漂流人帰国
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兎園小説 / 曲亭馬琴ほか 兎園会の会員 / 第十二集 第3話 / 乾斎 中井乾斎
大坂を出た船が漂流し、アメリカ船に救われて水戸沖に送り返された五島の水夫重次郎の口書。
本文 現代語訳
乙酉八月の頃、五島侯の藩士横山慶吉の談に云ふ、「今玆五月、水戸沖へ異国船来て、日本の漂流人十一人を送り帰したる中に、水夫一人、主人領処五島目井津の者にて、重次郎といふ者なり。官府の御吟味済みて、当八月本藩に引き渡しになりたり。年三十格好にて、随分利根に物の分かりたる者なり。その者に五島侯より異国船中の事ども尋ねありし口書の写し、左の如し」。
乙酉の八月ごろ、五島侯の藩士横山慶吉が語るには、「今年五月、水戸沖に異国船が来て、日本の漂流人十一人を送り返した。その中の水夫一人が、主君の領地五島の目井津の者で重次郎という。幕府の取り調べが済み、この八月に本藩へ引き渡された。年は三十ほどで、なかなか利発で物のわかった者である。その者に五島侯から異国船の中のことなどを尋ねた口書の写しは、次のとおりである」。
乙酉八月二十一日、重次郎を呼び出し、問ひて云ふ、「其方事、御在所何方の者に候や。難船に遭ひ、異国船へ乗り移り候一件、御詮議に相成り、此度御勘定奉行より御引き渡しこれあり候。これまでの次第、始終つぶさに申し聞かすべく候」。
乙酉八月二十一日、重次郎を呼び出して問う。「お前は御在所のどこの者か。難船に遭って異国船へ乗り移った一件は、お取り調べとなり、このたび勘定奉行からお引き渡しがあった。これまでの経緯を、始めから終わりまで詳しく申し述べよ」。
答へて云ふ、「仰せの如く、私儀は目井津出生に御座候。水夫の義に御座候へば、十六七の比より大藤津得丸軍蔵船権現丸へ乗り候て、船執行仕り罷り在り候。然る処、右軍蔵大坂表借用多く、同処留め船に相成り候に付き、その後白江町長次郎と申す者の船へ乗り候て、三四年も上下仕り候所、右長次郎儀も大坂表借財多く、同処留め船に相成り候。然る処、私ふと病気に取り付かれ、十四ケ月知人の方に罷り在り候て養生仕り候処、快気致し候へども、病中の物入り彼是都合七百目位の借用に相成り候。これに依り、御国許へ罷り下り候儀も相成り難く、彼是心配罷り在り候内、知人の許より申し聞け候は、兵庫芝屋仙吉と申す者の船、水夫これなき由、この船に乗り候て稼ぎ申すべき旨申し聞け候に付き、右仙吉船に乗り候て、三四年も蝦夷松前の方へ通ひ、売買仕り罷り在り候。
答えて言う。「仰せのとおり、私は目井津の生まれでございます。水夫でございますので、十六七のころから大藤津の得丸軍蔵の船、権現丸に乗って船稼ぎをしておりました。ところが軍蔵は大坂で借金が多く、同地で船を差し押さえられましたので、その後は白江町の長次郎という者の船に乗り、三四年ほど大坂と国元を上り下りしておりましたが、長次郎も大坂で借財が多く、同地で船を差し押さえられました。そのうち私はふと病気にかかり、十四か月ほど知人の家で養生いたしましたところ、快復はしましたが、病中の入り用があれこれ合わせて七百目ほどの借金になりました。それで国元へ帰ることもできず、あれこれ心配しておりましたところ、知人から、兵庫の芝屋仙吉という者の船に水夫がいないから、この船に乗って稼げばよいと言われましたので、仙吉の船に乗って三四年ほど蝦夷や松前の方へ通い、商売をしておりました。
