瑞龍が女児
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兎園小説 / 曲亭馬琴ほか 兎園会の会員 / 第十二集 第15話 / 琴嶺舎 滝沢興継
禁書の中山物語を講談して捕らえられた瑞龍軒が、十二三歳の娘の身代わりの嘆願で罪を軽くされた話に、兎園会が十二集に満ちた感慨と達磨像の追加考証を添える。
本文 現代語訳
寛政文化の間、軍書を講談して生活にしたる瑞龍軒は、前の瑞龍が子にて、馬谷、百輅らが姪なり〔第一前の瑞龍、第二馬谷、第三百輅、この三人は兄弟なり。百輅は吾山が社中にて俳諧の判者なり。この中馬谷尤も世に知られたり〕。当時「中山物語」といふ俗書の世に行はるるありけり。こは京師の人の手になりたるにや。あらぬ事をのみ書きつめて、禁忌に触るることの多なるを、奇を好むもの、虚実をも得考へぬ俗客の玩ぶこと少なからず。ここをもて貸本屋などいふ者は、二本も三本も写し取りて、此処彼処へ貸したりければ、官にも聞こし召されて厳禁を加へられ、写し取りたる本屋どもは御咎めを蒙りて、写本はすべて焼き捨てられ、そを取り扱ひたる者どもには、各過料をたてまつらしめ給へり。こは享和中の事にぞ有りける。かくて文化中に至りて、件の瑞龍軒、難波町わたりなる居宅にて、件の「中山物語」を講談してけり。その書は曩に禁断せられて、見まくほしとおもふ者も多かりけるにや、夜ごとに人のつどひ来て、聴くものおびただしかりけるを、市の尹より隠密に人を遣はして、聴衆にうちまじらしつつ、夜ごとに聞かしめられしを知るもの、絶えてなかりしとぞ。かくてはやその講談もこの席を限りにて講じ訖ると聞こえし宵の程、瑞龍はその席にて忽ちに搦め捕られて、やがて獄舎に繋がれけり。扨事の顛末をおごそかに問はれしに、「件の書は近き頃反故中より獲たりしかば、世わたりの為にせんと思ひし外は候はず。禁断せられし者ならんとは、かけても知らず候ひき」と、恐る恐る陳じかども、「その書を禁止せられしが数十年前のことならばこそ、遠くもあらぬ事なるを、知らずと申すことやはある。知りつつ講談したりしは不届きなり」と讞断せられて、「遠島にや流さるべき」「市にや棄てられん」などとて、世評もまたまちまちなり。
寛政から文化にかけて軍書の講談で生計を立てていた瑞龍軒は、先代の瑞龍の子で、馬谷や百輅らの甥である〔第一が先代の瑞龍、第二が馬谷、第三が百輅で、この三人は兄弟である。百輅は吾山の社中で俳諧の判者である。この中で馬谷がもっとも世に知られている〕。当時「中山物語」という俗書が世に流布していた。これは京都の人の手になるものであろうか。ありもしないことばかり書き連ねて、禁忌に触れることが多いのを、珍しいもの好きで虚実の見分けもつかない俗人がもてあそぶことが少なくなかった。それで貸本屋などという者は二本も三本も写し取って、あちこちへ貸したので、お上のお耳にも入って厳禁が加えられ、写し取った本屋たちはお咎めを受けて、写本はすべて焼き捨てられ、それを取り扱った者たちにはそれぞれ過料を納めさせられた。これは享和年間のことであった。こうして文化年間になって、この瑞龍軒が難波町あたりの自宅で、この「中山物語」を講談した。その書は先に禁じられて見たいと思う者も多かったのだろうか、夜ごとに人が集まって来て聴く者がおびただしかったが、町奉行から隠密に人を遣わして聴衆に混じらせ、夜ごとに聞かせていたことを知る者はまったくいなかったという。こうしてもうその講談もこの席で終わると聞こえた宵のうちに、瑞龍はその席でたちまち捕らえられ、やがて牢屋につながれた。さて事の顛末を厳しく問われると、「この書は最近反故の中から得たので、生計のためにしようと思ったほかはございません。禁じられたものだろうとは、少しも知りませんでした」と恐る恐る申し開きをしたが、「その書が禁止されたのが数十年前のことならばともかく、遠くもないことなのに、知らないなどということがあるか。知りながら講談したのは不届きである」と裁断されて、「遠島に流されるか」「死罪になるか」などと、世評もまちまちであった。
