雲亭 日本古典図書室

江戸時代のクリスマス事情

出島で冬至の宴が開かれたという話があります。これを「江戸時代のクリスマス」とする説明もありますが、当時の記録は何を伝えているのでしょうか。牛を一頭料理したという南畝の記事と、オランダ側の日記を読み比べます。

冬の出島をイメージした港と帆船の風景
画像はイメージです

南畝の記事に出てくるのは牛の料理。一方、元日の宴を見た商館医が書いたのは、豚の料理や踊りです。似た宴の話でも、日付と書き手を確かめると違いが見えてきます。

01「江戸にもクリスマス」はどんな噂?

江戸時代の長いあいだ、ヨーロッパの国で日本との貿易を続けたのはオランダだけでした。オランダ商館の人々は、長崎の港に造られた出島で暮らしていました。キリスト教は禁じられていたので、クリスマスを表立って祝うことはできません。

そこでオランダ人は、長崎の中国の人々が冬至を盛大に祝うのに目をつけ、冬至の祝いに見せかけてクリスマスを祝った。これが「阿蘭陀冬至」の話です。大田南畝がこの宴に招かれたとする説明もありますが、記事に書かれていることとは分けて確かめる必要があります。

まずは、日本側とオランダ側の記録を読み比べます。

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02牛を一頭。南畝が伝えた冬至の宴

ここで取り上げるのは、大田南畝の随筆『一話一言』の補遺にある「阿蘭陀屋敷冬至の祝」です。南畝は狂歌で知られる文人で、幕府の役人でもありました。

記事によると、オランダ屋敷では冬至の日をとりわけ祝い、「一年に一度の大事」として準備に駆け回ります。赤牛を一頭料理し、カピタン(商館長)をはじめオランダ人が椅子に座って宴を開きます。最後には角のついたままの牛の頭を料理して出し、脳まで食べ尽くすそうです。[S01、I01]

記事の結びは「といへり」で、伝え聞いた話を書き留める形です。南畝は1804年から翌年まで長崎奉行所に勤め、奉行の見回りに付いて出島のカピタン部屋にも入っています。それでも、南畝が冬至の宴に招かれたことや、宴を自分の目で見たことを示す記録は見つかっていません。[S01、W02]

南畝の記事に、クリスマスという言葉は出てきません。ほかの江戸時代の本では、『紅毛雑話』や『長崎土産』が、オランダの正月を冬至から十二日後にあたる日として挙げています。大正時代に長崎の歴史を調べた大庭耀も、この祝いを書いた文人の記録は蜀山人(南畝)の一例だけだと述べています。[W05、W06、W03]

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03オランダ商館の日記には、何と書いてある?

1641年に出島へ移ったとき、オランダ人は、日曜日や聖人の日を祝って休むことを禁じられました。日本人の前で宗教の儀式をすることも禁止です。翌年、商館長は奉行に宛てた文書で、食事のときに心の中で祈ることは罰しないでほしいと願い出ています。[W11]

商館には、歴代の商館長が毎日書き継いだ日記が残っています。オランダ国立公文書館が原本の画像を公開しているので、17世紀から19世紀までの12年分の巻を開き、12月25日の前後と元日の記事を探しました。[W10、I02]

12月25日の記事を読めた11年のうち、「クリスマス(Kersdagh)」という言葉が出てくるのは3年だけでした。1659年の日記は「25日。クリスマス。寒くて荒れた天気で、あられ混じりの突風」と始まり、そのあとは中国船が現れた話が続きます。ほかの年の12月25日は、天気、船、荷物、江戸への旅の道のりなどの話です。[S02、W10]

冬至のころの記事にも、祝いの記述は見つかりませんでした。商館長たちはクリスマスの日付を知っていて、日記に書き込む人もいました。けれど、読めた日記の範囲では、その日に宴を開いた様子はありません。

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04日本人を招いた宴は、元日だった

読めた日記で、日本人をもてなした記事が出てくるのは、太陽暦の1月1日です。1663年の元日には、乙名や通詞たちをその子どもと一緒に、2人の書記とともに「昔からの習わしに従って」商館でもてなした、とあります。[S03]

