雲亭日本古典図書室収録作品の一覧

消夏自適天明荒凶記附録

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兎園小説 / 曲亭馬琴ほか 兎園会の会員 / 第十一集 第15話 / 著作堂 曲亭馬琴

宇多鱗斎の『消夏自適』から天明の災異と飢饉の記事を馬琴が抄録し、前話の比較に添える。

本文 現代語訳

著作堂云、「丙戊春正月下浣、関潢南の通家宇多氏〔名、良直、号、鱗斎〕の随筆「消夏自適」を閱せしに、その編末に、「天明荒凶」の一編あり。ここに抄錄してもて、比較に充つること、左の如し」
著作堂が言う。丙戌の春正月下旬、関潢南の親しい家の宇多氏〔名は良直、号は鱗斎〕の随筆『消夏自適』を閲したところ、その編末に「天明荒凶」の一編があった。ここに抄録して比較に充てること左のとおり。
竜斎云、「予が犬馬の年つもるうちに、天明の頃ほど、凶年の繁きこと、なし。先、天明二寅年七月十四日の夜、丑の刻にもやあらん、当地の地震、おびただし。翌十五日夜戌刻、前夜の地震よりも甚しく、老人子供など、足よわなるは、歩まんとしては、倒れたり。わかきものとても、気力の弱きは目くるめきて、漸くに這ひ出で、行灯などは、みな、ゆりこぼし、山林に響き震ふ音、物すごく、予が幼き頃なりしが、外に戸板をならべて、家内、打ちこぞりて、夜を明ししなり。翌朝に至るまで、ふるふこと、十五、六度に及べり。とりわけ、相州小田原辺、殊に甚しく、箱根山、及、城中、石垣、崩れ、民家、多く破損し、人馬のそこなふもの、多し。
鱗斎が言う。私の年を重ねたうちに、天明のころほど凶年の頻繁なことはない。まず天明二年寅年七月十四日の夜、丑の刻ごろだったか、当地の地震がおびただしかった。翌十五日夜の戌の刻、前夜の地震よりはなはだしく、老人子供など足の弱い者は歩こうとして倒れた。若い者でも気力の弱い者は目がくらんでようやく這い出し、行灯などはみな揺りこぼし、山林に響き震う音がものすごく、私が幼いころだったが、外に戸板を並べて家中打ち揃って夜を明かしたのである。翌朝までに震えること十五、六度に及んだ。とりわけ相州小田原あたりが殊にはなはだしく、箱根山と城中の石垣が崩れ、民家が多く破損し、人馬の損なわれるものが多かった。
「大山にては、三、四間、又は、七、八間もあるべき岩石、崩れ落ちて、人々胆を冷せり」と、いへり。八月四日に、江戸海辺に津浪の変あり。
大山では三、四間、あるいは七、八間もある岩石が崩れ落ちて人々が肝を冷やしたという。八月四日に江戸の海辺に津波の変があった。
天明三卯年、早春より四月頃に至るまで、当地はいふに及ばず、諸州諸所に、大小うちまぜて、火災、また、おほし。三、四月頃、京都及五畿内、時候の寒きこと、冬のごとく、時雨、降りて、晴、曇、久しく定らず。
天明三年卯年、早春から四月ごろまで当地はいうに及ばず、諸州諸所に大小取り混ぜて火災がまた多かった。三、四月ごろ京都および五畿内は時候の寒いことが冬のようで、時雨が降り、晴れ曇りが久しく定まらなかった。
六月十七日、関東筋其外、諸州、洪水、北国、西国に、海上、大風にて、通船、破損、多し。大抵、米相場も引き上りて、上方より、かけて、一石に百二十目ぐらゐなりき。当地に至りては、六、七十両迄にも至りしなり。
六月十七日、関東筋そのほか諸州が洪水、北国西国は海上の大風で通船の破損が多い。おおむね米相場も引き上がって、上方から一石に百二十匁くらいであった。当地では六、七十両にまで至った。
七月朔日より、八、九日に至りて、北国、東国、及、京都、大坂、江戸、伏見。大津等、山谷、鳴動す。
七月一日から八、九日にかけて、北国、東国および京都、大坂、江戸、伏見、大津などで山谷が鳴動した。
同四日より、上州、信州の地、夥しく震動して、雷鳴のごとく、砂石、降り下ること、雨の如し。六日夜に至りて殊に甚しく、七日は白昼、闇夜の如く、岩石を飛ばし、其近国諸国、熱灰を降らしぬ。此時、浅間山、及、草津山等、燃え出でて、烈火、散乱す。八日未の刻、熱沙熱泥を涌出し、利根川の水上に溢れ、其近国の諸村を漂没し、民家を破損なし、人民、及、牛馬、鳥獣、魚鼈、死亡し、或は、水火の為に死せしもの、四万余人といへり。
同四日から上州信州の地がおびただしく震動して雷鳴のようで、砂石が降り下ること雨のようだった。六日夜になって殊にはなはだしく、七日は白昼が闇夜のようで、岩石を飛ばし、その近国諸国に熱灰を降らせた。この時、浅間山および草津山などが燃え出して烈火が散乱した。八日未の刻、熱砂熱泥を湧き出し、利根川の水上にあふれ、その近国の諸村を漂没し、民家を破損し、人民および牛馬鳥獣魚鼈が死亡し、あるいは水火のために死んだ者は四万余人という。
七日夜より、九日に至りて、江戸表も、一天、くもりて、日の光を見ず。灰、降ること、雪の如し。
七日夜から九日にかけて江戸表も一天曇って日の光を見ず、灰の降ること雪のようだった。
廿四日、北国、西国の海上、大風あり。冬御切米百俵、「四十六両」の張紙なりき。
二十四日、北国西国の海上に大風があった。冬の御切米は百俵四十六両の張紙であった。
十月二日、北国、九州の洋中、大風。同じく十一日、大坂、雷鳴、甚しく、同所大手御門、雷火にて、焼失す。此後冬中、大小の火災、度々なりき。
十月二日、北国九州の洋中に大風。同じく十一日、大坂で雷鳴がはなはだしく、同所大手御門が雷火で焼失した。この後冬中、大小の火災が度々あった。
