる。塀を見るに似たり。
さて、地面を少し掘って棺を納め、周りを白土で漆喰にし、上の石を板瓦で葺き、頭を西に向けて埋め、石塔を立てて銘を彫り、香華を供えて祭る。塀を見るのに似ている。
官ある人は、しらず、此町の人、みな、甲乙ありて、如此家には仏具をかざり、魚肉、鶏肉を備へて、妻子は、是を食はず。勿論、その妻子は、百日迄、仏間にこもり、白き絹をかづきて、香具、金箔をも焼きて、生前のありさまを、語り、なげくこと、甚、痛ましきありさまなり。只、金箔を余分に焼くを、「未来の為」と、いへり。子としては、百日、墓に参り、香花を備ふ。三年は喪をつつしみ、色の衣装をきせず、音曲の席に至らず、「これを、喪の中の礼とす」と、いへり。
官位のある人は知らないが、この町の人はみな甲乙があって、このような家では仏具を飾り、魚肉や鶏肉を供えて、妻子はこれを食べない。もちろんその妻子は百日まで仏間にこもり、白い絹をかぶって、香具や金箔をも焼き、生前のありさまを語って嘆くことは、たいそう痛ましいありさまである。ただ金箔を多く焼くのは、未来のためだという。子としては百日墓に参り、香華を供える。三年は喪を慎み、色物の衣装を着ず、音曲の席に行かず、これを喪中の礼とするという。
美成云、「喪中に金箔を多くたくが如きは、蓋、夷狄の俗なり。しかれども、登遐せず、且、三年の喪あり。親の喪の慎み、追慕の厚き、実に鄭魯の儒士と、何ぞ、別たん。誰か『諸夏のなきには、しかず』とや、いはまし」〔頭書。解云、金箔をたくは、楮銭冥衣を焼く類なり。今も長崎にて来舶人、神仏及び先霊を祭るに、金箔、銀箔をおしたる寸楮を、金銭、銀銭となづけて、たくなり。これらの祭奠、「礼記」に見えたり。その金箔をたくは、彼土に金多き故なるべし。〕
美成が言う。喪中に金箔を多く焼くようなことは、思うに異国の風俗である。しかしながら登遐の礼はなくとも、三年の喪がある。親の喪を慎み、追慕の厚いことは、まことに鄭や魯の儒者と何が違おうか。誰が「中国に及ばない」などと言えようか。〔頭書。解が言う。金箔を焼くのは、紙銭や紙の衣を焼くたぐいである。今も長崎で来航の唐人が神仏や先祖の霊を祭るとき、金箔銀箔を押した短冊を金銭銀銭と名づけて焼く。こうした祭りは『礼記』に見える。金箔を焼くのは、かの土地に金が多いからだろう。〕
主人にも、父なく、母ばかりなり。常に仏間に霊具を備ふるに、魚肉、焼酒を備へける。日に三度、仏前に向ひて、親に孝行なること、かたるに、言葉なし。外の家々も是に同じとぞ聞えし。ここも、暖国にて、常に、五、六月の気候なり。單物にて、冬もよし。もはやに、九月、至りぬれど、気候のかはる事も、おぼえず。九日の節句はなし。
主人にも父はなく、母ばかりである。いつも仏間に供え物を備え、魚肉や焼酎を供えていた。日に三度仏前に向かい、親に孝行なことは、言葉にならないほどである。ほかの家々も同じだと聞こえた。ここも暖かい国で、常に五、六月の気候である。単衣で冬も過ごせる。もはや九月になったが、気候の変わるのを感じない。九日の節句はない。
扨、野に出ては、十月の末に至り、二番稲あり。都て、山をひらきて、畑稲、多く飯に、油なく、三年米を喰ふに似たり。米は一升銭一文〔弐拾文銭。〕、獅子の絵あり。是よりも下直なる年、多し。三文銭は壱文銭より、少し大きし。銀目百目の金銭あり。阿蘭陀が走り舟(フネ)の絵あり。拾文銭は馬乗りあり。六十文銭は虎を画く。銀は七十文にかへる。金銭は、みな、阿蘭陀が持ち来る銭なり。
さて野に出ると、十月の末になって二番稲がある。すべて山を開いて畑稲が多く、飯に油気がなく、三年米を食べるのに似ている。米は一升で銭一文〔二十文銭〕で、獅子の絵がある。これよりも安い年が多い。三文銭は一文銭より少し大きい。銀目百目の金銭があり、オランダの走り船の絵がある。十文銭には馬乗りがあり、六十文銭には虎を描く。銀は七十文に替える。金銭はみなオランダ人が持って来る銭である。
美成云、「此にいふ所の銭、文を見ざれば、何れの国の銭といふことを、しるべからず。しかれども、西洋の銭は種類、甚、多し、獅子、走り船、騎馬等、くさぐあるが中に、獅子、尤、多し。虎といへるも、恐らくは獅子なるべし。猶、詳には、「西洋銭譜」を倂せ考ふべし」。
美成が言う。ここに言う銭は、銘文を見なければどこの国の銭か知ることができない。しかし西洋の銭は種類がたいそう多く、獅子、走り船、騎馬などいろいろあるうち、獅子がもっとも多い。虎というのも、おそらく獅子であろう。なお詳しくは『西洋銭譜』をあわせて考えるべきである。
又、此国に、「カハヤ」といふ鳥あり。是、燕に似て、少し大ぶりなり。この鳥の巣、川筋の岩窟の内に多し。その巣は、猿の腰懸に似て、甚、白し。くぼき内には、黒き羽などの付きたるもあり。此巣、いかなる薬やらん、おらんだより、入銀して、懸目壱斤に付、銀八十匁に代ふ。是により、国主より、みだりに取ることを禁ぜらるる。常に改の役人ありとぞ。
またこの国にカハヤという鳥がいる。燕に似て少し大ぶりである。この鳥の巣は、川筋の岩窟の中に多い。その巣は猿の腰掛けに似て、たいそう白い。くぼんだ内側には黒い羽などが付いたものもある。この巣がどんな薬になるのか、オランダから注文があって、目方一斤につき銀八十匁で買い取る。このため国主から、みだりに取ることを禁じられている。いつも検査の役人がいるという。