1775年から翌年まで出島にいた商館医のトゥーンベリは、1776年の元日の宴を書き残しています。商館長は、晴れ着で挨拶に来た役人や通詞を食事に招きました。焼き豚やハムや菓子が出され、日本料理の卓には、綿で雪を表した作り物の樅の木が飾られていたそうです。食後は、町から呼ばれた遊女が酒をつぎ、踊りを見せています。[S04]

19世紀に出島で働いたフィッセルも、商館長が通詞を招く宴は年に二度、国王の誕生日と新年だと書いています。[W07] 冬至の宴の話としてよく語られる遊女の舞や豚の料理は、トゥーンベリの記録では元日の宴の場面なのです。[S04]

一

阿蘭陀冬至

出島の冬至の祝い。見つかった江戸時代の記録は、南畝の記事一つ。

二

阿蘭陀正月

出島で太陽暦の元日に開いた宴。役人や通詞を招いた記録が、商館の日記や見聞録に残る。

三

江戸のオランダ正月

1795年に大槻玄沢が江戸の自分の塾で始めた、蘭学者たちの元日の会。

日本人とオランダ人が食卓を囲む元日の宴のイメージ
画像はイメージです

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05「クリスマスだった」は、いつ生まれた?

冬至の宴をクリスマスと結びつけた例で、確かめられた最も古いものは、大正12年(1923)から刊行された『長崎市史 風俗編』です。市史は、南畝の記事と、長崎の絵師の石崎融思が描いた宴の図にある猪の頭を手がかりにしました。猪の頭はヨーロッパのクリスマスに欠かせない料理だとして、阿蘭陀冬至はクリスマスだったと解釈しています。[W01]

その後、長崎の随筆や小説が、この解釈に場面を足していきました。平山蘆江の小説『長崎出島』(1943年)には、窓辺の樅の枝に足袋を結び、通詞が声をひそめて「マリヤさまのお祝ひ」と言う場面があります。この場面は、江戸時代の記録には見つかりません。[W04、P01]

研究にも同じ説明が見られます。1973年には、オランダの日本学者フリッツ・フォスが同じ話を紹介しました。ただ、2014年に英語で掲載された版には注がなく、どの資料によったのかは分かりません。[P03] 近年の日本の研究でオランダ冬至を「冬至の祭に偽装したクリスマスの祝い」と説明した論文も、典拠に挙げているのは2019年に出た出島の事典です。[P02]

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06祝わなかった、とまでは言い切れない

ただし、記録にないことは、何もなかったことの証拠にはなりません。商館長の日記は200年以上書き継がれており、ここで読んだのはそのうち12年分です。商館員がそれぞれ、心の中でこの日を迎えていた可能性もあります。

江戸の日本人も、クリスマスの日付は知っていました。蘭学者の宇田川榕菴の作とされる、折りたたみ式の蘭学の手引き『蘭学重宝記』(天保6年=1835年刊)は、西洋の暦の説明の中で「第十二月の二十五日を「ケルスダク゜」と称す」と書いています。同じ手引きには、西洋の正月を「冬至後十一日程」にあたる日と説明する箇所もあります。冬至とクリスマスの両方が出てきますが、二つを結びつける記述はありません。[S05、I03]

南畝が書き留めた「冬至の大事な祝い」が何だったのかも、まだ分かりません。読めた記録から言えるのは、日本人を招いた宴が元日や国王の誕生日に開かれていたことです。冬至の宴をクリスマスとみなす説明は、見つかった江戸時代の記録には出てきません。

この話の出発点にある南畝の記事を、原文で読んでみましょう。

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『一話一言補遺』「阿蘭陀屋敷冬至の祝」
作者:大田南畝

原文(該当部分)

阿蘭陀屋敷にて冬至の日は殊にいはふ事にて、一年に一度の大事に奔走する事なり。

現代語訳

オランダ屋敷では冬至の日をことに祝うので、一年に一度の大事として、準備に駆け回るのである。

本文翻刻

「阿蘭陀屋敷冬至の祝」の項目全体(538頁下段〜539頁上段)

