雲亭日本古典図書室収録作品の一覧

破風山の亀松が孝勇

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兎園小説 / 曲亭馬琴ほか 兎園会の会員 / 第十二集 第14話 / 琴嶺舎 滝沢興継

天明八年に信州佐久の十一歳の亀松が父を襲った狼を素手と鎌で仕留めた刷物を写し、興継が父馬琴の言葉を添える。

本文 現代語訳

破風山の亀松が孝勇
破風山の亀松の孝勇
天明八年戊申冬十二月、湯島一丁目板木師平五郎が板せし「御免亀松手柄孝行記」に云ふ、此の度信州佐久郡内山村百姓惣右衛門事、狼に啖はれ候ところ、若年の悴亀松、即座に狼を抱き留め、鎌にて殺し候次第。
天明八年戊申の冬十二月に、湯島一丁目の板木師平五郎が版行した「御免亀松手柄孝行記」に言う。このたび信州佐久郡内山村の百姓惣右衛門が狼に食いつかれたところ、若年の息子亀松がすぐさま狼を抱きとめ、鎌で殺した次第。
元遠藤兵右衛門様御支配所 当時佐藤友五郎様
元は遠藤兵右衛門様の御支配所、当時は佐藤友五郎様
信州佐久郡内山村 百姓惣右衛門悴 亀松申十一歳
信州佐久郡内山村 百姓惣右衛門の息子 亀松、申年生まれ十一歳
右村は信州上州国境破風山の麓にて、惣右衛門儀高一斗余所持、家内五人暮らしにて、居宅より三町程隔たり、字を「逢月」と申す所に猪鹿防ぎの番小屋へ、当〔天明八年〕九月二十五日夕方、悴亀松をつれ参り、亀松は草を刈り、惣右衛門は小屋にて火を焚き居り候ところ、後ろの方より狼来たり、足へ喰ひ付き候をふりかへり候へば、唇より腮へ掛け喰ひ付き候間、狼の耳をつかみ声を立て候に付き、亀松聞きつけ駆け参り、所持の鎌を狼の口へ入れ候へども、かつら際より噬み折られ用立ちがたく、惣右衛門所持の鎌を亀松取り上げ、なほ又狼の口へ柄の方を捻ぢこみ、うしろへ引き倒し、両人にて押さへ候へども、惣右衛門は数か所喰はれ候ことゆゑ、働きなりがたく打ち倒れ候に付き、狼起き上がり候を、亀松石を以て狼の口へ指し込み、鎌の柄を打ち込み、牙をかき候へども、狼掻き付き相働き候に付き、亀松大指にて狼の両眼を繰り抜き、打ち敲き、漸く仕留め申し候。惣右衛門事は所々喰はれ候へども、急所にこれ無きゆゑ、亀松介抱いたし宿へ連れ帰り、翌日より療治薬用等仕り候ところ、追日快方のよしに候。亀松儀年齢より小柄にて虚弱に相見え、中々右体の働き致すべき者には相見え申さず候。驚き逃げ退きも致すべきところ、「親の大事」と存じ、弱年に似合はぬ働き致し候段、誠に古今の大手柄に候。かくて幼年の身にてさへ、かやうの働きいたし候。况んや大人に於いてをや。誰も心掛けはかく有りたき事なり。羨むべし羨むべし。
右の村は信州と上州の国境の破風山の麓で、惣右衛門は高一斗余りを持ち、家族五人暮らしで、住まいから三町ほど離れた字「逢月」という所の猪鹿よけの番小屋へ、当天明八年九月二十五日の夕方、息子の亀松を連れて行き、亀松は草を刈り、惣右衛門は小屋で火を焚いていたところ、後ろから狼が来て足に食いついたので、振り返ると、唇から顎にかけて食いつかれたため、狼の耳をつかんで声を上げた。