然れども、格別の利益も御座なく候に付き、去る霜月より大坂柏屋勘兵衛と申す者の船へ乗り候て、江戸行き荷物諸色積み入れ、去る霜月二十八日同所出帆仕り候処、順風にて急ぎ紀州三浜と申す処へ着き申し候。翌日も相応の順風と存じ、同処出帆仕り候処、四時頃より西風強く、東南を向き候て風に任せ流れ候内、一向山も見え申さず相成り、風はいよいよ強く、その上沖中の事に御座候へば、船持ち留めがたくこれあり候に付き、柱を切り荷物を打ち捨て候て相凌ぎ候処、いよいよ風波強く相成り、橋船二艘とも二つに吹き折れ、楫も打ち折れ候に付き、いかんとも致し方の便これなく、汐合に合はせ流れ行き申し候。
しかし格別の利益もございませんので、去年の十一月から大坂の柏屋勘兵衛という者の船に乗り、江戸行きの荷物をいろいろ積み込んで、十一月二十八日に同所を出帆したところ、順風で急いで紀州の三浜という所へ着きました。翌日もほどよい順風と思って同所を出帆したところ、四つ時ごろから西風が強くなり、船は東南を向いて風に任せて流されるうちに、まったく山も見えなくなり、風はいよいよ強く、その上沖の真ん中のことですから船を持ちこたえられず、帆柱を切り荷物を打ち捨てて凌ぎましたが、風波はますます強くなり、伝馬船二艘はどちらも二つに吹き折れ、楫も折れましたので、どうにも手立てがなく、潮に合わせて流れて行きました。
然る処、三月末とも覚え候時分、二三日の間水切れにて一統難儀仕り、助命の程も計り難く御座候に付き、乗組中髪を切り、神仏へ誓願仕り候処、冥慮に叶ひ候や、その夜四つ時比にても候やと覚え候時刻、俄かに大雨降り出し候に付き、櫓より樋を掛け、水溜め二つほど取り入れ候に付き、一難を相免れ候。内、十三人乗りの内二人病気に付き、乗組中彼是気を付け候へども、永々の漂流に気も労れ候や、相果て申し候。何方の沖とも一向相分かり申さず候処、四月十日比にても御座候や、遙かに異国船と見請くる大船相見え候内、次第に近寄り候。右唐船より橋船を卸し、迎へに罷り出で候に付き、一命には替へ難く、直様乗組中十一人ともに異国船へ乗り移り申し候。然れども、一向相互に何を申し掛け候ても相分かり申さず、絵図面など出し、日本の富士山などを絵に描き、この山下より風に放たれ流れ候やとまで手様にて致し候に付き、その通りと相うなづき罷り在り候。さ候て、菓子など食はせ、彼是と一統気を付け呉れ候に付き、乗組中十一人ともに安心仕り、乗船いたし居り候内、何方へ連れ行き申すべきや、右の通り大船に帆柱十一二本も立て、風に任せ二十四五日も走りし処、柱へ上り遠目鏡にて日本の山見え候に付き、四五日の内日本の地へ着き申すべし、手様にて知らせ候に付き、皆々相歓び候内、申し聞け候通り五日目に相成り、いよいよ日本の山と見え候て、漁船相見え候。漁船よりは異国船と見受け、残りなく艪を立て逃げ候へども、唐船には叶ひがたく、直様追ひ付き候に付き、何方の漁船に候やと問ひ掛け候処、常陸国ひら方と申す処の船の由申し候に付き、異国船より橋船三艘取り卸し、乗組中十一人ともに右漁船に積み送り申し候。
