雲亭日本古典図書室収録作品の一覧

丙午丁未

読書室で開く(原典画像・関連作品・自分の書架)

兎園小説 / 曲亭馬琴ほか 兎園会の会員 / 第十一集 第14話 / 著作堂 曲亭馬琴

天明六年の日食と火災と大洪水、七年の飢饉と打ちこわしを、馬琴が見聞と摺物の臨写で記す。

本文 現代語訳

丙午丁未
丙午丁未
愈文豹『吹剣録』に云ふ、丙午丁未の年、中国之に遇へば必ず災あり。謝肇淛『五雑俎』是の言を載せて曰く、亦た尽くは然らざる者あり。粤に清の王士禎『池北偶談』を攷ふるに、又其の弁あり。云ふ、丙午丁未、古より以て厄歳と為す。陰陽家云ふ、丙丁は火に属し、午未に遇ひて盛んなり。故に陰極まれば必ず戦ひ、亢りて悔あるなり。康熙丙午の冬〔天朝、寛文六年〕、戸部尚書蘇納海、督撫尚書王登聯ら搆死す。丁未の春、災祲畳み見え、彗星出で、太白昼見え、白眚西北に出でて月余を経たり。是の歳七月、輔臣蘇克薩誅死す。吾が友程職方謂ふ、予、前史に載する所の丙丁の災変徴応を裒輯して一書と為さんと欲す。頃、宋の理宗淳祐中に柴望の上りし『丙丁亀鑑』十巻を見るに、秦の荘襄王五十二年丙午より五季後漢の天福十二年丁未に迄び、通じて一千二百六十載、中に丙午丁未たる者二十有一、備さに事実を摭ひ、係ぐるに論断を以てす。元の至正中、又『続丙丁亀鑑』なる者あり、宋元の事の闕を補ふ。前人已に此の二書あり、考拠に当つべし。故に明三百年中の事応を以て二書の後に続けん、と。と、いへり。
愈文豹の『吹剣録』に、丙午と丁未の年には中国は必ず災いに遭うとある。謝肇淛の『五雑俎』はこの言を載せて、必ずしもそうとは限らないと言う。ここで清の王士禎の『池北偶談』を調べると、またその弁がある。丙午丁未は古くから厄年とされる。陰陽家は、丙と丁は火に属し、午と未に遇って盛んになるので、陰が極まれば必ず戦い、高ぶれば悔いがあると言う。康熙の丙午の冬〔わが国の寛文六年〕、戸部尚書の蘇納海や督撫尚書の王登聯らが冤罪で死に、丁未の春には凶兆が重なって、彗星が出て、金星が昼に見え、白い妖気が西北に出て一か月余り続いた。この年の七月、輔臣の蘇克薩が誅殺された。わが友の程職方が言うには、私は前代の史書に載る丙丁の災変とその前兆を集めて一書にしたい。近ごろ、宋の理宗の淳祐年間に柴望が献上した『丙丁亀鑑』十巻を見ると、秦の荘襄王五十二年丙午から五代後漢の天福十二年丁未まで通算千二百六十年、そのうち丙午丁未の年が二十一あり、つぶさに事実を拾って論断をつけている。元の至正年間にはまた『続丙丁亀鑑』があって、宋元の事の欠を補う。前人にすでにこの二書があり、考証の拠り所とすべきである。だから明三百年間の事変の応験をもって二書の後に続けたい、と。以上のように言っている。
解いはく、「天朝も、いにしへより、丙午丁未の年毎に、さる、しるしのこりけるにや。いまだ、考索にいとまなければ、見ぬ世の事は、姑く措きつ。
馬琴が言う。わが国でも古くから丙午丁未の年ごとに、そういう兆しが残っているのだろうか。まだ調べる暇がないので、自分の見ていない世のことはしばらく措く。
只、予が親しく耳に聞き、目に見えしままをもてすれば、天明丙午の火災、洪水、丁未の饑饉に、ますもの、なし。こは、遠からぬ世の事にて、五十已上の人々には、めづらしげなく思はれんを、四十以下なる人々は、故老の話説によるのみなり。まいて、今より後の人は、昔がたりに聞きながして、警め慎むこころ、薄くば、遂に又、荒年の備へに懈ることもあるべし。
ただ私が親しく耳に聞き目に見たままで言えば、天明丙午の火災と洪水、丁未の飢饉にまさるものはない。これは遠くない世のことで、五十以上の人々には珍しくもないだろうが、四十以下の人々は古老の話で知るだけである。ましてこれからの人は昔話として聞き流し、戒め慎む心が薄ければ、ついにはまた凶年の備えを怠ることもあるだろう。だからただ見聞のままに記して後の世に示すのである。とはいえ老いてあらゆることに忘れが多く、記憶が壮年に及ばないのはどうしようもない。したがって漏れも多いだろうし、思い違いもあるだろう。
抑、この歲の凶荒は、京の人、「原氏が、「五穀無尽蔵」とかいふものに、しるしつけたり」とは聞きしかど、予は、いまだ、その書を見ざりき。さばれ、只、その書には、諸国の米の価をのみをさをさ、しるししものと、なん。しからんには、予が編の、いと浅はかにて、疎鹵なるも、考拠の為になるよし、あらんか。
そもそもこの年の凶作は、京の人原氏が『五穀無尽蔵』とかいうものに記しているとは聞いたが、私はまだその書を見ていない。ただ、その書には諸国の米の値段だけをもっぱら記しているそうだ。それなら、私の編が浅く粗略であっても、考証の役に立つこともあろうか。
されど、乙巳のみな月には、わが身、失恃の憂あり。又、丙午の葉月には、仲兄、夭折せられたり。かく、うれはしく物がなしき折なりければ、世上の事を、只、よそにのみ聞き捨てて、書きつけおきしことはなきを、ここにはつかに思ひ出でて、その大かたを、しるすよしは、嚮に、好問堂の出だされたる天明癸卯の秋のころ、南部領なる凶荒の文書の編にちなみて、なん。
しかし乙巳の六月には私は母を亡くし、また丙午の八月には次兄が早世された。このように憂わしく物悲しい折だったので、世上のことはよそ事として聞き捨てて書きつけておいたことはないのだが、ここにわずかに思い出してそのあらましを記すのは、先に好問堂が出された天明癸卯の秋の南部領の凶作の文書の編にちなんでのことである。
天明六年丙午の春正月元日の巳のときばかりに、日蝕、皆既なり。貴賎となく、貧富となく、立ちかヘる年のはじめをなべてことぶくときなるに、六合、忽にとこやみとなりしかば、心あるも、こころなきも、驚き怕れずといふもの、なし。
天明六年丙午の春正月元日の巳の刻ごろ、皆既日食があった。貴賤も貧富もなく、立ち返る年の初めを一様に祝う時に、天下がたちまち常闇となったので、心ある者も心ない者も驚き恐れない者はなかった。
この故に、殿中にても、総出の時刻などを、例年にはたがへさせて、蝕し果てて後にこそ、年のはじめの御礼を受けさせ給ひしと聞えたれ。
そのため殿中でも総出仕の時刻などを例年と変え、食が終わってから年始の御礼をお受けになったと聞こえた。
かくて、この日、火災あり。これより後、雨は稀にて、風の、しばしば、吹けばにや、江戸の中、日毎々々に、ここかしことなく、両三ケ所づつ失火、延焼してければ、人みな、駭き惑ひつつ、土庫をもてるは、家財、集具を、索もて、からげ、衣裳、調度を葛籠、箪笥におしいれて、所せきまで、積みかさねつつ、今焼けぬと、待つがごとし。ここをもて、いまだ類焼せざるものも、「焼きいだされ」に異ならず。客ある家のともすれば、茶碗にすら、ことをかきたり。さればとて、おのもおのも、遠謀遠慮あるにはあらで、人、ぞよめきの勢ひなれども、これも時変の一端なるべし。
こうしてこの日に火災があった。これから後は雨が稀で風がしばしば吹いたせいか、江戸の中では日ごとにあちこちで二、三か所ずつ失火や延焼があったので、人はみな驚き惑い、土蔵を持つ者は家財道具を縄で括り、衣裳や調度を葛籠や箪笥に押し込んで、所狭しと積み重ね、今焼けるかと待つようであった。だからまだ類焼していない者も焼け出されと変わらなかった。客のある家でともすれば茶碗にさえ事欠いた。そうかといって各自が遠謀深慮があるわけではなく、人のざわめきの勢いなのだが、これも時変の一端であろう。
かう、罵り、さわぐこと、正月、二月、甚しく、三月に至りても、なほ、人こころ、しづかならず。四月なかばになりてこそ、世は、ややのどかになりにたれ。されば、南畝子の「四方のあか集」にあらはれたる「春日泉亭詠二雑煮餅一狂歌」の序にも、「ことしは、ひのえのわらは竹、うまにのれるとしなめりと、人々、つつしみ、おそれしがはたして、春日野のとぶ火にはあらでもるてふ水の手、あやまちより、市人のかりずまゐも、野守がいほの心地し侍りて、今、いくか、ありて、ざれごといひてん、など、いひしらふも、ほいなし」と書かれたり。
こう騒ぎ立てることは正月二月がはなはだしく、三月になっても人心は静まらなかった。四月半ばになってようやく世はのどかになった。だから南畝子の『四方のあか』に載る「春日泉亭詠雑煮餅狂歌」の序にも、「今年は丙のわらべ竹が午に乗る年とやらで、人々が慎み恐れたが、果たして春日野の飛ぶ火ではなく、漏る水の手の過ちから、市人の仮住まいも野守の庵の心地がして、いま幾日かたてば戯れ言も言えるだろうなどと言い交わすのも、本意ない」と書かれている。
とにもかくにも、この春は、花見て、くらす人は、稀にて、只、火事の噂をしつつ、ありくらししも、うるさかりき。
とにもかくにもこの春は花を見て暮らす人は稀で、ただ火事の噂をしながら歩き暮らしたのもわずらわしかった。
当時、「焼原場所附」とかいふものを売りあるきしも多かりけれど、見たるも忘れて、思ひいでず。今もなほ、好事の家には、蔵棄したるも、あらんかし。
当時「焼原場所附」とかいうものを売り歩く者も多かったが、見たのも忘れて思い出せない。今もなお好事家の家には蔵しているものもあるだろう。
かくて、夏にもなりにければ、火災の噂はやみたりしに、この年七月十二日より、雨のふりそそぐこと、おびただしかりしに、十四日より十六日に至りて、又、洪水のわざはひ、あり。まづ、江戸は本所、深川、木場、洲﨑、竪川筋、牛島、柳島のほとりの洪水、いへば、さらなり。下谷、浅草、外神田、いづこも、水に浸されぬは、なし。
こうして夏になると火災の噂は鎮まったが、この年七月十二日から雨が降り注ぐことおびただしく、十四日から十六日にかけてまた洪水の災いがあった。まず江戸では本所、深川、木場、洲崎、竪川筋、牛島、柳島のあたりの洪水は言うまでもない。下谷、浅草、外神田、どこも水に浸されないところはなかった。
予が叔父田原米岳翁は、本所林町なる武家に仕へたりしが、その身は、主の先途に立ちて、家族を見かへるに、いとまあらず。家の内のものどもは、長屋の屋根に登りつつ、そが儘、船に乗りうつりて、からくして、脱れしとぞ。
私の叔父の田原米嶽翁は本所林町の武家に仕えていたが、自身は主人の先途に立って家族を顧みる暇がなかった。家の者たちは長屋の屋根に登り、そのまま船に乗り移ってかろうじて逃れたという。
又、次の叔父兼子翁は、御船手組の同心なれば、水のうへに、こころを得て、船も亦、自由なれば、これも、やからを、いちはやく、所親がり、遣ししに、危きことはなかりしといへり。
また次の叔父の兼子翁は御船手組の同心なので水の上に心得があり、船も自由に使えたので、家族をいち早く親類のもとへ遣わし、危ないことはなかったという。
又、予がめのをんなは、大洲侯〔当時、加藤作内と申しき。後に遠江守に任ぜられたり〕の母うへに、みやづかヘせしころなりければ、これも又、御徒町なる邸中より、船に乗せられしが、「しのばずの池」のはたなる同家加藤氏の邸中へ、みまへに倶して参りしに、かしこも水の中なりきといへり。
また私の妻は大洲侯〔当時は加藤作内と申した。後に遠江守に任ぜられた〕の母上に宮仕えしていたころだったので、これも御徒町の屋敷から船に乗せられ、不忍池のほとりの同家加藤氏の屋敷へ御前にお供して参ったが、そこも水の中だったという。
予もはらからも、当時、みな、山の手にをりしかば、この水難にはあはねども、親戚のうへ、心もとなし。ゆきて訪はばやと、思ふものから、永代橋、大川橋は、往来をとめられて、柳橋も亦、人を、わたさず、この他、大橋の中の間、破損して、和泉橋は落ちたり。只、恙なきものは両国橋一ケ所なれども、本所、深川の水高ければ、船ならざるもの、ゆくこと、得ならず。凡、下谷は「いづみ橋」筋、「あたらし橋」筋、外神田御成道など、商人の見世さきを、船にて、往還しつる事、しらざるものは、そらごととや思はん。只、これのみにあらずして、小石川御門外、牛込揚端、「どんど橋」の辺りまでも、前もて聞かぬ出水、高くて、溺死のものも、少からず。
私も兄弟も当時はみな山の手にいたのでこの水難には遭わなかったが、親戚のことが気がかりで訪ねようと思ったものの、永代橋と大川橋は往来を止められ、柳橋も人を渡さず、このほか大橋の中の間が破損し、和泉橋は落ちた。無事なのは両国橋一か所だけだが、本所深川の水が高いので船でない者は行くことができなかった。およそ下谷は和泉橋筋、新橋筋、外神田御成道など、商人の店先を船で行き来したことなど、知らない者は嘘と思うだろう。それだけでなく小石川御門外、牛込揚場、どんど橋のあたりまで、かつて聞いたことのない出水が高く、溺死する者も少なくなかった。
かくて、両三日ののち、牛込の水の退きしを、仲兄鶴忠子が、「見ん」とて、ゆきし折、
こうして二、三日ののち、牛込の水が引いたのを次兄の鶴忠子が見ようといって行った折に詠んだ歌。
けさひきし わだちの水の ふなかはら 泥鰍ふみこむ 跡もどろ亀
今朝引いた轍の水の鮒川原、泥鰌を踏み込む跡もどろ亀。
当時、鮒、泥鰌なんどの、泥に塗れてありけるを、まのあたりに見て、よまれしなり。さは、この狂歌は絶筆にて、次の月の初の四日にときのけにて、身まかりにき。享年廿二歲なり。いとかなしとも、かなしかりしを、身にしみじみと忘れがたさに、言のここに及べるなり。
当時、鮒や泥鰌などが泥にまみれているのを目の当たりに見て詠まれたものである。そしてこの狂歌が絶筆となり、次の月の初めの四日に時疫で亡くなった。享年二十二歳である。いかにも悲しく、身にしみて忘れがたいので、言葉がここに及んだのである。
只、此わたりの水のみかは。日本堤を、うちこえて、田町へ、水のおしたれば、聖天町、山の宿、浅草反畝もひとつになりて、金竜山の裙を繞れり。まいて、千住、松戸の辺、葛西、行徳、千葉のわたり、熊谷、浦和に至るまで、みな、この水を受けぬは、なし。
ただこのあたりの水だけではない。日本堤を乗り越えて田町へ水が押し寄せたので、聖天町、山の宿、浅草反畝も一つになって、金龍山の裾を巡った。まして千住、松戸のあたり、葛西、行徳、千葉の一帯、熊谷、浦和に至るまで、みなこの水を受けないところはなかった。
されば、十七、八日のころよりして、「水見まひ」の良賎、奔走しつつ、弁当、偏提、坐具、調度を、おもひおもひに齎らして、ゆくもの、ちまたに、陸続たり。
そこで十七、八日のころから水見舞いの貴賤が奔走し、弁当、提げ重、座具、調度を思い思いに携えて行く者が巷に陸続とした。
又、関東御郡代伊奈氏のうけ給はりて、馬喰町のあき地に仮屋をしつらひ、水厄のものを入れおかせて、日毎に粥を下されけり。
また関東御郡代の伊奈氏が承って、馬喰町の空地に仮屋をしつらえ、水害の者を入れ置いて日ごとに粥を下された。
当時、市中を売りあるきし「大水場所附」といふ地図二本、予が蔵棄にあり。草して左りに出だすもの、是たり。
当時、市中を売り歩いた「大水場所附」という地図二本が私の蔵にある。写して左に出すものがこれである。
丙午七月十八、九日の比より、市中を売りあるきしもの〔誤字、幷に、「かなちがひ」等、本のままなり。是より下の四頁も、乙酉十月廿二日臨写す。皆、同時のものなり〕
