雲亭日本古典図書室収録作品の一覧

参考太平記年暦不合 附若鷹考

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兎園小説 / 曲亭馬琴ほか 兎園会の会員 / 第十二集 第2話 / 龍珠館 桑山修理

参考太平記の小注にある名和一族の年齢が合わないことを指摘し、附録で定家の鷹の歌の一句を正す。

本文 現代語訳

参考太平記年暦不合
参考太平記の年暦が合わないこと
『参考太平記』元弘三年、「後醍醐帝船上山潜幸」の条に、『伯耆』の巻を引きて、「奈和長高の三男乙童丸」とありて、小注に、「正六位上四郎左衛門尉高光、建武三年十一月一日、西坂本に於いて逝去、二十二歳」とあり。この時十四歳ばかりなるよし、この末の「船上山合戦」の条にも出でたり。按ずるに、元弘三年より建武三年までは年暦四年に過ぎず、乙童丸の紀十七歳なるべし。
『参考太平記』元弘三年、「後醍醐帝が船上山へ潜幸」の条に『伯耆』の巻を引いて、「名和長高の三男乙童丸」とあり、その小注に「正六位上四郎左衛門尉高光。建武三年十一月一日、西坂本で逝去、二十二歳」とある。この時に十四歳ほどであったことは、この後の「船上山合戦」の条にも出ている。考えてみると、元弘三年から建武三年までは暦の上で四年に過ぎず、乙童丸の年齢は十七歳のはずである。
また同条には、「嫡子義高」とありて、小注に、「左京大進、後に正五位上伯耆守大夫判官、延文三年五月、和泉国堺浦に於いて討死、三十七歳」とあり。然れば、元弘三年より延文三年〔南朝正平十三年〕まで、年暦二十六年なれば、この年紀をもて逆ふ時は、元弘三年には高義わづかに十二歳なり。しかるを、その第三番の弟の乙童丸、十四歳なるべきやうなし。そのうへ、次男の孫三郎基長には、土用松とて三歳の男子あり。これをもて見れば、高義たとひ若年なりとも、二十あまりなるべし。ことごとく小注の誤りなり。
また同じ条には「嫡子義高」とあって、小注に「左京大進、後に正五位上伯耆守大夫判官。延文三年五月、和泉国堺浦で討死、三十七歳」とある。それなら、元弘三年から延文三年〔南朝の正平十三年〕までは暦の上で二十六年だから、この年紀で逆算すれば、元弘三年には高義はわずか十二歳である。それなのに、その三番目の弟の乙童丸が十四歳であるはずがない。そのうえ、次男の孫三郎基長には土用松という三歳の男児がいる。これから見れば、高義がたとえ若年であっても、二十歳あまりのはずである。小注はことごとく誤りである。
若鷹
若鷹
『群書類従』「定家卿鷹三百首」、
『群書類従』の「定家卿鷹三百首」に、
あまたとや ふませて見ばや いまだにも 古木居に似る 秋の若鷹
たくさんの鳥屋を経させて見たいものだ。今なお古い鳶に似ている秋の若鷹を。
この四の句、予が蔵本には「ふるとびに似る」とあり。これは「古鳶」に作るかた勝れたり。「古木居」にては歌の心何とも聞こえず。すべて大鷹の今年生ひの若鷹は、形容さながら鳶に変はらざるものなれども、一とや経れば毛色浅黄になりて、それより鳥屋を出づるごとに、次第にうるはしくなるものなり。歌の心も、「あまたとやをかへたらば、毛も変はりうるはしかるべきに、今は鳶に似てきたなげなり」とよめるなり。この四句、「とび」と仮名にてありしを、「こひ」と読みて、やがて「木居」と書きたるなるべし。
この第四句は、私の蔵本には「ふるとびに似る」とある。これは「古鳶」と作るほうが優れている。「古木居」では歌の意味がまったく通らない。そもそも大鷹のうち今年生まれの若鷹は、姿かたちがまるで鳶と変わらないものだが、一度鳥屋を経ると毛色が浅黄になり、それから鳥屋を出るたびに次第に美しくなるものである。歌の心も、「たくさんの鳥屋を経させれば毛も変わって美しくなるはずなのに、今は鳶に似て汚らしい」と詠んだのである。この第四句は、「とび」と仮名で書いてあったのを「こひ」と読み、そのまま「木居」と書いてしまったのだろう。
乙酉臘月朔日 龍珠しるす
乙酉十二月一日 龍珠しるす
原文 / 昭和女子大学本の字句を採り、正字体を保持、振り仮名を外す

