瞽婦殺賊
武州忍領の堤で越後の瞽女が、煙管の火を口で吹かせる隙に強盗の喉を突いて殺した話。
本文 現代語訳
瞽婦殺賊
瞽婦殺賊
近頃の事なり。武州忍領の辺へ、冬時に至れば越後より来る瞽婦の、三絃を弾じて村々を巡りつつ、米銭を乞ふありけり。或る冬、忍領の長堤を薄暮に通過せるに、たちまち後より呼び掛くる者あり。瞽婦立ち止まりて「何事ぞ」と問ふ。某者応へて云ふ、「我は強盗なり、汝の衣服を借さん」といふ。瞽婦笑ひて謝して云ふ、「寒気の節、つぶさに婦人裸体にて去らんと□くは、大人、袷衣と肌着とを恕せよ」。盗すなはち領き、瞽婦已に帯を解き去らんとするに臨みて、盗の燧石を弄する音を聴き、たちまち心中に一計を案じ、附きて云ふ、「大人、煙草を喫するや。我も亦欲しくは一吹きを共にせん」とて、懐中する所の煙管に草を詰め、盗に向ひ火を問ふ。盗すなはち自ら吹くところの雁首を指し向くるに乗じ、瞽婦摸索し、我が煙草に火の通ぜざるまねして、「大人、口づから吹きたまへ」といふ。盗何の思慮もなく、力を入れて吹くに及びて、其の機を測り、たちまち盗の煙管を握り、躍り掛かりて力に任せて咽喉を突く。盗不意を討たれて、大いに狼狽して仰向けに倒れぬ。瞽婦直ちに我が縕袍を摸取し、虎口を遁れて、兼ねて知れる村家に投宿し、右の状を話す。翌朝村人堤上に来て見るに、盗遂に一煙管の為に急所を突かれて死せりと云ふ。七尺の大男子、一瞽婦に殺さる。又天ならずや。〔武州忍の在なる古次郎といふ者の話なり〕
近頃のことである。武州忍領のあたりへ、冬になると越後から来る盲目の女が、三味線を弾いて村々を巡りながら米や銭を乞うていた。ある冬、忍領の長い堤を夕暮れに通っていると、突然うしろから呼びかける者があった。女は立ち止まって「何事ですか」と問う。その者は答えて言う、「おれは強盗だ。おまえの衣服を借りるぞ」と。女は笑って詫びて言う、「寒い時節に、女が裸で立ち去るのはあまりに〔判読保留〕。旦那、袷と肌着だけは許してください」。盗人はうなずき、女はもう帯を解いて去ろうとしたところで、盗人が火打石をいじる音を聞き、とっさに心の中で一計を案じ、寄り添って言う、「旦那、煙草を吸うのですか。私もほしいので、一服ご一緒しましょう」と、懐の煙管に煙草を詰め、盗人に向かって火を乞う。盗人が自分の吸っている雁首を差し向けたのに乗じて、女は手探りし、自分の煙草に火が通らないふりをして、「旦那、口で吹いてください」と言う。盗人は何の考えもなく、力を入れて吹いたところ、その機をはかって、たちまち盗人の煙管を握り、躍りかかって力任せに喉を突いた。盗人は不意を討たれ、大いに狼狽して仰向けに倒れた。女はすぐに自分の綿入れを手探りで取り、虎口を逃れて、かねて知っている村の家に泊まり、これこれのことを話した。翌朝村人が堤の上に来て見ると、盗人はついに一本の煙管のために急所を突かれて死んでいたという。七尺の大男が一人の盲目の女に殺された。これも天の配剤ではないか。〔武州忍の在の古次郎という者の話である〕
遯庵主人記
遯庵主人記す
原文 / 昭和女子大学本の字句を採り、正字体を保持、振り仮名を外す
瞽婦殺賊
近比の事なり。武州忍領の邊へ、冬時に至れば越後より來る瞽婦の、三絃を彈じて村々を巡りつゝ、米錢を乞ふありけり。或冬、忍領の長堤を薄暮に通過せるに、忽後より呼掛るものあり。瞽婦立止りて何事ぞと問ふ。某者應て云、我は強盜なり、汝の衣服を借さんといふ。瞽婦笑ひて謝して云、寒氣の節、具に婦人裸體にて去らんと□くは、大人袷衣と肌着とを恕せよ。盜即領き、瞽婦已に帶を觧ひ去らんとするに臨みて、盜燧石を弄する音を聽き、忽心中に一計を案し、附て云、大人煙草を喫するや、我も亦欲くは一吹を共にせんとて、懷中する所の烟管に草を詰め、盜に向ひ火をとふ。盜即自ら吹くところの管頭を指向るに乘じ、瞽婦摸索し、我が烟草に火の通ぜざるまねして、大人口づから吹きたまへといふ。盜何の思慮もなく、力を入れて吹くに及びて、其機を測り、忽ち盜の烟管を握り、躍り掛りて力に任せて咽喉を突く。盜不意を討れて、大に狼狽して仰けに倒れぬ。瞽婦直に我が縕袍を摸取し、虎口を遁れて、兼て知れる村家に投宿し、右の狀を話す。翌朝村人堤上に來て見るに、盜遂に一烟管の爲に急所を突れて死せりと云。七尺の大男子、一瞽婦に殺さる。又天ならずや。〔武州忍の在なる古次郞といふ者の話なり〕
遯庵主人記
注
- 写本の位置
- 写本は3172の24カット目右ページの後半から25カット目右ページまで。24カット目右ページの中ほどに「瞽婦殺賊」の題があり、25カット目右ページの末尾に「遯庵主人記」の署名がある。25カット目左ページからは前の話「犬猫の幸不幸」への文寶堂の再識が続く。
- 校合
- 活字本系のテキストは「瞽婦、」の後に「編者曰、此處もまた脫字あるべし」と注し、瞽婦が強盗に衣服を求められて帯を解き、火打石の音を聞いて一計を案じ、煙管に火を乞うまでの八行を欠く。写本はこの部分を持つので原寸で切り出して読み、写本の全文を採った。
- 注記
- 欠落部分の「瞽婦笑ひて謝して云」の「笑ひて」は字形の推定で判読を保留する。「去らんと□くは」の□は一字未詳。「節、具に」の「具」も判読を保留する。「觧ひ」「臨みて」「弄する」「附て」「喫するや」「欲くは」は原寸で読んだが確信の持てない字を含む。
- 注記
- 「汝の衣服」の「汝」の脇に朱の丸と朱の一字がある。「一吹を共にせん」の「共」は朱で補入され、墨書は「其」とある。「堤上に來て見るに」の「來て」は朱で補入され、墨書は「堤上に見るに」とある。いずれも朱筆に従った。
- 注記
- 「烟管」の脇に「キセル」、「草」の脇に「タバコ」、「管頭」の脇に「ガンクビ」の振り仮名があり、外した。
- 校合
- 「縕袍」は写本の字。活字本系は「縕𫃠」とする。半ページの画像で読み、原寸では確かめていない。
- 注記
- 「瞽婦」は盲目の女で、越後から来る瞽女。「忍領」は武蔵国忍藩領で、今の埼玉県行田市周辺。「三絃」は三味線。「縕袍」は綿入れ。「大人」は相手への敬称。「七尺」は誇張の表現と解した。「遯庵」は兎園会の会員で、本名は未確認。
AI試訳 / 専門家未校閲