丙午七月十八、九日のころから市中を売り歩いたもの。〔誤字ならびに仮名違いなどは元のままである。これより下の四頁も乙酉十月二十二日に臨写した。みな同時のものである。〕
上野下野秩父領 山水荒増記 上
上野下野秩父領 山水荒増記 上
▲ころは、天明六のとし、七月十二日夜より、大雨、しきりにふりつづきて、同十四日明方より、江戸、川すぢ、出水して、十五、六日、甚しく、目白下の大どい、ながれ、「せき口のはし」、「中のはし」、「みははし」其外、小ばし、不残、おちにけり。
▲ころは天明六年七月十二日夜から大雨がしきりに降り続き、同十四日明け方から江戸の川筋が出水し、十五、六日はなはだしく、目白下の大樋が流れ、関口の橋、中の橋、みは橋そのほか小橋は残らず落ちた。
小日向水道丁、牛天神の下通り、御大、小名様のまへ、四、五尺づつも、出水す。
小日向水道町、牛天神の下通り、御大名小名様の前は四、五尺ずつも出水した。
又、「竜けいばし」、「どんどばし」、小石川御門水戸様御屋敷の前通り、水道橋、凡、五、六尺づつも水上り候へば、往来は、ならざりけり。
また龍慶橋、どんど橋、小石川御門水戸様御屋敷の前通り、水道橋はおよそ五、六尺ずつも水が上がったので往来はできなかった。
御上水の大どいには、鉄をつみ、石を置き、つなを附、水をふせぐ人足、おびただし。
御上水の大樋には鉄を積み石を置き綱をつけて、水を防ぐ人足がおびただしかった。
御茶の水通りの土手、二ケ所、くづれ、夫より、「せう平ばし」、「すぢかい御門」のはしぎわより、押上る水、凡、四、五尺づつも有ければ、一向、往来は、なりがたし。
御茶の水通りの土手が二か所崩れ、それから昌平橋、筋違御門の橋際から押し上げる水がおよそ四、五尺ずつもあったので、まったく往来はできなかった。
「いづみばし」は、十六日、四つ時に、おちけり。「新ばし」、浅草御門、「柳ばし」は、人どめ。
和泉橋は十六日四つ時に落ちた。新橋、浅草御門、柳橋は人止め。
大川の筋、本所へん、少し、水まし候所、ふりつづく大雨に、上野、下野、秩父領の山水、押出せば、「からす川」、「かんな川」、戸田川、「とね川」、「坂東ばし」、ことごとく、出水す。近江、近辺の村々在々、あるいは四、五尺、六、七尺、高水すること、おびただし。
大川の筋、本所あたりは少し水が増したところ、降り続く大雨に上野、下野、秩父領の山水が押し出して、烏川、神流川、戸田川、利根川、坂東橋がことごとく出水した。近江近辺の村々在々は、あるいは四、五尺、六、七尺と高水することおびただしい。
時に、「戸ね川」の堤へは、左りに切て、行とくの浦へ、押出す。人々、あはてさわぐ内はや、水せいは、しほやくはまへ押あげて、しほがま、不残、こわしけり。
時に利根川の堤は左に切れて行徳の浦へ押し出した。人々が慌て騒ぐうちに、早くも水勢は塩焼く浜へ押し上げて塩釜を残らず壊した。
扨、「梅若の土手」つづき、「くまがやの土手」ときこへしは、日本無双の大づつみ、こけて、あふれかかりし万水に、「あやせのつつみ」、「戸田づつみ」、十七日の卯こくすぎ、水せい、つよさに、ぜひもなや、みな、一どう、相切れば、近江、近村、人々は、あはてふためき、立さわぐ。寺々にてははやがねつき、宿老、店屋は「ほらがい」ふき、「たすけ船、たすけ船」と、命をかぎりににげうせたり。
さて梅若の土手続き、熊谷の土手と聞こえたのは日本無双の大堤だが、崩れてあふれかかった満水に、綾瀬の堤、戸田堤が十七日の卯の刻過ぎ、水勢の強さに是非もなくみな一同に切れたので、近江近村の人々は慌てふためき立ち騒いだ。寺々では早鐘をつき、宿老や店屋は法螺貝を吹き、助け船、助け船と命の限りに逃げ失せた。
誠に、水せいのはやきこと、「三つばの弓矢」のごとくにて、「さつて」、「くり橋」、「古河なわて」、「とち木」、「藤おか」、「佐の」、行田、「関やど」、「御領」をはじめとして、「かすかべ」、「こしがや」、杉戸辺、うづまく水に、人々は、親の手を引、子どもを、せおい、みな、山林に、かへらせけり。
まことに水勢の速いことは三つ羽の弓矢のようで、幸手、栗橋、古河縄手、栃木、藤岡、佐野、行田、関宿、御領をはじめ、粕壁、越谷、杉戸あたりは渦巻く水に、人々は親の手を引き子供を背負い、みな山林に避難した。
いよいよ、水先は、「そうか」より「千住通り」へおし出し、「かもんづつみ」を打こして、「かさいりやう二合半」、今井、「ねこざね」、「一の井」、「二の井」、「さかさい」、「きね川」、本所辺、平一めんに、海となる。先、隅田川、「向じま」、秋葉、「三𢌞り」、「牛じま」へん、「小梅」、「竹丁」、「中の江」、「なり平」、「横ぼり」、「割下水」、古岡町、吉田町、三笠町辺の家居、屋根迄、水、上れば、人々、あわて立さわぎ、「とやせん、かくや」と、うろたへる、其あり様のあわれさは、目もあてられぬ、ふぜいなり。
いよいよ水先は草加から千住通りへ押し出し、掃部堤を打ち越して、葛西領二合半、今井、猫実、一の井、二の井、逆井、鬼怒川、本所あたりが平一面に海となった。まず隅田川、向島、秋葉、三囲、牛島あたり、小梅、竹町、中の郷、業平、横堀、割下水、古岡町、吉田町、三笠町あたりの家は屋根まで水が上がったので、人々は慌て立ち騒ぎ、どうしようこうしようとうろたえる、その有様の哀れさは目も当てられぬ風情であった。
実に、亀井戸天神の御やしろは、よほど高き所ゆへ、人々、よふよふにげのびて、助船をぞ待にけり。
実に亀戸天神の御社はよほど高い所なので、人々はようやく逃げ延びて助け船を待った。
又、「立川通り」より「きく川町」、「おなぎ沢」の近へん、橋も、平地も、あらざれば、「いかがわせん」と、人々、せん方なみだに、くれける時、中にも、心ききたる人、「五百らかんの御寺こそ、高き所に候得ば、此所へにげたまへ」と、申人の言葉につれ、あるいは、さへつき人、いかた、およぐもあれは、ざい木にとりつき、ながれ渡るもあり。よふよふ、「らかん」にたどりつき、「ささいどう」の家根にのり、「たすけ給へ」と、ねんぶつのこへより、あわれもよふせり。
また竪川通りから菊川町、小名木沢の近辺は橋も平地もないので、どうしようと人々がなすすべなく涙にくれる時、中でも気の利いた人が、五百羅漢の御寺こそ高い所でございますからここへ逃げなさいと言う言葉につれて、あるいは杖をつく人、筏で泳ぐ者もあれば、材木に取りついて流れ渡る者もあった。ようやく羅漢にたどりつき、さざえ堂の屋根に乗って、助けたまえと念仏の声より哀れを催した。
此時はやくも、御慈悲に、「なんぎの諸人を助ん」と、御用船、数百そう、こぎ来、あり様みるよりも、水入の人々は、二階、屋根から、ひさしより、飛のり、飛びのり、数万人、あやうき命を助しも、誠に、きみの恵なり。みなみな、うへに、かつへしことなれば、早速、勘三郞、桐座両芝居の者共に、焚出し、仰付させられ、焼飯として被下しは、猶、ありがたきことどもなり。
この時早くも御慈悲に、難儀の諸人を助けようと御用船数百艘が漕ぎ来て、その有様を見るより、水に入った人々は二階や屋根から、庇から飛び乗り飛び乗り、数万人が危ない命を助かったのもまことに君の恵みである。みな飢えていたので、早速勘三郎と桐座の両芝居の者どもに炊き出しを仰せ付けられ、焼き飯として下されたのは、なおありがたいことである。
扨、大川の水せい、つよく候へば、新大橋、永代橋、いづれも落て、往来、なし。両国の御はしは、御用人足、あつまりて、橋をふせぎ候事、すさまじかりける次第なり。
さて大川の水勢が強いので、新大橋、永代橋はいずれも落ちて往来がない。両国の御橋は御用人足が集まって橋を防いだことはすさまじい次第であった。
扨、広小路中通りに御小家を掛させられ、欠来る水入の者どもを、御すくいたまわること、誠に仁恵の御ことなり。実に、伊奈半左衛門様、御屋敷の前通り、同様、小家、掛させられ、水入の百姓を、御すくいたまわる事、ひとへに、御じひ、ふかき事どもなり。
さて広小路中通りに御小屋をお掛けになり、駆けてくる水入りの者どもをお救いになることはまことに仁恵の御ことである。実に伊奈半左衛門様の御屋敷の前通りにも同様に小屋を掛けさせられ、水入りの百姓をお救いになったことは、ひとえに御慈悲深いことである。
又、千住大橋、「小つが原」、「まろき橋」は「今どの」へん、「さんや」、「とりごへ」、田中なぞ、水、十万せしことなれば、中々、往来、也がたし。
また千住大橋、小塚原、丸木橋は今戸あたり、山谷、鳥越、田中など水が十万しているので、なかなか往来はできなかった。
水せいは、吉原の土手、こし候へば、郭の者ども、「此つつみ、切ては、ほんに叶まじ」と、「日本づつみ」に土俵を上げ、又、大門のまへ通り、壱丈あまりに、土俵をつき、水ふせぐこと、おびただし。
水勢は吉原の土手を越えたので、廓の者どもはこの堤が切れてはたまらないと、日本堤に土俵を上げ、また大門の前通りに一丈あまりに土俵を築いて水を防ぐことおびただしい。
「みのわ」、金杉、「三河しま」、水入候事なれば、みなみなにげうせ候なり。実に、田町の通りも、水、まし、三、四尺づつも、是あるなり。又、浅草くわんおん御寺内は、よほど高き所ゆへ、少々、水、出候へば、此所へ、人々、あまた、あつまり、水、引を、「いや、おそし」と待けり。並木、「こまがた」近へんも、少々、水、附、御蔵米八町、「天王ばし」迄、水、つよく、往来、舟にて、通用す。
三ノ輪、金杉、三河島は水入りなので、みな逃げ失せた。実に田町の通りも水が増して三、四尺ずつもある。また浅草観音の御寺内はよほど高い所なので、少々水が出ると人々が大勢集まり、水の引くのをいや遅しと待った。並木、駒形近辺も少々水がつき、御蔵米八町、天王橋まで水が強く、往来は舟で通った。
又、下谷門ぜきまへ、こうとく寺の近へんも、右同断の大水なり。扨、東海道の川々は、「六ごう」、「馬にう」、「さ川」なぞ、いづれも川留、「鶴み」のはし、落候て、「かな川新町」、「藤沢しゆく」、万水のことなれば、往来、一面、ならざりけり。
また下谷門跡前、広徳寺の近辺も右同断の大水である。さて東海道の川々は六郷、馬入、酒匂などいずれも川留め、鶴見の橋が落ち、神奈川新町、藤沢宿は満水なので往来は一面にできなかった。
程なく、雨もやみければ、水も、段々、引にけり。とざさぬ御代のことぶきと、水入、御すくいたまはること、広代の御じひなり。
程なく雨も止んだので水もだんだん引いた。戸ざさぬ御代の寿と、水入りをお救いになることは広大の御慈悲である。
扨、大雨にて、くづれ候所を、しるす。芝「あたご山」、同切通し、「まみ穴」井伊様御屋敷の土手、山王の御山、春日の山、其外、少々づつの所は筆につくしがたし。大尾
さて大雨で崩れた所を記す。芝愛宕山、同切通し、狸穴、井伊様御屋敷の土手、山王の御山、春日の山、そのほか少々ずつの所は筆に尽くしがたい。 大尾
〔図一 道筋方角順道 下/東/西/南/北/本所/大川/新大橋/永代橋/小石川/外神田/小川町〕
〔図一 道筋方角順道 下/東/西/南/北/本所/大川/新大橋/永代橋/小石川/外神田/小川町〕
増補新全 村所附并道乃記
増補新全 村所附ならびに道の記
○まん本所に/小むめ村/押あげ村/うけち村/柳しま村/うめたむら/てらじま村/さなへ村/かめあり村/すさき村/若みや村/千ば村/四ツ木むら/大どむら/しぶへむら/善右衛門新田/亀いど村/おむらい村/平井むら/小松川/石き村/松もと村/小いわ村/笠つか村/かまたむら/ほり切村/宝木づか/小すげ村/小やの村/柳原村/あやせ村/水どはしおち/ゑのきど/大はら村/すのまた/はな又村/うたた村/長田村/川はた村/大はたむら/木下川/木下むら/弥五郞新田/長はつ新田/かまくら新田/嘉兵衛新田/久左衛門新田/八右衛門新田/おおと新田/荻しん田/深川出村/まよりも/弐合半領/大水にて/船ばし/行とく/市川辺/八わた/くまが谷/木下風/松/戸/小がね/みな利根川/の道すじなり
○まん本所に/小むめ村/押あげ村/うけち村/柳しま村/うめたむら/てらじま村/さなへ村/かめあり村/すさき村/若みや村/千ば村/四ツ木むら/大どむら/しぶへむら/善右衛門新田/亀いど村/おむらい村/平井むら/小松川/石き村/松もと村/小いわ村/笠つか村/かまたむら/ほり切村/宝木づか/小すげ村/小やの村/柳原村/あやせ村/水どはしおち/ゑのきど/大はら村/すのまた/はな又村/うたた村/長田村/川はた村/大はたむら/木下川/木下むら/弥五郞新田/長はつ新田/かまくら新田/嘉兵衛新田/久左衛門新田/八右衛門新田/おおと新田/荻しん田/深川出村/まよりも/弐合半領/大水にて/船ばし/行とく/市川辺/八わた/くまが谷/木下風/松/戸/小がね/みな利根川/の道すじなり
右水入の者、不残、伊奈半左衛門様御屋敷のまへ通りに、御小屋をかけさせられ、御すくい給る事、誠に広代の御慈悲なり。ちう夜御見𢌞りの上、病人ていの者には、御薬を被下置。小どもには「ぜんべい」五枚づつ、女どもには、髪の油、元結、差紙迄、被下事、ひとへに御慈悲深き事なりけり。
右の水入りの者は残らず伊奈半左衛門様御屋敷の前通りに御小屋を掛けさせられてお救いになること、まことに広大の御慈悲である。昼夜お見回りの上、病人らしい者には御薬を下し置かれ、子供には煎餅五枚ずつ、女どもには髪の油、元結、差紙まで下されたことは、ひとえに御慈悲深いことであった。
〔図二 大水場所附 全〕
〔図二 大水場所附 全〕
そもそも、この水、前には聞くことなかりしに、かう夥しく出でぬるよしは、必、ゆゑあることになん。
そもそもこの水がこれまで聞いたことがないほどおびただしく出たのには、必ず理由がある。
安永のすゑつかた、町奉行牧野隅州の聞えあげて、新大橋の西の岸を、南へ弐町四方あまり築き出だして、これを中洲町と唱へたり。
安永の末ごろ、町奉行牧野隅州が上申して、新大橋の西の岸を南へ二町四方あまり築き出し、これを中洲町と呼んだ。
この処、夏は、夜毎に百あまりの茶店軒を並べて、数多の提灯を掛けわたし、おのおの、前に棧橋を投げわたして、船の客の登るに便りとす。仙台河岸より、これを見れば、衆星の晃くごとく、月なき夜半も、金波、流れて、玉兎もここに走るかと怪しまる。大橋の南の袂には、「四季庵」といひし酒楼あり。或は異形の見せ物、「水からくり」、「乞児鶴市」が身ぶり、声色なんどいふ「ゑせ俳優」に至るまで、かぞへ挙ぐるに遑あらず。小浜侯の邸のむかひは、米屋、酒店、煙草商人、薪屋、銭湯、太物店、棟木をまじへ、檐端をならべて、物として、あらぬが、なし。されば、夜毎に、「この河水に劣らじ」とのみ、集ひ泛る「やかた」、屋根船の、いと多なる、さしも広かる大河に、揖とりなやむばかりなり。そが中に、「花火、花火」と、よぶ、船、あり、「間酒」、「さかな」を売る船あり、「くだもの」を売る船もあり。「こよひは誰殿の花火あり」「翌の夜は何がしが花火あり」と罵りつつ、水陸ともに、人、群集して、錐を立つる地も、なかりき。昔し、「三股河のおどり船」と唱へたるも、いかにして、この中洲にますべき。当時、両国河は、けおされて、「貧女の一灯」とも、いはましや。冬は、又、「地獄」とか唱ふる「かくし売女」の、ここにつどひて、媚を売り、客をむかへて、あだし仇浪よせてはかへす浅妻ならで、浅ましき世わたりをすと聞えしかば、見し夕顔の冬枯るる五条わたりに似るべくもあらざりき。〔当時、書肆仙鶴堂が、北尾政美に画かせて板にせし中洲の納涼の浮世絵あり。「燕石雑志」に載せたるもの、是なり〕
