雲亭日本古典図書室収録作品の一覧

明善堂討論記

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兎園小説 / 曲亭馬琴ほか 兎園会の会員 / 第十一集 第9話 / 乾斎 中井豊民

明善堂の会読で伯夷叔斉の薇と孟子の一夫紂、管仲の功業をめぐり門人と櫟葉散人が論じ合う。

本文 現代語訳

明善堂討論記
明善堂討論記
文政七禩六月朔日。予与門人敬斎、强斎、謙斎、昌斎、笠斎。約為会読。預期自暁七鼓而始。至黄昏而終也。適予友櫟葉散人。携其徒十数人来共討論。乃記其言蔵諸篋笥云。
文政七年六月一日、私は門人の敬斎、強斎、謙斎、昌斎、笠斎とともに会読を行う約束をした。あらかじめ明け七つに始めて日暮れに終わると決めておいた。たまたま私の友人の櫟葉散人が門人十数人を連れて来て、ともに討論した。そこでその言葉を記して箱にしまっておいたのである。
六月一日。晨各蓐食。巣於明善堂。天将暁。月未落。焚篝灯倚几案。櫟葉散人忽到。散人者武州金杉根岸人。常好読日本記事。其於正史稗説。無所不研究。能弁我邦治乱。論其興廃。言辞滔滔。若决江河。若驟雨暴至。沛然無禦之者。以予酷好西土書策。毎往来会読難問。
六月一日、朝、それぞれ早めに食事を済ませて明善堂に集まった。空はまだ明けきらず月も落ちていない。篝灯をともし、机にもたれていると、櫟葉散人が突然やって来た。散人は武州金杉根岸の人で、日本の記録を好んで読み、正史でも稗史でも研究しないものはない。わが国の治乱をよく論じ、その興廃を語る弁舌は滔々として、堤を切った大河のよう、にわか雨が激しく降り注ぐようで、さえぎれる者はいない。私が中国の書物を酷愛しているので、いつも行き来しては会読し、難問を出し合っていた。
此日方読史記伯夷伝。櫟葉曰。嗚乎。夷斉。不食周粟而餓則可也。何輒食其土薇。詩曰。普天之下。莫非王土。薇亦非周土之生乎。夷斉之義。不食周粟。則薇亦不可食焉。孔子方称夷斉賢。吾甚感焉。且孟子論武王曰。聞誅一夫紂。未聞弑君。孟子何出此言也。夫紂雖無道而親戚背之。猶為天子也。安得等之匹夫乎。
この日はちょうど『史記』伯夷伝を読んでいた。櫟葉が言った。「ああ、伯夷と叔斉は周の粟を食わずに餓えたというなら、それでよい。だがなぜ周の土地の薇を食べたのか。『詩経』に、普天の下、王土でないものはないという。薇もまた周の土地に生えたものではないか。伯夷叔斉の義として周の粟を食わないのなら、薇もまた食べてはならないはずだ。孔子はそれでも伯夷叔斉を賢と称した。私はここが大いに腑に落ちない。それに孟子は武王を論じて、一夫の紂を誅したとは聞いたが君を弑したとは聞かない、と言う。孟子はなぜこんなことを言うのか。紂は無道で親戚にも背かれたとはいえ、なお天子である。どうして匹夫と同列にできようか」。
敬斎揖櫟葉而進曰。甚哉。子言之過高也。夷斉不食周粟。乃是夷斉之僻。孟子所以為隘之也。足下不知其為僻。而貴食其薇。足下亦是僻之又僻耳。必如足下言。則雖巣父許由卞隋務光。未以嗛於足下心也。若其充足下之心者。其於陵陳仲子乎。所謂蚓而充橾者。我孟子之所不取也。足下坐未嘗読聖経。是故出此言。退読聖人之書。而後会我輩。