そうして三月末と思われるころ、二三日のあいだ水が切れて一同難儀し、命も助かりそうにございませんでしたので、乗組員一同が髪を切って神仏に誓願したところ、冥慮にかなったのか、その夜四つ時ごろと思われる時刻に、にわかに大雨が降り出しましたので、櫓から樋を掛けて水溜め二つほどに水を取り入れ、一難を免れました。そのうち十三人乗りのうち二人が病気になり、一同あれこれ看病しましたが、長い漂流に気力も尽きたのか、亡くなりました。どこの沖ともまったくわからないまま、四月十日ごろでございましたか、遥かに異国船と見える大船が見え、次第に近づいて来ました。その唐船から小船を下ろして迎えに来ましたので、命には替えられず、すぐに乗組員十一人そろって異国船へ乗り移りました。しかし互いに何を言っても通じず、絵図面などを出し、日本の富士山などを絵に描いて、この山の下から風に流されたのかと手ぶりで尋ねますので、そのとおりだとうなずいておりました。そうして菓子などを食べさせ、あれこれ一同に気を配ってくれましたので、乗組員十一人とも安心して乗船しておりましたが、どこへ連れて行かれるのか、その大船に帆柱を十一二本も立て、風に任せて二十四五日も走ったところ、柱に上って遠眼鏡で日本の山が見えたので、四五日のうちに日本の地に着くと手ぶりで知らせてくれ、皆が喜んでいるうちに、言われたとおり五日目になっていよいよ日本の山と見え、漁船が見えました。漁船の方では異国船と見て、みな艪を立てて逃げましたが、唐船にはかなわず、すぐに追いつきましたので、どこの漁船かと問いかけたところ、常陸国のひら方という所の船だと言いますので、異国船から小船三艘を下ろし、乗組員十一人ともその漁船に乗せて送ってくれました。
右の通り永々の事に御座候へば、何と申す処も相分かり申さず候に付き、相尋ねし処、五月四日と申し聞け候。さ候て、同国河原郷と申す浦役所へ罷り出で、御改め相済み、五月二十六日右同所出立候て、水戸様より頭役三人、横目四人、与力十一人付き添ひ候て、江戸小石川御屋敷へ御送り届けこれあり候。右御屋敷に十二三日滞留罷り在り候処、御勘定奉行遠山様にて御詮議に罷り成り候に付き、大坂出帆後難船に逢ひ、異国船へ乗り移り候次第、逐一言上仕り候。尤も、御詮議中、日本橋銭屋又左衛門と申す者の宅へ置かれ、御詮議相済み、当御屋敷へ御引き渡しに相成り候。この段左様に御聞き届け下さるべく候」。
以上のように長い間のことでございますので、何という所かもわからず、尋ねたところ五月四日ということでした。そうして同国の河原郷という浦役所へ出て取り調べが済み、五月二十六日に同所を出立し、水戸様から頭役三人、横目四人、与力十一人が付き添って、江戸小石川の御屋敷へ送り届けられました。その御屋敷に十二三日滞在していたところ、勘定奉行の遠山様のもとでお取り調べとなりましたので、大坂出帆ののち難船に遭い、異国船へ乗り移った次第を逐一申し上げました。なお取り調べのあいだは、日本橋の銭屋又左衛門という者の宅に置かれ、取り調べが済んで当御屋敷へお引き渡しになりました。この段、そのようにお聞き届けください」。
問ふ、「滞坂中病気に取り付かれ候に付き、御在所へも下り申さず、同所に滞在いたし、病中の物入り相続き申さざる段申し聞け候。然る処、七八年も滞坂致し候はば、同所御屋敷へ御届け申し上げ候儀と存じ候。つぶさに申し聞かすべく候」。
問う。「大坂滞在中に病気にかかったので国元へも下らず、同地に滞在して、病中の入り用が続いたわけではないと申しているが、七八年も大坂に滞在したなら、同地の御屋敷へ届け出るべきものと思う。詳しく申し述べよ」。