しかるに瑞龍にひとりの女児あり。この年甫めて十二三歳なるべし。その性孝順なりければ、父の禁獄せられしより号哭して寝食をおもはず。町役人らもろともに、「おほん慈悲願ひ」とかいふよしをもて、願文を捧げつつ市の尹の庁にまゐるごとに、「みづから親の罪にかはらん」と乞ひまうして、哀傷悲泣人の視聴を驚かし、追つ立てらるれども得退かず、死をだも辞せぬ有りさまなれば、人みな不便におもはぬはなし。この事度かさなりけるままに、おほやけにもその孝信をあはれませたまひけん、瑞龍は思ひしよりその罪かろく定められて、遂に追放せられけり。「こはまたく娘の孝行ゆゑなり」とて、親も歓び人も嘆賞する程に、件の娘はある豪家の子の婦に懇求せられて、ゆくりなくよすがいで来しかば、瑞龍もその家より扶助せられて、「おんかまひ」の場所ならぬ近郷に半生を送ることを得たりとぞ聞こえし。夫れ孝は百行の本なり。至尊はこれをもて民に教へ、士庶も亦これによりて身を修む。その国を治め家を斉ふるの要道、何ごとか亦これに加へん。感ずるに猶あまりあるものは、かの孝男女のうへにあらずや。
ところが瑞龍には一人の娘がいた。この年ようやく十二三歳であっただろう。その性質が孝行で従順だったので、父が投獄されてから泣き叫んで寝食も忘れた。町役人たちとともに「お慈悲願い」とかいうことで願書を捧げて奉行所に参るたびに、「自分が親の罪に代わりたい」と乞い申し、悲しみ泣いて人々の目と耳を驚かせ、追い立てられても退かず、死をも辞さないありさまだったので、人々は皆不憫に思わない者はなかった。このことが度重なるうちに、お上もその孝心をあわれまれたのだろう、瑞龍は思ったより罪が軽く定められて、ついに追放となった。「これはまったく娘の孝行のおかげだ」と、親も喜び人も感嘆するうちに、その娘はある豪家の息子の嫁にと望まれて、思いがけず縁ができたので、瑞龍もその家から助けられて、お構いの場所でない近郷で半生を送ることができたと聞こえた。そもそも孝は百行の本である。天子はこれをもって民に教え、士も庶民もまたこれによって身を修める。その国を治め家を整える要道として、何をこれに加えることがあろう。感じてなお余りあるものは、あの孝行な男女の身の上ではないか。
そもそもこの兎園小説は、去歳のしはす下つかたに、家厳のかりそめに思ひ起こせしを、まづ北峯ぬしにかたらひつつ、この春諸君の同意を得てしより、月ごとの集会間断なく、今ははや十有二集に満つるになん。「この満会には何をか書かん」と思ふも、をこのすさみながら、ここに孝義の三編を綴れるよしは、是をもて自ら警め、且つ人の子のいましめにもなれかしとてのわざなりける。
そもそもこの兎園小説は、去年の十二月下旬に父がふとした思いつきで発案し、まず北峯主に相談して、この春に諸君の同意を得てから、毎月の集会が途切れることなく、今はもう十二集に満ちた。「この満会には何を書こうか」と思うのもたわいない気まぐれながら、ここに孝義の三編を綴ったわけは、これで自ら戒め、また人の子の戒めにもなればと思ってのことである。
時に文政八年乙酉冬十二月朔 硯に呵し墨を擢り氷に書す 神田鳳簫庵に於いて 琴嶺興継
時に文政八年乙酉冬十二月一日 硯に息を吹きかけ墨をすって凍る中で書く 神田の鳳簫庵にて 琴嶺興継
甲申十二月八日耽奇漫録追加
甲申十二月八日、耽奇漫録への追加