天明四辰年、正月より、未申の方に、彗星、あらはる。米価、甚しく、春、御借米「百俵四拾八両」の張紙、出、夏、御借米も四拾八両なり。町相場なるものは、上米に至りては、六拾両以上なり。公より、米を出だして、貧民に賜ふ。
天明四年辰年、正月から未申の方角に彗星が現れた。米価がはなはだしく、春の御借米は百俵四十八両の張紙が出て、夏の御借米も四十八両であった。町相場というものは上米に至っては六十両以上である。公儀から米を出して貧民に賜った。
世の人、「横田火事」といへるも、十二月廿六日、鍛冶橋御門内、横田筑後守より、出火にて、殊に大火なり。此年は奥州南部、仙台、津軽、八戸領等、大に飢饉なりき。
世の人が横田火事というのも、十二月二十六日鍛冶橋御門内の横田筑後守からの出火で、殊に大火である。この年は奥州の南部、仙台、津軽、八戸領などが大いに飢饉であった。
天明五巳年も、米価、百俵に五十両前後なり。八月十二日、五畿内、及、東海道筋、洪水。
天明五年巳年も米価は百俵に五十両前後である。八月十二日、五畿内および東海道筋が洪水。
同六丙午年正月朔日、目蝕、皆既。大小の諸星、東方にあらはに、白昼、くらきこと、黄昏にも過ぎたり。此春中、火災、繁きこと、其数を、しらず。其中に、正月廿二日、湯島よりの出火、殊更、おびただし。
同六年丙午年正月一日、日食皆既。大小の諸星が東方にあらわで、白昼の暗いことは黄昏にも過ぎた。この春中、火災の頻繁なことはその数を知らない。その中で正月二十二日の湯島からの出火は殊のほかおびただしい。
五月頃より、天気、甚、不順にして、土用見舞に、綿入をかさね、老人のともがらは、「猶、寒さに、たへず」と、いへり。されば、いやしき口ずさびにも、
五月ごろから天気がはなはだ不順で、土用見舞いに綿入れを重ね、老人の連中はなお寒さに堪えないと言った。だから卑しい口ずさみにも、
春は火事 夏はすずしく 秋出水 冬は飢饉と かねてしるべし
春は火事、夏は涼しく、秋は出水、冬は飢饉とかねて知るべし。
七月十二日より、大雨、篠をつくがごとく、一向に止みなく、十四日には、当地、洪水にて、目白下、大樋、崩れ、牛天神下、小石川辺、満水、其深きこと、五、六尺に及べり。御茶水、昌平橋、浅草御門、柳橋辺、一面に大水にて、往来もとどまりぬ。又、上野、下野、秩父等の山、水、俄に発し、烏川、神川、戸田川、利根川等、大水、漲ること、数丈なり。同十七日暁に、「熊谷の土手、裂けて、栗橋、古河、関宿、越谷、杉戸、千住、大橋、小橋、小塚原、浅草辺、本所、隅田川、向島、秋葉、三囲、牛島辺は、偏に海の如し」と、いへり。大橋、永代橋、流れ落ち、其外、小橋の類は、しるすに、いとまあらず。両国橋は数百人の人夫をもて、漸に防ぎ留めたり。浅草、並木、駒形、御蔵前、八町、天王橋辺、船にて、往来す。同所、観音堂、他所よりも、高し。諸人、此堂舎に登りて、水を避けしもの、多しとなん。又、此頃、東海道は、酒勾、馬入、六郷等の川々、往来、なし。鶴見橋も已に流落し、神奈川新町、藤沢の宿々、満水にて、往来、止め、十八、九日に至りて、諸方の水勢、漸く、滅ず。此時分、愛宕山切通の土手、山王山、三田春日山、麻布狸穴等の土手、又、崩れて、人、多く、死せり。
七月十二日から大雨が篠をつくようで一向に止まず、十四日には当地が洪水で、目白下の大樋が崩れ、牛天神下、小石川あたりが満水で、その深さは五、六尺に及んだ。御茶の水、昌平橋、浅草御門、柳橋あたりは一面に大水で往来も止まった。また上野、下野、秩父などの山水がにわかに発し、烏川、神流川、戸田川、利根川などの大水が漲ること数丈であった。同十七日暁に熊谷の土手が裂けて、栗橋、古河、関宿、越谷、杉戸、千住、大橋、小橋、小塚原、浅草あたり、本所、隅田川、向島、秋葉、三囲、牛島あたりはひとえに海のようだという。大橋、永代橋が流れ落ち、そのほか小橋の類は記す暇がない。両国橋は数百人の人夫でようやく防ぎ留めた。浅草、並木、駒形、御蔵前、八町、天王橋あたりは船で往来した。同所観音堂は他所より高い。諸人がこの堂舎に登って水を避けた者が多いという。またこのころ東海道は酒匂、馬入、六郷などの川々が往来なし。鶴見橋もすでに流れ落ち、神奈川新町、藤沢の宿々は満水で往来を止め、十八、九日になって諸方の水勢がようやく減じた。この時分、愛宕山切通しの土手、山王山、三田春日山、麻布狸穴などの土手がまた崩れて人が多く死んだ。
此秋の洪水に溺死せしもの、万をもて、算ふべし。濁水に乗じて、蛇、蝮の類ひ、幾千となく、漂ひ来りて、人身につくこと、甚しく、誠にあはれなること、いふばかりなし。
この秋の洪水に溺死した者は万をもって数えるべきである。濁水に乗じて蛇や蝮の類が幾千となく漂い来て人の身につくことがはなはだしく、まことに哀れなことは言いようがない。
此年のはやり唄に、天竺のあまの川に白イ小桶が流れたと、うたひしが、天に、口、なし。人をもて、いはしむるならひに、果して、其しるし、むなしからずして、洪水の変ありき。いにしへ、孔子も童謠にて、考ありしこと、「家語」等にも見ゆ。浮きたることには、あらじ。
この年の流行り唄に「天竺の天の川に白い小桶が流れた」と歌ったが、天に口はない。人をして言わせる習いに、果たしてその兆しはむなしくなく、洪水の変があった。昔、孔子も童謡で考えたことが『家語』などにも見える。根拠のないことではあるまい。