美成云、「ここにいへる巣は『燕窩』なり。「泉南雑志」に云、『閩之遠海近蕃処有ㇾ燕云々。海商聞二之土蕃一云。蚕螺背上肉有二両肋一如ㇾ楓。蚕糸堅潔而白。食ㇾ之可下補二虚損巳中労痢上。故此燕食ㇾ之。肉化而肋不ㇾ化。幷二津液一嘔出。結為二小窩一附二石上一。久ㇾ之与二小雛一鼓翼而飛。海人依ㇾ時拾ㇾ之。故曰二燕窩一。』。かく見ゆれば、此孫七がはなしと倂せて、その詳なることをしるに足れり〔頭書。解按に、燕窩の事、「茶余客話」に詳なり。倂せ考ふべし。又、唐山にて、宴会に燕窩を上菜となすと、清人の小説「鏡花縁」に見えたり。〕。
美成が言う。ここに言う巣は燕窩である。『泉南雑志』に、閩の遠い海の蕃地に近い所に燕がいる云々、海の商人が土地の者に聞くと、蚕螺の背の肉に二本の肋があって楓のようで、その糸は堅く白い、これを食べれば虚損や労痢を治す、だからこの燕がこれを食べ、肉は消化しても肋は消化せず、唾液とともに吐き出して小さな巣として石の上につけ、しばらくして小雛と羽ばたいて飛び去る、海人が時期を見てこれを拾う、だから燕窩と言う、とある。こう見えるので、この孫七の話とあわせて、その詳しいことを知るに足りる。〔頭書。解が按ずるに、燕窩のことは『茶余客話』に詳しい。あわせて考えるべきである。また中国では宴会に燕窩を最上の料理とすることが、清の人の小説『鏡花縁』に見える。〕
今年も浮世の浪にただよひて、十二月大晦日にぞ成りにける。先づ、客の間の天井に、唐草の華布を縫ひ合せてはらせつつ、壁のところも同じやうの木綿にて張り、町並の門口に、大灯籠を、夜な夜なともし明し、門戸を閉ぢて祝籠し、儀式なり。
今年も浮世の波にただよって、十二月の大晦日になった。まず客間の天井に唐草の華布を縫い合わせて張らせ、壁のところも同じような木綿で張り、町並みの門口に大灯籠を夜な夜なともし明かし、門戸を閉じて祝いこもるのが、儀式である。
偖、七つ頃より、衣服をあらため、町内、ちやうちんにて、年頭の礼に出で〔明和七年。〕、外より、「サラマツタ」といふ。内より、「ホリロワラ」と答ふ。銘々、名札を門口にはるもの、多し。又は、兄弟近き一族は、戸をあけて、内に入り、年頭の祝儀をのべ、焼酒、肴にて、いはひけり。勿論、元朝餅を広む。白餅あり、黒餅あり。餅米を粉にして、砂糖の水にて、是を、こね、又、蒸して臼にて搗き、餅にちぎるあり、押し平めて、切るも、ありけり。白餅は白砂糖、黒餅は黒砂糖なり。年始初入とおぼしき客、来り、一族の交り等、我邦の町家に同じ。
さて七つ時ごろから衣服を改め、町内を提灯で年頭の礼に出る〔明和七年〕。外から「サラマツタ」と言う。内から「ホリロワラ」と答える。銘々の名札を門口に貼る者が多い。あるいは兄弟や近い一族は戸を開けて中に入り、年頭の祝儀を述べ、焼酎と肴で祝う。もちろん元旦には餅をふるまう。白餅があり、黒餅がある。餅米を粉にして砂糖水でこね、また蒸して臼で搗き、餅にちぎるものもあれば、押し平めて切るものもある。白餅は白砂糖、黒餅は黒砂糖である。年始の初客と思われる人が来て、一族の交わりなど、わが国の町家と同じである。
三月三日は、節句、儀式はありながら、芥餅は、なし。五月五日は糯米を水に炊し、笹の葉に包むごとく、砂糖水にて、湯でるあり。又、砂糖水にてむすもあり。
三月三日は節句の儀式はあるが、よもぎ餅はない。五月五日は糯米を水で炊いて、笹の葉に包むように、砂糖水で茹でるものがある。また砂糖水で蒸すものもある。
扨、町内を売りありき、商人、品々を分つに、声をたてず。焼酒売は、さらを、すり、醬油売は、鈴をふり、或は肉物〔猪、羊、鶏。〕等には、大鼓を打ち、みな、荷ひ人をつれて、あるくもの、多し。
さて町内を売り歩く商人は、品々を区別するのに声を立てない。焼酎売りは皿をすり、醤油売りは鈴を振り、あるいは肉物〔猪、羊、鶏〕などには太鼓を打ち、みな担ぎ人を連れて歩く者が多い。
此所は黒坊の借地なれば、所のわかもの、常に来りて、我ままなることあり。去れども、町より、随ひける。常に盗賊事、絶えず、国主よりも、「打ち捨てにせよ」となり。主人も、我等に、剱一ふり、鉄砲、鎗等をわたし置くなり。町毎に、六人当り、毎夜、番を、つとむ。
この地は黒坊の借地なので、土地の若者がいつも来て、わがままなことがある。それでも町の言うことには従っていた。いつも盗賊が絶えず、国主からも「打ち捨てにせよ」とのことである。主人も私たちに剣を一振り、鉄砲や槍などを渡しておく。町ごとに六人ずつ、毎夜番を務める。
しかるに、此大河に、不思議なるもの、住みけり。其貌、絵にかける竜のごとく、くちびる、鼻かまち、いかめしく、左右に長き髭あり。耳ありて、竜の角なきばかりなり。手足、四つ。爪、四つ。尾先に鰭のごとき剱あり。うろこ厚く青く黒し。六尋、七尋より、十三尋を長とす。これを「ホアヤ」といふ。春のころ、岡に上りて、卵を產む。大さ、手まりの如く、三十六に極まる。卵、ひらきて後、二尋ばかりになりて、川に入る。親、これを追ひまはすこと、波を起し、水を蹶立て、すさまじく、あたりに居るを喰ひ殺し、やうやう、逃ぐるを、只、一つ残し置く。是を子として、大切に養育すること、類ひなし。子連のあたりを通る船あれば、甚、怒れる気色あり。人みな、船をよせず。暖国なれば、常に下々は昼夜に両三度も、川につかりて、水をつかひ、暑を凌ぐ。大海なれば、岸によせ、角柱を立てまはし通して、格子の如く構へて、災をのぞく用心せり。〔頭書。子連のあたりを云々、此文、語をなさず。子連て、あるくとき、このあたりを云々などありしが、字を脱せしなるべし。〕