阿蘭陀屋敷にて冬至の日は殊にいはふ事にて、一年に一度の大事に奔走する事なり。先その例赤牛を壹疋ころして種々の珍膳にましへ調へ、かひたんをはしめ外の阿蘭陀人椅子に座し宴をもうけ、此牛肉のさま〴〵に調したるを鉢に盛りて中央にすゑ、木の〔判読不確実〕銀の〔判読不確実〕の類匙の類にてさしくらひ、終に沈醉して興に入事なり。最末に牛のかしらを調味したるを角ある〔判読不確実〕にて鉢にもりて出す。是殊に阿蘭陀人は賞翫にする事にて、匙にて牛の目を刳取くらひ、腦肉に至るまでも殘さすくらひつくすなり。此邦の人のみるには恐ひかたき物なりといへり。

又阿蘭陀人の具し來るくろんほうといふ者は、長崎旅くわんにては常にかひたんの給仕にあてゝつかふ。〔底本に点線〕を食なれは脾胃にもたれて、此かたきものゝよし。〔底本に点線〕に〔判読不確実〕ほうしの米にてにきりたる燒めし一ツゝゝを一度の食にくわするなり。此燒飯の名をはばんといふなり。ばん一ツにてくひたらぬにや、給仕の配膳の時は先竊に器中のものをぬすみて喰ふ事常なり。くろんほうは每日數度隱莖を水にて洗ふ事なり。少しもをこたれは病人に成事といへり。語に書たる樣に眞黑なる人にはあらす、少し鼠色したるやこひの者なり。その國より買取て來るには銅板一枚はこの身の代にて、をらんた買取くるとそ。此國に來りて銅の藥くわんなとの〔判読不確実〕にし置たるをみては、なみたを流して悔る事といへり。その國にては至つて銅尊きものとしられたり。

1908年刊の活字本画像に照合した作業翻刻。句読点・段落を補った。点線部分は補わず表示した。旧字・語形には再校正を要する箇所がある。後半には当時の差別的な呼称や奴隷売買の記述が含まれる。

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『蜀山人全集』巻5、538–539頁(272コマ)。国立国会図書館デジタルコレクション。右下から左上に続きます。
『蜀山人全集』巻5、538–539頁(272コマ)。国立国会図書館デジタルコレクション。右下から左上に続きます。
出典・訳について

『一話一言補遺』「阿蘭陀屋敷冬至の祝」

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  • 作品名:『一話一言補遺』「阿蘭陀屋敷冬至の祝」
  • 著者・編者:大田南畝
  • 巻・章・話番号:補遺 巻1の末尾の項
  • 採用した版・底本:『蜀山人全集』巻5、吉川弘文館、1908年(活字本)
  • 翻刻提供元・URL:国立国会図書館デジタルコレクション pid 993340、https://dl.ndl.go.jp/pid/993340/1/272
  • 原文の頁・丁・表裏・画像コマ:538頁下段、272コマ(記事は539頁上段に続く)
  • 引用・再利用条件:国立国会図書館デジタルコレクションでインターネット公開、パブリックドメイン

表記・訳の注記

句読点は翻刻になく、雲亭が補った。現代語訳は雲亭(Claude)によるAIの試訳で、専門家の校閲は受けていない。引用は書き出しの1文だけ。赤牛、牛の頭、結びの「といへり」は、記事本文で要約して紹介した。

「殊にいはふ」は「とりわけ祝う」、「奔走する」は「あちこち駆け回る」という意味です。南畝はこの祝いを「一年に一度の大事」と書きましたが、クリスマスとは一言も書いていません。この記事全体は「といへり」で結ばれ、伝え聞いた話の形をとっています。

わからない言葉は、共通の単語帳へ →

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出典と原典の画像

元の記録や研究を、自分の目で確かめられます。

ほかの一次資料

出島オランダ商館長日記(Dagregister)1659年12月25日の記事

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原文(該当部分)