米価、打ちつづきて、貴く、冬、御切米「百俵四拾三両」の張紙、出でしなり。九月に、浚明院殿、かくれさせ給ふ。ならびなき大凶の年といふべし。
米価は打ち続いて高く、冬の御切米は百俵四十三両の張紙が出た。九月に浚明院殿がお隠れになった。並びない大凶の年というべきである。
天明七未年、打ちつづきたる米直段、当春に至りては、ますます貴く、春、御借米「百俵五十両」の張紙、出、上米の相場は七十両以上なりき。
天明七年未年、打ち続いた米値段は当春に至ってますます高く、春の御借米は百俵五十両の張紙が出て、上米の相場は七十両以上であった。
夏、御借米五拾二両にてありしが、五月に入りて、米価、いよいよ貴く、百三、四拾両となり、今日を送る市人等、已に飢に臨めるも、ことわりぞかし。五月十九日より、江戸中、米穀の商ひなす者の見世に、「打ちこはし」、乱妨なすこと、甚しく、百人、二百人、その党を結び、時々、「とき」の声をあげて、昼夜のわかちなく、さわぎあるく体、さながら、戦世の如しと、おもはる。夫より、端々に至るまで、皆、人気、かくの如し。後には、米商売にかかはらず、目ぼしぎ町家に打ち入りて、手にあたるものを持ち出だして、其町内にても、防ぐべき手段なく、或は、酒を、樽ながら、吞口をそへ、或は、かがみを、ぬいて、柄𣏐をそへてもてなしとせり〔米屋ならぬ家をも、物とりの為に乱妨せしには、あらず。その見世の米屋に似たるあき人、或は、酒屋、餅屋、「そば切」や、すべて、食物をあきなふものの見世は、打ちこはされしも有りしなり。その、「そば杖を打たれじ」とて、銘々に見世先へ、「さたう水」など、出だしおきて、あふれもの等にのませにき〕
夏の御借米は五十二両だったが、五月に入って米価はいよいよ高く、百三、四十両となり、今日を送る市人らがすでに飢えに臨んだのも道理である。五月十九日から江戸中の米穀を商う者の店に打ちこわしや乱妨をなすことがはなはだしく、百人二百人が徒党を結び、時々鬨の声を上げて昼夜の分かちなく騒ぎ歩く様子は、さながら戦の世のようだと思われた。それから端々に至るまでみな人気はこのとおり。後には米商売にかかわらず目ぼしい町家に打ち入って手に当たる物を持ち出し、その町内でも防ぐ手段がなく、あるいは酒を樽ごと呑み口を添え、あるいは鏡を抜いて柄杓を添えてもてなしとした。〔米屋でない家をも物取りのために乱妨したのではない。その店が米屋に似た商人、あるいは酒屋、餅屋、蕎麦切屋、すべて食物を商う者の店は打ち壊されたものもあった。そのとばっちりを受けまいと、めいめい店先に砂糖水などを出しておいて溢れ者らに飲ませた。〕
此時、名は忘れたりしが、何がしといへる大名、家中へ渡すべき扶持米とて、其本家へ無心して、弐拾俵計、車にて、警固も、大勢、附き添へ、来りしに、鮫ケ橋にて、「打ちこはし」の一むれ、百人計も、追、取巻きて、「車の米、申し請けたし。もし、異議ある上は、力づくにて請取るべし」とて、きそひ、かかれる大勢のやうすに、なすベきやうなくて、宰領の足軽、三、四人も、命からがら逃げ出だし、屋敷へ帰りて、「しかじか」のよし、役人中へ、申しし故に、屋敷よりも、侍分の者とりまぜ、追取刀にて、馳せ至りしが、車ともに、いづくへ持ち行きしか、其行方、しるべきやうなければ、各、歯がみをなしつつ、手をむなしく、帰れり。
この時、名は忘れたが何某という大名が家中へ渡す扶持米としてその本家へ無心して二十俵ばかり、車で警固も大勢付き添って来たところ、鮫ヶ橋で打ちこわしの一群れ百人ばかりが追って取り巻き、車の米を申し受けたい、もし異議があれば力ずくで受け取ると競いかかる大勢の様子に、なすすべなく宰領の足軽三、四人も命からがら逃げ出し、屋敷へ帰ってこれこれと役人中へ申したので、屋敷からも侍分の者を取り混ぜ押っ取り刀で馳せ至ったが、車ともにどこへ持って行ったか行方を知るすべがなく、おのおの歯噛みしながら手をむなしく帰った。
因りて、おもふに、人心、一たび、うごきては、何様の事をしいだすべきも、しれず。されば、前漢の賈誼が言に、「安民可二与行一。而危民易二与為一レ非」とあるは、ならびなき名言なり。
よって思うに、人心はひとたび動けばどんな事をしでかすか知れない。だから前漢の賈誼の言に、安んじた民は共に善を行うことができ、危うい民は共に非を為しやすいとあるのは並びない名言である。
此時、町奉行曲淵甲斐守、山村信濃守なりしが、「町家のやうす、見𢌞らん」とて、大勢にて出でしかど、西河岸辺に三百、五百の組を立てたる「あふれ者」、大瓦など、積みまうけ、「無事なる時は、奉行を恐るべし、此節に至りては、何の憚るべきこと、あらん。近付けば、打ち殺すべし」と、口々にののしりし故に、両奉府も、「すごすご」と、引きとりきとぞ。
この時、町奉行は曲淵甲斐守と山村信濃守だったが、町家の様子を見回ろうと大勢で出たところ、西河岸あたりに三百五百の組を立てた溢れ者が大瓦などを積み設け、無事な時は奉行を恐れるべきだが、この節に至って何の憚ることがあろう、近づけば打ち殺すと口々に罵ったので、両奉行もすごすごと引き取ったという。
日々、かくのごとき故に、御先手十組の面々、阿部平吉、柴田三右衛門、河野勝左衛門、安藤又兵衛、小野次郞右衛門、松平庄右衛門、長谷川平蔵、武藤庄兵衛、鈴木弾正少弼、奥村忠太郞、各、与力、同心を召し具して、江戸中、端々まで𢌞りしが、何の仕出したる事も、なかりき。