亀松が聞きつけて駆けつけ、持っていた鎌を狼の口に入れたが、柄の付け根から噛み折られて役に立たず、惣右衛門の持っていた鎌を亀松が取り上げ、さらに狼の口へ柄の方をねじ込み、後ろへ引き倒して二人で押さえたが、惣右衛門は数か所食われていたので動けず倒れてしまい、狼が起き上がったのを、亀松は石を狼の口に差し込み、鎌の柄を打ち込んで牙を掻いたが、狼が掻きついて暴れるので、亀松は親指で狼の両眼をえぐり抜き、打ち叩いて、ようやく仕留めた。惣右衛門はあちこち食われたが急所ではなかったので、亀松が介抱して家に連れ帰り、翌日から治療と薬を用いたところ、日ごとに快方に向かっているという。亀松は年のわりに小柄で虚弱に見え、とてもこのような働きができる者には見えない。驚いて逃げ退いてもよいところを、「親の大事」と思って幼い身に似合わない働きをしたことは、まことに古今の大手柄である。このように幼年の身でさえこのような働きをした。まして大人ではなおさらである。誰でも心がけはこうありたいものだ。うらやむべし、うらやむべし。
右亀松儀、父惣右衛門狼に出合ひ候節相働き、狼を仕留め父を助け候段、幼年にて奇特なる仕方に付き、御褒美として銀二十枚これを下さる。
右の亀松は、父惣右衛門が狼に出会ったとき働いて狼を仕留め、父を助けたことが、幼年にして奇特な行いなので、御褒美として銀二十枚を下された。
右は先頃御代官大貫治右衛門様検見として御出での節、野立にて御聞き遊ばされ、則ち当人御呼び出し、始末御尋ねの上御書上げになり、右の通り此の度御褒美下され候事、誠に前代未聞、世上親孝行の教へにも相成るべしと、板木に仕り御免を蒙り売り弘め申し候。
右は先頃御代官の大貫治右衛門様が検見でお出でのとき、野立てでお聞きになり、すぐに当人をお呼び出しになって、事の次第をお尋ねのうえ書き上げられ、右のとおりこのたび御褒美を下されたことは、まことに前代未聞で、世間の親孝行の教えにもなろうと、板木にして御免を得て売り広める。
天明八申年十二月 明神前通湯島一丁目板元 板木師平五郎
天明八年申年十二月 明神前通り湯島一丁目板元 板木師平五郎
興継云ふ、本文のいと拙く見ゆるを、そがままに写せしは実を伝へん為なり。この印本を今も蔵弃せし人もありてん。しかれども紙の数はつかに三丁ばかりのものなれば、永く世に伝へんことの難かるべきを、いと惜しむのあまりうつしとどめぬ。原本の体たらく、世に「サゲ」など唱ふるものの街巷を売り歩くとは異にして、地名人名もいと正しく、且つ「御免」の二字を冠らせしも珍らかなり。「孝子の事を板して売り歩く事、これらや始めなるべきか」と家厳はいへり。再び思ふに、この亀松が事、孝義録に載せられたる歟。家厳も「おぼえず」といへり。猶考ふべし。
興継が言う。本文がたいそう拙く見えるのをそのまま写したのは、事実を伝えるためである。この印刷物を今も蔵している人もあるだろう。しかし紙の数がわずか三丁ほどのものなので、長く世に伝わることは難しいだろうと、たいへん惜しく思って写しとどめた。原本の体裁は、世に「サゲ」などと称するものを町中で売り歩くのとは違って、地名も人名もきちんとしており、しかも「御免」の二字を冠しているのも珍しい。「孝子のことを版にして売り歩くのは、これあたりが始まりだろうか」と父は言った。再び思うに、この亀松のことは孝義録に載っているだろうか。父も「覚えていない」と言った。なお考えるべきである。
原文 / 昭和女子大学本の字句を採り、正字体を保持、振り仮名を外す

