食と暮らし / 江戸
武士は食わねど高楊枝…って、マジ?
2026年10月17日更新
飯は同僚と交代で炊く。ときには蕎麦や鍋物を食べに出かけ、酒を飲んで叱られる。幕末の武士・酒井伴四郎の日記には、そんな江戸暮らしが残っています。
画像はイメージです同僚の炊く飯は粥のようで、自分の飯は固い。そんな愚痴まで残る日記を開くと、遠い時代の人の暮らしが急に近づきます。
01江戸へ来た武士の自炊生活
参勤交代によって、大名やその家臣たちが江戸と国元を行き来していた時代です。紀州藩の武士・酒井伴四郎も、万延元年(1860)に江戸勤番を命じられました。当時、数え年で27歳。妻と幼い娘を和歌山に残し、叔父や同僚と赤坂の藩屋敷で暮らします。今でいう単身赴任に近い生活でした。1
伴四郎は、戦いに備える大番組に所属していました。江戸では叔父・宇治田平三の指導で、殿様の装束を整える「衣紋(えもん)」の稽古をします。叔父の役職は「御膳奉行格奥詰衣紋方」。難しい名前ですが、ここでは、殿様の装束に関わる仕事を代々受け継いだ家の人、と押さえておきましょう。1
では、収入はどのくらいだったのでしょう。博物館の報告書によると、叔父の禄高は25石で、一年間に34両を受け取っていました。伴四郎の日記には「一年詰三十九両」とあります。同報告書は、伴四郎の禄高も叔父と同程度か、それ以上だったと推定しています。「石」で表す禄高と、実際に受け取る「両」の額は分けて考える必要があります。現在の年収にそのまま置き換えられる数字ではありません。1
江戸で暮らす費用だけでなく、国元に残した家族の生活もあります。そんな立場の若い武士が、食事を作り、ときには外食を楽しむ。日記の195日間は、その暮らしの一部を伝えています。1
飯は同僚の直助と一日交代で炊き、おかずはそれぞれ用意しました。10月29日には、直助の飯は粥のようで、自分の飯は固いという愚痴も出てきます。日々の炊事の様子が伝わる場面です。1
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02蕎麦、すし、鍋物。外食もする
博物館の記事によると、伴四郎は蕎麦やすし、どじょう鍋、あなご鍋、豚鍋なども食べていました。酒を飲む日もあり、10月25日にはうなぎ屋で酔って叔父に叱られました。1
普段の伴四郎は倹約家です。8月9日の日記には、倹約ぶりを叔父に叱られたと書いています。それでも、ときには奮発して外食や酒を楽しむ。いつも質素一辺倒ではないところに、伴四郎の人間味が感じられます。2
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03品数が少ないことと、粗末なこと
江戸時代の食卓を見るには、肉を食べることへの抵抗感も知っておきたいところです。とくに牛や馬など、四つ足の獣の肉は避けるべきものとされていました。背景には、仏教の「生き物を殺すことを戒める」という考えや、長く続いた肉食を避ける慣習がありました。[W05]
ただし、「江戸時代の人は肉を食べなかった」という意味ではありません。獣肉を体の養生のために食べる「薬食い」もあり、魚や鳥も食卓に上がりました。伴四郎が豚鍋を食べたという記録も、建前と実際の食生活が同じではなかったことを伝えています。[W05]
だからこそ、献立に何が使われていたのかを具体的に調べる意味があります。牛や豚の肉を日常的に食べる今の感覚で、昔の食事を「米と野菜だけだった」と想像してよいのでしょうか。魚や卵は動物性たんぱく質を含み、豆腐も大豆からたんぱく質をとれる食材です。
別の武士や大名の食事を調べた研究では、簡素な献立でも、豆腐、魚、卵などを使っていた例が紹介されています。一汁一菜や一汁二菜は、汁とおかずの品数を表す言葉です。品数だけで、食事の中身まで決めることはできません。3、4
ここで見てきたのは、紀州藩の大番組に属し、妻子を国元に残して江戸勤番をしていた伴四郎の食卓です。叔父のもとで衣紋の稽古をしながら、限られた収入で自炊し、ときには外食を楽しむ。殿様の食事とも、家族と国元で暮らす武士の食事とも違う、その立場から日記を読むと、献立の見え方も変わります。
飯・汁・魚・漬物を組み合わせた膳の一例です。伴四郎自身の献立を再現したものではありません。目次へ戻る ↑
04日記から見える、ひとりの暮らし
「武士は食わねど高楊枝」は、苦しくても気位を保つというたとえです。武士が毎日食べていなかったという意味ではありません。
伴四郎の日記では、献立だけでなく、一緒に暮らす人への愚痴や、叱られた出来事も食卓のそばにあります。江戸の食生活を知る入口として、その一人分の暮らしを読んでみましょう。
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酒井伴四郎日記(表題「江戸江発足日記帳」)
作者:酒井伴四郎(作成者名は酒井彰常)。翻刻は『東京都江戸東京博物館調査報告書』23に収録
原文(該当部分)
又予か倹約いたし候をおしかり被成候
直前の内容:叔父が腹をこわしているのに汁粉を食べに出かけ、伴四郎が止めても聞かなかった。
現代語訳
そのうえ、私が倹約しているのをお叱りになった。
訳の作成者は雲亭(AIによる試訳)。専門家の校閲は受けていない。
本文翻刻
ここに引用した部分以外は、原典でお読みいただけます。
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出典・訳について
2. 酒井伴四郎日記(表題「江戸江発足日記帳」)
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- 作品名:酒井伴四郎日記(表題「江戸江発足日記帳」)
- 著者・編者:酒井伴四郎(作成者名は酒井彰常)。翻刻は『東京都江戸東京博物館調査報告書』23に収録
- 巻・章・話番号:万延元年8月9日の条
- 採用した版・底本:『東京都江戸東京博物館調査報告書』23『酒井伴四郎日記 影印と翻刻』(2010年)の翻刻。原本は江戸東京博物館所蔵、資料番号 08001311
- 翻刻提供元・URL:江戸東京博物館リポジトリ https://edo-tokyo-museum.repo.nii.ac.jp/records/2000546 (PDF)
- 原文の頁・丁・表裏・画像コマ:PDF24頁、見出し「8月」。翻刻の印刷頁と原本の丁は未確認
- 引用・再利用条件:未確認。リポジトリのページに利用条件の記載がなく、翻刻の引用条件は江戸東京博物館に確認していない
表記・訳の注記
- 原文は公刊された翻刻に基づき、表記は変更していない。
- 日付は旧暦の8月9日で、新暦の月日ではない
- 「おしかり被成候」を「お叱りになった」と読む点は、雲亭の読みで、専門家の確認は受けていない
- この記事では8月9日の一節を取り上げる。日記全体での語の出現回数は断定しない。
短い一文ですが、「予」は自分のこと、「候」は丁寧な言い方です。倹約を褒められるのではなく叱られるところに、叔父との関係ものぞきます。
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