敬斎が櫟葉に一礼して進み出て言った。「ひどいものだ。あなたの言は高きに過ぎる。伯夷叔斉が周の粟を食わなかったのは、伯夷叔斉の偏りである。孟子が狭いと評したのはそのためだ。あなたはそれが偏りだと知らずに、薇を食べたことを咎める。あなたもまた偏りの上に偏った人だ。あなたの言うとおりなら、巣父や許由、卞随や務光でさえ、あなたの心を満たすには足りまい。あなたの心を満たすのは、於陵の陳仲子くらいのものか。いわゆる蚯蚓になってはじめて操を満たす者で、わが孟子が採らなかったところだ。あなたはまだ聖人の経書を読んだことがない。だからこんなことを言う。退いて聖人の書を読んでから、われわれと会いなさい」。
强斎在側。抗然大言曰。二子之言皆失矣。二子愕然曰。何。强斎曰。夫道一而已。分為二為三以往。復散為千為万。故有陰則有陽。有剛則有柔。有君必有臣。有仁必有義。其所遇或異。則其所行亦殊。是以事雖万殊。於其帰道一也。譬之忠質文。三代所向不同。其及合於礼。未嘗同也。武王之伐紂。夷斉之諫武王。其迹雖異。各尽其道。始非有二致也。武王見天下之溺。不極之。不免楊朱為我之謗。夷斉扣馬諫。不免賊其君之誚。聖賢之心。無所偏倚。随物而応者。孰不規矩。何不準繩。以夷斉之準繩論武王。而曰不平。曰不直。亦其宜也。以武王之規矩。議夷斉。而曰出方円之外復亦其宜也。又譬之。武王之徳。大陽之輝也。夷斉之行。大陰之光也。微武王不能為夷斉之光。武王亦不得夷斉。則不得著。其徳輝也。二聖之在天下。猶日月之互行。而不相戾也。孔子盛称之。不亦宜乎。蓋孔孟之所毀誉。必有所試。又何疑其言。然足下疑孟子命紂為一夫。是何其意也。紂雖称天子。親戚衆臣。及四海内。無一人助之者。則非一夫何。著者宋高宗。亦与足下同癖。問時碩儒尹焞曰。孟子何以謂之一夫紂。尹焞対曰。此非孟子之言。武王牧師之辞也。曰。独夫受。洪惟作威。由是観之。孟子非敢新言之。仮令孟子言之。孟子聖人也。如何廃其言乎。足下実有蓬心乎。吾丁寧反覆雖頻提子耳。而大声告之。子固褒如充耳。豈有益其是非乎。如子之人。謂之兼襲与瞽宜哉。不得其観日月之光。聞大雅之音。
強斎がそばにいて、声を張り上げて言った。「お二人の言はどちらも誤りだ」。二人が驚いて「なぜか」と言うと、強斎は言った。「道は一つである。分かれて二となり三となり、さらに散じて千となり万となる。だから陰があれば陽があり、剛があれば柔があり、君があれば必ず臣があり、仁があれば必ず義がある。出会う場が異なれば行いもまた異なる。だから事は万別でも、帰するところの道は一つだ。たとえば忠と質と文は、夏殷周の三代で向かうところが異なるが、礼にかなう点では変わらない。武王が紂を伐ったことも、伯夷叔斉が武王を諫めたことも、跡は異なるがそれぞれ道を尽くしており、もとより二つの帰結があるわけではない。武王が天下の溺れるのを見て手を尽くさなければ、楊朱の為我のそしりを免れない。伯夷叔斉が馬を引き止めて諫めなければ、君を害したとの非難を免れない。聖賢の心は偏らず、物に応じて動くのだから、規矩に合わず準縄に合わないことがあろうか。伯夷叔斉の準縄で武王を論じて、平らでない、直くないと言うのは、それも当然だ。武王の規矩で伯夷叔斉を論じて、方円の外に出ていると言うのも、また当然だ。またたとえれば、武王の徳は太陽の輝きで、伯夷叔斉の行いは太陰の光だ。武王がいなければ伯夷叔斉の光はなく、武王も伯夷叔斉がいなければ、その徳の輝きを著すことができない。