予が家に蔵弃せる達磨の木像は「雲慶作」とあり。曩に家厳此の木像を耽奇会に出だせし折、「雲慶、運慶別人なる事、且つ雲慶は何れの世の仏工なるや未詳」のよしを書かれたり。しかるにきのふ偶々「鎌倉志」を繙閲せしに、巻の二光触寺の本尊頬焼阿弥陀の縁起の条に、「建保三年京都に大仏師有り、雲慶法印と号す云々」とあり〔この末にも「雲慶云々」と書けること三か所見えたり〕。本文によりて考ふるに、運慶、雲慶同人なるべし。もし運慶はじめは「雲」を書き、後に「運」の字に改めたるか。さらずは縁起の誤りか。「志」にその弁なければ、いかにと定めがたけれども、こも亦一勘に備ふべし〔この一条は耽奇録中にしるしおかれんことを希ふのみ〕。
私の家に所蔵する達磨の木像は「雲慶作」とある。先に父がこの木像を耽奇会に出したとき、「雲慶と運慶は別人であること、また雲慶がいつの時代の仏師かは未詳」だと書かれた。ところが昨日たまたま「鎌倉志」をひもといたところ、巻二の光触寺の本尊頬焼阿弥陀の縁起の条に、「建保三年に京都に大仏師がいて、雲慶法印と号した云々」とある〔この後にも「雲慶云々」と書いてあるところが三か所見える〕。本文によって考えると、運慶と雲慶は同一人であろう。もしかすると運慶ははじめ「雲」と書き、後に「運」の字に改めたのか。そうでなければ縁起の誤りか。「鎌倉志」にその弁がないので、どうとも定めがたいが、これもまた一つの考証の備えとすべきである〔この一条は耽奇録の中に記しておかれることを希望するだけである〕。
原文 / 昭和女子大学本の字句を採り、正字体を保持、振り仮名を外す
瑞龍が女兒
寬政文化の間、軍書を講談して生活にしたる瑞龍軒は、前の瑞龍が子にて、馬谷百輅等が姪なり〔第一前の瑞龍、第二馬谷、第三百輅、この三人は兄弟なり。百輅は吾山が社中にて俳諧の判者なり。この中馬谷尤も世に知られたり〕。當時中山物語といふ俗書の世に行はるゝありけり。こは京師の人の手になりたるにや。あらぬ事をのみ書つめて、禁忌に觸るゝことの多なるを、奇を好むもの、虛實をも得考へぬ俗客の玩ぶこと少からず。こゝをもて貸本屋などいふ者は、二本も三本も寫し取て、此處彼處へ貸したりければ、官にも聞し召れて嚴禁を加へられ、寫し取たる本屋どもは御咎を蒙りて、寫本はすべて燒捨られ、そを取扱ひたる者どもには、各過料をたてまつらしめ給へり。こは享和中の事にぞ有ける。かくて文化中に至りて、件の瑞龍軒、難波町わたりなる居宅にて、件の中山物語を講談してけり。その書は曩に禁斷せられて、見まくほしとおもふ者も多かりけるにや、夜每に人のつどひ來て、聽くものおびたゞしかりけるを、市の尹より隱密に人を遣はして、聽衆にうちまじらしつゝ、夜每に聞かしめられしを知るもの、絕へてなかりしとぞ。かくてはやその講談もこの席を限りにて講じ訖ると聞えし霄の程、瑞龍はその席にて忽ちに搦め捕られて、やがて獄舍に繫がれけり。扨事の顚末をおごそかに問はれしに、件の書はちかき比反故中より獲たりしかば、世わたりの爲にせんと思ひし外は候はず。禁斷せられし者ならんとは、かけても知らず候ひきと、恐る恐る陳じかども、その書を禁止せられしが數十年前のことならばこそ、遠くもあらぬ事なるを、知らずと申すことやはある。知りつゝ講談したりしは不屆なりと讞斷せられて、遠嶋にや流さるべき、市にや棄られんなどとて、世評もまたまちまち也。