ところで、この大河に不思議なものが住んでいた。その姿は絵に描く竜のようで、唇と鼻梁がいかめしく、左右に長い髭がある。耳があって、竜の角がないだけである。手足は四つ、爪は四つ。尾の先に鰭のような剣がある。うろこは厚く青黒い。六尋七尋から十三尋を最大とする。これをホアヤという。春のころ陸に上がって卵を産む。大きさは手まりほどで、三十六個と決まっている。卵がかえった後、二尋ばかりになって川に入る。親がこれを追い回すと、波を起こし水を蹴立ててすさまじく、あたりにいるものを食い殺し、ようやく逃げるのをただ一匹残しておく。これを子として大切に育てることは類がない。子連れのあたりを通る船があれば、ひどく怒る様子である。人はみな船を寄せない。暖かい国なので、いつも下々の者は昼夜に二、三度も川につかって水を使い、暑さをしのぐ。大河なので岸に寄せて、角柱を立て回して格子のように構え、災いを防ぐ用心をしていた。〔頭書。「子連のあたりを」云々は、この文が言葉をなしていない。「子連れて歩くとき、このあたりを」云々などとあったのが、字を落としたのだろう。〕
ある時、夜番のもの、暑をしのがんと、ひとり、かこひの内の水を浴みけるに、柱の朽ちたるを押しやぶりて、件の「ホアヤ」、内に入り、水より上らんとせし人を延上り、片足、股より、喰ひ切りける。悲しみ、「わつ」と、さけぶ声に、番人ども、追々にかけあつまり、声々に呼はりければ、町々より、大ぜい出で、松明、ちやうちんにて、是を見るに、夜中といひ、声々にさわぎける故にや、「ホアヤ」は、元の出口を失ひ、構の内を、うろたへける。鉄砲にて打つに、一矢も通らず。数十人、集り、棒にて、打ちなやし、熊手にかけて、引き上げけるに、七尋ばかり有りけり。腹のうろこ、少し赤く、舌はくれなゐ、眼、大きし。今迄、人を喰ひしこともなく、人も又「ホアヤ」を殺す事なかりしとぞ。
ある時、夜番の者が暑さをしのごうと、ひとりで囲いの中の水を浴びていると、柱の朽ちたところを押し破って例のホアヤが中に入り、水から上がろうとした人に伸び上がり、片足を股から食い切った。悲しみ、「わっ」と叫ぶ声に、番人たちが次々と駆け集まり、口々に呼ばわったので、町々から大勢が出て、松明や提灯でこれを見ると、夜中でもあり、口々に騒いだせいか、ホアヤは元の出口を失って、囲いの中をうろたえていた。鉄砲で撃つが一発も通らない。数十人が集まって棒で打ちのめし、熊手にかけて引き上げると、七尋ばかりあった。腹のうろこは少し赤く、舌は紅、目は大きい。今まで人を食ったこともなく、人もまたホアヤを殺すことはなかったという。
美成云、「この『ホアヤ』といふ魚は『鰐』なるべし。按ずるに、「翻訳名義集」に云、『善見云、「鰐魚長二丈余。有二四足一。似ㇾ鼉歯至利。禽鹿入ㇾ水。齧ㇾ腰。即断。又翻二殺子魚一。広州有ㇾ之」。』と。おもふに、其長さ、及、形状を『ホアヤ』と同じきうへに、『禽鹿をかみ断』といふも、そのさま、異ならず。しかのなみらず、『殺子魚』の名あること、此孫七が話なからましかば、得思ひとくまじきことぞかし。鰐の蛮名『カイマン』、又『コローコジ』など、いへり。『ホアヤ』も此地の方言なるべし。『鰐魚』の図、「紅毛雑話」に見えたり」。
美成が言う。このホアヤという魚は鰐であろう。考えるに、『翻訳名義集』に、『善見』に言う、鰐魚は長さ二丈余り、四足があり、鼉に似て歯がきわめて鋭く、鳥や鹿が水に入れば腰を噛んでたちまち断つ、また殺子魚とも訳す、広州にいる、とある。思うに、その長さと形状がホアヤと同じである上に、鳥や鹿を噛み切るというのも、そのさまが異ならない。そればかりでなく、殺子魚という名があることは、この孫七の話がなければ思い解くことができなかっただろう。鰐の蛮名はカイマン、またコローコジなどという。ホアヤもこの土地の方言であろう。鰐魚の図は『紅毛雑話』に見える。
当年の八月、主人の弟「カンヘンクワン」に、縁談、すみて、「けふ。吉日」とて、嫁迎の用意ありけり。先つ婿のかたより、嫁の所に送りける、その品々には、衣類を、三通り、箱に入れ〔祝儀には三重、不祝義は四重なり。〕、これ、一人にて、持ち、金の「指かぬ」六つ、手首にかくる金輪、二つ、箱にして、一人にて持ち、金のかんざし十二本、箱にして、一人にて持ち、金銭百二十文、箱にして、草履壱足、たび壱足、これまた、一人にて持ち、焼酒二瓶、台にすゑ、四人にて舁き、ろうそく二丁、弐人にて、これを持ち〔五十斤がけ。但、蜜蝋。〕、牝牡の猪二疋、鶏一番、家鴨一番、二人にて、是をはこび、仲人、婿、同道なる人、上下、十八人なり。嫁の方に参り、祝儀、調ひ、暮六つ時になりて、「嫁入」とぞ聞えし。
その年の八月、主人の弟カンヘンクワンに縁談がまとまり、今日が吉日だといって嫁迎えの用意があった。まず婿のほうから嫁のところへ送った品々には、衣類を三通り箱に入れ〔祝儀には三重、不祝儀は四重である〕、これを一人で持ち、金の指輪六つ、手首にかける金の輪二つを箱にして一人で持ち、金のかんざし十二本を箱にして一人で持ち、金銭百二十文を箱にして、草履一足、足袋一足、これもまた一人で持ち、焼酎二瓶を台に据えて四人でかつぎ、蝋燭二丁を二人で持ち〔五十斤がけ。ただし蜜蝋〕、牝牡の猪二匹、鶏一つがい、家鴨一つがいを二人で運び、仲人、婿、同道の人、上下十八人である。嫁の家に行き、祝儀が調い、暮れ六つ時になって「嫁入り」と聞こえた。
かくて、嫁のかたより、送りける其品々には、巾着一通り、是は、嫁の手づから縫ひ仕立たるを、婿に土產とす。狐々の毛を付し笠一つ、是も土產、衣装の入りし長箱壱つ、くくり枕六つ〔是、二通り。枕の長さ二尺。〕、婿の方より贈りし金銭二文をとめ置き、百八十文は返しける。此外、猪、鶏、家鴨、共に、男をとめ、女をかへし、双方に分ち、「料理に用ふ」と。いへり。大蝋燭二丁の内、一丁をとめ、一丁は返しける。