二聖が天下にあるのは、日月が交互に巡ってたがいに背かないようなものだ。孔子が盛んに称えたのも、もっともではないか。そもそも孔子孟子の毀誉には必ず根拠があり、どうしてその言を疑うことがあろう。それなのにあなたは、孟子が紂を一夫と呼んだことを疑う。どういうつもりか。紂は天子と称したが、親戚も臣下も四海の内の誰ひとり助ける者がなかった。それを一夫と言わずに何と言う。むかし宋の高宗も、あなたと同じ癖があった。当時の大儒尹焞に、孟子はなぜ紂を一夫と言うのかと問うと、尹焞は答えた。これは孟子の言葉ではなく、武王の牧誓の言葉です。独夫の受、大いに威を作す、と。これで見れば、孟子は新しく言い出したのではない。かりに孟子が言い出したとしても、孟子は聖人である。どうしてその言を廃せようか。あなたはよほど心がふさがっているのか。私が丁寧に繰り返し、あなたの耳を引っ張って大声で告げても、あなたは耳をふさいだまま。それでは是非を知る益があろうか。あなたのような人は、耳が聞こえず目が見えないと言われても仕方あるまい。日月の光を見ず、大雅の音を聞かないのだから」。
於是三人相争相怒。或瞋目或握拳喧豗良久。謙斎猶然笑。徐々前席曰。三子之言。倶有理。雖然未得其所処也。夫聖之道。區以別之。則有時者。有任者。有和者。如清者。如伯夷者。所謂聖之清者耳。伯夷之好清潔。猶顔子之好学。伯倫之嗜酒也。天地開闢一人也。
こうして三人はたがいに争い怒り、目を怒らせ拳を握って、しばらく騒ぎ立てた。謙斎はにこにこ笑って、ゆっくり席を進めて言った。「三人の言はどれも理がある。しかしそれぞれの立ち位置をつかんでいない。聖人の道を区別すれば、時の聖人があり、任の聖人があり、和の聖人があり、清の聖人がある。伯夷は、いわゆる聖の清なる者である。伯夷が清潔を好んだのは、顔子が学を好み、劉伯倫が酒を好んだのと同じで、天地開闢以来ただひとりの人だ」。
於是櫟葉又怒曰。子嘗孟子之余唾。将折我言。雖孟子再生来。我猶将説却之。亦况於足下輩乎。退哉退哉。謙斎亦怒。四人猶戦場争死生。市中貪羸利也。
すると櫟葉がまた怒って言った。「あなたは孟子の唾の残りを嘗めて、私の言を折ろうとする。孟子が生き返って来ても、私はなお言い負かしてやる。ましてあなたがたなど。退け、退け」。謙斎も怒った。四人は戦場で生死を争い、市中で小さな利をむさぼるような有様だった。
乾斎曰。予有一説。足下輩安意聴之。四人同曰。如何。乾斎曰。尽信書不如無書。書且尚疑之。則史記不能無疑焉。吾聞之。史記者大史公之未定之書。而且多攙入。今取一二証之。其攙入者。司馬相如伝賛曰。揚雄以為靡麗之賦。勧百諷一。趙翼弁駁之日。雄乃哀平王莽之時人。史遷固武帝時之人。而何由得預知百年下揚雄者。又自在岐互処。朱建伝謂。黥布欲反。建諫之不聴。事在黥布伝中。今黥布伝無此語。是亦古人弁駁之。由此観之。未定之書。未足信之矣。雖然如伯夷伝。明確高論。非後人攙入。唯夷斉叩馬而諫之事。殊不経見。則疑是流伝之言。若果為流伝之言。未足信之也。且明王直弁駁也。子輩知之乎。若未則熟視之。察之而後正其是非。蓋争者事之末。其言雖有義理。終損君子之操。願暫聴吾説。莫〔頭書 莫当作勿。〕争莫譁。於是坐中哄然笑。読如故。