  1. Do. Kersdagh, koudt en tornigh wedder, vermenght met hagele buyen

現代語訳

25日。クリスマス。寒くて荒れた天気で、あられ混じりの突風。

本文翻刻

ここに引用した部分以外は、原典でお読みいただけます。

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出典・訳について
  • 作品名:出島オランダ商館長日記(Dagregister)1659年12月25日の記事
  • 著者・編者:商館長ヨハネス・ブーシュリヨン
  • 巻・章・話番号:オランダ国立公文書館 1.04.21(Nederlandse Factorij in Japan)inv.nr. 73(1659年11月〜1660年10月)
  • 採用した版・底本:原本の写本画像
  • 翻刻提供元・URL:翻刻なし。雲亭が画像から読んだ。https://www.nationaalarchief.nl/onderzoeken/archief/1.04.21/invnr/73/file/NL-HaNA_1.04.21_73_0006
  • 原文の頁・丁・表裏・画像コマ:NL-HaNA_1.04.21_73_0006 右頁
  • 引用・再利用条件:未確認

表記・訳の注記

原文は17世紀のオランダ語の手書き。tornigh は判読に自信がない。訳は雲亭(Claude)によるAIの試訳。記事の続きは、安海のジャンク船が長崎の沖に現れた話。

出島オランダ商館長日記(Dagregister)1663年1月1日の記事

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原文(該当部分)

Hebben wij den Ottena, de Tolcken met haer kinderen, als mede de twee schrijvers, volgens out gebruijck t'onsen huijse eerlijck getracteert.

現代語訳

私たちは乙名と通詞たちをその子どもたちと一緒に、また2人の書記も、昔からの習わしに従って、商館で丁重にもてなした。

本文翻刻

ここに引用した部分以外は、原典でお読みいただけます。

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出典・訳について
  • 作品名:出島オランダ商館長日記(Dagregister)1663年1月1日の記事
  • 著者・編者:商館長ヘンドリック・インディック
  • 巻・章・話番号:オランダ国立公文書館 1.04.21 inv.nr. 76(1662年11月〜1663年10月)
  • 採用した版・底本:原本の写本画像
  • 翻刻提供元・URL:翻刻なし。雲亭が画像から読んだ。https://www.nationaalarchief.nl/onderzoeken/archief/1.04.21/invnr/76/file/NL-HaNA_1.04.21_76_0007
  • 原文の頁・丁・表裏・画像コマ:NL-HaNA_1.04.21_76_0007 左頁下
  • 引用・再利用条件:未確認

表記・訳の注記

原文は17世紀のオランダ語の手書き。Ottena は乙名の音写。訳は雲亭(Claude)によるAIの試訳。

Travels in Europe, Africa, and Asia, vol. 3(トゥーンベリ『ヨーロッパ、アフリカ、アジア紀行』英訳第3巻)

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原文(該当部分)

we kept new year's day. Many of the Japanese assisted us in celebrating it.

現代語訳

私たちは新年を祝い、多くの日本人がその祝いに加わった。

本文翻刻

英訳第2版(1795)第3巻、72頁末「1776, Jan. 1」から74頁「the guests took their leave.」まで。元日の宴会を述べる一続きの段落全体。

1776, Jan. 1, we kept new year's day. Many of the Japanese assisted us in celebrating it. The cold was now very severe and intense, although the ground was quite bare. According to custom, this day about noon most of the Japanese that had any thing to do at the Dutch factory, such as the head and sub-banjoses, the Ottonas, the head and sub-interpreters, the surveyors, and others, came to wish us a happy new-year. Dressed in their holiday clothes, they paid their respects to the chief, who invited them to dine with him. The victuals were chiefly dressed after the European manner; consequently but few of the dishes were tasted by the Japanese; nevertheless, every thing was so contrived, that there were no baskets full of fragments gathered. Of the soup they all partook; but of the other dishes, such as roasted pigs, hams, sallad, cakes, tarts, and other pastries, they ate little or nothing; but in their stead was put on a plate a little of every dish, and when this plate was full, it was sent to the town with a paper on it, on which was written the owner's name, and this was repeated several times. Salt beef and the like, which the Japanese do not eat, was set by, and used as a medicine. The same may be said of the salt butter, of which I was frequently desired to cut a slice for some of the company; it is made into pills, and taken daily in consumptions and other disorders. After dinner, warm sakki was handed round, which was drank out of lacquered wooden cups.