こうして嫁のほうから送った品々には、巾着一通り、これは嫁が手ずから縫い仕立てたものを婿への土産とする。狐の毛をつけた笠一つ、これも土産。衣装の入った長箱一つ、くくり枕六つ〔これは二通り。枕の長さ二尺〕。婿のほうから贈った金銭は二文をとどめ置き、百八十文は返した。このほか猪、鶏、家鴨はともに雄をとどめ、雌を返し、双方に分けて料理に使うという。大蝋燭二丁のうち一丁をとどめ、一丁は返した。
扨、嫁入は、同じ年齢の女中、二人は絹をかづき、嫁は顔をあらはして、右の十二本の笄を髪にかざり、手に金の輪をかけ、衣装をあらためて、天くわんをささせて、あるきける。目ざましきありさまなり。真先に件の大蝋燭ちやうちん二張、先後に灯す。同道十二人ばかり。扨、婿のかたには、一丁、返せし蝋燭をともし、半切に米をもり、その中に押し立て、町の門口にぞ、出だしける。嫁の灯し来りし夜〔此下、脱字あるべし。〕、一族は勿論、朋友、若もの、杯、めいめいに一斤がけ、半斤がけの蝋そく、持ち来り、火をともして祝儀をいひ、ろうそくを、嫁の部屋に持ち行き、「嫁を見ん」と、なり。後には、部屋にあまり、勝手、台所までともし、つらねけり。女子は、七歲より、戸外に出ださずして育て、今日、嫁入といふ、その夜は、ゆるして、顔を見するとぞ。飽まで、唄ひ舞して、帰りけり。
さて嫁入りは、同じ年ごろの女中二人が絹をかぶり、嫁は顔をあらわにして、例の十二本の笄を髪に飾り、手に金の輪をかけ、衣装を改めて、天冠をさして歩いた。目を見張るありさまである。真っ先に例の大蝋燭の提灯二張りを前後にともす。同道は十二人ばかり。さて婿のほうでは、一丁返した蝋燭をともし、半切りの桶に米を盛ってその中に押し立て、町の門口に出した。嫁のともし物が来た夜〔この下に脱字があるだろう〕、一族はもちろん、朋友や若者が、めいめい一斤がけ半斤がけの蝋燭を持って来て火をともし、祝儀を言い、蝋燭を嫁の部屋に持って行き、嫁を見ようというのである。後には部屋に入り切らず、勝手や台所までともし連ねた。女子は七歳から戸外に出さずに育て、今日嫁入りというその夜は、許して顔を見せるという。飽きるまで歌い舞って帰って行った。
去程に、孫七、思ひけるは、『此に落ち付きて、凡、六年の春秋を暮しける〔安永元年、同二年。〕。さのみくるしみもなく、不自由なることもなく、年を経たり。只、故郷の恋しきこと、起きても、寝ても、忘れがたし。つくづく思ひめぐらすに、此所の風俗、父母兄に孝行なること、うへなければ、我、父母には、わかれ、兄一人を、父とも、母とも、賴みつれど、かねて『二親あり』とかたりければ、弥、この事をかたらん。』と思ひ、まづ、主人の母親に語りけるやうは、「我、多年、ここに来り、御愍に預ること、此うへや候ふべき。されど、我、日本には二親ありて、我、行末を案じくらし候べし。折ふし、夢にも見えて候。願くは、一度、日本の地へ渡り、親どもの命あらん内に、一寸、逢ひ見なば、いかばかりか悅び候はん」と、かたりければ、老母も涙ぐみ、「道理也」とぞ、いひける。
そうするうちに、孫七が思ったのは、ここに落ち着いて、おおよそ六年の春秋を過ごした〔安永元年、同二年〕。さして苦しみもなく、不自由なこともなく年を経た。ただ故郷の恋しいことは、起きても寝ても忘れがたい。つくづく思いめぐらすと、この土地の風俗は、父母や兄に孝行なことこの上ないので、私は父母には別れ、兄一人を父とも母とも頼んで来たが、かねて「二親がいる」と話しておいたのだから、いよいよこのことを話そうと思い、まず主人の母親に語った。「私は長年ここに来て、ご慈愛にあずかること、これ以上はございません。けれども私は日本に二親がいて、私の行く末を案じて暮らしているはずです。折ふし夢にも見えます。願わくは一度日本の地へ渡り、親たちの命があるうちに、ひと目会えたなら、どれほど喜ぶことでしょう」と語ると、老母も涙ぐんで、「もっともだ」と言った。
此事、やがて、老母より、主人にかたりければ、阿蘭陀舟の出帆するに、主人、念頃に孫七を、たのみける。時、なるかな。時、来りて、この国をはなれ、九年の夏〔安永三年。〕午の四月十三日、家内にも、朋友にも、此世限りの暇乞、又、こん秋を賴むの扇だにも、鳴きてぞ、かへる、ふる郷のそら、心の底の嬉しさも、久敷馴染し旅の空、主人の情、ふかき江の、涙にくもる水鏡、芦わけ船の、竿さして、見かへり、見かへり、阿蘭陀がもと舟にこそ乗りにける。
このことをやがて老母から主人に語ったので、オランダ船が出帆するときに、主人はねんごろに孫七のことを頼んだ。時が来た。時が来てこの国を離れ、九年目の夏〔安永三年〕、午の年の四月十三日、家の者にも朋友にも、この世限りの暇乞いをし、また来る秋を頼む扇でさえも、鳴いて帰るという故郷の空、心の底の嬉しさも、長く馴染んだ旅の空、主人の情け深い入江の、涙に曇る水鏡、葦分け船に竿さして、見返り見返り、オランダの本船に乗った。
猶、この物語の前後の省けるところ、又、ここに記したる中にも、いささかづつの考、いと多けれど、ことごとく書きいでんも、わづらはしければ、今、又、贅せず。
なお、この物語の前後の省いたところや、ここに記した中にも、少しずつの考えはたいそう多いが、ことごとく書き出すのも煩わしいので、今はこれ以上付け加えない。
文政乙酉十月廿有三日山崎美成記
文政乙酉十月二十三日 山崎美成 記
解、云、「この本文のうち、鰐の『ホアヤ』の事、又、嫁のかたより草履、足袋、各一双づつ、婿へおくる事、この外にも、予が考あり。これらは別にしるすべし。
解が言う。この本文のうち、鰐のホアヤのこと、また嫁のほうから草履と足袋を各一足ずつ婿へ贈ること、このほかにも私の考えがある。これらは別に記すことにする。
原文 / 昭和女子大学本の字句を採り、正字体を保持、振り仮名を外す