答ふ、「仰せの如く、難病に付き、その節過分の物入り御座候に付き、借用多く相成り、折角御在処へ罷り下り申すべき所存にて御座候へども、商売候儀に御座候へば、大坂出奔仕り候ては、以後御在処へ罷り下り候ても船乗り出来申さず候に付き、余儀なく同処にて相稼ぎ罷り在り候。永々の義に御座候へば、大坂御屋敷まで御届け申し上ぐべく候処、御存知の通りの身分に御座候へば、それまで行き届き申さず、不調法に存じ奉り候」。
答える。「仰せのとおり、難病のためそのとき過分の入り用があり、借金が多くなって、ぜひ国元へ帰りたいと思っておりましたが、商売のことでございますので、大坂を出奔しては、その後に国元へ帰っても船乗りができませんので、やむなく同地で稼いでおりました。長い間のことでございますから大坂の御屋敷まで届け出るべきでしたが、ご存じのとおりの身分でございますので、そこまで行き届かず、不調法に存じます」。
八月二十一日 水夫 重次郎
八月二十一日 水夫 重次郎
右の通り御届け申し候。以上。 長倉市郎右衛門 長嶺三蔵
右のとおりお届け申し上げます。以上。 長倉市郎右衛門 長嶺三蔵
大坂柏屋勘兵衛船安穏丸、千二百石積み、船頭水主十三人乗り、内二人海上にて病死。
大坂の柏屋勘兵衛の船安穏丸、千二百石積み、船頭と水主十三人乗り、うち二人は海上で病死。
一、阿波 船頭 兵蔵/一、讃岐丸亀 猪之助/一、讃岐高松 重吉/一、同 儀兵衛/一、安芸 粂介/一、同 政次郎/一、備後 熊吉/一、紀州 三平/一、紀州 亦助/一、伊豆八丈 亀蔵/一、御在所 重次郎/右十一人
一、阿波 船頭 兵蔵/一、讃岐丸亀 猪之助/一、讃岐高松 重吉/一、同 儀兵衛/一、安芸 粂介/一、同 政次郎/一、備後 熊吉/一、紀州 三平/一、紀州 亦助/一、伊豆八丈 亀蔵/一、御在所 重次郎/右十一人
外二人海上にて病死。備後尾道 惣吉/紀州 松次郎/〆十三人
ほかに二人が海上で病死。備後尾道 惣吉/紀州 松次郎/合計十三人
乙酉十二月朔日 中井乾斎録
乙酉十二月一日 中井乾斎記す
〔頭注 この編披講の折に、清水赤城子云く、「件の異国船はアメリカなり。その故は、彼のエビスども、『アブリカンベイ』としばしば言ひしよしなり。御吟味のころ、万国の図などにて考索せられしかども、アブリカンベイといふ国なきによりて、知れぬにて事済みたり。アブリカンベイとはアメリカの蛮呼にて、彼の国にてはしか唱ふる」とぞ。十二月朔日席上にての話説なれば、後勘のため記しおくのみ。著作堂〕
〔頭注 この編を披講した折に、清水赤城子が言うには、「例の異国船はアメリカである。というのも、あの夷どもが『アブリカンベイ』としばしば言っていたそうだ。取り調べのころ、万国の地図などで調べられたけれども、アブリカンベイという国がないので、わからないままで済んでしまった。アブリカンベイとはアメリカの蛮語の呼び名で、あの国ではそう唱える」とのこと。十二月一日の席上での話なので、後日の考証のために記しておくだけである。著作堂〕
原文 / 昭和女子大学本の字句を採り、正字体を保持、振り仮名を外す
漂流人歸國
乙酉八月の頃、五島侯の藩士橫山慶吉の談に云、今玆五月、水戶沖へ異國船來て、日本の漂流人十一人を送りかへしたる中に、水夫一人、主人領處五島目井津の者にて、重次郞といふものなり。官府の御吟味濟て、當八月本藩に引渡しになりたり。年三十格好にて、隨分利根に物の分りたる者なり。其者に五島侯より異國船中の事共尋ありし口書の寫、左の如し。