日々このようなので、御先手十組の面々、阿部平吉、柴田三右衛門、河野勝左衛門、安藤又兵衛、小野次郎右衛門、松平庄右衛門、長谷川平蔵、武藤庄兵衛、鈴木弾正少弼、奥村忠太郎がおのおの与力同心を召し連れて江戸中端々まで回ったが、何の仕出かした事もなかった。
其頃の取沙汰に、「御先手の面々、物馴れたる同心に、道をはらはせ、「打ちこはし」の一むれ、ある所をば、通行せずして、脇道をのみ𢌞りき」と、いへり。
そのころの取り沙汰に、御先手の面々は物慣れた同心に道を払わせ、打ちこわしの一群れのある所は通行せず脇道ばかり回ったと言った。
予がしれる御番衆、五月十七、八日の頃か、御借米を受取りしに、其日の相場、弐百五両なりき。われら、其頃は、小普請にて、六月の中旬頃に玉落ありしが、「はや、大に直段も引き下れり」と、いひしが、九拾八両弐分にてありき。
私の知る御番衆が五月十七、八日のころか御借米を受け取ったが、その日の相場は二百五両であった。われらはそのころ小普請で、六月中旬ごろに玉落ちがあったが、もう大いに値段も下がったと言ったものの九十八両二分であった。
此時分、町家にては、白粥、「あづきがゆ」、「麦挽わり」を以て、最上とし、「豆めし」、「そら豆めし」、「芋めし」を上食とし、「ひばめし」、「きらず飯」、或は、「うどんの粉のつといれ」等を、その次となす。甚しきに至りては、得しらぬ野菜を、おほく、鍋に入れ、塩にて、少し、味をつけ、其中へ「ひえ」の粉様の物を、ふりちらして、食とす。又。「わら」を「すさ」の如くに切りて、「ほうろく」へかけて、よきほどに、こがし、それを、挽舂にて、よく、ひき、「だんご」となして、くらへり。
この時分、町家では白粥、小豆粥、麦挽き割りを最上とし、豆飯、そら豆飯、芋飯を上食とし、ひば飯、きらず飯、あるいはうどん粉の包み入れなどをその次とした。はなはだしいのは得体の知れない野菜を多く鍋に入れ、塩で少し味をつけ、その中へ稗の粉のようなものを振り散らして食とした。また藁を寸莎のように切って焙烙にかけ、よい程に焦がし、それを挽き臼でよく挽いて団子にして食べた。
予があたりの土手原にある、可なりに食となるべき草は、みなとりつくせしなり。奥州筋にては、鳥獣を食し、或は、「子をとらへて、飢をしのげり」と、いへり。
私のあたりの土手原にあるそれなりに食になる草はみな取り尽くされた。奥州筋では鳥獣を食し、あるいは子を捕らえて飢えをしのいだという。
此「打ちこはしの時」、公より、一町内の人別をあらため、其人数程、竹鎗一本づつもたせ、白き手拭を「しるし」と定め、「もし、他より、乱妨のもの来れば、拍子木を以て、うちならす時は、一同に集ふべし」と触れられしが、程なく、騒動、止みたりとなり。是、全く、其町内より出でしものも、他の者に交りて、わが町内にも、夜分など、乱妨せしゆゑに、町内にかかる触出でし故に、皆、しづまりしは、当意即妙の事とぞ〔此「町触れ」によりて、「打こはし」の鎮まりしには、あらず。江戸中の米屋共を、不残、打こはして、人気、ゆるみし上に、「米穀、下直にし、御救被下」といふ風聞によりて、漸々に鎮まりしなり〕
この打ちこわしの時、公儀から一町内の人別を改め、その人数だけ竹槍を一本ずつ持たせ、白い手拭いを印と定め、もしよそから乱妨の者が来て拍子木を打ち鳴らす時は一同に集まれと触れられたが、程なく騒動は止んだという。これはまったく、その町内から出た者も他の者に交じって自分の町内にも夜分など乱妨したために、町内にこういう触れが出て、みな静まったのは当意即妙のことだという。〔この町触れによって打ちこわしが鎮まったのではない。江戸中の米屋どもを残らず打ち壊して人気が緩んだ上に、米穀を安値にしてお救い下さるという風聞によって次第に鎮まったのである。〕
此節、「あふれ者共」も召し捕れて、入牢せしもの、おびただしく、「仮に牢をも、しつらひし」と、いへり〔「多く入牢せしは、この「打こはし」の騒ぎに乗じて、物を盗みし巾着切などいふ、盗人なりし」と聞きぬ〕
この節、溢れ者どもも召し捕られて入牢した者がおびただしく、仮に牢もしつらえたという。〔多く入牢したのはこの打ちこわしの騒ぎに乗じて物を盗んだ巾着切りなどという盗人であったと聞いた。〕
此「打ちこはし」の騒動、五月十九日より廿二日までにて鎮まりしが、廿四日頃より、廿六、七日の間は、米穀の売買、更になし。〔此「打こはし」は、五月下旬より六月初旬まで、凡、一旬にて、全く鎮りし也。その中、甚しかりしは、四、五日の程なりき〕
この打ちこわしの騒動は五月十九日から二十二日までで鎮まったが、二十四日ごろから二十六、七日の間は米穀の売買がまったくなかった。〔この打ちこわしは五月下旬から六月初旬までおよそ十日で全く鎮まったのである。そのうちはなはだしかったのは四、五日ほどであった。〕
米商売の者、六月二日頃より、米、売り出だすべき含はありしが、一体、米、払底なる故に、手段なくて、只、其町ぎりに、番屋々々にて、百文につきて、四合づつに売りしなり。
米商売の者は六月二日ごろから米を売り出すつもりはあったが、一体に米が払底なので手段がなく、ただその町限りに番屋番屋で百文につき四合ずつ売った。
百俵五人扶持以下の御家人へは、御救米拝借被仰付之、六月に入り、町々へは、御すくひ米、御救金、壱人に付、三匁弐分、米、豆、合而五合づつ被下之。
百俵五人扶持以下の御家人へは御救米の拝借を仰せ付けられ、六月に入って町々へは御救米と御救金を一人につき三匁二分、米と豆合わせて五合ずつ下された。