しかるに瑞龍にひとりの女兒あり。この年甫めて十二三歲なるべし。その性孝順なりければ、父の禁獄せられしより號哭して寢食をおもはず。町役人等もろともに、おほん慈悲願ひとかいふよしをもて、願文を捧げつゝ市の尹の廳にまゐる每に、みづから親の罪にかはらんと乞ひまうして、哀傷悲泣人の視聽を驚し、追つ立てらるれども得退かず、死をだも辭せぬ有さまなれば、人みな不便におもはぬはなし。この事度かさなりけるまゝに、おほやけにもその孝信をあはれませたまひけん、瑞龍は思ひしよりその罪かろく定められて、遂に追放せられけり。こはまたくむすめの孝行ゆゑなりとて、親も歡び人も嘆賞する程に、件のむすめはある豪家の子の婦に懇求せられて、ゆくりなくよすがいで來しかば、瑞龍もその家より扶助せられて、おんかまひの場所ならぬ近鄕に半生を送ることを得たりとぞ聞えし。夫孝は百行の本なり。至尊はこれをもて民に敎へ、士庶も亦これによりて身を脩む。その國を治め家を齋ふるの要道、何ごとか亦これに加へん。感ずるに猶あまりあるものは、かの孝男女のうへにあらずや。
そもそもこの兎園小説は、去歲のしはす下つかたに、家嚴のかりそめに思ひ起せしを、まづ北峯ぬしにかたらひつゝ、この春諸君の同意を得てしより、月每の集會間斷なく、今ははや十有二集に滿つるになん。この滿會には何をか書んと思ふも、をこのすさみながら、こゝに孝義の三編を綴れるよしは、是をもて自警め、且人の子のいましめにもなれかしとてのわざなりける。
時文政八年乙酉冬十二月朔 呵硏擢墨冰書 於神田鳳簫菴 琴嶺興繼
甲申十二月八日耽奇漫錄追加
予が家に藏弃せる達磨の木像は雲慶作とあり。曩に家嚴此木像を耽奇會に出せし折、雲慶運慶別人なる事、且雲慶は何れの世の佛工なるや未詳のよしを書れたり。しかるにきのふ偶〻鎌倉志を繙閱せしに、卷の二光觸寺の本尊頰燒阿彌陀の緣起の條に、建保三年京都に大佛師有り、雲慶法印と號す云々とあり〔この末にも雲慶云々と書けること三ヶ所見えたり〕。本文によりて考ふるに、運慶雲慶同人なるべし。もし運慶はじめは雲を書き、後に運の字に改めたるか。さらずは緣起の誤り歟。志にその辯なければ、いかにと定めがたけれども、こも亦一勘に備ふべし〔この一條は耽奇錄中にしるしおかれんことを希ふのみ〕。
琴嶺再識
注
- 写本の位置
- 写本は3172の42カット目左ページの後半から45カット目右ページまで。42カット目左ページの中ほどに「瑞龍が女兒」の題があり、44カット目左ページに「琴嶺興繼」の署名がある。45カット目右ページは「甲申十二月八日耽奇漫錄追加」と題した達磨の木像の一条で、45カット目左ページの右端に「琴嶺再識」とある。目録にはこの追加の記載がないので、この話の末尾に置いた。
- 校合
- 「時文政八年乙酉」は写本の読み。活字本系は「文化八年」とするが、乙酉は文政八年であり、写本が正しい。
- 校合
- 「呵硏擢墨冰書」の「冰」は写本の字形の推定で、活字本系は「沐書」とする。原寸では確かめておらず判読を保留する。
- 校合
- 「遠嶋」は写本の表記で、活字本系は「遠島」とする。「何ごとか」は写本の読みで、活字本系は「なのことか」とする。「思ひ起せし」は写本の読みで、活字本系は「思ひ起しゝ」とする。「雲慶法印」「この末にも」「緣起の誤り歟」は写本の読みで、活字本系は「雲慶法師」「この下にも」「誤りか」とする。いずれも半ページの画像で読み、原寸では確かめていない。
- 注記
- 「士庶」の「士」の脇に朱の訂正がある。「獄舍」の脇に「ヒトヤ」、「性」の脇に「サガ」、「婦」の脇に「ヨメ」の振り仮名があり、外した。「第一前の瑞龍」以下、「この末にも」以下、「この一條は」以下は写本で小字二行の割注。〔 〕に入れた。
- 注記
- 「瑞龍軒」は江戸の講釈師。「馬谷」「百輅」は俳人で、「吾山」は谷素外と解した。「中山物語」は享和期に禁書となった写本の実録と解した。「市の尹」は町奉行。「北峯ぬし」は兎園会の発起に加わった人物で、本名未確認。「鳳簫菴」は興継の居宅の号。「鎌倉志」は新編鎌倉志。「光觸寺」は鎌倉十二所の時宗の寺で、頬焼阿弥陀の縁起を伝える。いずれも雲亭の推定で未確認。
- 注記
- 「こゝに孝義の三編」は第13話から第15話までの琴嶺舎の三篇を指す。
AI試訳 / 専門家未校閲