この所は夏には夜ごとに百あまりの茶店が軒を並べ、数多の提灯を掛け渡し、それぞれ前に桟橋を渡して船の客が上がる便とした。仙台河岸から見ればもろもろの星がきらめくようで、月のない夜半も金波が流れて月の兎もここに走るかと怪しまれた。大橋の南の袂には四季庵という酒楼があり、あるいは異形の見世物、水からくり、乞食の鶴市の身ぶり声色などという似非役者に至るまで数え上げる暇がない。小浜侯の屋敷の向かいは米屋、酒店、煙草商人、薪屋、銭湯、太物店が棟木を交え軒端を並べて、ないものはなかった。だから夜ごとにこの川の水に劣るまいとばかり、集まり浮かぶ屋形船や屋根船があまりに多く、あれほど広い大河で舵取りに難儀するほどであった。その中に花火花火と呼ぶ船があり、燗酒や肴を売る船があり、果物を売る船もあった。今宵は誰殿の花火がある、明日の夜は何某の花火があると言い騒ぎつつ、水陸ともに人が群集して錐を立てる地もなかった。昔、三股川の踊り船と呼んだのも、どうしてこの中洲にまさろうか。当時、両国川は圧倒されて貧女の一灯とでも言うべきありさまだった。冬にはまた地獄とかいう隠し売女がここに集まって媚を売り客を迎え、あだ波の寄せては返す浅妻ではなく浅ましい世渡りをすると聞こえたので、夕顔の冬枯れる五条あたりに似るはずもなかった。〔当時、書肆仙鶴堂が北尾政美に描かせて板にした中洲の納涼の浮世絵がある。『燕石雑志』に載せたものがこれである。〕
この他、両国橋の東の岸を西ヘ一町ばかり築き出ださして、ここにも亦、茶店ありけり。「この二ケ所の出洲によりて、大河の幅、狹くなりぬ。ここをもて、川上より推しくだす水の勢、これらの洲崎にささえられ、洪水の時に当りて、水のますこと、前よりは、三尺にあまるから、その水、四方へ、わかれ、溢れて、下谷、浅草の湿地はさらなり、神田川の水、逆流して、牛込、小石川の果までも、その蔽を受くるなり」と、水理にくはしき人は、いひけり。
このほか両国橋の東の岸を西へ一町ばかり築き出させて、ここにもまた茶店があった。この二か所の出洲によって大河の幅が狭くなった。そのため川上から押し下る水の勢いがこれらの洲崎に支えられ、洪水の時に水の増すことが以前より三尺あまりになるので、その水が四方に分かれあふれて、下谷浅草の湿地はもちろん、神田川の水が逆流して牛込小石川の果てまでその破れを受けるのだと、水理に詳しい人は言った。
この理りを、官にも、みこころ、つかせ給ひにけん、寛政の初に至りて、彼両国の出洲を廃してもとのごとくに浚せ給ひ、次に、中洲を掘りとらせて、旧のごとくに、し給ひき。
この理を公儀もお心づきになったのだろう、寛政の初めになってあの両国の出洲を廃して元のように浚わせ、次に中洲を掘り取らせて旧のようになされた。
このとし、秋より冬まで、江戸中なる屋形船、屋根船も、みな、その屋根をとりはなち、茶ぶね、「にたり」にうちまじりて、土をかきのせつつ、ゆきては、かへる。その船、いくそばくなるを、しらず。まいて、鋤、鍬を把る人夫等の、数百人、日毎に、つどひて、潮退けば、掘りうがち、潮、みちくれば、休らふもはてしなきまで、らうかはし。
この年、秋から冬まで江戸中の屋形船も屋根船もみなその屋根を取り外し、茶船やにたり船に混じって土をかき載せては行き来した。その船の数は分からない。まして鋤鍬を取る人夫らが数百人日ごとに集まり、潮が引けば掘り穿ち、潮が満ちれば休むのも果てしなく騒がしかった。
当時、四方山人の、この土揚舟を見て、よめる歌、
当時、四方山人がこの土揚げ舟を見て詠んだ歌。
屋根舟も やかたも今は 御用船 ちちつんやんで つちつんでゆく
屋根船も屋形船も今は御用船、ちちつんやんで、土積んで行く。
これらは、後のことながら、福も基あり、禍も胎あり。およそ丙午の供水は、両国中洲の出崎に、よれり。その言、たがはざりけるにや、件の二ケ所の廃されてより、洪水は、なほ、しばしばなれども、本所、深川のみにして、御成道を、船もて渡り、小石川、牛込にて溺死するものは、なし。かかれば、この水理の説を、物にしるさば、後の世の人のこころ得になるよしもあらんから、予は、深川にて生れしかひにをさなかりし時、両三度、人となりても、ふたたびまで、出水に屋を浸されて、その進退に、こころ得たれど、江戸にて、かかる洪水は、前代未聞と、いひつべし。
これらは後のことながら、福にも始めがあり禍にも始めがある。およそ丙午の洪水は両国と中洲の出崎によるものだった。その言葉は違わなかったのか、この二か所が廃されてからは、洪水はなおしばしばあるけれども本所深川だけで、御成道を船で渡り、小石川牛込で溺死する者はない。だからこの水理の説を物に記せば後の世の人の心得になることもあろうから。私は深川で生まれたおかげで、幼かった時に二、三度、成人してからも二度まで出水に家を浸されてその進退を心得ているが、江戸でこのような洪水は前代未聞と言ってよい。
又、この洪水の夜に〔七月十六日〕、猿江わたりの民の女房、ふたつになりける児を抱きて、いかにかしけん、溺れつつ半町あまり流されしに、ゆくりなく巨樹の杪に右の手をうちかけて、からくも、推しのり、留りたり。さりけれども、児は左りに抱き揚げたる、腰より下は水を得いでずとばかりにして、人のしらねば、助けらるべき命にあらず。益なく、胆を冷さんより、「母子もろ共に、死ばや」とて、杪にすがりたる右の手をはなたんとしたれども、手は凝著たるやうにおぼえて、心ともなく、絶えてはなれず。とかくする程に、天は明けて、「たすけ船」の漕ぎよせつつ、船に乗らしてぞ、将てゆきぬ。この時はじめて、抄を見しに、いと大きなる蛇の、わが右の手を、木の枝もろ共、いくつともなく、巻きてをり。「さては。わが手のはなれざりしは、この故なりき。」と、おもふにも、忝きこと、限りもあらず。そが船に乗る程に、蛇は、忽、巻ほぐして、ゆくへもしらずなりしとぞ。
またこの洪水の夜〔七月十六日〕、猿江あたりの民の女房が二つになる子を抱いて、どうしたのか溺れながら半町あまり流されたが、思いがけず大木の梢に右手を打ちかけて、かろうじて押し乗り、とどまった。しかし子は左に抱き上げて、腰から下は水を出られないというだけで、人が知らないから助かる命ではない。無駄に肝を冷やすより母子もろともに死のうと、梢にすがった右手を放そうとしたが、手は凝り着いたように覚えて、意に反してまったく離れない。そうこうするうちに夜が明けて助け船が漕ぎ寄せ、船に乗せて連れて行った。この時初めて梢を見ると、たいそう大きな蛇が自分の右手を木の枝もろとも幾重にも巻いていた。さては自分の手が離れなかったのはこのためだったのだと思うにつけ、かたじけないこと限りない。その船に乗るうちに蛇はたちまち巻きほぐして行方知れずになったという。
或は、いふ、「この女房は舅姑に孝順にて、且、年来、神仏をふかく信ずるものなれば、その応報か」と聞えたり。そが村の名も、夫の名も、まさしく聞きたることながら、しるしもつけず、年を経て、いふかひもなく、忘れたり。
ある人は、この女房は舅姑に孝順で、年来神仏を深く信じる者なので、その応報かと言うと聞こえた。その村の名も夫の名も確かに聞いたことなのに記しもつけず、年を経て言うかいもなく忘れた。
この余、溺死のあはれなる当時の風聞、耳に盈たり。思ひいでなば、いくらもあらんを、みな、伝聞のみにして、定かならねば、心にとめず。今さら思へば、夢に似たり。かりそめの事なりとも、その折、錄しおかざれば、後に悔しき事ぞ、多かる。されば、丙午の一とせは、火災、洪水に狼狽してはかなく月目をおくる程に、九月に至りて大喪あり〔将軍家治公薨去。浚明院と号す〕。この故に、神田明神の祭礼を十一月十五日に渡されにき〔十五目の朝、白雪、霏々たり。しかれども、程なく、やみたり。雪中に祭のわたりし、めづらし〕。とにもかくにも、上下の為に、いと、うれはしき年にぞ有りける。
このほか溺死の哀れな当時の風聞は耳に満ちた。思い出せばいくらもあろうが、みな伝聞だけで定かでないので心に留めない。今さら思えば夢に似ている。かりそめのことでもその折に記しておかないと、後に悔しいことが多い。そして丙午の一年は火災と洪水に狼狽して、はかなく月日を送るうちに、九月になって大喪があった〔将軍家治公薨去。浚明院と号す〕。そのため神田明神の祭礼を十一月十五日に渡した〔十五日の朝、白雪が霏々と降った。しかし程なく止んだ。雪の中に祭りが渡ったのは珍しい〕。とにもかくにも上下のために憂わしい年であった。
明くれば、七年丁未、春より、米穀の価、登躍してはじめは、銭百文に白米六合を換ふと聞えしが、五合に至り、四合に至り、五、六月に及びては三合になるものから、それすら買はんとほりするもの、容易くは得がたかりき。米穀、かくのごとくなれば、麦、大豆、小豆、粟、黍、稗の類まで、これに称うて、其価、甚、貴し。
明ければ七年丁未、春から米穀の値が跳ね上がり、初めは銭百文に白米六合を換えると聞こえたのが五合になり四合になり、五、六月には三合になるうえに、それすら買おうとする者が容易には得られなかった。米穀がこのようなので、麦、大豆、小豆、粟、黍、稗の類までこれに応じてその値がはなはだ高かった。
ことのもとを原るに、三年癸卯の秋、浅間山、焼けて、関東に焦土を降らせしとき、上野、下野、信濃、美浜、武蔵〔武蔵は北の両三郡〕、下総〔上におなじ〕の国々に、熱湯、砂石を推し流して、田畑、これが為に荒土となりし処、少からず。この年、奥の仙台、南部、津軽、出羽の果まで、五穀、登らず。餓莩、相食ひし事、後に聞くすら、駭嘆したり。この他も、「五穀不熟にして、稲毛、みつがひとつ」と、いへり。
事の元を尋ねると、三年癸卯の秋、浅間山が焼けて関東に焦土を降らせたとき、上野、下野、信濃、美濃、武蔵〔武蔵は北の二、三郡〕、下総〔上に同じ〕の国々に熱湯や砂石を押し流し、田畑がこのために荒れ地となった所が少なくない。この年、奥州の仙台、南部、津軽、出羽の果てまで五穀が実らず、餓死者が相食んだことは後に聞いてさえ驚き嘆いた。このほかも五穀不熟で稲毛は三つに一つと言われた。
四年甲辰の秋のみいりぞ、去歲に、いささか、ましたれども、なほ豊作といふに、足らず。この歲七月〔六月十四日、十五日〕なゐふること、両度〔「消夏自適」には、この大地震、天明二寅年七月十四日丑の刻、翌十五日両度とあり。予がおぼえ、たがへたるにやあらむ〕にして、朱門高厦も、柱、傾き、瓦、落ちざる処、少からず。只、人々の恙なきを祝するのみ。幸ひにして元禄癸未の凶変に似ざりしを、自他おしなべて、よろこびにき。予が東西をおぼえしより、震の甚しかりしは、この甲辰の七月両度と、文化壬申十一月四日とのみ、しかれども、甲辰は、壬申よりも、猶、甚しかりしなり。
四年甲辰の秋の実りは去年より少しはましだったが、なお豊作というには足りない。この年七月〔六月十四日、十五日〕地震が二度あり〔『消夏自適』にはこの大地震は天明二年寅年七月十四日丑の刻と翌十五日の両度とある。私の覚えが違っているのだろうか〕、朱門高楼も柱が傾き瓦が落ちない所は少なかった。ただ人々の無事を祝うのみ。幸いにして元禄癸未の凶変に似なかったのを、自他ともに喜んだ。私が東西をわきまえてから地震のはなはだしかったのは、この甲辰の七月両度と文化壬申十一月四日だけである。しかし甲辰は壬申よりなおはなはだしかった。
かかるに六年丙午の火災、水損は、既に上にしるすが如し。
そこへ六年丙午の火災と水損はすでに上に記したとおりである。
かう、荒凶のうちつづきて、四、五年を歴しことなれば、米価のたかき、ことわりながら、商賈は、なほ、利を射ん為に、あちこちの米粟を、いちはやく、買ひとり、蔵めて、蠹み、朽つるまで、出ださず。中買、小売の商人までも、おのもおのも、彼に倣ひて、且、利の上に利を見ざれば、あれども、「なし」とて、売らざりけり。この故に、貧士、賎民、露命を繋ぐに、由なくして、ことのよしを、奉行所へ訴出でつつ、あはれ、「米商人等が、隠しもてる米を出だして、売らしめ給ヘ」と願ひまうせしも、ありしとぞ。
こう凶作が打ち続いて四、五年を経たのだから米価が高いのは当然ながら、商人はなお利を得ようとあちこちの米粟をいち早く買い取って蔵に納め、虫が食い朽ちるまで出さない。仲買や小売の商人までもがそれぞれ彼らに倣い、かつ利の上に利を見なければ、あっても「ない」と言って売らなかった。そのため貧しい武士や賤民は露命をつなぐすべがなく、事の次第を奉行所へ訴え出て、米商人らが隠し持つ米を出して売らせてくださいと願い申す者もあったという。
これより先に、「良賎、なべて、粥を、たうべよ」と徇させ給へり。このときの町奉行は、曲淵甲州と、山村信州なりしが、信州は、新役にて、甲州は故﨟なり。
これより先に、貴賤なべて粥を食べよとお触れになった。このときの町奉行は曲淵甲州と山村信州だったが、信州は新任で甲州は古参であった。
この夏、五月の頃にや、ありけん、甲州、件のねがひ人等を、よびのぼして、「汝等が願ひにより、米商人等を穿鑿したれど、彼等に、「米は、なし。」と、いへり。げに、あき人の事なるに、ある米ならば、売るべきに、売らぬは、なきが、まことなるべし。かう、嗛らぬ折からは、糧を食ふに、ますこと、なし。われ、一方を誨んか。味噌豆をよく熬て、升の底もて、推すときは、砕けて、ふたつにならぬは、なし。扨、其豆に、麦まれ、稗まれ、野菜まれ、多く加へて、炊きて、たうべよ。そは、腹もちのよきものなれば、一食にても、足らんず」と、ねもごろにいはれしを、誰とて、承伏するもの、なく、稠人の後辺にをりて、遠く隔りたるものは、なかなかに憚らず、悪口しつるも、少からねど、多人数の事なれば、召捕ふるに得およばで、ひとしく追ひ立てられしとなん。これぞ、この人気の苛立はじめなるべし。
この夏五月のころだったか、甲州がその願い人たちを呼び上げて、「お前たちの願いにより米商人らを詮議したが、彼らは米はないと言う。実際商人のことだから、ある米なら売るはずで、売らないのはないのが本当だろう。こう足りない折には糧を食うにまさることはない。私が一つ方法を教えよう。味噌豆をよく炒って升の底で押せば、砕けて二つにならないものはない。さてその豆に麦なり稗なり野菜なりを多く加えて炊いて食べよ。それは腹持ちのよいものだから一食でも足りるだろう」とねんごろに言われたが、誰も承服する者はなく、群衆の後ろのほうにいて遠く隔たった者はかえって憚らず悪口を言うのも少なくなかったが、多人数のことなので召し捕るには及ばず、一様に追い立てられたという。これがこの人心の苛立ちの始まりだろう。