米穀、払底に因りて、津々浦々迄、御救方の事、関東御郡代伊奈半左衛門に被仰付之、半左衛門、計ひにて、大麦、両に壱石、米は両に四斗の積りをもて、江戸町中へ御すくひ米あり。尤、「右代物は五日めに差出候へば、又候、其跡の米麦ともに売りわたし」触れられしなり。但、壱両なり。四斗の相揚、百俵にては八拾七両弐歩の積りなりとぞ。
米穀払底により津々浦々まで御救いの事を関東御郡代伊奈半左衛門に仰せ付けられ、半左衛門の計らいで大麦は両に一石、米は両に四斗の積もりで江戸町中へ御救米があった。もっとも右の代金は五日目に差し出せば、またその後の米麦ともに売り渡すと触れられた。ただし一両である。四斗の相場は百俵では八十七両二歩の積もりだという。
此米、直段の至りて、貴かりし時にをかしき物語、有り。吉原にて何がしといへる双びなき名妓ありしが、常には文雅風流なる客を愛し、文才なき野俗なる人物には、殊に愛相も薄かりき。此飢僅に至りて、日頃と違ひ、入り来る客をば、雅、俗を、えらまずもてなしも厚かりし故に、一家のもの共、大に不審し、其操のかはりしことを難ぜしに、名妓のいへるは、「不審し給ふこと、道理に聞え侍る。必竟、此頃しも、日々に雑食のみにて、いかに快らず。客、来れば、米の飯を食しまゐらする故に、客を愛するにては、なし。只、口腹を愛するなり」と、いへるにて、此時分の、米の宝なるを、しるべし。
この米の値段が至って高かった時におかしい物語がある。吉原で何某という並びない名妓がいたが、常には文雅風流な客を愛し、文才のない野暮な人物には殊に愛想も薄かった。この飢饉になって日ごろと違い、入り来る客を雅俗を選ばずもてなしも厚かったので、一家の者どもが大いに不審し、その操の変わったことを難じたところ、名妓が言うには、不審なさるのはもっともに聞こえます。つまるところこのごろは日々雑食ばかりでいかにも快くない。客が来れば米の飯を食べさせてもらえるので、客を愛するのではない。ただ口腹を愛するのですと言ったので、この時分の米の宝であったことを知るべきである。
予が方へ出入する大工、作事を、外より、受け負ひし。「焚出しの米をととのへん」とて、拾両付の金を、ふところにし、米商人の方へ、終日、あるきしに、やうやく、五升、三升づつ買ひ集めて、「三斗には足らざりし」とて、常に物語せり。
私のところへ出入りする大工が普請を外から請け負った。炊き出しの米を調えようと十両付けの金を懐にして米商人のところを終日歩いたが、ようやく五升三升ずつ買い集めて三斗には足りなかったと、常々物語った。
此年はいづれの人とても、空腹になり易きこと、至りてはやく、朝飯、すみぬればはや、昼飯を待ちかねしなり。
この年はどんな人でも空腹になりやすいことが至って早く、朝飯が済めばもう昼飯を待ちかねた。
米すくなき時節には、北斗にささふる程の黄金白銀ありとも、更に、益なし。米は壱ケ年も、二ケ年も余りある程に、手当ありたきものなり。前漢の鼂錯が論に、「珠玉金銀饑不可食。寒不可衣」とは、古今不易の確言といふべし。
米の少ない時節には北斗に支えるほどの黄金白銀があっても、まったく益がない。米は一年も二年も余りあるほどに手当てがあってほしいものである。前漢の鼂錯の論に、珠玉金銀は飢えても食べられず、寒くても着られないとあるのは古今不易の確言というべきである。
天明八申とし、正月晦日、禁中、及、堂上衆、武家寺社、市中等、火災の大変あり。
天明八年申年正月晦日、禁中および堂上衆、武家寺社、市中などに火災の大変があった。
神祖、海内を統御ましましてより、二百年の今日まで、四民、其所を得ざるものなく、三代の治といふとも、恐らく、此うへに、過ぐまじ。
神祖が海内を統御なさってから二百年の今日まで、四民はその所を得ない者がなく、三代の治といえども恐らくこの上には過ぎまい。
「昇平の世に、ひとり、恐怖すべきもの、火災に、ますこと、なし。平賀源内の工夫せし「天竜水」といふもの、制作なしたらば、双なき防なるべきに、其含の内に、なき人の数に入りし。惜むべきこと」とて、司馬江漢なる蘭学者、語りき。いかなる防ぎの器なりしにか〔「消夏自適」「天明の凶年編」全〕
昇平の世にひとり恐怖すべきものは火災にまさることはない。平賀源内が工夫した天龍水というものを製作していたら並びない防ぎになったろうに、その含みのうちに亡き人の数に入った。惜しむべきことだと司馬江漢という蘭学者が語った。どんな防ぎの器だったのか。〔『消夏自適』「天明の凶年編」全。〕
この記を筆せし鱗斎ぬしは、その職分、官府の御旧記を窺ひ見る事の自由なる故に、当時の御沙汰と、地名、歲月、時日、まさしくも、具にしるされたり。但、市中の事、風聞の説に至りては、いかにぞや、おもふよしなきにあらぬを、そのくだりに、聊、「かしら書」を加へたり。前編と彼是、比較せば、後生の為に稗益あるべし。
この記を筆した鱗斎主はその職分で官府の御旧記を窺い見ることが自由なので、当時の御沙汰と地名、歳月、時日がまさしくつぶさに記されている。ただし市中の事や風聞の説に至ってはどうかと思う点がないでもないので、そのくだりに少し頭書を加えた。前編とあれこれ比較すれば後の世のために益があるだろう。
文政九年丙戌春二月十七日、雨窓に、謄写、了。
文政九年丙戌春二月十七日、雨の窓で書き写し終わった。
原文 / 昭和女子大学本の字句を採り、正字体を保持、振り仮名を外す