On this festive and joyful occasion, the chief invited from the town several handsome girls, partly for the purpose of serving out the sakki, and partly to dance and bear the girls company who were already on the island. After dinner too, these girls treated the Japanese with several of their own country messes, placed on small square tables, which were decorated with an artificial fir-tree, the leaves of which were made of green silk, and in several places sprinkled over with white cotton, in imitation of the winter-snow. The girls never presented the sakki standing, but always, according to the custom of the country, sitting. In the evening they danced in their own country fashion; and about five o'clock the guests took their leave.

Internet Archive所収の1795年英訳第2版、印刷72〜74頁の画像を2026-10-09に目視照合。長いs(ſ)をsに、行末で分割された単語を連結し、柱・頁番号・キャッチワードを省いた。綴りは原本に従う。段落の間の改頁は解消した。本文範囲は宴会描写の終わりまでで、74頁以下に続く遊女制度の一般的説明(次の日付は78頁のJanuary 20)は含まない。スウェーデン語原著との再照合は今回行っていない。

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出典・訳について
  • 作品名:Travels in Europe, Africa, and Asia, vol. 3(トゥーンベリ『ヨーロッパ、アフリカ、アジア紀行』英訳第3巻)
  • 著者・編者:Carl Peter Thunberg
  • 巻・章・話番号:第3巻、1776年1月1日の記事
  • 採用した版・底本:英訳第2版、London: F. and C. Rivington, 1795。スウェーデン語原著 Resa uti Europa, Africa, Asia, 3 Del., Upsala 1791 の81〜83頁と照合
  • 翻刻提供元・URL:Internet Archive https://archive.org/details/b28775582_0003
  • 原文の頁・丁・表裏・画像コマ:72〜74頁
  • 引用・再利用条件:1795年刊でパブリックドメイン。Internet Archive の利用条件ページは未確認

表記・訳の注記

引用は英訳。焼き豚、ハム、遊女の酌と踊り、作り物の樅の木は、同じ箇所の続きを記事本文で要約した。訳は雲亭(Claude)によるAIの試訳。

『蘭学重寳記』(らんがくちょうほうき)の西洋暦の解説と「十二月」の注記

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原文(該当部分)

西洋暦にハ閏月なく四年目に閏日あり。(中略)第十二月の二十五日を「ケルスダク゜」と称す。

西洋の正月ハ冬至後十一日程にあたる。詳なることハ暦家に尋べし。

現代語訳

西洋の暦には閏月がなく、四年目ごとに閏日がある。(中略)十二月の二十五日を「ケルスダク(クリスマス)」と呼ぶ。

西洋の正月は、冬至のおよそ十一日後にあたる。詳しいことは暦の専門家に尋ねるとよい。

本文翻刻

『蘭学重寳記』天保6年本、早稲田大学図書館 文庫08 C0387、画像p0005。「西洋暦」の解説一項全体と「十二月」見出しの小字注記全体。月名・異名・日数表そのものは含まない。

○西洋暦にハ閏月なく四年目に閏日〔判読不確実〕。平年ハ第二月日數二十八日にして四年目にハ二十九日となる、これ閏日なり。其余の月ハ三十日と三十一日との定り、毎年かはることなし。第十二月の二十五日を「ケルスダク゜」と称す。

西洋の正月ハ冬至後十一日程に〔判読不確実〕。詳なることハ暦家に尋べし。

早稲田大学図書館古典籍総合データベースのp0005画像を2026-10-09に目視確認。変体仮名・合字は通行の仮名に直し、句読点を補った。最初の『閏日』の後は墨汚れが重なり、既存抜粋の『あり』を画像だけで確定できないため補わない。『十一日程に』の後も既存抜粋の『あたる』を確定できず、同様に未確定とした。表記は翻刻候補で、専門家による校閲なし。画像は掲載せず、早稲田大学図書館古典籍総合データベースへのリンクのみとする。