孫七天竺物語抄

夫今にして古をしらんは書にしくべからず又居ながら夷狄の風俗をしるも亦書なりふるくは僧玄奘の西域記あり近くは張鵬翮の俄羅斯日記の如き目其事を視足その地に至れり此等の書實に徵とするに足れりといふべし其他歷史中載する所外國傳及諸書に散見するもの又むねと其事のみを記しゝ東西洋考西域聞見錄等の如きも多くはみな想像の言耳其中たまたま吾邦の事に及べるもの妄誕少からず槪してしるべし

扨吾邦の舟人時として颶風に吹きはなたれあらぬ國に別れるものゝ歸ることを得てものがたるはみな目擊のことながら一丁字をもわきまへぬ舟人なれば事物はもとより地名だに詳には得おぼえぬものゝみ痴人に夢を說くの思ひなきことあたはず

其中に孫七天竺物語といふ册子あり明和三年〔本書に壬午年とあり寶曆十二年也〕筑前國の船頭重右衞門といふもの伊勢丸といふ船に廿人のりにて漂流し數月海上にありて後こゝかしこの夷人の手にわたり果は孫七といふ者一人天竺にいたり商家に奉公して九年を經て安永三年八月十五日〔本書に明和七年とあり廿六日〕故鄕に歸り來て話せしを記したるにて地名人名はいふまでもあらず方言さへ詳に記したれば此册子こそ彼地の一斑をも窺ふべきものならんと一わたりよみかうがへつるに考據とすべきことなきにあらずこゝをもて今其天竺のことに及べるものをこゝに抄し且拙考の一二をも附記すといふ

六月〔明和六年〕の初のころ大船をしつらひてソウロク〔地名南天竺の内といふ〕の小港にぞ入りにける宿の主が案内してわれわれ二人〔孫七幸五郞〕を此舟につれ行きけりいかなる國に又もやと覺束なくも乘りにけるのり合には老若の女八人男は廿二人なり水主梶取のもの廿人都合乘組五十人いづくよりとも夢心地殘りし友のこと問へばさるに行方もしらざりける名殘をしくも見送り見送り沖津浪にぞ走りける

女を見れば枕も上らず淚かわかぬありさまをいかなる子細もしらざれども後に思ひ合すれば親にはなれ兄弟に別れし人を盜みて上荷に積み遠き國に賣りに行くその人々の心のうちこそ思ひやられて悲しけれ

舟には黑砂糖黑胡麻なりかくて日數も廿日あまり過ぎければ兄と賴みし幸五郞〔このもの伊勢丸乘組廿人の内孫七と此ものゝみなり〕何とやら煩ひ付き食事も絕えいろ靑ざめたのみすくなく見えにける死がいなりとも納めんと舟の者にいひければ海へ捨てよと仕かたするいと悲しくとや角いへど幸ひ泊り港にて岡近くてんまを寄せ手を添へてと賴みけれどつばきはきしてかぶりをする故是非なく是非なく獨して死がいを肩に岡へ上りかいにて砂をほりよきほどに納めてこそは船に乘る

思ひ暮して打ふすに船のもの氣遺うて又も煩ふかとて藥よ水よと世話すればしほれぬ體してくらしける行き向ふ船もたまたまにて見馴ぬ帆かけ吹き流し島も珍しく日本の道のりにて海上凡弐千里ほど日數も已に四十二日しけにも逢はず船はゆくゆくみなととおぼしき川口に十里ばかりぞ登りける

やがて瓦の軒見れば碇を入れててんまをおろし三十人の男女を乘せ岡のかたにぞ着にける舟方は十人ばかり岡に上りて宿を極め町々所々に人を賣りつけしとぞ聞えける

此所は中天竺黑房の國にてカイタニといふ國にしてバンシヤラマアンといふ處とかやいつの頃よりか始まりけん中華南京福州山東の商人出店して借地なり家作りはみな瓦葺富家も多し町々總いたばりにして往來の人土をふむことなし諸國の唐船出入をあらそひおらんだ船も入津して繁昌なるみなとなり後には山もあり里々廣く打ち續きて前には大河あり渡り二里ありて甚深し大船岸ちかくつなぎならべて水の流れなほ靜に見え關戶小倉の海の如し川上は南天竺龍砂の下まで續きてその流幾千里といふことをしらずとかや此處の町家千四五百軒みな商家なり人の形きれいにして衣類にも目をさましける