著作堂云丙戊春正月下浣關潢南の通家宇多氏〔名良直號鱗齋〕の隨筆消夏自適を閱せしにその編末に天明荒凶の一編ありこゝに抄錄してもて比較に充つること左の如し

龍齋云予が犬馬の年つもるうちに天明の頃ほど凶年の繁きことなし先天明二寅年七月十四日の夜丑の刻にもやあらん當地の地震おびたゞし翌十五日夜戌刻前夜の地震よりも甚しく老人子供など足よわなるは步まんとしては倒れたりわかきものとても氣力の弱きは目くるめきて漸くに這ひ出で行燈などはみなゆりこぼし山林に響き震ふ音物すごく予が幼き頃なりしが外に戶板をならべて家内打ちこぞりて夜を明しゝなり翌朝に至るまでふるふこと十五六度に及べりとりわけ相州小田原邊殊に甚しく箱根山及城中石垣崩れ民家多く破損し人馬のそこなふもの多し

大山にては三四間又は七八間もあるべき岩石崩れ落ちて人々膽を冷せりといへり八月四日に江戶海邊に津浪の變あり

天明三卯年早春より四月頃に至るまで當地はいふに及ばず諸州諸所に大小うちまぜて火災またおほし三四月頃京都及五畿内時候の寒きこと冬のごとく時雨降りて晴曇久しく定らず

六月十七日關東筋其外諸州洪水北國西國に海上大風にて通船破損多し大抵米相場も引き上りて上方よりかけて一石に百二十目ぐらゐなりき當地に至りては六七十兩迄にも至りしなり

七月朔日より八九日に至りて北國東國及京都大坂江戶伏見大津等山谷鳴動す

同四日より上州信州の地夥しく震動して雷鳴のごとく砂石降り下ること雨の如し六日夜に至りて殊に甚しく七日は白晝闇夜の如く岩石を飛ばし其近國諸國熱灰を降らしぬ此時淺間山及草津山等燃え出でゝ烈火散亂す八日未の刻熱沙熱泥を涌出し利根川の水上に溢れ其近國の諸村を漂沒し民家を破損なし人民及牛馬鳥獸魚鼈死亡し或は水火の爲に死せしもの四萬餘人といへり

七日夜より九日に至りて江戶表も一天くもりて日の光を見ず灰降ること雪の如し

廿四日北國西國の海上大風あり冬御切米百俵四十六兩の張紙なりき

十月二日北國九州の洋中大風同じく十一日大坂雷鳴甚しく同所大手御門雷火にて燒失す此後冬中大小の火災度々なりき

天明四辰年正月より未申の方に彗星あらはる米價甚しく春御借米百俵四拾八兩の張紙出夏御借米も四拾八兩なり町相場なるものは上米に至りては六拾兩以上なり公より米を出だして貧民に賜ふ

世の人橫田火事といへるも十二月廿六日鍛冶橋御門内橫田筑後守より出火にて殊に大火なり此年は奧州南部仙臺津輕八戶領等大に飢饉なりき

天明五巳年も米價百俵に五十兩前後なり八月十二日五畿内及東海道筋洪水

同六丙午年正月朔日目蝕皆既大小の諸星東方にあらはに白晝くらきこと黃昏にも過ぎたり此春中火災繁きこと其數をしらず其中に正月廿二日湯島よりの出火殊更おびたゞし

五月頃より天氣甚不順にして土用見舞に綿入をかさね老人のともがらは猶寒さにたへずといへりさればいやしき口ずさびにも

春は火事夏はすゞしく秋出水冬は飢饉とかねてしるべし

七月十二日より大雨篠をつくがごとく一向に止みなく十四日には當地洪水にて目白下大樋崩れ牛天神下小石川邊滿水其深きこと五六尺に及べり御茶水昌平橋淺草御門柳橋邊一面に大水にて往來もとゞまりぬ又上野下野秩父等の山水俄に發し烏川神川戶田川利根川等大水漲ること數丈なり同十七日曉に熊谷の土手裂けて栗橋古河關宿越谷杉戶千住大橋小橋小塚原淺草邊本所隅田川向嶋秋葉三圍牛島邊は偏に海の如しといへり大橋永代橋流れ落ち其外小橋の類はしるすにいとまあらず兩國橋は數百人の人夫をもて漸に防ぎ留めたり淺草並木駒形御藏前八町天王橋邊船にて往來す同所觀音堂他所よりも高し諸人此堂舍に登りて水を避けしもの多しとなん又此頃東海道は酒勾馬入六鄕等の川々往來なし鶴見橋も已に流落し神奈川新町藤澤の宿々滿水にて往來止め十八九日に至りて諸方の水勢漸く滅ず此時分愛宕山切通の土手山王山三田春日山麻布狸穴等の土手又崩れて人多く死せり