參考太平記年歷不合

參考太平記元弘三年、後醍醐帝船上山潛幸の条に、伯耆の卷を引て、奈和長高の三男乙童丸とありて、小注に、正六位上四郞左衞門尉高光、建武三年十一月一日、於西坂本逝去、二十二歲、とあり。此時十四歲ばかりなるよし、此末の船上山合戰の條にも出たり。按ずるに、元弘三年より建武三年迄は年歷四年に過ぎず、乙童丸の紀十七歲なるべし。

又同條には、嫡子義高とありて、小注に、左京大進、後に正五位上伯耆守大夫判官、延文三年五月、於和泉國堺浦討死、三十七歲、とあり。然れば、元弘三年より延文三年〔南朝正平十三年〕迄、年歷二十六年なれば、此年紀をもて逆ふ時は、元弘三年には高義わづかに十二歲なり。しかるを、その第三番の弟の乙童丸、十四歲なるべきやうなし。其うへ、次男の孫三郞基長には、土用松とて三歲の男子あり。これをもて見れば、高義たとひ若年なりとも、二十あまりなるべし。悉く小注の誤なり。

若鷹

群書類從定家卿鷹三百首、

あまたとやふませて見ばやいまだにも古木居に似る秋の若鷹

此四の句、予が藏本にはふるとびに似るとあり。これは古鳶に作るかた勝れたり。古木居にては歌の心何とも聞えず。すべて大鷹の今年生ひの若鷹は、形容さながら鳶にかはらざるものなれども、一とや經れば毛色淺黃になりて、夫より鳥屋を出る每に、次第にうるはしくなるものなり。歌の心も、あまたとやをかへたらば、毛もかはりうるはしかるべきに、今は鳶に似てきたなげなり、とよめるなり。此四句、とびと假名にてありしを、こひとよみて、やがて木居と書たるなるべし。

乙酉臘月朔日 龍珠しるす

注

写本の位置
写本は3172の5カット目左ページから7カット目右ページまで。題「參考太平記年歷不合」は5カット目右ページの末尾の一行に書かれ、本文は5カット目左ページから始まる。附の「若鷹」は6カット目右ページの後半から7カット目右ページの前半にあり、署名の次の行から次の話「漂流人歸國」が始まる。
校合
目録は「參考太平記年歷不合 附若鷹考」として一話にまとめる。私家版は「參考太平記年歷不合」と「若鷹」の二記事に分ける。若鷹の記事は https://onibi.cocolog-nifty.com/alain_leroy_/2021/10/post-cf87e7.html にある。
校合
活字本系テキストの本文は、写本の「此時十四歲ばかりなるよし」から「此年紀をもて逆ふ時は元弘三年には高義わづかに十二歲なり。しかるを」までの考証の中核部分を欠く。原文は写本の全文を採った。
注記
「此時十四歲ばかりなるよし、此末の船上山合戰の條にも出たり」の「なるよし」「にも出たり」はくずし字からの推定で、判読を保留する。原寸で切り出して読んだ。
注記
「高義わづかに十二歲なり。しかるを」の「わづかに」「しかるを」はくずし字からの推定で、判読を保留する。前後の年数の計算には合う。
校合
嫡子の名は写本の小注の引用では「義高」、後の考証では「高義」と書く。活字本系は「高義」とする。写本のとおり両方を残した。
注記
「西坂本逝去二十二歲とあり」の「と」は、写本では「を」の脇に朱で補われている。
校合
「定家卿鷹三百首」は写本の読み。活字本系は「定家卿庭三百首」とする。原寸で確かめると鷹の草書で、第一集のひやうし考でも鷹三百首と引く。
校合
「鳥屋を出る每に」は写本の読み。活字本系は「出づる每に」とする。
注記
參考太平記は今井弘済と内藤貞顕の編になる太平記の校訂本。名和長高は名和長年で、船上山に後醍醐天皇を迎えた。写本は奈和と書く。
注記
披講者は目録に「仝」とあり、前の話と同じ龍珠館。若鷹の末尾に「龍珠しるす」と署名がある。龍珠館は旗本の桑山修理と解した。人物の特定は雲亭の推定で未確認。
注記
臘月は十二月。乙酉は文政八年で、兎園会の当日にあたる。

AI試訳 / 専門家未校閲