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出典・訳について
  • 作品名:『蘭学重寳記』(らんがくちょうほうき)の西洋暦の解説と「十二月」の注記
  • 著者・編者:賀寿麻呂 著、篤麻呂 校。早稲田大学図書館の書誌は、著者を宇田川榕菴(1798〜1846)とする
  • 巻・章・話番号:折本1帖。月名、異名、日数の表の部分
  • 採用した版・底本:天保6年(1835)新鐫、観自在楼刊。早稲田大学図書館 請求記号 文庫08 C0387
  • 翻刻提供元・URL:翻刻なし。雲亭が画像から読んだ。https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko08/bunko08_c0387/index.html
  • 原文の頁・丁・表裏・画像コマ:画像 bunko08_c0387_p0005
  • 引用・再利用条件:早稲田大学図書館の古典籍総合データベース。リンクは自由。画像を載せるには申請が要る(資料集の記録)。翻刻文の短い引用は可

表記・訳の注記

変体仮名と合字は通行の仮名に直し、句読点を補った。「ケルスダク゜」のク゜は原本の表記のまま(オランダ語 Kersdag の音写)。「あたる」は字形の判読に少し自信がない。二つ目の文は、表の「十二月」の見出しに添えた小字の注記。訳は雲亭(Claude)によるAIの試訳。踊共二の論文(P02、251〈78〉頁)も最初の文を引いている。

原典の画像を開く

画像 I01 『蜀山人全集』巻5(『一話一言補遺』を収める)

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国立国会図書館 / 吉川弘文館、1908年。活字本で、南畝の自筆や写本の画像ではない / 538頁下段、272コマ

資料の書誌 | 該当箇所の画像

画像 I02 出島オランダ商館長日記 1659年11月〜1660年10月

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オランダ国立公文書館(Nationaal Archief) / 原本(1.04.21 inv.nr. 73) / NL-HaNA_1.04.21_73_0006

資料の書誌 | 該当箇所の画像

画像 I03 『蘭学重寳記』天保6年(1835)刊

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早稲田大学図書館 / 版本、折本1帖、19×7.4cm(文庫08 C0387)。同館には刊年不明本(文庫08 B0053)と嘉永3年(1850)本(ニ01 02798)もある / 画像 bunko08_c0387_p0005

早稲田大学図書館古典籍総合データベース(書誌) | 早稲田大学図書館古典籍総合データベース(画像)

参考にした研究・関連文献

論文 P01 出島のクリスマス

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亀澤明彦 / 国立国会図書館月報 / 704号、2019年12月 / 17〜21頁

記事で参照した文献

書誌・DOI | 本文掲載ページ | 本文PDF

論文 P02 近世日本人のプロテスタント認識:禁教時代の危険な東西交流

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踊共二 / 武蔵大学人文学会雑誌 / 54巻2号、2023年3月 / 282(47)〜236(93)頁。参照箇所は257(72)頁、注80は238(91)頁

記事で参照した文献

書誌・DOI | 本文掲載ページ | 本文PDF

論文 P03 A Distance of 13,000 Miles: The Dutch through Japanese Eyes

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Frits Vos(Elizabeth Wentholt-Haig 訳) / East Asian History(初出は Delta 16巻2号、1973年) / 39号、2014年(初出1973年) / ウェブ版のため頁なし(初出は29〜46頁)

記事で参照した文献

書誌・DOI | 本文掲載ページ

論文以外の参考資料

解釈と、まだ確かめられていないこと

南畝の記事は伝え聞きの形で書かれており、南畝が宴を見たかどうかは分かりません。オランダ商館長の日記は江戸時代を通じて書き継がれた記録で、この記事で触れたのはその一部の年です。『長崎市史 風俗編』は大正時代の郷土史で、阿蘭陀冬至をクリスマスとする解釈はこの本に見えます。平山蘆江『長崎出島』は昭和の小説で、江戸時代の出来事の記録とは区別しています。

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