乙酉八月廿一日、重次郞を呼出し、問て云、其方事、御在所何方之者に候哉。難船に遭ひ、異國船へ乘移り候一件、御詮議に相成、此度御勘定奉行より御引渡有之候。是迄之次第、始終具に可申聞候。
答て云、如仰、私儀は目井津出生に御座候。水夫之義に御座候へば、十六七の比より大藤津得丸軍藏船權現丸へ乘候て、船執行仕罷在候。然處、右軍藏大坂表借用多く、同處留船に相成候に付、其後白江町長次郞と申者の船へ乘候而、三四年も上下仕候所、右長次郞儀も大坂表借財多く、同處留船に相成候。然處、私風と病氣に被取付、十四ケ月知人の方に罷在候而養生仕候處、快氣致し候へども、病中の物入彼是都合七百目位の借用に相成候。依之、御國許へ罷下り候儀も難相成、彼是心配罷在候内、知人の許より申聞候は、兵庫芝屋仙吉と申者の船、水夫無之由、此船に乘候て挊ぎ可申旨申聞候に付、右仙吉船に乘候而、三四年も蝦夷松前の方へ通ひ、賣買仕罷在候。
然共、格別之利益も無御座候に付、去霜月より大坂柏屋勘兵衞と申者の船へ乘候而、江戶行荷物諸色積入、去霜月廿八日同所出帆仕候處、順風にて急ぎ紀州三濱と申處へ着申候。翌日も相應の順風と存、同處出帆仕候處、四時頃より西風强く、東南を向候て風に任せ流候内、一向山も見え不申相成、風は彌强く、其上沖中の事に御座候へば、船持留がたく有之候に付、柱を切り荷物を打捨候て相凌候處、彌風波强く相成、橋船二艘共二つに吹折れ、楫も打折候に付、如何共致方の便無之、汐合に合せ流行申候。
然處、三月末とも覺候時分、二三日の間水切にて一統難儀仕、助命之程も難計御座候に付、乘組中髮を切、神佛へ誓願仕候處、冥慮に叶候哉、其夜四ツ時比にても候哉と覺候時刻、俄に大雨降出候に付、櫓より樋を掛け、水溜二つ程取入候に付、一難を相免れ候。内、拾三人乘之内弐人病氣に付、乘組中彼是氣を付候へ共、永々の漂流に氣も勞候哉、相果申候。何方之沖共一向相分り不申候處、四月十日比にても御座候哉、遙に異國船と見請る大船相見え候内、次第に近寄候。右唐船より橋船を卸し、迎に罷出候に付、一命には難替、直樣乘組中拾壱人共に異國船へ乘移申候。然共、一向相互に何を申掛候ても相分り不申、繪圖面抔出し、日本の富士山などを繪にかき、此山下より風に放たれ流候哉とまで手樣にていたし候に付、其通りと相默頭罷在候。左候て、菓子抔喰せ、彼是と一統氣を付吳候に付、乘組中拾壹人共に安心仕、乘船いたし居候内、何方へ列行可申哉、右之通り大船に帆柱拾壱弐本も立て、風に任せ廿四五日も走りし處、柱へ上り遠目鏡にて日本の山見え候に付、四五日之内日本の地ヘ着可申、手樣にて爲知候に付、皆々相歡候内、申聞候通五日目に相成、彌日本の山と見え候て、漁船相見え候。漁船よりは異國船と見受け、殘りなく艪を立逃候へ共、唐船には叶ひがたく、直樣追付候に付、何方の漁船に候哉と問掛候處、常陸國ひら方と申處の船の由申候に付、異國船より橋船三艘取卸、乘組中拾壱人ともに右漁船に積送り申候。
右之通り永々之事に御座候へば、何と申處も相分り不申候に付、相尋ねし處、五月四日と申聞候。左候て、同國河原鄕と申浦役所へ罷出、御改相濟み、五月廿六日右同所出立候て、水戶樣より頭役三人、橫目四人、與力拾壱人附添候て、江戶小石川御屋敷へ御送屆有之候。右御屋敷に十二三日滯留罷在候處、御勘定奉行遠山樣にて御詮議に罷成候に付、大坂出帆後難船に逢ひ、異國船ヘ乘移候次第、逐一言上仕候。尤、御詮議中、日本橋錢屋又左衞門と申者の宅へ被置、御詮議相濟、當御屋敷へ御引渡に相成候。此段左樣に御聞屆可被下候。