乾斎が言った。「私に一つの説がある。あなたがたは落ち着いて聞きなさい」。四人が声をそろえて「どういうことか」と言うと、乾斎は言った。「書をすべて信じるなら書はないほうがましだ、と言う。経書でさえ疑うのだから、『史記』に疑いがないはずはない。聞くところでは、『史記』は太史公の未完の書で、後人の書き込みが多い。一つ二つ証拠を挙げよう。書き込みの例として、司馬相如伝の賛に、揚雄は華麗な賦を百を勧めて一を諷すると評した、とある。趙翼はこれを論駁して、揚雄は哀帝平帝から王莽の時代の人で、司馬遷は武帝の時代の人だ、どうして百年後の揚雄を予知できたのか、と言う。また食い違う箇所もある。朱建伝に、黥布が反乱を企て、建が諫めたが聞かず、その事は黥布伝にあるとするが、いまの黥布伝にこの語はない。これも昔の人が論駁している。これで見れば、未完の書は信じるに足りない。とはいえ伯夷伝のような明確な高論は、後人の書き込みではない。ただ伯夷叔斉が馬を引き止めて諫めた事だけは、経書にまったく見えない。おそらく言い伝えの言葉だろう。もし言い伝えなら信じるに足りない。それに明の王直の論駁もある。あなたがたは知っているか。まだなら熟読し、よく考えてから是非を正しなさい。そもそも争いは事の末であって、その言に義理があっても、結局は君子の操を損なう。しばらく私の説を聞いて、争うな、騒ぐな」。そこで一座はどっと笑い、元のように読み進めた。
畢伯夷伝。次読春秋左伝。至荘公九年。斉管仲請囚之章。櫟葉門人大瓠。喟然歎曰。噫。漢土之人。何薄於忠義乎。管仲怯懦而無義魯殺子糾。召忽死之。管仲不死。以余観之。召忽可謂之能終事君也。然孔子特称管仲。吾窃惑之。
伯夷伝を読み終え、次に『春秋左氏伝』を読み、荘公九年の、斉が管仲を囚人として引き渡すよう請うた章に至った。櫟葉の門人の大瓠がため息をついて言った。「ああ、漢土の人はなんと忠義に薄いことか。管仲は臆病で義がない。魯が子糾を殺し、召忽はこれに殉じたが、管仲は死ななかった。私が見るところ、召忽こそ最後まで君に仕えたと言える。それなのに孔子は特に管仲を称えた。私はひそかにこれを疑う」。
昌斎応之曰。子惑宜矣。昔者。子路之果敢。而不能無此惑。况於足下輩乎。夫孔子之不称召忽。而称管仲者。称其功業也。蓋召忽一夫之材。若不死於子糾。三軍之虜也。管仲王佐之材。死子糾則不免溝瀆之死也。故孔子美其不死。而称其功業。嗚乎。管仲功業之益於民。平王東遷。諸候内攻。夷狄外侵。周室之不亡如線。向無管仲相桓公振霸業。則中国之不被髪左衽無幾矣。可不謂非仁乎。雖然於其為人。孔子亦賎之。伝所云。不一而足。管仲之器小哉。焉得倹。管仲不知礼。由此観之。孔子之称管仲。所謂門上挑之。而在夷狄則進之。猶如称文子之清。美蔵文仲之智也。亦何怪之管仲也。
昌斎が答えて言った。「あなたが疑うのはもっともだ。むかし、あの果敢な子路でさえこの疑いを免れなかった。ましてあなたがたにおいてをや。孔子が召忽を称えずに管仲を称えたのは、その功業を称えたのだ。召忽は一人分の器で、子糾に殉じなければ三軍の捕虜になるだけだった。管仲は王を補佐する器で、子糾に殉じれば溝に捨てられる死を免れなかった。だから孔子は死ななかったことを善しとし、その功業を称えた。ああ、管仲の功業が民に益したこと。平王が東に遷り、諸侯が内で攻め合い、夷狄が外から侵し、周室は糸のように細く亡びかけていた。