このあはひ、舂米屋等、相謀ひて、「舂米を買はん」とて、来る人別に、百文、或は、二百文と定めて、その外を、売り与ヘず、それすら、黎明より巳の時まで、或は巳の時より正午までなんど、時刻を定めて売りしかば、「買ひ後れじ」とて、立ちつどふ老若男女、囂々しく罵るもあり、推さるるもあり、果は、突き倒し、𤔩みあうて、泣き叫ぶも、少からず。それも、後には、札を出だして、何処の米屋も、売らずなりぬ。
この間、舂米屋らは相談して、舂米を買おうと来る人ごとに百文あるいは二百文と定めてそれ以上は売り与えず、それすら夜明けから巳の刻まで、あるいは巳の刻から正午までなどと時刻を定めて売ったので、買い遅れまいと立ち集まる老若男女が騒々しく罵る者もあり、押される者もあり、果ては突き倒し掴み合って泣き叫ぶ者も少なくなかった。それも後には札を出して、どこの米屋も売らなくなった。
この故に、麦を買はんと、ほりすれども、麦を得がたく、野菜を求めんと、ほりすれども、その価、廉ならず。ここをもて、せんかたも、つき、寒民は昆布、海帯、鹿尾菜などを食として、一両月を凌ぐもあり。
そのため麦を買おうとしても麦は得がたく、野菜を求めようとしてもその値は安くない。ここにおいてなすすべも尽き、貧民は昆布、荒布、ひじきなどを食として一、二か月を凌ぐ者もあった。
又、「豪家」と唱へらるる三井、越後の呉服店、糸店、両替店ともに、琉球芋を多く蒸して、半切の桶に入れ、店の四隅、便宜の処にすゑ置きて、十五歲以下の小厮の走り𢌞りするものに、恣にとり啖せしかば、日毎に穀をはぶきしこと、大かたならずと聞えたり。
また豪家と呼ばれる三井、越後屋の呉服店、糸店、両替店はともに琉球芋を多く蒸して半切の桶に入れ、店の四隅の便宜の所に据え置き、十五歳以下の小僧の走り回る者に思うままに食べさせたので、日ごとに穀物を節約したことは並大抵でなかったと聞こえた。
又、兵法をもて、世わたりとせし、某氏あり。こは、「避穀の方をもて、夫婦共に、穀を啖はざること、十五日にして、恙なかりし」と、いへり。そは、何の方を用ひたるか、しらねども、救餓避穀の方は、少からず。只、予は、いまだ経験せざるのみ。ここに、その二、三をいはば、
また兵法で世渡りをしていた某氏がいる。この人は避穀の法で夫婦ともに穀物を食べないこと十五日で無事だったという。それが何の方法を用いたのかは知らないが、飢えを救い穀を避ける方法は少なくない。ただ私はまだ経験していないだけである。ここにその二、三を言えば、
一方に云、「白茅根を洗ひ浄め、細かにして、或は、石の上に晒し乾し、搗きて、粉として、水をもて、壱匁を服すれば、穀を避けて、暫、不餓。」といふ。又、一方に、「赤小豆一升、大豆一升、各その半を炊て、共に搗きて、粉となして、一合を、新水もて、服すること、日々に三度、その三升を用ひ尽すときは、十一ケ日を経て不餓。」といふ。一説に、小豆をくらへば、津液、小便より、去りて、人をして、虚痩せしむるとも見えたり。
一つの方に、白茅根を洗い清め細かくして、あるいは石の上に晒して乾かし、搗いて粉にして水で一匁を服せば、穀を避けてしばらく飢えないという。また一つの方に、赤小豆一升と大豆一升、それぞれ半分を炊いてともに搗いて粉にし、一合を新しい水で服すること日に三度、その三升を使い尽くすときは十一日を経て飢えないという。一説に、小豆を食べれば津液が小便から去って人を痩せさせるとも見える。
又、一方に、松樹の「あまはた」〔日に晒して細末〕壱斤、人参一両、白米五合、右三種を粉となして、よき程に、丸し、蒸籠もて、むして、軍兵十五人に配分すれば、一劑をもて三日づつたもつものとぞ。こは、「竹中半兵衛が救餓の方なり」といふ。これらは、ちか比、水府の医官原氏が「砦草」にも見えたり。又、「原氏の家方なり」とて、同書に載せたるは、
また一つの方に、松の木の甘肌〔日に晒して細末にする〕一斤、人参一両、白米五合、右三種を粉にしてよい程に丸め、蒸籠で蒸して軍兵十五人に配分すれば、一剤で三日ずつ持つという。これは竹中半兵衛の救餓の方だという。これらは近ごろ水戸の医官原氏の『砦草』にも見える。また原氏の家方だとして同書に載せたのは、
白蝋一斤、南天燭子、氷砂糖、各、半斤、右、蕎麦粉の粥もて、桃の実の大さに丸し、日々、一枚を服すれば、不餓。戦陣に臨みて、嚼みくだき、水にて服すれば、気、不乏。もし、飯を食んと、ほりせば、塩湯をもて、解すべし。こは、その先人の伝方なりといへり。この他、「救荒本草」を考ふべし。さのみは、錄し尽さざるのみ。
白蝋一斤、南天燭子と氷砂糖各半斤。右を蕎麦粉の粥で桃の実の大きさに丸め、日々一枚を服せば飢えない。戦陣に臨んで噛み砕き水で服せば気が乏しくならない。もし飯を食べたいと思えば塩湯で解くべし。これはその先人の伝方だという。このほか『救荒本草』を考えるべきである。そうそうは記し尽くさないだけである。
人すら、かくのごとくなれば、犬、猫は痩せ衰へて、骨立して、道路に臥したり。五、六月のころにやありけん、松島町なるむかひの武家の大溷に、痩せたる犬のうちつどひて、草を啖ひゐたりしを、予の、まのあたりに見たること、あり。かかる類、多かるべし。
人でさえこのようであるから、犬や猫は痩せ衰えて骨立ち、道路に臥していた。五、六月のころだったか、松島町の向かいの武家の大溝に痩せた犬が集まって草を食っていたのを私が目の当たりに見たことがある。こういう類は多かっただろう。
さる程に、五月晦日のことにやありけん、この夜、戌の比及に、俠客どもの、むら立ち起りて、麹町なる米商人の「いちくら」を、理不尽に破却せり。これぞ、世に「うちこわし」といふものの、手はじめとぞ聞えたる。
そうするうちに五月晦日のことだったか、この夜戌の刻ごろ、侠客どもが群れ立って麹町の米商人の市蔵を理不尽に打ち壊した。これが世に「打ちこわし」というものの手始めだと聞こえた。
かくて、その次の日より、或は、四、五十人、或は、百数人、一隊となりて、江戸中なる米屋の店を破却すること、日として、間断なかりけり。はじめは、夜中もしくは、早朝のみなりしが、後には白昼にも、この騒劇あり。その破却する物の響、罵り叫ぶ人の声、弗撥囂塵として、十町の外に聞えたり。
こうしてその次の日から、あるいは四、五十人、あるいは百数十人が一隊となって江戸中の米屋の店を打ち壊すことが日として絶えなかった。初めは夜中か早朝だけだったが、後には白昼にもこの騒ぎがあった。その打ち壊す物の響き、罵り叫ぶ人の声は騒然として十町の外まで聞こえた。
予は、京橋南伝馬町なる米商人万作が店を、破却せられし迹へ、ゆくりなくもとほりかかりて、見てけるに、米穀は、みな、俵を斫断て、その店前に引きちらし、衣類、雑具は箪笥、長櫃を、うち破りて、路中へ投げ棄てたれば、ゆくもの、道をさりあへず。その米を拾はんとて、貪民の妻、婆々、小女さへ、乞児と共に、うちまじりて、袂に摑みこみ、囊にいるる有さまは、恥をしらざるものに似たり。さりとて、制するものも、なし。
私は京橋南伝馬町の米商人万作の店が打ち壊された跡へ思いがけず通りかかって見たが、米穀はみな俵を切り裂いてその店先に引き散らし、衣類雑具は箪笥長持を打ち破って道の中へ投げ捨てたので、行く者が道を避けきれない。その米を拾おうと貧民の妻、婆、小娘までが乞食とともに入り混じって袂に掴み込み袋に入れる有様は恥を知らない者に似ていた。そうかといって制する者もない。
このごろ、小日向水道町にて、豊島屋といふ米商人の、其店を破却せられし有さまを、予が、めのをんなは、見たりしに、そのことの為体、これかれ、同じかりきと、いへり。この故に、「米あき人」ならざるも、店のさまの、相似たるは、破却せられしも、間々、ありけり。
このごろ小日向水道町で豊島屋という米商人がその店を打ち壊された有様を私の妻が見たが、その体たらくはあれもこれも同じだったという。そのため米商人でなくても店の様子が似ているのは打ち壊されたことも間々あった。
これにより、市のかみより、寄騎、同心を出だされて、制せさせ給ひしかども、勢、当るべくも、あらず、只今、ここにあるかとすれば、忽焉として、隣町に、あり。「あふれもの」どもの、そが中に、年、十五、六の「大わらは」の、いつも、衆人に先きだちて、軒に手をかけ、矮楼に飛び入り、奮擊すること、大かたならず。「これは、人間わざならで、必、天狗なるべし」とて、「牛若小僧」と唱へつつ、人みな、戦き怕れしが、後に、その素生を聞きしに、「「大工わらは」といふものにて、渠、十二、三のころよりして、身軽く、力、あり、つねに好みて、梁をわたるものなり」とぞ。
これにより町奉行から与力同心を出して制せさせられたが、勢いは当たれるものではなく、今ここにあるかと思えばたちまち隣町にある。溢れ者どもの中に年十五、六の大童がいつも衆人に先立って軒に手をかけ、二階に飛び入り奮撃することは並大抵でなかった。これは人間業ではなく必ず天狗だろうと「牛若小僧」と呼んで人はみな戦き恐れたが、後にその素性を聞くと、大工わらべというもので、十二、三のころから身軽く力があり、常に好んで梁を渡るものだという。
はじめ、両三日の程、甲州も、馬を出だして、「制せん」と、せられしかど、彼等、いかにか角ひけん、搦め捕れしもの、ありとも聞えず。そのいく隊なる「溢れ者」を、いづれの町の、誰が店子ぞと、定かにしれるものも、あらず。この故に、「「うちこわし」の奴原あらば、速に搦め捕るべし。若、手にあまらば、擊ち殺し、斫殺すとも、けしうは、あらず」と、いと、厳に、町ぶれ、有りけり。これにより、町々なる家主に、おのおの、竹鎗を用意して、夜は、暮六つより、路次を閉ぢ、店番といふものを輪番せしめて、店中を巡らする物からもし、その店の米屋が家に、件のものどもの、むらだち来て、破却することあるときは、店番は、あわて、まどひて、拍子木だも、嗚らし得ず、家主は、竹鎗を引き提げながら、路次の戸内にふるひゐて、阿容々々として、こはさせけり。
初め二、三日のあいだ甲州も馬を出して制しようとされたが、彼らがどう相撲を取ったのか、搦め捕られた者があるとも聞こえない。その幾隊もの溢れ者がどこの町の誰の店子かと確かに知る者もない。そのため「打ちこわしの奴輩があれば速やかに搦め捕るべし。もし手に余れば打ち殺し切り殺しても構わない」と、たいそう厳しく町触れがあった。これにより町々の家主は各自竹槍を用意して、夜は暮六つから路地を閉じ、店番というものを輪番させて店中を巡らせたが、もしその店の米屋の家にくだんの者どもが群れ立ち来て打ち壊すことがあると、店番は慌て惑って拍子木も鳴らせず、家主は竹槍を引き提げながら路地の戸の内で震えて、おめおめと壊させた。
この事、只、江戸のみならず、京、大坂も、亦、かくのごとし。「凡、米屋といふ米屋の、米をもてるも、持たざるも、破却にあひしは、闕遺なし」と、六月の末に聞えけり。こは、「未曽有の奇事」と、いはまし。かくて、米屋には、なごりなく、破却せられて、そのことは、いつとなく、凡、一旬あまりにして、かき消すごとく、鎮まりぬ。さればとて、そのものどもの、召し捕れしとも、聞えず。
この事はただ江戸だけでなく、京大坂もまた同様であった。およそ米屋という米屋は、米を持っていてもいなくても、打ち壊しに遭わなかったものはないと六月の末に聞こえた。これは未曾有の奇事と言うべきだろう。こうして米屋は残りなく打ち壊され、その事はいつとなく、およそ十日あまりでかき消すように鎮まった。そうかといってその者どもが召し捕られたとも聞こえない。
只、湯島なる米商人津軽屋三右衛門〔今の棭斎が養父のときなるべし〕がいち宇のみ。破却を免れて、かへつて、その一人を擊殺せしといふ。こは、津軽侯より、足軽、許多遣して、護し給ひし故とも、聞え、或は、鳶の者等に、多く銭を取らして、日夜、防禦せし故とも、いへり。
ただ湯島の米商人津軽屋三右衛門〔今の棭斎の養父の時だろう〕の一軒だけが打ち壊しを免れて、かえってその一人を撃ち殺したという。これは津軽侯から足軽を多数遣わして守らせなさったためとも聞こえ、あるいは鳶の者らに多く銭を取らせて日夜防いだためとも言う。
昔、享保十七年壬子の秋、五穀、熟せず。これにより江戸中の米の価、銭百文に白米一升四合を換へしかば、衆俠、忽に、群り立ちつどひて、伊勢町なる坂間といふ米商人の「いちぐら」を破却したるこそ、未曽有の珍事なれとて、故老の口碑に伝へたれども、そは、只、坂間一箇のみ。天明丁未の奮擊は、京、摂、江戸の三郡会、同月一時に起り立ちて、進退、符節を合せたるが如し。彼坂間のともがらをして、なほも世に在らしめば、将、これを見て、何とかいはんや。おもふに、享保、元文中は、金壱両を銭三貫八、九百文、或は四貫文に、かへたり。天明中の、八、九合に当るべし。それすら、貧民の憤りに堪へざりし事、右の如し。まいて、百文に白米三合を換ふに及びて、破却のなごりなかりしも、おのづからなる勢なるべし。この頃〔丁未の秋〕、御蔵をひらかせられて、江戸中へ米の価、下直にして下されけり。大約、一人に玄米一升五合と定めて、隈なく頒下されたる。この御仁政に、人気、感激し奉りて、市中、静粛する程に、新麦も、既に、いで来、古米も、諸国より運送、入津するにより、八、九月に至りては、百文に白米六、七合になりにけり。しかれども、「その日稼ぎ」といはるる寒民は、なほ、白米を求むるに、ちから、及ばで、或は、虫ばみたる陳米、或は、殼麦を、一、二升づつ購ひ求めて、これを日毎に、一升徳利とかいふ酒器に入れ、舂精げて、炊て、食ひけり。
昔、享保十七年壬子の秋、五穀が実らず、これにより江戸中の米の値が銭百文に白米一升四合を換えたので、侠客たちがたちまち群れ集まって伊勢町の坂間という米商人の市蔵を打ち壊したのは未曾有の珍事だと故老が口碑に伝えているが、それはただ坂間一軒だけである。天明丁未の奮撃は京、摂津、江戸の三都で同月同時に起こって、進退が割符を合わせたようであった。あの坂間の輩をなお世にあらしめたら、これを見て何と言ったろうか。思うに享保元文のころは金一両を銭三貫八、九百文あるいは四貫文に換えた。天明中の八、九合に当たるだろう。それですら貧民の憤りに堪えなかったことは右のとおり。まして百文に白米三合を換えるに及んで、打ち壊しに残りがなかったのも自然の勢いだろう。このころ〔丁未の秋〕御蔵を開かせられ、江戸中へ米の値を安くして下された。おおよそ一人に玄米一升五合と定めて隈なく分け下された。この御仁政に人心は感激し奉って市中が静粛になるうちに、新麦もすでに出てきて古米も諸国から運送入津するので、八、九月には百文に白米六、七合になった。しかしその日稼ぎといわれる貧民はなお白米を求める力が及ばず、あるいは虫食いの古米、あるいは殻麦を一、二升ずつ買い求めて、これを日ごとに一升徳利とかいう酒器に入れ、搗き精げて炊いて食べた。
この年、八、九月に至りても、小まへの商人の妻子どもが、おのもおのも、店前にて、聊か恥づる色もなく、彼徳利にて、米を舂きてをりしを、折々、見たる事ぞかし。
この年八、九月になっても小さい商人の妻子たちが各自店先で少しも恥じる色もなく、その徳利で米を搗いていたのを折々見たことである。
されば、次の年戊申の春の季よりして、「小人の曲子」に、思ひだしたよ、去年の五月、「とくり」で米ついたこともあると唄ひけり。