此秋の洪水に溺死せしもの萬をもて算ふべし濁水に乘じて蛇蝮の類ひ幾千となく漂ひ來りて人身につくこと甚しく誠にあはれなることいふばかりなし

此年のはやり唄に天竺のあまの川に白イ小桶が流れたとうたひしが天に口なし人をもていはしむるならひに果して其しるしむなしからずして洪水の變ありきいにしへ孔子も童謠にて考ありしこと家語等にも見ゆ浮きたることにはあらじ

米價打ちつゞきて貴く冬御切米百俵四拾三兩の張紙出でしなり九月に浚明院殿かくれさせ給ふならびなき大凶の年といふべし

天明七未年打ちつゞきたる米直段當春に至りてはますます貴く春御借米百俵五十兩の張紙出上米の相場は七十兩以上なりき

夏御借米五拾二兩にてありしが五月に入りて米價いよいよ貴く百三四拾兩となり今日を送る市人等已に飢に臨めるもことわりぞかし五月十九日より江戶中米穀の商ひなす者の見世に打ちこはし亂妨なすこと甚しく百人二百人その黨を結び時々ときの聲をあげて晝夜のわかちなくさわぎあるく體さながら戰世の如しとおもはる夫より端々に至るまで皆人氣かくの如し後には米商賣にかゝはらず目ぼしぎ町家に打ち入りて手にあたるものを持ち出だして其町内にても防ぐべき手段なく或は酒を樽ながら吞口をそへ或はかゞみをぬいて柄𣏐をそへてもてなしとせり〔米屋ならぬ家をも物とりの爲に亂妨せしにはあらずその見世の米屋に似たるあき人或は酒屋餠屋そば切やすべて食物をあきなふものゝ見世は打ちこはされしも有りしなりそのそば杖を打たれじとて銘々に見世先へさたう水など出だしおきてあふれもの等にのませにき〕

此時名は忘れたりしが何がしといへる大名家中へ渡すべき扶持米とて其本家へ無心して弐拾俵計車にて警固も大勢附き添へ來りしに鮫ケ橋にて打ちこはしの一むれ百人計も追取卷きて車の米申し請けたしもし異議ある上は力づくにて請取るべしとてきそひかゝれる大勢のやうすになすベきやうなくて宰領の足輕三四人も命からがら逃げ出だし屋敷へ歸りてしかじかのよし役人中へ申しゝ故に屋敷よりも侍分の者とりまぜ追取刀にて馳せ至りしが車ともにいづくへ持ち行きしか其行方しるべきやうなければ各齒がみをなしつゝ手をむなしく歸れり

因りておもふに人心一たびうごきては何樣の事をしいだすべきもしれずされば前漢の賈誼が言に安民可與行而危民易與爲非とあるはならびなき名言なり

此時町奉行曲淵甲斐守山村信濃守なりしが町家のやうす見𢌞らんとて大勢にて出でしかど西河岸邊に三百五百の組を立てたるあふれ者大瓦など積みまうけ無事なる時は奉行を恐るべし此節に至りては何の憚るべきことあらん近付けば打ち殺すべしと口々にのゝしりし故に兩奉府もすごすごと引きとりきとぞ

日々かくのごとき故に御先手十組の面々阿部平吉柴田三右衞門河野勝左衞門安藤又兵衞小野次郞右衞門松平庄右衞門長谷川平藏武藤庄兵衞鈴木彈正少弼奥村忠太郞各與力同心を召し具して江戶中端々まで𢌞りしが何の仕出したる事もなかりき

其頃の取沙汰に御先手の面々物馴れたる同心に道をはらはせ打ちこはしの一むれある所をば通行せずして脇道をのみ𢌞りきといへり

予がしれる御番衆五月十七八日の頃か御借米を受取りしに其日の相場弐百五兩なりきわれら其頃は小普請にて六月の中旬頃に玉落ありしがはや大に直段も引き下れりといひしが九拾八兩弐分にてありき

此時分町家にては白粥あづきがゆ麥挽わりを以て最上とし豆めしそら豆めし芋めしを上食としひばめしきらず飯或はうどんの粉のつといれ等をその次となす甚しきに至りては得しらぬ野菜をおほく鍋に入れ鹽にて少し味をつけ其中へひえの粉樣の物をふりちらして食とす又わらをすさの如くに切りてほうろくへかけてよきほどにこがしそれを挽舂にてよくひきだんごとなしてくらへり

予があたりの土手原にある可なりに食となるべき草はみなとりつくせしなり奧州筋にては鳥獸を食し或は子をとらへて飢をしのげりといへり

此打ちこはしの時公より一町内の人別をあらため其人數程竹鎗一本づゝもたせ白き手拭をしるしと定めもし他より亂妨のもの來れば拍子木を以てうちならす時は一同に集ふべしと觸れられしが程なく騷動止みたりとなり是全く其町内より出でしものも他の者に交りてわが町内にも夜分など亂妨せしゆゑに町内にかゝる觸出でし故に皆しづまりしは當意卽妙の事とぞ〔此町觸れによりて打こはしの鎭まりしにはあらず江戶中の米屋共を不殘打こはして人氣ゆるみし上に米穀下直にし御救被下といふ風聞によりて漸々に鎭まりしなり〕