孫七三千世界を𢌞り來て初めて人の風俗に逢ひ何れに我も賣り付くべしこゝにうれかし買へかしと心にぞ思ひけるよきにつけても幸五郞たまたま道まで伴ひ來て爰にも屆かず打ち捨てしは殘り多きこそ悲しけれ大方人も片付けるにやわれも來れとつれて行く此町にても大家と見えし萬店にぞ入りにける

我月代もなで付くばかりまだらかみに色黑く目の内丸く見出しければ家内の上下打ちつどひ日本人のめづらしくや仕事を止めてながめ居る我も又口ゆがめ眉をしばめて見せければ常には勝手に出でぬ嫁娘笑ひに傾く髮の飾り觀世音の樣に見えけるかくて主とおぼしき人船のものと物語し臺所にて食事をさせ夫より船子は歸りける

家内の人數廿四人主人の名はタイコンクワン妻の名はキントンといへり年十八この春此家へ嫁に來りしときく老母あり主人の弟ありカンヘンクワンといふ手代頭ハウテキヒヤウコウのふたり家内よろづの裁判して吳服を商ふ大店なり外に下人十五人その内アルセンモウセイカウセンの三人は黑坊にて朝夕の食事を別所にてつかみ喰ふ下女ハヒアラヽンウキンコキンの三人は是も遠國黑坊の娘なり

我名を日本とよぶ初のほどは物每に仕形計にて致させけるが盆前なればいそがしく言葉を習ヘと手を取らへ物をとらへてコソサミヤア――さればなにと云ふものぞとなりチナウサミヤア――なにをいたすとなり先二事を敎へてより其後は言葉をおぼえ天竺口狀おぼえけり

主人も家内も慈悲ふかくして常に勘辨を加へて召仕はるゝ我が命あらん限りは心もとけて仕へける

光陰夢と移り行き七月も朔日になり此所は今夕より門口に燈籠を燈し靈具を備へ猪羊鷄の肉を備へ聖靈を祭ると見えにける

十五日の夕は又々寺々の御堂の庭に大なるせがき棚を拵置き町々われわれより五升思ひ思ひ分限相應に飯を炊き大鉢に高く盛り五色の紙にその家の佛の名を書き付け竹の串に挾み飯の上に是をさしくわし(果子)色々の肉を備へ燒酒を器に入れ施我鬼棚に備へける寺より大ぜい僧出て讀經あり經終りて後若者子供等大ぜい集りて備へし靈具を取り爭ふ持ちかへりて家々の羊や犬に喰はせける

扨十五日の夕ぐれより一町々々借合にして大筏を拵へて前なる大河に浮べてわれわれより大蠟そく幾ともなく火をともし靈具共に持ち出だし件の筏にならべける火揃ふとつなぎし筏を切り放せば水に隨ひながれ行く家々よりは佛の數蜜蠟にて一斤がけ二斤がけも有りければ風にも雨にも消えやらで水上よりも流れ來るその火の光り幾千萬はるかの下まで見え渡るありさま目をおどろかすばかりなり扨さまざまの踊あり引物あり賑やかなりし盆會なり

勿論廟所は十三日の夕より廿日の夕まで燈籠をかけ花を生うゑ香をつぎ每夜の參詣主人にも父(テヽ)親なく餘人も親の墓あればみな如此すとぞ

同年の八月末に近き町に主人の一族あり男死し我も家内の働にとて遣しけるその葬禮を見るに棺は長さ一間厚さ二寸の板を以て拵へ徑り二尺五寸の箱なり内には金箔を敷きふとんを敷き枕を置きて死人には四重の衣裝をかさねてきせあをのけに○せ巾着煙草の道具等を入れ又そのうへに金箔を餘分に置きて葢を釘にて打ち付け染絹にて上をおほひ墓所にかき送るなり

扨地を少しほりて棺を納め𢌞り白土にてしつくいし上の石を板瓦にて葺き頭を酉に埋みおき石塔を立て銘をほり香花を備へて是をまつる塀を見るに似たり

官ある人はしらず此町の人みな甲乙ありて如此家には佛具をかざり魚肉鷄肉を備へて妻子は是を食はず勿論その妻子は百日迄佛間にこもり白き絹をかづきて香具金箔をも燒きて生前のありさまを語りなげくこと甚痛ましきありさまなり只金箔を餘分に燒くを未來の爲といへり子としては百日墓に參り香花を備ふ三年は喪をつゝしみ色の衣裝をきせず音曲の席に至らずこれを喪の中の禮とすといへり

美成云喪中に金箔を多くたくが如きは蓋夷狄の俗なりしかれども登遐せず且三年の喪あり親の喪の愼み追慕の厚き實に鄭魯の儒士と何ぞ別たん誰か諸夏のなきにはしかずとやいはまし〔頭書解云金箔をたくは楮錢冥衣を燒く類なり今も長崎にて來舶人神佛及び先靈を祭るに金箔銀箔をおしたる寸楮を金錢銀錢となづけてたくなりこれらの祭奠禮記に見えたりその金箔をたくは彼土に金多き故なるべし〕

主人にも父なく母ばかりなり常に佛間に靈具を備ふるに魚肉燒酒を備へける日に三度佛前に向ひて親に孝行なることかたるに言葉なし外の家々も是に同じとぞ聞えしこゝも暖國にて常に五六月の氣候なり單物にて冬もよしもはやに九月至りぬれど氣候のかはる事もおぼえず九日の節句はなし

扨野に出ては十月の末に至り二番稻あり都て山をひらきて畑稻多く飯に油なく三年米を喰ふに似たり米は一升錢一文〔弐拾文錢〕獅子の繪あり是よりも下直なる年多し三文錢は壱文錢より少し大きし銀目百目の金錢あり阿蘭陀が走り舟(フネ)の繪あり拾文錢は馬乘りあり六十文錢は虎を畫く銀は七十文にかへる金錢はみな阿蘭陀が持ち來る錢なり

美成云此にいふ所の錢文を見ざれば何れの國の錢といふことをしるべからずしかれども西洋の錢は種類甚多し獅子走り船騎馬等くさぐあるが中に獅子尤多し虎といへるも恐らくは獅子なるべし猶詳には西洋錢譜を倂せ考ふべし