だから次の年戊申の春の末から、子供の小唄に「思い出したよ、去年の五月、徳利で米ついたこともある」と歌った。
これらは、里巷の「曲子」なれども、今も折々、うたはせて、魚肉、なくて、飯の、くらはれずなどいふ、世のわか人の警にせまほしく思ふなり。
これらは巷の小唄だが、今も折々歌わせて、「魚肉なくて飯の食らわれず」などという世の若い人の戒めにしたいと思う。
しかるに、丁未の夏、餓たる最中、伊豆、上総より、鰹の生節を出だししこと、限りも、しられず。その市中を売りあるくものを、買ふに、いと大きなる生節一つを、十四文、或は、十六文に買ひけり。又、「糟小鯛」とかいふ小鯛を、日毎に売りあるくものも、多かりしかば、是も、価の、いたく、やすかり。よりて、この魚肉をもて、飢に充つるも、少からず。「天の生民を養ふこと、彼に虧けば、ここに盈つ。等閑に、な、思ひそ」と、こころある人は、いひけり。
ところが丁未の夏、飢えている最中に伊豆と上総から鰹の生節を出したことは限りも知られない。その市中を売り歩く者から買うのに、たいそう大きな生節一つを十四文あるいは十六文で買った。また糟小鯛とかいう小鯛を日ごとに売り歩く者も多かったので、これも値がひどく安かった。よってこの魚肉で飢えを満たす者も少なくなかった。天が民を養うことは、あちらに欠ければこちらに満ちる。なおざりに思うなと心ある人は言った。
予は、この市中の艱難に、あはず。当時、某侯に仕へて、切米の外、月俸はつかに、三口を禀けたり。その月俸のうち、三斗の米を、月々に售る毎に、価のますこと、漸々にして、五、六月に至りては、虫の巣にて罹りたる陳米をのみ、わたされしに、その玄米三斗の価、金壱両三分になりたり。されば、出入と唱ふる町人等、月俸のわたる日に、未明より、宿所へ来て、「おん扶持米を払はせ給はば、某に給はり候へ。余人より、価よく申しうけ候はん」など、いふもの、多くて、果は、これかれ、せりあひつつ、「ことばすまひ」を起すも、ありけり。はつかの月俸すら、かくの如し。大禄の人々は、さぞ、有りぬべき事ながら、よき夢は、又、覚むるもはやきや、これによりて、永く富みたりといふ人をも、見ざりき。
私はこの市中の艱難には遭わなかった。当時、某侯に仕えて切米のほかに月俸としてわずかに三口を受けていた。その月俸のうち三斗の米を月々売るたびに値の増すことが次第で、五、六月には虫の巣にかかった古米ばかりを渡されたのに、その玄米三斗の値が金一両三分になった。だから出入りと称する町人らが月俸の渡る日に未明から宿所へ来て、お扶持米をお払いになるなら私にくださいませ、余人より値をよく申し受けますなどと言う者が多く、果てはあれこれ競り合って口論を起こす者もあった。わずかの月俸でさえこのとおり。大禄の人々はさぞかしだったろうが、良い夢はまた覚めるのも早いのか、これによって永く富んだという人も見なかった。
かかる中にも、唐津侯の封内は、去歲、豊作なりしにより、「かこひ米」、多くあり。「世上、米価の貴きこと、今の時に、ますもの、あらんや。されば、年中の月俸を、只今、一度に取らせなば、家臣等の為になるべし」とて、その年十二月までの月俸を、五、六月のころ、わたされしかば、みな歓ばずといふもの、なし。「しかるを、わかきともがらは、俄に徳つきたる心地して、後々の事を、思はず、多くは「品川がよひ」をしつつ、秋をも、またで、なごりなく遣ひたりしかば、米の価のさがりしころ、餓ゑて、せんかたなきも、ありし」と、ある人の話説なり。ことの虚実は定かならねど、筆のついでに識すのみ。
こうした中でも唐津侯の領内は去年豊作だったので囲い米が多くあった。世上の米価の高いことは今の時にまさるものがあろうか、それなら年中の月俸を今一度に取らせれば家臣らのためになるだろうと、その年十二月までの月俸を五、六月のころに渡されたので、みな喜ばない者はなかった。ところが若い連中はにわかに徳がついた心地がして後々のことを思わず、多くは品川通いをして秋も待たず残りなく使ってしまったので、米の値が下がったころ飢えてどうしようもない者もあったと、ある人の話である。事の虚実は定かでないが、筆のついでに記すだけである。
当時の米価を考ふるに、或書に、「五穀無尽蔵」を載せて云、「天明丁未夏六月上旬、諸国米穀の価、左の如し。
当時の米価を考えるに、ある書に『五穀無尽蔵』を載せて言う。天明丁未夏六月上旬、諸国米穀の値は左のとおり。
現米壱石/価銀弐百匁/江都は/金壱両に米一斗八升或は弐斗/加賀は米壱石に/百六拾壱匁/肥後は/百九拾匁/筑前は/百七拾六匁/広島は/百七拾四、五匁/中国米二俵は/価銀百五拾壱、弐匁/柴田米七月四日入札/弐百壱匁八分/大津沢米一石に/百七拾三四匁/白米一石は/価銀弐百拾五、六匁/小売一升に/銭弐百三拾八文/岡大豆壱石に/価銀八拾匁
現米壱石/価銀弐百匁/江都は/金壱両に米一斗八升或は弐斗/加賀は米壱石に/百六拾壱匁/肥後は/百九拾匁/筑前は/百七拾六匁/広島は/百七拾四、五匁/中国米二俵は/価銀百五拾壱、弐匁/柴田米七月四日入札/弐百壱匁八分/大津沢米一石に/百七拾三四匁/白米一石は/価銀弐百拾五、六匁/小売一升に/銭弐百三拾八文/岡大豆壱石に/価銀八拾匁
こはその崖略のみ。なほ、詳なるもの、あらんか、たづぬべし。又、家伯兄羅文居士の錄中に、「近世荒饑略考」の一編あり。謄写すること、左の如し。
これはその概略だけである。なお詳しいものがあるだろうか、尋ねるべきである。また私の長兄羅文居士の記録の中に「近世荒饑略考」の一編がある。書き写すこと左のとおり。
寛永十九壬子年、春より夏に至り、飢饉餓死多し。/今年迄百四十六年
寛永十九壬子年、春から夏にかけて飢饉で餓死者が多い。 今年まで百四十六年
延宝三乙卯年、天下飢饉、餓死多し。
延宝三乙卯年、天下飢饉で餓死者が多い。
将軍家下命、従三月至五月、於北野七本松原四条河原、貧人を集、粥及米銭施行、/今年迄百十四年
将軍家が命じて三月から五月まで北野七本松原と四条河原に貧人を集め、粥と米銭を施した。 今年まで百十四年
天和元辛酉年十一月、江戸凱僅、為御牧米三万俵披下之。/今年迄百三年
天和元辛酉年十一月、江戸飢饉、御救米三万俵を下された。 今年まで百三年
同二壬戊年二月、飢饉餓死多し。三月洛陽大雲寺、誓願寺、法輪寺、此外於諸寺銭施行、又餓死の為、一七日施餓鬼供養、於北野松原従将軍家粥施行。/今年迄百二年
同二壬戌年二月、飢饉で餓死者が多い。三月洛陽の大雲寺、誓願寺、法輪寺、このほか諸寺で銭を施し、また餓死者のために七日間の施餓鬼供養、北野松原で将軍家から粥を施した。 今年まで百二年
元禄九丙子年、自夏至秋、中国稲虫生ず。西国大名衆拝皆、餓民御救。/今年迄九十二年
元禄九丙子年、夏から秋にかけて中国で稲に虫が生じた。西国の大名衆が拝借し、餓民を御救い。 今年まで九十二年
享保十七壬子年、関東五穀不熟。依之窮民御牧。/今年迄五十四年
享保十七壬子年、関東五穀不熟。これにより窮民を御救い。 今年まで五十四年
宝暦六丙子年、五穀不熟。窮民御牧。/今年迄三十七年
宝暦六丙子年、五穀不熟。窮民を御救い。 今年まで三十七年
天明三癸卯年、関東五穀不熟。江戸及奥州飢餓、此節五千俵田沼山城守に被下之。信州浅間山焼崩、溺死多し。窮民満道路。依之被命於領主以鉄砲追之。或は打殺之。/今年迄五年
天明三癸卯年、関東五穀不熟。江戸および奥州飢餓、この節五千俵を田沼山城守に下された。信州浅間山が焼け崩れ、溺死者が多い。窮民が道路に満ちた。これにより領主に命じて鉄砲で追わせ、あるいは打ち殺した。 今年まで五年
同七丁未年、自春至夏江戸及諸国飢饉、至五月白米三合、代銭百文に及ぶ。都下の俠者及餓民等、江戸中の米屋を破却闕遣無し。京、大坂も亦如此。至秋鎮る。追日為御救米の、直段下直に被下之。
同七丁未年、春から夏まで江戸および諸国飢饉、五月には白米三合が代銭百文に及んだ。都下の侠者および餓民らが江戸中の米屋を打ち壊し、残るものがない。京大坂もまた同様。秋に至って鎮まる。日を追って御救米として値を安くして下された。
右、友人吉岡雪碇、錄して、予に視之。因、「謄写、了」と、いへり。
右は友人吉岡雪碇が記して私に見せた。よって書き写し終わったと言っている。
解云、「当時を考ふべきもの、管見、纔に、これらにすぎず。天明の季より寛政中に至りても、米穀の価、いまだ、廉ならず。これにより、関東地𢌞りの酒造を禁めさせて、且、池田、伊丹も、醸酒の斛高を減じられたり。是より先に寛政二庚戌年、江戸町中の法則を定め下され、数ケ条の「くだしぶみ」を彫刻して一冊となし、入銀百廿四文と定めて、町役人及家持の町人等に頒ち取らせ給ひき。この時に当りて、江戸柳原の東北、「あたらし橋」の向に、「義倉」を建てられて、これを「籾蔵町会所」と唱ふ。すなはち、江戸中町入用の中、無益の雑費を省かしめ給ふこと、凡、八分、その中、七分を、毎月、籾蔵町会所に納めしめて、窮民を牧はせられ、且、荒年に備へしめ給ひぬ。無量広大の御仁政、これを仰げば、いよいよ、高し。孔聖、仁を先にして、食を後にするもの、寔にゆゑあるかな。星、移り、物、換りて、御規定の町法も頗変替したりといへども、義倉は、猶、巍然として、向柳原の外、又、ニケ所、その礎と共に、朽つるとき、なし。仮令、今より後、凶荒、年を累ぬとも、天明丁未の夏のごとき、四民、困窮して屋を壊り、物を損ふに至るべからず。且、丁未の忩劇も、餓民等、唯、米商人の奸詐、貪婪を憎み、恨みしのみ。露ばかりも、野心のもの、なし。便、是、神州忠直の人気の、おのづからなるものにして、異朝の及ぶ所に、あらず。しかしながら、亦、かけまくも、かしこき上への御至徳、御威光によるものなれば、万民、各々、業を奨みて、驕を袪け、泰平のうへにも、なほ、泰平を楽ふベきこと、勿論なるべし。よりて錄して。みづから警め人を箴むること、件の如し。
馬琴が言う。当時を考える材料は、管見ではわずかにこれらに過ぎない。天明の末から寛政中に至っても米穀の値はまだ安くならなかった。これにより関東地回りの酒造を禁じさせ、かつ池田伊丹も醸造の石高を減じられた。これより先、寛政二庚戌年に江戸町中の法則を定め下され、数か条の下し文を彫刻して一冊とし、入銀百二十四文と定めて町役人や家持の町人らに分け取らせなさった。この時に当たって江戸柳原の東北、新橋の向かいに義倉を建てられ、これを籾蔵町会所と呼ぶ。すなわち江戸中の町入用のうち無益の雑費を省かせなさることおよそ八分、そのうち七分を毎月籾蔵町会所に納めさせて窮民を救わせ、かつ凶年に備えさせなさった。無量広大の御仁政、これを仰げばいよいよ高い。孔子が仁を先にし食を後にしたのはまことに理由がある。星が移り物が変わって御規定の町法もかなり変わったとはいえ、義倉はなお巍然として、向柳原のほかにまた二か所、その礎とともに朽ちる時がない。たとえ今から後、凶作が年を重ねても、天明丁未の夏のように四民が困窮して家を壊し物を損なうには至るまい。それに丁未の騒動も餓民らはただ米商人の奸詐と貪婪を憎み恨んだだけで、露ほども野心の者はない。これこそ神州の忠直な人気の自然なもので、異朝の及ぶところではない。しかしながらまた、口にするのも畏れ多い上の御至徳と御威光によるものなので、万民おのおの業に励んで驕りを退け、泰平の上にもなお泰平を願うべきことはもちろんである。よって記して自ら戒め人を戒めること右のとおり。
再、いふ、「予、「丙午丁未和漢災変当否」の弁あり。あまりに弁の長くなれば、そは、又、別にしるすべし。
再び言う。私には「丙午丁未和漢災変当否」の弁がある。あまりに弁が長くなるので、それはまた別に記すことにする。
この余、文化以来、連歲、豊作、うちつづきて、米穀の価、或るは、金壱両に、石、二、三斗、或は、石、五、六斗、又、所によりて二石余なるもありし事、是により、諸家に命ぜられて、米粟を、多く、かこはしめ給ひ、又、江戸町中にも、その分際に応じて戸毎に米を買ひ入れさして、かこはしめ、いく程もなく、その事、やみて、その米を御あげになりし事、文政に至りても、江戸中の商人等に、「物の価を、一わり、引きさげて、売れ」と、ふれられし事、当時、士、農、豊年を憂ひとせし事、今玆に至りて、奥州半熟の聞えあり。美濃は洪水によりて、人、多く、溺死せし事、甲州に蝗の風聞のある事まで、悉くしるし尽さば、その間には、亦、論弁のなきにあらねど、かかる事には憚の関をいかがはせん。予は壮年より筆とる毎に、謹慎を旨として、禁忌に触るることは、記載せず。見ん人、これをおもひねかし。
このほか文化以来連年豊作が打ち続いて米穀の値が、あるいは金一両に一石二、三斗、あるいは一石五、六斗、また所によって二石余のものもあったこと、これにより諸家に命じられて米粟を多く囲わせなさり、また江戸町中にもその分際に応じて戸ごとに米を買い入れさせて囲わせ、いくらもなくその事が止んでその米を御上げになったこと、文政になっても江戸中の商人らに物の値を一割引き下げて売れと触れられたこと、当時、士も農も豊年を憂いとしたこと、今年になって奥州半熟の噂があること、美濃は洪水で人が多く溺死したこと、甲州に蝗の風聞のあることまで、ことごとく記し尽くせばその間にもまた論弁がないわけではないが、こういう事には憚りの関があってどうしようもない。私は壮年から筆を取るごとに謹慎を旨として、禁忌に触れることは記載しない。見る人はこれを思ってほしい。
附けていふ、この兎園の集莚は、必、月の朔日にすなるを、来ぬる霜月には、文宝堂のあるじすべきを、「さはること、あり」としも聞えしに、「けふなん、関東陽の誕節なれば」とて、その祝席を相兼ねて、社友を海棠庵につどへられしなり。よりて、いささか、ことほぎのこころをよみて、おくり物に、かふ。予が「たはれ歌」、
付けて言う。この兎園の集まりは必ず月の朔日にするのだが、来る霜月には文宝堂の主人がすべきところ、差し支えがあると聞こえたので、今日は関東陽の誕生日だからと、その祝いの席を兼ねて社友を海棠庵に集められたのである。よって少し祝いの心を詠んで贈り物に代える。私の戯れ歌。
よきたねの みばえし日とて 筆柿の わざに熟せし 君をことぶく
良い種が芽生えた日だといって、筆柿のように筆の業に熟したあなたを寿ぐ。
黄鳥、いまだ谷をいでずといへども、時今、小春にして喬木に遷るのおもひあり。交遊兼愛の情、ここに言なきこと、あたはず。莫逆風流の佳席、燭を続ぎて、長夜の闌なるを、おぼえず。そもそも、亦、愉快ならずや。
鶯はまだ谷を出ないとはいえ、時は今小春で、高い木に移ろうという思いがある。交遊兼愛の情はここに言葉なしにはいられない。莫逆の風流の佳い席、灯を継いで長夜のたけなわなのを覚えない。そもそもまた愉快ではないか。
文政八年乙酉十一月の兎園小説第十一集中の一編 同年の冬十月廿三日 玄同陳人解識
文政八年乙酉十一月の兎園小説第十一集中の一編 同年の冬十月二十三日 玄同陳人解 識す
右拙編数万言、楮数二十有五頁、所臨写印本五頁、亦在其中矣。
右の拙編は数万言、紙数二十五頁、臨写した印本の五頁もまたその中にある。
原文 / 昭和女子大学本の字句を採り、正字体を保持、振り仮名を外す