もし管仲が桓公を補佐して覇業を振るわなければ、中国が髪を振り乱し左衽にならずに済んだかどうか。仁でないと言えようか。とはいえ、その人柄については孔子も賤しんでいる。伝の言うところは一つや二つではない。管仲の器は小さいなあ、どうして倹約と言えよう、管仲は礼を知らない、と。これで見れば、孔子が管仲を称えたのは、いわゆる門の上に掲げるようなもので、夷狄にあっては進めるということだ。文子の清さを称え、臧文仲の智を善しとしたのと同じである。管仲だけをどうして怪しむのか」。
且子言曰。魯殺子糾。疎漏甚哉。経云。斉人取子糾殺之。殺子糾者斉也。非魯也。大瓠擊節乾笑曰。子常読唐土之書。偏僻于唐人。一何甚。夫仁者而必有仁之功。智者而必有智之功。既云管仲不知礼。智者而不知礼。可乎。又云。焉得倹。仁者必倹。管仲不得倹。則可謂之仁乎。
「それにあなたは魯が子糾を殺したと言うが、粗漏もはなはだしい。経文には、斉の人が子糾を引き取って殺したとある。子糾を殺したのは斉であって魯ではない」。大瓠は拍子を取って乾いた笑いをし、「あなたは唐土の書ばかり読んで、唐人にひどく偏っている。仁者には必ず仁の功があり、智者には必ず智の功がある。管仲は礼を知らないと言うが、智者でいて礼を知らないことがあるか。また、どうして倹約と言えようと言うが、仁者は必ず倹約する。管仲が倹約でないなら、仁と言えるのか」。
昌斎曰。聞之錦城先生。曰。夫酒有清濁之別。有醇醪之品。飲清醇者亦酔。飲濁醪者亦酔。於為酔之功則一也。為其物厚薄則異也。管仲之功。濁醪之酔也。堯舜之仁。清醇之酔也。今夫清醇与濁醪。固有差別。霸与王。功同而本異。然至其一匡天下一也。伝云。君子成人之美。不成人之悪。故夫子蓋其不知礼与器小。而特称其功。如足下之言吹毛求疵。責人而無止。而与我聖人之道大有逕庭。於是大瓠言下敬服。
昌斎は言った。「錦城先生に聞いたことがある。酒には清濁の別があり、醇と醪の品がある。清く醇なるものを飲んでも酔い、濁った醪を飲んでも酔う。酔わせる働きでは一つだが、物の厚薄では異なる。管仲の功は濁醪の酔いで、堯舜の仁は清醇の酔いだ。いま清醇と濁醪にはもとより差別がある。覇と王とは、功は同じで本が異なる。しかし天下を一つに正したことでは一つだ。伝に、君子は人の美を成し、人の悪を成さずとある。だから夫子は、管仲が礼を知らず器の小さいことを覆って、特にその功を称えたのだ。あなたの言うように毛を吹いて疵を求め、際限なく人を責めるのは、わが聖人の道と大いにかけ離れている」。そこで大瓠は言下に敬服した。
豊民云。予記此事。既在客歲。自後以来。有定期。而為此討論。又毎会必筆。而蔵諸篋笥中。今適捜篋笥中得之。亦以呈兎園社友、若有頑説。幸見教焉。敬而受教。
豊民が言う。私がこの事を記したのは去年のことである。それ以来、期日を定めてこの討論を行い、会ごとに必ず筆記して箱にしまっておいた。今たまたま箱を探してこれを見つけたので、兎園の社友にも呈する。もし異論があれば、どうかご教示いただきたい。謹んで教えを受ける。
于時文政八年乙酉小春念三 乾斎中井豊民識
時に文政八年乙酉小春二十三日 乾斎 中井豊民 識す
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明善堂討論記