此節あふれ者共も召し捕れて入牢せしものおびたゞしく假に牢をもしつらひしといへり〔多く入牢せしはこの打こはしの騷ぎに乘じて物を盜みし巾着切などいふ盜人なりしと聞きぬ〕

此打ちこはしの騷動五月十九日より廿二日までにて鎭まりしが廿四日頃より廿六七日の間は米穀の賣買更になし〔此打こはしは五月下旬より六月初旬まで凡一旬にて全く鎭りし也その中甚しかりしは四五日の程なりき〕

米商賣の者六月二日頃より米賣り出だすべき含はありしが一體米拂底なる故に手段なくて只其町ぎりに番屋々々にて百文につきて四合づゝに賣りしなり

百俵五人扶持以下の御家人へは御救米拜借被仰付之六月に入り町々へは御すくひ米御救金壱人に付三匁弐分米豆合而五合づゝ被下之

米穀拂底に因りて津々浦々迄御救方の事關東御郡代伊奈半左衞門に被仰付之半左衞門計ひにて大麥兩に壱石米は兩に四斗の積りをもて江戶町中へ御すくひ米あり尤右代物は五日めに差出候へば又候其跡の米麥ともに賣りわたし觸れられしなり但壱兩なり四斗の相揚百俵にては八拾七兩弐步の積りなりとぞ

此米直段の至りて貴かりし時にをかしき物語有り吉原にて何がしといへる雙びなき名妓ありしが常には文雅風流なる客を愛し文才なき野俗なる人物には殊に愛相も薄かりき此飢僅に至りて日頃と違ひ入り來る客をば雅俗をえらまずもてなしも厚かりし故に一家のもの共大に不審し其操のかはりしことを難ぜしに名妓のいへるは不審し給ふこと道理に聞え侍る必竟此頃しも日々に雜食のみにていかに快らず客來れば米の飯を食しまゐらする故に客を愛するにてはなし只口腹を愛するなりといへるにて此時分の米の寶なるをしるべし

予が方へ出入する大工作事を外より受け負ひし焚出しの米をとゝのへんとて拾兩付の金をふところにし米商人の方へ終日あるきしにやうやく五升三升づゝ買ひ集めて三斗には足らざりしとて常に物語せり

此年はいづれの人とても空腹になり易きこと至りてはやく朝飯すみぬればはや晝飯を待ちかねしなり

米すくなき時節には北斗にさゝふる程の黃金白銀ありとも更に益なし米は壱ケ年も二ケ年も餘りある程に手當ありたきものなり前漢の鼂錯が論に珠玉金銀饑不可食寒不可衣とは古今不易の確言といふべし

天明八申とし正月晦日禁中及堂上衆武家寺社市中等火災の大變あり

神祖海内を統御ましましてより二百年の今日まで四民其所を得ざるものなく三代の治といふとも恐らく此うへに過ぐまじ

昇平の世にひとり恐怖すべきもの火災にますことなし平賀源内の工夫せし天龍水といふもの制作なしたらば雙なき防なるべきに其含の内になき人の數に入りし惜むべきこととて司馬江漢なる蘭學者語りきいかなる防ぎの器なりしにか〔消夏自適天明の凶年編全〕

この記を筆せし鱗齋ぬしはその職分官府の御舊記を窺ひ見る事の自由なる故に當時の御沙汰と地名歲月時日まさしくも具にしるされたり但市中の事風聞の說に至りてはいかにぞやおもふよしなきにあらぬをそのくだりに聊かしら書を加へたり前編と彼是比較せば後生の爲に稗益あるべし

文政九年丙戌春二月十七日雨窓に謄寫了

注

写本の位置
写本は3166の67カット目左ページ2行目から76カット目左ページまで。67カット目左ページの1行目は前話の識語の続き「印本五頁亦在其中矣」で、2行目から「著作堂云」で始まる。写本に題はなく、目録の「消夏自適天明荒凶記附録」を題にした。末尾は76カット目左ページの「文政九年丙戌春二月十七日雨窓に謄寫了」。
注記
宇多鱗斎の『消夏自適』の一編を馬琴が丙戌の正月に抄録し、前話の比較資料として集の末尾に加えたもの。文政九年二月の日付があるので、文政八年十月の兎園会の後に書き足された。
校合
「予が方へ出入する大工」は写本で「予」と読める。活字本系の「子」は誤植とみられる。
校合
「珠玉金銀」は写本で「珠」と読める。活字本系の「球玉」は採らない。
判読保留
「目白下の大樋」の「樋」は活字本系テキストが欠字にするが、写本は前話の「大どい」と同じ語なので「樋」と読んだ。原寸で確かめていない。判読保留。
注記
「安民可與行」と「饑不可食」の漢文は写本に朱の返り点があるが、白文にした。
注記
「宇多氏〔名良直號鱗齋〕」は写本では本文の右上に小字二行で書かれている。〔 〕に入れて本文中に置いた。
校合
小字の割注は活字本系テキストの位置に従い〔 〕に入れた。写本でも本文中の小字二行で、位置は同じ。
注記
流行り唄と狂句は独立した段落にせず、本文中に残した。「春は火事」の句だけは独立した段落にし、読みやすい本文では句ごとに空白で区切った。
注記
宇多良直は幕臣で号鱗斎。曲淵甲斐守は曲淵景漸、山村信濃守は山村良旺。御先手十組の名は写本のまま。長谷川平蔵は長谷川宣以。浚明院は将軍家治。賈誼と鼂錯は前漢の人で、いずれも通説の範囲で記した。
校合
字句はページ全体の画像で活字本系テキストと読み合わせた。「予」「珠」は拡大して確かめ、そのほかは原寸で確かめていない。
校合
私家版は第14話の第8記事と同じ1記事。

AI試訳 / 専門家未校閲