丙午丁未

愈文豹吹劍錄云丙午丁未年中國遇之必有災謝肇淛五雜俎載是言曰亦有不盡然者粤攷淸王士禎池北偶談又有其辯云丙午丁未從古以爲厄歲陰陽家云丙丁屬火遇午未而盛故陰極必戰亢而有悔也康熙丙午冬〔天朝寬文六年〕戸部尙書蘓納海督撫尙書王登聯等搆死丁未春災祲疊見彗星出太白晝見白眚出西北經月餘是歲七月輔臣蘇克薩誅死吾友程職方謂予欲裒輯前史所載丙丁災變徵應爲一書頃見宋理宗淳祐中柴望所上丙丁龜鑑十卷自秦莊襄王五十二年丙午迄五季後漢天福十二年丁未通一千二百六十載中爲丙午丁未者二十有一備摭事實係以論斷元至正中又有續丙丁龜鑑者補宋元事之闕前人已有此二書當考據故明三百年中事應以續二書之後といへり

解いはく天朝もいにしへより丙午丁未の年每にさるしるしのこりけるにやいまだ考索にいとまなければ見ぬ世の事は姑く措きつ

只予が親しく耳に聞き目に見えしまゝをもてすれば天明丙午の火災洪水丁未の饑饉にますものなしこは遠からぬ世の事にて五十已上の人々にはめづらしげなく思はれんを四十以下なる人々は故老の話說によるのみなりまいて今より後の人は昔がたりに聞きながして警め愼むこゝろ薄くば遂に又荒年の備へに懈ることもあるべし

抑この歲の凶荒は京の人原氏が五穀無盡藏とかいふものにしるしつけたりとは聞きしかど予はいまだその書を見ざりきさばれ只その書には諸國の米の價をのみをさをさしるしゝものとなんしからんには予が編のいと淺はかにて疎鹵なるも考據の爲になるよしあらんか

されど乙巳のみな月にはわが身失恃の憂あり又丙午の葉月には仲兄夭折せられたりかくうれはしく物がなしき折なりければ世上の事を只よそにのみ聞き捨てゝ書きつけおきしことはなきをこゝにはつかに思ひ出でゝその大かたをしるすよしは嚮に好問堂の出だされたる天明癸卯の秋のころ南部領なる凶荒の文書の編にちなみてなん

天明六年丙午の春正月元日の巳のときばかりに日蝕皆既なり貴賤となく貧富となく立ちかヘる年のはじめをなべてことぶくときなるに六合忽にとこやみとなりしかば心あるもこゝろなきも驚き怕れずといふものなし

この故に殿中にても總出の時刻などを例年にはたがへさせて蝕し果てゝ後にこそ年のはじめの御禮を受けさせ給ひしと聞えたれ

かくてこの日火災ありこれより後雨は稀にて風のしばしば吹けばにや江戶の中日每々々にこゝかしことなく兩三ケ所づゝ失火延燒してければ人みな駭き惑ひつゝ土庫をもてるは家財集具を索もてからげ衣裳調度を葛籠簞笥におしいれて所せきまで積みかさねつゝ今燒けぬと待つがごとしこゝをもていまだ類燒せざるものも燒きいだされに異ならず客ある家のともすれば茶碗にすらことをかきたりさればとておのもおのも遠謀遠慮あるにはあらで人ぞよめきの勢ひなれどもこれも時變の一端なるべし

かう罵りさわぐこと正月二月甚しく三月に至りてもなほ人こゝろしづかならず四月なかばになりてこそ世はやゝのどかになりにたれされば南畝子の四方のあか集にあらはれたる春日泉亭詠二雜煮餠一狂歌の序にもことしはひのえのわらは竹うまにのれるとしなめりと人々つゝしみおそれしがはたして春日野のとぶ火にはあらでもるてふ水の手あやまちより市人のかりずまゐも野守がいほの心地し侍りて今いくかありてざれごといひてんなどいひしらふもほいなしと書かれたり

とにもかくにもこの春は花見てくらす人は稀にて只火事の噂をしつゝありくらしゝもうるさかりき

當時燒原場所附とかいふものを賣りあるきしも多かりけれど見たるも忘れて思ひいでず今もなほ好事の家には藏弃したるもあらんかし

かくて夏にもなりにければ火災の噂はやみたりしにこの年七月十二日より雨のふりそゝぐことおびたゞしかりしに十四日より十六日に至りて又洪水のわざはひありまづ江戸は本所深川木場洲﨑竪川筋牛島柳島のほとりの洪水いへばさらなり下谷淺草外神田いづこも水に浸されぬはなし

予が叔父田原米嶽翁は本所林町なる武家に仕へたりしがその身は主の先途に立ちて家族を見かへるにいとまあらず家の内のものどもは長屋の屋根に登りつゝそが儘船に乘りうつりてからくして脫れしとぞ

又次の叔父兼子翁は御船手組の同心なれば水のうへにこゝろを得て船も亦自由なればこれもやからをいちはやく所親がり遣しゝに危きことはなかりしといへり

又予がめのをんなは大洲侯〔當時加藤作内と申しき後に遠江守に任ぜられたり〕の母うへにみやづかヘせしころなりければこれも又御徒町なる邸中より船に乘せられしがしのばずの池のはたなる同家加藤氏の邸中へみまへに倶して參りしにかしこも水の中なりきといへり

予もはらからも當時みな山の手にをりしかばこの水難にはあはねども親戚のうへ心もとなしゆきて訪はばやと思ふものから永代橋大川橋は往來をとめられて柳橋も亦人をわたさずこの他大橋の中の間破損して和泉橋は落ちたり只恙なきものは兩國橋一ケ所なれども本所深川の水高ければ船ならざるものゆくこと得ならず凡下谷はいづみ橋筋あたらし橋筋外神田御成道など商人の見世さきを船にて往還しつる事しらざるものはそらごとゝや思はん只これのみにあらずして小石川御門外牛込揚端どんど橋の邊りまでも前もて聞かぬ出水高くて溺死のものも少からず

かくて兩三日のゝち牛込の水の退きしを仲兄鶴忠子が見んとてゆきし折

けさひきしわだちの水のふなかはら泥鰍ふみこむ跡もどろ龜

當時鮒泥鰌なんどの泥に塗れてありけるをまのあたりに見てよまれしなりさはこの狂歌は絕筆にて次の月の初の四日にときのけにて身まかりにき享年廿二歲なりいとかなしともかなしかりしを身にしみじみと忘れがたさに言のこゝに及べるなり

只此わたりの水のみかは日本堤をうちこえて田町へ水のおしたれば聖天町山の宿淺草反畝もひとつになりて金龍山の裙を遶れりまいて千住松戶の邊葛西行德千葉のわたり熊谷浦和に至るまでみなこの水を受けぬはなし

されば十七八日のころよりして水見まひの良賤奔走しつゝ辨當偏提坐具調度をおもひおもひに齎らしてゆくものちまたに陸續たり

又關東御郡代伊奈氏のうけ給はりて馬喰町のあき地に假屋をしつらひ水厄のものを入れおかせて日每に粥を下されけり

當時市中を賣りあるきし大水場所附といふ地圖二本予が藏弃にあり草して左りに出だすもの是たり

丙午七月十八九日の比より市中を賣りあるきしもの〔誤字幷にかなちがひ等本のまゝなり是より下の四頁も乙酉十月廿二日臨寫す皆同時のものなり〕

上野下野秩父領 山水荒增記 上

▲ころは天明六のとし七月十二日夜より大雨しきりにふりつゞきて同十四日明方より江戶川すぢ出水して十五六日甚しく目白下の大どいながれせき口のはし中のはしみははし其外小ばし不殘おちにけり

小日向水道丁牛天神の下通り御大小名樣のまへ四五尺づゝも出水す

又龍けいばしどんどばし小石川御門水戶樣御屋敷の前通り水道橋凡五六尺づゝも水上り候へば往來はならざりけり

御上水の大どいには鐵をつみ石を置きつなを附水をふせぐ人足おびたゞし

御茶の水通りの土手二ケ所くづれ夫よりせう平ばしすぢかい御門のはしぎわより押上る水凡四五尺づゝも有ければ一向往來はなりがたし

いづみばしは十六日四つ時におちけり新ばし淺草御門柳ばしは人どめ

大川の筋本所へん少し水まし候所ふりつゞく大雨に上野下野秩父領の山水押出せばからす川かんな川戶田川とね川坂東ばしことごとく出水す近江近邊の村々在々あるいは四五尺六七尺高水することおびたゞし

時に戶ね川の堤へは左りに切て行とくの浦へ押出す人々あはてさわぐ内はや水せいはしほやくはまへ押あげてしほがま不殘こわしけり

扨梅若の土手つゞきくまがやの土手ときこへしは日本無双の大づゝみこけてあふれかゝりし萬水にあやせのつゝみ戶田づゝみ十七日の卯こくすぎ水せいつよさにぜひもなやみな一どう相切れば近江近村人々はあはてふためき立さわぐ寺々にてははやがねつき宿老店屋はほらがいふきたすけ船たすけ船と命をかぎりににげうせたり

誠に水せいのはやきこと三つばの弓矢のごとくにてさつてくり橋古河なわてとち木藤おか佐の行田關やど御領をはじめとしてかすかべこしがや杉戶邊うづまく水に人々は親の手を引子どもをせおいみな山林にかへらせけり

いよいよ水先はそうかより千住通りへおし出しかもんづゝみを打こしてかさいりやう二合半今井ねこざね一の井二の井さかさいきね川本所邊平一めんに海となる先隅田川向じま秋葉三𢌞り牛じまへん小梅竹丁中の江なり平橫ぼり割下水古岡町吉田町三笠町邊の家居屋根迄水上れば人々あわて立さわぎとやせんかくやとうろたへる其あり樣のあわれさは目もあてられぬふぜいなり

實に龜井戶天神の御やしろはよほど高き所ゆへ人々よふよふにげのびて助船をぞ待にけり

又立川通りよりきく川町おなぎ澤の近へん橋も平地もあらざればいかゞわせんと人々せん方なみだにくれける時中にも心きゝたる人五百らかんの御寺こそ高き所に候得ば此所へにげたまへと申人の言葉につれあるいはさへつき人いかたおよぐもあれはざい木にとりつきながれ渡るもありよふよふらかんにたどりつきさゝいどうの家根にのりたすけ給へとねんぶつのこへよりあわれもよふせり

此時はやくも御慈悲になんぎの諸人を助んと御用船數百そうこぎ來あり樣みるよりも水入の人々は二階屋根からひさしより飛のり飛びのり數萬人あやうき命を助しも誠にきみの惠なりみなみなうへにかつへしことなれば早速勘三郞桐座兩芝居の者共に焚出し仰付させられ燒飯として被下しは猶ありがたきことゞもなり