又此國にカハヤといふ鳥あり是燕に似て少し大ぶりなりこの鳥の巢川筋の岩窟の内に多しその巢は猿の腰懸に似て甚白しくぼき内には黑き羽などの付きたるもあり此巢いかなる藥やらんおらんだより入銀して懸目壱斤に付銀八十匁に代ふ是により國主よりみだりに取ることを禁ぜらるゝ常に改の役人ありとぞ

美成云こゝにいへる巢は燕窩なり泉南雜志に云閩之遠海近蕃處有ㇾ燕云々海商聞二之土蕃一云蠶螺背上肉有二兩肋一如ㇾ楓蠶絲堅潔而白食ㇾ之可下補二虛損巳中勞痢上故此燕食ㇾ之肉化而肋不ㇾ化幷二津液一嘔出結爲二小窩一附二石上一久ㇾ之與二小雛一鼓翼而飛海人依ㇾ時拾ㇾ之故曰二燕窩一かく見ゆれば此孫七がはなしと倂せてその詳なることをしるに足れり〔頭書解按に燕窩の事茶餘客話に詳なり倂せ考ふべし又唐山にて宴會に燕窩を上菜となすと淸人の小說鏡花緣に見えたり〕

今年も浮世の浪にたゞよひて十二月大晦日にぞ成りにける先づ客の間の天井に唐草の華布を縫ひ合せてはらせつゝ壁のところも同じやうの木綿にて張り町並の門口に大燈籠を夜な夜なともし明し門戶を閉ぢて祝籠し儀式なり

偖七つ頃より衣服をあらため町内ちやうちんにて年頭の禮に出で〔明和七年〕外よりサラマツタといふ内よりホリロワラと答ふ銘々名札を門口にはるもの多し又は兄弟近き一族は戶をあけて内に入り年頭の祝儀をのべ燒酒肴にていはひけり勿論元朝餠を廣む白餠あり黑餠あり餠米を粉にして砂糖の水にて是をこね又蒸して臼にて搗き餠にちぎるあり押し平めて切るもありけり白餠は白砂糖黑餠は黑砂糖なり年始初入とおぼしき客來り一族の交り等我邦の町家に同じ

三月三日は節句儀式はありながら芥餠はなし五月五日は糯米を水に炊し笹の葉に包むごとく砂糖水にて湯でるあり又砂糖水にてむすもあり

扨町内を賣りありき商人品々を分つに聲をたてず燒酒賣はさらをすり醬油賣は鈴をふり或は肉物〔猪羊鷄〕等には大鼓を打ちみな荷ひ人をつれてあるくもの多し

此所は黑坊の借地なれば所のわかもの常に來りて我まゝなることあり去れども町より隨ひける常に盜賊事絕えず國主よりも打ち捨てにせよとなり主人も我等に剱一ふり鐵砲鎗等をわたし置くなり町每に六人當り每夜番をつとむ

しかるに此大河に不思議なるもの住みけり其貌繪にかける龍のごとくくちびる鼻かまちいかめしく左右に長き髭あり耳ありて龍の角なきばかりなり手足四つ爪四つ尾先に鰭のごとき剱ありうろこ厚く靑く黑し六尋七尋より十三尋を長とすこれをホアヤといふ春のころ岡に上りて卵を產む大さ手まりの如く三十六に極まる卵ひらきて後二尋ばかりになりて川に入る親これを追ひまはすこと波を起し水を蹶立てすさまじくあたりに居るを喰ひ殺しやうやう迯ぐるを只一つ殘し置く是を子として大切に養育すること類ひなし子連のあたりを通る船あれば甚怒れる氣色あり人みな船をよせず暖國なれば常に下々は晝夜に兩三度も川につかりて水をつかひ暑を凌ぐ大海なれば岸によせ角柱を立てまはし通して格子の如く搆へて災をのぞく用心せり〔頭書子連のあたりを云々此文語をなさず子連てあるくときこのあたりを云々などありしが字を脫せしなるべし〕

ある時夜番のもの暑をしのがんとひとりかこひの内の水を浴みけるに柱の朽ちたるを押しやぶりて件のホアヤ内に入り水より上らんとせし人を延上り片足股より喰ひ切りける悲しみわつとさけぶ聲に番人ども追々にかけあつまり聲々に呼はりければ町々より大ぜい出で松明ちやうちんにて是を見るに夜中といひ聲々にさわぎける故にやホアヤは元の出口を失ひ搆の内をうろたへける鐵砲にて打つに一矢も通らず數十人集り棒にて打ちなやし熊手にかけて引き上げけるに七尋ばかり有りけり腹のうろこ少し赤く舌はくれなゐ眼大きし今迄人を喰ひしこともなく人も又ホアヤを殺す事なかりしとぞ

美成云このホアヤといふ魚は鰐なるべし按ずるに飜譯名義集に云善見云鰐魚長二丈餘有二四足一似ㇾ鼉齒至利禽鹿入ㇾ水齧ㇾ腰卽斷又翻二殺子魚一廣州有ㇾ之とおもふに其長さ及形狀をホアヤと同じきうへに禽鹿をかみ斷といふもそのさま異ならずしかのなみらず殺子魚の名あること此孫七が話なからましかば得思ひとくまじきことぞかし鰐の蠻名カイマン又コローコジなどいへりホアヤも此地の方言なるべし鰐魚の圖紅毛雜話に見えたり

當年の八月主人の弟カンヘンクワンに緣談すみてけふ吉日とて嫁迎の用意ありけり先つ聟のかたより嫁の所に送りけるその品々には衣類を三通り箱に入れ〔祝儀には三重不祝義は四重なり〕これ一人にて持ち金の指かぬ六つ手首にかくる金輪二つ箱にして一人にて持ち金のかんざし十二本箱にして一人にて持ち金錢百二十文箱にして草履壱足たび壱足これまた一人にて持ち燒酒二甁臺にすゑ四人にて舁きろうそく二丁弐人にてこれを持ち〔五十斤がけ但蜜蠟〕牝牡の猪二疋鷄一番家鴨一番二人にて是をはこび仲人聟同道なる人上下十八人なり嫁の方に參り祝儀調ひ暮六つ時になりて嫁入とぞ聞えし