破風山の龜松が孝勇

天明八年戊申冬十二月、湯嶋一丁目板木師平五郞が板せし御免龜松手柄孝行記に云、此度信州佐久郡内山村百姓惣右衞門事、狼に啖れ候處、若年の悴龜松、卽座に狼を抱留、鎌にて殺し候次第。

元遠藤兵右衞門樣御支配所 當時佐藤友五郞樣

信州佐久郡内山村 百姓惣右衞門悴 龜松申十一歲

右村は信州上州國境破風山の麓にて、惣右衞門儀高一斗餘所持、家内五人くらしにて、居宅より三町程隔り、字を逢月と申所に猪鹿防の番小屋へ、當〔天明八年〕九月廿五日夕方、悴龜松をつれまゐり、龜松は草を刈、惣右衞門は小屋にて火を焚き居候處、後ろの方より狼來り、足へ喰ひ付候をふりかへり候へば、唇より腮へ掛け喰ひ付候間、狼の耳をつかみ聲を立候に付、龜松聞つけ驅けまゐり、所持の鎌を狼の口へ入候へども、かつら際より噬み折られ用立がたく、惣右衞門所持の鎌を龜松取あげ、尙又狼の口へ柄の方を捻じこみ、うしろへ引倒し、兩人にて押へ候へども、惣右衞門は數ヶ所喰はれ候ことゆゑ、働きなりがたく打倒れ候に付、狼起上り候を、龜松石を以狼の口へ指し込み、鎌の柄を打込み、牙をかき候へども、狼搔き付相働き候に付、龜松大指にて狼の兩眼を繰り拔き、打敲き、漸仕留申候。惣右衞門事は所々喰れ候へども、灸所に無之ゆゑ、龜松介抱いたし宿へ連歸り、翌日より療治藥用等仕候處、追日快方のよしに候。龜松儀年齡より小柄にて虛弱に相見え、中々右體の働き可致ものには相見え不申候。驚き迯げ退きも可致ところ、親の大事と存じ、弱年に不似合働致候段、誠に古今の大手柄に候。斯て幼年の身にてさへ、かやうの働いたし候。况や大人に於てをや。誰も心掛はかく有たき事なり。羨むべし羨むべし。

右龜松儀、父惣右衞門狼に出合候節相働き、狼を仕留父を助け候段、幼年にて奇特なる仕方に付、御褒美として銀弐拾枚被下之。

右は先頃御代官大貫治右衞門樣撿見として御出之節、野立にて御聞被遊、則當人御呼出し、始末御尋の上御書上げになり、右之通此度御褒美被下候事、誠に前代未聞、世上親孝行の敎にも可相成と、板木に仕り蒙御免賣弘め申候。

天明八申年十二月 明神前通湯嶋一丁目板元 板木師平五郞

興繼云、本文のいと拙く見ゆるを、そがまゝに寫せしは實を傳へん爲なり。この印本を今も藏弃せし人もありてん。しかれども紙の數はつかに三丁ばかりのものなれば、永く世に傳んことの難かるべきを、いと惜しむのあまりうつしとゞめぬ。原本の體たらく、世にサゲなど唱ふるものゝ街巷を賣り歩くとは異にして、地名人名もいと正しく、且御免の二字を冠らせしも珍らかなり。孝子の事を板して賣り歩く事、これらや始なるべきかと家嚴はいへり。再び思ふに、この龜松が事、孝義錄に載られたる歟。家嚴もおぼえずといへり。猶考ふべし。

注

写本の位置
写本は3172の40カット目左ページから42カット目左ページの前半まで。40カット目左ページに「破風山の龜松が孝勇」の題があり、42カット目右ページに板元の署名と朱の印、42カット目左ページの中ほどに「猶考ふべし」と結ぶ。同じページの後半から次の話「瑞龍が女兒」が始まる。署名はなく、目録に琴嶺舎とある。
校合
活字本系は題の下に「琴嶺興繼 稿」と記すが、写本の題の行にはない。写本では「興繼云」以下の識語で筆者が知れる。
校合
「湯嶋」は写本の表記で二か所とも同じ。活字本系は「湯島」とする。「惣右衞門」は写本の表記で全て同じ。活字本系は「總右衞門」とする。「若年の悴」は写本の読みで、活字本系は「若年悴」とする。半ページの画像で読み、原寸では確かめていない。
注記
「狼」の脇に「おほかみ」、「逢月」の脇に「ツキ」、「當」の下に小字で「天明八年」、「獄舎」などの振り仮名や添え書きがある。振り仮名は外し、「天明八年」は割注として〔 〕に入れた。
注記
板元の署名の下に朱の印がある。写本の書写者が印本の版元印を写したものと解した。
注記
刷物の候文は写本で「ニ」「ハ」「而」を小字で添える。原文では平仮名に開いた。「押へ」「取あげ」など送り仮名は写本のままにした。
注記
「破風山」は信濃と上野の境の荒船山の東の山と解した。「内山村」は今の長野県佐久市内山。「大貫治右衞門」は幕府代官。「孝義錄」は寛政期に幕府が編んだ官刻孝義録。「サゲ」は瓦版の一種と解した。「家嚴」は父の曲亭馬琴。いずれも雲亭の推定で未確認。

AI試訳 / 専門家未校閲