扨大川の水せいつよく候へば新大橋永代橋いづれも落て往來なし兩國の御はしは御用人足あつまりて橋をふせぎ候事すさまじかりける次第なり

扨廣小路中通りに御小家を掛させられ缺來る水入の者どもを御すくいたまわること誠に仁惠の御ことなり實に伊奈半左衞門樣御屋敷の前通り同樣小家掛させられ水入の百姓を御すくいたまわる事ひとへに御じひふかき事どもなり

又千住大橋小つが原まろき橋は今どのへんさんやとりごへ田中なぞ水十萬せしことなれば中々往來也がたし

水せいは吉原の土手こし候へば郭の者ども此つゝみ切てはほんに叶まじと日本づゝみに土俵を上げ又大門のまへ通り壱丈あまりに土俵をつき水ふせぐことおびたゞし

みのわ金杉三河しま水入候事なればみなみなにげうせ候なり實に田町の通りも水まし三四尺づゝも是あるなり又淺草くわんおん御寺内はよほど高き所ゆへ少々水出候へば此所へ人々あまたあつまり水引をいやおそしと待けり並木こまがた近へんも少々水附御藏米八町天王ばし迄水つよく往來舟にて通用す

又下谷門ぜきまへこうとく寺の近へんも右同斷の大水なり扨東海道の川々は六ごう馬にうさ川なぞいづれも川留鶴みのはし落候てかな川新町藤澤しゆく萬水のことなれば往來一面ならざりけり

程なく雨もやみければ水も段々引にけりとざゝぬ御代のことぶきと水入御すくいたまはること廣代の御じひなり

扨大雨にてくづれ候所をしるす芝あたご山同切通しまみ穴井伊樣御屋敷の土手山王の御山春日の山其外少々づゝの所は筆につくしがたし大尾

〔図一 道筋方角順道 下/東/西/南/北/本所/大川/新大橋/永代橋/小石川/外神田/小川町〕

增補新全 村所附幷道乃記

○まん本所に/小むめ村/押あげ村/うけち村/柳しま村/うめたむら/てらじま村/さなへ村/かめあり村/すさき村/若みや村/千ば村/四ツ木むら/大どむら/しぶへむら/善右衞門新田/龜いど村/おむらい村/平井むら/小松川/石き村/松もと村/小いわ村/笠つか村/かまたむら/ほり切村/寶木づか/小すげ村/小やの村/柳原村/あやせ村/水どはしおち/ゑのきど/大はら村/すのまた/はな又村/うたゝ村/長田村/川はた村/大はたむら/木下川/木下むら/彌五郞新田/長はつ新田/かまくら新田/嘉兵衞新田/久左衞門新田/八右衞門新田/おゝと新田/荻しん田/深川出村/まよりも/弐合半領/大水にて/船ばし/行とく/市川邊/八わた/くまが谷/木下風/松/戶/小がね/みな利根川/の道すじなり

右水入の者不殘伊奈半左衞門樣御屋敷のまへ通りに御小屋をかけさせられ御すくい給る事誠に廣代の御慈悲なりちう夜御見𢌞りの上病人ていの者には御藥を被下置小どもにはぜんべい五枚づゝ女どもには髮の油元結差紙迄被下事ひとへに御慈悲深き事なりけり

〔図二 大水場所附 全〕

そもそもこの水前には聞くことなかりしにかう夥しく出でぬるよしは必ゆゑあることになん

安永のすゑつかた町奉行牧野隅州の聞えあげて新大橋の西の岸を南へ弐町四方あまり築き出だしてこれを中洲町と唱へたり

この處夏は夜每に百あまりの茶店軒を並べて數多の提燈を掛けわたしおのおの前に棧橋を投げわたして船の客の登るに便りとす仙臺河岸よりこれを見れば衆星の晃くごとく月なき夜半も金波流れて玉兎もこゝに走るかと怪しまる大橋の南の袂には四季庵といひし酒樓あり或は異形の見せ物水からくり乞兒鶴市が身ぶり聲色なんどいふゑせ俳優に至るまでかぞへ擧ぐるに遑あらず小濱侯の邸のむかひは米屋酒店煙草商人薪屋錢湯太物店棟木をまじへ檐端をならべて物としてあらぬがなしされば夜每にこの河水に劣らじとのみ集ひ泛るやかた屋根船のいと多なるさしも廣かる大河に揖とりなやむばかりなりそが中に花火花火とよぶ船あり間酒さかなを賣る船ありくだものを賣る船もありこよひは誰殿の花火あり翌の夜は何がしが花火ありと罵りつゝ水陸ともに人群集して錐を立つる地もなかりき昔し三股河のおどり船と唱へたるもいかにしてこの中洲にますべき當時兩國河はけおされて貧女の一燈ともいはましや冬は又地獄とか唱ふるかくし賣女のこゝにつどひて媚を賣り客をむかへてあだし仇浪よせてはかへす淺妻ならで淺ましき世わたりをすと聞えしかば見し夕顏の冬枯るゝ五條わたりに似るべくもあらざりき〔當時書肆仙鶴堂が北尾政美に画かせて板にせし中洲の納凉の浮世繪あり燕石雜志に載せたるもの是なり〕

この他兩國橋の東の岸を西ヘ一町ばかり築き出ださしてこゝにも亦茶店ありけりこの二ケ所の出洲によりて大河の幅狹くなりぬこゝをもて川上より推しくだす水の勢これらの洲崎にさゝえられ洪水の時に當りて水のますこと前よりは三尺にあまるからその水四方へわかれ溢れて下谷淺草の濕地はさらなり神田川の水逆流して牛込小石川の果までもその蔽を受くるなりと水理にくはしき人はいひけり

この理りを官にもみこゝろつかせ給ひにけん寬政の初に至りて彼兩國の出洲を廢してもとのごとくに浚せ給ひ次に中洲を掘りとらせて舊のごとくにし給ひき

このとし秋より冬まで江戶中なる屋形船屋根船もみなその屋根をとりはなち茶ぶねにたりにうちまじりて土をかきのせつゝゆきてはかへるその船いくそばくなるをしらずまいて鋤鍬を把る人夫等の數百人日每につどひて潮退けば掘りうがち潮みちくれば休らふもはてしなきまでらうかはし

當時四方山人のこの土揚舟を見てよめる歌

屋根舟もやかたも今は御用船ちゝつんやんでつちつんでゆく

これらは後のことながら福も基あり禍も胎ありおよそ丙午の供水は兩國中洲の出崎によれりその言たがはざりけるにや件の二ケ所の廢されてより洪水はなほしばしばなれども本所深川のみにして御成道を船もて渡り小石川牛込にて溺死するものはなしかゝればこの水理の說を物にしるさば後の世の人のこゝろ得になるよしもあらんから予は深川にて生れしかひにをさなかりし時兩三度人となりてもふたゝびまで出水に屋を浸されてその進退にこゝろ得たれど江戶にてかゝる洪水は前代未聞といひつべし

又この洪水の夜に〔七月十六日〕猿江わたりの民の女房ふたつになりける兒を抱きていかにかしけん溺れつゝ半町あまり流されしにゆくりなく巨樹の杪に右の手をうちかけてからくも推しのり留りたりさりけれども兒は左りに抱き揚げたる腰より下は水を得いでずとばかりにして人のしらねば助けらるべき命にあらず益なく膽を冷さんより母子もろ共に死ばやとて杪にすがりたる右の手をはなたんとしたれども手は凝著たるやうにおぼえて心ともなく絕えてはなれずとかくする程に天は明けてたすけ船の漕ぎよせつゝ船に乘らしてぞ將てゆきぬこの時はじめて抄を見しにいと大きなる蛇のわが右の手を木の枝もろ共いくつともなく卷きてをりさてはわが手のはなれざりしはこの故なりきとおもふにも忝きこと限りもあらずそが船に乘る程に蛇は忽卷ほぐしてゆくへもしらずなりしとぞ

或はいふこの女房は舅姑に孝順にて且年來神佛をふかく信ずるものなればその應報かと聞えたりそが村の名も夫の名もまさしく聞きたることながらしるしもつけず年を經ていふかひもなく忘れたり

この餘溺死のあはれなる當時の風聞耳に盈たり思ひいでなばいくらもあらんをみな傳聞のみにして定かならねば心にとめず今さら思へば夢に似たりかりそめの事なりともその折錄しおかざれば後に悔しき事ぞ多かるされば丙午の一とせは火災洪水に狼狽してはかなく月目をおくる程に九月に至りて大喪あり〔將軍家治公薨去浚明院と号す〕この故に神田明神の祭禮を十一月十五日に渡されにき〔十五目の朝白雪霏々たりしかれども程なくやみたり雪中に祭のわたりしめづらし〕とにもかくにも上下の爲にいとうれはしき年にぞ有りける

明くれば七年丁未春より米穀の價登躍してはじめは錢百文に白米六合を換ふと聞えしが五合に至り四合に至り五六月に及びては三合になるものからそれすら買はんとほりするもの容易くは得がたかりき米穀かくのごとくなれば麥大豆小豆粟黍稗の類までこれに稱うて其價甚貴し

ことのもとを原るに三年癸卯の秋淺間山燒けて關東に焦土を降らせしとき上野下野信濃美濱武藏〔武藏は北の兩三郡〕下總〔上におなじ〕の國々に熱湯砂石を推し流して田畑これが爲に荒土となりし處少からずこの年奧の仙臺南部津輕出羽の果まで五穀登らず餓莩相食ひし事後に聞くすら駭嘆したりこの他も五穀不熟にして稻毛みつがひとつといへり

四年甲辰の秋のみいりぞ去歲にいさゝかましたれどもなほ豐作といふに足らずこの歲七月〔六月十四日十五日〕なゐふること兩度〔消夏自適にはこの大地震天明二寅年七月十四日丑の刻翌十五日兩度とあり予がおぼえたがへたるにやあらむ〕にして朱門高厦も柱傾き瓦落ちざる處少からず只人々の恙なきを祝するのみ幸ひにして元祿癸未の凶變に似ざりしを自他おしなべてよろこびにき予が東西をおぼえしより震の甚しかりしはこの甲辰の七月兩度と文化壬申十一月四日とのみしかれども甲辰は壬申よりも猶甚しかりしなり

かゝるに六年丙午の火災水損は既に上にしるすが如し

かう荒凶のうちつゞきて四五年を歷しことなれば米價のたかきことわりながら商賈はなほ利を射ん爲にあちこちの米粟をいちはやく買ひとり藏めて蠹み朽つるまで出ださず中買小賣の商人までもおのもおのも彼に倣ひて且利の上に利を見ざればあれどもなしとて賣らざりけりこの故に貧士賤民露命を繫ぐに由なくしてことのよしを奉行所へ訴出でつゝあはれ米商人等が隱しもてる米を出だして賣らしめ給ヘと願ひまうせしもありしとぞ

これより先に良賤なべて粥をたうべよと徇させ給へりこのときの町奉行は曲淵甲州と山村信州なりしが信州は新役にて甲州は故﨟なり

この夏五月の頃にやありけん甲州件のねがひ人等をよびのぼして汝等が願ひにより米商人等を穿鑿したれど彼等に米はなしといへりげにあき人の事なるにある米ならば賣るべきに賣らぬはなきがまことなるべしかう嗛らぬ折からは糧を食ふにますことなしわれ一方を誨んか味噌豆をよく熬て升の底もて推すときは碎けてふたつにならぬはなし扨其豆に麥まれ稗まれ野菜まれ多く加へて炊きてたうべよそは腹もちのよきものなれば一食にても足らんずとねもごろにいはれしを誰とて承伏するものなく稠人の後邊にをりて遠く隔りたるものはなかなかに憚らず惡口しつるも少からねど多人數の事なれば召捕ふるに得およばでひとしく追ひ立てられしとなんこれぞこの人氣の苛立はじめなるべし

このあはひ舂米屋等相謀ひて舂米を買はんとて來る人別に百文或は二百文と定めてその外を賣り與ヘずそれすら黎明より巳の時まで或は巳の時より正午までなんど時刻を定めて賣りしかば買ひ後れじとて立ちつどふ老若男女囂々しく罵るもあり推さるゝもあり果は突き倒し𤔩みあうて泣き叫ぶも少からずそれも後には札を出だして何處の米屋も賣らずなりぬ

この故に麥を買はんとほりすれども麥を得がたく野菜を求めんとほりすれどもその價廉ならずこゝをもてせんかたもつき寒民は昆布海帶鹿尾菜などを食として一兩月を凌ぐもあり

又豪家と唱へらるゝ三井越後の吳服店糸店兩替店ともに琉球芋を多く蒸して半切の桶に入れ店の四隅便宜の處にすゑ置きて十五歲以下の小厮の走り𢌞りするものに恣にとり啖せしかば日每に穀をはぶきしこと大かたならずと聞えたり

又兵法をもて世わたりとせし某氏ありこは避穀の方をもて夫婦共に穀を啖はざること十五日にして恙なかりしといへりそは何の方を用ひたるかしらねども救餓避穀の方は少からず只予はいまだ經驗せざるのみこゝにその二三をいはゞ

一方に云白茅根を洗ひ淨め細かにして或は石の上に晒し乾し搗きて粉として水をもて壱匁を服すれば穀を避けて暫不餓といふ又一方に赤小豆一升大豆一升各その半を炊て共に搗きて粉となして一合を新水もて服すること日々に三度その三升を用ひ盡すときは十一ケ日を經て不餓といふ一說に小豆をくらへば津液小便より去りて人をして虛瘦せしむるとも見えたり

又一方に松樹のあまはた〔日に晒して細末〕壱斤人參一兩白米五合右三種を粉となしてよき程に丸し蒸籠もてむして軍兵十五人に配分すれば一劑をもて三日づゝたもつものとぞこは竹中半兵衞が救餓の方なりといふこれらはちか比水府の醫官原氏が砦草にも見えたり又原氏の家方なりとて同書に載せたるは

白蠟一斤南天燭子氷砂糖各半斤右蕎麥粉の粥もて桃の實の大さに丸し日々一枚を服すれば不餓戰陣に臨みて嚼みくだき水にて服すれば氣不乏もし飯を食んとほりせば鹽湯をもて解すべしこはその先人の傳方なりといへりこの他救荒本草を考ふべしさのみは錄し盡さゞるのみ

人すらかくのごとくなれば犬猫は瘦せ衰へて骨立して道路に臥したり五六月のころにやありけん松島町なるむかひの武家の大溷に瘦せたる犬のうちつどひて草を啖ひゐたりしを予のまのあたりに見たることありかゝる類多かるべし

さる程に五月晦日のことにやありけんこの夜戌の比及に俠客どものむら立ち起りて麹町なる米商人のいちくらを理不盡に破却せりこれぞ世にうちこわしといふものゝ手はじめとぞ聞えたる

かくてその次の日より或は四五十人或は百數人一隊となりて江戶中なる米屋の店を破却すること日として間斷なかりけりはじめは夜中もしくは早朝のみなりしが後には白晝にもこの騷劇ありその破却する物の響罵り叫ぶ人の聲弗撥囂塵として十町の外に聞えたり

予は京橋南傳馬町なる米商人万作が店を破却せられし迹へゆくりなくもとほりかゝりて見てけるに米穀はみな俵を斫斷てその店前に引きちらし衣類雜具は簞笥長櫃をうち破りて路中へ投げ棄てたればゆくもの道をさりあへずその米を拾はんとて貪民の妻婆々小女さへ乞兒と共にうちまじりて袂に摑みこみ囊にいるゝ有さまは耻をしらざるものに似たりさりとて制するものもなし

このごろ小日向水道町にて豐島屋といふ米商人の其店を破却せられし有さまを予がめのをんなは見たりしにそのことの爲體これかれ同じかりきといへりこの故に米あき人ならざるも店のさまの相似たるは破却せられしも間々ありけり