かくて嫁のかたより送りける其品々には巾着一通り是は嫁の手づから縫ひ仕立たるを聟に土產とす狐々の毛を付し笠一つ是も土產衣裝の入りし長箱壱つくゝり枕六つ〔是二通り枕の長さ二尺〕聟の方より贈りし金錢二文をとめ置き百八十文は返しける此外猪鷄家鴨共に男をとめ女をかへし双方に分ち料理に用ふといへり大蠟燭二丁の内一丁をとめ一丁は返しける

扨嫁入は同じ年齡の女中二人は絹をかづき嫁は顏をあらはして右の十二本の笄を髮にかざり手に金の輪をかけ衣裝をあらためて天くわんをさゝせてあるきける目ざましきありさまなり眞先に件の大蠟燭ちやうちん二張先後に燈す同道十二人ばかり扨聟のかたには一丁返せし蠟燭をともし半切に米をもりその中に押し立て町の門口にぞ出だしける嫁の燈し來りし夜〔此下脫字あるべし〕一族は勿論朋友若もの盃めいめいに一斤がけ半斤がけの蠟そく持ち來り火をともして祝儀をいひろうそくを嫁の部屋に持ち行き嫁を見んとなり後には部屋にあまり勝手臺所までともしつらねけり女子は七歲より戶外に出ださずして育て今日嫁入といふその夜はゆるして顏を見するとぞ飽まで唄ひ舞して歸りけり

去程に孫七思ひけるは此に落ち付きて凡六年の春秋を暮しける〔安永元年同二年〕さのみくるしみもなく不自由なることもなく年を經たり只故鄕の戀しきこと起きても寢ても忘れがたしつくづく思ひめぐらすに此所の風俗父母兄に孝行なることうへなければ我父母にはわかれ兄一人を父とも母とも賴みつれどかねて二親ありとかたりければ彌この事をかたらんと思ひまづ主人の母親に語りけるやうは我多年こゝに來り御愍に預ること此うへや候ふべきされど我日本には二親ありて我行末を案じくらし候べし折ふし夢にも見えて候願くは一度日本の地へ渡り親どもの命あらん内に一寸逢ひ見なばいかばかりか悅び候はんとかたりければ老母も淚ぐみ道理也とぞいひける

此事やがて老母より主人にかたりければ阿蘭陀舟の出帆するに主人念頃に孫七をたのみける時なるかな時來りてこの國をはなれ九年の夏〔安永三年〕午の四月十三日家内にも朋友にも此世限りの暇乞又こん秋を賴むの扇だにも鳴きてぞかへるふる鄕のそら心の底の嬉しさも久敷馴染し旅の空主人の情ふかき江の淚にくもる水鏡蘆わけ船の竿さして見かへり見かへり阿蘭陀がもと舟にこそ乘りにける

猶この物語の前後の省けるところ又こゝに記したる中にもいさゝかづゝの考いと多けれどことごとく書きいでんもわづらはしければ今又贅せず

文政乙酉十月廿有三日山崎美成記

解云この本文のうち鰐のホアヤの事又嫁のかたより草履足袋各一双づゝ聟へおくる事この外にも予が考ありこれらは別にしるすべし

注

写本の位置
写本は3166の4カット目左ページから15カット目右ページまで。4カット目左ページに題「孫七天竺物語抄」があり、15カット目右ページに「文政乙酉十月廿有三日 山崎美成記」の署名と馬琴の「解云」の追記がある。15カット目左ページの冒頭に「兎園小説第十一集」の見出しが立ち、次の話「蝦夷靈龜」が始まる。
注記
披講者は目録に「好問堂」。本文の署名は山崎美成で、好問堂は美成の号。
校合
「猪羊鷄の肉を備へ」は写本を原寸で確かめた。活字本系テキストの「内」は採らない。
校合
主人の名「タイコンクワン」は写本を原寸で確かめた。活字本系の「タイゴンクワン」は採らない。主人の弟の名は写本で二か所とも「カンヘンクワン」と読める。活字本系の後の方の「カンヘンカン」は採らない。
注記
「幾ともなく」は写本の表記で、「幾」の右に朱で「イクラ」の振り仮名がある。読みやすい本文では「いくらともなく」とした。
校合
「あをのけに○せ」の○は写本に円が書かれている箇所で、判読できない字を書き手が空けたものとみられる。活字本系の「採せ」は採らず、写本の形を残した。
校合
「銀八十匁」は写本の読み。活字本系の「八十刄」は「匁」の誤りとみられる。
判読保留
「阿蘭陀」は写本の字形を「蘭」と読んだが、活字本系は三か所とも「阿荼陀」とする。字形の確認が十分でないので判読保留。
校合
「銀は七十文にかへる」の「る」は写本の読み。活字本系は「かへ、」で切る。原寸では確かめていない。
校合
「嫁の燈し來りし夜〔此下脫字あるべし〕」の割注は写本にあり、活字本系テキストにはない。
校合
「解云 金箔をたくは…」「解按に燕窩の事…」「子連のあたりを云々…」の三つは、写本では本文の上欄に小字で書かれた頭書で、〔頭書 …〕として該当する段落の末尾に置いた。活字本系はこれらを本文中の割注にし、「子連のあたりを」の後に「此處落字ある歟」の割注も入れるが、写本の本文にはその割注を確認できなかった。
判読保留
「安永三年八月十五日」の傍注は写本で「本書に明和七年とあり」の後に小字二字と「廿六日」が続く。小字二字は判読できず判読保留。
校合
「是非なく、是非なく」の繰り返しと「ホリロワラ」の表記は写本の当該箇所を原寸で確かめていない。活字本系のままにする。
注記
4カット目左ページの「西域聞見錄」の「域」は、写本では朱で書き直した字がある。ほかにも朱の振り仮名と訂正が数か所ある。
注記
泉南雑志と翻訳名義集の引用は漢文で、写本には返り点がある。原文欄では返り点を外し白文にした。
校合
私家版は1記事。題は「「孫七天竺物語」抄」。

AI試訳 / 専門家未校閲