問、滯坂中病氣に被取付候に付、御在所へも下り不申、同所に滯在いたし、病中の物入相續き不申段申聞候。然處、七八年も致滯坂候はゞ、同所御屋敷へ御屆申上候儀と存候。具に可申聞候。
答、如仰、難病に付、其節過分の物入御座候に付、借用多く相成、折角御在處へ罷下り可申所存にて御座候へ共、商賣候儀に御座候へば、大坂出奔仕候ては、以後御在處へ罷下り候ても船乘出來不申候に付、無餘儀同處にて相挊罷在候。永々之義に御座候へば、大坂御屋敷迄御屆可申上候處、御存知之通之身分に御座候へば、夫迄行屆不申、不調法に奉存候。
八月廿一日 水夫 重次郞
右之通御屆申候。以上。 長倉市郞右衞門 長嶺三藏
大坂柏屋勘兵衞船安穩丸、千二百石積、船頭水主拾三人乘、内二人海上にて病死。
一阿波 船頭 兵藏/一讚岐丸龜 猪之助/一讚岐高松 重吉/一同 儀兵衞/一安藝 粂介/一同 政次郞/一備後 熊吉/一紀州 三平/一紀州 亦助/一伊豆八丈 龜藏/一御在所 重次郞/右拾壱人
外弐人海上にて病死。備後尾道 惣吉/紀州 松次郞/〆拾三人
乙酉十二月朔日 中井乾齋錄
〔頭注 此編披講の折に、清水赤城子云く、件の異國船はアメリカなり。その故は、彼エビス共、アブリカンベイとしばしばいひしよし也。御吟味のころ、萬國の圖等にて考索せられしかども、アブリカンベイといふ國なきによりて、しれぬにて事濟たり。アブリカンベイとはアメリカの蠻呼にて、彼國にてはしか唱ふるとぞ。十二月朔日席上にての話說なれば、後勘の爲しるしおくのみ。著作堂〕
注
- 写本の位置
- 写本は3172の7カット目右ページの後半から11カット目右ページまで。7カット目右ページに若鷹の署名に続けて題があり、11カット目右ページに乗組の一覧と中井乾齋の署名がある。著作堂の附記は11カット目右ページの上欄に小字で書かれた頭注で、原文では〔頭注 …〕として末尾に置いた。11カット目左ページから次の話「大酒大食の會」が始まる。
- 校合
- 「兵庫芝屋仙吉」は写本の読み。活字本系テキストは「足屋仙吉」とする。写本の字形は艸冠に之で、芝屋と読める。
- 校合
- 「知人の許より申聞候は」は写本の読み。活字本系は「中聞え候は」とする。
- 校合
- 「楫も打折候」は写本の読み。活字本系は「揖」とする。舵の意なので楫の字を採った。
- 注記
- 「右唐船より橋船を卸し」の「唐」は、写本では朱で補われている。写本の墨書は「右船より」。
- 校合
- 「官府の御吟味濟て」「見請る大船」は写本の送り仮名で、活字本系は「濟みて」「見請くる」とする。候文の送り仮名の細かな違いは、ほかにも注記に残していない。
- 注記
- 「病中の物入相續き不申段」の付近に朱の記号がある。原寸で確かめていない。
- 注記
- 乗組の一覧は写本では一行に一人を書く。原文では「/」で区切って一段落にした。
- 注記
- 五島侯は肥前福江藩の五島家。目井津は五島列島の港。大藤津は五島の大宝か。地名の比定は雲亭の推定で未確認。
- 注記
- 御勘定奉行遠山樣は勘定奉行の遠山景晋。異国船は文政八年五月に常陸沖へ来たアメリカの捕鯨船と解されるが、船名などは未確認。
- 注記
- 清水赤城子は著作堂の附記に出る人物で、清水赤城は兵学者。人物の特定は雲亭の推定で未確認。
- 注記
- 披講者は目録に乾齋とあり、本文末尾の署名は中井乾齋。中井乾斎は兎園会の会員。
AI試訳 / 専門家未校閲