これにより市のかみより寄騎同心を出だされて制せさせ給ひしかども勢當るべくもあらず只今こゝにあるかとすれば忽焉として鄰町にありあふれものどものそが中に年十五六の大わらはのいつも衆人に先きだちて軒に手をかけ矮樓に飛び入り奮擊すること大かたならずこれは人間わざならで必天狗なるべしとて牛若小僧と唱へつゝ人みな戰き怕れしが後にその素生を聞きしに大工わらはといふものにて渠十二三のころよりして身輕く力ありつねに好みて梁をわたるものなりとぞ

はじめ兩三日の程甲州も馬を出だして制せんとせられしかど彼等いかにか角ひけん搦め捕れしものありとも聞えずそのいく隊なる溢れ者をいづれの町の誰が店子ぞと定かにしれるものもあらずこの故にうちこわしの奴原あらば速に搦め捕るべし若手にあまらば擊ち殺し斫殺すともけしうはあらずといと嚴に町ぶれ有りけりこれにより町々なる家主におのおの竹鎗を用意して夜は暮六つより路次を閉ぢ店番といふものを輪番せしめて店中を巡らする物からもしその店の米屋が家に件のものどものむらだち來て破却することあるときは店番はあわてまどひて拍子木だも嗚らし得ず家主は竹鎗を引き提げながら路次の戶内にふるひゐて阿容々々としてこはさせけり

この事只江戶のみならず京大坂も亦かくのごとし凡米屋といふ米屋の米をもてるも持たざるも破却にあひしは闕遺なしと六月の末に聞えけりこは未曾有の奇事といはましかくて米屋にはなごりなく破却せられてそのことはいつとなく凡一旬あまりにしてかき消すごとく鎭まりぬさればとてそのものどもの召し捕れしとも聞えず

只湯島なる米商人津輕屋三右衞門〔今の棭齋が養父のときなるべし〕がいち宇のみ破却を免れてかへつてその一人を擊殺せしといふこは津輕侯より足輕許多遣して護し給ひし故とも聞え或は鳶の者等に多く錢を取らして日夜防禦せし故ともいへり

昔享保十七年壬子の秋五穀熟せずこれにより江戶中の米の價錢百文に白米一升四合を換へしかば衆俠忽に群り立ちつどひて伊勢町なる坂間といふ米商人のいちぐらを破却したるこそ未曾有の珍事なれとて故老の口碑に傳へたれどもそは只坂間一箇のみ天明丁未の奮擊は京攝江戶の三郡會同月一時に起り立ちて進退符節を合せたるが如し彼坂間のともがらをしてなほも世に在らしめば將これを見て何とかいはんやおもふに享保元文中は金壱兩を錢三貫八九百文或は四貫文にかへたり天明中の八九合に當るべしそれすら貧民の憤りに堪へざりし事右の如しまいて百文に白米三合を換ふに及びて破却のなごりなかりしもおのづからなる勢なるべしこの頃〔丁未の秋〕御藏をひらかせられて江戶中へ米の價下直にして下されけり大約一人に玄米一升五合と定めて隈なく頒下されたるこの御仁政に人氣感激し奉りて市中靜肅する程に新麥も既にいで來古米も諸國より運送入津するにより八九月に至りては百文に白米六七合になりにけりしかれどもその日稼ぎといはるゝ寒民はなほ白米を求むるにちから及ばで或は蟲ばみたる陳米或は殼麥を一二升づゝ購ひ求めてこれを日每に一升德利とかいふ酒器に入れ舂精げて炊て食ひけり

この年八九月に至りても小まへの商人の妻子どもがおのもおのも店前にて聊か恥づる色もなく彼德利にて米を舂きてをりしを折々見たる事ぞかし

されば次の年戊申の春の季よりして小人の曲子に思ひだしたよ去年の五月とくりで米ついたこともあると唄ひけり

これらは里巷の曲子なれども今も折々うたはせて魚肉なくて飯のくらはれずなどいふ世のわか人の警にせまほしく思ふなり

しかるに丁未の夏餓たる最中伊豆上總より鰹の生節を出だしゝこと限りもしられずその市中を賣りあるくものを買ふにいと大きなる生節一つを十四文或は十六文に買ひけり又糟小鯛とかいふ小鯛を日每に賣りあるくものも多かりしかば是も價のいたくやすかりよりてこの魚肉をもて飢に充つるも少からず天の生民を養ふこと彼に虧けばこゝに盈つ等閑にな思ひそとこゝろある人はいひけり

予はこの市中の艱難にあはず當時某侯に仕へて切米の外月俸はつかに三口を禀けたりその月俸のうち三斗の米を月々に售る每に價のますこと漸々にして五六月に至りては蟲の巢にて罹りたる陳米をのみわたされしにその玄米三斗の價金壹兩三分になりたりされば出入と唱ふる町人等月俸のわたる日に未明より宿所へ來ておん扶持米を拂はせ給はゞ某に給はり候へ餘人より價よく申しうけ候はんなどいふもの多くて果はこれかれせりあひつゝことばすまひを起すもありけりはつかの月俸すらかくの如し大祿の人々はさぞ有りぬべき事ながらよき夢は又覺むるもはやきやこれによりて永く富みたりといふ人をも見ざりき

かゝる中にも唐津侯の封内は去歲豐作なりしによりかこひ米多くあり世上米價の貴きこと今の時にますものあらんやされば年中の月俸を只今一度に取らせなば家臣等の爲になるべしとてその年十二月までの月俸を五六月のころわたされしかばみな歡ばずといふものなししかるをわかきともがらは俄に德つきたる心地して後々の事を思はず多くは品川がよひをしつゝ秋をもまたでなごりなく遣ひたりしかば米の價のさがりしころ餓ゑてせんかたなきもありしとある人の話說なりことの虛實は定かならねど筆のついでに識すのみ

當時の米價を考ふるに或書に五穀無盡藏を載せて云天明丁未夏六月上旬諸國米穀の價左の如し

現米壱石/價銀弐百匁/江都は/金壱兩に米一斗八升或は弐斗/加賀は米壱石に/百六拾壱匁/肥後は/百九拾匁/筑前は/百七拾六匁/廣島は/百七拾四五匁/中國米二俵は/價銀百五拾壱弐匁/柴田米七月四日入札/弐百壱匁八分/大津澤米一石に/百七拾三四匁/白米一石は/價銀弐百拾五六匁/小賣一升に/錢弐百三拾八文/岡大豆壱石に/價銀八拾匁

こはその崖略のみなほ詳なるものあらんかたづぬべし又家伯兄羅文居士の錄中に近世荒饑畧考の一編あり謄寫すること左の如し

寬永十九壬子年春より夏に至り飢饉餓死多し/今年迄百四十六年

延寶三乙卯年天下飢饉餓死多し

將軍家下命從三月至五月於北野七本松原四條河原貧人を集粥及米錢施行/今年迄百十四年

天和元辛酉年十一月江戶凱僅爲御牧米三萬俵披下之/今年迄百三年

同二壬戊年二月飢饉餓死多し三月洛陽大雲寺誓願寺法輪寺此外於諸寺錢施行又餓死の爲一七日施餓鬼供養於北野松原從將軍家粥施行/今年迄百二年

元祿九丙子年自夏至秋中國稻蟲生ず西國大名衆拜皆餓民御救/今年迄九十二年

享保十七壬子年關東五穀不熟依之窮民御牧/今年迄五十四年

寶曆六丙子年五穀不熟窮民御牧/今年迄三十七年

天明三癸卯年關東五穀不熟江戶及奧州飢餓此節五千俵田沼山城守に被下之信州淺間山燒崩溺死多し窮民滿道路依之被命於領主以鐵砲追之或は打殺之/今年迄五年

同七丁未年自春至夏江戶及諸國飢饉至五月白米三合代錢百文に及ぶ都下の俠者及餓民等江戶中の米屋を破却闕遣無し京大坂も亦如此至秋鎭る追日爲御救米の直段下直に被下之

右友人吉岡雪碇錄して予に視之因謄寫了といへり

解云當時を考ふべきもの管見纔にこれらにすぎず天明の季より寬政中に至りても米穀の價いまだ廉ならずこれにより關東地𢌞りの酒造を禁めさせて且池田伊丹も釀酒の斛高を減じられたり是より先に寬政二庚戌年江戶町中の法則を定め下され數ケ條のくだしぶみを彫刻して一册となし入銀百廿四文と定めて町役人及家持の町人等に頒ち取らせ給ひきこの時に當りて江戶柳原の東北あたらし橋の向に義倉を建てられてこれを籾藏町會所と唱ふすなはち江戶中町入用の中無益の雜費を省かしめ給ふこと凡八分その中七分を每月籾藏町會所に納めしめて窮民を牧はせられ且荒年に備へしめ給ひぬ無量廣大の御仁政これを仰げばいよいよ高し孔聖仁を先にして食を後にするもの寔にゆゑあるかな星移り物換りて御規定の町法も頗變替したりといへども義倉は猶巍然として向柳原の外又ニケ所その礎と共に朽つるときなし假令今より後凶荒年を累ぬとも天明丁未の夏のごとき四民困窮して屋を壞り物を損ふに至るべからず且丁未の忩劇も餓民等唯米商人の奸詐貪婪を憎み恨みしのみ露ばかりも野心のものなし便是神州忠直の人氣のおのづからなるものにして異朝の及ぶ所にあらずしかしながら亦かけまくもかしこき上への御至德御威光によるものなれば萬民各々業を奬みて驕を袪け泰平のうへにもなほ泰平を樂ふベきこと勿論なるべしよりて錄してみづから警め人を箴むること件の如し

再いふ予丙午丁未和漢災變當否の辯ありあまりに辯の長くなればそは又別にしるすべし

この餘文化以來連歲豐作うちつゞきて米穀の價或るは金壱兩に石二三斗或は石五六斗又所によりて二石餘なるもありし事是により諸家に命ぜられて米粟を多くかこはしめ給ひ又江戶町中にもその分際に應じて戶每に米を買ひ入れさしてかこはしめいく程もなくその事やみてその米を御あげになりし事文政に至りても江戶中の商人等に物の價を一わり引きさげて賣れとふれられし事當時士農豐年を憂ひとせし事今玆に至りて奧州半熟の聞えあり美濃は洪水によりて人多く溺死せし事甲州に蝗の風聞のある事まで悉くしるし盡さばその間には亦論辯のなきにあらねどかゝる事には憚の關をいかゞはせん予は壯年より筆とる每に謹愼を旨として禁忌に觸るゝことは記載せず見ん人これをおもひねかし

附けていふこの兎園の集莚は必月の朔日にすなるを來ぬる霜月には文寶堂のあるじすべきをさはることありとしも聞えしにけふなん關東陽の誕節なればとてその祝席を相兼ねて社友を海棠庵につどへられしなりよりていさゝかことほぎのこゝろをよみておくり物にかふ予がたはれ歌

よきたねのみばえし日とて筆柿のわざに熟せし君をことぶく

黃鳥いまだ谷をいでずといへども時今小春にして喬木に遷るのおもひあり交遊兼愛の情こゝに言なきことあたはず莫逆風流の佳席燭を續ぎて長夜の闌なるをおぼえずそもそも亦愉快ならずや

文政八年乙酉十一月の兎園小說第十一集中の一編 同年の冬十月廿三日 玄同陳人解識

右拙編數萬言楮數二十有五頁所臨寫印本五頁亦在其中矣

注

写本の位置
写本は3166の40カット目左ページから67カット目右ページまで。40カット目左ページに題「丙午丁未」があり、冒頭の漢文には朱の返り点と送り仮名が付く。67カット目右ページの末尾に「文政八年乙酉十一月の兎園小説第十一集中の一編 同年の冬十月廿三日 玄同陳人解識」と「右拙編數萬言楮數二十有五頁所臨寫印本五頁亦在其中矣」がある。
校合
冒頭の漢文は写本に朱の返り点があるが、活字本系テキストの一二点と上中下点は外し、白文にした。読みやすい本文は雲亭の書き下し。「康熙」は写本も活字本系も「康煕」の字形で、通行の字体に改めた。
校合
「右拙編數萬言」は写本で「拙編」と読める。活字本系の「校編」は採らない。
注記
「故老の語説」は写本の本文が「語説」で、右に朱で「話」と傍記されている。朱の訂正に従い「話説」を採った。
校合
45カット目右ページから46カット目左ページまでは、天明六年に市中で売られた摺物「上野下野秩父領 山水荒増記 上」を枠で囲んで臨写したもので、45カット目右ページの上欄に「丙午七月十八九日の比より市中を賣りあるきしもの」と、誤字や仮名違いは元のままという小字の注がある。活字本系テキストは注を割注にする。写本の位置に従い、上欄の注を〔 〕に入れて前に置いた。
判読保留
47カット目と48カット目は折り込みの地図「道筋方角順道 下」で、47カット目は折った状態、48カット目は開いた状態の撮影。図中には東西南北の方位と本所、大川、新大橋、永代橋、小石川、外神田、小川町などの町名と川筋が書き込まれている。〔図一〕には読み取れた書き込みだけを記し、そのほかの細かい村名と町名は判読保留。
判読保留
49カット目右ページから左ページは「増補新全 村所附幷道乃記」の表で、四列に村名を並べる。写本は「道乃記」と書き、活字本系の「道の記」は採らない。49カット目右ページの上欄に小字の注があるが判読できない。判読保留。村名は活字本系テキストと読み合わせ、字形の紛れる箇所は原寸で確かめていない。
判読保留
50カット目左ページには「大水場所附 全」と題する第二の地図が貼り込まれ、下の本文が透けて見える。図中に朱の書き込みがあるが判読できない。〔図二〕として題だけを記した。判読保留。
校合
「六合」「土庫」は写本では漢字に「くにのうち」「ぬりごめ」の振り仮名を付ける。活字本系は仮名を本文にして漢字を添えるが、写本に従って漢字を本文にし振り仮名を外した。「泥鰍」「偏提」「乞兒」「家族」「爲體」「巨樹」「杪」「官」「屋」「間」「曲子」なども同じ扱い。
注記
「安民可與行。而危民易與爲非」の返り点は写本に朱で付くが、白文にした。
注記
「五穀無盡藏」の米価と「近世荒饑畧考」の年表は、写本では一行ずつ書かれている。米価は一段落にまとめて「/」で区切り、年表は一行を一段落にした。
注記
狂歌三首は独立した段落にし、読みやすい本文では句ごとに空白で区切った。
注記
丙午丁未の年ごとの災異は、文中で馬琴が引く『吹剣録』『五雑俎』『池北偶談』『丙丁亀鑑』の記事をそのまま訳した。愈文豹、謝肇淛、王士禎、柴望、程職方はいずれも中国の人。
注記
四方山人と南畝子は大田南畝。好問堂は山崎美成。鶴忠子は馬琴の次兄滝沢興春。田原米嶽と兼子は馬琴の叔父。関東陽は海棠庵関思亮。羅文居士は馬琴の長兄滝沢興旨。棭斎は狩谷棭斎。曲淵甲州は曲淵景漸、山村信州は山村良旺。いずれも通説の範囲で記した。
注記
文中の地名と町名は写本の仮名書きをそのまま残し、訳文では通行の表記に直した。「近江」は「近在」の誤りとみられるが、摺物の誤字はそのままという写本の注に従って改めない。
校合
楷書の漢文と表の部分は一字ずつ読み合わせ、仮名の本文はページ全体の画像で活字本系テキストと読み合わせた。「拙編」「話説」「道乃記」は拡大して確かめ、そのほかは原寸で確かめていない。
校合
私家版は8記事。この passage の sourceRef は最初の記事。ほかの記事は https://onibi.cocolog-nifty.com/alain_leroy_/2021/10/post-0e2dbc.html 、post-e2c220.html、post-0a3a75.html、post-aedf4a.html、post-6e3369.html、post-72e567.html、post-d4d810.html。最後の記事は第15話と共通。

AI試訳 / 専門家未校閲