文政七禩六月朔日予與門人敬齋强齋謙齋昌齋笠齋約爲會讀預期自曉七鼓而始至黃昏而終也適予友櫟葉散人携其徒十數人來共討論乃記其言藏諸篋笥云

六月一日晨各蓐食巢於明善堂天將曉月未落焚篝燈倚几案櫟葉散人忽到散人者武州金杉根岸人常好讀日本記事其於正史稗說無所不硏究能辯我邦治亂論其興廢言辭滔滔若决江河若驟雨暴至沛然無禦之者以予酷好西土書策每往來會讀難問

此日方讀史記伯夷傳櫟葉曰嗚乎夷齊不食周粟而餓則可也何輙食其土薇詩曰普天之下莫非王土薇亦非周土之生乎夷齊之義不食周粟則薇亦不可食焉孔子方稱夷齊賢吾甚感焉且孟子論武王曰聞誅一夫紂未聞弑君孟子何出此言也夫紂雖無道而親戚背之猶爲天子也安得等之匹夫乎

敬齋揖櫟葉而進曰甚哉子言之過高也夷齊不食周粟乃是夷齊之僻孟子所以爲隘之也足下不知其爲僻而貴食其薇足下亦是僻之又僻耳必如足下言則雖巢父許由卞隋務光未以嗛於足下心也若其充足下之心者其於陵陳仲子乎所謂蚓而充橾者我孟子之所不取也足下坐未嘗讀聖經是故出此言退讀聖人之書而後會我輩

强齋在側抗然大言曰二子之言皆失矣二子愕然曰何强齋曰夫道一而已分爲二爲三以往復散爲千爲萬故有陰則有陽有剛則有柔有君必有臣有仁必有義其所遇或異則其所行亦殊是以事雖萬殊於其歸道一也譬之忠質文三代所向不同其及合於禮未嘗同也武王之伐紂夷齊之諫武王其迹雖異各盡其道始非有二致也武王見天下之溺不極之不免楊朱爲我之謗夷齊扣馬諫不免賊其君之誚聖賢之心無所偏倚隨物而應者孰不規矩何不準繩以夷齊之準繩論武王而曰不平曰不直亦其宜也以武王之規矩議夷齊而曰出方圓之外復亦其宜也又譬之武王之德大陽之輝也夷齊之行大陰之光也微武王不能爲夷齊之光武王亦不得夷齊則不得著其德輝也二聖之在天下猶日月之互行而不相戾也孔子盛稱之不亦宜乎盖孔孟之所毀譽必有所試又何疑其言然足下疑孟子命紂爲一夫是何其意也紂雖稱天子親戚衆臣及四海内無一人助之者則非一夫何著者宋高宗亦與足下同癖問時碩儒尹焞曰孟子何以謂之一夫紂尹焞對曰此非孟子之言武王牧師之辭也曰獨夫受洪惟作威由是觀之孟子非敢新言之假令孟子言之孟子聖人也如何廢其言乎足下實有蓬心乎吾丁寧反覆雖頻提子耳而大聲告之子固褒如充耳豈有益其是非乎如子之人謂之兼襲與瞽宜哉不得其觀日月之光聞大雅之音

於是三人相爭相怒或瞋目或握拳喧豗良久謙齋猶然笑徐々前席曰三子之言倶有理雖然未得其所處也夫聖之道區以別之則有時者有任者有和者如淸者如伯夷者所謂聖之淸者耳伯夷之好淸潔猶顏子之好學伯倫之嗜酒也天地開闢一人也

於是櫟葉又怒曰子嘗孟子之餘唾將折我言雖孟子再生來我猶將說却之亦况於足下輩乎退哉退哉謙齋亦怒四人猶戰場爭死生市中貪羸利也

乾齋曰予有一說足下輩安意聽之四人同曰如何乾齋曰盡信書不如無書書且尙疑之則史記不能無疑焉吾聞之史記者大史公之未定之書而且多攙入今取一二證之其攙入者司馬相如傳贊曰揚雄以爲靡麗之賦勸百諷一趙翼辯駁之日雄乃哀平王莽之時人史遷固武帝時之人而何由得預知百年下揚雄者又自在岐互處朱建傳謂黥布欲反建諫之不聽事在黥布傳中今黥布傳無此語是亦古人辯駁之由此觀之未定之書未足信之矣雖然如伯夷傳明確高論非後人攙入唯夷齊叩馬而諫之事殊不經見則疑是流傳之言若果爲流傳之言未足信之也且明王直辯駁也子輩知之乎若未則熟視之察之而後正其是非盖爭者事之末其言雖有義理終損君子之操願暫聽吾說莫〔頭書 莫當作勿〕爭莫譁於是坐中哄然笑讀如故

畢伯夷傳次讀春秋左傳至莊公九年齊管仲請囚之章櫟葉門人大瓠喟然歎曰噫漢土之人何薄於忠義乎管仲怯懦而無義魯殺子糾召忽死之管仲不死以余觀之召忽可謂之能終事君也然孔子特稱管仲吾竊惑之

昌齋應之曰子惑宜矣昔者子路之果敢而不能無此惑况於足下輩乎夫孔子之不稱召忽而稱管仲者稱其功業也盖召忽一夫之材若不死於子糾三軍之虜也管仲王佐之材死子糾則不免溝瀆之死也故孔子美其不死而稱其功業嗚乎管仲功業之益於民平王東遷諸候内攻夷狄外侵周室之不亡如線向無管仲相桓公振霸業則中國之不被髮左袵無幾矣可不謂非仁乎雖然於其爲人孔子亦賤之傳所云不一而足管仲之器小哉焉得儉管仲不知礼由此觀之孔子之稱管仲所謂門上挑之而在夷狄則進之猶如稱文子之淸美藏文仲之智也亦何怪之管仲也

且子言曰魯殺子糾疎漏甚哉經云齊人取子糾殺之殺子糾者齊也非魯也大瓠擊節乾笑曰子常讀唐土之書偏僻于唐人一何甚夫仁者而必有仁之功智者而必有智之功既云管仲不知礼智者而不知礼可乎又云焉得儉仁者必儉管仲不得儉則可謂之仁乎

昌齋曰聞之錦城先生曰夫酒有淸濁之別有醇醪之品飮淸醇者亦醉飮濁醪者亦醉於爲醉之功則一也爲其物厚薄則異也管仲之功濁醪之醉也堯舜之仁淸醇之醉也今夫淸醇與濁醪固有差別霸與王功同而本異然至其一匡天下一也傳云君子成人之美不成人之惡故夫子盖其不知礼與器小而特稱其功如足下之言吹毛求疵責人而無止而與我聖人之道大有逕庭於是大瓠言下敬服

豐民云予記此事既在客歲自後以來有定期而爲此討論又每會必筆而藏諸篋笥中今適搜篋笥中得之亦以呈兎園社友若有頑說幸見敎焉敬而受敎

于時文政八年乙酉小春念三 乾齋中井豐民識

注

写本の位置
写本は3166の28カット目左ページ2行目から32カット目左ページまで。楷書の漢文で、句点の丸が本文に打たれている。冒頭の段落と末尾の跋は本文より一字下げて書かれている。末尾に「于時文政八年乙酉小春念三」と「乾齋中井豐民識」がある。
校合
活字本系テキストの冒頭段落には返り点の一二が入っているが、写本にはないので外した。
校合
「倚几案」は写本で「几」と読める。活字本系の「九」は誤植とみられる。
注記
「則薇亦不可食焉」の「不」は写本では本文の右に朱で補われている。補入後の字句を採った。
校合
「巢父許由」「有任者」「不如無書」「殊不經見」「坐中」「喟然」「怯懦」「嗚乎」「子常讀」「則一也」「淸醇與濁醪」「言下敬服」は、写本の字句を採り、活字本系の「巢文」「有仕者」「如不無書」「殊不見經」「座中」「昭然」「怯儒」「鳴呼」「子席讀」「則丁也」「淸醇與濁醇」「言下敬」とは異なる。いずれも写本の方が文脈に合う。
校合
「管仲不知礼」は三か所とも写本が「礼」と書く。活字本系の「不知孔」「不知社」は誤植とみられ、「禮」も写本に従って「礼」にした。
校合
「莫當作勿」は写本では上欄の頭書で、活字本系テキストは本文中の割注にする。写本の位置に従い〔頭書〕とした。
注記
「稱其功業也」の「功」は写本では朱で傍記されている。下の字は「切」とも見えるが、朱の訂正に従って「功」を採った。「夷狄則進之」の「狄」も朱で傍記されている。
判読保留
「功業之益於民」の「益」は写本の字形が「蓋」にも見えるが、原寸で確かめていない。活字本系に従う。判読保留。
判読保留
「其於陵陳仲子乎所謂蚓而充橾者」の「橾」は活字本系のまま。孟子の「蚓而後充其操」による語で、写本の字形は確かめていない。判読保留。
注記
明善堂は中井豊民の塾。錦城先生は大田錦城。櫟葉散人と大瓠は未確認。文中の宋の高宗と尹焞の問答、趙翼の駁論、王直の論は、いずれも本文が引くところをそのまま訳した。
校合
字句はページ全体の画像で活字本系テキストと一字ずつ読み合わせた。「几案」「功」「狄」「敬服」は原寸か拡大で確かめた。
校合
私家版は1記事。

AI試訳 / 専門家未校閲